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title: "解脫道論 · 1"
description: "解脫道論由優波底沙羅漢所造，是南傳上座部佛教重要論書。梁代僧伽婆羅將其譯為漢文。該論系統闡述戒定慧三學次第，詳釋通過止觀實踐達至解脫的修道體系。內容涵蓋業處修習、心性分析與智慧開發，與清淨道論淵源深厚。作為早期禪修經典，它連繫南北傳佛教修學傳統，為研究原始佛教解脫道提供關鍵依據，在漢傳佛教典籍中具有獨特地位。"
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### 解脫道論分別諦品第十二之一

> 解脱道論 分別諦品 第十二の一

爾時坐禪人，已明了陰界入因緣諦，已得聞戒頭陀禪，以凡夫未解脫怖畏惡趣，已觀惡趣怖，已觀無始生死怖，已觀一剎那不可得，已觀三百鉾刺喻，已觀燒頭愛喻，未分別四聖諦，為分別聖諦，當作方便、當作欲、當作勇猛精進，專心緣念具足應令滿。

> その時、坐禅する人は、すでに五陰・十八界・十二入の因縁と真理を明確に理解し、すでに戒律や頭陀行の教えを聴聞していました。凡夫はまだ解脱しておらず、悪道の恐怖から逃れられないことを知り、すでに悪道の恐怖を観じ、すでに始まりなき生死の恐怖を観じ、すでに一瞬の間も得難いことを観じ、すでに三百本の槍で刺される比喩を観じ、すでに頭に火がついたときの愛着の比喩を観じました。まだ四聖諦を分別していない者は、聖諦を分別するために、方便を作し、願いを起こし、勇猛に精進し、心を専らにして観念を縁取り、具足して満たすべきである。

問：云何當作？答：彼坐禪人初四聖諦當聞，或以略或以廣或以略廣，以聞以義以誦當受持。是時坐禪人入寂寂坐，不亂心不去來心，四聖諦應令起。初苦諦應令起，或以陰或以入或以界陰法，以自相以陰相應令起，如陰方便廣說，如是當知。入者以入相應令起，如入方便廣說，如是當知。界者以界相應令起，如界方便廣說，如是當知。彼坐禪人，如是已陰入界，唯有陰入界、無眾生無命，已令起已得行想。爾時已略作二種令起，所謂名、色。於是色陰十入十界色，四陰意入七界，是名法入法界。或名或色，餘名餘色。餘名餘色者以色空，色者以名空，名者以色不離，色者以名不離。如鼓聲唯依名色生。依色名生，如盲跛遠行。

> 問：では、どのように修行すべきでしょうか。 答：その坐禅をする人は、まず四聖諦について聞くべきです。簡潔に、あるいは詳しく、あるいは簡潔さと詳しさを兼ね備えて、聞き、その意味を理解し、そらんじられるまで唱えて、よく受け持つべきです。そのとき、坐禅をする人は静かな坐り心地に入り、心を乱さず、過去や未来に心を向けずに、四聖諦を生じさせるべきです。 最初に苦諦を生じさせるべきです。五蘊によって、あるいは十二処によって、あるいは十八界によってです。 五蘊によっては、それぞれの自相（特徴）と蘊としての相を持って苦諦を生じさせます。蘊の修行方法について詳しく説かれた通りに、そのように知るべきです。 十二処によっては、処としての相を持って苦諦を生じさせます。処の修行方法について詳しく説かれた通りに、そのように知るべきです。 十八界によっては、界としての相を持って苦諦を生じさせます。界の修行方法について詳しく説かれた通りに、そのように知るべきです。 その坐禅をする人は、このようにして五蘊・十二処・十八界を観察し、ただ蘊があり、処があり、界があるだけであって、衆生もなく、生命もないと理解し、修行の観念（行想）を得ます。 そのとき、簡潔に二つのものにまとめて生じさせるべきです。いわゆる「名（心・精神）」と「色（物質・身体）」です。 ここで、色蘊は十処・十界に含まれる色法です。四つの蘊（受・想・行・識）は意処・七界に属し、これを法処・法界と呼びます。 あるいは名であり、あるいは色であり、その他は名であり、その他は色です。 その他は名であり、その他は色であるとは、色は名によって空（その独自の実体がない）であり、名は色によって空であるということです。名は色を離れず、色は名を離れません。 ちょうど太鼓の音が、太鼓とばちに依存して生じるようなものです。また、色と名に依存して生じます。ちょうど目の見えない人と足の不自由な人が互いに支え合って遠くへ行くようなものです。

問：名色者何差別？答：名者無身，色者有身。名者有所知，色者無所知。名者輕轉，色者遲轉。名無聚，色有聚。名者覺知思識，色者無此。色者行倚坐臥屈申，名無此。名者知我行我倚我坐我臥我屈我申，色無此。色者飲食噉甞，名無此。名者知我飲我食我噉我甞，色無此。色者拍戲笑啼種種言說，名無此。名者知我拍我笑我戲我啼我種種言說，色無此。謂名色差別。彼坐禪人如是名色，唯以名色、無眾生無命。已令起、已得行想，爾時一切作略。苦諦者令起如實知見清淨，令名色起。此總語苦諦令起可知。彼坐禪人如是已令起苦諦，作眾生想，從此苦因緣應觀。

> 問：名色とは何か、その違いは何か。 答え：名とは身体を持たないものであり、色とは身体を持つものである。名とは知覚を有するものであり、色とは知覚を有しないものである。名は軽やかに働き、色は重く動きが遅い。名には集まり（かたまり）がないが、色には集まりがある。名は感じ、知り、考え、識別するが、色にはそれがない。色は歩き、立ち、座り、横たわり、伸びたり曲げたりするが、名にはそれがない。名は「私は歩く、私は立つ、私は座る、私は横たわる、私は伸ばす、私は曲げる」と知るが、色にはそれがない。色は飲み、食べ、味わうが、名にはそれがない。名は「私は飲む、私は食べる、私は味わう」と知るが、色にはそれがない。色は手を打ち、戯れ、笑い、泣き、種々の言葉を発するが、名にはそれがない。名は「私は手を打つ、私は笑う、私は戯れる、私は泣く、私は種々の言葉を発する」と知るが、色にはそれがない。これが名色の違いである。 その坐禅者がこのように名色を観じ、「ただ名色のみあって、衆生もなく、命もない」と、すでに想いを起こし、すでに行の想いを得たならば、そのとき一切の営みが明らかになる。苦諦とは、そこに如実の知見の清らかさを起こさせるものであり、名色を生じさせるものである。この総括的な言葉によって、苦諦が起こされ、知られるべきことが示される。 その坐禅者は、このようにして苦諦を起こし終え、衆生という想いを離れて、この苦の因縁を観察すべきである。

問：此苦何因緣何集？答：彼坐禪人如是知，此苦生為因緣，生者有為因緣，有者取為因緣，取者愛為因緣，愛者受為因緣，受者觸為因緣，觸者六入為因緣，六入者名色為因緣，名色者識為因緣，識者行為因緣，行者無明為因緣。如是無明緣行，行緣識，生緣老死，成憂悲苦惱，如是悉苦陰成起。彼坐禪人如是以因緣所縛以廣觀，爾時以作略，此受緣愛，彼苦集令起。或法住智、或聖取因緣智，或離疑清淨，此眾語言集諦令起智。彼坐禪人以令起苦集，於三昧已度疑，爾時觀苦滅，誰滅？為苦滅。誰滅？為此苦滅。彼坐禪人如是知，從生滅此苦滅，從生滅有滅，從有滅取滅，從取滅愛滅，從無明滅行滅。如是從無明滅行滅，從行滅識滅，從生滅老死憂悲苦惱滅，如是此一切苦陰成滅。彼坐禪人如是因緣所縛滅，已廣已觀，爾時作略，此受緣愛，從彼滅苦滅，令起滅諦。彼坐禪人如是已令起滅諦，爾時觀苦滅道：何道？何具足為愛滅？彼坐禪人如是知於五受陰觀過患，此道此具足為愛滅，令起道諦，如諦方便廣說，如是可知。彼坐禪人如是以次第已令起四諦，爾時於五受陰，以一百八十法次第以聚分別觀，所有色過去未來現在、或內或外、或大或小、或麁或妙、或遠或近，一切色以無常廣觀，以廣觀苦、以廣觀無我。如是所有受、所有想、所有行、所有識，於一一陰十二法門，於五陰五十二成六十，六十無常見、六十苦見、六十無我見，成一百八十。復次一百八十法門，六內入、六外入、六識身、六觸身、六受身、六想身、六思身、六愛身、六覺、六觀。此十六成六十，六十無常見、六十苦見、六十無我見，三六十成一百八十。彼久遠年時日月月半日夜時念剎那，以迴轉法行成新故，如燈焰相續成轉。以無常於行分別觀，以惡趣受苦、飢渴怖畏，求覓愛別離老病死憂悲苦惱。此行相應相續。以苦於行觀分別，從陰入界、因緣、諦、業果報因緣令生所生，無眾生、不動、無事、自性行成起。以無我於觀分別，於行色無常，以滅義、以苦怖義、無我不實義，以作略廣分別如是受想行識無常滅義。苦者以怖義，無我以不實義，如是作略廣分別。於是以無常已分別除常想，以苦分別除樂想，以無我分別除我想。

> 問：この苦には、どのような因縁があり、どのような縁で集起するのでしょうか。 答：その坐禅する人は、このように知ります。「この苦は、生を縁として生じる。生は有を縁とし、有は取を縁とし、取は愛を縁とし、愛は受を縁とし、受は触を縁とし、触は六入を縁とし、六入は名色を縁とし、名色は識を縁とし、識は行を縁とし、行は無明を縁とする」と。 このように無明を縁として行があり、行を縁として識があり、生を縁として老死があり、憂い悲しみ苦しみ悩みが生じます。このようにして、すべての苦のまとまりが生じ集まります。 その坐禅する人は、このように因縁に縛られたあり方を広く観察します。そのとき簡潔に、「この受を縁として愛があり、それによって苦の集まりが生じる」と見て、集諦を生じさせます。あるいは法住智によって、あるいは聖なる因縁を取る智によって、あるいは疑いを離れて清らかになる智によって、この苦の集まりの真理を生じさせる智が現れます。 その坐禅する人は、苦の集まりを生じさせて、三昧において疑いを超え、そのとき苦の滅を観察します。「何が滅するのか。苦が滅する。何が滅するのか。この苦が滅する」と。 その坐禅する人は、このように知ります。「生が滅すれば、この苦は滅する。有が滅すれば生は滅する。取が滅すれば有は滅する。愛が滅すれば取は滅する。無明が滅すれば行は滅する」と。 このように無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識が滅し、生が滅すれば老死や憂い悲しみ苦しみ悩みが滅し、このようにしてすべての苦のまとまりが滅します。 その坐禅する人は、このように因縁に縛られた滅を広く観察し、そのとき簡潔に、「この受を縁として愛があり、それが滅すれば苦も滅する」と見て、滅諦を生じさせます。 その坐禅する人は、このようにして滅諦を生じさせ、そのとき苦の滅へと至る道を観察します。「どのような道か。何を具足すれば愛が滅するのか」と。 その坐禅する人は、このように五つの受陰において過患を観察し、「この道こそ、この備えこそ、愛の滅をもたらす」と知って、道諦を生じさせます。真理の修行の詳細は、先に広く説かれた方法のとおりに知られるべきです。 その坐禅する人は、このように順を追って四諦を生じさせ、そのとき五つの受陰を、百八十の法によって順に集めて観察します。 過去・未来・現在のすべての色、あるいは内なるもの、あるいは外なるもの、あるいは粗いもの、あるいは細かいもの、あるいは遠いもの、あるいは近いもの、すべての色を、無常として広く観察し、苦として広く観察し、無我として広く観察します。 同じように、すべての受、すべての想、すべての行、すべての識について、それぞれの陰に対して十二の法門があり、五つの陰では六十となり、六十の無常見、六十の苦見、六十の無我見となり、百八十となります。 さらに百八十の法門として、六つの内なる入処、六つの外なる入処、六つの識身、六つの触身、六つの受身、六つの想身、六つの思身、六つの愛身、六つの覚、六つの観があります。これらは十六で六十となり、六十の無常見、六十の苦見、六十の無我見となり、三つの六十で百八十となります。 長い年月、日、月、半月、夜、瞬間、刹那と、巡り巡る法は新しくまた古くなり、灯明の炎が次々と続いていくように転じていきます。 行を無常として観察し、悪趣の苦しみ、飢えや渇きの恐怖、求めて得られないこと、愛する者との別れ、老い、病、死、憂い悲しみ苦しみ悩みが、この行と相応して相続することを、苦として観察します。 陰・入・界、因縁、真理、業と報いの因縁から生じたものは、衆生もなく、動くこともなく、作ることもなく、自性によって行が生じ起きることを、無我として観察します。 行である色は無常であり、滅する性質であり、苦であり、恐れる性質であり、無我であり、実ではない性質であると、簡潔にそして広く観察します。受・想・行・識も同じように、無常は滅する性質、苦は恐れる性質、無我は実ではない性質であると、簡潔にそして広く観察します。 こうして無常によって常という思いを取り除き、苦によって楽という思いを取り除き、無我によって我という思いを取り除きます。

問：云何以無常廣分別？答：如實見一切諸行，無有為邊、滅為邊，於無相或令起心，於無相界為安心，是故以無常廣分別。

> 問：無常とは、どのように広く説かれているのですか。 答：すべての営み（諸行）をあるがままに見て、生じることを縁（辺）とし、滅することを縁とすると捉えます。そして、無相（とらわれのない境地）について心を起こし、その無相の世界に心を安定させるために、無常が広く説かれているのです。

問：云何以苦分別？答：於一切諸行令心怖畏，從作願令起心，於無作願為心安，是故以苦廣分別。

問：云何以無我廣分別？答：於一切法見從他從此執令起心，於空界為心安，是故以無我廣分別。如是分別三有、五趣、七識住、九眾生居，以滅怖畏，以無實觀之分別智已竟。

彼坐禪人於五受陰，已分別於三相，令樂入欲斷諸行。爾時現在內五受陰取彼相令通達起滅，如是此法以無生現生，以生滅如是通達。於是取相者，取相三種：取煩惱相、取定相、取毘婆舍那相。於是愚癡凡夫，於見聞覺知境界，以成樂常想顛倒所，初心以好取相，於此著煩惱，如蛾投燈，此謂取煩惱相。

問：云何取定相？答：於此坐禪人樂得定，以念正智所初心三十八行，於一一行取相令繫心，為不亂故如繫象，此謂取定相。

問：云何取毘婆奢那相？答：常觀人以慧所初心，色受想行識各各分別其自相，樂欲捨修彼相，如捉毒蛇，此謂取毘婆奢那相。於此取毘婆奢那相可樂。

問：云何取受想行識相？答：彼色識相，或以地界、或以水界、或以火界、或以風界，或眼入或身入。如是觀彼受受相，或為樂、或為苦、或為不苦不樂。如是觀彼想想相，或為色想、或為法想。如是觀知行行相，或為觸、或為思、或為覺、或為觀、或為作意。如是觀彼識識相，或眼識、或意識。如是觀彼彼坐禪，如是善取彼相，以善令起。令起如是，取色受想行識相。復次以二行取心相，以事、以作意。

問：云何以事取心相？答：以此事我心起，當觀彼以此色受事、以此想事、以此行事、以此識事，我心起。如是當觀，彼如是以事取心相。

問：云何以作意取心相？答：如是我作意色此心起。如是當觀，如是我作意受想行我心起。如是當觀，如是已作意取心相。

問：云何彼相成善取？答：以是行、以是相，色受想行識想以成觀。若復堪更觀彼相，以此行、以此相，是謂彼相成善取。通達生滅者，有起、有滅、有起滅通達。於是色已生現在，彼生相起變相滅。彼二句以慧眼見。通達起滅，受已生現在受想行識，彼生相起變相滅。彼二句以慧眼見通達起滅。復次以三行通達起相，以三行通達滅相，如是以因、以緣、以自味。

問：云何以因通達起相？答：愛無明業是因為陰起，以慧眼見，以因通達起相。云何以緣通達起相？食緣為色陰起，觸緣為三陰起，名色緣為識陰起，以慧眼見，以緣通達起相。

問：云何以自味通達起相？答：如燈焰相續無間，初後新新起行，以相以慧眼見，以自味通達起相。於是以因、以起見，以集諦相成見，以令起覺。以緣、以自味，以起見苦諦，以相成所見，以剎那不可得覺。如是以三行通達起相。

問：云何以三行通達滅相？答：以因滅、以緣滅、以自味滅，於是以愛滅、以無明滅、以業滅，陰成滅，以慧眼見，以因滅通達滅相。以食滅，色陰成滅；以觸滅，三陰成滅；以名色滅，識陰成滅，以慧眼見，以緣滅通達滅相。如燈焰相續無間，初有滅行以慧眼見，以自味通達滅相。於是以因滅見滅諦，以相成所見，以無生相覺，以緣滅、以自味，以見滅。以苦諦相成初見，以剎那不可得覺。

問：若以起滅見苦諦，以相得見，何故上智當起？答：何用起見滅？以苦諦相得見未見，彼苦成滿，乃至諸行過盡如實已見，從行相已令起心、於非行心成度，如實已見諸行過患。從行相已令起心、於非行成度，是處見苦成滿，謂往邊故。猶如飛鳥為火所圍未免怖畏，若未至虛空，見火圍過患，成飛虛空，是時彼見火怖圍，成滿如是，於此可知。於是以因、以緣、以起見，成通達因緣起相。此有此起，此起故此成起。因滅故及緣滅故，以見滅因緣，生相成通達。此無有此不成，此滅故此滅。以自味，以起滅，見已起成通達。知因緣法有為法起，彼起得知，彼滅亦知，彼住亦知。如是以起滅見四法成所知，如是一相法、種種法、無事法、正法，於是一相續所著諸行以起，彼見不成種種執、初後轉諸行，以彼滅見不成一執，自性離、無動諸行。以初後見不成我執，因緣所轉初後諸行，如是以法見不成無事執。無聞凡夫以一不覺常斷說、以種種不覺成常說、以無事不覺成我說。如是以法不覺成無事說。於是以平等語言、以一相勝語言，以種種相攝成一相，以分別義成種種；以煩惱義成一性，以方便義成種種性；以愛果成一性，以業果成種種性。彼坐禪人如是見一性，非於此執種種見；若見種種性，非於此執常見一性。若現見一性，餘作餘覺除此見；若現見種種性，彼作彼覺除此見。若現見一性，除此斷見；若現見種種性，除此常見。彼坐禪人如是以起滅，見一性、種種性，法明何以起？現起諸行，見彼無事。何故？一切諸行無事不動，無餘所起住，住自性，因緣和合集為因緣。如是以止法生令生，於是以無命義及不動義，無事法可知。以自性義及緣義，如是止法可知。令現空無事、令現業所作，如是止法令現無事名法，如是令現止法名行。於是以一性法覺苦相成通達，以種種性覺無常相成通達。以無事法覺，如是以止法覺無我相成通達。

問：彼坐禪人一切諸行，以無餘處觀起滅，為一處當觀耶？答：於初諸行處取其相，通達起滅無餘處，一切諸行令滿。如人於大海一處以舌舐水，即知一切水醎。如是於此可知。以二行諸行令滿，以事、以不愚癡，於是諸行取其相通達生滅。彼諸行以其事成滿，於是斷無智故，餘諸行以不愚癡成滿。於是起滅智，是諸行分別智，一切諸行以起初邊成分別，以滅後邊成分別；以起初邊成寂寂，以滅有邊成寂寂；以起從起無初，以滅從滅無後。是故起滅智，成諸行分別智起滅智已竟。

彼坐禪人如是正見生滅相，善分別諸行，樂得滅樂定。爾時不作意觀生，唯見心滅。以色事、以心生滅，依彼事見心滅。如是以受持、以想事、以行事、以識事、以心生滅，依彼事見心生滅。復次以三行見滅如是，以聚、以雙、以分別。

問：云何以聚？答：於威儀、威儀所起心心數法，於其處以聚見彼滅。復次已觀色無常、受無常、想無常、行無常、識無常，爾時以無常事所起心心數法，以聚見彼滅。如是以苦事、無我事，如是以聚當見。

問：云何以雙？答：此色無常已觀無常，隨無常起心見心生滅。如是受想行識無常已觀，隨無常事起心見生滅。如是已苦事、已無我事，如是以雙當觀。

問：云何以分別？答：已觀此色無常，隨無常事起心見心生滅，如是以分別觀見多心滅。如是觀受想行識無常，隨無常事起心見心生滅，以是見心滅復見滅，如是以分別見多心滅。如是觀苦觀無我，如是已分別，唯現觀彼滅。其彼苦滅事成專，常覓諸行剎那成得利。彼坐禪人以此慧非他緣，見一切世間。以自性如到芥子頭，於一心剎那生老死變，爾時坐禪人復如是見。如偈所說：

此雙名色性， 展轉於一滅，句滅緣彼滅， 及彼因所生，陰無常滅法， 苦生法滅法。如桴打鼓聲， 亦不從眼生，色香等五法， 亦不從色生，亦不離二句， 依緣生有為。如桴打鼓聲， 亦不從耳生，色香等五法， 亦不從聲生，亦不離二句。 亦不從鼻生，色香等五法， 亦不從香生，亦不離二句。 亦不從舌生，色香等五法， 亦不從味生，亦不離二句。 亦不從身生，色香等五法， 亦不從觸生，亦不離二句。 不從處色生，不從法入出， 依因緣依生。如桴打鼓聲， 彼根最羸出，初因亦最羸， 彼因亦最羸，所起彼亦羸， 共地此最羸，相應亦最羸， 和合亦最羸，展轉此常羸， 展轉法不住，亦無性展轉， 無有能令起，令起彼亦無。 如乾闥婆城，是誰初令起？ 不以自身生，不以自力住， 由隨他法生，生諸有漏法。自體羸劣不自生， 亦不自因不自事，不有為處不自性， 不自性行相諸有。為生自身羸無時， 無所從來無所行，處無所生為他國， 心無我所命身性。一心苦樂相應速， 剎那山海八萬劫，一住不再無二心， 相應過去及當滅。現住一切彼諸陰， 此等已去無間失，未來當失於彼間， 已沒無異相不起，以不生故現在生， 從於心失世間無。第一義中無去來， 未來無聚唯轉生，住如芥子生諸法， 彼法滅已是其初。世間以法初不雜， 不見去來不見生，諸法不生如虛空， 猶如電起須臾滅。

彼坐禪人如是見滅無盡入定，如鑽火烟起，菩提品剎那剎那起、光明智起、喜猗樂取解脫念處起，捨出離於是不明了。坐禪人於彼法或起亂、或起增上慢。

問：云何為除亂？答：彼坐禪人於法起喜，彼喜復令更安，如是彼坐復更令安，成其心法調所攝。若法調所攝心，從滅觀定，其心離常難，常通達如是離去。

問：云何起增上慢？答：彼坐禪人於法初起光相，得出世間法。於未得成得相，常不更作精進，如是增上慢起。明了坐禪人，知此煩惱是定亂，知世間法行事，如是知出世間法泥洹事。如是知已，如是智除亂、除增上慢，唯見滅是善，修行多修觀滅智已竟。

## 解脫道論卷第十一