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title: "東林十八高賢傳 · 宗炳"
description: "東林十八高賢傳由唐代僧人釋某撰寫，記述東晉時期廬山東林寺慧遠大師與十八位高賢結社念佛、共修淨業的事跡。該傳反映了淨土宗早期發展的歷史背景，詳載高僧們的修行與弘法歷程，彰顯了念佛往生西方的思想。此傳雖已失傳，但作為中國佛教淨土宗的重要文獻，對後世淨土信仰的傳播與結社修行模式產生了深遠影響，是研究早期淨土宗歷史和慧遠大師思想的重要依據。"
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### 宗炳

> 宗炳

宗炳。字少文。南陽人。其母聦辨。富于學識。教授諸子皆有成。炳妙善琴書。尤精玄理。殷仲堪桓玄並以主簿辟皆不就。劉裕領荊州。復辟為主簿。答曰。棲丘飲谷。三十年矣。乃入廬山築室依遠公蓮社久之。兄臧為南平守逼與俱還江陵。閒居絕俗。劉裕辟太尉掾不就二兄卒。累甚眾。頗營稼穡。武帝勅南郡長時至餼賚衡陽王義季在荊州親至其室炳角巾布衣引見不拜。王曰。處先生以重祿可乎。對曰。祿如秋艸。時過即腐。宋受禪徵為太子舍人。元嘉初徵為通直郎。太子建徵為中庶子並不應。妻羅氏。亦有高志。羅氏歿。炳哀之過甚。既而悲情頓釋。謂沙門慧堅曰。死生之分。未易可達。三復至教。方能遣哀。雅好山水。往必忘歸。西涉荊巫。南登衡岳。因結宇山中。懷尚平之志。以疾還江陵。歎曰。老病俱至。名山不可再登。唯澄懷觀道臥以遊之。凡所遊履。悉圖之于室。謂人曰。撫琴動操。欲令眾山皆響。宋元嘉二十四年卒。春秋六十九。

> 宗炳（そうへい）、字は少文（しょうぶん）。南陽（なんよう）の人である。彼の母は聡明で弁が立ち、学識豊かであった。子供たちを教育し、皆それぞれに成果を挙げさせた。宗炳は琴と書に見事に秀で、ことに玄理（深遠な哲理）に精通していた。殷仲堪（いんちゅうかん）と桓玄（かんげん）が共に主簿（秘書官）として招聘したが、いずれも応じなかった。劉裕（りゅうゆう）が荊州（けいしゅう）を統治した時も、再び主簿として召し出そうとした。宗炳はこう答えた。「丘に隠れ住み、谷の水を飲んで既に三十年になります」。そして廬山（ろざん）に入り、庵を建てて遠公（慧遠）の蓮社に長く身を寄せた。その後、兄の宗臧（そうぞう）が南平（なんぺい）太守となり、無理やり彼を連れ帰って江陵（こうりょう）に住まわせた。宗炳は閑居して俗世との交わりを絶った。劉裕が太尉掾（たいいえん）として招聘したが応じず、二人の兄が相次いで亡くなった。彼の家族は大変多く、農業にも力を入れた。武帝（劉裕）は南郡の長官に命じて、時折、宗炳に物資を贈らせた。衡陽王の劉義季（りゅうぎき）が荊州にいた時、自ら宗炳の家を訪れた。宗炳は角巾（かくきん）をかぶり、布衣（ふい）のままで拝礼もせずに面会した。王が言った。「あなたに高禄の地位をお与えしてもよろしいでしょうか」。宗炳は答えた。「官禄は秋の草のようなものです。時が過ぎればすぐに腐ってしまいます」。宋が禅譲を受けると、太子舎人（たいししゃじん）に任命されたが応じず、元嘉（げんか）の初めには通直郎（つうちょくろう）に任ぜられたが、また応じなかった。さらに太子の中庶子（ちゅうしょし）に任ぜられたが、これにも応じなかった。妻の羅氏（らし）もまた高い志を持っていた。羅氏が亡くなると、宗炳は悲しみが過ぎた。しかしやがて、その悲しみはすっかり消え去った。彼は僧の慧堅（えけん）に言った。「生死の境というものは、容易に悟り得るものではない。三度にわたって聖なる教えをよく味わい、ようやく悲しみを去ることができた」。元来、山水を好み、旅に出れば帰ることを忘れた。西方では荊巫（けいふ）を訪れ、南方では衡岳（こうがく）に登り、山中に庵を結んで、尚平（しょうへい）のような隠遁の志を抱いた。しかし病を得て江陵に戻り、嘆いて言った。「老いと病が同時に訪れ、名山に再び登ることはできない。ただ心を澄まして道を観想し、臥したまま旅をしよう」。かつて遊んだ場所はすべて、部屋の中に絵図として描き写した。そして人にこう言った。「琴を弾き、指を動かせば、あたかも全ての山々が響き合うかのようだ」。宋の元嘉二十四年（447年）、六十九歳で亡くなった。