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title: "林間錄 · 石門洪覺範林間錄"
description: "林间录由宋代高僧惠洪所集，是一部重要的禅宗笔记体著作。该书成于北宋末期，记录了惠洪在丛林间的参学问答、禅门公案及高僧言行，内容涵盖禅宗思想、修行体验与宗门典故。其文笔隽永，义理深邃，不仅保存了众多禅宗史料，更以文学性见称，对后世禅林文学影响深远。该书被誉为禅宗笔记的典范之作，是研究宋代禅宗思想与历史的重要文献，在佛教史上具有崇高地位。"
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杭州興教小壽禪師。初隨天台韶國師。普請。聞墮薪而悟。作偈曰。撲落非他物。縱橫不是塵。山河及大地。全露法王身。國師頷之而已。及開法。衲子爭師尊之。御史中丞王公隨出鎮錢塘。往候壽。至湖上。去騶從。獨步登寢室。壽方負暄毳衣自若。忽見之。問曰。官人何姓。王公曰。隨姓王。即拜之。壽推蒲團藉地而坐。語笑終日而去。門人見壽。讓之曰。彼王臣來。柰何不為禮。此一眾所係。非細事也。壽唯唯。佗日。王公復至。寺眾橫撞大鐘。萬指出迎。而壽前趍立于松下。王公望見。出輿握其手曰。何不如前日相見。而遽為此禮數耶。壽顧左右。且行且言曰。中丞即得。柰知事瞋何。其天資粹美如此。真本色住山人也。

> 杭州の興教寺、小寿禅師。初め天台の韶国師に従い、普請（作務）に参加していた。薪が落ちる音を聞いて悟りを得た。偈を詠んだ。 「落ちたのは他物にあらず、縦横に散るも塵にあらず。 山河と大地、すべて法王の身を露わにす。」 国師はただうなずくのみであった。 後に法を開き、修行僧たちが争って師と仰いだ。御史中丞の王随公が銭塘の鎮守として赴任し、寿を訪ねた。湖のほとりに至り、供を退けて独りで寝室に登った。寿はちょうど日向ぼっこをしており、毛織りの衣を着たまま悠然としていた。突然王公を見て、尋ねた。 「官人、お名前は？」 王公は「王随です」と答え、すぐに礼をした。寿は蒲団を押し出して地面に敷き、座った。終日語り笑って去った。 門弟たちが寿に会い、諫めた。 「あの王臣が来られたのに、どうして礼を尽くさなかったのですか。これは一山の大事です。軽んじてはいけません。」 寿はただ「はい、はい」と答えた。 後日、王公が再び訪れた。寺の衆は大鐘を打ち鳴らし、多くの指をそろえて出迎えた。寿は前もって松の下に立ち、待っていた。王公はそれを見て、輿から降りて手を握りながら言った。 「どうして前回のように振る舞わず、急にこのような礼儀を尽くすのですか。」 寿は左右を見回し、歩きながら言った。 「中丞はお構いなく。知事が怒るのも仕方ありません。」 その天性の純粋さはこのようであり、まさに本色の住山人であった。

白雲端禪師。有逸氣。少游湘中。時會禪師新自楊岐來居雲盖。一見。心奇之。與語每終夕。會忽問曰。上人落髮師為誰。對曰。茶陵郁和尚。會曰。吾聞其過溪有省。作偈甚奇。能記之否。端即誦曰。我有神珠一顆。久被塵勞關鎻。今朝塵盡光生。照破山河萬朵。會大笑而去。端愕然左右視。通夕不寐。明日。求入室咨詢其事。時方歲旦。會曰。汝見昨日作夜狐者乎。對曰。見之。會曰。汝一籌不及渠。端又大駭曰。何謂也。會曰。渠愛人笑。汝怕人笑。端因大悟於言下。

> 白雲端禅師は、飄逸な気風を持っていた。若い頃、湘中を遊歴していた時、会禅師が楊岐から新たに雲盖に移り住んだ。会禅師は彼を見るなり、非凡な人物だと感じ取り、語り合ううちに夜を徹することもしばしばだった。 ある時、会禅師が突然尋ねた。「上人、あなたが剃髪した師はどなたですか」 白雲端は答えた。「茶陵の郁和尚です」 会禅師は言った。「聞くところによると、彼は川を渡るときに悟りを開き、とても優れた偈を詠んだそうだ。覚えているか」 白雲端は即座に誦した。 「我に神珠一つあり、久しく塵労に関鎖せらる。今朝塵尽きて光生じ、山河万朶を照破す」 会禅師は大笑いして立ち去った。 白雲端は呆然とし、周りを見回したが、その夜は一睡もできなかった。翌日、会禅師の室を訪ね、その件について尋ねた。ちょうど元日の朝だった。 会禅師は言った。「昨夜、狐が騒いでいたのを見たか」 白雲端は答えた。「見ました」 会禅師は言った。「お前はあの狐に一歩も及ばない」 白雲端はまた驚いて尋ねた。「どういう意味ですか」 会禅師は言った。「あの狐は人に笑われることを喜び、お前は人に笑われることを恐れている」 白雲端はその言葉で大いに悟った。

魏府老元華嚴示眾曰。佛法在日用處。在行住坐臥處。喫茶喫󰕖處。語言相問處。所作所為。舉心動念。又却不是也。又曰。時當缺減。人壽少有登六七十者。汝輩入我法中。整頓手脚未穩。早是三四十年。須臾衰病至。衰病至則老至。老至則死至。前去幾何。尚復恣意。何不初中後夜純靜去。文潞公鎮北京。元公來謁別。潞公曰。法師老矣。復何往。對曰。入滅去。潞公笑謂其戲語。自送之歸。與子弟言。其道韻深穩。談笑有味。非常僧也。使人候之。果入滅矣。大驚嘆異久之。及闍維。親往臨觀。以瑠璃缾置坐前。祝曰。佛法果靈。願舍利填吾瓶。言卒。煙自空而降。布入瓶中。烟滅。舍利如所願。潞公自是竭誠內典。恨知之暮也。

> 魏府の老元華厳は、大衆に示して言った。「仏法は日常の生活の中にある。歩く時、立ち止まる時、座る時、寝る時、お茶を飲む時、言葉を交わす時、何かを為す時、心が動き念が起こる時、すべてそこにある。しかし、それだけではないのだ」と。 また言った。「今は末法の時代で、人の寿命は短く、六、七十歳まで生きる者は稀だ。あなた方が仏法に入って、まだ足場を固められぬうちに、早くも三、四十年が過ぎてしまう。あっという間に衰えと病が訪れ、老いが来て、死が来る。先はどれほどあるというのか。それなのに、なおも気ままに過ごしている。どうして夜の初めから中ごろ、終わりまで、純粋に静かに修行しないのか」と。 文潞公が北京を治めていた時、元公が別れの挨拶に訪れた。潞公は言った。「法師ももうお年です。これからどこへ行かれるのですか」と。元公は答えた。「入滅（にゅうめつ）しに行きます」と。潞公は笑って、冗談だろうと思い、自ら送って帰った。家の者に言った。「あの方は道の趣きが深く落ち着き、話しぶりにも味わいがある。普通の僧ではない」と。人を遣って様子を見させると、果たして入滅していた。潞公は大いに驚き、しばらく感嘆していた。 荼毘（だび）の時には、自ら臨んで見守った。瑠璃の瓶を座前に置き、祈って言った。「仏法が本当に霊験あらたかならば、どうか舎利（しゃり）がこの瓶を満たしますように」と。言葉が終わると、煙が空から降り、瓶の中に広がった。煙が消えると、舎利は願い通りに満ちていた。潞公はこれより、ひたすら誠を尽くして仏典に親しみ、知るのが遅かったことを悔やんだという。

棲賢諟禪師。建陽人。嗣百丈常和尚。性高簡。律身精嚴。動不遺法度。暮年。三終藏經。以坐閱為未敬。則立誦行披之。黃龍南禪師初游方少。從之累年。故其平生所為。多取法焉。甞曰。棲賢和尚定從天人中來。叢林標表也。雪竇顯禪師甞自淮山來。依之不合。乃作師子峰詩而去。曰。踞地盤空勢未休。爪牙安肯混常流。天教生在千峰上。不得雲擎也出頭。

> 棲賢諟禅師は建陽の人。百丈常和尚の法を嗣ぐ。性質は高潔で、自らを律するに精厳であり、一挙一動すべて法度を外れることがなかった。晩年には、蔵経を三度読み終えたが、座って読むのは未だ敬虔でないとして、立ったまま誦し、歩きながら経巻を披いた。黄龍南禅師は、若くして諸方を遊歴していた頃、数年彼に師事した。それゆえ、南禅師の平生の行いは多く彼のやり方を手本としている。かつてこう言った。「棲賢和尚はきっと天界や人界から来られた方であろう。叢林の模範である」と。雪竇顕禅師はかつて淮山から来て彼に依ったが、意気投合せず、そこで「師子峰」の詩を作って去った。その詩に曰く、 地に踞え空に盤わる勢い未だ休まず、 爪牙どうして常流に混じらんや。 天の教え千峰の上に生まれしめ、 雲に擎げられずとも頭角を現さん。

李肇國史補曰。崔趙公問徑山道人法欽。弟子出家得否。欽曰。出家是大丈夫事。非將相所為。趙公嘆賞其言。贊寧作欽傳。無慮千言。雖一報曉雞死。且書之。乃不及此。何也。

> 李肇の『国史補』に曰く、崔趙公が径山の道人法欽に問うた。「弟子が出家することはできるでしょうか」と。法欽は言った。「出家は大丈夫のなすことであり、将相の為すところではありません」。趙公はその言葉を賞賛して嘆じた。賛寧が法欽の伝記を書いたが、およそ千言に及ぶ。一羽の夜明けを告げる鶏が死んだことさえ書き記しているのに、この話は載せていない。どうしてだろうか。

大覺禪師璉公。以道德為　仁廟所敬。天下想望風采。其居處服玩可以化寶坊也。而皆不為。獨於都城之西為精舍。容百許人而已。棲賢舜老夫。為郡吏臨以事。民其衣。走依璉。璉館於正寢。而自處偏室。執弟子禮甚恭。王公貴人來候者。皆恠之。璉具以實對。且曰。吾少甞問道於舜。今不當以像服之殊而二吾心也。聞者嘆服　仁廟知之。賜舜再落髮。仍居栖賢。

> 大覚禅師の璉公は、その道徳をもって仁宗皇帝に敬われ、天下の人々はその風格を慕い見ることを願った。彼の住居や衣服、遊び道具は、宝坊を化するに足るものであったが、それらには一切手を付けなかった。ただ都の西に精舎を建て、百人ほどを収容するだけに留めた。栖賢寺の舜老夫は、郡の役人に事件に巻き込まれ、法衣を剥がれ、璉公のもとに逃げてきた。璉公は彼を本堂に住まわせ、自らは脇の部屋に身を置き、弟子の礼をとって恭しく仕えた。王侯貴人たちが訪ねて来てはこれを怪しんだが、璉公は実情を詳しく話し、さらにこう言った。「私はかつて舜に道を尋ねたことがある。今、袈裟の有無によって心を二つに分けるべきではない」。聞いた者は皆、感嘆して敬服した。仁宗皇帝はこのことを知り、舜に再度の剃髪を許し、そのまま栖賢寺に住まわせた。

唐宣宗微時。武宗疾其賢。數欲殺之。宦者仇公武保佑之。事迫。公武為薙髮作比丘。使逸游。故天下名山多所登賞。至杭州。鹽官禪師安公者。江西馬祖之高弟。一見異之。待遇特厚。故宣宗留鹽官㝡久。及即位。思見之。而安公化去久矣。先是。武宗盡毀吾教。至是復興之。雖法之隆替系於時。然庸詎知其力非安公致之耶。仇公武之德不愧漢邴吉。而新書略之。獨班班見於安禪師傳。為可嘆也。甞有贊其像者曰。已將世界等微塵。空裏浮華夢裏身。勿謂龍顏便分別。故應天眼識天人。

> 唐の宣宗がまだ帝位に就く前、武宗は彼の賢さを疎ましく思い、幾度も殺そうとしました。宦官の仇公武が彼を守り支えました。事態が切迫した時、公武は彼の髪を剃り、比丘（僧侶）の姿にし、各地を遊行させました。そのため、宣宗は天下の名山を多く訪れ、賞玩しました。 杭州に至った時、鹽官寺の安禅師（塩官斉安禅師）という方がおられました。彼は江西の馬祖道一禅師の高弟で、宣宗を一目見て非凡な人物と認め、特別に厚くもてなしました。それゆえ、宣宗は鹽官寺に最も長く滞在しました。 帝位に即位した後、宣宗は安禅師にお会いしたいと思いましたが、安禅師はすでに久しく亡くなられていました。以前、武宗は仏教を徹底的に弾圧しましたが、この時（宣宗の代）になって仏教は再び興隆しました。法（仏教）の盛衰は時の運によるものですが、その力が安禅師によるものではなかったと言えるでしょうか。 仇公武の徳は、漢の邴吉に比べても恥じるものではありません。しかし、新しい歴史書（『新唐書』）はこれを簡略に記すのみで、はっきりと記されているのは安禅師の伝記の中だけです。これは嘆かわしいことです。 かつて、宣宗の像を讃えた詩がありました。 「すでに世界を微塵に等しくす 空裏の浮華、夢裏の身 龍顔（帝王の顔）と謂うなかれ、便ち分別す 故に天眼を以て天人を識るべし」 （この世の

贊寧作大宋高僧傳。用十科為品流。以義學冠之已可笑。又列嵓頭豁禪師為苦行。智覺壽禪師為興福雲門大師僧中王也。與之同時。竟不載。何也。

> 贊寧が『大宋高僧伝』を編纂した際、十の科を設けて僧侶を分類した。その中で「義学」を筆頭に掲げたのは、すでに笑止なことだ。さらに、嵓頭豁禅師を「苦行」の部に、智覚壽禅師を「興福」の部に列した。雲門大師は僧侶の中の王ともいうべき存在である。彼らと同時代に生きながら、なぜ雲門大師を載せなかったのか。

長沙岑禪師因僧亡。以手摩之曰。大眾。此僧却真實為諸人提綱商量。會麼。乃有偈曰。目前無一法。當處亦無人。蕩蕩金剛體。非妄亦非真。又曰。不識金剛體。却喚作緣生。十方真寂滅。誰在復誰行。雪峰和尚亦因見亡僧。作偈曰。低頭不見地。仰面不見天。欲識金剛體。但看髑髏前。玄沙曰。亡僧面前正是觸目菩提。萬里神光頂後相。有僧問法眼。如何是亡僧面前觸目菩提。答曰。是汝面前。又問。遷化向什麼處去。答曰。亡僧幾曾遷化。進曰。爭奈即今何。答曰。汝不識亡僧。近代尊宿不復以此旨曉人。獨晦堂老師時一提起。作南禪師圓寂日偈。曰。去年三月十有七。一夜春風撼籌室。三角麒麟入海中。空餘片月波心出。真不掩偽。曲不藏直。誰人為和雪中吟。萬古知音是今日。又曰。昔人去時是今日。今日依前人不來。今既不來昔不往。白雲流水空悠哉。誰云秤尺平。直中還有曲。誰云物理齊。種麻還得粟。可憐馳逐天下人。六六元來三十六。

> 長沙の岑禅師は、ある僧が亡くなったとき、その亡骸を手で撫でながら言われた。 「皆さん、この僧は、実に皆さんのために、教えの要を説き、問答をしてくれたのです。お分かりですか。」 そして、次の偈を詠まれた。 「目前には一法も無し。当処にもまた人無し。 蕩々たる金剛の体。妄でもなく真でもない。」 また、こうも言われた。 「金剛の体を知らずして、縁起による生まれとばかり呼ぶ。 十方は真に寂滅なり。誰が在り、誰が行くというのか。」 雪峰和尚もまた、亡僧を見て、次の偈を作られた。 「頭を低げて地を見ず。面を仰げて天を見ず。 金剛の体を知らんと欲せば、ただ髑髏の前を見よ。」 玄沙は言われた。 「亡僧の面前こそ、まさに触目菩提である。万里の神光、頂後の相だ。」 ある僧が法眼に尋ねた。 「亡僧の面前の触目菩提とは、どのようなものですか。」 答えて言われた。 「それは汝の面前である。」 また尋ねた。 「亡くなった者はどこへ行くのですか。」 答えて言われた。 「亡僧はいつ遷化したというのか。」 さらに進んで尋ねた。 「では、今ここにあるのはどういうことですか。」 答えて言われた。 「汝は亡僧を知らない。」 近世の尊宿たちは、もはやこの旨を人に説くことはなくなった。 ただ晦堂老師だけが、折に触れてこれを取り上げられた。 南禅師の円寂の日に詠まれた偈がある。 「去年の三月十有七。一夜の春風、籌室を撼かす。 三角の麒麟、海中に入り。空しく余す片月、波心に出ず。 真は偽を掩わず。曲は直を蔵さず。 誰かが為に雪中の吟を和す。万古の知音は是れ今日。」 また、こうも詠まれた。 「昔人の去りし時は是れ今日。今日依って前に人は来たらず。 今既に来たらず、昔は往かず。白雲流水空しく悠なり。 誰か云う、秤尺平らかなりと。直の中に還って曲有り。 誰か云う、物理斉しと。麻を種えて還って粟を得る。 憐れむべし、天下の人を馳逐するを。六六元来三十六。」

南禪師居積翠。時以佛手．驢脚．生緣語問學者。答者甚眾。南公瞑目如入定。未甞可否之。學者趨出。竟莫知其是非。故天下謂之三關語。晚年。自作偈三首。今只記其二。曰。我手佛手齊舉。禪流直下薦取。不動干戈道處。自然超佛越祖。我脚驢脚並行。步步皆契無生。直待雲開日現。此道方得縱橫。雲蓋智禪師甞為予言曰。昔日再入黃檗。至坊塘。見一僧自山中來。因問。三關語。兄弟近日如何商量。僧曰。有語甚妙。可以見意。我手何似佛手。曰月下弄琵琶。或曰遠道擎空鉢。我脚何似驢脚。曰鷺鷥立雪非同色。或曰空山踏落花。如何是汝生緣處。曰某甲某處人。時戲之曰。前塗有人問上座如何是佛手．驢脚．生緣意旨。汝將遠道擎空鉢對之耶。鷺鶿立雪非同色對之耶。若俱將對。則佛法混濫。若揀擇對。則機事偏枯。其僧直視無所言。吾謂曰。雪峰道底。

> 南禅師が積翠に住んでいた時、仏の手・ロバの足・生まれの縁という言葉で修行者に問いをかけました。答える者は大勢いましたが、南禅師は目を閉じて瞑想に入ったようで、その是非を一度も語りませんでした。修行者たちが退出しても、結局その正否を知ることはできませんでした。そのため、世間ではこれを「三関の問い」と呼びました。 晩年、自ら三首の偈を作りましたが、今はそのうち二首だけを覚えています。曰く、 「我が手と仏の手とを共に挙げる 禅の流れは直ちに悟り取れ 干戈を動かさぬ道の場にて 自然に仏を超え祖を越ゆ」 「我が足とロバの足とを並べて行く 歩み歩み皆無生にかなう 直ちに雲開き日現れるを待つ この道こそ縦横に得るべき」 雲蓋の智禅師がかつて私にこう言いました。 「昔、再び黄檗へ入った時、坊塘で山から来た僧に出会い、尋ねました。『三関の問いについて、兄弟たちは近ごろどう議論しているか』と。僧は答えて、『とても妙なる言葉があり、その意を表すことができます』と言いました。 『我が手はどうして仏の手に似るか』には 『月下で琵琶を弄ぶ』 あるいは『遠くの道で空の鉢を捧げる』と。 『我が足はどうしてロバの足に似るか』には 『鷺が雪の中に立ち、同じ色にあらず』 あるいは『空の山で落花を踏む』と。 『そなたの生まれの縁はどこか』には 『私は某所の者です』と。 その時、戯れて言いました。『もし前途で誰かが上座に、仏の手・ロバの足・生まれの縁の意味は何かと尋ねたら、そなたは「遠くの道で空の鉢を捧げる」と答えるのか？「鷺が雪の中に立ち、同じ色にあらず」と答えるのか？もし両方とも答えるなら、仏法は混乱する。もし選んで答えるなら、機縁の事は偏って枯れる』と。その僧はただじっと見つめて何も言いませんでした。私は言いました。『雪峰が説いたことだ』と。」

夾山會禪師初住京口竹林寺。升座。僧問。如何是法身。答曰。法身無相。如何是法眼。答曰。法眼無瑕。時道吾笑於眾中。會遙見。因下座問曰。上座適笑。笑何事耶。道吾曰。笑和尚一等行脚。放複子不著所在。會曰。能為我說否。對曰。我不會說。秀州華亭有船子和尚。可往見之。會因散眾而往。船子問曰。大德近住何寺。對曰。寺則不住。住則不寺。船子曰。不寺。似箇什麼。對曰。不是目前法。船子曰。何處學得來。對曰。非耳目所到。船子笑曰。一句合頭語。萬劫繫驢橛。嗟乎。於今叢林師受弟子。例皆禁絕悟解。推去玄妙。唯要直問直答。無則始終言無。有則始終言有。毫末差誤。謂之狂解。使船子聞之。豈止萬劫繫驢橛而已哉。由此觀之。非特不善悟。要亦不善疑也。善疑者。必思三十三祖授法之際。悟道之緣。其語言具在。皆可以理究。以智知。獨江西石頭而下諸大宗師。以機用應物。觀其問答。溟涬然。令人坐睡。其道異諸祖耶。則嗣其法。其不異耶。則所言乃爾不同。故知臨濟大師曰。大凡舉論宗乘。須一句中具三玄。一玄中具三要。有玄有要者。盖明此也。不知者指為門庭建立權時語言。可悲也。

> 夾山会禅師が最初に京口の竹林寺に住していた時、座に上がって説法をされた。ある僧が尋ねた。「如何なるか是れ法身」。答えられた。「法身は相無し」。また問うた。「如何なるか是れ法眼」。答えられた。「法眼は瑕無し」。その時、道吾が大衆の中で笑った。会禅師は遠くからそれを見て、座を下りて尋ねられた。「上座は先ほど笑われたが、何を笑われたのか」。道吾は言った。「和尚が同じように行脚しながら、覆子（ふくす）を置くべき場所が分からないのを笑ったのです」。会禅師は言われた。「私に説いてくださるか」。道吾は答えた。「私は説くことはできません。秀州華亭に船子和尚という方がおられます。そちらへ行ってお会いになるといいでしょう」。会禅師は大衆を解散させ、船子和尚のもとへ向かった。船子和尚が尋ねられた。「大徳は近ごろどの寺にお住まいですか」。答えて言った。「寺とすれば住まず、住めば寺にあらず」。船子和尚は言われた。「寺にあらずとは、何に似ているか」。答えて言った。「目前の法ではありません」。船子和尚は言われた。「どこで学んできたのか」。答えて言った。「耳目の及ぶところではありません」。船子和尚は笑って言われた。「一句の合頭語、万劫に驢橛（ろけつ）を繋ぐ。ああ、今の叢林では師が弟子に教える際、悟りの理解を禁じ、玄妙なものを退け、ただ直問直答だけを求め、無ならば終始無と言い、有ならば終始有と言う。ほんのわずかな誤りも狂解と言ってしまう。もし船子和尚がこれを聞いたら、万劫に驢橛を繋ぐどころではないだろう。これを見れば、ただ悟りが浅いだけでなく、疑うことも上手ではないのだ。善く疑う者は、必ず三十三祖が法を授けられた時、悟道の縁を考えるだろう。その言葉はすべて残っており、理によって究め、智によって知ることができる。ただ江西の石頭以下の諸大宗師は、機用をもって物に応じ、その問答を見ると、漠然として人を坐睡に陥らせる。その道が諸祖と異なるのかといえば、その法を受け継いでいる。異ならないのかといえば、語られることはこれほど違う。故に臨済大師は言われた。『およそ宗乗を挙論するには、須らく一句の中に三玄を具し、一玄の中に三要を具す。玄有り要ある者は、これを明らかにするためである』。知らない者は、これを門庭の建立、権時の言葉と指す。悲しいことである。

天衣懷禪師說法於淮山。三易法席。學者追崇。道顯著矣。然猶未敢通名字於雪竇。雪竇已奇之。僧有誦其語。至曰。譬如鴈過長空。影沈寒水。鴈無遺蹤之意。水無沈影之心。因搏髀嘆息。即遣人慰之。懷乃敢一通狀。問起居而已。溈山真如禪師從真點胸游最久。叢林戶知之。然對客。未甞一言及其平昔見聞之事。至圓寂日。展𦘕像。但薦茶果而已。二大老識度甚遠。退託凉薄以諷後學。可謂善推尊其師者也。

> 天衣懐禅師は淮山で説法をされ、三度も法席を移されましたが、学ぶ者たちは追い慕い、その道は世に顕著でした。それでもなお、雪竇禅師には自らの名を伝えることを憚っておられました。しかし雪竇禅師はすでに彼を異才と認めておられ、ある僧が懐禅師の語録を誦するのを聞き、「例えば雁が空を渡り、影が冷たい水に沈むがごとし。雁には跡を残す心はなく、水には影を沈める心はない」という一節に至り、腿を打って感嘆され、すぐに人を遣わして懐禅師を慰められました。そこで初めて懐禅師は一通の書状を差し上げ、ご機嫌を伺うにとどめました。 溈山真如禅師は真点胸のもとで最も長く修行され、叢林では広く知られていました。しかし、客人に対しても、かつて見聞きした事柄について一言も語られることはありませんでした。入寂の日、師の画像を掲げて、ただお茶と果物を供えるだけでした。 このお二人の大徳は、その見識と思慮が非常に深く、あえて自らを卑下し、控えめに振る舞うことで、後進の学人たちに教えを諷示されたのです。まさに師を尊び推し上げることを善くわきまえられた方々と言えるでしょう。

雲菴和尚居洞山時。僧問。華嚴論云。以無明住地煩惱。便為一切諸佛不動智。一切眾生皆自有之。只為智體無性無依。不能自了。會緣方了。且無明住地煩惱如何是成諸佛不動智。理極深玄。絕難曉達。雲菴曰。此最分明。易可了解。時有童子方掃除。呼之回首。雲菴指曰。不是不動智。却問如何是汝佛性。童子左右視。惘然而去。雲庵曰。不是住地煩惱。若能了之。即今成佛。又甞問講師曰。火災起時。山河大地皆被焚盡。世間空虗。是否。對曰。教有明文。安有不是之理。雲庵曰。如許多灰燼將置何處。講師舌大而乾笑曰。不知。雲庵亦大笑曰。汝所講者。紙上語耳。其樂說無礙之辨。答則出人意表。問則學者喪氣。盖無師自然之智。非世智可當。真一代法施主也。

> 雲菴和尚が洞山におられた時、ある僧が尋ねました。 「華厳論にこうあります。 『無明住地の煩悩こそが、すべての諸仏の不動智となる。 すべての衆生は、もともとこれを具えている。 ただ、智慧の本体には自性も依り所もないため、自分では悟ることができず、縁に遇って初めて悟る』と。 では、無明住地の煩悩が、どうして諸仏の不動智となるのでしょうか。 道理が極めて深遠で、到底理解できそうにありません」 雲菴は言いました。 「これは最も明らかで、容易に理解できることだ」 ちょうど童子が掃除をしていたので、呼びかけました。童子が振り返ると、 雲菴は指さして言いました。 「これが不動智ではない」 そして尋ねました。 「では、お前の仏性とは何か」 童子は左右を見回し、ぼんやりしたまま去っていきました。 雲庵は言いました。 「これが住地煩悩ではない。もしこれが悟れるなら、今すぐに仏となるのだ」 またある時、講師に尋ねました。 「火災が起こり、山河大地がすべて焼き尽くされ、世間が空っぽになったとする。 これは正しいか」 講師は答えました。 「経典に明らかな文があります。正しくない道理があろうはずがありません」 雲庵は言いました。 「では、そのたくさんの灰燼は、どこへ置くのか」 講師は舌を出して乾いた笑いを浮かべ、 「わかりません」と言いました。 雲庵も大笑いして言いました。 「あなたの講じるものは、紙の上の言葉に過ぎない」 雲庵和尚の、説法に妨げのない弁舌は、 答えは人の意表をつき、 問いは学ぶ者を意気消沈させるほどでした。 まさに師なくして自然に備わった智慧であり、世間の知恵では及ぶものではありません。 真に一代の法施主であったと言えるでしょう。

二祖大師服勤累年。至於立雪斷臂。而達磨僅以一言語之。牛頭懶融枯禪窮山。初無意於有聞。而四祖自往說法。祖師之於師弟子之際。其必有旨耶。

> 二祖大師は長年にわたり師に仕え、雪の中に立ち続け、自らの腕を断つという苦行を経ました。しかし、達磨大師はわずか一言でそれを認めたのです。 一方、牛頭山の懶融禅師は、山にこもって枯れた禅を修め、名声を求める意志など毛頭ありませんでした。それでも四祖大師は自ら彼のもとを訪れ、法を説いたのです。 祖師と弟子の間には、何か特別な意味合いがあったのでしょうか。

楊文公談苑記。沙門寶誌銅牌記讖未來事云。有一真人在冀川。開口張弓在左邊。子子孫孫萬萬年。江南中主。名其子曰弘冀。吳越錢鏐諸子。皆連弘字。期以應之。而　宣祖之諱正當之也。又記。周世宗悉毀銅像鑄錢。謂宰相曰。佛教以謂頭目髓腦有利於眾生。尚無所惜。寧復以銅像愛乎。銅州大悲甚靈應。當擊毀。以斧擊其胸。鑱破之　太祖親見其事。後世宗北征。病疽發胸間。咸謂其報應。太祖因信重釋教。歐陽文忠公歸田錄首記。太祖初幸相國寺。問僧錄贊寧。可拜佛否。寧奏曰。不拜。問其故。寧曰。見在佛不拜過去佛。因以為定制。二公所記皆有深意。決非苟然予聞君子樂與人為善。雖善不善謂之矜。文忠公每恨平心為難。豈真然耶。

> 楊文公談苑に記す。沙門宝誌の銅牌に未来の事を記した讖文がある。曰く、「一つの真人あり、冀川に在り。口を開き弓を張る、左辺に在り。子々孫々、万々年」。江南の中主は、その子の名を弘冀とし、呉越の銭鏐の諸子も皆、弘の字を連ねて、これに応じようとした。しかし、宣祖の諱こそがまさにこれに当たるのである。 また記す。周の世宗は銅像をことごとく壊して銭を鋳た。宰相に謂いて曰く、「仏教は頭目髄脳をもって衆生に利ありと謂う。尚お惜しむところなし。いわんや銅像を愛するや」。銅州の大悲像は甚だ霊験あらたかであったが、これを撃ち毀さんとし、斧をもってその胸を撃つと、胸が破れた。太祖はこの事を親しく見た。後に世宗が北征した時、胸の間に癰が発し、皆これを報応と謂った。太祖はこれによって釈教を信重するに至った。 欧陽文忠公の帰田録の冒頭に記す。太祖が初めて相国寺に行幸した時、僧録の賛寧に問うて曰く、「仏を拝すべきか」。寧、奏して曰く、「拝さず」。その故を問うと、寧曰く、「現在の仏、過去の仏を拝せず」。これによって定制とした。二公の記すところは皆深い意味があり、決して軽々しいものではない。予聞く、君子は人と善を為すことを楽しむと。善ならざるをもって善と謂うのは、これを矜という。文忠公は常に平心であることが難しいことを恨んだが、果たして真にそうであろうか。

唐僧元曉者。海東人。初航海而至。將訪道名山。獨行荒陂。夜宿塚間。渴甚。引手掬水于穴中。得泉甘凉。黎明視之。髑髏也。大惡之。盡欲嘔去。忽猛省。嘆曰。心生則種種法生。心滅則髑髏不二。如來大師曰。三界唯心。豈欺我哉。遂不復求師。即日還海東。疏華嚴經。大弘圓頓之教。予讀其傳至此。追念晉樂廣酒盃蛇影之事。作偈曰。夜塚髑髏元是水。客盃弓影竟非蛇。箇中無地容生滅。笑把遺編篆縷斜。

> 唐僧元曉は、海東の出身である。初めて海を渡って訪れ、名山を訪ねて修行を志した。一人で荒れ野を歩き、夜は墓場に宿をとった。喉の渇きがひどく、手を伸ばして穴の中の水をすくい飲んだところ、泉の水は甘く冷たかった。夜が明けて見ると、それは髑髏であった。大いに嫌悪し、吐き出そうとしたが、ふと深く省みて、嘆息して言った。「心が生じればさまざまな法が生じ、心が滅すれば髑髏も二つではない。如来大師が『三界はただ心のみ』と説かれたのは、私を欺くものではなかったのだ。」そこで師を求めることをやめ、その日に海東へ帰った。そして『華厳経』を注釈し、円頓の教えを広く弘めた。私がその伝記をここまで読み、晋の楽広が酒杯に映った弓の影を蛇と見誤った故事を思い起こし、偈を詠んだ。「夜の塚の髑髏、もとは水なり。客の杯の弓影、ついに蛇にあらず。この中に生滅を容れる余地なし。笑いて遺編を把り、篆縷斜めなり。」

棗栢大士．清凉國師。皆弘大經。造疏論。宗於天下。然二公制行皆不同。棗栢則跣行不滯。超放自如。以事事無礙行心。清凉則精嚴玉立。畏五色糞。以十願律身。評者多喜棗栢坦宕。笑清凉縛束。意非華嚴宗所宜爾也。予曰。是大不然。使棗栢薙髮作比丘。未必不為清凉之行。盖此經以遇緣即宗合法。非如餘經有局量也。

> 棗栢大士と清凉國師は、ともに『華厳経』を広め、注釈や論書を著わして、その教えを天下に広められました。しかし、お二人の行いや振る舞いは、まったく異なっていました。 棗栢大士は、素足で歩き、何ものにもとらわれず、自在に振る舞われました。すべての事柄が互いに妨げ合わないという境地を、そのまま実践されたのです。 一方、清凉國師は、玉のように清らかで厳格に立ち、五欲の汚れを恐れ、十の誓願をもって自らを律されました。 世間の批評家たちは、棗栢大士の率直で自由なあり方を好み、清凉國師の厳しい戒律を「自分を縛っている」と笑うことが多いようです。彼らは、華厳宗には清凉國師のような行いはふさわしくないと考えているのでしょう。 しかし、私はこう申し上げたい。それは大きな誤りです。もし棗栢大士が剃髪して比丘となられたなら、清凉國師と同じような行いをなさったに違いありません。そもそもこの『華

晉鳩摩羅什。兒時隨母至沙勒。頂戴佛鉢。私念。鉢形甚大。何其輕耶。即重。失聲下之。母問其故。對曰。我心有分別。故鉢有輕重耳。予以是知一切諸法隨念而至。念未生時。量同太虗。然則即今見行分別者。萬類紛然。何故靈驗不等。曰是皆亂想虗妄。如困夢中事。心力昧略微劣故也。嗟乎。人莫不有忠孝之心也。而王祥臥冰則魚躍。耿恭祝井則泉冽。何也。盖其養之之專。故靈驗之應。速如影響。

> 鳩摩羅什が幼い頃、母に連れられて沙勒という地を訪れた時のこと。彼は仏の鉢を頭に載せてみた。心の中で思った。「この鉢、形は大きいのに、どうしてこんなに軽いのだろう」。すると、たちまち鉢は重くなり、思わず声をあげて落としてしまった。母がわけを尋ねると、彼は答えた。「私の心に分別が生じたので、鉢が軽くなったり重くなったりしたのです」。 このことから私は悟りました。すべての現象は、心の念いによって現れるのだと。念いがまだ生じていないとき、その世界は広大な虚空と同じである。では、今、私たちが見て、行い、分別しているこの世界――万物が雑然と存在し、なぜその霊験には差があるのか。 それは、すべてが乱れた想い、虚妄の産物だからです。まるで夢の中の出来事のように。心の力が曇り、微かで劣っているからなのです。 ああ、人は誰しも忠孝の心を持っています。それなのに、王祥が氷の上に臥せば魚が躍り出し、耿恭が井戸に祈れば泉が清らかに湧き出る。なぜでしょう。それは、彼らがその心をひたすらに養い、専一にしたからです。だからこそ、霊験は影が形に従い、響きが音に応じるかのように、速やかに現れるのです。

菩提達磨初自梁之魏。經行於嵩山之下。倚杖於少林。面壁燕坐而已。非習禪也。久之。人莫測其故。因以達磨為習禪。夫禪那。諸行之一耳。何足以盡聖人。而當時之人以之為史者。又從而傳茲習禪之列。使與枯木死灰之徒為伍。雖然。聖人非止於禪那。而亦不違禪那。如易出乎陰陽。而亦不違乎陰陽。

> 菩提達磨は、最初に梁から魏へと渡り、嵩山の麓を歩き、少林寺に杖を寄せて、壁に向かって静かに座っていただけである。禅を修めていたのではない。時が経つにつれ、人々はその理由を測りかね、達磨を禅の修行者と見なすようになった。そもそも禅那は、数ある修行の一つに過ぎない。どうして聖人の全てを尽くせようか。しかし当時の人々がそれを歴史とし、さらにこの禅の修行者の列に加えて伝えたため、枯木死灰のような者たちと同列に並べられることになった。とはいえ、聖人は禅那に止まるものではないが、禅那にも背かない。ちょうど易が陰陽から生じながら、陰陽に背かないのと同じである。

舊說四祖大師居破頭山。山中有無名老僧。唯植松。人呼為栽松道者。甞請於祖曰。法道可得聞乎。祖曰。汝已老。脫有聞。其能廣化耶。儻能再來。吾尚可遲汝。乃去。行水邊。見女子浣衣。揖曰。寄宿得否。女曰。我有父兄。可往求之。曰。諾我即敢行。女首肯之。老僧回䇿而去。女。周氏季子也。歸輙孕。父母大惡。逐之。女無所歸。日庸紡里中。夕於眾館之下。已而生一子。以為不祥。弃水中。明日見之。泝流而上。氣體鮮明。大驚。遂舉之。成童。隨母乞食。邑人呼為無姓兒。四祖見於黃梅道中。戲問之曰。汝何姓。曰。姓固有。但非常姓。祖曰。何姓。曰。是佛性。祖曰。汝乃無姓耶。曰。姓空故無。祖化其母。使出家。時七歲。眾館今為寺。號佛母。而周氏尤盛。去破頭山佇望間。道者肉身尚在。黃梅東禪有佛母塚。民塔其上。傳燈錄．定祖圖記忍大師姓周氏者。從母姓也。大宋高僧傳乃曰。釋弘忍。姓周氏。其母始娠。移月光照庭室。終夕若晝。異香襲人。舉家欣駭。安知眾館本社屋。生時置水中乎。又曰。其父偏愛。因令誦書。不知何從得此語。其敘事妄誕大率類此。開元中。文學閭丘均為塔󳬴。徒文而已。會昌毀廢。唐末烽火。更遭蹂踐。愈不可考。知其書謬者。母氏周。而曰有父故也。無為子甞贊其像曰。人孰無父。祖獨有母。其母為誰。周氏季女。濁港滔滔入大江。門前依舊長安路。

> 古くからの伝えによれば、四祖大師は破頭山にお住まいでした。山の中には名もなき老僧がおり、ただ松を植えるだけの生活をしていたので、人々は「松植えの道者」と呼んでいました。ある時、この老僧が四祖に尋ねました。「法の道を聞くことはできますか」。四祖は答えました。「あなたはもう年老いている。たとえ聞いたとしても、広く人々を教化できるだろうか。もしもう一度生まれ変わることができるなら、私はあなたを待っていよう」。老僧は去り、川辺を歩いていると、洗濯をしている女性を見かけました。老僧は挨拶して言いました。「一晩泊めていただけませんか」。女性は答えました。「父と兄がいますので、彼らにお願いしてください」。老僧は「承知しました。ではお願いします」と言い、女性はうなずきました。老僧は杖を返して去っていきました。 その女性は周氏の末娘でした。家に帰るとすぐに妊娠してしまい、父母は大いに嫌がり、彼女を追い出しました。女性は行くあてがなく、昼は里で紡ぎの仕事をし、夜は共同の宿舎の下で過ごしました。やがて一人の子を産みましたが、不吉だと思い、水中に捨ててしまいました。次の日、その子が流れを遡って上ってくるのを見つけ、息づかいも鮮やかで生きていたので、大変驚き、育てることにしました。 子供が成長すると、母について物乞いをして歩き、町の人々は「姓のない子」と呼びました。四祖が黄梅の道でこの子に出会い、戯れて尋ねました。「お前は何という姓か」。子供は答えました。「姓はありますが、普通の姓ではありません」。四祖が「どんな姓か」と聞くと、子供は「仏性です」と答えました。四祖は「お前には姓がないのか」と言い、子供は「姓は空ゆえに無いのです」と答えました。四祖は彼の母を教化して出家させ、その時、子供は七歳でした。かつての共同宿舎は今では寺となり、「仏母寺」と呼ばれ、周氏の一族は特に栄えました。 破頭山を離れて眺めると、あの道者の肉身はまだそこにありました。黄梅の東禅寺には仏母の塚があり、人々がその上に塔を建てました。『伝灯録』や『定祖図記』には、忍大師の姓は周氏で、母の姓を継いだと記されています。一方、『大宋高僧伝』にはこうあります。「釈弘忍、姓は周氏。母が妊娠を始めると、月の光が庭に移り、一晩中昼のように明るく、異香が漂い、家族一同は驚き喜んだ」。どうして共同宿舎が本来の家屋であり、生まれた時に水中に置かれたのかを知ることができるでしょうか。また、「父は偏愛し、彼に読書をさせた」とも記されていますが、この話がどこから来たのかは分かりません。その記述は虚妄で、大まかにこのような類いです。 開元年間に、文学者の閭丘均が塔碑を建てましたが、ただの文章に過ぎませんでした。会昌の廃仏や唐末の戦乱によって荒廃し、さらに踏みにじられ、ますます確かめることができません。その書の誤りを知るには、母が周氏であるのに、「父あり」と記されていることです。無為子はかつてその像を賛えて言いました。「人に父無きはあれど、祖に独り母あり。その母は誰ぞ、周氏の末娘。濁れる港は滔滔として大江に入り、門前には依然として長安の道あり」。

斷際禪師初行乞於雒京。吟添鉢聲。一嫗出棘扉間曰。太無猒足生。斷際曰。汝猶未施。反責無猒。何耶。嫗笑。掩扉。斷際異之。與語。多所發藥。辭去。嫗曰。可往南昌見馬大師。斷際至江西。而大師已化去。聞塔在石門。遂往禮塔。時大智禪師方結廬塔傍。因敘其遠來之意。願聞平昔得力言句。大智舉一喝三日耳聾之語示之。斷際吐舌大驚。相從甚久。暮年始移居新吳百丈山。考其時。嫗死久矣。而大宋高僧傳曰嫗祝斷際見百丈。非也。

> 断際禅師が初めて洛陽で托鉢をしていたとき、鉢を鳴らす声を響かせていた。ある老婆が茨の扉の間から顔を出して言った。「あまりにも貪欲な人だこと」。断際は言った。「あなたはまだ施しもしていないのに、なぜ貪欲だと責めるのですか」。老婆は笑って、扉を閉めた。断際はこれを不思議に思い、話しかけると、多くの示唆を得た。別れ際、老婆は言った。「南昌に行って馬大師にお会いなさい」。断際が江西に着いたとき、大師はすでに亡くなっていた。塔が石門にあると聞き、礼拝に行った。その時、大智禅師がちょうど塔のそばに庵を結んでいたので、遠くから来た理由を話し、大師の生前の教えを聞きたいと願った。大智は「一喝三日耳聾」という言葉を示した。断際は舌を出して大いに驚き、その後長く大智に師事した。晩年になって初めて新呉の百丈山に移り住んだ。時を考えると、老婆はとっくに亡くなっていたはずだが、『大宋高僧伝』には「老婆が断際に百丈に会うよう勧めた」とあるのは誤りである。

雲居佛印禪師曰。雲門和尚說法如雲。絕不喜人記錄其語。見必罵逐曰。汝口不用。反記我語。佗時定販賣我去。今對機室中錄。皆香林明教以紙為衣。隨所聞。隨即書之。後世學者漁獵文字語言中。正如吹網欲滿。非愚即狂。可嘆也。

> 雲居仏印禅師は言われた。 雲門和尚の説法は、雲のように自在で、人に記録されることをまったく好まれなかった。 記録している者を見つけると、必ず怒って追い出し、こう言われた。 「お前の口は使わずに、かえって私の言葉を記録するのか。いつか必ず私を売り物にするだろう。」 今、対機室中の録は、すべて香林明教が紙を衣にして、聞いたことをすぐに書き留めたものである。 後世の学者が文字と言葉の中に漁猟するのは、まるで網を吹いて満たそうとするようなものだ。 愚かでなければ狂っている。嘆かわしいことである。

玄沙備禪師薪於山中。傍僧呼曰。和尚。看虎。玄沙見虎。顧僧曰。是你。靈潤法師山行。野燒迅飛而來。同游者皆避之。潤安步如常曰。心外無火。火實自心。謂火可逃。無由免火。火至而滅。嚴陽尊者單丁住山。蛇虎就手而食。歸宗常公刈草。見蛇芟之。傍僧曰。久聞歸宗。今日乃見一麤行沙門。常曰。你麤。我麤耶。吾聞親近般若有四種驗心。謂就事．就理．入就．事理出就。事理之外。宗門又有四藏鋒之用。親近以自治。藏鋒之用以治物。

> 玄沙備禅師が山中で薪を集めていた。そばにいた僧が叫んだ。「和尚、虎がいます」。玄沙が虎を見ると、僧の方を振り返って言った。「それはお前だ」。 霊潤法師が山道を歩いていると、野火が猛スピードで飛び来った。同行者たちは皆、避けようとした。しかし霊潤は普段通りに歩き続け、こう言った。「心の外に火はない。火は実は自らの心から起こるのだ。火から逃れられると言うなら、火を免れる道はない」。火が彼に迫ったが、やがて消えた。 厳陽尊者は一人で山に住んでいた。蛇や虎が彼の手から餌を食べに来た。 帰宗常公が草を刈っていると、蛇を見つけて切り捨てた。そばにいた僧が言った。「かねてから帰宗の名は聞いていたが、今日初めて粗野な行いをする沙門を見た」。常は言った。「粗野なのはお前か、それとも私か？私は、般若に近づくには四種の心の検証があると聞いている。すなわち、事に就く、理に就く、事理に入る、事理を出て事理の外に就く、である。宗門にはまた、四つの『鋒を蔵する』使い方がある。親近は自らを治めるため、蔵鋒の用は他者を治めるためだ」。

荊州天皇寺道悟禪師。如傳燈錄所載則曰。道悟得法於石頭。所居寺曰天皇。婺州東陽人。姓張氏。年十四出家。依明州大德披剃。年二十五。杭州竹林寺受具。首謁徑山國一禪師。服勤五年。大歷中。抵鍾陵謁馬大師。經二夏。乃造石頭。元和丁亥四月示疾。壽六十。臘三十五。及觀達觀禪師所集五家宗派則曰。道悟嗣馬祖。引唐丘玄素所譔󳬴文幾千言。其略曰。師號道悟。渚宮人。姓崔氏。即子玉後胤也。年十五。於長沙寺禮曇翥律師出家。二十三詣嵩山律德得尸羅。謁石頭。扣寂二年無所契悟。乃入長安親忠國師。三十四與侍者應真南還。謁馬大師。大悟於言下。祝曰。他日莫離舊處。故復還渚宮。元和十三年戊戌歲四月初示疾。十三日歸寂。壽八十二。臘六十三。考其傳。正如兩人。然玄素所載曰。有傳法一人崇信。住澧州龍潭。南嶽讓禪師󳬴。唐聞人歸登撰。列法孫數人于後。有道悟名。圭峰答裴相國宗趣狀。列馬祖之嗣六人。首曰江陵道悟。其下注曰兼稟徑山。今妄以雲門．臨濟二宗競者。可發一笑。

> 荊州天皇寺の道悟禅師について、『伝灯録』に記されている内容によれば、道悟は石頭の下で法を得たとされています。彼が住んでいた寺は天皇寺といい、婺州東陽の人で、姓は張氏です。十四歳で出家し、明州の大徳のもとで剃髪を受け、二十五歳で杭州竹林寺において具足戒を受けました。最初に径山の国一禅師を訪ね、五年間仕えました。大歴年間に鍾陵に赴き馬大師を訪ね、二夏を過ごした後、石頭のもとを訪れました。元和丁亥年四月に病を示し、六十歳で亡くなりました。戒齢は三十五年でした。 一方、達観禅師が編纂した『五家宗派』を見ると、道悟は馬祖の法嗣であると記されており、唐の丘玄素が著した碑文を引用して、ほぼ千字にわたり詳述されています。その概要は次のとおりです。師の名は道悟、渚宮の人で、姓は崔氏、子玉の末裔です。十五歳のとき、長沙寺で曇翥律師に礼を尽くして出家し、二十三歳で嵩山の律徳のもとで尸羅戒を受けました。石頭を訪ねて二年間、静寂に打ち込んだものの、悟りを得ることはできませんでした。そこで長安に赴き、忠国師に直接師事しました。三十四歳のとき、侍者の応真とともに南方に戻り、馬大師を訪ねました。その言葉の下で大悟し、「今後もこの地を離れないように」と祈願したため、再び渚宮に戻りました。元和十三年戊戌歳四月に初めて病を示し、十三日に寂滅に帰しました。享年八十二歳、戒齢六十三年でした。 その伝記を考察すると、まるで二人の人物のようです。しかし、玄素の記述によれば、法を伝えた者に崇信がおり、澧州龍潭に住んでいました。南嶽の譲禅師の碑文は、唐の文人である帰登が撰し、法孫数名を列挙していますが、その中に道悟の名があります。圭峰が裴相国に答えた宗趣状には、馬祖の法嗣六名が挙げられており、その筆頭に江陵の道悟が記され、その下に「径山をも兼ねて稟承す」と注記されています。今、雲門宗と臨済宗の二宗が争うなどというのは、まことに笑止千万なことです。

草堂禪師牋要曰。心體靈知不昧。如一摩尼珠圓照空淨。都無差別之相。以體明故。對物時能現一切色相。色自差而珠無變易。如珠現黑時。人以珠為黑者。非見珠也。離黑覔珠者。亦非見珠也。以明黑都無為珠者。亦非見珠也。馬祖說法。即妄明真。正如以黑為珠。神秀說法。令妄盡方見覺性者。離妄求真。正如離黑覔珠。牛頭說法。一切如夢。本來無事。真妄俱無。正如明黑都無為珠。獨荷澤於空相處。指示知見。了了常知。正如正見珠體。不顧眾色也。密以馬祖之道如珠之黑。是大不然。即妄明真。方便語耳。略知教乘者皆了之。豈馬祖應聖師遠讖為震旦法主。出其門下者如南泉．百丈．大達．歸宗之徒。皆博綠三藏。熟爛真妄之論。爭服膺師尊之。而其道乃止於如珠之黑而已哉。又以牛頭之道。一切如夢。真妄俱無者。是大不然。觀其作心王銘曰。前際如空。知處迷宗。分明照境。隨照冥濛。縱橫無照。最微最妙。知法無知。無知知要。一一皆治知見之病。而荷澤公然立知見。優劣可見。而謂其道如明黑都無為珠者。豈不重欺吾人哉。至如北秀之道。頓漸之理。三尺童子知之。所論當論其用心。秀公為黃梅上首。頓宗直指。縱曰機器不逮。然亦飫聞飽參矣。豈自甘為漸宗徒耶。盖祖道于時疑信半天下。不有漸。何以顯頓哉。至於紛爭者。皆兩宗之徒。非秀心也。便謂其道止如是。恐非通論。吾聞大聖應世。成就法道。其權非一。有顯權。有冥權。冥權即為異道。為非道。顯權則為親友。為知識。庸詎知秀公非冥權也哉。

> 草堂禅師の『箋要』に曰く、 心の本体は霊妙な知性に満ち、曇りなく、あたかも一つの摩尼珠のごとく円満に照らし、空しく清浄であり、すべてに差別の相はない。本体が明るいゆえに、物に対したとき、あらゆる色相を現じることができる。色は自ずから異なっても、珠には変易がない。たとえば、珠が黒色を現じたとき、人が珠を黒いと見るのは、珠を見たことにはならない。黒から離れて珠を探すのも、珠を見たことにはならない。明と黒のすべてを無として珠とするのも、珠を見たことにはならない。 馬祖の説法は、妄りを即して真を明らかにするもので、まさに黒を以て珠とするようなものである。神秀の説法は、妄りを尽くして初めて覚性を見るとするもので、妄りを離れて真を求めるもので、まさに黒から離れて珠を探すようなものである。牛頭の説法は、すべて夢のごとく、本来無事であり、真も妄もともに無いとするもので、まさに明と黒のすべてを無として珠とするようなものである。ただ荷沢のみが、空相のところで知見を示し、了々として常に知ることを指し示した。まさに珠の本体を正しく見て、衆色に惑わされないのである。 密は馬祖の道を珠の黒のごとしと説くが、これは甚だしく正しからず。妄りを即して真を明らかにするのは、方便の言葉に過ぎない。わずかに教乗を知る者でも皆これを理解する。まさか、馬祖が聖師の遠い予言に応じて震旦の法主となり、その門下から南泉・百丈・大達・帰宗のような者が輩出し、彼らが皆三蔵に広く通じ、真妄の論を熟知していたのに、師尊を心から敬服し、その道がただ珠の黒のごときものに止まるはずがあろうか。 また、牛頭の道をすべて夢のごとく、真妄ともに無いとするのも、甚だしく正しからず。その『心王銘』を見ると、「前際は空の如く、知るところは宗に迷う。分明に境を照らし、照に随って冥濛す。縦横に照ること無く、最も微にして最も妙なり。法を知って無知、無知にして知の要を知る」とあり、一つ一つが知見の病を治めるものである。それに対し、荷沢は公然と知見を立てる。優劣は明らかであろう。それなのに、その道を明と黒のすべてを無として珠とするようなものと説くのは、我々を重ねて欺くものではないか。 さらに、北秀の道については、頓漸の理は三尺の童子でも知っている。論ずべきはその用心である。秀公は黄梅の上首であり、頓宗の直指を、たとえ機根が及ばないとしても、十分に聞き、十分に参究した。どうして自ら漸宗の徒に甘んじようか。そもそも祖道は当時、天下の半ばが疑い、半ばが信じていた。漸がなければ、どうして頓を顕わすことができようか。紛争を起こしたのは、皆両宗の徒であり、秀の本心ではない。その道がただこれに止まると言うのは、恐らく通論とは言えない。 私は聞く、大聖が世に応じて法道を成就するには、その権（方便）は一つではない。顕権もあり、冥権もある。冥権とは異道となり、非道となることである。顕権とは親友となり、知識となることである。どうして秀公が冥権ではないと言えようか。

唐僧復禮有法辯。當時流輩推尊之。作真妄偈。問天下學者曰。真法性本淨。妄念何由起。從真有妄生。此妄何所止。無初即無末。有終應有始。無始而無終。長懷懵茲理。願為開玄妙。析之出生死。清凉國師答曰。迷真妄念生。悟真妄即止。能迷非所迷。安得長相似。從來未曾悟。故說妄無始。知妄本自真。方是恒妙理。分別心未忘。何由出生死。圭峰禪師答曰。本淨本不覺。由斯妄念起。知真妄即空。知空妄即止。止處名有終。迷時號無始。因緣如幻夢。何終復何始。此是眾生源。窮之出生死。又曰。人多謂真能生妄。故妄不窮盡。為決此理。重答前偈曰。不是真生妄。妄迷真而起。悟妄本自真。知真妄即止。妄止似終末。悟來似初始。迷悟性皆空。皆空無終始。生死由此迷。達此出生死。予味二老所答之辭。皆未副復禮問意。彼問真法本淨。妄念何由而起。但曰迷真不覺。則孰不能答耶。因為明其意。作偈曰。真法本無性。隨緣染淨起。不了號無明。了之即佛智。無明全妄情。知覺全真理。當念絕古今。底處尋終始。本自離言詮。分別即生死。

> 唐僧の復礼は法弁に優れ、当時の人々から尊敬されていた。彼は『真妄偈』を作り、天下の学者に問うた。 「真の法性は本来清浄なり。妄念は何より起こるや。 真より妄生ずれば、この妄はどこに止まらん。 初めなければ末もなく、終わりあれば始めもあるべき。 始めなくて終わりなし、この理に長く惑う。 願わくは玄妙を開き、これを析いて生死を出でんことを。」 清涼国師は答えて曰く。 「真に迷えば妄念生じ、真を悟れば妄即ち止む。 迷う能いは迷われる所にあらず、どうして長く相似せん。 從來悟ったことなければ、故に妄に始めなしと言う。 妄が本来真なることを知れば、こそ恒の妙理たる。 分別の心未だ忘れず、何によりて生死を出でん。」 圭峰禅師は答えて曰く。 「本来清浄、本来覚めず、これにより妄念起こる。 真を知れば妄は即ち空、空を知れば妄は即ち止む。 止む処を終わりと名づけ、迷う時を始めなしと号す。 因縁は幻夢の如し、何の終わり何の始めか。 これ衆生の源、これを窮めて生死を出づ。」 また曰く。 「人は多く、真が妄を生ずと謂い、故に妄は窮まり尽きず。この理を決するため、前の偈に重ねて答う。 真より妄を生ずるにあらず、妄は真に迷いて起こる。 妄が本来真なることを悟れば、真を知って妄は即ち止む。 妄止むは終末に似、悟り来たるは初始に似たり。 迷悟の性皆空、皆空に終始なし。 生死はこれにより迷い、これを達して生死を出づ。」 私は二老の答えた言葉を味わうに、皆復礼の問いの意に副わず。彼の問いは「真法は本来清浄、妄念は何より起こるか」というに、ただ「真に迷い覚めざる故」と言うのみでは、誰でも答えられよう。そこでその意を明らかにし、偈を作る。 「真法は本来性なく、縁に随って染浄起こる。 了らざれば無明と号し、これを了れば即ち仏の智。 無明は全く妄情、知覚は全く真理。 当念に古今を絶ち、底処に終始を尋ぬるなかれ。 本来言詮を離れ、分別すれば即ち生死。」

雲菴和尚甞曰。諸佛隨宜說法。意趣難解。如起信曰若有眾生來求法者。隨己能解。方便為說。不應貪著名利恭敬。唯念自利利他。回向菩提故者。為弘法太峻者言之也。圓覺曰末世眾生欲修行者。應當盡命供養善友。事善知識。彼善知識欲來親近。應斷瞋恨。現逆順境。猶如虗空者。為求道不精進者言之也。雖然。為弟子者能不忘精進。則為師者不害於太峻。方今學者未能盡致敬之禮。而責以慳法則過矣。侍者進曰。然則三世如來法施之式。可得聞乎。曰。法華曰。於一切眾生平等說法。以順法故。不多不少。乃至深愛法者。亦不為多說。此佛之遺意也。

> 雲菴和尚がかつてこう言われた。 「諸仏が衆生に応じて説法されるその真意は、理解しがたいものだ。 例えば『大乗起信論』に、『もし衆生が法を求めて来たならば、自らの理解できる範囲で、方便を以て説くべきである。名利や恭敬に貪着すべきではなく、ただ自利利他を念じ、菩提に向けて回向するためである』とあるのは、法を弘めることがあまりに峻厳な者に対する言葉である。 また『円覚経』に、『末世の衆生で修行を志す者は、命を尽くして善友を供養し、善知識に仕えるべきである。その善知識が親しく近づこうとする時は、瞋恨を断ち、順境・逆境を現じても、虚空のように受け容れるべきである』とあるのは、求道に精進しない者に対する言葉である。 とはいえ、弟子たる者が精進を忘れなければ、師たる者が峻厳であっても害にはならない。今の学人が、未だ十分な敬意の礼を尽くさないうちに、法を惜しむことを責めるのは、行き過ぎである。」 すると侍者が進み出て言った。 「では、三世の如来が法を施されるお手本について、お聞かせいただけますでしょうか。」 和尚は答えられた。 「『法華経』に、『一切の衆生に対して平等に説法し、法に順うがゆえに、多くもなく少なくもなく、たとえ深く法を愛する者に対しても、多く説くことはしない』とある。これが仏の遺されたお心である。」

達觀穎禪師初出東吳。年纔十六七。泊舟秦淮。宿奉先寺。時寺皆講。人見其禪者。又少之。不為禮。穎讓曰。佛記比丘。惡客比丘至者。法將滅。爾輩安為之耶。有畣者曰。上人即主此。敬客未晚。㯋笑曰。我顧未暇居此。然能易道行者。使飯十方僧。報佛恩耳。時內翰葉公清臣守金陵。穎袖書謁之。葉公曰。昨晚至此。何以知建寺始末之詳如此乎。對曰。夜閱舊󳬴知之。因極言律居之弊。敗傷風化。葉公大奇之。奉先緣是乃為禪林。吳中講師多譏諸祖傳法偈無譯人。禪者與之辨。失其真。適足以重其謗。穎諭之曰。此達磨為二祖言者也。何須譯人耶。如梁武初見之。即問。如何是聖諦第一義。答曰。廓然無聖。進曰。對朕者誰。又曰。不識。使達磨不通方言。則何於是時便能爾耶。講師不敢復有辭。其挫服魔外之氣。無師自然之智發自妙齡。而遇事則應無所疑畏。天性則然。後為石門聦之嗣。首山嫡孫也。

> 達観穎禅師が初めて東呉を出たとき、まだ十六、七歳でした。 秦淮に舟を泊め、奉先寺に宿をとりました。 当時、寺は皆、講義を主としていました。 人々は彼が禅僧であるのを見て、また若いという理由で、礼を尽くしませんでした。 穎はたしなめて言いました。 「仏は、比丘が悪客のように振る舞い、比丘が来ても法が滅びようとしていると記されています。 あなたがたはどうしてそんなことをするのですか」 答える者がいました。 「上人こそがここを主とされるなら、客を敬うのも遅くはありません」 穎は笑って言いました。 「私はまだここに住む暇はありません。 しかし、道を行く者を変えて、十方の僧に食事を施し、仏の恩に報いることはできます」 当時、内翰の葉清臣公が金陵を守っていました。 穎は袖に書を携えて彼を訪ねました。 葉公は言いました。 「昨夜ここに着いたばかりなのに、どうして建寺の始末をこんなに詳しく知っているのですか」 穎は答えました。 「夜、古い記録を読んで知りました」 そして、律を主とする住まいの弊害、風俗を損なうことを極力説きました。 葉公は大いに驚き、奉先寺はこれによって禅林となりました。 呉中の講師たちは、諸祖の伝法偈には訳者がいないと多くを批判しました。 禅僧たちが彼らと論じても、真実を失い、かえって彼らの誹謗を重くするだけでした。 穎は彼らを諭して言いました。 「これは達磨が二祖に語ったものです。 どうして訳者が要りましょうか。 例えば、梁の武帝が初めてお会いになったとき、すぐに『聖諦第一義とは何か』と問われました。 答えは『廓然として聖なし』。 さらに『朕に対している者は誰か』と問われ、また『識らず』と答えました。 もし達磨が方言に通じていなければ、どうしてその時、すぐにそうできたでしょうか」 講師たちはそれ以上、言葉を返すことができませんでした。 彼が魔や外道の気勢を挫き、師なくして自然に発揮する智慧は、幼い頃から現れていました。 そして、事に遇えば応じ、疑いも畏れもありませんでした。 天性がそうさせたのです。 後に彼は石門聡の嗣法となり、首山の嫡孫となりました。

涅槃經。迦葉菩薩白佛言。世尊。如佛所說。諸佛世尊有秘密藏。是義不然。何以故。諸佛世尊唯有密語。無密藏。譬如幻主機關木人。人雖覩見屈伸俯仰。莫知其內而使之然。佛法不爾。咸令眾生悉得知見。云何當言佛世尊有秘密藏。佛讚迦葉。善哉。善哉。善男子。如汝所言。如來實無秘密之藏。何以故。如秋滿月處空。顯露清淨無翳。人皆觀見。如來之言亦復如是。開發顯露。清淨無翳。愚人不解。謂之秘藏。智者了達。則不名藏。又曰。又無語者。猶如嬰兒言語未了。雖復有語。實亦無語。如來亦爾。語未了者。即秘密之言。雖有所說。眾生不解。故名無語。故石頭曰。乘言須會宗。勿自立規矩。藥山曰。更須自看。不得絕却言語。我今為汝說者箇語顯無語底。長慶曰。二十八代祖師皆說傳心。且不說傳語。且道心作麼生傳。若也無言啟蒙。何名達者。雲門曰。此事若在言語上。三乘十二分教豈是無說。因什麼道教外別傳。若從學解機智得。只如十地聖人說法如雲如雨。猶被佛呵見性如隔羅縠。以此故知。一切有心。天地懸殊。雖然如是。若是得底人。道火何曾燒著口耶。予每曰。衲子於此徹去。方知諸佛無法可說。而證言說法身。如何是言說法身。自答曰。斷頭船子下楊州。

> 涅槃経。迦葉菩薩が仏に申し上げた。「世尊よ。仏がおっしゃるように、諸仏世尊には秘密の蔵があると。しかし、この意味はそうではないと思います。なぜなら、諸仏世尊には秘密の言葉はあっても、秘密の蔵はないからです。たとえば、幻術師が仕掛け人形を操れば、人はその屈伸や俯仰を見ても、内側の仕組みを知ることはできません。しかし、仏法はそうではありません。すべての衆生に知らせ、見せることができるのです。どうして仏世尊に秘密の蔵があると言えるでしょうか。」 仏は迦葉を称えて言われた。「善きかな、善きかな。善男子よ、汝の言う通りである。如来には実に秘密の蔵などない。なぜなら、秋の満月が虚空にあり、明らかに露わで、清らかで曇りがなく、人は皆それを見ることができるように、如来の言葉もまた同じである。開き示され、明らかにされ、清らかで曇りがない。愚かな人はそれを理解せず、秘密の蔵と言う。智者は明らかに悟り、それを蔵とは呼ばない。」 また言われた。「また、『無語』というものがある。それはまるで、言葉が未熟な幼児のようである。言葉はあっても、実は言葉がない。如来もまた同じである。言葉が未熟なもの、それが秘密の言葉である。たとえ何かを説いても、衆生が理解しなければ、それ故に『無語』というのである。」 それ故に石頭和尚は言われた。「言葉に乗じて、必ずその宗旨を会得せよ。自ら規矩を立ててはならない。」 薬山和尚は言われた。「さらに自ら看よ。言葉を絶やしてはならない。我が今、汝にこの語を示すのは、無語の底を顕わすためである。」 長慶和尚は言われた。「二十八代の祖師は皆、心を伝えると言い、言葉を伝えるとは言わない。さて、心はどうやって伝えるのか。もし言葉で啓蒙されなければ、どうして達者と言えようか。」 雲門和尚は言われた。「この事がもし言葉の上にあるなら、三乗十二分教に説かれていないことがあろうか。なぜ教外別伝と言うのか。もし学解や機智から得られるなら、たとえ十地の聖人が雲や雨のように説法しても、なお仏に呵責され、見性は羅縠（薄絹）一枚隔てたようだと。これによって知る、すべて心あるものは、天地ほどに懸け離れている。とはいえ、もし悟りを得た人であれば、道の火が口を焼くことがあろうか。」 私は常に言う。「僧侶たる者、ここに徹して初めて、諸仏には説くべき法がなく、しかも言説の法身を証することを知るのである。」 では、言説の法身とは何か。自ら答えて言おう。「断頭の船、楊州に下る。」

王文公曰。佛與比丘辰巳間應供。名為齋者。與眾生接。不可不齋。又以佛性故。等視眾生。而以交神之道見之。故首楞嚴曰。嚴整威儀。肅恭齋法。又曰。梵語三昧。此云正定。正定中所受境界謂之正受。異於無明所緣受。故圓覺曰。三昧正受。釋者謂梵語三昧。此云正受。而寶積云三昧及正受。則此釋非也。

> 王文公は言われました。仏と比丘たちは辰巳の刻（午前八時ごろ）に食事を供されることを「斎」といい、衆生と接するにあたって斎戒を守らなければならない、と。また、仏性があるゆえに、すべての衆生を平等に見て、精神を通わせる道によって接するのです。そこで『首楞厳経』には、「威儀を厳かに整え、斎法を恭しく守れ」とあります。また、サンスクリット語の「三昧（サマーディ）」は、中国語で「正定」と訳されます。正定の中で体験される境地を「正受」といい、無明に縁づく感受とは異なります。『円覚経』には「三昧正受」とありますが、これを解釈する者たちは「サンスクリット語の三昧は中国語で正受という」と説明しています。しかし『宝積経』には「三昧及び正受」とあるので、この解釈は正しくありません。

曹溪大師將入涅槃。門人行瑫．超俗．法海等問。和尚法何所付。曹溪曰。付囑者二十年外於此地弘揚。又問。誰人。答曰。若欲知者。大庾嶺上以網取之。圭峰欲立荷澤為正傳的付。乃文釋之曰。嶺者。高也。荷澤姓高。故密示之耳。欲抑讓公為旁出。則曰。讓。則曹溪門下旁出之汎徒。此類數可千餘。嗚呼。逐鹿者不見山。攫金者不見人。殆非虗言。方密公所見。唯荷澤故。諸師不問是非。例皆毀之。如大庾嶺上以網取之之語。是大師末後全提妙旨。而輙以意求。讓公僧中之王。而謂之汎徒。詳味密公之意。可以發千載之一笑。

> 曹渓大師が涅槃に入ろうとされた時、門人の行瑫・超俗・法海らが尋ねた。 「和尚の法は誰に託されるのですか」 曹渓は答えられた。 「託す者は二十年後、この地で広く説くであろう」 さらに尋ねた。 「それは誰ですか」 答えて言われた。 「知りたければ、大庾嶺で網をかけて捕らえるがよい」 圭峰は荷沢を正統な継承者として立てようとし、次のように解釈した。 「嶺とは高いことである。荷沢の姓は高である。ゆえに密かに示されたのだ」 そして、懐譲禅師を傍流としようとして言った。 「懐譲は曹渓門下の傍出した凡僧にすぎない。そのような者は千余りもいる」 ああ、鹿を追う者は山を見ず、金を奪おうとする者は人を見ない。まさにその言葉どおりである。 圭峰が見ていたのは荷沢だけだった。だから他の師たちの是非を問わず、ことごとく貶めたのだ。 「大庾嶺で網をかけて捕らえる」という言葉は、大師が最後に示された全体的な妙旨であるのに、勝手に意味を求め、 懐譲公のような僧中の王者を凡僧と呼ぶとは。 圭峰の意図をよく味わえば、千年の一笑を誘うことだろう。

老安國師有言曰。金剛經曰。應無所住而生其心。無所住者。不住色．不住聲．不住迷．不住悟．不住體．不住用。而生其心者。即一切法而顯一心。若住善生心。即善現。若住惡生心。即惡現。本心即隱沒。若無所住。十方世界唯是一心。信知曹溪大師云。風幡不動。是心動。脩山主有偈曰。風動心搖樹。雲生性起塵。若明今日事。暗却本來人。

> 老安國師はこのように言われました。 『金剛経』に「応無所住而生其心」とあります。 「無所住」とは、色に住まず、声に住まず、迷いに住まず、悟りに住まず、体に住まず、用に住まないことです。 「而生其心」とは、一切の法を通して一心を顕すことです。 もし善に住んで心を生ずれば、善が現れます。 もし悪に住んで心を生ずれば、悪が現れます。 そうなると本来の心は隠れてしまいます。 もし何にも住まなければ、十方世界はただ一心であるとわかります。 曹渓大師が「風幡不動。是心動」と言われたことが信じられます。 脩山主はこのような偈を詠まれました。 風が動けば心は木を揺らし 雲が生ずれば本性は塵を起こす もし今日の事を明らかにすれば 本来の人は暗くなってしまう

有僧問晦堂老人曰。五祖前身。栽松道者。甞託周氏女而生。彼三緣不和合。何從而生耶。老人笑曰。汝聞樹提伽生於火中。伊尹生於空桑乎。對曰。聞之。汝於彼二人乃不疑其生不由三緣。而獨疑五祖耶。方今士大夫之留意宗乘者。皆以此為疑。及聞此語。莫不釋然。予以謂老人所示。未欲極教乘之本意。第就其機。息狂情耳。馬大師曰。佛是能仁。有智慧。善機宜。能破一切眾生疑網。出離有無等縛。其斯之謂歟。

> ある僧が晦堂老人に尋ねました。 「五祖大師の前世である栽松道者は、かつて周氏の娘に託って生まれました。 父・母・子の三縁が和合していないのに、どうして生まれることができたのでしょうか」 老人は笑って言いました。 「あなたは、樹提伽が火の中から生まれ、伊尹が空桑から生まれたという話を聞いたことがありますか」 僧は答えました。 「聞いたことがあります」 「それなら、その二人については三縁によらずに生まれたことを疑わないのに、五祖だけを疑うのですか」 今、宗乗（禅宗の教え）に心を留める士大夫たちは、皆このことを疑っていました。 しかしこの話を聞いて、誰もがすっきりと納得したのです。 私は思います。 老人が示したのは、必ずしも教乗の根本的な意味を極めようとしたのではなく、 ただその機根に応じて、狂った思いを静めさせただけなのでしょう。 馬大師（馬祖道一禅師）はこう言われました。 「仏は能仁（慈悲深い者）であり、智慧を持ち、機宜に巧みで、 一切の衆生の疑いの網を破り、有無などの束縛から離れさせることができる」 まさにこのことを言われたのでしょう。

宗鏡錄。曰。雖然心即是業。業即是心。既從心生。還從心受。如何現今消其妄業報。答曰。但了無作。自然業空。所以云。若了無作惡業。一生成佛。又曰。雖有作業而無作者。即是如來秘密之教。又凡作業。悉是自心橫計外法。還自對治。妄取成業。若了心不取境。境自不生。無法牽情。云何成業。予甞作偈釋其旨曰。舉手炷香而供養佛。其心自知應念獲福。舉手操刀恣行殺戮。其心自知死入地獄。或殺或供一手之功。云何業報罪福不同。皆自橫計有如是事。是故從來枉沈生死。雷長芭蕉銕轉磁石。俱無作者而有是力。心不取境境亦自寂。故如來藏不許有識。

> 『宗鏡録』に曰く。心はすなわち業であり、業はすなわち心である。心から生じたものは、また心によって受け取られる。では、今現在、どのようにして迷いの業とその報いを消し去ることができるのか。答えは、ただ「無作」を悟れば、自然に業は空となる。だからこそ、「もし無作の悪業を悟れば、一生で仏となる」と言われている。また、「業を作ることはあっても、それを作る者はいない。これが如来の秘密の教えである」とも言われている。さらに、すべての業は、自心が外の法を勝手に計らい、自ら対処し、妄りに取って業を成すものである。もし心が境を取らないと悟れば、境は自ら生じず、法が情を引くこともなく、どうして業が成り立とうか。 かつて私は、その趣旨を釈した偈を作った。 手を挙げて香を焚き、仏を供養する。 その心は自ら知る、念に応じて福を得ることを。 手を挙げて刀を操り、殺戮をほしいままに行う。 その心は自ら知る、死して地獄に入ることを。 殺すことも供養することも、同じ一つの手の働き。 どうして業報の罪福が同じではないのか。 すべては自らが勝手に計らい、このような事があると思い込むからである。 それゆえ、これまでずっと生死に沈んできたのだ。 雷が芭蕉を裂き、磁石が鉄を引き寄せる。 どちらも作者はいないが、その力はある。 心が境を取らなければ、境もまた自ずと静まる。 だから、如来蔵には識があることを許さないのである。

維摩經曰入不思議境。如借座燈王。取飯香土。促演其日劫大小之相容。可以神會妙旨。至曰一切聲聞。聞是不可思議解脫法門。皆應號泣。聲震三千大千世界。極難解通。首楞嚴曰一人發真歸源。十方虗空悉皆消殞。見道者。妄盡覺明。自見空殞。可也。而下文乃又曰一切魔王見其宮殿無故坼裂。為難和會。古諸法師俱有注釋。校其所論。未容無說。

> 『維摩経』には、不可思議な境地に入ることについて述べられています。例えば、燈王から座を借りたり、香積仏の国から食事を取ったりするようなことです。時間の長短が互いに相容れるという理を、短い時間の中で長い劫を演じることで示しています。これは、神妙な意味を心で会得すべきものです。また、すべての声聞がこの不可思議な解脱の法門を聞けば、皆、声をあげて泣き、その声は三千大千世界に響き渡るべきだと説かれています。これは非常に理解しがたいことです。 『首楞厳経』には、一人が真実を発して本源に帰れば、十方の虚空がことごとく消え失せるとあります。悟りを開いた者は、妄念が尽きて覚りが明らかになり、自ら虚空の消滅を見るというのは理解できます。しかし、その後に、すべての魔王が自分の宮殿が理由もなく壊れるのを見て、これを難しく感じるという記述があります。これは一見、矛盾しているように思えます。古来の多くの法師たちが注釈を施してきましたが、彼らの論を検討してみても、説得力のある説明がないわけではありません。

臨濟大師建立四賓主。今徒閱其語。竟莫能分辨之。知之者。未必真。不知者。以為苟然。又有四喝。一喝如金剛王寶劍。一喝如踞地師子。一喝如探竿影草。有時一喝不作一偈用。如踞地師子。探竿影草。後學往往不省其何等語。安能識其意耶。不過曰此古人一期建立之辭耳。何足問哉。然則臨濟之言遂為虗語也。今係其偈於此曰。金剛王劒覿露堂堂。才涉唇吻即犯鋒鋩。踞地師子本無窠臼。顧佇之間即成滲漏。探竿影草莫入陰界。一點不來賊身自敗。有時一喝不作喝用。佛法大有只是牙痛。

> 臨済大師は四賓主を打ち立てられた。今、人々はただその言葉を読み、ついにそれを区別することができない。知っている者は、必ずしも真実を知っているわけではなく、知らない者は、それをいい加減なものと思っている。また四喝がある。一喝は金剛王の宝剣の如く、一喝は地に踞える師子の如く、一喝は探竿影草の如く、時に一喝は一喝として用いられない。地に踞える師子や探竿影草について、後学の者は往々にしてそれがどのような言葉であるか理解せず、どうしてその意味を知ることができようか。ただ「これは古人が一時的に打ち立てた言葉に過ぎない」と言うだけで、何も問うに足りないとする。それでは臨済の言葉はついに空しい言葉になってしまう。今ここにその偈を記す。金剛王の剣は堂々と露わに現れ、わずかに唇に触れるやたちまちその鋭鋒に触れる。地に踞える師子には本来巣窟がなく、一瞬のためらいの間にすでに漏れ出てしまう。探竿影草は陰界に入るな、一点も来なければ賊の身は自ら敗れる。時に一喝は喝として用いられず、仏法は大いにあれどもただ歯痛に過ぎない。

予游長沙至鹿苑。見岑禪師𦘕像。想見其為人。作岑大蟲贊并序。曰。如來世尊語阿難曰。汝元不知一切浮塵諸幻化相。當處出生。隨處滅盡。幻妄稱相。其性真為妙覺明體。龍勝菩薩曰。諸法不自生。亦不從他生。不共不無因。是故說無生。以佛祖之辯。談心法之妙。其清淨顯露如掌中見物。無可疑者。而末世眾生卒不明了者。蓋其迷妄之極。非其所聞之習故也。禪師憫之。故於所習之境譬之曰。若心是生。則夢幻空華亦應是生。若身是生。則山河大地．森羅萬象亦應是生。大哉言乎。與首楞嚴．中觀論相終始也。禪師大寂之孫。南泉之子。趙州之兄。開法於長沙之鹿苑。當時衲子倔強如仰山者猶下之。而呼以為岑大蟲云。為之贊曰。長沙大蟲。聲威甚重。獨眠空林。百獸震恐。寂子兒癡。見不知畏。引手捋鬚。幾缺其耳。大空小空。是虎是你。如備與覺。可撩其尾。嗟今衲子。眼如裴旻。但見其彪。安識虎真。我拜公像。非存非沒。百尺竿頭。行塵勃勃。

> 予は長沙を遊歴し、鹿苑に至り、岑禅師の絵像を見て、その人となりを偲び、岑大虫の賛と序を作った。 序に曰く、如来世尊は阿難に告げて言われた。「汝は元来、一切の浮き塵のような幻化の相が、その場で生じ、その場で滅することを知らない。幻妄は相と称するが、その本性は真実の妙覚明体である」と。龍樹菩薩は言われた。「諸法は自ら生ずるのでもなく、他から生ずるのでもない。共に生ずるのでもなく、無因でもない。ゆえに無生と説く」と。 仏祖の弁舌をもって、心法の妙を語れば、その清浄さは掌中の物を見るかのように明らかで、疑う余地はない。しかし、末法の衆生がついに理解できないのは、迷妄が極まり、聞き慣れた習いではないからである。禅師はこれを哀れみ、慣れ親しんだ境に対して譬えて言われた。「もし心が生じるというなら、夢幻や空華もまた生じるはずである。もし身が生じるというなら、山河大地や森羅万象もまた生じるはずである」と。 なんと大いなる言葉であろうか。これは『首楞厳経』や『中観論』の教えと終始一貫している。禅師は大寂禅師の孫、南泉禅師の子、趙州禅師の兄であり、長沙の鹿苑で法を開かれた。当時、仰山のような強情な修行者でさえも師に従い、「岑大虫」と呼んでいた。 賛に曰く、 長沙の大虫、声威は甚だ重し。 独り空林に眠り、百獣震恐す。 寂子の児痴、見て畏れを知らず。 手を引いて鬚を撫で、幾らか其の耳を欠く。 大空も小空も、是れ虎か汝か。 備と覚の如く、其の尾を撩ぐべし。 嗟け今の衲子、眼は裴旻の如し。 但だ其の彪を見て、安んぞ虎の真を識らん。 我公の像を拝し、存せず没せず。 百尺の竿頭、行塵勃勃たり。

白雲端禪師曰。天下叢林之興。大智禪師力也。祖堂當設達磨初祖之像於其中。大智禪師像西向。開山尊宿像東向。得其宜也。不當止設開山尊宿而略其祖宗耳。雲居祐禪師曰。吾觀諸方長老。示滅必塔其骸。山川有限。而人死無窮。百千年之下。塔將無所容。於是於宏覺塔之東作卵塔。曰。凡住持者。自非生身不壞。火浴雨舍利者。皆以骨石填於此。其西又作卵塔。曰。凡眾僧化。皆藏骨石於此。謂之三塔。二大老識度高遠。可為後世法。然孤論難持。犯眾難成。卒必有賞音者。吾將觀焉。

> 白雲端禪師は言われた。天下の叢林（修行道場）が栄えるのは、大智禅師の力によるものである。祖堂には、達磨大師の像を中央に安置し、大智禅師の像は西向きに、開山の尊宿（高僧）の像は東向きに置くのが適切である。開山の尊宿だけを祀り、歴代の祖師を軽んじてはならない。 雲居祐禅師は言われた。私は各地の長老を見るに、入寂されると必ず遺骨を塔に納めている。しかし、山や川には限りがあるのに、人の死には終わりがない。千年も経てば、塔を建てる場所もなくなるだろう。そこで、宏覚塔の東側に「卵塔」を建て、こう定めた。「住職たる者、生前から不壊の身でなく、火葬後に舎利が得られない場合は、すべて遺骨をここに納めること」。さらに西側にも卵塔を建て、「一般の僧侶が亡くなった際は、遺骨をここに納めること」とした。これを「三塔」と呼ぶ。 このお二人の大徳は、見識が高く遠大であり、後世の規範となるべき方々である。しかし、独りよがりの考えは続かず、多くの人々の反発にあえば実現は難しい。それでも、必ず理解してくれる者が出てくるだろう。私はそれを待ち望んでいる。

東京覺嚴寺有誠法師講華嚴經。歷席最久。學者依以揚聲。其為人純至。少緣飾。高行遠識。近世講人莫有居其右者。元祐初。高麗僧統航海至。上表乞傳持賢首宗教歸本國流通。奉聖旨下兩街。舉可以授法者。有司以師為宜。上表辭免曰。臣雖刻意講學。識趣淺陋。特以年運已往。妄為學者所推。今異國名僧航海問道。宜得高識博聞者為之師。竊見杭州慧因院僧道源。精練教乘。旁通外學。舉以自代。實允公議。奉聖旨。依所乞。勑差朝奉郎揚傑館伴至錢塘受法。

> 東京の覚厳寺に有誠法師という方がおられ、華厳経を講義されていました。その講席に長く在籍され、学僧たちは師に依って名声を高めました。師の人柄は純粋で誠実、飾り気がなく、高潔な行いと深遠な見識を持ち、近世の講師の中では右に出る者はありませんでした。 元祐の初め、高麗の僧統が海を渡って来朝し、上表して賢首宗の教えを伝授し、自国に持ち帰り流布することを請願しました。聖旨により、両街（左右街僧録司）に命じて、法を授けるにふさわしい者を推薦させたところ、有司は師を適任としました。しかし師は上表して辞退され、こう申し上げました。 「臣は確かに講学に力を注いできましたが、識見も趣向も浅はかです。ただ年月が経つにつれ、妄りに学者たちに推戴されてきたに過ぎません。今、異国の名僧が海を渡って教えを請うに当たっては、高識博聞の方を師とすべきです。私の見るところ、杭州慧因院の僧、道源は、教乗（仏教の教学）に精通し、外学（仏教以外の学問）にも通じておられます。彼を代わりに推挙いたします。これこそ公議に適うことと存じます。」 聖旨により、その願いが聞き届けられました。勅命によって朝奉郎の楊傑が館伴（接待役）に任じられ、道源師のもとへ錢塘まで赴き、法を受けました。

予建中靖國之初。故人處獲洞山初禪師語一編。福嚴良雅所集。其語言宏妙。真法窟爪牙。大略曰。語中有語。名為死句。語中無語。名為活句。未達其源者。落在第八魔界中。又曰。言無展事。語不投機。乘言者喪。滯句者迷。於此四句語中見得分明也。作箇脫洒衲僧。根椽片瓦粥飯因緣。堪與人天為善知識。於此不明。終成莽鹵。雲菴平生說法。多稱初悟門。度越格量。偶閱舊記。見其寄道友偈并序曰。昔洞山參雲門。悟旨於言下。入佛正知見。所有炙脂帽子．鶻臭布衫皆脫去。以四句偈明其悟。盖得展事自在之用。投機善巧之風。故其應機接物不乘言。不滯句。如師子王得大自在。於哮吼時。百獸震駭。盖法王法如是故也。又世所傳見雲門者。皆坐脫立亡。何哉。以無佛法知見故也。因隨句釋以奉寄曰。大用現前能展事。春來何處不開花。放伊三頓參堂去。四海當知共一家。又曰。千差萬別解投機。明眼宗師自在時。北斗藏身雖有語。出群消息少人知。又曰。游山翫水便乘言。自己商量總不偏。鶻臭布衫脫未得。且隨風俗度流年。又曰。滯句乘言是瞽聾。參禪學道自無功。悟來不費纖毫力。火裏蝍蟟吞大蟲。

> 予が建中靖國の初めに、旧友の住まいで洞山初禅師の語録一編を得た。福厳良雅が編んだもので、その言葉は雄大で妙なるものがあり、真の法窟の爪牙であった。大要は次の通りである。語の中に語があるのを「死句」といい、語の中に語がないのを「活句」という。その源を悟っていない者は、第八魔界に落ちる。また、言は事を展開せず、語は機に投ぜず、言葉に乗る者は失い、句に滞る者は迷う。この四句の言葉の中にはっきりと見えれば、洒脱な僧侶となり、根や椽、一片の瓦、粥飯の縁も、人天のために善知識となれる。これが明らかでなければ、結局は粗雑なままである。雲菴は平生説法するとき、多くは初悟の門を称し、格量を超えていた。たまたま旧記を読んで、彼が道友に寄せた偈と序を見た。かつて洞山が雲門に参じ、言葉の下で悟旨を得て、仏の正知見に入り、すべての炙脂帽子や鶻臭布衫を脱ぎ去った。四句の偈でその悟りを明らかにしたのは、事を展開する自在の用を得て、機に投ずる善巧の風があったからである。だから彼は機に応じ物に接するとき、言葉に乗らず、句に滞らず、師子王のように大自在を得ていた。哮吼するとき、百獣は震えおののく。これが法王の法のあり方である。また世に伝わる雲門を見た者は、皆坐脱立亡した。なぜか。仏法の知見がないからである。それゆえ、句に従って解釈を加えて奉寄した。大用現前して能く事を展べば、春来たって何処か花開かざらん。彼に三度参堂を許し去らしめよ、四海も当に一家を共にすべきことを知るべし。また曰く、千差万別に機に投ずることを解すれば、明眼の宗師自在の時。北斗に身を蔵すと雖も語有り、群を出づる消息少人知る。また曰く、山に游び水を翫べば便ち言に乗り、自己に商量すれば総べて偏らず。鶻臭布衫脱ぎ得ず、且つ風俗に随って流年を度る。また曰く、句に滞り言に乗ずるは瞽聾なり、禅を参じ道を学ぶも自ら功無し。悟り来たれば毫厘の力を費やさず、火裏の蝍蟟大虫を吞む。

宗道者。不知何許人。往來舒蘄間。多留於投子。性嗜酒。無日不酔。村民愛敬之。每餉以醇醪。居一日。方入浴。聞有尋宗者。度其必送榼至。裸而出。得酒徑去。人皆大笑。而宗傲然不怍。甞散衣下山。有逆而問者曰。如何是道者家風。對曰。袈裟褁草鞋。問意旨如何。曰。赤脚下桐城。陳退夫初赴省幃。過宗。戲問曰。瓘此行欲作狀元。得否。宗熟視曰。無時即得。莫測其言也。而退夫果以第三名上第。時彥作魁。方悟無時之語。宗見雪竇。而超放自如。言法華之流也。

> 宗道という人は、どこから来たのかはわからない。舒州と蘄州の間を往来し、多くは投子山に滞在していた。酒が大好きで、一日として酔っていない日はなかった。村人たちは彼を愛し敬い、いつも上等な酒を差し入れた。 ある日、ちょうど入浴していると、宗道を訪ねてくる者がいるのを耳にした。きっと酒を届けに来たに違いないと思い、裸のまま出て行き、酒を受け取るとそのまま去っていった。人々はみな大笑いしたが、宗道は平然として恥じるそぶりも見せなかった。 かつて、だらりとした衣をまとって山を下りていくと、向かってくる人が尋ねた。 「道者さまの家風とはどのようなものでしょうか」 宗道は答えた。 「袈裟に草鞋を包むことです」 「その意味は？」 「裸足で桐城へ下るのです」 陳退夫が初めて都の試験に向かう途中、宗道のところを通りかかり、冗談半分に尋ねた。 「私、このたび状元になれるでしょうか」 宗道はじっと彼を見つめて言った。 「無時であればなれます」 その言葉の意味は誰にもわからなかった。しかし退夫は第三位で合格し、時彦が状元となった。その時、初めて「無時」という言葉の意味がわかったのである。 宗道は雪竇に会い、超然として自在に振る舞った。言法華のような流れを汲む者であった。

雪竇初在大陽玄禪師會中典客。與僧夜語。雌黃古今。至趙州栢樹子因緣。爭辨不已。有行者立其旁。失笑而去。客退。雪竇呼至。數之曰。對賓客敢爾耶。對曰。知客有定古今之辯。無定古今之眼。故敢笑曰。且趙州意。汝作麼生會。因以偈對曰。一兔橫身當古路。蒼鷹纔見便生擒。後來獵犬無靈性。空向枯樁舊處尋。雪竇大驚。乃與結友。或云即承天宗禪師也。予謂聞此可以想見當時法席之盛也。

> 雪竇は初め、太陽玄禅師の会下で客殿を司っていた。ある夜、僧と語らい、古今の事を論じていた。趙州の「柏樹子」の因縁に至り、激しく論じ合い、決着がつかなかった。そこに一人の行者が傍らに立ち、思わず笑いを漏らして立ち去った。客が引き下がると、雪竇はその行者を呼び寄せ、咎めた。「賓客の前でよくもそんなことをするな」。行者は答えた。「知客さまには、古今を論じ定める弁舌はおありですが、古今を見定める眼はお持ちでないと存じました。ゆえに笑わずにはいられなかったのです」。雪竇が言った。「では、趙州の意を、お前はどう受け取るのか」。行者は偈をもって答えた。 一匹の兎が古い道に横たわる 蒼鷹はそれを見るや、たちまち生け捕りにする 後に来た猟犬は霊性なく 枯れ木の古い場所ばかりを探し回る 雪竇は大いに驚き、やがて彼と友となった。あるいは、この行者こそが後の承天宗禅師であったともいう。私は思う、この話を聞けば、当時の法席の盛んな様子が偲ばれるというものだ。

晦堂老人甞以小疾。醫寓漳江。轉運判官夏倚公立往見之。因劇談妙道。至會萬物為自己及情與無情共一體。時有犬臥香案下。以壓尺擊。又擊香案曰。犬有情即去。香案無情自住。情與無情如何得成一體去。夏不能答。晦堂曰。纔入思惟。便成剩法。何曾會物為己耶。老黃龍入滅。道俗請繼主道場。法席之盛。初不減平時。然性真率。不樂從事。五求解去。乃得謝事閑居。而學者益親。謝景溫師直守潭州。虗大溈以致之。三辭弗往。又囑江西彭汝礪器資請所以不應長沙之意。晦堂曰。願見謝公。不願領大溈也。馬祖．百丈已前。無住持事。道人相求於空閑寂寞之濵而已。其後雖有住持。王臣尊禮為人天師。今則不然。掛名官府。如有戶籍之民。直遣伍伯追呼耳。豈可復為也。器資以斯言反命。師直由是致書願得一見。不敢以住持相屈。遂往長沙。盖於四方公卿意合。則千里應之。不合。則數舍亦不往也。開法黃龍十二年。退居菴頭二十餘年。天下指晦堂為道之所在。盖末世宗師之典刑也。

> 晦堂老人はかつて軽い病気にかかり、医者を頼って漳江に滞在していた。その時、転運判官の夏倚公（夏倚）がすぐに訪ねてきて、共に深遠な仏法について語り合った。話は「万物を自己と一体とする」ことや「有情と無情が共に一つの体である」という境地にまで及んだ。ちょうど犬が香案の下で寝ていたので、晦堂は定規で犬を叩き、次に香案を叩いて言った。「犬は有情だから逃げた。香案は無情だから動かない。では、有情と無情がどうして一体になれるのか？」夏倚は答えられなかった。晦堂は言った。「考え始めた瞬間、それは余計なものになる。どうして万物を自己と一体とすることができようか？」 老黄龍（黄龍慧南）が入滅した後、僧侶や在家信者たちが晦堂に道場を継いでほしいと請うた。法席の盛況は、以前と全く変わらなかった。しかし、晦堂は真率な性格で、雑事に煩わされるのを好まず、五度も退去を願い出て、ようやく雑務から解放され閑居することができた。すると、学ぶ者たちはますます親しく集うようになった。 謝景温（師直）が潭州を治めていた時、大溈山の住職として晦堂を招こうとしたが、三度辞退されて行かなかった。そこで、江西の彭汝礪（器資）に頼み、なぜ長沙の招きに応じないのかを尋ねさせた。晦堂は言った。「謝公にお会いしたいとは思うが、大溈山を任されるのはご免だ。馬祖や百丈以前には、住持という役はなかった。修行者たちはただ静かな場所で互いに求め合っただけだ。その後、住持という役ができ、王侯や臣下が礼を尽くし、人々の師となった。しかし今は違う。名簿に名前が載り、戸籍を持つ民のようで、役人に呼び出されるだけだ。そんなことはもうできない。」 器資はこの言葉を伝えると、師直は手紙を送り、ぜひお会いしたいが、住持として招くつもりはないと伝えた。そこで晦堂は長沙へ向かった。四方の公卿と気が合えば千里でも応じるが、合わなければわずか数里でも行かないというのが彼の姿勢だった。 黄龍山で十二年間法を説き、その後は庵に退いて二十余年を過ごした。世の人々は晦堂を道が存在する場所と見なし、まさに末世における宗師の模範であった。

圓通祖印訥禪師告老於郡。乞請承天端禪師主法席。郡可其請。端欣然而來。自以少荷大法。前輩讓善叢林。責己甚重。故敬嚴臨眾。以公滅私。於是宗風大振。未幾年。訥公厭閴寂。郡守至。自陳客情。太守惻然目端。端笑唯唯而已。明日。登座曰。昔日大法眼禪師有偈曰。難難難是遣情難。情盡圓明一顆寒。方便遣情猶不是。更除方便太無端。大眾且道情作麼生遣。喝一喝。下座包腰而去。一眾大驚。遮留之不可。叢林至今敬畏之。

> 円通祖印訥禅師が郡に告老し、承天端禅師に法席を主たることを乞い請うた。郡はその請いを許した。端は欣んで来た。自らは若くして大法を荷うこと、先輩が叢林に善を譲ること、己を責むること甚だ重しとし、故に衆に臨むに敬厳をもってし、私を滅ぼすに公をもってした。ここにおいて宗風大いに振るう。未だ幾年もせず、訥公は閴寂を厭い、郡守の至るに及び、自ら客情を陳ぶ。太守は惻然として端を目す。端は笑って唯唯のみ。明日、座に登りて曰く、「昔し大法眼禅師に偈あり、曰く『難難難は是れ情を遣わす難し。情尽きて円明一顆寒し。方便遣情猶是れに非ず。更に方便を除くこと太だ無端なり』と。大衆、且つ道え、情をどうやって遣わすか」と。喝一喝して、座を下り包腰して去る。一衆大いに驚き、遮り留むるも不可なり。叢林は今に至るもこれを畏敬す。

南禪師住廬山歸宗。火一夕而燼。大眾譁譟動山谷。而黃龍安坐如平時。桂林僧洪準欲掖之而走。顧見叱之。準曰。和尚縱厭世間。慈明法道何所賴耶。因徐整衣起。而火已及座榻矣。坐是入獄。郡吏發其私忿。考掠百至。絕口不言。唯不食而已。兩月而後得釋。鬚髮不剪。皮骨僅存。真點胸迎於中塗。見之。不自知泣下。曰。師兄何至是也。黃龍叱曰。者俗漢。真不覺拜之。蓋其不動如山類如此。

> 南禅師が廬山の帰宗寺に住んでいた時、ある夜、火事が起きて寺は焼け落ちてしまった。大衆は騒ぎ、その声は谷に響き渡ったが、黄龍禅師は普段と変わらず静かに座っていた。桂林の僧・洪準が師を支えて逃げようとしたところ、振り返って叱りつけた。洪準は言った。「和尚はたとえこの世を厭われても、慈明禅師より受け継がれた法の道は、誰が頼りにすればよいのでしょうか」。すると、黄龍はゆっくりと衣を整えて立ち上がった。その時には、すでに炎は座っている榻（しき台）にまで迫っていた。 このことで黄龍は投獄された。郡の役人が私怨を晴らそうと、あらゆる拷問を加えたが、黄龍は一言も言わず、ただ食事を取らなかった。二か月後に釈放された時には、髪も髭も伸び放題、皮と骨ばかりになっていた。真点胸が途中で出迎えると、その姿を見て思わず涙を流し、「師兄、どうしてここまでなさったのですか」と言った。黄龍は叱りつけた。「この俗人め」。真点胸は気づかぬうちにひざまずいて礼をした。黄龍の、山のごとく動じない様は、まさにこのようなものだった。

曹山躭章禪師初辭洞山悟本。本曰。吾在雲巖先師處親印寶鏡三昧。事窮的要。今付受汝。汝善護持。無令斷絕。遇真法器。方可傳委。直須秘密。不得影露。恐屬流布。喪滅吾宗。夫末法時代。人多乾慧。若要辨認向去之人真偽。有三種滲漏。當機直須具眼。一．見滲漏者。機不離位。墮在毒海。二．情滲漏者。智常向背。見處偏枯。三．語滲漏者。體妙失宗。機昧終始。濁智流轉於此三種。子宜知之。又綱要三偈。初。敲倡俱行。曰。金針雙鎻備。狹路隱全該。寶印當空妙。重重錦縫開。其次。金鎻玄路。曰。交牙明中暗。功齊轉覺難。力窮尋進退。金鎻網鞔鞔。又其次。理事俱不涉。曰。理事俱不涉。回照絕幽微。背風無巧拙。電火爍難追。衲子當機能如電火難追。則方透三種滲漏。圓覺曰。眾生為解礙。菩薩未離覺。故知脫生死於言下。自非上根大智。何以臻此。大愚以黃檗為老婆。良有以也。黃檗每曰。決定不流至第二念。就中方入我宗門。盖宗乘有旨趣。下流不悟。妄生同異。欲望大法之興。不亦難乎。

> 曹山躰章禅師が初めて洞山悟本のもとを辞去しようとしたとき、悟本は言いました。 「私は雲巖先師のもとで、宝鏡三昧を直に印可された。その奥義を極め、今、そなたに授ける。よく護り保ち、絶やさぬようにせよ。真の法器に遇うまでは、伝えて委ねてはならぬ。必ず秘密にし、表に現してはならない。もし広く流布すれば、我が宗は滅びてしまうだろう。 末法の世では、人々は乾いた智慧ばかりが多い。もし、これから先の人々の真偽を見分けようとするならば、三種の滲漏がある。その場に応じて、直ちに眼を備えなければならない。 一、見滲漏──機が位を離れず、毒海に堕ちる。 二、情滲漏──智が常に背き向かい、見るところ偏枯に陥る。 三、語滲漏──体は妙なりながら宗を失い、機は終始を昧にする。 濁った智慧は、この三種を流転する。そなたはよく知っておくがよい。」 また、綱要の三偈がある。 初めに、敲倡俱行。 曰く、 「金針双鎖備え、狭路に隠れて全く該う。宝印空に当たりて妙なり、重重の錦縫開く。」 次に、金鎖玄路。 曰く、 「交牙、明の中の暗、功斉らかにして転ずるに覚え難し。力窮まって進退を尋ね、金鎖網鞔鞔たり。」 さらに次に、理事俱に涉らず。 曰く、 「理事俱に涉らず、回照幽微を絶つ。風に背いて巧拙無く、電火爍きて追い難し。」 衲子たるもの、その場に応じて電火の追い難きが如くならば、初めて三種の滲漏を透り得る。 円覚経に曰く、「衆生は解を礙とし、菩薩は未だ覚を離れず。」故に生死を言下に脱することを知る。上根大智にあらざれば、どうしてここに至れようか。 大愚が黄檗を老婆と言ったのも、もっともなことである。黄檗は常に言った、「決して第二念に流れず、その中において初めて我が宗門に入る」と。 そもそも宗乗には旨趣がある。下流の者は悟らず、妄りに同異を生じる。大法の興ることを望むのは、また難しくはないか。

龍牙和尚作半身寫照。其子報慈匡化為之贊曰。日出連山。月圓當戶。不是無身。不欲全露。二老洞山悟本兒孫也。故其家風機貴回互。使不犯正位。語忌十成。使不墮今時。而匡化匠心獨妙。語不失宗。為可貴也。餘杭政禪師甞自寫照。又自為之贊曰。貌古形踈倚杖黎。分明𦘕出須菩提。解空不許離聲色。似聽孤猿月下啼。政公超然奇逸人也。故其高韻如光風霽月。詞致清婉。而道味苦嚴。古今贊偈甚多。予尤愛此二篇。

> 龍牙和尚が半身の肖像を描いた。その弟子の報慈匡化が賛を添えて言った。 「日は連山に昇り、月は戸口に満ちる。 身がないわけではないが、すべてを露わにしたくはない。」 この二人は洞山悟本の法孫である。だからその家風は、機鋒を交わし合うことを重んじ、正位に触れず、言葉は十分を避け、時流に堕ちない。匡化は独自の妙味を込め、宗風を失わぬ言葉を紡いだ。貴いことである。 餘杭の政禅師も自ら肖像を描き、自ら賛を記した。 「古風な姿、ほっそりと杖に寄りかかる。 まさに描き出された須菩提。 空を解しても声色を離れず、 孤猿が月下で啼くのを聞くようだ。」 政公は超然とした奇抜な人であった。その高潔な風韻は、雨上がりの清らかな月光のようで、言葉は清らかで優美ながら、道の味わいは厳しく苦い。古今の賛偈は多いが、私は特にこの二篇を愛する。

圭峰日用偈曰。作有義事。是惺悟心。作無義事。是散亂心。散亂隨情轉。臨終被業牽。惺悟不由情。臨終能轉業。偶閱唐史。李訓之敗。被綠衣詭言黜官。走終南依密。密欲匿之。其徒不可。乃奔鳳翔。為盩庢吏所執。訓死。仇士良捕密詰之。怡然曰。與訓游久。吾法遇難則救。初無愛憎。死固吾分。予謂比丘於唐交士大夫者。或見於傳記。多犯法辱教。而圭峰獨超然如此。為史者亦欣然點筆疾書。盖其履踐之明也。觀其偈則無不欲透脫情境。譬如香象擺壞鐵鏁。自在而去。豈若蠅為唾所涴哉。

> 圭峰の日用偈に曰く、 「意義あることをなすは、これ悟りの心なり。 意義なきことをなすは、これ散乱の心なり。 散乱は情にしたがって転ず、臨終には業に牽かれる。 悟りは情によらず、臨終にはよく業を転ずる。」 たまたま唐史を読むに、李訓の敗北のとき、緑衣を着て官を免ぜられたと偽り、終南山に逃れて宗密に頼った。宗密は匿おうとしたが、弟子たちが許さず、鳳翔へ逃げたところ、盩庢の役人に捕らえられた。李訓が死ぬと、仇士良が宗密を捕らえて問いただした。宗密は穏やかに答えて言う、「李訓と長く交わりました。わが法は難に遇えば救うもので、元より愛憎はありません。死ぬことはもとよりわが本分です」と。 思うに、唐代の比丘で士大夫と交わる者は、伝記に見られるが、多くは法を犯し教えを辱める。しかし圭峰のみはかくも超然としていた。歴史を記す者も喜んで筆を走らせた。それは彼の実践の明らかさによるものであろう。その偈を観れば、情と境を透脱せんと欲しないものはない。あたかも香象が鉄鎖を振り壊し、自在に去るがごとし。どうして蠅が唾に汚されるようなことがあろうか。

雲菴住歸宗時。方送法眼大師茶毗。時雨新霽。泥方滑道。忽躂倒。大眾爭掖而起。舉火把曰。法眼茶毗。歸宗遭攧。呈似大眾。更無可說。

> 雲菴が帰宗寺に住んでいた頃、ちょうど法眼大師の荼毘を送る最中でした。雨が上がったばかりで、道はぬかるみ、滑りやすい状態でした。突然、雲菴は足を滑らせて倒れてしまいました。周りの人々が慌てて助け起こそうとすると、彼は松明を掲げて言いました。 「法眼は荼毘に付され、帰宗は転んだ。皆さんにお見せするが、これ以上言うことはない」

石頭大師作參同契。其末曰。謹白參玄人。光陰莫虗度。法眼禪師注曰。住。住。恩大難酬。法眼可謂見先德之心矣。眾生日用以妄想顛倒自蔽光明。故多遺時失候。謂之虗度光陰。有道者無他。能善用其心耳。故趙州曰。一切但仍舊。從上諸聖無不從仍舊中得。大智度論曰。眾生心性。猶如利刀。唯用割泥。泥無所成。刀日就損。理體常妙。眾生自麤。能善用之。即合本妙。首楞嚴曰。佛謂阿難。譬如琴瑟．箜篌．琵琶。雖有妙音。若無妙指。終不能發。汝與眾生亦復如是。寶覺真心。各各圓滿。如我按指。海印發光。汝暫舉心。塵勞先起。華嚴偈曰。若人欲識佛境界。當淨其意如虗空。遠離妄想及諸見。令心所向皆無礙。

> 石頭大師が『参同契』を作られた。その末尾に、「謹んで参玄の人に白す、光陰を虚度することなかれ」とある。法眼禅師がこれを注して、「住、住、恩大なり、報い難し」と言われた。法眼は、先徳の心をよく見抜かれたと言えよう。衆生は日々の生活において、妄想と顛倒によって自らの光明を覆い隠している。だから、時を逃し、機会を失うことが多い。これを「光陰を虚度する」という。有道の人に他はない、ただよくその心を用いることができるだけである。だから趙州は言われた、「一切はやはり旧のままである。歴代の諸聖も、みなこの『やはり旧のまま』の中から得たのである」と。『大智度論』には、「衆生の心性は、鋭い刀のようなものである。ただ泥を切るのに用いれば、泥は何も成さず、刀は日に日に損なわれる」とある。理体は常に妙なるものであるが、衆生は自ら粗になる。よくこれを用いるならば、即ち本来の妙なるものと合致するのである。『首楞厳経』には、仏が阿難に言われた、「例えば琴瑟・箜篌・琵琶があっても、妙なる音があっても、妙なる指がなければ、ついに発することはできない。汝と衆生もまた同じである。宝覚の真心は、それぞれ円満に具わっている。私が指を按ずれば、海印の光が発する。汝がわずかに心を挙げれば、塵労が先に起こる」と。『華厳経』の偈には、「もし人が仏の境界を知らんと欲すれば、その意を浄くすべし、虚空の如く。妄想および諸見を遠離し、心の向かうところ、みな障礙なからしむべし」とある。

大智禪師曰。夫教語皆是三句相連。初．中．後善。初直須教渠發善心。中破善。後始明善。菩薩即非菩薩。是名菩薩。法非法。非非法。總與麼也。若即說一句答。令人入地獄。若三句一時說。渠自入地獄。不干教主事。故知古大宗師說法皆依佛祖法式。不知者以謂苟然語。如無著所釋金剛般若是此意也。洞山安立五位。道眼明者視其題目十五字排布。則見悟本老人。如曰正中偏．偏中正．正中來．偏中至．兼中到是也。汾陽頌曰。五位參尋切要知。纖毫纔動即差違。金剛透匣誰能解。唯有那叱第一機。舉目便令三界淨。振鈴還使九天歸。正中妙挾通回互。擬議鋒鋩失却威。

> 大智禅師は言われた。 「教えの言葉はすべて、三つの段階でつながっている。 初め・中・終わり、すべてが善である。 初めは、ただ相手に善い心を起こさせるように導く。 中ほどでその善を破り、 終わって初めて真の善が明らかになる。 『菩薩であって、すなわち菩薩ではない。 これが菩薩と名づけられる所以である』 法は法ではなく、法でないものでもない。 すべてこのようなものだ。 もしただ一言で答えるならば、人を地獄に落とすことになる。 もし三つの段階を一度に言ってしまえば、相手が自ら地獄に入る。 教え主の関わることではない。 だからこそ、昔の大いなる宗師たちが説法するときは、 みな仏祖の法式に依っていたのである。 知らない者は、これをいい加減な言葉だと思うかもしれない。 無着が『金剛般若経』を解釈したのも、この意である。 洞山は五位を立てられた。 道眼の明らかな者は、その題目の十五文字が並べられているのを見て、 悟本老人（洞山良价）の真意を見る。 すなわち、正中偏・偏中正・正中来・偏中至・兼中到というのがそれである。 汾陽は頌して言われた。 五位を参究し尋ねるには、肝要を知らねばならぬ。 わずかでも動けば、たちまち誤りに違う。 金剛の剣が匣を透す、誰がこれを解しえよう。 ただ那吒のみが第一の機とする。 目を挙げればたちまち三界を浄め、 鈴を振ればまた九天をも帰せしめる。 正中の妙たるや、互いに回互を通わす。 思いはかり議論すれば、鋒鋩すらその威を失う。」

金剛般若曰。如我說法。如筏喻者。法尚應捨。何況非法。西天此土聖賢釋者。無慮千餘人。然莫如無著得佛之意。雙林大士又從而申明之。無著於此判為言說法身。意以謂筏者。言說也。雖與人俱。然亦不類。如筏行水中。而實不住。非法者。二邊也。在筏且不類。豈於二邊而止住耶。故曰何況非法。大士偈曰。渡河須用筏。到岸不須舡。人法俱名執。悟理誰勞詮。中流仍被溺。誰論在二邊。有無如取一。即被污心田。故曹洞宗旨有混不得。類不齊之語也。

> 金剛般若経に曰く、「我が説く法は、筏の譬えの如し。法すら尚お捨つべし。いはんや非法においてをや」と。 西天（インド）とこの国（中国）の聖賢たちがこれを解釈した者は、おおよそ千余人に及ぶ。しかし、無著菩薩ほど仏の意を得た者はない。双林の大士（傅大士）はさらにこれを補い明らかにした。 無著菩薩はここで、これを「言説法身」と判じている。その意は、筏とは言説であるという。それは人と共にあるが、しかし同じではない。筏が水中を行くように、実は留まることがないのである。 非法とは、二辺（有無・断常などの対立概念）である。筏にさえ留まらないのに、まして二辺に止住することがあろうか。ゆえに「いはんや非法においてをや」と言うのである。 大士の偈に曰く、 「河を渡るには筏を用うべし 岸に到れば船は要らぬ 人と法、ともに執着と名づく 理を悟れば誰が詮説を労せん 中流にてなお溺れなば 誰が二辺にあるを論ぜん 有無は一を取るが如し 即ち心田を汚すこととなる」 ゆえに曹洞宗の宗旨には「混ぜ得ず、類は斉しからず」という語があるのである。

雲峰悅禪師再游泐潭。重會南禪師。敘別講舊。相得甚懽。久之。更使一見石霜慈明老人。既至石霜。憩於山前莊。聞其坦率之風。悔來。因不復過門。徑造南岳福嚴。未期月。掌記室。俄長老賢公化去。郡以慈明來居之。初聞夜參貶剝諸方異解。皆其平生艱難而得者。於是歎服。即投誠問道。三往三被罵而退。不勝忿。業已歸之。明日復往。慈明罵如故。因啟曰。某唯以不解故來問。善知識宜施方便。不蒙開示。專以罵為。豈從上所以授法之式耶。慈明驚曰。南書記。我謂汝是箇人。乃作罵會耶。黃龍聞其語。如桶底脫。拜起汗下。從容論趙州因緣。呈偈曰。傑出叢林是趙州。老婆勘破沒來由。如今四海清如鏡。行人莫與路為讎。慈明閱之。笑曰。偈甚佳。但易一字。曰。老婆勘破有來由。其機智妙密又如此。黃龍辭去。白曰。大事畢竟如何。慈明訶曰。著衣喫飯不是畢竟。痾屎送尿不是畢竟。予甞游福嚴。覽其山川之形勝。讀思大所記曰。此山增人之志力。居之者多得道。故祖宗授法。莫不因之。雖大法之興。必依之人。然馬祖於此受讓公記莂。其道大振於江西。今慈明．黃龍事迹復相類。亦足怪也。

> 雲峰悅禅師が再び泐潭を訪れ、南禅師と再会した。別れを語り旧交を温め、互いに大いに喜び合った。しばらくして、さらに石霜慈明老人にも一度会うように勧められた。石霜に着くと、山の手前の宿坊で休んだが、慈明の率直な風評を聞いて、来たことを後悔し、門をくぐらずにそのまま南岳の福厳へ向かった。一ヶ月も経たないうちに、書記室を任されるようになった。まもなく長老の賢公が遷化され、郡の要請で慈明がここに住まうことになった。 初めて夜参に参加し、諸方の異なる解釈を厳しく批判する様を聞き、それはすべて慈明が生涯かけて苦労して得たものであると知り、感服した。そこで誠意を尽くして道を問うたが、三度訪ねては三度罵られて退いた。憤りに耐えかね、すでに帰ろうとしたが、翌日また訪ねた。慈明は相変わらず罵ったので、雲峰は言った。「私はただ理解できないからこそお尋ねしているのです。善知識たるもの、方便を施すべきです。ご開示いただけないばかりか、ひたすら罵るばかりでは、これまでの祖師方が法を授ける方式と言えるでしょうか」 慈明は驚いて言った。「南書記よ、私はお前を人物だと思っていたが、ただの罵り合いだとでも思っていたのか」。黄龍（雲峰）はこの言葉を聞いて、桶の底が抜けたように悟り、平伏して汗を流した。そして落ち着いて趙州の因縁について論じ、偈を呈した。 「傑出叢林是趙州 老婆勘破没来由 如今四海清如鏡 行人莫与路為讎」 （叢林に傑出するは趙州なり 老婆の勘破に来由なし 今や四海鏡の如く清し 行人路を讎とすなかれ） 慈明はこれを見て笑い、「偈はとても良いが、一字変えよう」と言い、「老婆勘破有来由」（老婆の勘破には来由あり）と改めた。その機知の妙なる深さは、またこのようなものであった。 黄龍が辞去する際、尋ねた。「大事はいったいどうなるのでしょうか」。慈明は叱って言った。「衣を着て飯を食うことが大事ではない。糞をして尿を送ることが大事ではない」。 私はかつて福厳を訪れ、その山川の形勝を眺め、思大の記した文を読んだ。「この山は人の志と力を増し、ここに住む者は多く道を得る。故に祖師方が法を授けるのは、皆これに依るのである」。大法が興るには必ず人に依るものだが、馬祖がここで譲公から記莂を受け、その道が江西に大いに振るった。今、慈明と黄龍の事跡もまた似ているのは、まことに不思議なことである。

生法師曰。敲空作響。擊木無聲。法眼禪師忽聞齋魚聲。謂侍者曰。還聞麼。適來若聞。如今不聞。如今若聞。適來不聞。會麼。

> 生法師が言われた。 「虚空を叩いて響きをなし、木を打って声なし。」 法眼禅師が突然、齋魚（木魚）の音を聞き、侍者に言われた。 「聞こえるか？さっき聞こえたなら、今は聞こえない。今聞こえるなら、さっきは聞こえなかった。わかるか？」

有僧甞登三生藏。取思大平生所持錫立之。疑慮橫生。終不能定。忽自念曰。當一切放下却。即舉錫置之。錫卓然不傾。以問予其故何哉。予曰。非特於錫則然。凡事若有心。即成差悞。試觀兒輩剪紙。擬心即失。不擬心。徑往無難。故道人不可須臾忘照也。

> ある僧がかつて三生蔵に登り、思大和尚が生前に持っていた錫杖を取り出して立てようとした。すると、疑いや迷いが次々と湧き起こり、どうしても定まらなかった。ふと、自分でこう思った。「一切を放下してしまおう」と。そこで錫杖を持ち上げて置いてみると、錫杖はしっかりと立って傾かなかった。僧は私に尋ねた。「これはどういうわけでしょうか」と。私は答えた。「錫杖だけに限ったことではありません。何事も、もし心で考えすぎると、誤りが生じるのです。子供たちが紙を切る様子を見てみてください。考えすぎると失敗し、考えずにただ切れば難なくできます。ですから、修行者は一瞬たりとも心を照らすことを忘れてはならないのです」。

首楞嚴曰。汝元不知一切浮塵諸幻化相。當處出生。隨處滅盡。涅槃曰。譬如猛火。不能燒薪。火出木盡。名為燒薪。般若燈論曰。根境理同然。智者何驚異。衲子於此見徹。方入阿字法門。

> 首楞厳経にはこう説かれています。 「あなたは元来、一切の浮かぶ塵のような幻の相が、その場で生じ、その場で消え尽きることを知らない」 涅槃経にはこうあります。 「たとえば猛火は薪を焼くことはできない。火が出て木が尽きれば、それを薪を焼いたという」 般若灯論にはこうあります。 「根と境の理は同じ。智者は何を驚き怪しむことがあろうか」 修行僧がこの道理を見極めて初めて、阿字の法門に入ることができるのです。

康僧會。天竺人。吳赤烏十年初至建業。營立茆茨。設像行道。孫權疑為矯異。召問曰。有何靈驗。對曰。如來遷迹忽逾千載。遺骨舍利神耀無方。昔阿育王起塔至八萬四千。塔寺之興。表遺化也。權曰。若得舍利。當為造塔。如其虗妄。國有常刑。會請期七日。乃謂其屬共結淨室。以銅瓶加瓦。燒香禮請。至期無應。會求伸至三七。忽聞瓶中鎗然有聲。果獲舍利以示權。權與群臣聚觀。五色屬人。權大驚而起曰。希有之瑞也。釋曇諦。父肜。嘗為冀州別駕。母黃氏晝𥨊。夢一僧呼為母。寄一麈尾并鐵鏤書鎮二枚。既覺。而兩物俱存。因而懷娠生諦。此二物乃諦前身為宏覺法師。為姚萇講法華所獻。追繹宏覺捨命。正是寄物之日。會以真誠之至。能生致舍利。諦以大願所持。亦能死將長物。嗚呼。真誠大願之力。尚能反易生死。如意自在。況守護心城者耶。

> 康僧会は、天竺（インド）の人である。呉の赤烏十年（247年）、初めて建業（現在の南京）に到着した。彼は茅葺きの庵を建て、仏像を安置し、修行の道を実践した。孫権はこれを怪しいものと疑い、召し出して尋ねた。「何か霊験があるのか」と。康僧会は答えた。「如来が入滅されてから、すでに千年以上の歳月が過ぎました。しかし、お遺骨である舎利は、今なお神々しい光を放ち、その霊験は測り知れません。昔、阿育王は八万四千もの塔を建立されました。塔や寺院が建てられるということは、仏の教えが遺された証しなのです」。孫権は言った。「もし舎利を得ることができたら、塔を建ててやろう。しかし、もしそれが虚偽であれば、国法に照らして処罰する」。康僧会は七日間の猶予を請い、弟子たちと共に清浄な部屋を設け、銅の瓶を置き、その上に瓦を載せ、香を焚いて礼拝し祈請した。七日目になっても何の応えもなかった。康僧会はさらに三七日（二十一日間）に延ばして祈り続けることを求めた。すると突然、瓶中からカチンという音が聞こえ、果たして舎利が得られたので、孫権に見せた。孫権は群臣を集めて共に拝見した。舎利は五色に輝き、人々を照らした。孫権は大いに驚き、立ち上がって言った。「まことに稀有な祥瑞である」。 釈曇諦の父は肜といい、かつて冀州の別駕を務めた。母の黄氏は昼寝をしているとき、夢の中で一人の僧に「母上」と呼びかけられ、一つの麈尾（じゅび、払子）と鉄の彫刻が施された文鎮二枚を預けられた。目が覚めると、その二つの物が確かにそばにあった。それ以来、彼女は身ごもり、諦を生んだ。この二つの品は、実は曇諦の前世である宏覚法師が、姚萇のために『法華経』を講じた際に献上したものであった。宏覚法師が命を捨てた時を辿ると、まさに母に品物を預けた日と一致する。 康僧会は真誠を極めたゆえに、生きながらにして舎利を招き寄せることができた。曇諦は大願の力に支えられて、死後にも長く物を伝えることができた。ああ、真誠と大願の力は、生死さえも逆転させ、思いのままに

莊子言。藏舟於壑。藏山於澤。釋者遣語如流。至曰藏天下於天下。未有不嗒然危坐。置筆而思者。晦堂老人甞問學者此義如何。對之甚眾。晦堂笑曰。汝善說道理。予作偈記其意曰。天下心知不可藏。紛紛嗅迹但尋香。端能百尺竿頭步。始見林梢掛角羊。又問。列子戴兩小兒論日遠近不決。而質於孔子。孔子不答。其意何在。學者皆曰。聖如夫子。亦莫能辨此理。是以無說也。晦堂亦笑之。予作偈釋之曰。凉溫遠近轉增疑。不答當渠痛處錐。尚逐小兒爭未已。仲尼何獨古難知。

> 荘子は言う。舟を谷に隠し、山を沢に隠す。釈者は言葉を流れるように遣う。しかし「天下を天下に隠す」に至っては、誰しも思わず姿勢を正し、筆を置いて考え込まずにはいられない。晦堂老人はかつて学僧にこの意味を問うた。多くの者が答えたが、晦堂は笑って言った。「汝らは道理を説くのは上手い。老僧が偈を作ってその意を記そう」 天下心知不可蔵 紛紛嗅迹但尋香 端能百尺竿頭歩 始見林梢掛角羊 また問うた。「列子」に、二人の童子が日（太陽）の遠近を論じて決まらず、孔子に質した話がある。孔子は答えなかった。その意はどこにあるのか。学僧たちは皆言った。「聖人たる夫子でさえ、この理を弁じられなかった。ゆえに説くことがなかったのだ」晦堂もこれを笑った。老僧が偈を作って解き明かそう 凉温遠近転増疑 不答当渠痛処錐 尚逐小児争未已 仲尼何独古難知

歐陽文忠公昔官洛中。一日。游嵩山。却去僕吏。放意而往。至一山寺。入門。脩竹滿軒。霜清鳥啼。風物鮮明。文忠休於殿陛。旁有老僧閱經自若。與語不甚顧答。文忠異之曰。道人住山久如。對曰。甚久也。又問。誦何經。對曰。法華經。文忠曰。古之高僧。臨生死之際。類皆談笑脫去。何道致之耶。對曰。定慧力耳。又問。今乃寂寥無有。何哉。老僧笑曰。古之人。念念在定慧。臨終安得亂。今之人。念念在散亂。臨終安得定。文忠大驚。不自知膝之屈也。謝希深甞作文記其事。

> 歐陽文忠公がかつて洛中に官職に就いていた時、ある日、嵩山に遊びに行きました。従者たちを引き離し、思いのままに歩いていくと、一つの山寺に着きました。門を入ると、軒先いっぱいに竹が茂り、霜は清らかで鳥が鳴き、景色が鮮やかでした。文忠公は殿の階段で休んでいると、傍らに老僧が経を読んでいて、泰然自若としていました。話しかけても、あまり振り向きもせず、返事もそっけなかったので、文忠公は不思議に思って尋ねました。「お坊さんは、この山にどのくらいお住まいですか？」老僧は答えました。「ずいぶん長く住んでおります。」また尋ねました。「どのお経をお読みですか？」答えました。「法華経です。」文忠公は言いました。「昔の高僧は、生死の境に臨んでも、たいてい談笑しながら安らかに去ったものですが、どうしてそうなれたのでしょうか？」老僧は答えました。「定と慧の力によるものです。」また尋ねました。「今ではそのような方はめったにおらず、寂しい限りですが、どうしてでしょうか？」老僧は笑って言いました。「昔の人は、念々に定と慧にありましたから、臨終に乱れることがどうしてありましょう。今の人は、念々に散乱にありますから、臨終にどうして定まることがありましょう。」文忠公は大いに驚き、知らず知らずのうちに膝を屈めてしまいました。謝希深がかつて文章を書いてこのことを記録しています。

言法華。梵相奇古。直視不瞬。時獨語笑。多行市里。褰裳而趨。或舉指畫空。佇立良久。從屠沽游。飲㗖無所擇。道俗共目為狂僧。懷禪師未出家時。師見之。撫其背曰。德山．臨濟。丞相呂許公問佛法大意。對曰。本來無一物。一味總成真。僧問。世有佛否。對曰。寺裏文殊。有問。師為凡耶聖耶。舉手曰。我不在此住。將示化。作遺偈。其旨不可曉也。已而曰。我從無量劫來。成就逝多國土。分身揚化。今南歸矣。語畢。右脇而寂。慶歷戊子十一月二十三日也。

> 法華を説く。その姿は梵天のようで、古風で風変わり。まっすぐに見つめて瞬きもしない。時には独り言を笑いながら、多くは街中を歩き回る。着物の裾をまくって走り、あるいは指を挙げて空中に何かを描き、長い間立ち尽くす。肉屋や酒屋の者と交わり、飲食に選り好みしない。僧侶も在家も皆、彼を狂僧と呼んだ。懐禅師が出家する前、師は彼に会い、背中を撫でて言った。「徳山、臨済」。丞相の呂許公が仏法の大意を尋ねると、こう答えた。「本来何もない。すべてが真実となる」。僧が尋ねた。「世に仏はおられますか」。答えて言った。「寺の中に文殊がいる」。また尋ねる者があった。「師は凡人ですか、聖人ですか」。手を挙げて言った。「私はここに住んではいない」。やがて示寂する時、遺偈を残した。その意味は理解しがたいものだった。その後、言った。「私は無量劫の昔から、逝多国を成就し、分身して教えを広めてきた。今、南に帰る」。言葉を終えると、右脇を下にして静かに息を引き取った。慶歴戊子年十一月二十三日のことである。

照覺禪師。元豐之間。革東林律居為叢林。天下衲子望風而集。咸信敬畏。仰以為肉身大士。其被賞識者。必名聞諸方。然未甞輕予人。羅漢小南禪師嗣雲居祐公。道眼明白。未為人知。甞至東林。照覺鳴鐘集眾。出迎于清溪之上。其徒大驚。自是南之名日益顯著。佛印禪師再歸雲居。靈源叟初自龍山來。與眾群居。痛自韜晦。佛印陞座白眾。請以為座元。其禮數特異。靈源受之。叢林學者日親。知晦堂老人法道有在矣。嗚呼。先德之成就法器。使增重於世。其法如此。堯非不能誅四凶。舉十六子也。留以遲舜耳。雖古聖人所為。莫能外是。二老其亦知此者歟。

> 照覚禅師は、元豊の間に、東林の律居を改めて叢林とし、天下の修行僧たちが風の便りに集まり、皆が信じ畏れ敬い、肉身の大士として仰ぎ見た。その賞識を受けた者は、必ず諸方に名を轟かせた。しかし、彼は決して軽々しく人に与えることはなかった。 羅漢小南禅師は雲居祐公の法嗣であり、道眼は明白であったが、まだ世に知られていなかった。かつて東林に至った時、照覚は鐘を鳴らして衆を集め、清溪のほとりに出迎えた。その弟子たちは大いに驚き、これより南禅師の名は日増しに顕著となった。 仏印禅師が再び雲居に帰った時、霊源叟は初めて龍山より来て、衆と共に群居し、ひたすら自らを韜晦していた。仏印は座に昇り衆に告げ、彼を座元に請じた。その礼数は特に異なっており、霊源はそれを受けた。叢林の学僧たちは日に日に親しみ、晦堂老人の法道がここにあることを知ったのである。 ああ、先徳が法器を成就させ、世に重きを増すようにしたその法は、このようなものであった。堯も四凶を誅し、十六子を挙げることができなかったわけではない。舜を待つために留めたのである。古の聖人の為すところでさえ、この外にはない。二老もまた、このことを知っていた者であろうか。

古塔主去雲門之世。無慮百年。而稱其嗣。青華嚴未始識大陽。特以浮山遠公之語故。嗣之不疑。二老皆以傳言行之自若。其於己甚重。於法甚輕。古之人。於法重者。永嘉．黃檗是也。永嘉因閱維摩。悟佛心宗而往見六祖。曰。吾欲定宗旨也。黃檗悟馬祖之意而嗣百丈。故百丈嘆以為不及也。

> 古塔主は雲門の時代から、およそ百年を経ている。それなのに彼の法嗣と称される。青華厳は大陽を一度も知らなかったが、ただ浮山遠公の言葉ゆえに、疑うことなく彼の法嗣となった。二人の老僧は皆、伝えられた言葉によって自らを動かし、己を非常に重んじ、法を非常に軽んじた。古の人は、法を重んじた者として、永嘉と黄檗がいる。永嘉は維摩経を読んで悟り、仏の心の宗旨を会得して六祖のもとへ行き、「私は宗旨を定めたい」と言った。黄檗は馬祖の意を悟って百丈の法嗣となり、それゆえ百丈は「及ばない」と嘆じたのである。

地藏琛禪師能大振雪峰．玄沙之道者。其秘重大法。恬退自處之効也歟。予甞想見其為人。城隈古寺門如死灰。道容清深。戲禪客曰。諸方說禪浩浩地。爭如我此間栽田愽飯喫有旨哉。

> 地蔵琛禅師が雪峰や玄沙の教えを大きく広めることができたのは、大切な法をひたすら守り、自らは目立たぬように控えめに生きるという、その実践のたまものなのでしょう。私はかつて、そのお人柄を偲びました。城の外れにある古寺の門は、まるで生き物の気配もないかのようにひっそりとしていましたが、その道のあり方は清らかで深みがありました。ある時、禅師は修行者たちにこうからかうように言われました。「あちこちの寺院では、禅についてやかましく説き立てているが、どうして私のここでのように、田を耕し、托鉢で得た食事をいただくというあり方に及ぶだろうか」――まことに深い意味のある言葉です

予初居黃龍山時。作禪和子十二時偈曰。吾活計。無可觀。但日日。長一般。夜半子。困如死。被虱咬。動脚指。雞鳴丑。粥魚吼。忙繫裙。尋襪紐。平旦寅。忽欠申。兩眉稜。重千斤。日出卯。自攪炒。眼誦經。口相拗。食時辰。齒生津。輸肚皮。虧口唇。禺中巳。眼前事。看見親。說不似。日南午。衣自補。忽穿針。全體露。日昳未。方破睡。洗開面。摸看鼻。晡時申。最天真。順便喜。逆便瞋。日入酉。壁掛口。鏡中空。日中斗。黃昏戌。作用密。眼開闔。烏崒律。人定亥。說便會。法身眠。無被盖。坐成叢。行作隊。活鱍鱍。無障礙。若動著。赤肉艾。本無一事可營為。大家相聚喫莖菜。

> かつて黄龍山に住んでいた頃、私は禅修行者の一日を詠んだ十二時の偈を作りました。 私の暮らしぶりは、見るべきものもない。 ただ毎日が、同じことの繰り返しだ。 夜半の子の刻、眠りは死んだように深い。 蚤に刺されて、足の指がひとりでに動く。 鶏鳴の丑の刻、粥の合図の木魚が鳴る。 慌てて袴を締め、靴下の紐を探す。 夜明けの寅の刻、思わず欠伸が出る。 両方の眉が、千鈞の重さに感じられる。 日の出の卯の刻、自分で自分をかき回す。 目は経文を読み、口はそれに逆らう。 朝食の辰の刻、つばが口に満ちる。 腹は減っているが、口は動かない。 昼前の巳の刻、目の前の出来事。 はっきり見えているのに、言葉では言い表せない。 正午の午の刻、衣の繕いをする。 針を通そうとして、体中が露わになる。 日傾きの未の刻、やっと眠りから覚める。 顔を洗い、鼻をそっと触ってみる。 夕方の申の刻、もっとも無邪気な時間。 気に入れば喜び、気に入らなければ怒る。 日没の酉の刻、口は壁に掛けたまま。 鏡は空っぽ、太陽は井戸の中。 黄昏の戌の刻、作用は密やかだ。 目を開け閉めするたび、烏がざわめく。 人定の亥の刻、さあ話そうと言えば。 法身は眠り、掛ける布団もない。 座れば叢となり、歩けば隊列をなす。 生き生きとして、何の障りもない。 もし動かそうものなら、生身が焼かれる。 元来、為すべきことなど何もないのだ。 みんなで集まって、菜っ葉を食べようではないか。

雲峰悅禪師初至高安大愚。見芝和尚。芝問曰。汝來何所求。對曰。擬學佛法。芝曰。佛法豈可容易學。趂色力強徤。為眾乞飯一遭。學未晚。悅天姿純至。信受其言。即往行乞。既還。而芝移居翠嵓。悅又詣芝所。求入室。芝曰。佛法且置之。大眾夜寒須炭。更當乞炭一次。學未晚。悅又行乞。歲晏載炭歸。且求示誨。芝曰。佛法不怕爛却。維那方缺人。子當就職。勿辭也。遂鳴犍稚白眾請之。悅有難色。拜起。追悔欲弃去。業已當之。因中休。然恨不曉芝公之意果如何耳。一日。束破桶。引篾觸盆墮地。遂大悟。方見芝公用處。走見芝。芝笑呼曰。維那。且喜大事了畢。悅未及吐一言。再拜。汗如雨而去。故其門風孤峻。未甞有構之者。南禪師甞語大寧老原曰。渠欲人人悟解。如此豈可得哉。

> 雲峰悦禅師が初めて高安の大愚に来た時、芝和尚にお会いしました。芝和尚が尋ねました。「あなたは何を求めて来たのですか」と。悦は答えました。「仏法を学ぼうと思って参りました」と。芝和尚は言いました。「仏法はそうやすやすと学べるものではない。あなたはまだ若く体力もあるのだから、まず大衆のために托鉢をして、食を乞うてきなさい。それから学んでも遅くはない」と。 悦は天性純粋で、その言葉を信じて受け入れ、すぐに托鉢に出かけました。帰ってくると、芝和尚は翠巖に移られていました。悦はまた芝和尚のもとを訪れ、入室を求めました。芝和尚は言いました。「仏法のことはひとまず置いておきなさい。大衆が夜寒さに苦しんでいる。炭が必要だ。もう一度、炭を乞うてきなさい。それから学んでも遅くはない」と。 悦はまた托鉢に出かけ、年の暮れに炭を積んで帰り、教えを請いました。芝和尚は言いました。「仏法は腐ってしまうようなものではない。維那（寺院の役職）がちょうど空いている。あなたがその職に就きなさい。断ってはならない」と。そして、悦を維那に任命することを大衆に告げました。 悦は難色を示し、拝礼して立ち上がると、後悔して去ろうとしました。しかし、すでに職を引き受けてしまったので、休むこともできず、芝和尚の真意がわからずに悩んでいました。 ある日、壊れた桶を縛っている時、篾（竹ひご）が触れて盆が地面に落ちました。その瞬間、悦は大悟し、ようやく芝和尚の意図を理解しました。急いで芝和尚のもとへ走りました。芝和尚は笑って呼びかけました。「維那よ、おめでとう、大事が成就したね」と。悦は一言も発する間もなく、再拝し、汗を流して去っていきました。 そのため、彼の門風は孤高で峻厳であり、誰も彼に近づこうとする者はありませんでした。南禅師はかつて大寧の老原にこう語りました。「彼は誰もが悟りを開くことを望んでいるが、そんなことがどうして可能だろうか」と。

神鼎諲禪師。少年時與數耆宿游南岳。一僧舉論宗乘。頗博敏。會野󰕖山店中供辨。而僧論說不已。諲曰。上人言。三界唯心。萬法唯識。唯識唯心。眼聲耳色。何人之語。僧曰。法眼大師偈也。諲曰。其義如何。對曰。唯心故。根境不相到。唯識故。聲色摐然。諲曰。舌味是根境否。對曰。是。諲以箸挾菜置口。含胡而言曰。何謂相入耶。坐者相顧大驚。莫能加答。諲曰。路塗之樂。終未到家。見解入微。不名見道。參須實參。悟須實悟。閻羅大王不怕多語。

> 神鼎諲禅師は、若い頃、数人の老練な僧侶と共に南岳を訪れていた。ある僧が宗乗について論じ、博識で機敏であった。ちょうど野山の宿屋で食事を用意している時、その僧が論じ続けていた。諲が言った。 「上人のお言葉によれば、『三界は唯心、万法は唯識』と。唯識と唯心、眼と声、耳と色。これは誰の言葉ですか」 僧が答えた。「法眼大師の偈です」 諲が尋ねた。「その意味は？」 僧が答えた。「唯心であるがゆえに、根と境は互いに至らない。唯識であるがゆえに、声と色ははっきりと現れるのです」 諲が言った。「舌と味は、根と境にあたるか？」 僧が答えた。「はい、そうです」 諲は箸で料理を挟み、口に入れ、もごもごと言った。 「では、どうして互いに入り合うと言えるのですか？」 座っていた者たちは顔を見合わせ、驚き、誰も答えられなかった。 諲は言った。 「道中の楽しみは、まだ家に着いたとは言えない。見解が微細に入っても、見道とは呼べない。参究は実参でなければならず、悟りは実悟でなければならない。閻魔大王は、たくさんの言葉を恐れはしない」

金剛三昧經。乃二覺圓通。示菩薩行也。初。元曉造疏。悟其以本始二覺為宗。故坐牛車。置几案於兩角之間。據以草文。圓覺經以皆證圓覺無時無性為宗。故經首敘文不標時處。及考其翻譯之代。史復不書。曉公設事表法。圓覺冥合佛意。其自覺心靈之影像乎。

> 金剛三昧経は、二つの覚り（本覚と始覚）が円満に通じ合い、菩薩の行いを示したものです。 初めに、元暁が注釈を著わし、この経が本覚と始覚の二つを根本とすることを悟りました。そのため、彼は牛車に乗り、机を二つの角の間に置き、草の上で経文を書き記したのです。 一方、円覚経は、すべての者が円満な覚りを証し、時も自性もないことを根本としています。そのため、経の冒頭には時や場所が記されていません。また、その翻訳の時代を調べてみても、歴史には記録されていません。 元暁が事象を設けて法を表し、円覚経が仏の意図に深く合致しているのは、まさに自らの心霊が映し出した影像のようなものではないでしょうか。

曹溪六祖大師方其韜晦時。雜居止於編民。混勞侶於商農十有六年。蠻兒．海竪．販夫．竈婦得以追呼爾汝。及其德加於人。道信於天下也。雖累朝天子不得而師友之。其行聖賢之分故。莫知貴賤之異也。大宋高僧傳曰。天子累召。祖竟不往。曰。吾㒵不揚。北人見之必輕法。是果祖師之言乎。不仁者之言也。至人何甞以形骸為䘏。況其天形道㒵。以慈攝物者。其肯不自信耶。

> 曹渓の六祖大師が、その徳を隠していた頃は、庶民の中に混じって暮らし、商人や農民の仲間として十六年間を過ごされました。蛮族の子供や漁師、行商人や台所で働く女性たちが、気軽に「お前」「君」と呼びかけることもありました。しかし、その徳が人々に広まり、道が天下に信じられるようになると、歴代の天子でさえも師として敬い、友とすることは叶わなかったのです。これこそ聖賢の行いであり、貴賤の違いを知らないゆえのことでしょう。 『大宋高僧伝』には、「天子がたびたびお召しになっても、祖師はついに参上されず、『私は容貌が優れていない。北の人が見れば、必ず法を軽んじるだろう』と言われた」とあります。これは果たして祖師の言葉でしょうか。それは不仁なる者の言葉です。至人は、どうして形骸を気にかけることがありましょうか。ましてや、天与の姿や道を体現する者が、慈悲をもって衆生を導くとき、どうして自らを信じないことがありましょうか。

石頭和尚庵於南臺有年。偶見負米登山者。問之。曰。送供米也。明日即移菴下梁端。遂終於梁端。有塔存焉。百丈寺在絕頂。每日力作以償其供。有勸止之者。則曰。我無德以勞人。眾不忍。藏去作具。因不食。故有一日不作。一日不食之語。先德卒身多如此。故六祖以石墜腰。牛頭負粮供眾。今少年苾蒭擎鉢顰頞曰。吾臂酸。

> 石頭和尚は長年、南臺に庵を結んでいた。ある日、米を背負って山を登る人を見かけ、尋ねると、「供養の米を届けに来たのです」と答えた。翌日、彼はすぐに庵を梁端に移し、その地で生涯を終えた。今もそこに塔が残っている。百丈寺は山の頂上にあり、毎日、自ら働いて供養に報いた。やめなさいと言う者があれば、「私は人を煩わせるほどの徳はない」と答えた。僧たちが忍びずに作業道具を隠すと、彼は食事を取らなかった。それゆえ、「一日作さざれば、一日食らわず」という言葉が生まれた。昔の高僧たちは、多くこのように身をもって示した。だからこそ、六祖は石を腰に下げ、牛頭は食糧を背負って大衆に供した。今の若い修行者たちは、鉢を捧げて顔をしかめ、「腕が痛い」と言う。

雪竇禪師作祖英頌古。其首篇頌初祖不契梁武。曰闔國人追不再來。千古萬古空相憶者。重嘆老蕭不遇詞也。昧者乃敘其事于前。曰。達磨既去。誌公問曰。陛下識此人否。蓋觀音大士之應身耳。傳佛心印至此土。奈何不為禮耶。老蕭欲追之。誌公曰。借使闔國人追。亦不復來矣。雪竇豈不知誌公沒於天鑒十三年。而達磨以普通元年至金陵。予以是知敘此者非雪竇意也。今傳寫又作盖國。益可笑。又頌洞山麻三斤曰。堪憶長慶陸大夫。解道合哭不合哭。意用長慶語。長慶聞陸大夫此語而哭。乃問眾曰。且道合哭不合哭。事見傳燈錄。而昧者易曰。合笑不合哭。失其旨甚矣。王文公見禪者多問韓退之見大顛事。往往對公妄談者。公嗟惜禪者吐辭多臆說。不問義理。故要謗者多。以此。有志於宗教者。當考證之。不可苟也。

> 雪竇禅師が『祖英頌古』を作られました。その最初の篇は、初祖（達磨大師）が梁の武帝と縁がなかったことを詠んだものです。「国中の人追いかけても再び来ず、千古万古空しく思い慕う」というのは、老蕭（武帝）が達磨に遇えなかったことを深く嘆いた言葉です。しかし、意味を理解していない者が、その前に事情を書き添えています。曰く、「達磨が去った後、誌公が尋ねた。『陛下はこの方をご存知ですか。これは観音大士の応身です。仏の心印を伝えるためにこの地に来られたのに、どうして礼を尽くさなかったのですか』。老蕭が追いかけようとすると、誌公は言った。『たとえ国中の人が追いかけても、もう戻っては来ません』」と。雪竇は、誌公が天監十三年に亡くなり、達磨が普通元年に金陵に到着したことを知らないはずがありません。これによって、この事情を書き添えたのは雪竇の意図ではないとわかります。今、写本では「盖国」と書かれているものもあり、ますます笑えることです。 また、洞山の「麻三斤」を詠んだ頌に「長慶の陸大夫を憶うに堪えたり、解道す合哭か不合哭か」とあります。これは長慶の言葉を用いたものです。長慶は陸大夫のこの言葉を聞いて泣き、そして大衆に問うた。「さて、泣くべきか泣くざるべきか」。この事は『伝灯録』に見えます。しかし、意味を理解していない者が「合笑か不合哭か」と改めてしまい、その趣旨を大きく失っています。 王文公（王安石）は、禅者が韓退之（韓愈）が大顛に会ったことをよく尋ねるのを見て、しばしば公に妄談を述べる者がありました。公は、禅者が言葉を吐くのに多くが臆説で、義理を問わないことを嘆き惜しみました。それ故に、誹謗する者が多いのです。このことから、宗教に志す者は、よく考証すべきで、軽率であってはなりません。

僧問予。轉八識成四智。從上宗師頗有釋其義者乎。予曰。曹溪有偈㝡詳。曰。大圓鏡智性清淨。平等性智心無病。妙觀察智見非功。成所作智同圓鏡。五八六七果因轉。但轉其名無實性。若於轉處不留情。繁興永處那伽定。以五識第八親相分。故曰。成所作智同圓鏡。是皆果上方轉。第六第七無別體。故但能了知即性平等。是皆因中轉也。

> 僧が私に尋ねました。「八識を転じて四智となすことについて、歴代の祖師方にはその意味を解き明かされた方はいらっしゃいますか」 私は答えました。「曹渓大師（六祖慧能）に最も詳しい偈があります。曰く、 『大円鏡智は性清浄なり 平等性智は心無病なり 妙観察智は見非功なり 成所作智は円鏡に同じ 五八六七は果因転ず 但だ其の名を転ずるのみにして実性無し 若し転ずる処に情を留めずば 繁興永く那伽定に処る』 五識と第八識は親しく相分であるため、『成所作智は円鏡に同じ』と言われます。これらはすべて果上において転ずるものです。 第六識と第七識には別体がないため、ただ能く了知すれば即ち性平等となります。これらはすべて因中において転ずるものです」

英邵武開豁明濟之姿。盖從上宗門爪牙也。甞客雲居。掩室不與人交。下視四海。莫有可其意者。曰。吾將老死於此山。偶夜讀李長者十明論。因大悟。久之。夜經行。聞二僧舉老黃龍佛手驢脚因緣。異之就問。南公今何所寓。對曰。在黃檗。黎明徑造南公。一見與語。自以謂不及。又往見翠嵓真點胸。方入室。真問曰。女子出定。意旨如何。英引手掐其膝而去。真笑曰。賣匙箸客未在。真自是知其機辯脫略窠臼。大稱賞之。於是一時學者宗向。晚。首眾僧於圓通。南公見僧自廬山來。必問。曾依覲英首座否。有不識者。則曰。汝行脚到廬山。不識英首座。是寶山徒手之說也。南公在世。不肯開法。南公化去。師曰。大法捨我其誰能荷之耶。遂出世住泐潭。有偈語甚多。今止記其三首。可以想見其為人。曰。石門路險鐵關牢。舉目重重萬仞高。無角鐵牛衝得破。毗盧海內皷波濤。又曰。萬煅爐中鐵蒺黎。直須高價莫饒伊。橫來竪去呵呵笑。一任旁人鼓是非。又曰。十方齊現一毫端。華藏重重帝網寒。珍重善財何處去。清宵風撼碧琅玕。

> 英邵武は、開け広げて明るく澄んだ風貌の持ち主で、まさに宗門の爪牙とも言うべき存在でした。かつて雲居に客として滞在した際には、庵に籠もって人との交わりを絶ち、天下を見下ろしては、気に入る者など一人もいないと嘆き、「この山で老い死ぬがよい」と語っていました。 ある夜、たまたま李長者の『十明論』を読んでいたところ、大いに悟るところがありました。しばらくして、夜の経行（きんひょう）の際、二人の僧が老黄龍の「仏手・驢脚」の因縁話をしているのを耳にし、興味を覚えて近づき尋ねました。「南公（黄龍慧南）は今どこにおられますか？」答えは「黄檗にいらっしゃいます」とのこと。英は夜明けとともに直ちに南公を訪ね、一見して語り合うと、自ら及ばぬと感じました。 さらに翠巌の真点胸（翠巌可真）のもとを訪れると、真は部屋に入るなり問いかけました。「女子出定（にょししゅつじょう）の意旨はどういうことか？」英は手を伸ばして彼の膝をつねり、去って行きました。真は笑って言いました。「匙や箸を売る商人には、まだ真髄はわかっていないな」。真はこのときから、英の機知に富み型破りな振る舞いを知り、大いに賞賛しました。こうして、多くの学僧たちが英を師と仰ぐようになりました。 後に、英は円通寺で首座（しゅそ）として僧衆を率いました。南公は廬山から来る僧があると、必ず尋ねました。「英首座に会ったか？」知らない者がいると、「お前が廬山に修行に行きながら、英首座を知らないとは、宝の山に手ぶらで行くようなものだ」と叱ったといいます。 南公が在世中は、英は法を説くことを好みませんでしたが、南公が亡くなると、師は言いました。「大法を継ぐのは、私をおいて他に誰がいるというのか」。そして、泐潭（ろくたん）に住持として出世しました。 彼の偈頌は数多くありますが、ここでは三首だけを記し、その人となりを偲びたいと思います。 一つには、 「石門の路は険しく鉄関牢（てっかんろう） 目を挙げれば重々たる万仞（ばんじん）の高さ 角なき鉄牛、衝き破るを得て 毘盧（びる）の海内に波濤を鼓（こ）す」 また、 「万煅（ばんたん）の炉中の鉄蒺藜（てつしつり） 直ちに須（すべか）らく高価にすべし、伊（かれ）を饒（ゆる）す莫（なか）れ 横に来たり竪（たて）に行きて呵呵（かか）と笑う 一任す旁人（ぼうじん）の是非を鼓（こ）するに」 さらに、 「十方斉（ひと）しく現ずる一毫端（いちごうたん） 華蔵（けぞう）重々たる帝網（ていもう）寒し 珍重す善財（ぜんざい）、何れの

達觀禪師甞竊笑禪者不問義理。如宗門有四種藏鋒。初曰就理。次曰就事。至於理事俱藏。則曰入就。俱不涉理事。則曰出就。彼不視字畫輒易就理。作袖裏易出就。作出袖易入就。作入袖就事不可易也。則孤令之。今德山四家錄所載具存。使晚生末學疑長老袖中必有一物出入往來。大可笑也。晦堂老人見禪者汗漫。則笑曰。彼出家便依誦八陽經者為師矣。其見聞必有淵源。

> 達観禅師はかつて、禅者が義理を問わないことをひそかに笑ったことがある。例えば、宗門には四種の蔵鋒がある。初めは「理に就く」、次は「事に就く」、そして理と事の両方を蔵するに至れば「入就」と言い、理にも事にも関わらないならば「出就」と言う。彼らは字画を見もせず、すぐに「就理」を「袖裏」に変え、「出就」を「出袖」に変え、「入就」を「入袖」に変える。ただ「就事」は変えられないので、そのままにしておく。今、徳山四家録に載っているものはすべて残っている。後生の末学たちは、長老の袖の中には必ず何か出入りするものがあるのではないかと疑っている。大いに笑えることである。晦堂老人は、禅者がでたらめなことを言うのを見て、笑いながら言った。「あの者は出家するとすぐに、八陽経を唱える者を師としているようだ。その見聞には必ず深い由来があるのだろう」と。

南院和尚曰。問在答處。答在問處。夾山曰。明中抽橫骨。暗中坐舌頭。上座玄旨是老僧舌頭。老僧玄旨是上座舌頭。又曰。坐却舌頭。別生見解。參他活意。不參死意。達觀曰。纔涉唇吻。便落意思。並是死門。故非活路。直饒透脫。猶在沈淪。予甞恠洞山．臨濟提倡旨歸多相同。盖得前聖為物法式之大要。楞嚴曰。此方真教體。清淨在音聞。故舊說多言達磨乃觀音應身。指楞伽可以印心。則其旨盖甞曰佛語心為宗故也。又曰南岳讓公亦觀音應身。味其意。若非苟然者也。

> 南院和尚は言われた。「問いは答えの中にあり、答えは問いの中にある」と。 夾山は言われた。「明るい中で横骨を抜き、暗い中で舌頭を坐す。上座の玄旨はこの老僧の舌頭であり、この老僧の玄旨は上座の舌頭である」と。 また言われた。「舌頭を坐してしまえば、別の見解を生じる。彼の活きた意を参究せよ、死んだ意を参究してはならない」と。 達観は言われた。「わずかに唇吻に及べば、たちまち意思に落ちる。これらは皆、死の門であり、決して活路ではない。たとえ透脱したとしても、なお沈淪の中にある」と。 私はかつて、洞山と臨済が提唱する旨帰が多く同じであることを不思議に思った。これは、前聖が衆生のために示した法式の大要を得ているからであろう。 『楞厳経』には、「この方（中国）の真の教体は、清浄なること音聞に在り」とある。それゆえ、古くからの説では、達磨大師は観音の応身であり、『楞伽経』をもって心を印すことができると多く言われてきた。その旨は、かつて「仏語心を宗と為す」と言われたことに由来するのであろう。 また、南岳懐譲禅師も観音の応身であると言われる。その意味を味わうならば、これらは決して軽々しい説ではないことがわかる。

有僧謂予曰。如古人問。大修行人還落因果也無。或答曰。不落。或答曰。不昧。問。如何是大悲千手眼。或答曰。通身是。有聞之者則曰。我則不然。曰。徧身是。或問如何是佛。或答曰。臭肉等來蠅。有聞之者曰。我則不然。破驢脊上足蒼蠅。或問。擬借一問以為影草時如何。或答曰。何必。有聞之者曰。何不道箇不必。如諸老宿所示。何以分其優劣。得達其旨。於法無礙。謂一切語言無用揀擇。信手拈來也耶。則彼皆輕重問答。錙銖而較之。謂臨機直須別辨也耶。則彼之理致具在。若無可同異者。此吾所甞疑不能釋也。予曰。我不解子之疑。然聞世尊在日。有比丘根鈍。無多聞性。佛令誦苕菷二字。日夕誦之。言苕則已忘菷。言菷則又忘苕。每自尅責。係念不休。忽能言曰苕菷。於此大悟。得無礙辯才。子能如誦苕者。當見先德大慈悲故。為物之心。僧讋譍而去。

> ある僧が私に言いました。「昔の人が尋ねたように、『大修行の人は因果に落ちるか、落ちないか』と問うた時、ある人は『落ちない』と答え、ある人は『覆わない』と答えました。また、『大悲の千手千眼とは何か』と問うと、ある人は『全身がそれである』と答えました。それを聞いた人が『私はそうは思わない。全身に遍くあるのだ』と言いました。あるいは『仏とは何か』と問うと、ある人は『臭い肉に蠅が群がるが如し』と答えました。それを聞いた人が『私はそうは思わない。壊れた驢馬の背に足りない蠅だ』と言いました。また、『一つの問いを借りて影の草とする時はどうか』と尋ねると、ある人は『何ぞ必ずしも』と答えました。それを聞いた人が『どうして「必ずしもせず」と言わないのか』と言いました。このように、先徳たちが示したこれらの答えは、どうやって優劣を分け、その旨を達し、法に滞りなく、すべての言葉は選り分ける必要がなく、信手に取り上げられるものと言えるのでしょうか。そうであれば、それらの問答は軽重があり、わずかな違いを較べていることになります。また、機に臨んで直ちに別に弁じるべきだと言うのであれば、それらの理致はすでに備わっており、同異の分けようがないように思われます。これは私が常に疑い、解きほぐせないことです。」 私は言いました。「私はあなたの疑いを理解できません。しかし、世尊が在世の時、ある比丘は根が鈍く、多聞の性がありませんでした。仏は彼に『苕菷』の二字を誦するように命じ、朝夕に誦させました。『苕』と言うとすぐに『菷』を忘れ、『菷』と言うとまた『苕』を忘れてしまうので、いつも自分を責め、念じ続けていました。ある時、突然『苕菷』と言えるようになり、ここで大悟して、無礙の弁才を得ました。あなたがもし『苕』を誦する者のようであれば、先徳の大慈悲ゆえに、衆生を救おうとする心を見ることができるでしょう。」僧は謹んで承諾し、去っていきました。

法昌倚遇禪師。北禪賢公之子。住山三十年。刀耕火種。衲子過門必勘詰之。英邵武．聖上座皆黃龍高弟。與之友善。多法句徧叢林。晦堂老人甞過之。問曰。承聞和尚近日造草堂。畢工否。曰。已畢工。又問曰。幾工可成。曰。止用數百工。遇恚曰。大好草堂。晦堂拊手笑曰。且要天下人疑著。臨終時。使人要徐德占。德占偕靈源禪師馳往。至則方坐寢室。以院事什物付監寺曰。吾自住此至今日。以護惜常住故。每自蒞之。今行矣。汝輩著精彩。言畢。舉手中杖子曰。且道這箇付與阿誰。眾無對者。擲於地。投床枕臂而化。

> 法昌倚遇禅師は、北禅賢公の弟子である。山に三十年住み、刀耕火種の生活を送った。修行僧が門を過ぎれば、必ずその見識を問い質した。英邵武や聖上座といった黄龍禅師の高弟たちも、彼と親しく交わり、多くの法句が叢林に広まった。晦堂老人がかつて彼を訪ね、尋ねた。「お聞きするところでは、和尚様は近ごろ草堂を建てられたそうですが、もう完成されましたか。」「すでに完成した。」「では、どれほどの人手でできたのですか。」「わずか数百人ほどでな。」遇禅師は腹を立てて言った。「立派な草堂だ。」晦堂は手を叩いて笑いながら言った。「ただ、天下の人々に疑いを抱かせたいだけだ。」臨終の時、彼は徐徳占を呼び寄せるよう人に頼んだ。徳占は霊源禅師とともに急いで駆けつけた。到着すると、遇禅師はちょうど寝室に座り、院の事務や什器を監寺に託して言った。「私がここに住み始めて今日まで、常住を大切に守るために、いつも自ら管理してきた。今、私は行く。お前たちはしっかりとせよ。」そう言い終えると、手に持った杖を掲げて言った。「さて、この杖は誰に託せばよいか。」誰も答えられなかった。彼は杖を地面に投げ捨て、床に身を投げ出し、腕を枕にして息を引き取った。

首山和尚甞作傳法綱要偈曰。咄咄拙郎君。機妙無人識。打破鳳林關。穿靴水上立。咄咄巧女兒。停梭不解織。貪看闘雞人。水牛也不識。汾陽無德禪師注釋之。然學者猶莫曉。則知古人神悟穎脫之資。今人不可企及遠甚。予甞嗟誦之。淳化三年十二月五日。謂眾曰。老僧今年六十七。老病相依且過日。今年記取明年事。明年記著今年日。至明年。時皆無爽。復謂眾曰。白銀世界金色身。情與無情共一真。明暗盡時俱不照。日輪午後示全身。日午安坐而化。

> 首山和尚はかつて、伝法の要旨をまとめた偈を作った。 「ああ、愚かな若者よ。 その機微は誰にも分からない。 鳳林関を打ち破り、 靴を履いて水の上に立つ。 ああ、巧みな娘よ。 機織りを止めて織ることを知らず、 闘鶏を見るのに夢中で、 水牛さえも見分けられない。」 汾陽無徳禅師がこれを注釈したが、学ぶ者たちは依然として理解できなかった。 それゆえ、古人の神悟と抜きん出た資質が、今の我々にははるかに及ばないことが分かる。 私はかつてこれを嘆き、誦んだ。 淳化三年十二月五日、首山和尚は大衆に言った。 「老僧は今年六十七歳。 老いと病が寄り添いながら、日々を過ごしている。 今年は来年のことを覚えておき、 来年は今年の日を思い出すがよい。」 翌年になると、その言葉は少しも外れなかった。 再び大衆に言った。 「白銀の世界に金色の身、 情あるものも情なきものも、一つ真実を共にする。 明暗が尽きれば、ともに照らされることもなく、 日輪は午後に全身を現す。」 正午、安らかに坐したまま遷化した。

大般若經曰。諸天子竊作是念。諸藥叉等言辭呪句。雖復隱密而當可知。尊者善現於此般若波羅蜜多。雖以種種言辭顯示。而我等輩竟不能解。善現知彼心之所念。便告之言。汝等天子於我所說不能解耶。諸天子言。如是。如是。具壽善現復告言。我曾於此不說一字。汝亦不聞。當何所解。何以故。甚深般若波羅蜜多文字言說皆遠離故。由於此中說者．聽者及能解者皆不可得。一切如來應正等覺所證無上正等菩提。其相甚深亦復如是。曹溪大師將入滅。方敢全提此令者。知大乘種性純熟故。僧問歸新州意旨。乃曰。葉落歸根。來時無口。至江西馬祖．南岳石頭則大振耀之。故號石頭為真吼。馬祖為全提。其機鋒如大火聚。擬之則死。學者乃欲以意思解。不亦悞哉。

> 大般若経にはこう説かれています。 諸天子たちはひそかにこのように思いました。 「薬叉たちの呪文の言葉は、たとえ隠されていても理解できるだろう。 しかし尊者善現がこの般若波羅蜜多について、様々な言葉で示してくださっても、 私たちにはどうしても理解できない」 善現は彼らの心の思いを知り、告げました。 「あなたがた諸天子は、私の説くところを理解できないのか」 諸天子たちは答えて言いました。 「はい、その通りです」 具寿善現は再び告げました。 「私はここで一字も説いていない。 あなたがたも何も聞いていない。 それなのに何を理解しようというのか。 なぜなら、深遠なる般若波羅蜜多は、 文字と言説を超越しているからである。 ここには説く者も、聞く者も、理解できる者も存在しない。 一切の如来・応供・正等覚者が証された無上の正等覚も、 その本質は同様に深遠なのである」 曹渓大師（慧能）が入滅される際、初めてこの教えを完全に示されたのは、 大乗の種性が純粋に熟していたからです。 僧が「新州に帰られるお気持ちは」と尋ねると、 大師は「葉は落ちて根に帰る。来た時には口はなかった」と答えられました。 江西の馬祖や南岳の石頭に至って、この教えは大いに広まり輝きました。 それゆえ石頭は「真の吼え」と称され、 馬祖は「完全なる示現」と称されたのです。 その機鋒は大火聚のごとく、近づけば焼け死ぬばかり。 学ぶ者が思慮分別で理解しようとするのは、 まさに誤りと言わざるを得ません。

嵩明教每嘆沙門高尚。大聖慈廕之力也。而晚世紛紛者。自卑賤之。其見天子。無稱臣禮。臣之為言。公卿士大夫之軄不當僭越。取而有之。唐令瑫暗識。首壞其端。歷世因之不疑。彼山林野逸之人。天子猶不得臣之。況沙門乎。故其進正宗記之表。皆首尾言臣某。以存故事。至其間。當自敘。則亦止稱名而已。當時公卿閱之。重其高識。予昔游湘中。見沙門作道場。至召南岳帝君。則屈躬唱曰。臣僧某。此又何也。

> 嵩明教は常に嘆いて言う、沙門の高尚さは、大いなる聖者の慈悲の力によるものだと。しかし、末の世では雑多な者が多く、自ら卑しめて軽んじている。彼らが天子に謁見する際、臣下としての礼を称えない。臣という言葉は、公卿や士大夫の職分であって、みだりに越えてはならないものだ。それを取って自らに当てはめるのは、唐の令瑫が暗愚な見識で、まずその端を開いた。その後、代々それを疑うことなく踏襲している。あの山林に隠遁する野逸の人々でさえ、天子は臣下とすることはできない。ましてや沙門であろうか。だから、彼が『正宗記』を進上する際の上表文では、初めから終わりまで「臣某」と記して、従来の形式を保っている。しかし、その文中で自らを述べる部分では、ただ名のみを称しているにすぎない。当時の公卿たちはこれを見て、彼の高い見識を重んじた。かつて私が湘中を旅した時、沙門が道場を設け、南岳帝君を招請する場面に立ち会った。すると、彼は身をかがめて唱えた、「臣僧某」と。これはまたどういうことだろうか。

予頃游京淮．東吳間。法席至盛。然主法者太謙。以壞先德之式。如前輩升堂。攝衣定。侍者問訊退。然後大眾致敬。側立肅聽。以重法故。於主法者何有哉。今則不然。長老登座拱立。以遲大眾立定乃敢坐。獨江西叢林古格不易。然予以今日事勢觀之。恐他日有甚於京淮．東吳也。

> 近頃、私は京淮や東呉の地を巡り、多くの法会に参列しました。その席は大変盛んでしたが、主催する長老があまりに謙遜すぎて、古くからの良き慣わしを損なっているように感じました。 昔の先達は、堂に上がるとき、衣を整え、定座につき、侍者の問訊を受けてから退き、それから大衆が敬意を表し、端然と立って謹んで法を聞いたものです。それは法を重んじるがゆえの作法であり、主催者個人に対するものではありません。 ところが今はそうではありません。長老が座に登っても、ただ拱手して立ち、大衆が皆立ち並ぶのを待ち、やっと腰を下ろすという有様です。ただ、江西の叢林だけは、古い格式を変えずに守っています。 しかし、今日の情勢を見るに、このままではいずれ京淮や東呉の地よりも、さらに形骸化が進んでしまうのではないかと危惧しています。

仁宗皇帝與大覺禪師為法喜游。和宸詞句甚多。然皆蹤迹上語。初不敢出新奇宏妙之言。至觀其平日所作。則驚絕之句甚夥。世疑其為瓦注。非也。昔宋文帝以鮑明遠為中書舍人。文帝好文章。自謂人莫及。明遠識其旨。故為文多鄙言。世謂其才盡。實不然也。大覺身世兩忘。非明遠委曲事君之比。而　仁宗皇帝生知道妙。涕唾詞章。決非宋文所能髣髴。然予知璉公之智深。而應機之法不得不爾也。

> 仁宗皇帝は大覚禅師と共に法喜の遊びを楽しみ、多くの詩句を交わされました。しかし、それらは皆、表面的な言葉に留まっていました。初めから新奇で深遠な言葉を敢えて用いられなかったのです。ところが、皇帝の普段の作品を見ると、驚くほど優れた詩句が多くあります。世間では、皇帝が大覚禅師に対して手加減したのではないかと疑われましたが、そうではありません。 昔、宋の文帝は鮑明遠を中書舎人に任じました。文帝は詩文を好み、自らその才能は誰にも及ばないと自負していました。明遠はその心を知り、わざと粗雑な言葉で詩文を書きました。世間は彼の才能が尽きたと思いましたが、実際はそうではなかったのです。 大覚禅師は世俗の地位や名誉を超越した方であり、明遠のように君主にへつらうような方ではありません。一方、仁宗皇帝は生まれながらに道の妙を悟り、詩文などは唾のように軽く扱うお方で、決して宋の文帝などとは比べものになりません。それでも私は、大覚禅師の深い智慧と、機に応じてふるまう巧みな方法ゆえに、あえてそうされたのだと理解しています。

端師子者。東吳人。住西余山。初見弄師子者。遂悟入。因以彩素制為皮色。或升堂見客則披之。遇雪。朝披以入城。小兒追逐譁之。得錢悉以施飢寒者。歲以為常。誦法華經有功。湖人爭迎之。開經誦數句。則携錢去。好歌漁父詞。月夜歌之徹旦。時有狂僧。號回頭和尚。鼓動流俗。士大夫亦安其妄。方與潤守呂公食肉。師徑趨至。指之曰。正當與麼時。如何是佛。回頭窘無以對。師捶其頭。推倒而去。又有狂僧。號不托者。於秀州說法。聽者傾城。師搊住問。如何是佛。不托擬議。師趯之而去。師初開堂。俞秀老作䟽敘其事曰。推倒回頭。趯翻不托。七軸之蓮經未誦。一聲之漁父先聞。師聽僧官宣至此。以手揶揄曰。止。乃登座倡曰。本是瀟湘一釣客。自東自西自南北。大眾雜然稱善。師𮨇視笑曰。我觀法王法。法王法如是。下座徑去。章子厚請師住墳寺。方對食。子厚言及之。師瞋目說偈曰。章惇章惇。請我看墳。我却喫素。你却喫葷。子厚為大笑。呂延安好坐禪。而子厚喜鍛。師作偈示之曰。呂公好坐禪。章公好學仙。徐六喻擔板。各自見一邊。圓照禪師方乞身慧林。南歸姑蘇。見師於丹陽。問曰。師非端師子耶。師曰。是。圓照戲之曰。汝村裏師子耳。師應聲曰。村裏師子村裏弄。眉毛與眼一齊動。開却口。肚裏直儱侗。不愛人取奉。直饒弄到帝王宮。也是一場乾打閧。其意復戲圓照甞應詔往都城故也。

> 端師子は、東呉の人。西余山に住む。初めに獅子舞を見て、たちまち悟りを得た。それで色とりどりの布で獅子の皮を作り、堂に上がって客に会う時にはこれを身にまとった。雪の日には、朝早くこれをまとって町に入り、子供たちが追いかけて騒ぐと、得た金をすべて飢えと寒さに苦しむ人々に施した。毎年、これを常とした。法華経を誦することに功徳があり、湖の人々は争って彼を迎えた。経を開いて数句を誦すると、すぐに金を持って去った。漁父の詞を歌うのが好きで、月夜に歌い明かした。当時、狂僧と呼ばれる回頭和尚という者がいて、世間を煽動し、士大夫たちもその妄説に安住していた。ちょうど潤州の太守呂公と肉を食べている時、端師子はまっすぐに近づき、指さして言った。「ちょうどこの時、仏とは何か」。回頭は困り果てて答えられなかった。端師子はその頭を叩き、押し倒して去った。また、不托という狂僧が秀州で説法し、聴衆は町中を傾けた。端師子は彼をつかまえて尋ねた。「仏とは何か」。不托が考え込むと、端師子は蹴飛ばして去った。端師子が初めて説法の座に着いた時、俞秀老がその経緯を記して言った。「回頭を押し倒し、不托を蹴り飛ばす。七巻の蓮華経はまだ誦せず、一声の漁父の歌が先に聞こえる」。端師子は僧官がここまで読み上げるのを聞き、手を振って言った。「やめよ」。そして座に上がり、唱えた。「もとは瀟湘の一釣客、東から西から南から北から」。大衆はざわめいて称賛した。端師子はにらみつけて笑いながら言った。「我、法王の法を観るに、法王の法はかくの如し」。座を下りてまっすぐ去った。章子厚が端師子を墳寺に招いた。ちょうど食事を共にしている時、子厚がそのことを言うと、端師子は目を見開いて偈を説いた。「章惇よ章惇、私に墓を見させようとする。私は菜食をとるが、あなたは肉を食べる」。子厚は大笑いした。呂延安は坐禅を好み、子厚は鍛錬を喜んだ。端師子は偈を示して言った。「呂公は坐禅を好み、章公は仙術を学ぶ。徐六が板を担ぐように、それぞれが一方だけを見ている」。圓照禅師がちょうど慧林を離れ、南へ帰って姑蘇に向かう途中、丹陽で端師子に会い、尋ねた。「あなたは端師子ではないか」。端師子は言った。「そうです」。圓照は冗談を言った。「あなたは田舎の獅子だな」。端師子は即座に答えた。「田舎の獅子は田舎で舞う、眉と目が一斉に動く。口を開けば、腹の中はでたらめ。人の歓心を買わない。たとえ帝王の宮殿で舞っても、結局は空騒ぎ」。その意味は、かつて詔に応じて都へ行った圓照をからかったのである。

大覺禪師昔居南岳三生藏有年。叢林號璉三生。文學議論為時名公卿所敬畏。予甞得其與孫莘老書。讀之。知其為天下奇才也。其略曰。妙道之意。聖人甞寓之於易。至周衰。先王之法壞。禮義亡。然後奇言異術間出而亂俗。迨我釋迦入中土。醇以第一義示人。而始末設為慈悲以化眾生。亦所以趣時也。自生民以來。淳樸未散。則三皇之教簡而素。春也。及情竇日鑿。則五帝之教詳而文。夏也。時與世異。情隨日遷。故三王之教密而嚴。秋也。昔商周之誥誓。後世學者有所難曉。彼當時人民聽之而不違。則俗與今如何也。及其弊。而為秦漢也。則無所不至。而天下有不忍願聞者。於是我佛如來一推之以性命之理。教之以慈悲之行。冬也。天有四時循環。以生成萬物。而聖人之教。迭相扶持。以化成天下。亦猶是而已矣。然至其極也。皆不能無弊。弊。迹也。道則一耳。要當有聖賢者。世起而救之也。自秦漢至今。千有餘歲。風俗靡靡。愈薄聖人之教。列而鼎立。互相詆訾。不知所從。大道寥寥莫之返。良可嘆也。予讀之不忍置。及觀王文公非韓子。其詞意與此相合。其文曰。人有樂孟子之拒楊墨也。而以佛老為己功。嗚呼。莊子所謂夏蟲者。其斯人之謂乎。道。歲也。聖人。時也。執一時而疑歲者。終不聞道矣。夫聖人之言。應時而設。昔常是者。今盖非也。士知其常是也。因以為不可變。不知所變者言。而所同者道也。曰。然則孰正。曰。夫春起於冬。而以冬為終。終天下之道術者。其釋氏乎。不至於是者。皆所謂夏蟲也。

> 大覚禅師はかつて南岳の三生蔵に長く住まわれ、叢林では「璉三生」と称されました。その学識と議論は当時の名だたる公卿たちからも畏敬の念を抱かれるほどでした。私はかつて、彼が孫莘老に宛てた手紙を手に入れ、読みました。そこから、彼が天下の奇才であることを知りました。その内容はおおよそ次のようなものでした。 妙なる道の真意は、聖人がかつて『易経』の中に託されました。周の時代が衰えるに及んで、先王の法は崩れ、礼義は失われ、その後、奇抜な言説や異様な術策が次々と現れて風俗を乱しました。やがて我が釈迦が中国に伝来し、純粋な第一義をもって人々に示され、初めから終わりまで慈悲を説いて衆生を教化されました。これもまた、時勢に応じたものなのです。 人類が生まれて以来、純朴さがまだ失われていなかった頃は、三皇の教えは簡素で飾り気がなく、春のようなものでした。やがて情欲の穴が日に日に深まるにつれ、五帝の教えは詳細で文飾に富み、夏のようなものとなりました。時代と世相が変わり、人の心も日々移り変わっていくので、三王の教えは緻密で厳格になり、秋のようになりました。昔の殷・周の時代の誥誓（告諭と誓約）は、後世の学者には理解しにくいものですが、当時の民衆はそれを聞いても背かず、その風俗は今と比べてどうだったでしょうか。その弊害が極まり、秦・漢の時代になると、あらゆる手段が講じられ、天下には聞くに忍びない事態も起こりました。そこで我が仏如来は、一挙に性命の理をもって推し進め、慈悲の行いをもって教え導かれました。これは冬のようなものです。 天には春夏秋冬の四時が巡り、万物を生成します。聖人の教えもまた、互いに支え合いながら、天下を教化してゆくのです。それと同じことです。しかし、極みに至れば、いずれも弊害を免れません。弊害はあくまで表面の痕跡であり、道そのものは一つなのです。要は、世に聖賢が現れてこれを救うことです。 秦漢から今日まで、千有余年が経ちました。風俗はだらしなくなり、聖人の教えはますます薄れ、諸説が鼎立して互いに誹謗し合い、人々は何に従えばよいかわからなくなっています。大道は寂寥として、立ち返るべき場所もありません。まことに嘆かわしいことです。 私はこれを読み、手放すに忍びませんでした。そして、王文公（王安石）が韓子（韓愈）を批判した文章を観ると、その言葉の意図はこれと符合していました。その文は次のように述べています。 「人々は孟子が楊朱・墨子を退けたことを喜び、仏教・老荘を排斥することを自らの功績としている。ああ、荘子の言う『夏の虫』とは、まさにこのような人々のことを指すのだろうか。道は一年の歳月のようなものであり、聖人はその季節のようなものである。一つの季節だけを固執して一年全体を疑う者は、ついに道を悟ることはない。聖人の言葉は、時勢に応じて説かれるものである。かつて正しかったことが、今はもはや正しくないこともある。学者たちはそれが常に正しいと思い込み、変えるべきでないと考えるが、変わるのは言葉であって、変わらないのは道そのものである。では、どれが正しいのか。春は冬から始まり、冬をもって終わる。天下の道術を究極まで極めたのは、おそらく釈氏（仏教）であろう。ここに至らない者は、皆いわゆる『夏の虫』である。」

大般若經曰。應觀欲界．色界．無色界空。善現。是菩薩摩訶薩作此觀時。不令心亂。若心不亂。則不見法。若不見法。則不作證。又曰。如金翅鳥飛騰虗空。自在翱翔。久下墮落。雖依於空戲。而不據空。亦不為空之所拘礙。昔洞山悟本禪師立五位偏正以標準大法。約三種滲漏以辨衲子。非意斷苟為。皆本佛之遺意。今叢林聞滲漏之語。往往鼻笑。雖悟本復出。安能為哉。

> 大般若経にはこう説かれています。 「欲界・色界・無色界は空であると観じなさい。 善現よ、この菩薩摩訶薩がこのように観じる時、 心を乱すことがあってはならない。 もし心が乱れなければ、法を見ることもない。 法を見なければ、証を得ようとすることもない」 また、こうも説かれています。 「金翅鳥が虚空を飛び立ち、自在に翔け巡り、 長く飛んでいても落ちることはない。 それは空に依って遊ぶが、空に執着せず、 空に束縛されることもないからだ」 かつて洞山悟本禅師は、 五位偏正を立てて大法の規範とし、 三種の滲漏によって修行者のありようを弁別しました。 これは私意で軽率になされたのではなく、 すべて仏の遺された教えに基づくものです。 今、叢林で「滲漏」という言葉を聞くと、 しばしば鼻で笑う者がいます。 たとえ悟本禅師が再びこの世に出られたとしても、 どうすることもできないでしょう。

大般若經曰。一切智智清淨。無二無二分。無別無斷故。古之宗師如臨濟．德山．趙州．雲門之徒。皆洞達此意。故於一切時。心同太虗。至於為物作則。則要用便用。聊觀其一戲。則將搏取大千如陶家手。未了證者。當以事明。鞭草血流。頑石吼聲。則無情非情之異。雪中啼竹。筍為之茁。則無今昔之時。嚙指悟子而蔡順來歸。則無間隔之處。自乳猶子而德秀乳流。則無男女等相。肇公曰。傷夫。人情之惑也久矣。目對真而莫覺。亦以是而已。

> 『大般若経』に曰く、 一切智智は清浄なり。 二つ無く、二分無く、 別れ無く、断絶無し。 古の宗師たち、臨済、徳山、趙州、雲門らのごときは、 皆この意を洞達せり。 故に一切の時に、心は太虚の如くにして、 物のために則をなすに至っては、 用いれば直ちに用いる。 その一つの戯れを観るに、 大千世界を陶工の手の如くに取りて搏（う）つ。 未だ証し了らざる者は、 事をもって明らかにすべし。 草を鞭てば血は流れ、 頑石は吼えて声を発す。 これ無情と非情との異なること無し。 雪の中に竹が啼けば、 筍はそれに応じて茁（つ）つ。 これ今と昔との時の隔て無し。 指を嚙んで子を悟らしめれば、 蔡順は来たりて帰す。 これ間隔の処無し。 自ら猶子（おい）に乳を与うれば、 徳秀の乳は流る。 これ男女等の相無し。 肇公曰く、 傷（いた）ましいかな、 人情の惑いや久しきかな。 真（まこと）に目を対（む）けて覚むること莫（な）し。 これもまた以って然るのみ。

山谷禪師每曰。世以相皃觀人之福。是大不然。福本無象何以觀之。惟視其人量之淺深耳。又曰。觀人之壽夭。必視其用心。夫動入欺誑者。豈長世之人乎。寒山子曰。語直無背面。心真無罪福。盖心語相應。為人之常然者。而前聖貴之。有以見世道交喪甚矣。大溈真如禪師一生誨門弟子。但曰。作事但實頭。雲盖智禪師有所示。必曰。但莫瞞心。心自靈聖。

> 山谷禅師は常に言われた。 「世間では外見で人の福徳を見ようとするが、これは大きな誤りだ。福徳には本来形がないのに、どうして見ることができようか。ただその人の器量の深さ浅さを見るだけである」と。 また言われた。 「人の寿命の長短を見るには、必ずその心の使い方を見よ。常に人を欺くような者は、どうして長生きできようか」と。 寒山子は言われた。 「言葉が素直であれば、表裏はない。心が真実であれば、罪も福もない」と。 心と言葉が一致しているのは、人として当然のあり方であるのに、昔の聖人たちがそれを尊んだのは、世の中の道徳がすっかり失われていることがよく分かるからだ。 大溈真如禅師は一生涯、門弟たちを教える際、ただこう言われた。 「何事も実直に行いなさい」と。 雲盖智禅師は何かを示すときは、必ずこう言われた。 「ただ心をごまかすな。心は自然と霊妙で尊いものだから」と。

予在湘山雲盖。夜坐地爐。以帔蒙首。夜久。聞僧相語曰。今四方皆謗臨濟兒孫。說平實禪。不可隨例虗空中拋筋斗也。須令求悟。悟箇什麼。古人悟則握土成金。今人說悟。正是見鬼。彼皆狂解未歇。何日到家去。僧曰。只如問趙州。承聞和尚親見南泉。是否。答曰。鎮州出大蘿蔔頭。此意如何。其僧笑曰。多少分明。豈獨臨濟下用此接人。趙州亦老婆如是。予戲語之曰。這僧問端未穩。何不曰。如何是天下第一等生菜。答曰。鎮州出大蘿蔔頭。平實更分明。彼問見南泉。而以此對。却成虗空中打筋斗。聞者傳以為笑。

> 昔、湘山の雲盖寺にいた時のことだ。夜、囲炉裏のそばに座り、衣を頭からかぶっていた。夜も更けたころ、僧たちの話し声が聞こえてきた。 「今や世の中のいたるところで、臨済の孫たちが『平常心の悟り』を説いていると非難している。だが、彼らに追随して空想の世界で逆立ちをするわけにはいかない。彼らに『悟りを求めよ』と言うが、一体何を悟れというのか。昔の人は悟れば土をつかんで金に変えた。今の人たちが言う『悟り』こそ、まさに幻覚を見ているようなものだ。彼らは皆、狂ったような解釈をやめず、いつになったら本来の自分のもとに帰れるのか。」 別の僧が言った。「例えば趙州和尚に『和尚は南泉和尚に直接お会いになったと伺いましたが、本当ですか』と問うた時、和尚は『鎮州では大きな大根が出ます』と答えられた。これはどういう意味でしょうか。」 その僧は笑って言った。「なんと明白なことか。臨済の門下だけがこの方法で人を指導するのではない。趙州和尚もこのように老婆心を示されていたのだ。」 そこで私は冗談めかして言った。「その問い方は、そもそも落ち着かない。『世の中で一番の生野菜とは何ですか』と問うてみてはどうか。答えは『鎮州では大きな大根が出ます』。これならば、ずっと平明で分かりやすいだろう。ところが、南泉和尚に会ったかどうかを問うて、こんな答えをするから、かえって空想の世界で逆立ちをしていることになるのだ。」誰かがこの話を聞いて笑い話にしたものだ。

靈源禪師為予言。彭器資每見尊宿必問。道人命終多自由。或云。自有旨決。可聞乎。往往有妄言之者。器資竊笑之。暮年乞守湓江。盡禮致晦堂老人至郡齋。日夕問道。從容問曰。臨終果有旨決乎。晦堂曰。有之。器資曰。願聞其說。答曰。待公死時即說。器資不覺起立曰。此事須是和尚始得。予嘆味其言。作偈曰。馬祖有伴則來。彭公死時即道。睡裏虱子咬人。信手摸得革蚤。

> 霊源禅師が私に語ってくれた。 彭器資は高僧に会うたびに必ず尋ねた。 「修行者は命終の時、多く自由を得ると聞きます。あるいは『自ずから旨決がある』とも。その真意を聞かせていただけませんか」 往々にして妄言を語る者がいたが、器資はひそかに笑っていた。 晩年、彼は湓江の太守を願い出て、礼を尽くして晦堂老人を郡の役所に招いた。日夜、道を問い、やがて穏やかに尋ねた。 「臨終に果たして旨決があるのでしょうか」 晦堂は答えた。 「あります」 器資が言った。 「どうかその説を聞かせてください」 答えて言った。 「あなたが死ぬ時になったら、お話ししましょう」 器資は思わず立ち上がり言った。 「このことは和尚さまにこそお願いしたいことです」 私はこの言葉を嘆賞し、味わい、偈を詠んだ。 馬祖には伴侶あれば来たり、 彭公が死ぬ時こそ道を説く。 眠りの中で虱が人を咬めば、 手のままに蚤を掴み取る。

予夜與僧閱楊大年所作佛祖同源集序。至曰昔如來於然燈佛所。親蒙記莂。實無少法可得。是號大覺能仁。置卷長嘆大年士大夫。其辯慧足以達佛祖無傳之旨。今山林衲子。反仰首從人求禪道佛法。為可笑也。僧曰。石頭大師曰。竺土大僊心。東西密相付。豈其妄言之耶。予謂曰。子讀其文之誤。所謂密付者。非若醫巫家以其術背人相爾汝也。直使其自悟明為密耳。故長慶巘禪師曰。二十八代祖師皆說傳心。且不說傳語。但破疑情。終不於佛心體上答出話頭。如道明上座見六祖於大庾嶺上。既發悟。則曰。此外更有密意也無。六祖曰。我適所說者。非密意也。一切密意。盡在汝邊。非特然也。如釋迦於然燈佛所。但得授記而已。如有法可傳。則即付與之矣。阿難亦甞猛省曰。將謂如來惠我三昧。前聖語訓具在。可以鏡心。不然。香嚴聞擊竹聲。望溈山再拜。高亭隔江見德山。即橫趨而去。何以密耳語哉。

> ある夜、私は僧侶と共に楊大年（楊億）の著した『佛祖同源集』の序文を読んでいた。そこには「昔、如来が然燈仏のもとで、自ら授記を授けられたが、実は得るべき微細な法もなかった。それゆえに大覚能仁と号せられた」とあった。書物を置き、私は長いため息をついた。大年は士大夫でありながら、その弁舌と智慧は、祖師方が無伝の旨を達するに十分であった。それに対し、今の山林の衲僧たちは、かえって頭を上げて他人から禅道や仏法を求めようとする。これは笑うべきことではないか。 僧が言った。「石頭大師は『竺土大僊心、東西密相付』（インドの大聖の心、東西に密かに相伝う）とおっしゃいました。これは妄言なのでしょうか？」 私は答えた。「あなたはその文を誤って読んでいる。いわゆる『密かに付する』とは、医者や呪術師がその術を人に隠して、こっそりと伝授するようなものではない。それは、ただその人をして自ら悟り明らかにさせること、これが密かなのである。だから長慶巘禅師は言った『二十八代の祖師は、みな心を伝えると言い、言葉を伝えるとは言わなかった。ただ疑惑の情を打ち破るだけで、決して仏の心体の上に、話し言葉の手がかりを出したりしなかった』と。」 例えば、道明上座が大庾嶺で六祖に会い、悟りを得た後、「この他にさらに秘密の意味がありますか？」と尋ねた。六祖は答えた。「私が今言ったことは、秘密の意味ではない。すべての秘密の意味は、全てあなたの方にあるのだ。」これは特別なことではない。 釈迦が然燈仏のもとで授記を得たのも同様である。もし伝えるべき法があるなら、その時すぐに授け与えたはずだ。阿難もかつて猛省して言った。「私は如来が私に三昧を恵んでくださると思っていました」と。先聖の言葉や教えは、すべて経典にあり、心の鏡とすることができる。そうでなければ、香厳が竹を打つ音を聞いて、潙山に向かって再拝したことや、高亭が江を隔てて徳山を見て、すぐに横に走り去ったことは、なぜ単なる密かな言葉や囁きで説明できようか。

曹山本寂禪師躭章曰。取正命食者。須具三種墮。一者披毛戴角。二者不斷聲色。三者不受食。時會中有稠布衲問。披毛戴角是什麼墮。答曰。是類墮。進曰。不斷聲色是什麼墮。答曰。是隨墮。進曰。不受食是什麼墮。答曰。是尊貴墮。因又為舉其要曰。食者即是本分事。本分事知有不取。故曰尊貴墮。若執初心。知有自己及聖位。故曰類墮。若初心知有己事。回光之時。擯却聲色香味觸法。得寧謐。即成功勳後。却不執六塵等事。隨分而昧。任之即礙。所以外道六師是汝之師。彼師所墮。汝亦隨墮。乃可取食。食者。即是正命食也。食者。亦是却就六根門頭見聞覺知。只是不被佗染污。將為墮。且不是同向前均他。本分事尚不取。豈況其餘事耶。曹山凡言墮。謂混不得。類不齊耳。凡言初心者。所謂悟了同未悟耳。

> 曹山本寂禅師がこう言った。 「正命の食を受ける者は、必ず三種の『堕（おち）』を具えていなければならない。 一つ目は、毛をまとい角をはやすこと（畜生身になること）。 二つ目は、色や声を断ち切らないこと。 三つ目は、食を受けないこと。」 その時、会の中に稠布衲という者が問うた。 「毛をまとい角をはやすとは、どのような堕ですか？」 答えて言う。「それは『類堕（るいだ）』である。」 さらに問う。「色や声を断ち切らないとは、どのような堕ですか？」 答えて言う。「それは『随堕（ずいだ）』である。」 さらに問う。「食を受けないとは、どのような堕ですか？」 答えて言う。「それは『尊貴堕（そんきだ）』である。」 そこでまた、その要点を挙げて言った。 「『食』とは、すなわち本分の事柄（本来の自己）である。 本分の事柄を『知っている』けれども、それを取らない。ゆえに『尊貴堕』という。 もし、初心のまま、自己や聖者の位があると固く執着すれば、それを『類堕』という。 もし初心のまま、自己の事柄を（悟ろうと）知り、光を回らすとき（内省するとき）、 色・声・香・味・触・法の六塵を斥けて静けさを得たならば、 それは功を成し遂げた後であるが、それでもなお六塵などに執着しない。 （しかし）その場に任せてぼんやりすれば、かえってさまたげとなる。 だからこそ、外道の六師（六人の師）もあなたの師である。 その師が堕する所に、あなたもまた随って堕する。 そうしてはじめて『食』を受けることができるのだ。 『食』とは、すなわち正命の食である。 『食』とはまた、六根の門先において、見たり聞いたり感じたり知ったりすることで、 ただそれに染まらないことをもって『堕』とするのである。 しかも、以前のようにそれに均（ひと）しくしてしまうのではない。 本分の事柄すら取らないのである。ましてや他の事柄を取るはずがあろうか。」 曹山が「堕」と言うのは、混ざり合うことができず、同類になれないという意味である。 また「初心」と言うのは、悟っていても悟っていないのと同じであるという意味である。

唐溫尚書造甞問圭峰密禪師。悟理息妄之人。不復結業。一期壽終之後。靈性何依。密以書答之曰。一切眾生無不具覺靈空寂。與佛無殊。但以無始劫來。未曾了悟。妄執身為我相。故生愛惡等情。隨情造業。隨業受報。生老病死。長劫輪回。然身中覺性未曾生死。如夢被驅使。身本安閑。如水作冰。而濕性不異。若能悟此意。即是法身。本自無生。何有倚託。靈靈不昧。了了常知。無所從來。亦無所去。然多生習妄。執以性成。喜怒哀樂。微細流注。真理雖然頴達。此情難以卒除。須長覺察。損之又損。如風頓止。波浪漸停。豈可一身所修便同佛用。但可以空寂為自體。勿認色身。以真知為自心。勿認妄念。妄念若起。都不隨之。即臨命終時。自然業不能繫。雖有中陰。所向自由。天上人間。隨意寄託。若愛惡之已泯。不受分段之身。自然易短為長。易麤為妙。若微細流注。一切寂滅。圓覺大智。朗然獨存。即隨現千百億身。度有緣眾生。名之曰佛。本朝韓侍郎宗古。甞以書問晦堂老師曰。昔聞和尚開悟。曠然無疑。但無始以來煩惱習氣未能頓盡。為之奈何。晦堂答曰。敬承書中諭及昔時開悟。曠然無疑。但無始以來煩惱習氣未能頓盡。然心外無剩法者。不知煩惱習氣是何物。而欲盡之。若起此心。翻成認賊為子也。從上以來。但有言說。乃是隨病設藥。縱有煩惱習氣。但以如來知見治之。皆是善權方便誘引之說。若是定有習氣可治。却是心外有法。而可盡之。譬如靈龜曳尾於塗。拂迹迹生。可謂將心用心。轉見病深。苟能明達心外無法。法外無心。心法既無。更欲教誰頓盡邪。伏奉來諭。略敘少答。以為山中之信耳。二老今古之宗師也。其隨宜方便。自有意味。初無優劣。然圭峰所答之詞。正韓公所問之意。而語不失宗。開廓正見。以密較之。晦堂所得多矣。

> 唐の尚書、温造がかつて圭峰密禅師に問うた。「悟りを得て妄念を静めた人が、もはや業を積むことはありません。その人が一期の命を終えた後、霊性はいずこに依るのでしょうか。」密が書簡で答えて曰く。 「一切の衆生は、漏れなく覚性・霊空・寂滅を具えており、仏と何ら異なることはありません。ただ無始の劫（長い時間）以来、悟りを得ずに、誤って身体を『我』という相と執着したため、愛や憎しみなどの感情が生じました。感情に従って業を作り、業に従って報いを受け、生老病死の長い輪廻を繰り返すのです。しかし身の中の覚性は、生死を経験することがありません。それはあたかも夢の中で追われても、本体は安らかなのと同じです。あるいは水が氷になっても、その湿った性質は変わらないのと同じです。もしこの意味を悟ることができれば、それがすなわち法身です。もともと生じることがないのですから、どこに依拠する必要がありましょうか。霊なるものは明らかにして惑わず、はっきりと常に知っています。来たところもなければ、去るところもありません。 しかし多くの生まれ変わりを経て、妄念の習慣に執着し、それが性となって定着しています。喜怒哀楽の微細な流れは、真理がはっきりと理解できた後でも、この情念はすぐには除き去ることができません。絶えず観察し、それを減らし減らしていくべきです。それはあたかも風が急にやめば、波が徐々に静まるようなものです。どうして一身の修行だけで、すぐに仏の働きと等しくなれるでしょうか。ただ、空寂なるものを自己の本体とし、色身（物質的な身体）と認めてはなりません。真の知を自己の心とし、妄念と認めてはなりません。妄念が起これば、それに従わないことです。そうすれば、命終の時に臨んでも、自然に業が繫縛することはありません。中陰（中有）があるとしても、向かうところは自由であり、天上・人間の間を思うままに託生できます。もし愛憎の念がすでに消えているならば、分段の身（限りのある身体）を受けず、自然に短いものを長いものへと変え、粗いものを妙なるものへと変えます。もし微細な流れの念まですべてが寂滅し、円覚の大智が朗々と独り残るならば、その時は、千百億の身を現じて有縁の衆生を度し、これを仏と名づけます。 本朝の韓侍郎の宗古が、かつて書簡で晦堂老師に問うた。「昔、和尚が開悟されたことを聞き、晴れ渡って疑いがありません。しかし無始以来の煩悩と習気を、どうしても一度に尽くすことができません。どうすればよいのでしょうか。」晦堂が答えて曰く。 「ご書簡で、昔の開悟のことを述べられ、晴れ渡って疑いがないが、無始以来の煩悩と習気をどうしても一度に尽くせないと諭されました。しかし心の外に余分な法（真理・現象）がないとすれば、煩悩や習気というものはいったい何ものなのか、そしてそれを尽くそうとするのです。もしこの心を起こせば、逆に賊を子と認めることになります。古来より、言葉があるのは病気に応じて薬を施すに過ぎません。たとえ煩悩や習気があったとしても、如来の知見でこれを治すならば、いずれも巧みな方便による誘いの言葉にすぎません。もし確かに治すべき習気があるとするならば、それは心の外に法があって、それを尽くせることになります。ちょうど霊亀が泥の中に尾を引きずると、跡を消そうとしてかえって跡が生じるようなものです。心を用いて心を求めることは、病をますます深くするといえるでしょう。もし心の外に法なく、法の外に心なしと明達できれば、心も法もないのですから、いったい誰に頼んで一度に尽くさせようというのでしょうか。」 謹んでお手紙を拝見し、大略の返答を申し述べ、山中からの便りとさせていただきます。 この二老は、古今の宗師である。その機に応じた方便には、それぞれ味わいがあり、初めから優劣はない。しかし、圭峰の答えは、正に韓公の問いの意にかなっており、言葉は宗旨を失わず、正しい見解を広く開いている。密と較べてみれば、晦堂の得るところが多かったと言えよう。

永明和尚曰。夫祖佛正宗。則真誰識。才有信處。皆可為人。若論修證之門。諸方皆云功未齊於諸聖。且教中所許初心菩薩。皆可比知。亦許約教而會。先以聞解信入。後以無思契同。若入信門。便登祖位。且約現今世間之事於眾生界中。第一比知。第二現知。第三約教而知。第一比知者。且如即今有漏之身。夜皆有夢。夢中所見好惡境界。憂喜宛然。覺來床上安眠。何曾是實。並是夢中意識思想所為。則可比知覺時所見之事。皆如夢中無實。夫過去．未來．現在三世境界。元是第八阿賴耶識親相分。唯是本識所變。若現在之境。是明了意識分別。若過去．未來之境。是獨散意識思惟。夢覺之境雖殊。俱不出於意識。則唯心之旨。比況昭然。第二現知者。即是對事分明。不待立況。且如現見青白物時。物本自虗。不言我青我白。皆是眼識分與同時意識計度分別為青為白。以意辨為色。以言說為青。皆是意言。自妄安置。以六塵鈍故。體不自立。名不自呼。一色既然。萬法咸爾。皆無自性。悉是意言。故曰萬法本閑。而人自閙。是以若有心起時。萬境皆有。若空心起處。萬境皆空。則空不自空。因心故空。有不自有。因心故有。既非空非有。則唯識唯心。若無於心。萬法安寄。又如過去之境。何曾是有。隨念起處。忽然現前。若想不生。境終不現。此皆是眾生日用可以現知。不待功成。豈假修得。凡有心者。並可證知。故先德云。如大根人知唯識者。恒觀自心．意言為境。此初觀時。雖未成聖分。知意言則是菩薩第三約教而知者。大經云。三界唯心。萬法唯識。此是所證本理。能詮正宗也。予甞三復此言。歎佛祖所示廣大坦夷。明白簡易如此。而亦鮮有諦信之者。何也。清凉國師有言曰。行人當勤勇念知顯修之儀。以貪著世事。無始惡習離之甚難。過於世間慈父。離於孝子。故須精進方能除遣。勤則欲勤䇿勵。勇猛不息。念則明記不忘。知則決斷無悔。予願守清凉之訓。以遵永明之旨。與諸同志入圓寂道場。

> 永明和尚はこう言われました。 「祖師や仏陀の正しい教えというものは、真実を誰が知り得ようか。 ただ信心が生じたところがあれば、誰でもそれを人に伝えることができる。 修行と悟りの道について言えば、多くの教えでは『功徳がまだ聖者たちに及ばない』と説いている。 しかし、経典の中では初心の菩薩でも理解できると許され、 教えに基づいて会得することも許されている。 まずは聞いて理解し、信心を持って入り、 その後は思慮を超えて真理と一体となる。 信心の門に入れば、たちまち祖師の位に登ることができるのだ。 今、世間の事柄について、衆生の世界において三つの知り方がある。 第一は比べて知ること、第二は現前に知ること、第三は教えによって知ることである。 第一の『比べて知る』とは、たとえば今この煩悩に満ちた身で、 夜には必ず夢を見る。夢の中で良い悪い様々な境界を見て、 憂いや喜びがまさに現実のように感じられる。 しかし目が覚めれば、ただ床の上で安らかに眠っているだけで、 夢の中のことが現実であったわけではない。 すべては夢の中の意識が考え、思い巡らしたことにすぎない。 このことから比べて知ることができる―― 覚めている時に見ていることも、すべて夢のように実体がないのだと。 過去・未来・現在の三世の境界は、 元来は第八阿頼耶識の直接的な対象であり、 ただこの根本識が変現したものにすぎない。 現在の境界は明らかな意識が分別したものであり、 過去・未来の境界は独りで働く意識が思惟したものである。 夢と覚めの境界は異なっていても、 どちらも意識の範囲を出るものではない。 すると『唯識』『唯心』の教えが、比喩によって明らかになる。 第二の『現前に知る』とは、事柄に対してはっきりと知り、 比喩を立てる必要がないことである。 たとえば今、青や白い物を見ている時、 物それ自体は虚ろであり、『私は青い』『私は白い』などと言わない。 すべては眼識と同時に働く意識が、 分別して青や白と判断しているにすぎない。 意識が色と辨じ、言葉が青と説く。 すべては意識の言葉であり、自ら妄りに作り出したものだ。 六塵（感覚対象）は鈍いものであり、 それ自体で立つことはなく、自ら名乗ることもない。 一つの色がこのようであるならば、すべての存在も同じである。 すべてに自性はなく、すべては意識の言葉である。 だから『万法は本来静寂であるが、人が自ら騒ぎ立てる』と言われる。 したがって、もし心が起これば、すべての境界が現れ、 心が空であれば、すべての境界も空となる。 空は自ら空であるのではなく、心によって空となる。 有は自ら有であるのではなく、心によって有となる。 空でもなく有でもないならば、それは唯識・唯心である。 もし心がなければ、万法はどこに存在し得ようか。 また、過去の境界など、かつて実在しただろうか。 念いに従って起こる時、突然に眼前に現れる。 もし想いが起こらなければ、境界はついに現れない。 これはすべて、衆生が日々の生活の中で現前に知ることができ、 功を成すのを待たず、修行によって得るものでもない。 心を持つ者ならば、誰でも証知することができる。 だから先徳は言われた―― 『大いなる根器の者が唯識を知る時は、 常に自らの心を観じ、意識の言葉を境界とする。 この初めの観察の時、まだ聖者の分け前には至らないが、 意識の言葉を知ることは、すでに菩薩である』と。 第三の『教えによって知る』とは、大いなる経典に説かれる―― 『三界は唯心、万法は唯識』である。 これは証されるべき根本の理であり、説き示す正しい教えである。 私はかつてこの言葉を繰り返し味わい、 祖師仏陀が示された広大で平坦で、 明白で簡易な教えに感嘆した。 しかし、それを真摯に信じる者は少ない。 なぜだろうか。 清涼国師はこう言われた。 「修行者は勤め勇んで、念いと知恵を明らかにし、修行の儀則を顕すべきである。 世事に貪著する無始の悪習は、離れることが非常に難しい。 それは世間の慈父が孝子から離れるよりも難しい。 だから精進しなければ除き去ることはできない。 『勤』とは努めて自らを励まし、勇猛にやむことなく進むこと。 『念』とは明らかに覚えて忘れないこと。 『知』とは決断して後悔しないことである。」 私は清涼国師の教訓を守り、永明和尚の旨に従い、 諸々の同志と共に円寂の道場に入りたいと思う。

嵩明教初自洞山游康山。託迹開先法席。主者以其佳少年。銳於文學。命掌書記。明教笑曰。我豈為汝一盃薑杏湯耶。因去之。居杭之西湖三十年。閉關不妄交。嘉祐中。以所譔輔教編．定祖圖．正宗記。詣闕上之。翰林王公素時權開封。為表薦於朝　仁宗皇帝加歎久之。下其書於中書。宰相韓公．參政歐公閱其文大驚。譽於朝士大夫。書竟賜入藏。明教名遂聞天下。晚。移居靈隱之北永安蘭若。清旦誦金剛般若經不輟音。齋罷讀書。賓客至則清談。不及世事。甞曰。客去清談少。年高白髮饒。夜分誦觀世音名號滿十萬聲則就寢。其苦硬清約之風。足以追配鐘山僧遠。予甞見其手書與月禪師曰。數年來欲製紙被一翻以禦苦寒。今幸已成之。想聞之大笑也。臨終安坐微笑。索筆作偈曰。後夜月初明。予將獨自行。不學大梅老。猶貪鼯鼠聲。師得法於洞山聰禪師。而宗派圖系於德山遠公法嗣之列。誤矣。

> 嵩明教は初め洞山から康山に遊び、開先法席に身を寄せた。主催者は彼が若く優れた青年で、文学に鋭い才能があるのを見て、書記の職を任せようとした。明教は笑って言った。「私はあなたの一杯の生姜杏湯のために働く者ではないよ。」そして去り、杭州の西湖に三十年間住んだ。門を閉ざし、むやみに人と交わらず、嘉祐年間に、自ら著した『輔教編』『定祖図』『正宗記』を携えて都に上り、朝廷に献上した。翰林の王素公が当時開封の長官を務めており、朝廷に推薦の表を上奏した。仁宗皇帝は長く感嘆し、その書を中書省に下した。宰相の韓公と参政の欧陽公はその文章を読み、大いに驚き、朝廷の士大夫たちに賞賛した。ついに書物は大蔵経に収められることとなり、明教の名は天下に知れ渡った。 晩年、霊隠寺の北にある永安蘭若に移り住んだ。朝早くから『金剛般若経』を途切れることなく誦し、朝食後は読書に励んだ。客が訪れると清談を交わしたが、世俗の話には触れなかった。かつてこう言っている。「客が去れば清談も少なくなり、年を重ねれば白髪も多くなる。」夜更けには観世音菩薩の名号を十万回唱え、それから就寝した。その質素で厳格な清らかな風貌は、鐘山の僧遠に匹敵するものだった。私はかつて月禅師に宛てた彼の直筆の手紙を見たことがある。「数年来、一枚の紙の布団を作って厳しい寒さをしのごうと思っていたが、今やっと完成した。聞いて大笑いすることだろう。」と。 臨終の際、安らかに座り微笑みながら、筆を求め偈を詠んだ。「後の夜、月は初めて明るく、私は独り歩み出よう。大梅老のようには学ばず、まだ鼯鼠の声に未練があろうか。」師は洞山聰禅師より法を授かり、宗派図では徳山遠公の法嗣の列に記されているが、それは誤りである。

## 石門洪覺範林間錄上

> 石門洪覚範『林間録』上巻