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title: "神會和尚語錄的第三個敦煌寫本：南陽和尚問答雜徵義（劉澄集） · 本文"
description: "神會和尚語錄第三個敦煌寫本南陽和尚問答雜徵義由唐代僧人劉澄編集近代學者胡適校定該文獻是禪宗南宗創始人神會於開元年間在滑臺大會上與北宗辯論的記錄核心內容闡揚慧能頓悟學說批判北宗漸修思想主張眾生本具佛性頓悟菩提這份敦煌寫本的發現為早期禪宗史特別是南宗爭取正統地位的關鍵歷程提供了原始文獻證據對研究禪宗思想發展與宗派爭議具有極高學術價值是佛教中國化進程中的重要史料"
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### （南陽和尚問答雜徵義）

> （南陽和尚問答雑徴義）

〔1a〕作本法師問本有今無偈

> 〔1a〕この法師が問う——本有今無の偈について

問：「本有今無，本無今有。三世有法，無有是處。」此即「本有今無偈」其義云何？

> 問い：「もともとあったものが今はなく、もともとなかったものが今ある。過去・現在・未来という三つの時間にわたって存在するものには、このようなことはありえない。」<note>これは「本有今無偈」と言われます。</note>この意味はどのようなものなのでしょうか？

答曰：蒙法師問，神會於此亦疑。

> 答え：先生にお尋ねいただき、神会もこの点については疑念を抱いておりました。

又問：疑是沒勿？是沒勿＝是勿＝是物＝是沒＝甚麼？　看下文〔8〕張燕公問一章有「問，喚作是沒勿？」石井本同。胡本作「問，喚作是物？」

> また問う。「疑いとは何か？」

答：自從佛法東流已來，所有大德皆斷煩惱為「本」，所以生疑。

> 質問：仏法が東へ伝わってからこのかた、すべての高僧たちは煩悩を断つことを「根本」としてきました。そのため、疑問が生じたのです。

問：據何道理，〔疑〕煩惱為「本」？胡本作「據何道理，斷煩惱非本？」其底本似亦是「煩惱為本」四字，已經一位通人改過了。我以為不如增「疑」字。

> 問：どのような理由で、煩悩が「根本」とされるのでしょうか？

又答：據涅槃經第九菩薩品，文殊師利言：「純陁心疑如來常住，以得知見佛性力故。若見佛性而為常者，本未見時，應是無常。若本無常，後亦應爾。何以故？世間物本無今有，已有還無，如是等物悉皆無常。」驗此經文，文殊所騰純陁疑者，即疑佛性非常住法，不問煩惱。何故古今大德皆斷煩惱為「本」，所以生疑。

> 涅槃経の第九巻「菩薩品」によれば、文殊師利菩薩がこう述べています。「純陀は心の中で、如来が常住であることを疑っている。それは、仏性を見る力によって知ることができるからである。もし仏性を見ることが常住であるならば、かつて見ていなかった時は無常であるべきだ。もしもと無常であったなら、その後もまた同じく無常であるべきだ。なぜならば、世の中のものは、もと無かったものが今あり、あったものがまた無くなる。このようなものはすべて無常であるからだ。」 この経文を検証すると、文殊菩薩が述べた純陀の疑念とは、仏性が常住の法ではないのではないかという点にあり、煩悩に関する問いではありません。それにもかかわらず、なぜ古今の高僧たちは、すべて煩悩を「本（根本的な原因）」と判断して、疑問を起こしているのでしょうか。

〔1b〕問：「本有今無偈」，其義云何？

> 問い：「もともとあって、今はないという偈」の意味はどのようなものですか？

答曰：據涅槃經義，本有者，本有佛性。今無者，今無佛性。原作「本有者，本無佛性，今無佛性」。石井本同。用胡本校改。

> 答えましょう。『涅槃経』の教えによれば、「本有」とは、本来、仏性を有していることです。「今無」とは、現在、仏性がないことを意味します。

問：既言本有佛性，何故復言今無佛性？

> 問：すでに「本来、仏性がある」と言ったのに、なぜ「今は仏性がない」とも言うのですか？

答：言「今無佛性」者言今二字，此本與胡本與石井本皆互倒，今改正，為被煩惱蓋覆不見，所以言無。「本無今有」者，本無者，本無煩惱；今有者，今日具有。縱使恒沙大刼，煩惱亦是今有。此下，石井本與此本有「故言」二字，依胡本刪。「三世有法，無有是處」者，所謂佛性不繼於三世。三世是過去，未來，現在

> 答：「今、仏性なし」と言うのは<note>「今」「二」の二字は、この本と胡本と石井本でいずれも互いに倒置されているので、今これを訂正する</ref>、煩悩に覆い隠されて見えないからであり、それゆえ「なし」と言うのである。「もともとなく、今ある」とは、もともとないとは、もともと煩悩がないことであり、今あるとは、今日においてあることである。たとえ恒沙の大劫を経ても、煩悩はあくまでも今においてあるのである。<note>この下、石井本とこの本には「故に言う」の二字があるが、胡本に従って削除する</ref>「三世に有る法は、正しいことはない」とは、すなわち仏性は三世に継続しないということである。<note>三世とは、過去・未来・現在である</ref>

問：何故佛性不繼三世？

> 問：なぜ仏性は三世を継がないのでしょうか？

答：佛性體常，故非是生滅法。

> 答：仏性の本質は永遠であり、生滅するものではありません。

問：是勿是生滅法？

> 問：これは生滅の法ですか？

答：三世是生滅法。

> 三世とは、すべて生まれては滅する移り変わりの法則のことです。

問：佛性與煩惱俱不俱？

> 問：仏性と煩悩は、一緒にあるのでしょうか、それとも別々なのでしょうか？

答：俱。雖俱，生滅有來去，佛性無來去，以佛性常故，猶原作由如虛空。明暗有來去，虛空無來去。以是無來去故，三世無有不生滅法。此句三本相同，其實不可通。「無來去故」之「無」字當是誤衍，或當作「有」字。

> 答えます。ともにあります。 ともにありながらも、生じたり滅したりするものには来たり去ったりがありますが、仏性には来たり去ったりがありません。なぜなら、仏性は常であり、あたかも虚空のようだからです。明るさと暗さには来たり去ったりがありますが、虚空には来たり去ったりがありません。このように来たり去ったりがないからこそ、三世には不生不滅の法がないのです。

問：佛性與煩惱既俱，何故獨斷煩惱非本？

> 問う：仏性と煩悩が共にあるのなら、なぜ煩悩だけを本来のものではないと断じるのですか？

答：譬如金之與鑛俱時而生，得遇金師，鑪冶烹鍊，金之與鑛當各自別。金則百鍊百精。鑛若再鍊，變成灰土。涅槃經云，金者喻於法性胡本與石井本皆作「佛性」，鑛者喻於煩惱。諸大乘經論具明煩惱為客塵，所以不得稱之為本。若以煩惱為本，煩惱為是暗，如何得明？涅槃經云，只言以明破暗，不言以暗得明。若暗破〔明〕，即應經論自共傳，經論既無，此法從何而立？若以煩惱為本，若將煩惱為本胡本無此六字。石井本有，不應斷煩惱而求涅槃。

> 例えば、金と鉱石は同時に生まれますが、熟練の金細工師に出会い、炉で熱し鍛え精錬すると、金と鉱石はそれぞれ別のものになります。金は何度鍛えてもますます精錬されますが、鉱石を再び鍛えると灰土になってしまいます。「涅槃経」には、金は「法性」（胡本と石井本では「仏性」）に例えられ、鉱石は煩悩に例えられると説かれています。様々な大乗経論では、煩悩は客塵（外から来る汚れ）であると明確に述べており、これを「本」と呼ぶことはできません。もし煩悩を「本」とするなら、煩悩は闇であり、どうやって明るさを得られるでしょうか？「涅槃経」には、「明るさによって闇を破ると説き、闇によって明るさを得るとは説かない」とあります。もし闇が明るさを破るなら、その理屈は経論に共通して伝わるはずです。しかし経論にはそんな記述はなく、このような法（教え）はどこから成立したのでしょうか？もし煩悩を「本」とするなら、もし煩悩を「本」とするなら（胡本にはこの六字はなく、石井本にはある）、煩悩を断って涅槃を求めるべきではないことになります。

問：何故經云「不斷煩惱而入涅槃」？

> 問い：なぜ経典には「煩悩を断たずに涅槃に入る」と説かれているのですか？

〔答〕：計煩惱性本自無斷。石井本此八字屬於問話，此下始有「答」字，而無「若」字。倫敦此本此八字也連屬問話，此下有墨塗去的一個字，似「若」，也似艸頭的「答」字。胡本此八字作「若煩惱本自無斷」七字，而下文明有「若」字，故胡適校改上「若」字為「答」字。今參校三本，我決定校增「答」字，而以此八字屬答話。若指煩惱性即是涅槃，不應勸眾生具修六波羅蜜，斷一切惡，修一切善。以煩惱為本，即是〔棄〕本逐末。原無「棄」字，作「涅」字，又點去。石井本也脫一字，鈴木校補「棄」字。胡本此句作「若以煩惱為本，不應棄本逐末」，此是通人臆改的了。涅槃經云：「一切眾生本來涅槃，無漏智性本自具足。譬如木性火性俱時而生，值燧人鑽搖，火之與木當時各自」。經云木者，喻若煩惱；火者，喻如佛性。涅槃經云，〔以智火燒煩惱薪。經云智慧即佛性。〕原脫此十四字。石井本亦脫。依胡本校補。火上似應有慧字。具有此文，明知煩惱非本。

> 問う：煩悩の本性は元来断たれるものではない。<note>［校訂注］石井本ではこの八字は問いに属し、ここから初めて「答」の字があり、「若」の字はない。ロンドン本ではこの八字も問いに続き、その下に墨で塗り消された一字があり、「若」に似ているか、草冠の「答」の字のようでもある。胡本ではこの八字が「若煩悩本自無斷」の七字となり、下文に明らかに「若」の字があるため、胡適は上の「若」の字を「答」の字に校訂した。今、三本を比較検討し、私は「答」の字を校増し、この八字を答えの言葉とすることに決定した。</note>もし煩悩の本性がすなわち涅槃であるならば、衆生にあらゆる六波羅蜜を修行し、一切の悪を断ち、一切の善を修めるよう勧めるべきではない。煩悩を根本とするならば、それは〔根本を捨てて〕末節を追い求めることになる。<note>［校訂注］もと「棄」の字はなく、「涅」の字があり、さらに点で消してある。石井本も一字脱落し、鈴木が校訂して「棄」の字を補った。胡本ではこの句を「若以煩悩為本、不應棄本逐末」と作るが、これは通人の憶測による改定であろう。</note>涅槃経にいう。「一切の衆生は本来涅槃であり、無漏の智性は本来自ら具足している。たとえば木の性と火の性が同時に生じ、火打ち石を掘り動かす者に値えば、火と木はそれぞれその時に自らのものとなる」。経にいう木は、煩悩に譬えられる。火は、仏性に譬えられる。涅槃経にいう。〔智をもって煩悩の薪を焼く。経にいう智慧すなわち仏性と。〕<note>［校訂注］もとこの十四字が欠けている。石井本も欠けている。胡本に基づき校補する。「火」の上には「慧」の字があるべきと思われる。</note>この文が明確に存在し、煩悩が根本ではないことを知るのである。

問曰：何故涅槃經云，——第十五梵行品說，——「本有者，本有煩惱。今無者，今無大般涅槃。本無者，本無摩訶般若。今有者，今有煩惱」？

> 質問：なぜ『涅槃経』――第十五梵行品に――こう説かれているのですか？ 「昔からあるものは、昔からある煩悩。今ないものは、今ない大般涅槃。昔からなかったものは、昔からなかった摩訶般若。今あるものは、今ある煩悩」と。

答：為對五蔭色身故，所以說煩惱為本。又經云：「佛言，善男子，為化度眾生故而作是說，亦為聲聞辟支佛而作是說。」又第卅六憍陳如品，梵志問佛：身與煩惱何者於先？佛言：身在先亦不可，煩惱在先亦不可。要於煩惱然始有身。驗此經文，故知煩惱與身為本，非謂對佛性也。又經云：「有佛性故，得稱為常。以常故，得稱為本。」非是本無今有。第十五卷云：「佛性者，無得無生。何以故？非色非不色，不長不短，不高不下，不生不滅故。以不生滅故，得稱為常。以常故，得稱為本」。第十九卷云：「如暗室中有七寶，人亦知有此本與石井本此四字作『人亦不知所』，依經文改正，為暗故不見。有智之人然大明燈，持往照燎，悉得見之。是人見此七寶，終〔不〕言今有。此本與石井本皆無『不』字，胡本有。法性亦非今始有，以煩惱暗故不見，謂言本無今有。亦如盲人不見日月，得值良醫療之即便得見，謂言日月本無今有！以盲故不見，日月本自有之。」第廿五卷云：「一切眾生未來之世定得阿耨〔多羅三藐三〕菩提，是名佛性。一切眾生現在具有煩惱諸結，是故不見，謂言本無。」又第十九卷云：「有佛無佛，性相常住。以諸眾生煩惱覆故，不見涅槃，便謂為無。當知涅槃是常住法，非本無今有。」佛性者，非蔭界入，非本無今有，非已有還無。從眾善緣，眾生得見佛性。以得見佛性故，當知本自有之。

> 答えます。それは五蘊の色身（物質的な身体）に対応するために、煩悩を根本として説いたのです。また経典にはこうあります。「仏は言われた。『善男子よ、衆生を教化し救済するためにこのように説き、また声聞や辟支仏（縁覚）のためにこのように説くのである。』」さらに第三十六巻の「憍陳如品」では、ある梵志（修行者）が仏に問いました。「身体と煩悩は、どちらが先に存在するのでしょうか？」仏は答えられました。「身体が先というのも正しくなく、煩悩が先というのも正しくない。煩悩があって初めて身体が存在するのである。」この経文を検証すれば、煩悩が身体の根本であって、仏性に対する根本ではないことが分かります。 また経典にはこうあります。「仏性があるからこそ『常（永遠）』と称せられる。常であるからこそ『本（根本）』と称せられるのであり、本来なかったものが今になって現れたのではない。」第十五巻にはこうあります。「仏性とは、得ることもなく、生じることもない。なぜか。それは色（物質）でもなく、非色でもなく、長くも短くもなく、高くも低くもなく、生じることも滅することもないからである。生じも滅もしないから、常と称せられる。常であるから、本と称せられる。」第十九巻にはこうあります。「暗い部屋の中に七宝（七種の宝物）があるが、人はその存在を知っていても（※注：この本と石井本ではこの四字が『人もまた知らず』となっているが、経文に従い訂正した）、暗闇のためにはっきり見ることができない。智慧ある人は大きな明るい灯りをともし、それを掲げて照らし、すべてをはっきりと見る。この人はこの七宝を見て、『今、存在するようになった』とは決して言わない（※注：この本と石井本には『不（ず）』の字がないが、サンスクリット本にはある。）。法性（ものごとの真理）もまた、今になって初めて存在するようになったのではない。煩悩の闇に覆われて見えないため、『本来なくて今ある』と言うのである。また、目の見えない人が太陽や月を見られず、良い医者に出会って治療を受け、すぐに見えるようになった時、『太陽や月は本来なくて今ある』と言うようなものである！目が見えなかったために見られなかったのであって、太陽や月は元々存在しているのである。」第二十五巻にはこうあります。「すべての衆生は、未来の世において必ず無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）を得る。これを仏性と名づける。すべての衆生は現在において煩悩の結びつきを備えているため、仏性を見ることができず、『本来ないものだ』と言うのである。」また第十九巻にはこうあります。「仏が存在しようとしまいと、仏性の性質や姿は常住（永遠に変わらず存在する）である。しかし諸々の衆生が煩悩に覆われているため、涅槃（悟りの境地）を見ることができず、『存在しない』と言うのである。知るべきである。涅槃は常住の法であって、本来なくて今あるものではない、と。」仏性とは、五蘊（色・受・想・行・識）や十八界（六根・六境・六識）や十二入（六根・六境）ではなく、本来なくて今あるものでもなく、すでにあったものが無くなるものでもない。様々な善い縁（条件）によって、衆生は仏性を見ることができる。仏性を見ることができるからこそ、本来それが自らに備わっているものであると知るべきなのである。

問：既言本自有之，何不自見，要藉因緣？

> 問：すでに本来持っていると言うなら、なぜ自分で見えず、わざわざ条件や縁に頼る必要があるのですか？

答：猶如地下有水，若不施功掘鑿，終不能得。亦如摩尼之寶，若不磨治，終不明淨。以不明淨故，謂言非寶。涅槃經云，一切眾生不因諸佛菩薩善知識指授，終不能得。若自見者，無有是處。以不見故，謂言本無佛性。佛性者，非本無今有也。

> 答え：たとえば、地中に水があるように、努力して掘り出さなければ、ついに得ることはできない。また摩尼の宝珠も、磨き上げなければ、ついに明らかに清らかにならない。明らかに清らかでないために、これを宝ではないと言うのである。『涅槃経』に説かれている。一切の衆生は、諸仏・菩薩・善知識の指し示しがなければ、ついに得ることはできない。もし自ら見ようとしても、そのようなことはあり得ない。見えないために、もともと仏性がないと言うのである。しかし、仏性は、もともと無かったものが今になって有るというものではない。

2.真法師問：云何是常義？

答：無常是常義。

> 答え：無常こそが常という意味である。

問：今問常義，何故答無常是常義？

> 問：では、なぜ普段の意味を「常」と問うたとき、「無常こそが常の意味である」と答えるのですか。

答：因有無常，而始說常。若無無常，亦無常義。以是義故，得稱為常。譬如長因短生，短因長立。若其無長，短亦不立。事既〔同〕故，義亦何殊？此本與石井本皆作「事既故」，胡本作「事相因故」，今校增「同」字，似勝於「因」字。又法性體不可得，是常義。又虛空亦是常義。

> 答えよう、無常があるからこそ「常」を説くのである。もし無常がなければ、無常という意味も存在しない。この道理により、「常」と呼ぶことができる。例えば、長さは短さがあるから生じ、短さは長さがあるから成立する。もし長さがなければ、短さも成立しない。事柄がすでに同じであるならば、その意味に何の違いがあろうか。 <note>この本と石井本はともに「事既」とあるが、胡本は「事相因」とする。今回、「同」の字を補って校訂した。「因」の字より優れていると思われる。</note> また、法性の体は得ることができないこと、これが常の意味である。また、虚空もまた常の意味である。

〔問：何故虛空是常義？〕此本與石井本均脫此八字，依胡本補。

> 問：なぜ虚空が「常」の意味なのですか？

答：虛空無大小，亦無中邊，是故稱為常義。虛空下，此本與石井本皆有「以」字，胡本無。謂法性體不可得，是〔不〕有。能見不可得體，湛然常寂，〔是不無〕，是為常義。若準有無而論，則如是。若約法性體中，〔於無〕亦不無，於有〔亦不有〕，恒沙功德本自其足：此是常義。以上所補的脫文，皆依胡本補。石井本脫文與此本同。又不大不小是常義，謂虛空無大，不可言其大；虛空無小，不可言其小。今言大者，小家之大；今言其小者，乃是大家之小。此於未了人，則以常無常而論。若約法性理三本皆作理，似當作體，亦無常，亦無無常。以無無常故，得稱為常。

> 答えよう。虚空に大小はなく、また中心も辺際もない。故に「常」の義と名づけられる。<note>「虚空」の下、この本と石井本には共に「以」の字があるが、胡本にはない。</note>法性の体は捉えがたく、それは「有」ではない。「捉えがたい体」を「見る」ことができるという、その湛然として常に静かな様相は、「無」ではない。これが「常」の義である。もし「有」と「無」の立場で論じるなら、このようになる。もし法性の体そのものに即して言えば、「無」においてもまた「無」ではなく、「有」においてもまた「有」ではない。恒沙の功徳が元より自ら備わっている——これが「常」の義である。<note>上記で補った欠文は、すべて胡本に基づいて補った。石井本の欠文はこの本と同じである。</note>また、「大」でもなく「小」でもないことが「常」の義である。すなわち、虚空に「大」はないから、それを「大」と言うことはできない。虚空に「小」はないから、それを「小」と言うことはできない。今「大」と言うのは、「小」という立場からの「大」である。今「小」と言うのは、「大」という立場からの「小」である。これは、まだ悟っていない人に対しては、「常」と「無常」という概念で論じられる。もし法性の理<note>三本とも「理」とあるが、「体」とあるべきだろう</note>に即して言えば、「常」でもなく、「無常」でもない。「無常」ではないという点から、「常」と名づけることができるのである。

3.戶部尚書王趙公以偈問三車義：

> 3\. 戸部尚書の王趙公が偈（げ）で三車の意味を問うた。

宅中無三車。露地唯得一。不知何所用，而說此三車？

> 家の中には三台の車はなく、露地にただ一台があるのみ。 何のために使うとも知らず、三台の車の話をしているのか。

答曰：

> お答えしますと、

三車在門外，說即在宅中。諸子聞說時，已得三車訖。

> 三台の車は門の外にあり、その話は家の中でなされます。 子らがその話を聞いたとき、すでに三台の車を得たのです。

又問：

> また、次のように問われました。

今者在門外，先是乘車出。宅中既得車，出外何須索？

> 今、門の外にいるのに、最初に車に乗って出かけていた。 家の中ですでに車を得ていたのに、外に出てからなぜそれを求めるのか？

答：

> お答えします。

諸子雖得訖，不知車是車。既不自證知，所以門外索。

> 子どもたちは、たとえ（火宅を）出終えても、その乗り物が本来の乗り物であることを理解していなかった。 自ら悟ることができなかったため、門の外で探し求めたのである。

問：何處有人得道果，豈不自知乎？

> 問：どこかで人が道の果て（悟りの結果）を得たとしても、自分自身では気づかないものなのでしょうか？

答：下文自證，所得功德仍不自覺知。

> 答え：以下の文が自ら証明しているように、得た功徳についてまだ自覚がありません。

問：

> お尋ねします。

諸子不自知，容可門外索。父應知子得，何須更與車？

> 子どもたちは自覚がなく、門の外で求めても仕方ない。 父は子がすでに得たものだと知っているはず、なぜさらに車を与える必要があろうか。

答：

> お答えします。

諸子不自知，所以門外索。長者今與車，還是先與者。

> 子供たちは気づかず、外で探し求めていた。 長者が今、車を与えたのは、やはり最初に約束した通りだ。

問：

> お尋ねします。

三車本無實，所說乃權宜。與者是舊車，那應得假物？

> 三つの車は、本来実体のないものであり、説かれたのは方便にすぎない。 与えられたのはもとの車であり、どうして偽りのものがあるだろうか。

答：

> お答えします。

長者意在一，方便權說三。前者說三車，三車本是一。

> 長者の心はただ一つ、 ただ方便として、仮に三つの教えを説いたのです。 先に、三台の車を説きましたが、 三台の車はもともと一つのものだったのです。

問：

> お尋ねします。

一車能作三，三車能作一。何不元說一，辛苦說三車？

> 一台の車が三台の車となり、三台の車が一台の車となる。 なぜ初めから一台と言わず、わざわざ苦労して三台の車と言ったのか？

答：

> お答えします。

若為迷人說，三便作三車。若約悟人解，即三便是一。

> 迷っている人に説明するなら、三つの乗り物（三車）として教える。 しかし、悟っている人が理解するなら、三つは即ち一つである。

4.崔齊公問：禪師坐禪，一定以後，得幾時出定？

> 4\. 崔斉公が問うた：「禅師が坐禅をして、ひとたび定に入ったならば、いつになったら出定なさるのですか？」

答曰：神無方所，有何定乎？

> 答えよう：心や魂（神）には特定の居場所などない。どこに定まると言えようか。

又問：既言無定，何名用心？

> また問う。「すでに定まったものはないと言うなら、何をもって『心を用いる』というのか。」

答曰：我今定尚不立，誰道用心？

> 答えよう。私は「いまや定（瞑想）さえも立てていない。いったい誰が心を用いると言うのか？」

問：心定俱無，若為得道？若為＝那麼？柳宗元詩：「若為化得身千億，散上峰頭望故鄉？」

> 問：心が定まり、ともに無くなったならば、どうやって道を得るのでしょうか？

答曰：道只沒道，亦無若為道？只沒＝這麼

> 答え：道はただ道というものがない。また、どうやって道とすることもない。

問：既無「若為道」，何處得「只沒道」？

> 問う：もし「道をいかに為すか」というものが無いのなら、どこから「ただこれ道なり」というものが得られるのでしょうか？

答：今言「只沒道」，為有「若為道」。若言無「若為」，「只沒」亦不存。

> 答：いま「ただこれ道だ」というのは、「いかにあるか（あり方）」があるからです。「あり方」がないなら、「ただそれだけ」も成り立ちません。

5.廬山〔簡〕法師問：何者是中道義？石井本也脫「簡」字，依胡本補。

> 5\. 廬山の〔簡〕法師が問うた。「中道の意味とは、いったいどのようなものでしょうか？」

答曰：邊義即是。

> 答え：辺という意味そのものです。

問：今問中道義，何故答邊義是？

> 質問：今、中道の意味を問うているのに、なぜ「辺（極端な見解）」の意味を答えとしているのですか？

答曰：今言中道者，要因邊義立。若其不立邊，中道亦不立。

> 答えよう。ここで「中道」と言うのは、必ず「辺（極端な考え）」の意味に基づいて立てられるものである。もし「辺」が立てられなければ、「中道」もまた立てられない。

6.禮部侍郎蘇晉問：何者是大乘？何者是最上乘？

> 6\. 礼部侍郎の蘇晋が尋ねました。「何が大乗であり、何が最上乗なのでしょうか？」

答：菩薩即大乘。佛即最上乘。

> 菩薩とは大乗のことです。仏とは最上乗のことです。

問曰：大乘最上乘有何差別？

> 問うていわく、大乗と最上乗に、どのような違いがあるのでしょうか？

答曰：言大乘者，如菩薩行「檀波羅密」，觀三事體空，乃至六波羅蜜亦復如是六，胡本作五，石井本作六，故名大乘。最上乘者，但見本自性空寂，即知三事本來自性空，更不復起觀。乃至六度亦然。六度即六波羅蜜，此本與石井本作亦度，胡本作六塵。是名最上乘。

> 答え：大乗とは、例えば菩薩が「檀波羅蜜（布施の完成）」を修行する際、施す者・施す行為・施す対象の三つの要素がすべて本質的に空であると観察することをいいます。六波羅蜜の実践もすべてこれと同じです。それゆえに大乗と名付けられます。 最上乗とは、ただ自己の本来的な本性が空であり寂静であると悟るだけで、施す者・施す行為・施す対象の三要素が本来、自性において空であると知り、改めて観想を起こす必要がありません。六波羅蜜の修行もまた同様です。これを最上乗と名付けます。

又問：假緣起否？

> 問う：縁起というのは仮のものなのでしょうか？

答曰：此中不立緣起。

> 答え：ここでは縁起を立てておりません。

問：若無緣起，云何得知？

> 問う：もし縁起が存在しないなら、どうやって知ることができるのか？

答：本空寂體上自有般若智能知，不假緣起。若立緣起，即有次第。

> 答え：本来の空寂の体には、自然と般若の智慧が備わっており、縁起に頼ることなく知ることができる。もし縁起を立てれば、そこに順序や段階が生じる。

〔問：然則更不假修一切行耶？〕

> 問：それならば、一切の修行は必要ないのでしょうか？

〔答：若得如此見者，萬行俱備。〕胡本有此問答。此本與石井本俱脫。

> 答え：もしこのような見解を得たなら、あらゆる修行は完全に備わる。

又問：見此性人，若起無明，成業結否？

> さらに問う。「この本性を見た人が、もし無明を起こしたならば、業の結びつきを成すのでしょうか？」

答：雖有無明，不成業結。

> 答え：たとえ無明があっても、業の結びつきとはならない。

問：何得不成？

> 問う：どうして成就しないのでしょうか？

答：但見本性體不可得，即業結本自不生。

> 答え：自らの本性という本質的な実体は捉えがたく、それを悟れば、業の束縛も元より生じていないことに気づくのです。

7.潤州刺史李峻胡本無此六字，故此章誤連上章為一章。此本與石井本有六字曰：見有一山僧禮拜嵩山安禪師，師言「趁粥道人！」又一授記寺僧禮拜安禪師，師言「惜粥道人！」此本與石井本皆作「措粥道人」，今從胡本。問：此二若為？

> 7\. 潤州刺史の李峻が言いました。「ある山寺の僧が嵩山の安禅師に礼拝しに行きました。禅師は『粥を食い荒らす修行者め！』と言いました。また、ある授記寺の僧が安禅師に礼拝しました。禅師は『粥を惜しむ修行者め！』と言いました。」 質問：「この二人の僧について、どうお考えですか？」

答：此二俱遣。

> この二つは、両方とも捨て去るのです。

問：作沒生遣？

> 問：どのようにして生まれをなくし、捨て去るのですか？（※原文「作沒生遣」の意味をわかりやすく訳しました）

答：但離即遣。

> 答え：ただ離れること、それだけを捨てなさい。

問：作沒生離？

> 問う、生死をどう離れるのか。

答：我今只沒離，無作沒生離。

> 答え：私は今、ただ離れることなく、作為なく、生まれることなく離れている。

問：為復心離？為是眼離？

> 問：心が離れるのか、それとも目が離れるのか。

答：今只沒離，亦無心眼離。

> 答え：今、ただ離れているだけであり、心や眼が離れることもない。

問：心眼俱不見，應是盲人？

> 問う：心の眼も肉眼も共に見えないなら、それは盲人ということになるのではないでしょうか？

答：自是盲者唱盲。他家見者自不盲。經云，是盲者過，非日月過。

> 答え：このように、盲人が「見えない」と叫ぶのは、盲人自身の過ちである。他の見える人々は決して見えないわけではない。経典に言う、「これは盲人の過ちであって、日月の過ちではない」と。

8.張燕公問：禪師日常說無念法，勸人修學，未審無念法有無？

> 8\. 張燕公が尋ねました。「禅師は日ごろ『無念の法』を説き、人々にその修学を勧めておられますが、この無念の法には有るのか無いのか、いったいどのようなものなのでしょうか？」

答曰：無念法不言有，不言無。

> 答え： 無念の教えは「有る」とも言わず、「無い」とも言いません。

問：何故無念不言有無？

> 問：なぜ「無念」について「有る」「無い」と言わないのですか？

答：若言其有者，即不同世有。若言其無者，即不同世無。是以無念不同有無。石井本同。胡本作「言其有者，即同世有；言其無者，即同世無。是以無念不同有無。」此可見胡本的底本是曾經一位通人改削過的本子，改「不同」為「同」，意義似勝。

> 答：「それがある」と言っても、世間で言う「ある」とは同じではない。「それがない」と言っても、世間で言う「ない」とは同じではない。だからこそ、無念は「ある」と「ない」のいずれとも同じではないのである。 <note>石井本は同じ。胡本には「『それがある』と言えば、それは世間で言う『ある』と同じであり、『それがない』と言えば、それは世間で言う『ない』と同じである。だからこそ、無念は『ある』と『ない』のいずれとも同じではない。」とある。これを見ると、胡本の底本は、かつてある博識の人が改訂した版本であり、「同じではない」を「同じ」に改めた点で、意味がより優れているように思われる。</note>

問：喚作是沒勿？胡本作「喚作是物？」

> 問：それは何と呼ぶのか？ <注記>胡本には「それは何と呼ぶのか？」とある。

答：不喚作〔是〕勿。胡本作「不喚作是物」。

> 答え：それを「これ」とか「もの」と呼んではいけません。<note>胡本では「それを『もの』とは呼ばない」とある。</note>

問：作勿生是？此本與石井本作「異沒時作物生？」今用胡本。

> 問：作らなくても生じるでしょうか？

答：亦不作勿生。此本與石井本作「亦不作一物」。今用胡本。作勿生＝怎麼生？是以無念不可說。今言說者，為對問故。若不對問，終無言說。譬如明鏡，若不對像，鏡中終不現像。今言現像者，為對物故，所以現像。

> 答：何も作らず、生じさせることもありません。<note>このテキストは石井本では「亦不作一物」とされています。ここでは胡本を用います。「作勿生」とは「どうやって生じさせるのか」という意味です。</note>それゆえ、無念は説くことができません。今、言葉で説くのは、問いに答えるためです。もし問いがなければ、結局言葉で説くことはありません。例えば、明るい鏡は、対象がなければ鏡の中に像を現すことはありません。今、像を現すと言うのは、物に対応するためであり、そのために像が現れるのです。

問：若不對像，照不照？此七字，胡本作「不對像照」四字，疑原作「不對像照不？」。

> 問：もし対象（像）がなければ、照らすのか、照らさないのか？

答：今言照者，不言對與不對，俱常照。

> 答えよう。「照」という言葉は、対（比較）があるとかないとかを問題にせず、常に照らし続けることを指す。

問：既無形像，復無言說，一切有無皆不可立，今言照者，復是何照？

> 問い：すでに形もなく、言葉もなく、すべての「有」や「無」も立てることができないとすれば、今言う「照らす」とは、いったい何の照らしなのでしょうか？

答：今言照者，以鏡明故，有自性照；以眾生心淨故，自然有大智慧光照無餘世界。「有自性照」，胡本作「有此性」。「以眾生心淨故」，此本與石井本皆作「以若以眾生心淨」，胡本不誤。今參酌三本，校正可讀。

> 答：今、「照」と言うのは、鏡が明らかであるからこそ、自ずから照らす性質があるのです。同じように、衆生の心が清らかになるからこそ、自然と大いなる智慧の光が、余すところなく世界中を照らすのです。

問：既如此，作沒生時得？

> 問：このようであれば、どのようにして修行すれば達成できるのですか？

答：但見無。

> 答え：ただ「無」だけが見える。

問：既無，見是物？是物＝甚麼？

> 問：もし何も存在しないのなら、その「何もない」ということを見るのは、いったい何なのでしょうか？<note>「是物」とは「何か」という意味。</note>

答：雖見，不喚作是物？

> 見えているけれども、それを「物」とは呼ばない。

問：既不喚作是物，何名為見？

> 問う：「それを『物』と呼ばないのなら、何をもって『見る』というのですか？」

答：見無物即是真見常見。

> 答え：何ものも存在しないと見ることが、真の見方であり、永遠の見方である。

9.和上即神會和尚問遠法師即「菩提達摩南宗定是非論」裏面唱配角的崇遠法師言：「曾講大般涅槃經不？」

> 9\. 和上（神会和尚）が遠法師（『菩提達摩南宗定是非論』の中で助演の役を務めた崇遠法師）に尋ねました。「あなたはかつて『大般涅槃経』を講じたことがありますか？」

遠法師言：講大般涅槃經數十遍。

> 遠法師が言った、「大般涅槃経を数十回も講義しました。」

和上又言：一切大小乘經論說，眾生不解脫者，為緣有生滅二心。涅槃經云：

> また和尚が言われた。 「あらゆる大乗・小乗の経典や論書が説くところによれば、衆生が解脱できないのは、生と滅の二つの心があるからである。『涅槃経』にはこうある。」

諸行無常，是生滅法。生滅滅已，寂滅為樂。

> 諸行は無常であり、これこそが生滅の理法である。 生と滅が消え去った静寂こそが、真の安らぎである。

未審生之與滅可滅不可滅？為是將生滅滅？為是將滅滅生？為是生能自滅生？為是滅能自滅滅？請法師一一具答。此節文字，此本與石井本相同，皆錯誤不可讀。用巴黎 P. 2045 號卷子校正。

> お尋ねします。生と滅について、それは消せるのでしょうか、消せないのでしょうか。 あるいは、生をもって滅を消すのでしょうか。 あるいは、滅をもって生を消すのでしょうか。 あるいは、生が自ら生を消すことができるのでしょうか。 あるいは、滅が自ら滅を消すことができるのでしょうか。 法師、どうか一つ一つ詳しくお答えください。

遠法師言：亦見諸經論作如此說：見字上，此本衍「不」字，石井本與 P. 2045 皆無。至於此義，實不能了。禪師若了此義，請為眾說。

> 法師が言われた、「さまざまな経典や論書にも、このように説かれているのを見ます。 （ただ、この意味については、実に理解できません。） もし禅師がこの意味をおわかりでしたら、どうか私どものために説いてください。」

和上言：不辭為說，恐無解者。

> 和上が言いました。「説明しないわけではありませんが、理解する人がいないのが心配です。」

法師言：道俗有一萬餘人，可無一人能解？

> 法師は言った。「道俗あわせて一万人以上いるのに、一人として理解できる者がいないのか？」

和上言：看見不見。

> 和尚が言いました。「見ることは、見えないことにある。」

法師言：見是沒？

> 〈法師が言われた〉「わかりますか？」

和上言：果然不見。

> 和尚が言いました。「やはり見えていないようだ。」

法師既得此語，結舌無對。非論一己屈詞，抑亦諸徒失志。勝負既分，道俗嗟散。

> 法師はこの言葉を聞いて、口をつぐんで何も言えなくなりました。自分一人が言葉に詰まっただけでなく、弟子たちも皆、元気を失ってしまったのです。勝負が決まると、修行者も在家の人々も感嘆し、散り散りになりました。

10.上和問澄禪師修何法而得見性？

> 10\. 上和が澄禅師に問うた。「どのような修行をすれば、自己の本性を見ることができるのでしょうか？」

澄禪師答曰：先須學坐修定。得定已後，因定發慧，〔以智慧〕故，即得見性。用石井本及胡本補三字

> 澄禅師が答えて言われました。「まず坐禅を学び、定（瞑想の境地）を修める必要があります。定を得た後、その定によって智慧が生まれ、その智慧によって悟りの本性を見ることができるのです。」

問曰：修定之時，豈不要須作意不？

答言：是。

〔問：〕既是作意，即是識定，若為得見性？

> 問い：それが作意（意識的なはたらき）であり、識の定め（識別作用に基づく状態）であるならば、どのようにして真の性質（自己の本性）を見ることができるのでしょうか？

答：今言見性者，要須修定。若不修定，若為見性？

問曰：今修定者，元是妄心。〔妄〕心修定，如何得定？

> 問う：今、修行をしている者は、元々は迷いの心である。迷いの心で修行をしても、どうして悟りを得ることができようか？

答曰：今修定得定者自有內外照。以內外照故，得見淨。以心淨故，即是見性。

> 答えて曰く、今、禅定を修して定を得る者には、自ずから内と外を照らすはたらきがある。内と外を照らすがゆえに、清らかさを見ることができる。心が清らかであるがゆえに、これがすなわち性を見ることである。

問曰：今言見性者，性無內外。若言因內外照故，元是妄心，苦為見性？

> 問うていわく、「今、見性ということを言いますが、性には内外がありません。もし内外によって照らすからだと言うなら、それはもともと妄心であり、どうして見性といえるのでしょうか？」

經云：

> お経にはこう説かれています。

三昧 samādhi，即禪定。若學諸三昧，是動非坐禪。心隨境界流，云何名為定？

> 三昧（心を一つの対象に集中した状態）を学ぼうとするなら、それ自体は揺れ動くものであり、坐禅ではありません。 心が対象にとらわれて流れていくのを、どうして「定まっている」と言えるでしょうか。

若指此定為是者，維摩詰即不應訶舍利弗宴坐也。

> もし、この坐禅の方法こそが正しいのだと決めつけるなら、維摩詰は決して舎利弗の静坐を非難しなかったはずです。

11.和上問諸學道者：今言用心者，為是作意，不作意？若不作意，即是聾俗無別。若言作意，即是有所得。有所得者，即是繫縛，何由可得解脫？聲聞修空住空，即被空縛。修定住定，即被定縛。修靜住靜，即被靜縛。修寂住寂，即被寂縛。是故般若經云：若取法相，即著我，人，眾生，壽者。維摩經云：調伏心者，是聲聞法。不調伏心者，是愚人法。仁者用心是調伏，何名解脫？須陁洹亦調伏，斯陁含亦調伏，阿那含，阿羅漢亦調伏。非想定及非非想定亦調伏。四禪亦調伏。四聖三賢並皆調伏。若為鑒別？若如此定者，並未是真解脫法。

> 和尚が修行者たちに問うた。「さて、『心を用いる』とは、意識的に行うことか、それとも無意識でいることか。もし無意識でいるのなら、それは耳の聞こえない俗人と何ら変わらない。しかし、意識的に行うと言うなら、それは何かを得ようとする心である。何かを得ようとする心は、かえって束縛となる。それでどうして解脱を得られようか。 声聞（声聞乗の修行者）は修行によって空を観じ、その空に安住するがゆえに、空に縛られる。定を修して定に安住すれば、定に縛られる。静けさを修して静けさに安住すれば、静けさに縛られる。寂滅を修して寂滅に安住すれば、寂滅に縛られる。 ゆえに『般若経』はこう説く。「もし法（現象）の相（あり方）を取れば、すなわち自己、人間、衆生、寿命という執着に陥る」と。 また『維摩経』にはこうある。「心を調え制御するのは、声聞の教えである。心をまったく調えず野放しにするのは、愚かな者の教えである。あなたがたが『心を用いる』というのは、まさにこの調伏であり、それをどうして解脱と言えようか。」 須陀洹（預流果）も心を調える。斯陀含（一来果）も心を調える。阿那含（不還果）も阿羅漢（無学果）も心を調える。非想定（無所有処定）も非非想定（非想非非想処定）も心を調える。四禅もすべて心を調える。四聖・三賢（すべての修行段階にある者）も皆、心を調えている。 では、どのようにして真偽を見極めるのか。このように心を調えて得られる定は、いまだ真の解脱の教えではないのである。」

12.神足師問：真如之體，以是本心，復無青黃之相，如何可識？

> 12\. 神足師が問う：「真如の体は、もともとこの心そのものですが、青や黄色といった色の形もなく、どのようにして識ることができるのでしょうか？」

答：我心本空寂，不覺妄念起。若覺妄念者，覺妄自俱滅。此即識心者也。三個「妄」字此本與石井本皆作「忘」，胡本作「妄」。胡本無「也」字。

> 答え：我が心はもとより空しく寂としているが、気づかぬうちに妄念が起きる。もし妄念に気づくなら、気づきと妄念は共に消え去る。これが心を識るというものである。

問：雖有覺照，還同生滅。今說何法，得不生滅？

> 問う：たとえ覚りや照らしの智慧があっても、やはり生滅と同じである。今、どのような法を説けば、不生不滅を得られるのか。

答：只由心起故，遂有生滅。若也起心既滅，即生滅自除，無相可得，假說覺照。覺照既滅，生滅自無，即不生滅。

> 答え：ただ心によって起きるから、ついに生滅があるのです。もしも心を起こすことがすでに滅したなら、すなわち生滅はおのずから除かれ、相も得るものはなく、仮に覚照と言います。覚照がすでに滅したなら、生滅はおのずからなくなり、すなわち不生不滅です。

13.崇遠法師問：云何為空？若道有空，還同質礙。若說無空，即何所歸依？

> 13\. 崇遠法師が問うた。「空とは何でしょうか？もし『空がある』と言えば、それは物質的な障害と同じことです。もし『空がない』と言えば、何をよりどころとすればよいのでしょうか？」

答曰：只為未見性，是以說空。若見本性，空亦不有。如此見者，是名歸依。

> 答えて言う。「ただ、自性を見ていないから、空（くう）を説いているのだ。もし本性を見れば、空もまた存在しない。このように見ることを、帰依（きえ）というのである。」

14.和上告諸知識：若欲得了達甚深法界，直入一行三昧者，先須誦詩金剛般若波羅蜜經，修學般若波羅蜜。金剛般若波羅蜜經云：〔須菩提，若人以滿無量阿僧祇世界七寶，持用布施，〕若有善男子，善女人，發菩薩心者，誦持此經，為人演說，其福勝彼。云何為人演說？不取於相。〔云何不取於相？所謂如如。云何如如？所謂無念。云何無念？所謂不念有無，不念善惡，不念有邊際無邊際，不念有限量無限量。不念菩提，不以菩提為念。不念湼槃，不以湼槃的念。是為無念。是無念者，即是般若波羅蜜。般若波羅蜜者，即是一行三昧。〕

> 長老が皆さんに告げます。「もし深遠な法界を悟り、一行三昧に直接入りたいと願うなら、まず『金剛般若波羅蜜経』を誦経し、般若波羅蜜を学び修めなさい。『金剛般若波羅蜜経』にはこう説かれています。『須菩提よ、たとえ人が無量のアサンギヤの世界に満ちた七宝を持って布施を行っても、善男子・善女人が菩薩の心を起こし、この経を誦え、人々のため説き明かせば、その功徳は布施に勝る。』では、どのように人々のために説くのか。それは、あらゆる相に執着しないことである。どのように相に執着しないのか。それは、あるがままの姿に従うことである。どのようにあるがままの姿に従うのか。それは、無念であることである。どのように無念であるのか。それは、有無を思い念じず、善悪を思い念じず、限りのあるなしを思い念じず、計り知れるなしを思い念じない。菩提を思い念じず、菩提を念としない。涅槃を思い念じず、涅槃を念としない。これが無念である。この無念こそが般若波羅蜜である。般若波羅蜜こそが、一行三昧なのである。」