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title: "佛說立世阿毘曇論 · 20 云何品"
description: "佛說立世阿毘曇論由真諦三藏於南朝陳代譯出，屬阿毘曇類論典。該論以佛教宇宙觀為核心，系統闡述世間與出世間的結構、眾生業力與輪迴關係，並詳釋世界成住壞空過程。其內容融合說一切有部思想，兼具經律論三藏特質，為研究早期佛教宇宙論與哲學體系的重要文獻。該論不僅助益修行者理解因果法則，亦為漢傳阿毘曇學發展奠定基礎，在佛教思想史與典籍傳承中具有承先啟後的地位。"
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## 佛說立世阿毘曇論卷第六

> 仏説立世阿毘曇論 第六巻

陳西印度三藏真諦譯

> 陳西印度三蔵真諦訳

### 云何品第二十

> 第二十品

「云何為夜？云何為晝？因日故夜，因日故晝。欲界者自性黑暗，日光隱故是則為夜，日光顯故是則為晝。云何黑半？云何白半？由日黑半，由日白半。日恒逐月行，一一日相近四萬八千八十由旬，日日相離亦復如是。若相近時，日日月圓被覆三由旬又一由旬三分之一，以是事故，十五日月被覆則晝是日黑半滿。日日離月亦四萬八千八十由旬月日日開三由旬又一由旬三分之一，以是事故，十五日月則開淨圓滿，世間則名白半圓滿。日月若最相離行，是時月圓，世間則說白半圓滿。日月若共一處是名合行，世間則日黑半圓滿。若日隨月後行，日光照月光，月光麁故被照生影，此月影還自翳月，是故見月後分不圓。以是事故漸漸掩覆，至十五日覆月都盡，隨後行時是名黑半。若日在月前行，日日開淨，亦復如是。至十五日具足圓滿，在前行時是名白半。云何冬時說醯曼多？此時雪應落寒已至故，是故冬時說名醯曼多，世間立此自性名醯曼多。云何春時名曰禽河？日照炙時、是正熱時、正是渴時，故說春時名為禽河，世間立此自性名為禽河。云何夏時名為跋娑？是天雨時、是疑雨時、是年初時，是故說夏名曰跋娑，世間自性立名跋娑。云何冬寒？云何春熱？云何夏時寒熱？是冬時，水界最長未減盡時，草木由濕未萎乾時，地大濕滑，火大向下水氣上昇。所以知然，深水最暖、淺水則寒。寒節已至，日行外路照炙不久，陽氣在內食消則速，以是事故冬時則寒。云何春熱？是禽河時水界長起，已減已盡，草木乾萎地已燥𤇚，水氣向下火氣上昇。何以知然？深水則冷、淺水則熱。冬時已過，日行內路照炙則久，身內火羸故春時熱。云何夏時冷熱？是大地八月日中恒受照炙，大雲降雨之所灑散地氣蒸欝，若風吹時蒸氣消已是時則寒，風若不起是時即熱，是故跋娑有時寒熱。

> 何が夜であり、何が昼であるのか。太陽があるからこそ夜があり、太陽があるからこそ昼があるのです。欲界は本来暗黒の性質を持ち、太陽の光が隠れる時を夜といい、太陽の光が現れる時を昼といいます。 何が黒分であり、何が白分であるのか。太陽によって黒分が生じ、太陽によって白分が生じます。太陽は常に月を追いかけて運行し、一日ごとに四万八千八十由旬ずつ近づき、また一日ごとに同じだけ離れていきます。近づく時には、太陽は月を覆い隠し、三由旬とさらに一由旬の三分の一ずつ覆います。このため、十五日目には月が完全に覆われ、これが黒分の満ちる時となります。離れていく時には、同じく四万八千八十由旬ずつ離れ、月は一日ごとに三由旬と一由旬の三分の一ずつ開かれていきます。このため、十五日目には月が清らかに円満となり、世間では白分が円満したといいます。 太陽と月が最も離れて運行する時、月は円満となり、世間では白分が円満したといいます。太陽と月が同じ場所にある時を合行といい、世間では黒分が円満したといいます。 もし太陽が月の後を追って運行するならば、太陽の光が月の光を照らします。月の光は粗いため、照らされて影が生じ、この月の影が自ら月を覆います。そのため、月の後ろの部分が円満に見えなくなります。このようなことが次第に進み、十五日目には月が完全に覆われます。後を追って運行する時を黒分といいます。 もし太陽が月の前を進んで運行するならば、月は日ごとに清らかに開かれていきます。これも同様に、十五日目には完全に円満となります。前を進んで運行する時を白分といいます。 なぜ冬をヒマンダというのか。この時は雪が降り、寒さが訪れるからです。そのため、冬をヒマンダといい、世間ではこの性質からヒマンダと名付けられています。 なぜ春をキンガというのか。太陽が照りつけ、暑さが厳しく、渇きを覚える時だからです。そのため、春をキンガといい、世間ではこの性質からキンガと名付けられています。 なぜ夏をバッサというのか。雨が降る時、雨が疑われる時、年の初めの時だからです。そのため、夏をバッサといい、世間ではこの性質からバッサと名付けられています。 なぜ冬は寒く、春は暑く、夏は寒暖があるのか。冬の時は、水の性質が最も強く、まだ減りきっていません。草木は湿気によってまだ萎れておらず、大地は湿って滑らかです。火の性質は下に向かい、水気は上昇します。なぜそうわかるかというと、深い水は暖かく、浅い水は寒いからです。寒い季節が訪れ、太陽は外側の道を運行し、照りつける時間が短くなります。体内の陽気は内にあり、食べ物の消化は速やかです。このようなことから、冬は寒くなるのです。 なぜ春は暑いのか。キンガの時は、水の性質が強くなり、すでに減り、尽きています。草木は乾いて萎れ、大地は乾燥して熱くなっています。水気は下に向かい、火気は上昇します。なぜそうわかるかというと、深い水は冷たく、浅い水は熱いからです。冬が過ぎ、太陽は内側の道を運行し、照りつける時間が長くなります。体内の火の力が弱まるため、春は暑くなるのです。 なぜ夏は寒暖があるのか。大地は八ヶ月の間、常に太陽に照りつけられ、大きな雲が雨を降らせて大地を潤します。地の気が蒸し上がり、風が吹くと蒸気が消えて寒くなり、風が吹かないと暑くなります。そのため、バッサの時には寒暖があるのです。

「云何地獄名泥犁耶？無戲樂故、無憘樂故、無行出故、無福德故。因不除離業故於中生；復說此道於欲界中最為下劣，名曰非道，因是事故，故說地獄名泥犁耶。云何禽獸名底都履反栗車？因諂曲業於中受生；復說此道眾生多覆身行，故說名底栗車。云何鬼道名曰閃多閻摩羅？王名閃多故，其生與王同類，故名閃多；復說此道與餘道往還，善惡相通，故名閃多。云何說阿脩羅道名阿脩羅？不能忍善、不能一心下意諦聽善語，種種教化其心不動，以憍慢故非善健兒，又非天故，名阿脩羅。云何天道說名提婆？言提婆者，善行之名，因善行故於此道生；復說提婆名曰光明，恒有光故；又提婆者名曰聖道，又提婆者名曰意樂，又提婆者名曰上道；又提婆者應修應長一切善業，以是義故，名曰提婆。云何人道說名摩菟沙？一聰明故、二者勝故、三意微細故、四正覺故、五智慧增上故、六能別虛實故、七聖道正器故、八聰慧業所生故，故說人道為摩菟沙。

> 地獄がなぜ「泥犁（ならい）」と呼ばれるのか？そこには遊び楽しむことも、喜び楽しむこともなく、脱出する道もなく、福徳もないからです。業の因を断ち離れないためにそこに生まれる。また、この道は欲界の中で最も劣ったものであり、「非道」とも呼ばれます。こうした事柄ゆえに、地獄は泥犁と名付けられているのです。 禽獣がなぜ「底栗車（とりくさ）」と呼ばれるのか？諂（へつら）い曲がった業によってそこに生を受けるからです。また、この道の衆生は多く身を覆って行くため、底栗車と呼ばれるのです。 鬼道がなぜ「閃多（せんだ）閻摩羅（えんまら）」と呼ばれるのか？王の名が閃多であるため、その生は王と同類であり、ゆえに閃多と名付けられています。また、この道は他の道と行き来し、善悪が通じ合うため、閃多と呼ばれるのです。 阿修羅道がなぜ「阿修羅」と呼ばれるのか？善を忍ぶことができず、一心に耳を傾けて善き言葉を聞くこともなく、さまざまに教化されてもその心は動かず、驕慢（きょうまん）のゆえに善き健児（けんじ）ではなく、また天でもないため、阿修羅と名付けられています。 天道がなぜ「提婆（だいば）」と呼ばれるのか？提婆とは善行の名であり、善行によってこの道に生まれるからです。また、提婆は光明とも呼ばれ、常に光があるからです。さらに、提婆は聖なる道とも、意楽（いらく）とも、上道（じょうどう）とも呼ばれます。また、提婆はあらゆる善業を修め、成長させるべきものであるため、この意味で提婆と名付けられているのです。 人道がなぜ「摩菟沙（まぬしゃ）」と呼ばれるのか？一に聡明であるから、二に勝れているから、三に心が微細であるから、四に正しく覚（さと）るから、五に智慧が増上するから、六に虚実を見分けることができるから、七に聖道の正しい器であるから、八に聡慧（そうけい）の業によって生まれるからです。こうした理由で、人道は摩菟沙と呼ばれるのです。

「云何此地名剡浮提？因剡浮樹故得是名。云何說名西瞿耶尼？此地在剡浮西故，貲生貿易悉皆用牛，牛名瞿耶尼，故名此土為西瞿耶尼。云何名為東毘提訶？此地在剡浮東故，形相可愛、利養勝故，故說東毘提訶。云何名北欝單越？此地在剡浮北故，心直善故，復上勝故，一切貲勝他處故，故說名為北欝單越。

> この地はなぜ閻浮提というのでしょうか。閻浮樹があるから、この名を得たのです。なぜ西瞿耶尼というのでしょうか。この地は閻浮提の西にあるからです。そこでは、物々交換や商売にすべて牛を用います。牛の名を瞿耶尼というので、この土地を西瞿耶尼と呼びます。なぜ東毘提訶というのでしょうか。この地は閻浮提の東にあるからです。形が美しく、供養に優れているから、東毘提訶と言います。なぜ北欝単越というのでしょうか。この地は閻浮提の北にあるからです。心が素直で善良であり、さらに優れているからです。すべての点で他の場所より勝っているから、北欝単越と言います。

「云何第一天名大王天？提頭吒等四大王於中為增上、為上首故。云何第二天名為忉利？三十三天王於是中為帝主，王位自在，故說為忉利天。云何第三天名為夜摩？日夜時節分分度時說如是言：『咄哉！不可思議歡樂。』故名夜摩。云何第四天名兜率陀？歡樂飽滿，於其資具自知滿足，於八聖道不生知足，故說名為兜率陀天。云何第五天名為維摩羅昵？是中諸天，如意化作宮殿園林一切樂具，於中受樂，故名維摩羅昵。云何第六天名波羅維摩婆奢？他所化作宮殿園林一切樂具，於中作自在計：『此是我所。』於中受樂，故名波羅維摩婆奢。云何第一梵名梵先行？若人從欲界入色界前，至此處故，說梵先行。云何第二名梵眾？大梵王眷屬多故，故名梵眾。云何第三名大梵？最勝初禪中間所造業所生故、自在不係他故、能觀別他事故，為已生應生作主，故名大梵。云何第二禪初天名曰少光？說語時口中出光明少故，故名少光。云何第二名無量光？是諸天等若說語時，口中無量光明顯照，故名無量光。云何第三梵名遍勝光？是諸天等若說言時，口出光明遍一切處圓滿無餘，故名遍勝光。云何第三禪初天名曰少淨？是中諸天所受樂少，寂靜愛樂與三禪相應，受此少樂，故名少淨。云何第二天名無量淨？是中諸天樂勝於前寂靜愛樂，與三禪相應，故名無量淨。云何第三名曰遍淨？是中受樂遍滿身心究竟無餘，寂靜愛樂與三禪相應，諸天受此，故名遍淨。云何第四禪初天名曰無雲？苦樂前滅故、於先方便憂喜沒盡故、此中捨受、智、念清淨故，是中諸天受此捨受，故名無雲。云何第二天名曰生福？福者智、念、捨等相應諸禪所生故，生已受用如此三枝，故名生福。云何第三名曰廣果？廣者謂大容果功力及報所生，此二者能攝定慧及離欲依止，故名廣果。云何第四名無想天？是中諸天無有想故。何者為想？通別二想各異生報，此中無故，唯有色陰及不相應行陰故，名無想天。云何那含天？一名善現，昔在因地，可令見實無倒義、可令受可令解，故名善現。云何第二名曰善見？昔在因地增壽命，具四支提財及他貲產，并利益事善正守護，於中生正見不除不取。因前善現及如此因，故名善見。云何第三名不煩？昔在因地，不損惱他、無妨礙意、無相逼意，因前善現及此業故，是故名不煩。云何第四名曰不燒？是中諸天昔在因地，不燒自身、不困苦身，又不燒他、不困苦他，自他亦樂行速疾通達故，因前善現及此業，故名無燒。云何第五名阿迦尼吒？迦尼吒者名曰下品，前十七地並已過故；復有從下品天至究竟天於中般涅槃故；復有諸天名阿迦尼吒，至般涅槃故，是故名阿迦尼吒。云何無色界第一天名曰空無邊入？空者非所作、非有為、不可塞礙，過於礙相、種種有相，一想心所緣故，無二無別，因於此空業所生故，故說名為空無邊入。云何第二名識無邊入天？識者第六意識，此識內故細於外空，過於礙相、過於外相，一想心所緣故，無二無別，因於此識業所生故，故說名為識無邊入。云何第三名無所有入天？無所有者除前二麁相，離此二外無別境界，過內外相，一想心所緣故，無二無別，因於此心業所生故，故說名為無所有入。云何第四名為非想非非想入天？非想者細故，非前七定，故說非想；非非想者，若無想定及無心定，如此兩定名無想定，同無心故，今則有心，故名非非想定；因於此定業所生故，故說名為非想非非想入。從剡浮提向下二萬由旬，是處無間大地獄。從剡浮提向下一萬由旬，是夜摩世間地獄。此二中間有餘地獄。從剡浮提向上四萬由旬，是四大天王天。從剡浮提向上八萬由旬，是三十三天住處。從剡浮提向上十六萬由旬，是夜摩天住處。從剡浮提向上三億二萬由旬，是兜率陀天住處。從剡浮提向上六億四萬由旬，是化樂天住處。從剡浮提向上十二億八萬由旬，是他化自在天住處。」

> まず、第一の天はなぜ「大王天」と呼ばれるのでしょうか。それは、提頭吒（持国天）など四天王がこの天において最も優れ、指導的な立場にあるからです。 第二の天はなぜ「忉利天」と呼ばれるのでしょうか。三十三天の王（帝釈天）がここで主君として自在に統治しているからです。 第三の天はなぜ「夜摩天」と呼ばれるのでしょうか。日夜の時が過ぎるにつれて、この天の者たちは「ああ、なんと計り知れない歓喜だろう」と語るからです。 第四の天はなぜ「兜率陀天」と呼ばれるのでしょうか。歓喜に満ち、物質的な資具には満足を知りながらも、八正道については「まだ足りない」と知るからです。 第五の天はなぜ「維摩羅昵天（化楽天）」と呼ばれるのでしょうか。この天の者たちは、自分の意のままに宮殿や庭園、あらゆる楽しみの道具を変化させて、そこで楽しむからです。 第六の天はなぜ「波羅維摩婆奢天（他化自在天）」と呼ばれるのでしょうか。他の者が変化させた宮殿や庭園、あらゆる楽しみの道具を、「これは私のものだ」と自在に思い込み、そこで楽しむからです。 第一の梵天はなぜ「梵先行天」と呼ばれるのでしょうか。人が欲界から色界に入る時、最初に至る場所だからです。 第二の梵天はなぜ「梵衆天」と呼ばれるのでしょうか。大梵天王の眷属が大勢いるからです。 第三の梵天はなぜ「大梵天」と呼ばれるのでしょうか。最も勝れた初禅の中間で造った業によって生まれ、他に束縛されず自在であり、他の事柄を区別して観ることができ、すでに生じた者やこれから生じる者に対して主となるからです。 第二禅の最初の天はなぜ「少光天」と呼ばれるのでしょうか。話す時に口から出る光が少ないからです。 第二禅の第二の天はなぜ「無量光天」と呼ばれるのでしょうか。この天の者たちが話す時、口から無量の光明が輝き照らすからです。 第二禅の第三の天はなぜ「遍勝光天」と呼ばれるのでしょうか。この天の者たちが話す時、口から出る光明が一切の場所に遍く行き渡り、欠けるところがないからです。 第三禅の最初の天はなぜ「少浄天」と呼ばれるのでしょうか。この天の諸天が受ける楽しみは少なく、寂静を愛し楽しむ心が第三禅と相応し、この少ない楽しみを受けるからです。 第三禅の第二の天はなぜ「無量浄天」と呼ばれるのでしょうか。この天の諸天の楽しみは前に勝り、寂静を愛し楽しむ心が第三禅と相応するからです。 第三禅の第三の天はなぜ「遍浄天」と呼ばれるのでしょうか。ここで受ける楽しみが身心に遍く満ち、究極的で余すところがなく、寂静を愛し楽しむ心が第三禅と相応し、諸天がこれを受けるからです。 第四禅の最初の天はなぜ「無雲天」と呼ばれるのでしょうか。苦楽が前に滅び、先の修行段階における憂いや喜びが尽き、ここでは捨受と智慧と念が清浄であるからです。この天の諸天がこの捨受を受けるので、無雲天といいます。 第四禅の第二の天はなぜ「生福天」と呼ばれるのでしょうか。福とは、智慧、念、捨などと相応する諸禅から生じるものであり、生まれた後、この三つの枝（智慧、念、捨）を受用するからです。 第四禅の第三の天はなぜ「広果天」と呼ばれるのでしょうか。「広」とは大きいことを意味し、「果」とは功徳の力とその報いによって生じるものです。この二つ（定と慧）は、禅定と智慧、そして欲を離れるよりどころを摂することができるからです。 第四禅の第四の天はなぜ「無想天」と呼ばれるのでしょうか。この天の諸天には想（心の働きの一種）がないからです。想とは何か。一般的な想と特定の想という二種類の想があり、それぞれ異なる生の報いをもたらしますが、ここにはそれがありません。ただ色陰（物質的な要素）と不相応行陰（心とも物質とも対応しない要素）があるだけです。それゆえ無想天といいます。 那含天（色究竟天）について。 第一はなぜ「善現天」と呼ばれるのでしょうか。過去に因位（修行中の位）にあった時、真実で誤りのない道理を見させ、受け入れさせ、理解させることができたからです。 第二はなぜ「善見天」と呼ばれるのでしょうか。過去に因位において寿命を増し、四つの支提財（僧坊など）や他人の資産、利益をもたらす事柄を善く正しく守護し、その中で正しい見解を生じさせ、取り除くことも執着することもなかったからです。先の善現天とこのような因縁によって、善見天といいます。 第三はなぜ「不煩天」と呼ばれるのでしょうか。過去に因位において、他者を損なったり悩ませたりせず、妨げる心も、追い詰める心もなかったからです。先の善現天とこの業によって、不煩天といいます。 第四はなぜ「不焼天」と呼ばれるのでしょうか。この天の諸天は、過去に因位において、自らを焼き苦しめず、他者を焼き苦しめず、自他ともに楽しい行いを速やかに通達したからです。先の善現天とこの業によって、無焼天といいます。 第五はなぜ「阿迦尼吒天（色究竟天）」と呼ばれるのでしょうか。「迦尼吒」とは下品を意味します。なぜなら、前の十七の天処（下位の天）をすでに超えているからです。また、下品の天から究極の天に至り、その中で般涅槃する者もいます。さらに、阿迦尼吒天と呼ばれる諸天が、般涅槃に至るからです。それゆえ阿迦尼吒天といいます。 無色界の第一の天はなぜ「空無辺処天」と呼ばれるのでしょうか。「空」とは作られたものでなく、有為のものでもなく、塞がれることも妨げられることもないものです。妨げとなる相や種々の有の相を超え、ただ一つの想の心が縁とする対象であるがゆえに、二つも別れもありません。この空に関する業によって生まれるから、空無辺処天といいます。 第二の天はなぜ「識無辺処天」と呼ばれるのでしょうか。「識」とは第六意識のことです。この識は内にあるがゆえに外の空よりも微細であり、妨げとなる相や外の相を超えています。ただ一つの想の心が縁とする対象であるがゆえに、二つも別れもありません。この識に関する業によって生まれるから、識無辺処天といいます。 第三の天はなぜ「無所有処天」と呼ばれるのでしょうか。「無所有」とは、前の二つ（空と識）の粗い相を除いたものです。この二つ以外に別の境界はなく、内と外の相を超えています。ただ一つの想の心が縁とする対象であるがゆえに、二つも別れもありません。この心に関する業によって生まれるから、無所有処天といいます。 第四の天はなぜ「非想非非想処天」と呼ばれるのでしょうか。「非想」とは微細であるがゆえに、前の七つの定（下位の禅定）とは異なるので、非想といいます。「非非想」とは、もし無想定や無心定のような、心の働きがない定があるならば、それは無想定と呼ばれ、心がない点で同じです。しかし、ここには心があります。それゆえ非非想定といいます。この定に関する業によって生まれるから、非想非非想処天といいます。 閻浮提（人間界）から下へ二万由旬のところに、無間大地獄があります。 閻浮提から下へ一万由旬のところに、夜摩世間地獄があります。 この二つの間に、その他の地獄があります。 閻浮提から上へ四万由旬のところに、四大天王天があります。 閻浮提から上へ八万由旬のところに、三十三天の住処があります。 閻浮提から上へ十六万由旬のところに、夜摩天の住処があります。 閻浮提から上へ三億二万由旬のところに、兜率陀天の住処があります。 閻浮提から上へ六億四万由旬のところに、化楽天の住処があります。 閻浮提から上へ十二億八万由旬のところに、他化自在天の住処があります。

有比丘問佛世尊：「從剡浮提至梵處為若近遠？」佛言：「比丘！從剡浮提至梵處，甚遠甚高，相異相離。比丘！譬如九月十五日月圓滿時，若有一人在彼梵處，放百丈方石墜向下界，中間無礙，到後歲九月月圓滿時至剡浮提。梵處、剡浮提近遠如是。從梵處至少光天，復倍於前。從少光天至無量光天，復遠一倍。從無量光天至遍勝光天，復遠一倍。從遍勝光天至少淨天，復遠一倍。從少淨天至無量淨天，復遠一倍。從無量淨天至遍淨天，復遠一倍。從遍淨天至無雲天，復遠一倍。從無雲天至生福天，復遠一倍。從生福天至廣果天，復遠一倍。從廣果天至無想天，復遠一倍。從無想天至善現天，又遠一倍。從善現天至善見天，復遠一倍。從善見天至不煩天，又遠一倍。從不煩天至不燒天，又遠一倍。從不燒天至阿迦尼吒天，復遠一倍。」

> ある比丘が仏陀、世尊に問うた。「閻浮提から梵天の住処までは、どれほど近いか遠いのでしょうか。」 仏陀は言われた。「比丘よ、閻浮提から梵天の住処までは、非常に遠く、非常に高く、互いに隔たり、離れているのだ。 比丘よ、たとえば九月十五日、月が満ちた時に、もしある人があの梵天の住処から、百丈四方の石を下界に向かって落とすとする。途中に何の妨げもなく、次の年の九月、月が満ちた時に閻浮提に届くほどだ。梵天の住処と閻浮提の距離はこのようである。 梵天の住処から少光天までは、さらにその倍の遠さである。 少光天から無量光天までは、さらにその倍遠い。 無量光天から遍勝光天までは、さらにその倍遠い。 遍勝光天から少浄天までは、さらにその倍遠い。 少浄天から無量浄天までは、さらにその倍遠い。 無量浄天から遍浄天までは、さらにその倍遠い。 遍浄天から無雲天までは、さらにその倍遠い。 無雲天から生福天までは、さらにその倍遠い。 生福天から広果天までは、さらにその倍遠い。 広果天から無想天までは、さらにその倍遠い。 無想天から善現天までは、さらにその倍遠い。 善現天から善見天までは、さらにその倍遠い。 善見天から不煩天までは、さらにその倍遠い。 不煩天から不焼天までは、さらにその倍遠い。 不焼天から阿迦尼吒天までは、さらにその倍遠い。」

而說偈言：

> そして、このような偈を説かれました。

「從阿迦尼吒， 至剡浮提地，放大密石山， 六萬五千年，五百三十五， 中間若無礙，方至於剡浮。」

> 阿迦尼吒天から 剡浮提の大地へと 巨大な密石の山を放ち 六万五千年もの間 五百三十五の数を数え もし途中に何も妨げがなければ ようやく剡浮提に至る

「剡浮提人若離神通及他功力，無能於山壁柵中出入無礙。剡浮提人若遊行者，唯能至於大小黑山，若離神通及他功力，不能過此。西瞿耶尼人若離神通及他功力，無有能於山壁柵中出入無礙，若遊行者唯能至其地際海邊，若離神通及他功力，不能過此。東弗婆提人若離神通及他功力，無有能於山壁柵中出入無礙，若遊行者唯能至其地際海邊，若離神通及他功力，不能過此。北欝單越人若離神通及他功力，無有能於壁柵山中出入無礙，若遊行者唯至其地際山內邊，若離神通及他功力，無能過此。四天王天自宮殿處，若離神通及他功力，無有能於壁柵山中出入無礙，若遊行者唯至鐵圍山內，若離神通及他功力，不能過此。忉利諸天自宮殿處，若離神通及他功力，無有能於壁柵山中出入無礙，若遊行者唯至鐵圍山際，若離神通及他功力，不能過此。夜摩、兜率陀天、化樂、他化自在，及梵先行、梵眾諸天自宮殿處，若離神通及他功力，無有能於壁柵山中出入無礙，若遊行者唯在一世界內，若離神通及他功力，不能過此。大梵王天自宮殿處，若離神通及他功力，無有能於壁柵山中出入無礙，若遊行者唯在千世界內，若離神通及他功力，不能過此，從第二禪乃至阿迦尼吒天自宮殿處，亦如前說，若遊行者唯在一千世界內，若離神通及他功力，不能過此。

> 閻浮提の人間は、もし神通力や他者の助力がなければ、山や壁、柵の中を自由に行き来することはできません。閻浮提の人間が旅をする場合、大小の黒山に至ることはできますが、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 西の瞿耶尼の人間は、もし神通力や他者の助力がなければ、山や壁、柵の中を自由に行き来することはできません。旅をする場合、その地の果ての海辺に至ることはできますが、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 東の弗婆提の人間は、もし神通力や他者の助力がなければ、山や壁、柵の中を自由に行き来することはできません。旅をする場合、その地の果ての海辺に至ることはできますが、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 北の欝単越の人間は、もし神通力や他者の助力がなければ、壁や柵、山の中を自由に行き来することはできません。旅をする場合、その地の果ての山の内側の辺りに至ることはできますが、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 四天王天の自らの宮殿の場所では、もし神通力や他者の助力がなければ、壁や柵、山の中を自由に行き来することはできません。旅をする場合、鉄囲山の内側に至ることはできますが、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 忉利天の諸天の自らの宮殿の場所では、もし神通力や他者の助力がなければ、壁や柵、山の中を自由に行き来することはできません。旅をする場合、鉄囲山の際に至ることはできますが、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天、および梵先行天、梵衆天の諸天の自らの宮殿の場所では、もし神通力や他者の助力がなければ、壁や柵、山の中を自由に行き来することはできません。旅をする場合、一つの世界の内側にのみ至ることができ、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 大梵王天の自らの宮殿の場所では、もし神通力や他者の助力がなければ、壁や柵、山の中を自由に行き来することはできません。旅をする場合、千の世界の内側にのみ至ることができ、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。 第二禅天から阿迦尼吒天までの諸天の自らの宮殿の場所も、先に述べた通りです。旅をする場合、千の世界の内側にのみ至ることができ、神通力や他者の助力がなければ、それを越えることはできません。

「大地獄中，以大獄卒作王富自在。閻羅處地獄，以閻羅王作王富自在。一切禽獸及水羅剎，以婆婁那王作王富自在。諸蛇龍等，以婆脩吉龍王作王富自在。諸大龍者，以摩那思龍王作王富自在。諸象龍者，以婁闍耆利象王作王富自在。諸飛鳥者，以迦婁羅王作王富自在。四足步行眾生，以師子王作王富自在。一切鬼道，以鬼尊王作王富自在。一切脩羅道，以四脩羅王作王富自在：一羅睺、二波羅陀、三毘摩質多、四婆利毘盧遮。閻浮提中，以轉輪王作王富自在，一處王作王富自在，國眾尊老作王富自在，有時無王如劫初立。西瞿耶尼，以轉輪王作王富自在，國眾尊老作王富自在，有時無王如劫初立。東弗婆提，以轉輪王作王富自在，國眾尊老作王富自在，有時無王如劫初立。北欝單越，以轉輪王作王富自在，有時無王。四天王處，以四大天王作王富自在。忉利天者，以三十三天作王富自在。夜摩天者，以脩夜摩王作王富自在。兜率陀天，以善足意王作王富自在。化樂天者，以善化王作王富自在。他化自在天，以令自在王作王富自在。一切欲界中，以有惡魔王作王富自在。一千世界中，以大梵天王作王富自在。世間及諸天魔王所大梵處，沙門婆羅門及人天處，以如來、阿羅訶、三藐三佛陀法然作王富自在。

> 大地獄においては、大獄卒が王となり、富と自在を得ています。閻羅王のいる地獄では、閻羅王が王となり、富と自在を得ています。すべての鳥獣と水の羅刹は、婆婁那王が王となり、富と自在を得ています。諸々の蛇や龍などは、婆脩吉龍王が王となり、富と自在を得ています。諸々の大龍は、摩那思龍王が王となり、富と自在を得ています。諸々の象龍は、婁闍耆利象王が王となり、富と自在を得ています。諸々の飛ぶ鳥は、迦婁羅王が王となり、富と自在を得ています。四足で歩くすべての生き物は、師子王が王となり、富と自在を得ています。すべての鬼道は、鬼尊王が王となり、富と自在を得ています。すべての阿修羅道は、四阿修羅王が王となり、富と自在を得ています。一は羅睺、二は波羅陀、三は毘摩質多、四は婆利毘盧遮です。 閻浮提（人間界）では、転輪王が王となり、富と自在を得ています。一つの地域の王が王となり、富と自在を得ることもあります。国の長老たちが王となり、富と自在を得ることもあります。時には王がおらず、劫の初めのように成り立つこともあります。 西瞿耶尼では、転輪王が王となり、富と自在を得ています。国の長老たちが王となり、富と自在を得ることもあります。時には王がおらず、劫の初めのように成り立つこともあります。 東弗婆提では、転輪王が王となり、富と自在を得ています。国の長老たちが王となり、富と自在を得ることもあります。時には王がおらず、劫の初めのように成り立つこともあります。 北欝単越では、転輪王が王となり、富と自在を得ています。時には王がいないこともあります。 四天王の世界では、四大天王が王となり、富と自在を得ています。 忉利天では、三十三天が王となり、富と自在を得ています。 夜摩天では、脩夜摩王が王となり、富と自在を得ています。 兜率陀天では、善足意王が王となり、富と自在を得ています。 化楽天では、善化王が王となり、富と自在を得ています。 他化自在天では、令自在王が王となり、富と自在を得ています。 すべての欲界では、悪魔王が王となり、富と自在を得ています。 一千の世界では、大梵天王が王となり、富と自在を得ています。 世間と諸天、魔王のいる大梵天の世界、沙門や婆羅門、人間や天の世界においては、如来・阿羅訶・三藐三仏陀が、法の道理によって自然に王となり、富と自在を得ているのです。

「若剡浮提嬰兒生已滿四月日，如西瞿耶尼初生兒大。東弗婆提初生嬰兒，如剡浮提五月兒大。若剡浮提嬰兒生已滿六月日，如北欝單越初生嬰兒。如剡浮提兒年六歲，四天王處初生嬰兒亦如是，生至七日如父母大。如剡浮提兒生七歲，忉利天處初生嬰兒亦如是，生至七日等於成人。如剡浮提兒生八歲，夜摩天處初生亦爾，生至七日等於成人。如剡浮提兒生九歲，兜率陀天初生亦爾，生至七日等於成人。從化樂天乃至阿迦尼吒天，稱其形相生便具足。剡浮提一尋半是西瞿耶尼一尋，西瞿耶尼一尋半是東弗婆提一尋，東弗婆提一尋半是北欝單越一尋。四天王天一伽浮地，是一由旬四分之一。四天王身長二伽浮地，忉利諸天長半由旬，帝釋身者長三伽浮地，夜摩諸天長一由旬，兜率陀天長二由旬，化樂諸天長四由旬，他化自在天長八由旬。一切色界至阿迦尼吒，並長十二由旬。從剡浮提至阿迦尼吒天，並長自身四肘。

> 閻浮提の赤子が生まれて四ヶ月満ちた頃の大きさは、西の瞿耶尼の初生児と同じです。東の弗婆提の初生児は、閻浮提の五ヶ月児と同じ大きさです。閻浮提の赤子が生後六ヶ月満ちた頃の大きさは、北の欝単越の初生児と同じです。 閻浮提の子が六歳の時の大きさは、四天王天で生まれたばかりの赤子と同じです。四天王天では、生まれて七日目には両親と同じ大きさになります。閻浮提の子が七歳の時の大きさは、忉利天で生まれたばかりの赤子と同じで、生まれて七日目には大人と同じ大きさになります。閻浮提の子が八歳の時の大きさは、夜摩天で生まれたばかりの赤子と同じで、生まれて七日目には大人と同じ大きさになります。閻浮提の子が九歳の時の大きさは、兜率陀天で生まれたばかりの赤子と同じで、生まれて七日目には大人と同じ大きさになります。化楽天から阿迦尼吒天までは、生まれた時からその天界にふさわしい完全な姿を備えています。 閻浮提の一尋半は、西瞿耶尼の一尋に相当します。西瞿耶尼の一尋半は、東弗婆提の一尋に相当します。東弗婆提の一尋半は、北欝単越の一尋に相当します。 四天王天の一伽浮地は、一由旬の四分の一です。四天王の身長は二伽浮地、忉利天の諸天は半由旬、帝釈天の身長は三伽浮地です。夜摩天の諸天は一由旬、兜率陀天は二由旬、化楽天は四由旬、他化自在天は八由旬です。すべての色界、阿迦尼吒天に至るまで、身長は十二由旬です。閻浮提から阿迦尼吒天までの各天界の衆生は、いずれも自身の身長の四肘分の高さがあります。

「剡浮提眾生身色種種不同，有白色者，如夜婆那婆利柯止那等國；有黑色者，如跋婆羅劍蒱闍等國；有青色者，如陀眉羅辛訶羅等國；有赤白色者，如首陀阿毘羅等國；有黃色者，如基羅多及罽賓等國。東弗婆提、西瞿耶尼，唯除黑色，餘悉如剡浮提。北欝單越，一切人民悉皆白淨。四天王天有四種色——有紺、有赤、有黃、有白——一切欲界諸天，色皆亦如是。云何諸天色有四種？初受生時若見紺華，身則紺色，餘色亦爾。剡浮提人衣服，有迦波婆芻摩衣、憍奢耶衣、毛衣、紵衣、麻衣、草衣、樹皮衣、獸皮衣、板衣、𬾆波樹子衣。西瞿耶尼人衣者，迦波婆衣、芻摩衣、憍奢耶衣、毛衣、紵衣、麻衣、草衣、樹皮衣、獸皮衣、板衣、𬾆波樹子衣。東弗婆提人，迦波婆衣、芻摩衣、憍奢耶衣、毛衣、紵衣、麻衣。欝單越人，𬾆波樹子衣，長二十肘，廣十肘，重一波羅南稱一兩。四天王天亦𬾆波衣，長四十肘，廣二十肘，重半波羅。忉利諸天亦著𬾆波衣，長八十肘，廣四十肘，重一波羅四分之一。夜摩天著𬾆波衣，長百六十肘，廣八十肘，重一波羅八分之一。兜率陀天著𬾆波衣，長三百二十肘，廣百六十肘，重一波羅十六分之一。化樂天乃至他化自在，所著衣服隨心小大，輕重亦爾。剡浮提人衣服，莊飾種種不同，或有長髮分為兩髻、或有剃落髮鬚、或有頂留一髻餘髮皆除，名周羅髻，或有拔除髮鬚、或有剪髮剪鬚、或有編髮、或有被髮、或有剪前被後令圓；或有裸形、或著衣服覆上露下、或露上覆下、或上下俱覆、或止障前後。西瞿耶尼人所莊飾，並皆被髮，上下著衣，如首陀阿毘羅國。東弗婆提人髮莊飾剪前被後，上下兩衣，著下衣，上衣繞身而已，如央伽、摩伽陀二國莊飾。北欝單越人所莊飾，鬚髮翠黑恒如剃羅，五日頭髮自然，長橫七指無有增減。四天王天莊飾種種不同，或有長髮分作兩髻、或有剃落髮鬚、或頂留一髻餘髮皆除，名周羅髻，或拔除鬚髮、或有剪髮剪鬚、或有編髮或有被髮、或剪前被後令圓，或有裸形；或著衣服、或覆上露下、或覆下露上、或上下俱覆、或止障前後；欲界諸天莊飾亦復如是。色界諸天不著衣服，如著不異，頭雖無髻，如似天冠，過男女相，形唯一種。

> 閻浮提（南贍部洲）の衆生の肌の色はさまざまで、異なっています。白い色の者もいれば、例えば夜婆那婆利柯止那などの国々のように。黒い色の者もいれば、例えば跋婆羅剣蒱闍などの国々のように。青い色の者もいれば、例えば陀眉羅辛訶羅などの国々のように。赤白の色の者もいれば、例えば首陀阿毘羅などの国々のように。黄色い色の者もいれば、例えば基羅多や罽賓などの国々のように。東弗婆提（東勝神洲）と西瞿耶尼（西牛貨洲）では、黒色を除き、その他はすべて閻浮提と同様です。北欝単越（北倶盧洲）では、すべての人民が皆、白く清らかです。 四天王天には四種類の色があります――紺色、赤色、黄色、白色――すべての欲界の諸天の色もまたこのようになっています。なぜ諸天の色が四種類あるのでしょうか。初めて生を受ける時に、もし紺色の花を見れば、身体は紺色になり、他の色についても同様です。 閻浮提の人々の衣服には、迦波婆芻摩衣、憍奢耶衣、毛衣、紵衣、麻衣、草衣、樹皮衣、獣皮衣、板衣、𬾆波樹子衣があります。西瞿耶尼の人々の衣服は、迦波婆衣、芻摩衣、憍奢耶衣、毛衣、紵衣、麻衣、草衣、樹皮衣、獣皮衣、板衣、𬾆波樹子衣です。東弗婆提の人々は、迦波婆衣、芻摩衣、憍奢耶衣、毛衣、紵衣、麻衣を着ます。欝単越の人々は、𬾆波樹子衣を着ます。長さは二十肘、幅は十肘、重さは一波羅<note>南の称え方では一両</note>です。 四天王天もまた𬾆波衣を着ます。長さは四十肘、幅は二十肘、重さは半波羅です。忉利天の諸天も𬾆波衣を着ます。長さは八十肘、幅は四十肘、重さは一波羅の四分の一です。夜摩天は𬾆波衣を着ます。長さは百六十肘、幅は八十肘、重さは一波羅の八分の一です。兜率陀天は𬾆波衣を着ます。長さは三百二十肘、幅は百六十肘、重さは一波羅の十六分の一です。化楽天から他化自在天に至るまで、着る衣服は心のままに大小自在で、軽重もまた同様です。 閻浮提の人々の衣服や装飾はさまざまで、異なっています。ある者は長い髪を二つの髻に分け、ある者は髪や髭を剃り落とし、ある者は頭頂に一つの髻を残し、残りの髪はすべて除き、周羅髻と呼ばれます。ある者は髪や髭を抜き取り、ある者は髪や髭を切り、ある者は髪を編み、ある者は髪を下ろし、ある者は前を切り後ろを下ろして丸くします。ある者は裸形で、ある者は衣服を着て上半身を覆い下半身を露わにし、ある者は上半身を露わにして下半身を覆い、ある者は上下ともに覆い、ある者は前後だけを覆います。 西瞿耶尼の人々の装飾は、皆、髪を下ろし、上下に衣服を着ます。首陀阿毘羅国のようになります。東弗婆提の人々の髪の装飾は、前を切り後ろを下ろし、上下二枚の衣服を着ます。下衣を着て、上衣は体に巻きつけるだけです。央伽国と摩伽陀国の二国の装飾のようです。北欝単越の人々の装飾は、髭や髪が常に剃ったように青黒く、五日ごとに髪は自然に伸び、横に七指分の長さになり、増減することはありません。 四天王天の装飾はさまざまで、異なっています。ある者は長い髪を二つの髻に分け、ある者は髪や髭を剃り落とし、ある者は頭頂に一つの髻を残し、残りの髪はすべて除き、周羅髻と呼ばれます。ある者は髭や髪を抜き取り、ある者は髪や髭を切り、ある者は髪を編み、ある者は髪を下ろし、ある者は前を切り後ろを下ろして丸くします。ある者は裸形で、ある者は衣服を着、ある者は上半身を覆い下半身を露わにし、ある者は下半身を覆い上半身を露わにし、ある者は上下ともに覆い、ある者は前後だけを覆います。欲界の諸天の装飾もまたこのようになっています。 色界の諸天は衣服を着ていませんが、着ているのと変わりません。頭には髻はありませんが、天冠を着けているようです。男女の相を超え、形はただ一種です。

「剡浮提人食粳米飯、麥飯、󰉓，食魚、食肉、食細佉陀尼、根佉陀尼、菓佉他尼。西瞿耶尼人所食飲，食粳米飯、麥飯，及󰉓、魚、肉、細佉陀尼、根佉陀尼、菓佉陀尼，乳酪此中最多。東弗婆提人，食粳米飯、麥飯及󰉓、魚、肉、細佉陀尼、根佉陀尼、菓佉陀尼，奢利粳米飯最饒。北欝單越人，唯食奢利粳米飯，不種自生無粃無碎，亦無有糠自然淨米，色香味觸並皆妙好，如細蜂蜜其味甘美。其中有樹名敦治抧羅，其樹生子形如釜鍑又似𭬮者，若人欲食，取此樹子以持盛水。別復有石名曰樹提，取此樹子以置石上，石自生火。是人將取奢利米寫置器中，無勞量准即自然稱器。飯成熟時，石自還冷，仍用前𭬮次第盛貯。若餘人來欲須食者隨意取食，不作此意：『彼人施我。』是作食人亦不作意：『我今施彼。』若食竟時，擲之而去，所餘器物及殘食等，地裂受之，受已還合。四天王天並食須陀味，朝食一撮、暮食一撮，食入體已轉成身分。是須陀味園林池苑並自然生，是須陀味亦能化作佉陀尼等八種飲食。一切欲界諸天食亦如是。色界諸天，從初禪中乃至遍淨，以喜為食，上去諸天以意業為食。

> 閻浮提（南瞻部洲）の人々は、粳米の飯、麦飯、肉を食べ、魚や肉を食し、また細かい菓子や根菜、果物を食べる。 西瞿耶尼（西牛貨洲）の人々は、粳米の飯、麦飯、肉、魚、細かい菓子、根菜、果物を食し、中でも乳製品やチーズが最も多い。 東弗婆提（東勝神洲）の人々は、粳米の飯、麦飯、肉、魚、細かい菓子、根菜、果物を食べ、特に奢利粳米の飯が豊富である。 北欝単越（北倶盧洲）の人々は、奢利粳米の飯のみを食す。これは種をまかずとも自然に生え、籾や砕け米、糠もなく、自然に清らかな米である。色、香り、味、触れ心地はすべて優れており、細やかな蜂蜜のように甘美な味がする。 そこには敦治抧羅という名の樹があり、その木は釜や鍋のような形、あるいは瓢箪のような形の実を結ぶ。人が食べたいときは、この木の実を取り、器に水を入れる。別に樹提という名の石があり、この木の実を石の上に置くと、石は自然に火を起こす。人は奢利米を取り、器に注ぐが、量を計る必要はなく、器に応じて自然に適量となる。飯が炊き上がると、石は自然に冷め、先の瓢箪に順次盛り付ける。他の人が来て食べたいときは、自由に取って食べることができ、『あの人が私に施してくれた』とは思わない。食事を作った人も、『私は彼に施した』とは思わない。食べ終わると、器を投げ捨てて去り、残った器や食べ残しは、地が裂けて受け入れ、受け入れた後は再び閉じる。 四天王天の衆生は、須陀味を食す。朝に一摘み、夕に一摘み食べると、体に入って身分となる。この須陀味は、林や池、苑に自然に生え、また佉陀尼など八種類の飲食に変化することもできる。すべての欲界の諸天の食事も同様である。 色界の諸天は、初禅から遍淨天まで、喜びを食とし、それより上の天では、意業を食とする。

「剡浮提人所資博易，或生熟金銀或米穀等、或諸雜物真珠摩尼種種諸寶、或取眾生以為貿易；西瞿耶尼貨易交關唯用𤚩牛；東弗婆提貨易交關所用米穀；北欝單越無有交關。四天王天所資博易，或生熟金銀或米穀等、或諸雜貨真珠摩尼種種諸寶、或取眾生以為貿易；一切欲界諸天亦復如是。色界則無，同欝單越。

> 閻浮提（南瞻部洲）の人々が取引に用いるものは、生金や精錬された金銀、米や穀物など、あるいは雑多な品々、真珠や摩尼珠など様々な宝石、あるいは生き物を取引の対象とすることもある。西瞿耶尼（西牛貨洲）では、取引には牛のみを用いる。東弗婆提（東勝身洲）では、取引には米穀を用いる。北欝単越（北倶盧洲）には取引というものはない。 四天王天において取引に用いられるものは、生金や精錬された金銀、米や穀物など、あるいは雑多な品々、真珠や摩尼珠など様々な宝石、あるいは生き物を取引の対象とすることもある。すべての欲界の諸天もまた同様である。色界にはそのようなものはなく、北欝単越と同じである。

「剡浮提人或自殺生、或令他殺，死則食肉；西瞿耶尼亦復如是。東弗婆提人自不殺生、不令他殺，若有自死則食其肉。北欝單越自不殺生、不令他殺，死不食肉。四天王天自殺、令他殺，死不食肉。忉利諸天自殺、令他殺，死不食其肉。從夜摩天上至阿迦尼吒，不自殺生、不令他殺，死不食肉。

> 閻浮提（南贍部洲）の人々は、自ら生き物を殺したり、他の者に殺させたりし、死んだらその肉を食べます。西瞿耶尼（西牛貨洲）の人々も同じです。東弗婆提（東勝神洲）の人々は、自ら殺生せず、他の者に殺させず、もし自然に死んだものがあれば、その肉を食べます。北欝単越（北倶盧洲）の人々は、自ら殺生せず、他の者に殺させず、死んだものの肉も食べません。四天王天の衆生は、自ら殺したり他の者に殺させたりしますが、死んだものの肉は食べません。忉利天の諸天も、自ら殺したり他の者に殺させたりしますが、死んだものの肉は食べません。夜摩天から上、阿迦尼吒天に至るまでの天界では、自ら殺生せず、他の者に殺させず、死んだものの肉も食べません。

「剡浮提人若眷屬死，送喪山中燒屍棄去，或置水中、或埋土裏、或著空地；西瞿耶尼、東弗婆提亦復如是。北欝單越人若眷屬死，不送喪、不燒不棄，鳥為送屍，是鳥啄屍將至山外而便噉食。四天王天其眷屬死，亦不送屍、不燒不棄，如光焰沒，無有屍骸；其上諸天一切如是。

> 閻浮提の人は、もし家族が死ねば、喪を送って山中で屍を焼き、捨て去るか、あるいは水中に置き、土に埋め、あるいは空地に置く。西の瞿耶尼、東の弗婆提もまた同じである。北の欝単越の人は、もし家族が死ねば、喪を送らず、焼かず、捨てず、鳥が屍を送り、その鳥が屍を啄んで山の外に運び、そこで食べる。四天王天では、その家族が死ねば、屍を送らず、焼かず、捨てず、まるで光の炎が消えるように、屍骸は残らない。その上の諸天もすべて同じである。

「剡浮提中有五種樹——金樹、銀樹、頗梨柯樹、琉璃樹、呵利多樹——西瞿耶尼、東弗婆提樹亦如是。北欝單越唯有呵利多樹，餘四則無。四天王天亦有五種寶樹，並如上說。一切欲界諸天有五種樹，亦復如是。色界天中並悉無樹。剡浮提中有五種華——金、銀、頗梨柯、琉璃、呵利多——西瞿耶尼、東弗婆提亦復如是。北欝單越有樹名散多那，其花悉呵利多寶。四天王天並有五種花，一切欲界亦復如是，色界都無。

> 閻浮提には五種類の樹があります——金の樹、銀の樹、水晶の樹、瑠璃の樹、呵利多の樹——西瞿耶尼と東弗婆提も同様です。北欝單越には呵利多の樹のみがあり、他の四種はありません。四天王天にも五種類の宝樹があり、先述の通りです。すべての欲界の諸天にも五種類の樹があり、これも同様です。色界天には樹はまったくありません。 閻浮提には五種類の花があります——金、銀、水晶、瑠璃、呵利多——西瞿耶尼と東弗婆提も同様です。北欝單越には散多那という名の樹があり、その花はすべて呵利多の宝です。四天王天にも五種類の花があり、すべての欲界も同様です。色界にはまったくありません。

「剡浮提中有殿堂，金、銀、琉璃、頗梨柯、呵利多，有材木殿堂、或有石屋土屋；西瞿耶尼亦如是。東弗婆提殿堂並金，無有餘屋。北欝單越有樹名曼殊沙，如高大殿，葉葉相蔽不入風霜，一切諸人以為住屋。四天王天有五種殿堂——金、銀、琉璃、頗梨柯、呵利多——一切欲界諸天亦復如是。色界諸天有諸殿堂，皆白色寶。是中諸天昔在因地，有褊悋心而行布施望得果報，今於果地所得宮殿，光色昏闇不能明淨。若是諸天在因地中，無褊悋心而行布施不望來果：『我有彼無，我主彼不。是正道理，是法相應。』若能主者施不主者，若行布施心淨安隱，為莊嚴心、為治淨心，故行布施；由此心故，在果地中所得宮殿，微妙光明無有暗濁。

> 閻浮提には、金、銀、瑠璃、頗梨柯、呵利多の材でできた殿堂があり、また木材の殿堂や、石造りの家、土造りの家もある。西瞿耶尼も同様である。東弗婆提の殿堂はすべて金で、他の材の家はない。北欝単越には曼殊沙という名の樹があり、それは高い大殿のようで、葉と葉が重なり合って風霜を通さず、すべての人々が住処としている。 四天王天には五種の殿堂――金、銀、瑠璃、頗梨柯、呵利多――があり、すべての欲界の諸天もまた同様である。色界の諸天には、すべて白い宝でできた殿堂がある。 これらの天界の者たちが、かつて因位（修行中の段階）において、狭量で物惜しみする心を持ちながら布施を行い、果報を望んだならば、今、果地（結果としての境地）で得る宮殿は、光色が暗く濁り、明るく清らかではない。 もしこれらの天界の者が、因位において、狭量な心なく布施を行い、来世の果報を望まず、「私はこれを持ち、彼は持たない。私は主となり、彼は主とならない。これが正しい道理であり、法に相応するのだ」と考えることなく、もし主たる者が主でない者に施し、布施を行う心が清らかで安らかであり、心を荘厳するため、心を清浄に治めるために布施を行うならば、この心によって、果地において得る宮殿は、微妙で光明に満ち、暗さや濁りがないのである。

「剡浮提人若離神通及因他功力，則不能通見山壁柵城障外等色。西瞿耶尼、東弗婆提、北欝單越若離他功力，則不能通見山壁柵城障外等色。四天王天若離神通及他功力，於自處所不能通見山壁柵城障外等色，若遠觀時唯見鐵圍山內之色；若離神通及他功力，不能徹見此山之外。忉利諸天於自宮殿，若離神通及他功力，不能得見山壁柵城障外等色，若遠觀時唯見鐵圍山內；若離神通及他功力，不能徹見鐵圍山外；從夜摩天乃至梵眾並皆如是。大梵天王自宮殿處，若離神通及他功力，不能得見山壁柵城障外等色，若遠觀時唯見一千世界之內；若離神通及他功力，不能徹見。

> 閻浮提（南贍部洲）の人々は、神通力や他者の力を借りなければ、山や壁、柵、城などの障害物の向こう側を見通すことはできません。西瞿耶尼（西牛貨洲）、東弗婆提（東勝神洲）、北欝單越（北倶盧洲）の人々も、他者の力を借りなければ、同様に障害物の向こうを見通すことはできません。 四天王天の天人たちは、神通力や他者の力を借りなければ、自分たちの住む場所からは障害物の向こうを見通せず、遠くを見渡しても鉄囲山の内側の景色しか見えません。神通力や他者の力を借りなければ、この山の外側を見通すことはできないのです。 忉利天（三十三天）の天人たちも、自分たちの宮殿からは、神通力や他者の力を借りなければ、障害物の向こうを見通せません。遠くを見渡しても鉄囲山の内側しか見えず、神通力や他者の力を借りなければ、鉄囲山の外側を見通すことはできないのです。夜摩天から梵衆天に至るまで、すべて同様です。 大梵天王も、自分の宮殿からは、神通力や他者の力を借りなければ、障害物の向こうを見通せません。遠くを見渡しても千世界の内側しか見えず、神通力や他者の力を借りなければ、その外側を見通すことはできないのです。

「剡浮提人若索他女，女家許已乃得迎接，或有買妾或有貨婢；西瞿耶尼、東弗婆提亦復如是。北欝單越人不索他女，亦不迎妻不賣不贖。若男子欲娶女時諦瞻彼女，若女子欲羨男時亦須諦視；若女不見男視，餘女報言：『是人看汝。』即為夫妻；若男子不見女看，餘男報言：『是人看汝。』亦為夫妻。若自相見，便即相隨共往別處。四天王天若索女天，女家許已乃得迎接，或貨或買；一切欲界諸天亦復如是。剡浮提中，有男女根以相和合；東弗婆提、西瞿耶尼、北欝單越亦皆如是；四天王天及忉利天，男女和合亦復如是。夜摩諸天以相抱為欲，兜率陀天執手為欲，化樂諸天共笑為欲，他化自在天相視為欲。西瞿耶尼受諸欲樂，兩倍勝於剡浮提人，乃至他化自在諸天欲，勝於化樂亦皆兩倍。剡浮提女人有惡食者、有胎長者、有初產者、有飲兒者；西瞿耶尼、東弗婆提亦復如是。北欝單越女人有惡食者、有胎長者、有生產者，唯不飲兒；若生男兒及女兒者，放四衢道，母以手指內其口中，若行路人從此過者，亦以手指內兒口中，因此指觸身分長大。欝單越人男女別居不相交雜，若男生時，七日成人便入男群，若女生時，七日成人便入女群。若男女初作欲意，相携樹下，是曼殊沙樹即便覆蔽，欲事則成；若不覆蔽，便各相離，知是邪婬即不敢犯。四天王處諸女天等，無有惡食、無有胎長，亦不生兒，亦不飲兒。男女天者，或於膝上、或於眠處皆得生兒。若於母膝及母眠處生者，女天作意：『此是我兒。』男天亦言：『此是我兒。』則唯一父一母；若於父膝及父眠處生，唯有一父，而諸妻妾皆得為母。剡浮提人一生欲事無數無量，亦有諸人修清淨行至死無欲。西瞿耶尼其多欲者，一生之中數至十二，其中欲者數或至十，亦有諸人修清淨行至死無欲。東弗婆提其多欲者，一生之中其數至七，其中品者或至五、六，亦有諸人修清淨行至死無欲。欝單越人其多欲者，一生之中數唯至五，其中品者或至三、四，亦有諸人修清淨行至死無欲。四天王天一生欲事無量無數，亦有諸天修清淨行至死無欲；一切欲界諸天亦復如是。凡一切女人以觸為樂，一切男子不淨出時以此為樂。若一切男子以不淨為欲，若諸天欲者以泄氣為樂。

> 閻浮提の人は、もし他者の娘を娶ろうとするならば、女の家が許して初めて迎え入れることができます。妾を買ったり、奴婢を購ったりすることもあります。西瞿耶尼、東弗婆提も同様です。北欝単越の人々は、他者の娘を求めず、妻を迎えず、売買も身請けもしません。もし男が女を娶ろうとする時は、その女をじっと見つめます。もし女が男を慕おうとする時も、じっと見つめる必要があります。もし女が男を見つめていない場合、他の女が「あの人があなたを見ているよ」と告げれば、それで夫婦となります。もし男が女を見つめていない場合、他の男が「あの人があなたを見ているよ」と告げれば、それも夫婦となります。もし互いに見つめ合えば、すぐに一緒について行き、別の場所へと向かいます。 四天王天では、もし天女を求めるならば、女の家が許して初めて迎え入れることができ、購うことも買うこともあります。すべての欲界の諸天も同様です。 閻浮提の中では、男女の根があり、それによって和合します。東弗婆提、西瞿耶尼、北欝単越も皆同様です。四天王天及び忉利天でも、男女の和合は同様です。夜摩諸天は抱き合うことを欲とし、兜率陀天は手を握ることを欲とし、化楽諸天は共に笑うことを欲とし、他化自在天は見つめ合うことを欲とします。 西瞿耶尼の欲楽は、閻浮提の人々の二倍勝れています。さらに、他化自在諸天の欲は、化楽天の二倍勝れています。 閻浮提の女性には、悪食（つわり）をする者、胎児を長く宿す者、初めて出産する者、子に乳を飲ませる者がいます。西瞿耶尼、東弗婆提も同様です。北欝単越の女性には、悪食をする者、胎児を長く宿す者、出産する者がいますが、ただ子に乳を飲ませることはありません。もし男児や女児が生まれたならば、四つ辻に置き、母が指をその口に入れます。もし通行人がそこを通りかかっても、同様に指を子の口に入れます。この指の触れによって、身体は成長します。 欝単越の人々は男女別居し、互いに交わりません。もし男児が生まれたならば、七日で成人し、男の群れに入ります。もし女児が生まれたならば、七日で成人し、女の群れに入ります。もし男女が初めて欲の意思を持つ時、互いに手を携えて樹の下に行きます。その曼殊沙樹が覆い隠せば、欲事は成就します。もし覆い隠さなければ、互いに離れ、それが邪婬であると知って、敢えて犯すことはありません。 四天王天の諸天女たちには、悪食もなく、胎児を長く宿すこともなく、子を産むこともなく、子に乳を飲ませることもありません。男女の天人は、膝の上や寝床で子を生むことができます。もし母の膝や母の寝床で生まれたならば、天女は「これは私の子だ」と思い、男天も「これは私の子だ」と言います。それならば、ただ一父一母です。もし父の膝や父の寝床で生まれたならば、ただ一父であり、諸々の妻妾は皆、母となることができます。 閻浮提の人は、一生の欲事が数え切れないほど無数です。また、清浄行を修め、死ぬまで欲のない人もいます。西瞿耶尼では、欲の多い者は一生のうちに十二回まで、中ほどの者は十回ほど、また清浄行を修め、死ぬまで欲のない人もいます。東弗婆提では、欲の多い者は一生のうちに七回まで、中ほどの者は五、六回ほど、また清浄行を修め、死ぬまで欲のない人もいます。欝単越の人では、欲の多い者は一生のうちにただ五回まで、中ほどの者は三、四回ほど、また清浄行を修め、死ぬまで欲のない人もいます。 四天王天では、一生の欲事が無量無数です。また、清浄行を修め、死ぬまで欲のない天もいます。すべての欲界の諸天も同様です。 およそすべての女性は、触れることを楽しみとします。すべての男性は、不浄が出る時、これを楽しみとします。もしすべての男性が不浄を欲とするならば、諸天の欲は、気を泄らすことを楽しみとします。

「剡浮提人有三因緣，勝欝單越及忉利天。何者為三？一者勇猛、二者憶持、三者此中有梵行住。欝單越人有三因緣，勝剡浮提及忉利天：一者無我所無藏畜，二者壽量決定一千歲，三者後必上昇忉利。諸天有三因緣，勝剡浮提及欝單越：一者壽量長遠、二者形相奇特、三者快樂最多。」是義佛世尊說。如是我聞。

> 閻浮提の人間には、三つの優れた点があり、鬱単越と忉利天を超えています。その三つとは何か。一つは勇猛であること、二つは記憶力が優れていること、三つはここに梵行が存在することです。 鬱単越の人々には三つの優れた点があり、閻浮提と忉利天を超えています。一つは所有欲がなく、蓄えを持たないこと、二つは寿命が定まって千歳であること、三つは後に必ず忉利天に昇ることです。 諸天には三つの優れた点があり、閻浮提と鬱単越を超えています。一つは寿命が長遠であること、二つは姿形が特別であること、三つは楽しみが最も多いことです。 この意味を仏世尊は説かれました。このように私は聞きました。

## 立世阿毘曇論卷第六

> 立世阿毘曇論 第六巻