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title: "大乘莊嚴經論 · 20 梵住品"
description: "大乘莊嚴經論是印度大乘佛教重要論典，由無著菩薩造於公元4至5世紀，唐代高僧波羅頗蜜多羅漢譯。該論系統闡述大乘菩薩道的修行次第，重點論證唯識思想與如來藏理論，詳解菩提心、六度萬行等核心教義。作為瑜伽行派代表作，它融合中觀與唯識學說，奠定大乘佛教理論基礎。本論在漢傳佛教中具有崇高地位，是研究唯識學派與大乘菩薩道的重要文獻，對中國佛教思想發展影響深遠。"
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### 大乘莊嚴經論梵住品第二十

釋曰：菩薩所修四梵住，此云何？偈曰：

> 菩薩が修める四つの梵住とは、いったい何でしょうか。次の偈で説明します。

梵住有四種， 一一有四相，治障與合智， 轉境及成生。

> 梵住には四種があり、それぞれに四つの相があります。 それは煩悩を治め、智慧と和合し、対象を転じ、衆生を成ずることです。

釋曰：梵住者，謂四無量，即慈悲喜捨。此中應知菩薩四無量，一一各有四種相：一治障，由所治斷故；二合智，得無分別智對治勝故；三轉境，由眾生緣、法緣、無緣故；四成生，由作勝業成就眾生故。問：何等眾生為眾生緣？何等法及無緣為法緣及無緣？偈曰：

> 釈す。梵住とは、四つの無量の心、すなわち慈・悲・喜・捨を指します。ここで知るべきは、菩薩の四無量の心は、それぞれ四つの相を持つということです。 第一は、障害を治める相。対治すべき煩悩が断たれるからです。 第二は、智慧と合一する相。無分別智を得て、対治が勝れているからです。 第三は、対象を転ずる相。衆生縁・法縁・無縁という三つの縁によるからです。 第四は、衆生を成す相。すぐれた業を行って衆生を成就させるからです。 問う。どのような衆生が「衆生縁」の対象となるのか。また、どのような法や無縁が「法縁」および「無縁」となるのか。偈に曰く。

樂苦喜煩惱， 如是眾生緣，法緣說彼法， 無緣即彼如。

> 楽も苦も喜びも煩悩も、 それらはすべて衆生の縁によるものです。 法の縁によって説かれるその教え、 縁がなければ、そのままの真如です。

釋曰：四種眾生聚是眾生緣，一求樂眾生聚、二有苦眾生聚、三有喜眾生聚、四煩惱眾生聚。慈者於求樂眾生聚起與樂行，悲者於有苦眾生聚起拔苦行，喜者於有喜眾生聚起不離行，捨者於諸受起煩惱眾生聚起令離行，是名眾生緣。法緣者，即是說彼四種梵住法，說名法緣。無緣者，即是彼如，以無分別故說名無緣。偈曰：

> 釈に言う。四種の衆生の集まりが衆生縁である。第一に楽を求める衆生の集まり、第二に苦を有する衆生の集まり、第三に喜びを有する衆生の集まり、第四に煩悩を有する衆生の集まりである。慈とは、楽を求める衆生の集まりに対して、楽を与える行いを起こすこと。悲とは、苦を有する衆生の集まりに対して、苦を取り除く行いを起こすこと。喜とは、喜びを有する衆生の集まりに対して、その喜びから離れない行いを起こすこと。捨とは、様々な感受によって煩悩を起こす衆生の集まりに対して、それらを離れさせる行いを起こすこと。これを衆生縁と名付ける。 法縁とは、すなわちこの四つの梵住の法を説くことを指し、法縁と名付ける。 無縁とは、すなわちそれらの真如のことで、分別がないがゆえに無縁と説くのである。 偈に曰く。

及彼如義故， 忍位得清淨，身口業所攝， 亦盡諸煩惱。

> そして、その真理に合うがゆえに、忍の位は清らかとなる。 身と言葉と行いもまた、すべての煩悩を尽くす。

釋曰：彼四種行應知。無緣慈者，以如緣故，八地無生法忍時得，一切善根亦得圓滿，彼清淨故。及慈所依身口二業所攝者，諸煩惱亦盡。如煩惱所緣，說意自體諸煩惱斷，斷所緣故。如是修多羅中說。問：彼四梵住何等行差別？偈曰：

> 釈して言う：その四種の行は知るべきである。無縁の慈とは、縁の如きを以てするが故に、八地において無生法忍を得る時に得られ、一切の善根もまた円満を得る。それは清浄なるが故である。また、慈に依る身と口の二業に摂められるものは、諸々の煩悩もまた尽きる。煩悩の縁する如く、意の自たる体たる諸々の煩悩は断たれる。縁を断つが故である。このように修多羅の中で説かれている。 問う：その四つの梵住には、どのような行の差別があるのか？ 偈に曰く：

有動及不動， 亦噉及不噉，應知四梵住， 如是行差別。

> 動くものと動かぬもの、 また食うものと食わぬもの、 四つの梵住の行いの違いを、 このように知るべきである。

釋曰：彼四梵住應知有四種行差別，一者動、二者不動、三者噉、四者不噉。動者退分，可退故。不動者住分及勝分，不可退故。噉者染污，貪著樂味無大心故。不噉者不染污也。此退等行，是梵住差別。諸菩薩住不動及不噉中，不住於動及噉中。問：梵住種差別云何？偈曰：

> 釈します。この四つの梵住には、四種類の行の違いがあると知るべきです。一つは動、二つは不動、三つは噉、四つは不噉です。 動とは退分であり、退く可能性があるからです。 不動とは住分および勝分であり、退くことがないからです。 噉とは染汚であり、楽の味に貪著し、大いなる心がないからです。 不噉とは不染汚です。 この退などの行は、梵住の違いです。 諸菩薩は、不動と不噉の中に住し、動と噉の中には住しません。 問う：梵住の種の違いとはどのようなものですか？ 偈に曰く：

前六及前二， 下地亦下心，相似等為下， 翻下則為上。

> 前の六つと前の二つは、 下の境地もまた下の心、 似たようなものは皆下とされ、 下を反転させれば上となる。

釋曰：下上差別者，彼不定地自性，前六品為下。一切定地前二品亦為下，謂軟軟、軟中。下地亦為下，謂下七地菩薩觀上地故。下心亦為下，謂諸聲聞故。相似亦為下，謂未得無生法忍菩薩故。如所說下，翻此下則為上應知。問：此四梵住能得幾果？偈曰：

> 釈に曰く、上下の差別について述べる。あの不定地の自性においては、前の六品を下とする。また、一切の定地における前の二品（すなわち、軟軟・軟中）も下とする。下地もまた下とし、これは下の七地の菩薩が上の地を観ずるゆえである。下心もまた下とし、これは諸々の声聞であるゆえである。相似もまた下とし、これは未だ無生法忍を得ざる菩薩であるゆえである。このように説かれる「下」に対して、これを翻れば「上」となることを知るべきである。 問う、この四つの梵住は、幾つの果を得ることができるか。 偈に曰く、

所生欲界報， 滿聚亦成生，不離及離障， 具足五為果。

> 生じるものは欲界の報いであり、 満ち集まることもまた生を成す。 離れず、また迷いを離れ、 五つを具えて果てとなる。

釋曰：菩薩住諸梵住為因，具得五果。一者欲界眾生中生，是果報果。二者二聚圓滿，是增上果。三者成熟眾生，是丈夫果。四者一切生處不離梵住，是依果。五者所生之處恒離彼障，是相離果。問：此梵住中有何等事是菩薩相？偈曰：

> 釈に曰く、菩薩が諸々の梵住に安住することを因として、五つの果を得ることができる。 第一に、欲界の衆生の中に生まれること。これは果報の果である。 第二に、福徳と智慧の二つの集まりが円満であること。これは増上の果である。 第三に、衆生を成熟させること。これは丈夫（すぐれた者）の果である。 第四に、一切の生を受ける処において梵住を離れないこと。これは依るべき果である。 第五に、生まれるところにおいて常にその障害を離れていること。これは相離の果である。 問う、この梵住の中には、どのようなことが菩薩の相となるのか。 偈に曰く、

設遇重障緣， 及以自放逸，欲知菩薩相， 梵心無退轉。

> たとえ重い障りに遭い、 あるいは自ら怠けることがあっても、 菩薩の姿を知りたいなら、 清らかな心は退かずと見よ。

釋曰：菩薩有二事梵心不動，應知是為菩薩相。一者設遇重障因緣，心終無異，是菩薩相。二者設自放逸，謂能治不現前時，心亦無異，是菩薩相。況無量現前時。問：梵住障礙云何？偈曰：

> 菩薩には、二つの事柄において清らかな心が揺るがないことがあり、これこそが菩薩の特徴であると知るべきです。一つは、たとえ重大な障害や困難な因縁に遭っても、心に変わりがないこと。これが菩薩の特徴です。二つ目は、たとえ自分が放逸に陥ったとき、つまり正しい対処法が思い浮かばないような時でも、心に変わりがないこと。これも菩薩の特徴です。ましてや、無数の善い条件が揃っている時は言うまでもありません。問い：清らかな心を保つことの障害とは、どのようなものですか？偈に曰く：

四梵有四障， 瞋惱憂欲故，菩薩具此障， 多種過失起。

> 四つの清らかな境地には四つの障りがあります。 それは怒り、煩い、憂い、欲ゆえです。 菩薩もこの障りを抱えれば、 様々な過ちが生じるのです。

釋曰：彼四梵所對治具有四障，如其次第，一瞋、二惱、三憂、四欲。由如此障梵無體故。若有此四，復生多種過失。問：多失云何？偈曰：

> 釈に曰く、それ四つの梵行に対治するものには四つの障りがある。順番にいうと、一つは怒り、二つは苛立ち、三つは憂い、四つは欲望である。これらの障りがあるために、梵行の本質が失われるからである。もしこの四つがあるならば、さらに多くの過ちが生じる。問う、多くの過ちとはどのようなものか。偈に曰く。

如是諸煩惱， 起則有三害，自害亦害彼， 及以尸羅害。

> このような様々な煩悩が起こると、三つの害をもたらします。 自分自身を害し、他者をも害し、 そして戒をも害するのです。

釋曰：此偈顯示三害過失。一自害，謂自苦思作。二他害，謂他苦思作。三尸羅害，謂俱苦思作。偈曰：

> この偈は、三つの害の過失を示しています。 第一に自害、これは自分が苦しみを思って行うこと。 第二に他害、これは他者が苦しみを思って行うこと。 第三に戒害、これは両方が苦しみを思って行うことです。

有悔亦失利， 失護及師捨，治罰并惡名， 如是六呵責。

> 過ちを悔いても利益は失せ、 守護も失い、師に見放され、 罰せられ、悪名を広められる。 これら六つの呵責がある。

釋曰：此偈顯示得六種呵責過失。一者自呵責，由有憂悔故。二者他呵責，由失利養故。三者天呵責，由失擁護故。四者大師呵責，由大師所捨故。五者梵行呵責，由智慧梵行人如法治罰故。六者十方人呵責，惡名流出故。偈曰：

> この偈は、六種類の非難を受ける過ちを示しています。 一つ目は、自らを責めること。憂いと後悔があるからです。 二つ目は、他人から責められること。利養（利益や供養）を失うからです。 三つ目は、天から責められること。守護を失うからです。 四つ目は、大師（仏陀）から責められること。大師に見捨てられるからです。 五つ目は、清らかな修行者から責められること。智慧ある清浄な修行者が正しく罰を与えるからです。 六つ目は、十方の人々から責められること。悪い評判が広まるからです。

後身諸難墮， 梵住今亦退，心數亦苦得， 復此三過生。

> 後の世に様々な難に堕ち、 清らかな境地も今は退き、 心もまた苦しみを得て、 さらにこの三つの過ちが生じる。

釋曰：此偈顯示後得三種過失。一者墮難，由此惡業得後世惡報故。二者退行，由已得退及未得退，退失現在未來梵住故。三者苦生，由心數法從彼生大憂苦故。問：已說過失，何者是功德？偈曰：

> 釈に曰く、この偈は、後に生じる三種の過失を示している。第一は苦難に陥ること。この悪業によって、後世に悪い報いを受けるからである。第二は修行が退転すること。すでに得たものを失い、まだ得ていないものも得られず、現在と未来の清らかな境地を失うからである。第三は苦しみが生じること。心のはたらきがそれによって、大きな憂いと苦しみを生み出すからである。問う、過失についてはすでに説いた。では、功徳とは何か。偈に曰く。

善住梵住人， 遠離彼諸惡，生死不能污， 不捨濟群生。

> 善なる住み、清らかな住みの人よ、 あらゆる悪を遠く離れ、 生と死に染まることなく、 すべての生きとし生けるものを救うことを捨てない。

釋曰：住梵住者得二功德，一者捨煩惱，如前所說過失悉遠離故；二者不捨眾生，為成熟眾生生死不能污故。問：已知功德。此功德云何知最尊最上？偈曰：

> 釈しますと、梵住に住む者は二つの功徳を得ます。一つは煩悩を捨てること。前に述べたような過失がすべて遠ざかるからです。二つ目は衆生を見捨てないこと。衆生を成熟させるため、生死に染まることがないからです。 問い：功徳については分かりました。では、この功徳が最も尊く、最も優れていると、どうして知ることができるのでしょうか。 偈に言います。

如人有一子， 有德生極愛，菩薩於一切， 起梵勝過彼。

> 例えば、ある人が一人の子を持ち、 その子が優れた徳を備えているので深く愛おしむように、 菩薩は一切の衆生に対して、 それよりも勝れた清らかな慈しみの心を起こされるのです。

釋曰：由過此譬則顯示菩薩四種梵住最尊最上。問：大悲以何等眾生為所緣？偈曰：

> 釈に曰く、この譬えを超えることによって、菩薩の四つの梵住が最も尊く最も優れていることが示される。問う、大悲はどのような衆生を対象とするのか？偈に曰く、

熾然及怨勝， 苦逼亦闇覆，住險將大縛， 食毒并失道，復有非道住， 及以瘦澁者，如此十眾生， 大悲心所緣。

> 激しく燃え、また怨みに打ち勝たれ、 苦しみに迫られ、暗闇に覆われ、 危険な場所に住み、大きく縛られ、 毒を食らい、道を見失い、 さらに正しい道に住まず、 そして枯れ渋んでいる者たち。 このような十種の衆生こそ、 大悲の心が向けられる対象なのです。

釋曰：菩薩大悲略以十種眾生為境界。一是熾然眾生，謂樂著欲染者。二是怨勝眾生，謂修善時為魔障礙者。三是苦逼眾生，謂在三塗者。四是闇覆眾生，謂恒行不善者，由不識業報故。五是住險眾生，謂不樂涅槃者，由生死險道不斷絕故。六是大縛眾生，謂外道僻見者，由欲向解脫為種種僻見堅縛所縛故。七是食毒眾生，謂噉定味者，譬如美食雜毒則能害人；善定亦爾，為貪所著則便退失。八是失道眾生，謂增上慢者，由於真實解脫道中而迷謬故。九是非道住眾生，謂於下乘不定者，由有退故。十是瘦澁眾生，謂諸菩薩於二聚未滿者。如此十種眾生，是菩薩大悲所緣境界。已說大悲境界，次說大悲得果。偈曰：

> 菩薩の大いなる慈悲は、十種類の衆生を主な対象としています。 第一は「燃え盛る衆生」です。欲望に深く執着し、それに染まっている人々です。 第二は「怨みに勝たれる衆生」です。善い行いを修めようとする時に、魔の障害を受ける人々です。 第三は「苦に迫られる衆生」です。地獄・餓鬼・畜生の三つの苦しみの世界にいる人々です。 第四は「闇に覆われた衆生」です。常に不善の行いをしている人々で、業とその報いの道理を知らないためです。 第五は「険しい道に住む衆生」です。涅槃を喜ばない人々で、生死という険しい道を断ち切らないためです。 第六は「大きく縛られた衆生」です。外道の偏った見解に囚われた人々で、解脱に向かおうとしても、様々な偏った見解という堅固な縄で縛られているためです。 第七は「毒を食らう衆生」です。禅定の味わいに耽る人々です。譬えるなら、美味しい食べ物に毒が混ざっていれば人を害するように、善い禅定もまた、貪りに執着されれば、たちまち退失してしまうからです。 第八は「道を失った衆生」です。増上慢の人々です。真実の解脱の道において、迷い誤っているためです。 第九は「道ならぬところに住む衆生」です。声聞・縁覚の下乗に留まり、定まっていない人々です。退転する可能性があるためです。 第十は「痩せ渋った衆生」です。福徳と智慧の二つの資糧がまだ満たされていない菩薩たちです。 この十種類の衆生が、菩薩の大いなる慈悲の対象となる境界です。 大悲の境界について述べました。次に、大悲によって得られる果報について説きます。偈に曰く、

障斷及覺因， 與樂亦愛果，自流五依故， 是人去佛近。

> 障りを断ち覚りの因となり、 楽しみと愛される果報をもたらす。 自らの五つのよりどころを清めるゆえ、 その人は仏に近くある。

釋曰：障斷者，是相離果，彼障斷故。覺因者，是增上果，利益眾生故。與樂者，是丈夫果，丈夫所作故。愛果者，是果報果，得可愛報故。自流者，是依果，與未來勝悲故。如是五果皆依大悲所得。當知如此菩薩，去佛菩提則為不遠。已說大悲得果，次說大悲不住。偈曰：

> 釈して言う。障りを断つことは、離れる果であり、その障りが断たれるからである。覚りの因となることは、増上する果であり、衆生を利益するからである。楽しみを与えることは、丈夫の果であり、丈夫がなすところだからである。愛される果は、果報の果であり、愛すべき報いを得るからである。自ら流れ出ることは、依る果であり、未来の優れた悲しみを与えるからである。このように五つの果は、すべて大悲に依って得られる。このような菩薩は、仏の菩提から遠くないと知るべきである。大悲が果を得ることを説き終え、次に大悲がとどまらないことを説く。偈に曰く。

生死苦為體， 及以無我性，不厭亦不惱， 大悲勝覺故。

> 生と死は苦を本質とし、 また無我の性質を持つもの、 それに厭わず、また悩まず、 大いなる慈悲と勝れた覚りのゆえに。

釋曰：一切生死以苦為體、以無我為性，菩薩於苦得如實知、於無我得無上覺，如是得知覺已，由大悲故於生死不生厭離，由勝覺故亦不為煩惱所惱，是故菩薩得不住涅槃亦不住生死。已說大悲不住，次說大悲功德。偈曰：

> 菩薩は次のように説かれました。一切の生死は苦を本質とし、無我をその性質としています。菩薩は苦についてありのままに知り、無我について無上の覚りを得ます。このような知と覚りを得た後、大悲ゆえに生死を厭い離れようとはせず、優れた覚りゆえに煩悩に悩まされることもありません。それゆえ、菩薩は涅槃に安住することもなく、生死に留まることもないのです。大悲による「とどまらない」境地について述べたので、次に大悲の功徳について説きましょう。偈に曰く。

見苦自性時， 知苦生悲苦，亦知捨方便， 恒修不厭生。

> 苦しみの本質を見極めるとき、 苦しみが生み出す悲しみを知り、 また、手放すための方法を知って、 常に倦むことなく実践を続けるのです。

釋曰：菩薩觀世間苦，見其自性時即生悲苦。如彼遠離方便，亦求如實知，知已恒修不厭，是名大悲功德。已說大悲功德，次說大悲差別。偈曰：

> 菩薩は世の苦しみを観じ、その本質を見極める時、悲しみの心が自然に湧き起こる。それは、あたかも遠く離れた場所からでも、真実を知ろうと努め、知った後は飽くことなく実践し続けるようなものだ。これを大悲の功徳という。大悲の功徳について述べたので、次に大悲の違いについて説こう。

自性與數擇， 宿習及障斷，應知菩薩悲， 如此四差別。

> 自性と選択によるもの、 宿習と障礙の断絶によるもの、 菩薩の慈悲はこの四つの違いから あると知るべきである。

釋曰：此大悲隨其次第有四差別。一者自性，成自然故。二者數擇，見功德過失故。三者宿習，由先世久修故。四者障斷，由得離欲斷所治惱障清淨故。復有六種差別。偈曰：

> 釈す。この大悲には、次第に従って四つの違いがある。第一は自性の大悲、自然に備わっているからである。第二は数択の大悲、功徳と過失を見分けるからである。第三は宿習の大悲、前世から長く修めてきたからである。第四は障断の大悲、煩悩を離れ、悩みの障害を断ち清浄を得たからである。さらに六種の違いがある。偈に言う。

非等亦非常， 非深亦非順，非道非不得， 翻六悲如是。

> 等しいものでもなく、常なるものでもなく、 深いものでもなく、順なるものでもなく、 道でもなく、得られないものでもなく、 このように六つの悲しみを転じるのです。

釋曰：翻非大悲六種差別，即是大悲六種差別。一者平等、二者常恒、三者深極、四者隨順、五者淨道、六者不得。平等者，於樂受等眾生所有諸受皆知是苦故。常恒者，乃至無餘涅槃亦無盡故。深極者，入地諸菩薩得自他平等故。隨順者，於一切眾生苦如理拔濟故。淨道者，所對治惱得斷除故。不得者，得無生法忍時諸法不可得故。已說大悲差別，次說大悲如樹。偈曰：

> 釈に曰く、翻って大悲の六種の差別に非ず、即ち是れ大悲の六種の差別なり。一には平等、二には常恒、三には深極、四には随順、五には浄道、六には不得。平等とは、楽受等の衆生の所有する諸の受を皆これ苦と知るが故なり。常恒とは、乃至無余涅槃に至るも亦尽くること無きが故なり。深極とは、地に入る諸の菩薩、自他平等を得るが故なり。随順とは、一切の衆生の苦に於いて、理に随って抜き済ますが故なり。浄道とは、対治すべき悩み断ち除くことを得るが故なり。不得とは、無生法忍を得る時、諸法得る可からざるが故なり。已に大悲の差別を説く、次に大悲の樹の如きを説く。偈に曰く。

悲忍思願生， 成熟次第說，大根至大果， 悲樹六事成。

> 悲しみを耐え忍び、願いを思うことで生まれ、 成熟するに従って説き明かされる。 大きな根から大きな果実へと至り、 慈悲の樹は六つの事柄によって成し遂げられる。

釋曰：此大悲樹應知以六事成就，一者大悲、二者忍辱、三者思惟、四者勝願、五者勝生、六者成熟，此即是根、莖、枝、葉、華、果六位。問：此事云何？答：此樹以大悲為根，以忍辱為莖，以利益眾生思惟為枝，以勝生願為葉，以所得勝生為華，以成熟眾生為果。問：何故六事先後如此？偈曰：

> 釈します。この大悲の樹は、六つの事柄によって成り立っていると知るべきです。第一は大悲、第二は忍辱、第三は思惟、第四は勝願、第五は勝生、第六は成熟です。これらは、根、茎、枝、葉、華、果の六つの部分に相当します。 問い：これはどのようなことですか。 答え：この樹は、大悲を根とし、忍辱を茎とし、衆生を利益する思惟を枝とし、勝れた生まれを願う心を葉とし、得られた勝れた生まれを華とし、衆生を成熟させることを果とします。 問い：なぜ六つの事柄の順序がこのようになっているのですか。 偈に曰く。

無悲則無忍， 如是六次第，勝生若不得， 成熟眾生無。

> 悲しみがなければ忍耐は生まれず、 このように六つの段階を経て、 優れた境地を得られなければ、 衆生を成熟させることはできません。

釋曰：若無大悲則不能起大苦難行忍，若無大苦難行忍則不能起利益眾生思惟，若無利益眾生思惟則不能起勝生願，若無勝生願則不能向勝生處，若不向勝生處則不能成熟眾生。問：前後相似如此，成立相似復云何？偈曰：

> 釈します。もし大いなる慈悲がなければ、大いなる苦難を耐え忍ぶ修行を起こすことができません。もし大いなる苦難を耐え忍ぶ修行がなければ、衆生を利益しようとする思いを起こすことができません。もし衆生を利益しようとする思いがなければ、勝れた生まれを願う心を起こすことができません。もし勝れた生まれを願う心がなければ、勝れた生まれるべき世界に向かうことができません。もし勝れた生まれるべき世界に向かわなければ、衆生を成熟させることはできません。問う。前後の論理はこのように似ていますが、成立の根拠はどうして似ていると言えるのでしょうか。偈に言います。

根生以慈潤， 莖擢以樂廣，念正則增枝， 願續則長葉，內緣成為華， 外緣成為果，當知悲根等， 如是次第成。

> 慈しみの潤いで根を張り、喜びの広がりで茎を伸ばす。 正しい思いが枝を増し、願い続けることで葉は育つ。 内なる縁が花となり、外なる縁が実となる。 悲しみの根もまた同じく、この順に成り立つと知りなさい。

釋曰：此中成立相似者，悲以慈潤能令滋生，由有慈者見他苦已生悲苦故，是故以悲為根。忍以樂想能令抽擢，由菩薩利他苦生樂想，樂想生已能令忍辱得廣大故，是故以忍為莖。思以正念能令增進，由忍廣已能於利他事中起正念故，是故以思為枝。願以相續能令長成，由前滅後生，譬如葉長落故抽新，是故以願為葉。生以內緣成為實，由自身成熟則受生不虛，是故以生為華。成熟者，以外緣成為實，由他身成熟則利益不虛，是故以成熟眾生為果。如是次第成立應知。已說大悲如樹，次讚大悲功德。偈曰：

> ここに示される「似たるもの」の成立について述べよう。 慈悲は慈しみの潤いによって芽生えを促す。慈しみを持つ者が、他者の苦を見て悲しみの苦を生じるからである。ゆえに、慈悲は根とされる。 忍辱は楽の想いによって伸び育つ。菩薩は他を利する苦の中に楽の想いを起こし、その想いが生じたゆえに、忍辱は広大なものとなる。ゆえに、忍辱は茎とされる。 思惟は正しい気づきによって進展する。忍辱が広まった後、他を利する事柄において正しい気づきを起こすからである。ゆえに、思惟は枝とされる。 願いは連続によって成長を遂げる。前のものが滅し、後のものが生ずる様子は、ちょうど葉が落ちて新芽が伸びるがごとし。ゆえに、願いは葉とされる。 生は内なる縁によって実を結ぶ。自らの身が成熟すれば、受ける生も虚しいものではない。ゆえに、生は華とされる。 成熟は外なる縁によって実を結ぶ。他者の身が成熟すれば、与える利益も虚しいものではない。ゆえに、衆生を成熟させることは果とされる。 このような次第で成立することを知るべきである。 大悲が樹のごとくであることはすでに説いた。次に、大悲の功徳を讃えよう。 偈に曰く：

大悲利益作， 誰於他不起？於苦勝樂生， 樂生由悲故。

> 大いなる慈悲の行いは、 誰が他者に対して起こさないことがあるでしょうか？ 苦しみを超えた喜びは、 慈悲によって生まれるからです。

釋曰：此義如偈所說。已讚大悲功德，次說大悲無著。偈曰：

> この意味は、偈に説かれている通りです。大悲の功徳を讃えた後、次に大悲が執着を離れていることを説きます。偈に言います。

菩薩悲自在， 寂靜尚不住，世樂及身命， 此愛云何起？

> 菩薩は自在に慈悲を垂れ、 静寂の中にもとどまらず、 世の楽しみやこの身命さえも、 どうしてこれらへの愛着が起こるでしょう？

釋曰：一切世間皆愛世樂及自身命。一切聲聞緣覺雖不愛世樂及自身命，而於涅槃起住著意。菩薩不爾，大悲自在故，於涅槃尚不住，何況住彼二愛中。已說大悲無著，次說大悲愛勝。偈曰：

> 世の人々は皆、世の楽しみや自分の命を愛しています。一切の声聞や縁覚は、世の楽しみや自分の命を愛することはありませんが、涅槃に対してはそこに留まろうとする心を起こします。菩薩はそうではありません。大悲が自在であるがゆえに、涅槃にさえ留まろうとせず、ましてや二つの愛の中に留まることなどありません。大悲が執着しないことを説き終えました。次に、大悲の愛が勝れていることを説きます。偈に言います。

貪愛非無障， 世悲亦世間，菩薩悲愛起， 障盡亦過世。

> 貪りや執着は確かに心の障りですが、 世の悲しみもまたこの世の常です。 菩薩の慈悲は、そのような愛執から生じるものではなく、 障りが尽きた時、それはこの世を超えた境地となるのです。

釋曰：悲愛最勝自有二義，一者障盡、二者過世。愛親等貪則自體是障，行世間悲體雖非障而是世間。菩薩悲愛自體障盡而復過世，故為最勝。問：云何障盡？偈曰：

> 釈に曰く、悲愛が最も勝れていることには二つの意味がある。一つは煩悩の障りが尽きていること、二つは世間を超えていることである。親しい者などへの愛着は、その自体が煩悩の障りである。世間的な慈悲は、その自体は障りではないが、世間の域を出ない。菩薩の悲愛は、その自体が煩悩の障りを尽くし、かつ世間をも超えている。ゆえに最も勝れているのである。 問う、どうして障りが尽きるのか。偈に曰く。

有苦及無智， 大海及大闇，拔濟以方便， 云何不障盡？

> 苦しみがあり、無知がある。 大海があり、深い闇がある。 それらを、巧みな方法で救い抜く。 どうして、その障りが尽きないことがあろうか。

釋曰：有苦為大海，無智為大闇。能拔濟方便是大悲，此悲愛則障盡。問：云何過世？偈曰：

> 釈に曰く、苦しみがあることは大海のごとく、智慧がないことは大いなる闇である。人々を救い出す手立ては大悲であり、この悲しみの愛は、すべての障りを尽くす。問う、どうして過去世を超えていくのか。偈に曰く、

羅漢及緣覺， 如是悲愛無，何況餘世間， 豈得不過世？

> 羅漢や縁覚でさえ、このような慈悲の心はありません。 ましてや世間の他の人々が、どうして世を超えられないことがありましょうか。

釋曰：阿羅漢辟支佛尚無大悲愛，況餘世間而有可得。若如是者，豈不過世乎？已說大悲愛勝，次說大悲無厭。偈曰：

> 釈しますと、阿羅漢や辟支仏でさえ、大悲の愛はまだ十分ではなく、ましてや世間の他の者たちに、それが得られることがあるでしょうか。もしそうであるなら、それは世間を超えているとは言えないのでは？大悲の愛の優れた点を述べたので、次に大悲の厭うことのなさを説きます。偈に言います。

得悲諸菩薩， 捨苦而起苦，彼初起苦怖， 證時欣樂甚。

> 悲しみを超えた菩薩たちは、 苦しみを捨てて苦しみを起こす。 彼らが初めて苦しみの恐れを起こす時、 悟りの瞬間には喜びが深い。

釋曰：捨苦者，謂諸菩薩以大悲故欲捨他苦。而起苦者，由捨他苦則起自苦。彼初起苦怖者，彼初謂信行地菩薩。彼於起苦中而生怯怖，由自他平等未見故、由苦如實未觸故。證時欣樂甚者，證時謂淨心地菩薩。彼於起苦中生極欣樂，由見自他平等故、由苦如實已觸故。已說大悲無厭，次說大悲苦勝。偈曰：

> 釈に言う。苦を捨つるとは、諸の菩薩が大悲をもって他者の苦を捨てんと欲することをいう。苦を起こすとは、他者の苦を捨てんとすれば、自らの苦が起こることをいう。初めに苦を起こすことを怖れる者は、初めとは信行地の菩薩を指す。彼らは苦を起こすことの中に怯怖を生ずる。自他平等を未だ見ず、苦を如実に未だ触れざるが故である。証する時に欣楽甚だしとは、証する時とは浄心地の菩薩をいう。彼らは苦を起こすことの中に極めて欣楽を生ずる。自他平等を見るが故に、苦を如実にすでに触るるが故である。大悲の厭うことなきを説きおわり、次に大悲の苦に勝ることを説く。偈に曰く。

悲苦最希有， 苦勝一切樂，更樂悲生故， 辦非有況餘。

> 悲しみの苦しみこそ最も稀有であり、その苦しみはあらゆる楽しみにまさる。 楽しみはさらに悲しみを生むゆえに、そのようなものは存在しない。ましてや他のものなどありえない。

釋曰：悲苦最希有者，謂從他苦而生大悲，從大悲而生自苦。如是悲苦有何希有，而得過此故為最希有。苦勝一切樂者，即此悲苦勝於一切世間之樂。問：何故？答：更樂悲生故。此諸菩薩更以悲苦為樂，由此苦從大悲生故。辦非有況餘者，彼樂所作已辦者尚無，況餘世間而得有也。已說大悲苦勝，次說大悲施勝。偈曰：

> 釈に言う。悲しみの苦しみが最も稀有であるとは、他者の苦しみから大いなる悲しみが生じ、その大いなる悲しみから自らの苦しみが生ずることをいう。このような悲しみの苦しみに、いったいどんな稀有さがあって、これを超えるものがあるだろうか。それゆえに最も稀有であるというのである。 苦しみが一切の楽しみに勝るとは、すなわちこの悲しみの苦しみが、すべての世間の楽しみにまさるということである。問う。それはなぜか。答え。さらに悲しみから楽しみが生ずるからである。これらの菩薩たちは、さらに悲しみの苦しみを楽しみとする。この苦しみが大いなる悲しみから生じるゆえである。 「成し遂げられたものさえ無いのに、まして他のものがあろうか」とは、その楽しみによって成し遂げられた者でさえまだ存在しない、ましてや他の世間のものに存在するはずがない、という意味である。 大いなる悲しみの苦しみが勝ることを説き終えた。次に、大いなる悲しみの布施

施與悲共起， 能令菩薩樂，三界中樂受， 比此無一分。

> 施しは慈しみと共に起こり、菩薩に喜びをもたらす。 三界のすべての楽しみも、これに比べれば一分にも及ばない。

釋曰：若布施與大悲俱生，則能起菩薩勝樂。於三界中所作諸樂，欲比大悲施所作樂，無有一分而得相似。已說大悲施勝，次說大悲忍苦。偈曰：

> 釈に曰く、もし布施が大悲と共に生じるならば、それによって菩薩の勝れた喜びが起こる。三界の中で行われるあらゆる楽しみを、大悲の施しが生み出す喜びと比べようとしても、その一分たりとも似たものは得られない。大悲の施しの勝れについて述べたので、次に大悲の忍苦について説こう。偈に曰く、

生死苦自性， 不捨由悲故，起苦利他因， 云何捨不習？

> 生と死の苦しみはそのままに、 　慈悲ゆえに捨てずにいる。 苦しみを起こして他者を利する因、 　どうして修めないでいられようか。

釋曰：一切苦悉入生死苦中。諸菩薩不捨生死，由大悲故。菩薩起苦，是利他因。菩薩不捨生死時，即是不捨一切苦。已說大悲忍苦，次說大悲施果。偈曰：

> 釈します。すべての苦しみは、生死の苦しみの中に含まれます。菩薩たちは生死を捨てず、それは大悲によるものです。菩薩が苦しみを引き受けるのは、他者を利益するための因となります。菩薩が生死を捨てないとき、それはすべての苦しみを捨てないことなのです。大悲による苦しみの忍耐について述べました。次に、大悲による布施の果報について説きます。偈に曰く。

悲施財三果， 悲者恒增長，愛生及攝生， 資生復三樂。

> 慈悲の施しは三つの果実をもたらし、 慈悲深き者は常に成長する。 愛は生まれ、生を育み、 生を支え、さらに三つの喜びとなる。

釋曰：悲施財三果悲者恒增長者，謂菩薩大悲能增長三種果：一者增悲，由修習故能令自體增長。二者增施，由悲自在故能令施得增長。三者增財，由施自在故能令財得增長。愛生及攝生資生復三樂者，從是三果復生三樂：一者從悲為因生愛生樂、二者從施為因生攝生樂、三者從財為因生資生樂。已說大悲增果，次說大悲勸進。偈曰：

> 釈に言う。悲しみは、施しと財の三つの果実を増やす。悲しみとは常に増長するものであり、すなわち菩薩の大悲は三種の果実を増長させることができる。第一に悲しみを増す。修行を積むことによって、自らの心のあり方が増大するからである。第二に施しを増す。悲しみが自在であるがゆえに、施しを行うことが増大するからである。第三に財を増す。施しが自在であるがゆえに、財が増大するからである。愛が生じ、人を引きつけ、生活を支える、さらに三つの楽しみがある。これら三つの果実から、さらに三つの楽しみが生まれる。第一に、悲しみを因として愛が生じる楽しみ。第二に、施しを因として人を引きつける楽しみ。第三に、財を因として生活を支える楽しみ。大悲が果実を増すことを説き終えた。次に、大悲を勧め励ますことを説く。偈に言う。

悲長及施增， 成生亦樂起，牽來復將去， 大悲勸如是。

> 悲しみは長く施しは増し、生まれることもまた楽しみから起こる。 引き寄せられてはまた連れ去られ、大悲はこのように教える。

釋曰：大悲勸進菩薩行六種功德。大悲義言：菩薩！汝修習我令我滋長，汝捨資財令施增進，汝應以施成熟眾生，汝應以施令自樂起，汝若施者招引大菩提二聚及餘令向己來，汝若施者將導二聚及餘令向大菩提去。已說大悲勸進，次說大悲樂勝。偈曰：

> 釈に曰く、大悲は菩薩に六種の功徳を行じるよう勧め励ます。大悲の意味はこう言うのです。菩薩よ、あなたは私（大悲）を修習し、私を成長させなさい。あなたは資財を捨てて布施を増進させなさい。あなたは布施をもって衆生を成熟させるべきです。あなたは布施をもって自らの喜びを起こすべきです。あなたが布施をするならば、大菩提への二つの資糧（福徳と智慧）及びその他の善根を引き寄せ、自らに向かって来させることができます。あなたが布施をするならば、二つの資糧及びその他の善根を導き、大菩提へと向かわせることができるのです。大悲による勧励については以上述べました。次に、大悲による殊勝な喜びについて説きます。偈に曰く。

苦者悲諸苦， 不施云何樂？以令自樂故， 施樂拔他苦。

> 苦しみはあらゆる苦しみを生み出すのです。 施しをしなければ、どうして楽しみが得られましょうか。 自らを楽しませるために、 楽しみを施し、他者の苦しみを取り除くのです。

釋曰：苦者悲諸苦者，諸菩薩以悲起諸苦，是故名苦者。不施云何樂者，菩薩大悲故以他苦為自苦，若不施他樂云何得自樂？以令自樂故施樂拔他苦者，若菩薩施眾生樂、拔眾生苦時，即是菩薩自作樂。已說大悲樂勝，次說大悲教授。偈曰：

> 釈に曰く、苦とは、あらゆる苦しみを悲しむ者をいう。諸菩薩は、悲しみによってあらゆる苦しみを起こすゆえに、これを苦者と名づけるのである。与えないのに、どうして楽者といえようか。菩薩は大悲ゆえに、他者の苦を自らの苦とする。もし他者に楽を与えないならば、どうして自ら楽を得ることができようか。自らを楽ならしめるために、他者の苦を抜き、楽を与える者をいうのである。もし菩薩が衆生に楽を施し、衆生の苦を抜くとき、それはすなわち菩薩が自ら楽を作ることになる。すでに大悲の楽が勝れていることを説き、次に大悲の教えを説く。偈に曰く。

悲者教自施， 施彼勿自求，施報願不受， 有願還以施。

> 悲しみを抱える者に教えを施し、その施しを自ら求めることなかれ。 施しの報いを願って受けず、願いがあるならば、それをまた施すがよい。

釋曰：此偈教行無求施。悲者教自施施彼勿自求者，大悲義言：汝施施他時莫求自樂，他樂若無自樂亦無。何以故？樂不別故。施報願不受有願還以施者，若我施果亦願不受，設有果時還以布施。偈曰：

> この偈は、無求の布施行を教えています。 「悲」とは、自ら布施を行い、他者に施すことを教えています。「自ら求めるなかれ」というのは、大悲の意味を言っているのです。つまり、「あなたが他者に施しをするとき、自分の楽しみを求めてはならない。他者の楽しみがなければ、自分の楽しみもまたないからだ。なぜなら、楽しみは別々のものではないからである」ということです。 「施しの報いを受けようと願わず、もしあるならば、再び施しに用いよ」というのは、もし私の布施に果報があっても、それを受け取ろうと願わず、仮に果報がある時は、再び布施に用いるということです。

施及於施果， 普施於一切，彼樂我樂故， 施彼我無須。

> 施しは施しの果実をもたらし、 すべてのものに広く施す。 彼らの喜びが私の喜びであるゆえに、 彼らに施すことは、私には必要のないこと。

釋曰：此偈教行施果施。謂施及施所得果，普施一切眾生。何以故？悲者以彼樂為自樂故。是故菩薩所有施果，皆應布施一切眾生。大悲作如是教授。偈曰：

> この偈は、布施の実践とその果報について教えています。 つまり、布施そのものと、布施によって得られる果報のすべてを、あらゆる生きとし生けるものに分け与えなさい、ということです。 なぜでしょうか。 慈悲深い者は、他者の喜びを自らの喜びとするからです。 ですから、菩薩が布施によって得たすべての果報は、一切の衆生に施すべきなのです。 大いなる慈悲はこのように教え導きます。 偈にこうあります。

輕財而以施， 來多復來好，不用而自來， 還用展轉施。

> 財産に執着せずに施せば、 多くも良きものも次々と訪れ、 求めずとも自然に手に入り、 それをまた巡らせて施すことができる。

釋曰：此偈教行厭財施。若人厭財而行施者，是人雖不欲財而財自來。極廣極妙道理如此，以大心故。若有如此還用布施，是則資財來而復來，菩薩則施而復施。何以故？非求自樂，欲令施施無窮故。偈曰：

> この偈は、財施に執着せずに行うことを教えています。もし人が財を厭い離れながら施しを行うならば、その人はたとえ財を望まなくても、財は自然と集まってくるのです。これは極めて広大で深遠な道理であり、大きな心がけによるものです。もしこのようにして得た財を再び布施に用いるならば、資財は次々と巡り来て、菩薩は施しを繰り返し行うことができます。なぜなら、自らの楽しみを求めるためではなく、施しが尽きることなく続くことを願うからです。

悲者以大悲， 盡施及常施，應作如是施， 慎勿求施果。

> 悲しみある者には大いなる慈悲をもって、 すべてを施し、常に施しを行いなさい。 このように施すべきであり、 施しの報いを求めてはなりません。

釋曰：此偈教行無間施應知。偈曰：

> この偈は、間断なく布施行を実践すべきことを教えている。偈に次のように説かれている。

若我不樂施， 施果不施時，施無一剎那， 以無施愛故。

> もし私が施しを喜ばなければ、 施しの果報は施す時には得られず、 一瞬たりとも施しは存在せず、 施しへの愛着がないゆえに。

釋曰：此偈教行無厭施應知。偈曰：

> 釈に曰く、この偈は、施しを厭うことなく行うことを教えるものであると知るべし。偈に曰く：

不作不與果， 與果與作者，是汝觀恩過， 與我不相似。

> 作らないのに実を結ぶこともなく、実を結ぶのに作り手があるならば、 あなたの見るその誤りは、私とは似ていない。

釋曰：此偈教行捨恩施。菩薩語施云：若人行汝者，汝方與果，是汝待報恩過失。我則不爾，是汝不與我相似。復次若人行汝者，汝但與此人果，汝則是待報恩者。我則不爾，所行施果與一切眾生，是汝不與我相似。已說大悲教施，次說大悲行施。偈曰：

> この偈は、恩を捨てて施しを行うことを教えるものです。菩薩は施しについてこう言います。「もし人があなた（施し）を行うなら、あなたは初めて果報を与える。これはあなたが報恩を待つという過失である。私はそうではない。これはあなたが私と似ていない点である。」さらに言えば、もし人があなたを行うなら、あなたはただその人に果報を与える。あなたは報恩を待つ者である。私はそうではない。行う施しの果報はすべての衆生に与える。これがあなたが私と似ていない点である。大悲の教えによる施しを説き終え、次に大悲の行いによる施しを説きます。偈に言います。

無障及淨句， 利彼亦自量，無求與無著， 悲者如是施。

> 妨げなく、清らかな言葉で、 他を利し、自らも量り、 求めず、執着せず、 慈しみ深き者はこのように施す。

釋曰：無障者，謂不奪他物行施故。淨句者，以如法財行施，謂不以毒物兵杖酒等施故。利彼者，以施攝他時置於善根故。自量者，不令自眷屬有乏少故。無求者，謂前眾生或無心求或無口求，見彼乏少自然而施，及不簡福田故。無著者，不求報恩及以果報故。偈曰：

> 無障とは、他人のものを奪って布施するのではないということです。 清浄とは、正しい方法で得た財物で布施するのであり、毒物や武器、酒などを施すのではないということです。 他を利するとは、布施をもって他者を導き、善根に置くことです。 自ら量るとは、自分の家族や仲間に不足を生じさせないようにすることです。 求めないとは、相手が心で求めていなくとも、口に出して求めていなくとも、その不足を見て自然と施すことであり、また福田を選り好みしないことです。 執着しないとは、報恩や果報を求めないことです。

盡廣勝常喜， 離著亦清淨，迴向於二處， 菩提及善根。

> 広大で勝れた常の喜びを尽くし、 執着を離れて清らかでありながら、 二つの方向へと心を向けなさい―― 悟りへ、そして善い行いの積み重ねへ。

釋曰：盡者，內外物施故。廣者，多物施故。勝者，妙物施故。常者，恒施故。喜者，離瞋施故。謂乞求者作不饒益時，忍而喜施。離著者，無希望故，如前無著說。清淨者，以如法故，如前淨句說。迴向菩提者，迴向大菩提故。迴向善根者，迴向隨順善根器故。已說大悲行施，次說大悲受用差別。偈曰：

> 釈しますに、「尽」とは、内外の物を施すゆえです。「広」とは、多くの物を施すゆえです。「勝」とは、優れた物を施すゆえです。「常」とは、常に施すゆえです。「喜」とは、怒りを離れて施すゆえです。つまり、乞う者が不利益を与えるような時でも、耐え忍んで喜んで施すことです。「離著」とは、見返りを望まないゆえで、前に説いた「無著」と同じです。「清浄」とは、正しい方法によるゆえで、前に説いた「浄」の句と同じです。「菩提に回向する」とは、大いなるさとりに向けて振り向けるゆえです。「善根に回向する」とは、善根に適う器に向けて振り向けるゆえです。 大悲の行としての施しを説き終えました。次に、大悲による受け取りと用い方の違いを説きます。偈に曰く。

有財而自用， 及用施眾生，得喜施喜勝， 三樂養心故。

> 財産を手にし、自ら用い、 また人々に施すことによって、 自らの喜びと、施す喜び、そしてその優れた功徳、 この三つの楽しみが心を豊かに養うからである。

釋曰：菩薩自受用財生喜，及用財布施眾生生喜，二喜相比施喜為勝。何以故？三樂養心故。三樂者，一布施喜、二攝他喜、三菩提聚滿足喜。已說大悲受用差別，次說大悲增長諸度。偈曰：

> 菩薩が自ら財物を受用して喜びを生じることも、またその財物を布施して衆生に喜びを与えることも、二つの喜びがある。しかし、この二つを比べれば、布施による喜びの方が勝れている。なぜならば、三つの楽しみが心を養うからである。三つの楽しみとは、第一に布施の喜び、第二に他者を摂取する喜び、第三に菩提の集まりが満足する喜びである。 大悲の受用の違いについて述べたので、次に大悲が諸々の波羅蜜を増長することを説く。偈に曰く：

慳惡瞋放逸， 緣著及邪著，如是六蔽者， 悲令六度增。

> けちで意地悪く、怒りやすく怠け者で、 執着に縛られ、間違った考えに囚われる。 これら六つの覆いを取り除けば、 六つの完成へと、慈悲が導いてくれる。

釋曰：慳者，少物不能捨故。惡者，破戒及惱他故。瞋者，於少不饒益起大瞋故。放逸者，於諸善法不勤行故。緣著者，五欲亂心故。邪著者，外道無慧故。如是住六蔽者，大悲憐愍為說過失，令六波羅蜜而得增長。說大悲增長諸度已，此大悲從四緣生亦應顯示。偈曰：

> 釈して言う：慳とは、わずかな物でも捨てられないこと。悪とは、戒を破り他者を悩ますこと。瞋とは、些細な損害に大いに怒ること。放逸とは、あらゆる善い行いに努めないこと。縁著とは、五欲が心を乱すこと。邪著とは、外道が智慧を持たないこと。このように六つの蔽いにとらわれている者に対し、大悲は憐れみをもってその過ちを説き、六波羅蜜を増長させる。大悲が諸々の波羅蜜を増長させることを説いた後、この大悲が四つの縁から生じることも示すべきである。偈に曰く：

苦樂不苦樂， 因力及善友，自體相續流， 大悲四緣義。

> 苦しみも楽しみも苦しみでも楽しみでもないものも、 それらは、縁の力と善き友によって生じます。 自らの心の流れが続く中で、 大いなる慈悲が起こる四つの縁の意味がここにあります。

釋曰：苦樂不苦樂者，顯示緣緣具緣，三受三苦俱起悲故。問：捨受云何苦？答：由行苦故。因力者，顯示因緣。善友者，顯示增上緣。自體相續流者，顯示次第緣。問：大悲如是生已，云何得平等？偈曰：

> 釈に曰く、「苦楽と不苦楽」とは、縁が縁を備え、三つの受（苦・楽・捨）と三つの苦（苦苦・壊苦・行苦）がともに悲を起こすことを示すものである。 問う：捨受はいかにして苦となるのか。 答える：行苦によるゆえである。 「因力」とは、因縁を示す。 「善友」とは、増上縁を示す。 「自体相続流」とは、次第縁を示す。 問う：大悲がこのように生じたならば、いかにして平等を得るのか。 偈に曰く：

行相及思惟， 隨順與離障，不得亦清淨， 六義悲平等。

> 行いと思い、 順らせて障りを離れ、 得ずとも清らかに、 六つの意味は慈しみの平等。

釋曰：大悲平等有六種。一者行相平等，由三受位眾生平等知是苦故。二者思惟平等，由平等憐愍故。三者隨順平等，由平等救濟故。四者離障平等，由平等不惱故。五者不得平等，由自他及悲三輪平等不可得故。六者清淨平等，由八地無生忍時平等得故。問：如是別說大悲已，此四梵住云何修習得令無上？偈曰：

> 釈しますと、大悲の平等には六種類があります。 一、行相平等（ぎょうそうびょうどう）。苦・楽・不苦不楽の三つの感受の状態にあるすべての衆生を、平等に「これは苦である」と知るからです。 二、思惟平等（しゆいびょうどう）。平等に憐れみをかけるからです。 三、随順平等（ずいじゅんびょうどう）。平等に救い助けるからです。 四、離障平等（りしょうびょうどう）。平等に悩ませることがないからです。 五、不得平等（ふとくびょうどう）。自分も他者も、そして慈悲そのものという三つの輪も、平等に実体として捉えられないからです。 六、清浄平等（しょうじょうびょうどう）。菩薩の第八地で無生法忍を得る時、平等に成就するからです。 問い：このように大悲について別に説きましたが、この四つの梵住（慈悲喜捨）は、どのように修習すれば、最高のものとすることができるのでしょうか。 偈に曰く。

慈等令無上， 自意修亦五，信心通方便， 和合如前說。

> 慈しみを最高のものとし、 自らの心も五つに修めよ。 信心と方便を通じさせ、 和合は先に説いたようにせよ。

釋曰：如前供養諸佛、親近善友，皆由五種自意修習得令無上，梵住亦爾。由淨信者，於大乘經說梵住處生淨信故。由深心者，以九種心修梵住故。由神通者，依虛空等定而修習故。由方便者，依無分別智所攝故。由和合者，以一果入一切果故。梵住品究竟。

> 釈に曰く、先に述べたように諸仏を供養し、善き友に親しむことは、いずれも五種の自らの心を修習することによって無上の境地に至らしめる。梵住もまた同じである。清らかな信によってとは、大乗経典に説かれる梵住の境地に対し、清らかな信を起こすからである。深い心によってとは、九種の心をもって梵住を修めるからである。神通によってとは、虚空などに等しい禅定に依って修習するからである。方便によってとは、分別なき智慧に摂せられるからである。和合によってとは、一つの果がすべての果に入るからである。ここに梵住の品は究竟した。

## 大乘莊嚴經論卷第九

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