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title: "東林十八高賢傳 · 佛䭾邪舍尊者"
description: "東林十八高賢傳由唐代僧人釋某撰寫，記述東晉時期廬山東林寺慧遠大師與十八位高賢結社念佛、共修淨業的事跡。該傳反映了淨土宗早期發展的歷史背景，詳載高僧們的修行與弘法歷程，彰顯了念佛往生西方的思想。此傳雖已失傳，但作為中國佛教淨土宗的重要文獻，對後世淨土信仰的傳播與結社修行模式產生了深遠影響，是研究早期淨土宗歷史和慧遠大師思想的重要依據。"
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### 佛䭾邪舍尊者

> 尊者ブッダヤシャス

尊者佛䭾邪舍晉云覺明。罽賓國婆羅門種。有沙門至其家乞食。父本外道怒歐之。遂手足攣躄。巫師謂曰。坐犯賢聖。即請此沙門悔過。旬日乃瘳。因令邪舍出家。時年十三。隨師行曠野。與虎遇。邪舍曰。虎已飽。必不傷人。前行中道。果見餘骸。年十五。誦經日至萬言。以分衛廢業為憂梵語分衛晉言乞食。一羅漢來代乞食。年十九誦經滿數百萬。言性度簡傲。不為諸人重。至三十猶為沙彌復從舅氏學五明論世間法術內眾外道皆有五明內五明者一聲明二醫方明三呪術明四工巧明五因明外五明者前四并同后一是符印明。至沙勒國。待遇隆厚。既而羅什至。乃從學阿毗曇論十誦律什隨母反龜茲師遂留止行化。符堅遣呂光伐龜茲執羅什。師聞歡曰。我與羅什未盡懷抱。今忽覊虜。相見何期。後十年。師東至龜茲。盛弘法化。羅什在姑臧。遣信要之。師恐國人止其行。取清水以藥投之。呪數十言。與弟子洗足。即夜便發。比旦行數百里。追之不及。問弟子何所覺耶。答曰。唯聞疾風流韾。兩目有淚。師又呪水洗足乃止。既達姑臧。什已入長安。聞姚主逼以妾媵。歎曰。羅什如好綿纊。何可使入棘林。羅什勸姚主遣使迎師。既至。別立省寺于逍遙園。四事供養。一無所受。時至分衛一食而已。時羅什譯出十住經師更相徵決。辭理方定師髭赤善解毗婆沙論。時人號赤髭論主。秦弘始中譯出四分律四十四卷長阿含經二十二卷。義熈八年來廬山入社。後辭還本國。自罽賓以虗空藏經一卷。寄商客至涼州。

> 尊者仏陀耶舎<note>晋の人は「覚明」と訳す</note>は、罽賓国出身のバラモンの家系である。ある時、托鉢の僧がその家に食事を乞いに来た。父親はもともと外道であり、怒ってその僧を殴ったところ、手足が麻痺して動かなくなった。巫師は「これは聖者を犯したための罰です」と言い、その僧を招いて謝罪させたところ、十日ほどで治癒した。そのため、父は耶舎を出家させることにした。そのとき彼は十三歳であった。 師に従い荒野を行く途中、虎に遭遇した。耶舎は言った。「虎はもう満腹している。人を襲うことはないだろう」。道半ばに進むと、確かに食べ残した骸があった。十五歳のときには、一日に経典を一万字も誦したが、托鉢のために学業が滞ることを憂いた<note>梵語で「分衛」、晋の言葉で「乞食」</note>。ある阿羅漢が代わりに托鉢をしてくれた。十九歳で経典を数百万語誦し終えたが、その性格は簡素でやや傲慢であり、多くの人々に重んじられなかった。三十歳になってもなお沙弥のままであった。 その後、母方の伯父に従い五明論や世俗の術を学んだ<note>内衆・外道ともに五明がある。内五明とは、一声明、二医方明、三呪術明、四工巧明、五因明。外五明とは、前の四つは同じで、後ろの一つは符印明である</note>。沙勒国に至ると、手厚いもてなしを受けた。やがて羅什が到着し、阿毘曇論や十誦律を学んだ。羅什が母と共に亀茲に帰った後も、師はその地に留まり教化を続けた。 符堅が呂光に命じて亀茲を攻め、羅什を捕らえたと聞くと、師は喜び嘆いた。「私は羅什と心ゆくまで語り合うことがまだできていない。今や彼は捕らわれの身となった。いつ再会できるだろうか」。十年後、師は東の亀茲に赴き、仏法の教化を大いに盛んにした。羅什は姑臧におり、手紙を送って師を招いた。師は国中が自らの出発を止めることを恐れ、清水を取り、薬を投じ、数十の呪文を唱えて弟子と共に足を洗わせた。その夜のうちに出発し、明け方には数百里を進んだ。追跡は及ばなかった。師が弟子に「何か感じたか」と尋ねると、弟子は答えた。「ただ疾風が音を立てて聞こえ、両目に涙がにじみました」。師は再び水に呪文を唱えて足を洗わせると、そのような現象は止んだ。 姑臧に着いたときには、すでに羅什は長安に入っていた。姚興の君主が羅什に妾を無理やり娶わせたと聞き、師は嘆いて言った。「羅什はまるで上質の綿のようだ。どうして茨の林に入れさせることができようか」。羅什は姚興の君主に使者を派遣して師を招くよう勧めた。師が到着すると、逍遙園に別の経堂を設け、四種の供養を施したが、師は一切受け取らず、托鉢の時だけ一度だけ食事をとった。そのとき、羅什が訳した『十住経』について、師はさらに互いに問答を重ね、その教えの意味をようやく定めた。師は赤い髭を持ち、『毘婆沙論』に詳しかったため、当時の人々は「赤髭論主」と呼んだ。 秦の弘始年中に、『四分律』<note>四十四巻</note>と『長阿含経』<note>二十二巻</note>を翻訳した。義熙八年に廬山に来て「社」に入り、その後、本国に帰ることとなった。師は罽賓から『虚空蔵経』一巻を商人に託し、涼州に届けさせた。