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title: "攝大乘論釋 · 2"
description: "攝大乘論釋是古印度世親菩薩對無著菩薩所造攝大乘論的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論以唯識思想為核心系統闡釋阿毘達磨大乘經中攝大乘品深入論述阿賴耶識緣起三性三無性等教義建立完整的唯識學體系是印度瑜伽行派重要論書為研究唯識學根本典籍對漢傳佛教思想影響深遠被譽為大乘佛教義理之瑰寶"
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## 攝大乘論釋卷第二

> 『摂大乗論釈』 巻第二

世親菩薩造

> 世親菩薩による

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 2所知依分第二之二

> 第二 所知依分 第二の二

論曰：復次聲聞乘中，亦以異門密意已說阿賴耶識。如彼《增一阿笈摩》說：世間眾生愛阿賴耶、樂阿賴耶、欣阿賴耶、憙阿賴耶。為斷如是阿賴耶故，說正法時恭敬攝耳、住求解心、法隨法行。如來出世，如是甚奇希有正法出現世間。於聲聞乘《如來出現四德經》中，由此異門密意已顯阿賴耶識。於大眾部阿笈摩中，亦以異門密意說此名根本識，如樹依根。化地部中亦以異門密意說此名窮生死蘊，有處有時見色心斷，非阿賴耶識中彼種有斷。

> 論曰：さらに、声聞乗においても、別の方法で密かに阿頼耶識が説かれている。例えば『増一阿含経』にはこうある。 「世の人々は阿頼耶を愛し、阿頼耶を楽しみ、阿頼耶を喜び、阿頼耶に親しむ。このような阿頼耶を断つために、正しい教えを説く時には、敬いの心で耳を傾け、理解しようと願い、教えに従って実践する。如来が世に現れ、このように非常に珍しい正しい教えが世に現れる」 また、声聞乗の『如来出現四徳経』においても、この別の方法によって密かに阿頼耶識が示されている。さらに、大衆部の阿含経でも、別の方法で密かにこれを「根本識」と説き、木が根に依るようにと例えている。化地部でも、別の方法で密かにこれを「窮生死蘊（生死を尽くすまでの蘊）」と説き、時として色や心が断たれるように見えることがあっても、阿頼耶識の中ではそれらの種が断たれることはないとしている。

釋曰：世間眾生愛阿賴耶者，是總標句。如其次第復以餘句約就現在過去未來三時別釋。復有別義，謂於現在愛阿賴耶，於過去時樂阿賴耶。由先世樂阿賴耶故，復於今世欣阿賴耶。由樂由欣阿賴耶故，於未來世憙阿賴耶。法隨法行者，如教行故。大眾部中名根本識如樹依根者，謂根本識為一切識根本因故，譬如樹根，莖等總因；若離其根，莖等無有。阿賴耶識名根本識，當知亦爾。化地部中異門說為窮生死蘊，為釋此因說有處等。言有處者，謂無色界無有諸色。言有時者，謂無想等諸定位中無有諸心。非阿賴耶識中彼種有斷者，謂阿賴耶識中色心熏習，由此為因色心還有。

> 釈して言う。世間の衆生がアーラヤ識を愛するというのは、これは総標の句である。その順序に従って、さらに残りの句をもって、現在・過去・未来の三時に約して別に釈する。また別の義がある。すなわち、現在においてアーラヤ識を愛し、過去の時においてアーラヤ識を楽（ねが）う。過去世においてアーラヤ識を楽うたがゆえに、さらに今世においてアーラヤ識を欣（よろこ）ぶ。アーラヤ識を楽い欣ぶがゆえに、未来世においてアーラヤ識を喜ぶのである。 「法随法行」とは、教えのままに行うことである。大衆部の中では「根本識」と名づける。たとえば樹が根に依るように、根本識は一切の識の根本の因であるがゆえに、譬えば樹の根は茎などの総因であり、もしその根を離れれば茎などは存在しない。アーラヤ識を根本識と名づけるのも、また同じであると知るべきである。 化地部の中では別の門として、これを「窮生死蘊」と説く。この因を釈するために、「有処」などを説く。「有処」と言うのは、無色界には諸々の色が存在しないことである。「有時」と言うのは、無想定などの様々な定位の中には諸々の心が存在しないことである。アーラヤ識の中においてそれらの種が断たれることはない。すなわち、アーラヤ識の中には色と心の熏習があり、これによって因として、色と心がまた生じるのである。

論曰：如是所知依，說阿賴耶識為性、阿陀那識為性、心為性、阿賴耶為性、根本識為性、窮生死蘊為性等。由此異門，阿賴耶識成大王路。

> 解説：このように、私たちが認識する存在の基盤（所知依）は、阿頼耶識という性質、阿陀那識という性質、心という性質、阿頼耶という性質、根本識という性質、生死を貫く存在の集まり（窮生死蘊）という性質など、様々な呼び方で説かれています。これらの異なる名称によって、阿頼耶識は大王の通る大通り（大王路）のような、広く確かな道として位置づけられています。

釋曰：由此異門阿賴耶識成大王路者，是極廣義。

> 説明しよう。これらの異なる教えのゆえに、阿頼耶識は大王の大通りとなる。これは極めて広大な意味である。

論曰：復有一類，謂心意識義一文異。是義不成，意識兩義差別可得，當知心義亦應有異。復有一類，謂薄伽梵所說眾生愛阿賴耶，乃至廣說，此中五取蘊說名阿賴耶。有餘復謂貪俱樂受名阿賴耶。有餘復謂薩迦耶見名阿賴耶。此等諸師由教及證愚阿賴耶，故作此執。如是安立阿賴耶名，隨聲聞乘安立道理，亦不相應。若不愚者，取阿賴耶識安立彼說阿賴耶名，如是安立則為最勝。云何最勝？若五取蘊名阿賴耶，生惡趣中一向苦處最可厭逆，眾生一向不起愛樂，於中執藏不應道理，以彼常求速捨離故。若貪俱樂受名阿賴耶，第四靜慮以上無有，具彼有情常有厭逆，於中執藏亦不應理。若薩迦耶見名阿賴耶，於此正法中信解無我者恒有厭逆，於中執藏亦不應理。阿賴耶識內我性攝，雖生惡趣一向苦處求離苦蘊，然彼恒於阿賴耶識我愛隨縛，未嘗求離。雖生第四靜慮以上，於貪俱樂恒有厭逆，然彼恒於阿賴耶識我愛隨縛。雖於此正法信解無我者厭逆我見，然於藏識我愛隨縛。是故安立阿賴耶識名阿賴耶，成就最勝。

> 論じて曰く、さらに次のような考え方がある。すなわち、「心」「意」「識」という三つの語は、意味は同じで文字が異なるだけである、という見解である。しかし、この考えは正しくない。「意」と「識」にはそれぞれ異なる意味があることが明らかであり、「心」にもまた別の意味があると知るべきである。 また、次のような見解もある。すなわち、世尊が「衆生は阿頼耶を愛する」と説かれ、さらに広く教えられた中で、この「五取蘊」を阿頼耶と名づけている、という。 また別の者たちは、「貪りを伴う楽受」を阿頼耶と呼ぶ。 また別の者たちは、「薩迦耶見（身見）」を阿頼耶と呼ぶ。 これらの論師たちは、教えや証得の面から阿頼耶を正しく理解しておらず、そのためにこのような誤った執着を起こすのである。このように阿頼耶の名を立てても、声聞乗の教えに従って立てられた道理にも、まったく適合しない。 しかし、阿頼耶を正しく理解している者たちは、阿頼耶識という名称を立て、その上で阿頼耶の名を説明する。このように立てられた名称こそが、最も優れている。 では、なぜ最も優れているのか。もし五取蘊を阿頼耶とするなら、地獄などの悪趣で常に苦しみを受ける場所は、最も嫌悪すべきものであり、衆生は決してそこに愛着を起こさない。そのような場所に「執着し貯蔵するもの」があると考えるのは道理に合わない。なぜなら、彼らは常にそこから速やかに離脱することを求めるからである。 もし貪りを伴う楽受を阿頼耶とするなら、第四静慮以上の天界にはそのような楽受は存在しない。また、そのような楽受を持つ者は、常にそれを嫌悪しており、そこに「執着し貯蔵するもの」があると考えるのも道理に合わない。 もし薩迦耶見を阿頼耶とするなら、この正しい教えを信解し無我を悟った者は、常にその見解を嫌悪している。そこに「執着し貯蔵するもの」があると考えるのも道理に合わない。 しかし、阿頼耶識は内なる我（自我）としての性質を持つ。悪趣で常に苦しみを受ける場所に生まれ、苦しみの蘊からの離脱を求める者であっても、彼らは常に阿頼耶識に対して我（自我）への愛着が結びついており、離脱を求めることはない。第四静慮以上の天界に生まれ、貪りを伴う楽受を常に嫌悪している者であっても、彼らは常に阿頼耶識に対して我への愛着が結びついている。また、この正しい教えを信解し無我を悟って我見を嫌悪する者であっても、彼らは阿頼耶識に対して我への愛着が結びついている。 したがって、阿頼耶識を阿頼耶と名づけることは、最も優れた成立である。

釋曰：不愚者者，謂諸菩薩彼所宣說阿賴耶識，理成立故。惡趣中者，謂餓鬼、傍生及那落迦諸惡趣中。一向苦處者，謂一向受非愛業果處。於彼有時樂受生者是等流果，生彼所受異熟果者唯是其苦。第四靜慮以上無有者，謂即第四靜慮及上諸地。具彼有情者，謂生所得。阿賴耶識內我性攝者，謂諸眾生攝取此識為內我性。求離苦蘊者，求離苦受。然於藏識我愛隨縛者，謂於阿賴耶識執我起愛隨縛不離。

> 解説します。「不愚」とは、菩薩方が説く阿頼耶識が道理によって成立していることを指します。「悪趣」とは、餓鬼・畜生・地獄の三悪趣のことです。「一向苦処」とは、常に好ましくない業の報いを受ける場所を意味します。そこでは、たまに楽受が生じることもありますが、それは等流果であり、そこで受ける異熟果は苦のみです。「第四静慮以上に無し」とは、第四静慮およびそれより上の諸地には存在しないということです。「具彼有情」とは、生まれながらにそれを備えた有情を指します。「阿頼耶識内我性摂」とは、衆生がこの識を内なる我として捉えることです。「求離苦蘊」とは、苦受から離れようと求めることです。「然れども蔵識に於いて我愛随縛す」とは、阿頼耶識に対して我執を起こし、愛着がまとわりついて離れないことを意味します。

論曰：如是已說阿賴耶識安立異門。安立此相云何可見？安立此相略有三種：一者安立自相、二者安立因相、三者安立果相。此中安立阿賴耶識自相者，謂依一切雜染品法所有熏習為彼生因，由能攝持種子相應。此中安立阿賴耶識因相者，謂即如是一切種子阿賴耶識，於一切時與彼雜染品類諸法現前為因。此中安立阿賴耶識果相者，謂即依彼雜染品法無始時來所有熏習，阿賴耶識相續而生。

> 論じて曰く、かくのごとく、已に阿頼耶識の安立せる異門を説けり。この相を安立するに、いかにして見るべきや。この相を安立するには、略して三種あり。一には自相を安立し、二には因相を安立し、三には果相を安立す。 ここに、阿頼耶識の自相を安立するとは、あらゆる雑染の品類の法におけるすべての熏習に依って、それらの生起する因となること。すなわち種子を摂持し相応するがゆえなり。 ここに、阿頼耶識の因相を安立するとは、すなわちこの一切の種子たる阿頼耶識が、あらゆる時において、それら雑染の品類の諸法に対して、現前の因となることなり。 ここに、阿頼耶識の果相を安立するとは、すなわちそれら雑染の品類の法に依って、無始の時よりこのかた、すべての熏習により、阿頼耶識が相続して生ずることなり。

釋曰：如是已說阿賴耶識安立異門。非說異門即了其相，是故次說此識自性、因性、果性。此中安立自相者，謂緣一切雜染品法所有熏習，能生於彼功能差別識為自性。為欲顯示如是功能，故說攝持種子相應。謂依一切雜染品法所有熏習，即與彼法為能生因。攝持種子者，功能差別也。相應者，是修義。是名安立此識自相。此中安立因相者，謂即次前所說品類一切種子阿賴耶識，由彼雜染品類諸法熏習所成功能差別為彼生因。是名安立此識因相。此中安立果相者，謂即依彼雜染品法無始熏習此識續生，而能攝持無始熏習。是名安立此識果相。此中自相是依一切雜染品法無始熏習為彼生因，攝持種子識為自性，果性因性之所建立。此中因相是彼雜染品類諸法熏習所成，功能差別為彼生因，唯是因性之所建立。此中果相是依雜染品類諸法無始熏習阿賴耶識相續而生，唯是果性之所建立。是三差別。

> 解説：以上のように、阿頼耶識（あらやしき）の様々な呼び名とその意味について説明しました。しかし、呼び名を知っただけでは、その本質を完全に理解したことにはなりません。そこで、次にこの識（しき）の自性（じしょう）・因性（いんしょう）・果性（かしょう）について説明します。 まず、自相（じそう）の定義です。あらゆる煩悩や汚れ（雑染）に属する現象から生じる熏習（くんじゅう）という習い性を受け止め、それらの現象を生み出す能力やはたらきそのものを、この識の自性とします。このような機能を明確に示すために、「種子を摂持（せっじ）し対応する」と表現します。つまり、あらゆる雑染の現象から生じる熏習に基づき、それらを生み出す原因となるのです。「種子を摂持する」とは、その機能の違いを指し、「対応する」とは、修行によって培われる意味です。これがこの識の自相の定義です。 次に、因相（いんそう）の定義です。先に述べたように、あらゆる雑染の現象の種子を持つ阿頼耶識は、それらの現象から生じる熏習によって形作られた機能の違いそのものが、それらを生み出す原因となります。これがこの識の因相の定義です。 さらに、果相（かそう）の定義です。この識は、雑染の現象による無始（むし）の昔からの熏習に基づいて、絶えず生まれ続け、その無始の熏習を保持し続けます。これがこの識の果相の定義です。 このように、自相は、あらゆる雑染の現象による無始の熏習を原因として、それらを生み出す種子を摂持する識を自性とし、果性と因性の両方によって成立しています。因相は、雑染の現象の熏習によって形成された機能の違いが、それらを生み出す原因となるものであり、因性のみによって成立しています。果相は、雑染の現象による無始の熏習によって阿頼耶識が連続して生じることであり、果性のみによって成立しています。これら三つの違いが明らかにされました。

論曰：復次何等名為熏習？熏習能詮何為所詮。謂依彼法俱生俱滅，此中有能生彼因性，是謂所詮。如巨勝中有花熏習，巨勝與花俱生俱滅，是諸巨勝帶能生彼香因而生。又如所立貪等行者，貪等熏習依彼貪等俱生俱滅，此心帶彼生因而生。或多聞者多聞熏習，依聞作意俱生俱滅，此心帶彼記因而生，由此熏習能攝持故，名持法者。阿賴耶識熏習道理，當知亦爾。

> 論じていう。では、何を「熏習（くんじゅう）」と名づけるのか。熏習とは、何を表し、何を表されるのか。それは、ある法に依って共に生じ、共に滅する中で、そこにその法を生じさせる因の性質が存在することを指す。これが表される意味である。 例えば、ごまの中に花の熏習がある場合、ごまと花は共に生じ、共に滅する。これらのごまは、その花の香りを生じさせる因を帯びて生じる。また、例えば、貪りや瞋りなどの煩悩を持つとされる人の場合、貪りなどの熏習がその貪りなどに依って共に生じ、共に滅し、この心はそれらを生じさせる因を帯びて生じる。あるいは、多くの教えを聞いた人は、多聞の熏習があり、聞くことへの作意（注意を向けること）に依って共に生じ、共に滅し、この心はそれを記憶する因を帯びて生じる。この熏習によって内容を保持することができるので、「法を保持する者」と名づけるのである。 阿頼耶識（あらやしき）の熏習の道理も、これと同じであると知るべきである。

釋曰：謂依彼法俱生俱滅，此中有能生彼因性，是謂所詮者。謂即依彼雜染諸法俱生俱滅阿賴耶識，有能生彼諸法因性，是名熏習。

> 解説：煩悩にまみれた様々な現象と共に生じては消えていく阿頼耶識（あらやしき）という心の奥底には、それらの現象を生み出す原因となる性質が備わっています。これを「熏習（くんじゅう）」と呼びます。

論曰：復次阿賴耶識中諸雜染品法種子，為別異住、為無別異？非彼種子有別實物於此中住，亦非不異。然阿賴耶識如是而生，有能生彼功能差別，名一切種子識。

> さて、阿頼耶識の中にあるさまざまな煩悩や汚れの種子は、別々に存在しているのでしょうか、それとも区別なく一つになっているのでしょうか。実は、これらの種子が別々の実体としてそこに存在しているわけでもなく、また完全に同じものであるわけでもありません。しかしながら、阿頼耶識はこのようにして生じ、そこにはそれらを生み出すはたらきの違いがあるのです。このことから、これを「すべての種子をもつ識」と呼びます。

釋曰：阿賴耶識中雜染法種子，為異、為不異？若爾何失？若有異者，彼諸種子應分分別，阿賴耶識剎那滅義亦不應成，有別異故。由善不善熏習力故，種子應成善不善性，然許無記。若不異者，云何有多？此不應理。是故二說俱有過失。非彼種子有別實物於此中住，亦非不異，乃至名一切種子識者，為避如前所說過失，故不定取異及不異。如是而生者，謂由如是品類而生。有能生彼功能差別者，謂有能生雜染品法功能差別相應道理。由與生彼功能相應故，名一切種子識。於此義中有現譬喻，如大麥子於生自芽有功能故，有種子性。若時陳久或火相應，此大麥果功能損壞，爾時麥相雖住如本，勢力壞故無種子性。阿賴耶識亦復如是，有生雜染諸法功能，由此功能相應故，說名一切種子識。

> 解説：阿頼耶識の中にある煩悩に染まった法の種子は、異なるものか、異ならないものか。もしそうだとしたら、どのような問題があるのか。もし異なるものならば、それらの種子はそれぞれ別々のものであるべきであり、阿頼耶識が瞬間ごとに消滅するという意味も成立しなくなる。なぜなら、別々のものであるからだ。また、善や不善の熏習の力によって、種子は善や不善の性質を持つべきだが、実際には無記と認められている。もし異ならないものならば、どうして複数存在することがあり得るのか。これは道理に合わない。よって、二つの説にはいずれも過失がある。種子が別個の実体としてここに存在するわけではなく、また異ならないわけでもない。そして一切種子識と呼ばれるのは、先に述べたような過失を避けるためであり、異なるとも異ならないとも定めないのである。このように生じるとは、すなわち、そのような種類によって生じることをいう。それを生じさせる働きの違いがあるとは、すなわち、煩悩に染まった法を生じさせる働きの違いが道理にかなって備わっていることをいう。それを生じさせる働きと相応するから、一切種子識と名づけられる。この意味について、現実の譬えがある。例えば大麦の種は、自らの芽を生じさせる働きがあるから、種子の性質を持つ。もし長い間置かれたり、火に触れたりすると、この大麦の果実の働きは損なわれ、その時、麦の形はもとのままでも、力が損なわれているので種子の性質はない。阿頼耶識もまた同じである。煩悩に染まった諸々の法を生じさせる働きがあり、この働きと相応するから、一切種子識と名づけられるのである。

論曰：復次阿賴耶識與彼雜染諸法同時更互為因，云何可見？譬如明燈，焰炷生燒同時更互。又如蘆束互相依持，同時不倒。應觀此中更互為因道理亦爾。如阿賴耶識為雜染諸法因，雜染諸法亦為阿賴耶識因，唯就如是安立因緣，所餘因緣不可得故。

> 論じる：さらに、阿頼耶識と様々な煩悩に染まった諸々の法は、同時に互いが原因となり合っているが、それはどのように理解すべきか。ちょうど明るい灯明が、炎と芯とが同時に生じ、燃え合うようなものである。また、蘆の束が互いに支え合い、同時に倒れないようなものである。ここで互いに原因となり合う道理もまた、このように観察すべきである。阿頼耶識が煩悩に染まった諸々の法の因であるように、煩悩に染まった諸々の法もまた阿頼耶識の因となる。このようにして因縁を安立するのであり、他の因縁は成立しないからである。

釋曰：復次阿賴耶識與彼雜染諸法同時更互為因云何可見者，欲以喻顯，故為此問。譬如明燈焰炷生燒同時更互者，謂一剎那燈炷為依發生燈焰，是則燈炷為焰生因；即此剎那焰復能燒所依燈炷，是則燈焰為炷燒因。餘喻亦爾。如是顯示有俱有因，由因現在住即見果生故。從如阿賴耶識為雜染諸法因乃至所餘因緣不可得故者，此言顯示阿賴耶識與雜染法更互為因即是因緣。

> 解説します。さらに、阿頼耶識と様々な煩悩に染まった諸々の法（現象）が、同時にお互いを原因とし合う関係はどのように見ることができるのか、という問いが示されています。これを譬えを用いて明らかにしようとするものです。 例えば明るい灯明の炎と灯心の関係を見てみましょう。灯心が燃え、炎が生じるという現象は、まさに同時に起こります。一刹那の間、灯心がよりどころとなって灯明の炎が生じるのです。つまり灯心が炎の生じる原因です。そして、まさにその同じ刹那に、炎はよりどころである灯心を燃やし尽くします。すなわち炎が灯心を燃やす原因となるのです。その他の譬えも同様です。 このようにして、「俱有因」（同時に存在し合う原因）という関係があることが示されています。なぜなら、原因が現在に存在しているまさにその時に、結果が生じるのを見ることができるからです。 「阿頼耶識が様々な煩悩に染まった諸々の法の原因となることから、さらには残りの因縁が得られないこと」という言葉は、阿頼耶識と煩悩に染まった諸法が互いに原因となり合う関係、すなわち因縁であることを示しています。

論曰：云何熏習無異無雜，而能與彼有異有雜諸法為因？如眾纈具纈所纈衣，當纈之時雖復未有異雜，非一品類可得。入染器後，爾時衣上便有異雜，非一品類染色絞絡文像顯現。阿賴耶識亦復如是，異雜能熏之所熏習，於熏習時雖復未有異雜可得，果生染器現前已後，便有異雜無量品類諸法顯現。

> 論じられるには、なぜ熏習（修行の影響）には異なりや混ざりがないのに、異なりや混ざりがあるあらゆる現象の原因となり得るのか。例えば、絞り染めの道具と、それによって染められる布のようなものである。染める時点ではまだ異なりや混ざりはなく、一つの種類とも言えない。しかし、染め液に入れた後、布の上には異なりや混ざりがあり、一つの種類ではない染色の模様や文様が現れる。阿頼耶識（根本的な意識）もこれと同じである。異なりや混ざりがある熏習（行為）によって熏習（影響）を受け、熏習されている時にはまだ異なりや混ざりは現れないが、果（結果）が生じる染め液（現象世界）が現前した後には、異なりや混ざりがある無量の種類のあらゆる現象が現れるのである。

釋曰：云何熏習無異無雜而能與彼有異有雜諸法為因者，欲以譬喻顯斯道理，故為此問。如眾纈具纈所纈衣，當纈之時雖無異雜文像可見，入染器後便有異雜文像可見。阿賴耶識如所染衣，果生即染器，故名果生染器。入者即是緣所攝義。於熏習時雖無異雜，至果熟位便有非一品類諸法因性顯現，如已染衣。

> 問い：なぜ、私たちの心に刻まれた「かおり」（薫習）は、それ自体には区別や混ざりものがないのに、結果として現れる様々な現象の原因となるのか。これは、たとえ話を使ってその道理を明らかにしようとする問いです。 例えば、様々な模様を染め出すための型（纈具）と、それで模様を染められる布があるとします。染める前の段階では、布の上にはまだ区別のある模様や絵柄は見えていません。しかし、布を染料の入った染め桶に入れると、初めて様々な模様や絵柄が現れて見えるようになります。 阿頼耶識（あらやしき）は、この染められる布のようなものです。私たちの行為や思いが原因となって結果（果）が生まれるのですが、この結果が生じるための「染め桶」にあたるのが阿頼耶識です。だから、それを「果生染器（果を生み出す染め器）」と呼びます。「入る」とは、様々な縁（原因や条件）に取り込まれるという意味です。 このように、薫習が行われる段階では、まだ区別や混ざりものがないように見えても、結果として実が熟す段階（果熟位）になると、さまざまな種類の現象の原因としての性質が明らかに現れてくるのです。それは、ちょうど型で模様を施した布を染め桶に入れた後に、見事な模様が浮かび上がるのと同じです。

論曰：如是緣起，於大乘中極細甚深。又若略說有二緣起：一者分別自性緣起、二者分別愛非愛緣起。此中依止阿賴耶識諸法生起，是名分別自性緣起，以能分別種種自性為緣性故。復有十二支緣起，是名分別愛非愛緣起，以於善趣惡趣能分別愛非愛種種自體為緣性故。

> 論曰： このような縁起は、大乗においては極めて微細で深遠である。 さらに、簡潔に説けば、二つの縁起がある。 第一に、自性を分別する縁起。 第二に、愛と非愛を分別する縁起である。 このうち、阿頼耶識に依拠して諸法が生起することを、自性を分別する縁起と名付ける。 なぜなら、様々な自性を分別することを縁起の性質とするからである。 また、十二支の縁起は、愛と非愛を分別する縁起と名付ける。 なぜなら、善趣と悪趣において、愛すべきものと愛すべきでないもの、様々な自己のあり方を分別することを縁起の性質とするからである。

釋曰：如是緣起於大乘中極細甚深者，異生覺慧難了知故，名為極細。阿羅漢等難窮底故，名為甚深。又若略說有二緣起者，舉數。一者分別自性緣起、二者分別愛非愛緣起者，列名。此中依止阿賴耶識者，謂阿賴耶識為因，諸法生起，是名分別自性緣起，由能分別異類自性為因性故。若無明等，是名分別愛非愛緣起，由能分別愛非愛種種自體為因性故。

> 釈には述べられている。このような縁起は、大乗において極めて微細かつ甚深である。なぜなら、凡夫の智慧では理解しがたいから「極細」と名づけられ、阿羅漢などでもその深みを窮めがたいから「甚深」と名づけられるのである。 また、縁起を大まかに分ければ二つあると、その数を挙げる。一つ目は「分別自性縁起」、二つ目は「分別愛非愛縁起」と、その名を列挙する。 この中で、「阿頼耶識に依止する」とは、阿頼耶識を因として諸法が生じることを指し、これを「分別自性縁起」と名づける。なぜなら、異なる種類の自性を分別する因となるからである。 また、「無明など」を指して「分別愛非愛縁起」と名づける。なぜなら、愛すべきものと愛すべきでないもの、さまざまな自らを分別する因となるからである。

論曰：於阿賴耶識中，若愚第一緣起，或有分別自性為因、或有分別宿作為因、或有分別自在變化為因、或有分別實我為因、或有分別無因無緣。若愚第二緣起，復有分別我為作者、我為受者。譬如眾多生盲士夫未曾見象，復有以象說而示之。彼諸生盲有觸象鼻、有觸其牙、有觸其耳、有觸其足、有觸其尾、有觸脊梁。諸有問言：象為何相？或有說言象如犁柄，或說如杵、或說如箕、或說如臼、或說如󰆠，或有說言象如石山。若不解了此二緣起，無明生盲亦復如是，或有計執自性為因、或有計執宿作為因、或有計執自在為因、或有計執實我為因、或有計執無因無緣，或有計執我為作者、我為受者。阿賴耶識自性、因性及果性等，如所不了象之自性。

> 論曰： 阿赖耶識（あらやしき）の中には、第一の縁起（因果の仕組み）を誤解して、 ある者は自性（自然の本性）を原因と見なし、 ある者は宿作（過去の行い）を原因と見なし、 ある者は自在（神や超越的な力）の変化を原因と見なし、 ある者は実我（真実の自己）を原因と見なし、 ある者は原因も条件もないと見なす者がいる。 また、第二の縁起を誤解して、 「私が作り手である」「私が受け手である」と考える者もいる。 例えるならば、多くの生まれつきの盲人たちが、ゾウを見たことがなく、 ある人がゾウの話をして教えようとしたとする。 その盲人たちの中には、ゾウの鼻に触れる者、牙に触れる者、耳に触れる者、 足に触れる者、尾に触れる者、背骨に触れる者がいた。 「ゾウとはどのような姿か？」と尋ねられると、 ある者は「ゾウは鋤の柄のようだ」と言い、 ある者は「杵のようだ」、ある者は「箕のようだ」、ある者は「臼のようだ」、 ある者は「箕のようだ」、ある者は「石の山のようだ」と言う。 この二つの縁起を正しく理解できないならば、 無明（無知）という生まれつきの盲人もまた、これと同じである。 ある者は自性を原因と執着し、 ある者は宿作を原因と執着し、 ある者は自在を原因と執着し、 ある者は実我を原因と執着し、 ある者は無因無縁（原因も条件もない）と執着し、 ある者は「我が作り手である」「我が受け手である」と執着する。 阿頼耶識の自性（本質）、因性（原因としての性質）、果性（結果としての性質）などは、 ちょうど盲人たちがゾウの本当の姿を理解できなかったのと同じである。

釋曰：或有分別宿作為因者，謂彼不許有士用因故成邪執。為顯此等，說生盲喻。無明生盲者，謂由無明故成生盲。阿賴耶識自性因性及果性等如所不了象之自性者，謂前所立此識自相說名自性，所立因相說名因性，所立果相說名果性，由無明力不了此等。於阿賴耶識分別自性緣起不解了故，執自性等為諸法因。於第二分別愛非愛緣起不解了故，執有我為作者受者。此中因謂阿賴耶識，諸法熏習於中持故。果者即是阿賴耶識，即彼諸法所熏習故。

> 解説しよう。ある人々は「前世からの習慣」を原因だと主張する。彼らは意志による能動的原因を認めないため、誤った見解に陥っている。このことを明らかにするために、生まれつきの盲人の喩えが説かれた。 無明という生まれつきの盲人とは、無明によって生まれつき目が見えない状態になることを意味する。 阿頼耶識の自性（本質）、因性（原因の性質）、果性（結果の性質）などを、人々が象の本質を理解できないのと同じように理解できない。すなわち、先に示したこの識の自相を「自性」と名づけ、設定した因相を「因性」と名づけ、設定した果相を「果性」と名づけるが、無明の力によってこれらを理解できない。 阿頼耶識における自性の縁起（因果関係）を理解できないがゆえに、人々は「自性」などを諸法の原因だと執着する。また第二の「愛と非愛の縁起」を理解できないがゆえに、「我」という主体があり、作り手であり受け手であると執着する。 ここで「因」とは阿頼耶識のことである。諸法の熏習（刷り込み）がその中に保たれているからである。「果」もまた阿頼耶識のことである。まさにそれらの諸法によって熏習されているからである。

論曰：又若略說阿賴耶識用異熟識一切種子為其自性，能攝三界一切自體一切趣等。

> 論曰：さらに、簡単に言えば、阿頼耶識は異熟識と一切種子をその自性としています。そして、三界におけるすべての自己の本体や、すべての生存の種類などを含み持つものです。

釋曰：阿賴耶識用異熟識一切種子為自性者，謂得自體異類熟故、諸法種子熏在中故。一切趣等者，謂五趣等。一切自體者，謂趣趣中同分異分種種差別。

> 解説します。阿頼耶識は、異熟識と一切種子をその本性としています。なぜなら、自らの本体が異なる種類の結果として成熟するからであり、またあらゆる法の種子がそこに熏習されるからです。「一切趣等」とは、五趣などのことです。「一切自体」とは、各趣における同じ種類や異なる種類の様々な違いを指します。

論曰：此中五頌：

> 論に曰く、ここに五つの偈がある。

外內不明了， 於二唯世俗，勝義諸種子， 當知有六種，剎那滅俱有， 恒隨轉應知，決定待眾緣， 唯能引自果。堅無記可熏， 與能熏相應，所熏非異此， 是為熏習相。六識無相應， 三差別相違，二念不俱有， 類例餘成失。此外內種子， 能生引應知，枯喪由能引， 任運後滅故。

> 外界と内界がはっきりと区別されないものが、 単なる世俗的なものとして存在する。 勝義の観点から見た様々な種子には、 六つの種類があると知るべきである。 瞬間ごとに滅し、同時に存在し、 常にそれに伴って変化し続ける。 それは定まったものであり、多くの条件を待ち、 ただ自らの結果だけを生み出す。 堅固で無記であり、薫習されることが可能で、 薫習する側と対応している。 薫習される側はこれとは別ではなく、 これが薫習の本質である。 六つの識には対応するものはなく、 三つの違いは矛盾している。 二つの瞬間は同時には存在せず、 同様の例から他のものは成り立たなくなる。 これら内外の種子は、 生じさせ、引き出すものであると知るべきである。 枯れて失われるのは、引き出す力によるものであり、 自然に後に滅するからである。

為顯內種非如外種，復說二頌：

> 内なる種子が外なる種子のようではないことを明らかにするために、さらに二つの偈を説かれました。

外或無熏習， 非內種應知，聞等熏習無， 果生非道理。作不作失得， 過故成相違，外種內為緣， 由依彼熏習。

> 外からの熏習がなければ、内なる種子は存在し得ません。 もし聞・思・修の熏習がなければ、結果が生じる道理はありません。 （もし種子が）作られもせず、滅しもせず、失われも得られもするなら、 矛盾が生じるからです。 外の種は内なるものの縁となり、 その熏習に依って（結果が）生じるのです。

釋曰：如是已說阿賴耶識為一切法真實種子，復欲顯示彼種子體說斯五頌。此中外者，謂稻穀等。內者，即是阿賴耶識。不明了者，謂外種子是無記義。言於二者，阿賴耶識於善、不善二性明了，通有記故。復有別義，謂於雜染清淨明了。唯世俗者，謂外種子唯就世俗說為種子。所以者何？彼亦皆是阿賴耶識所變現故。勝義即是阿賴耶識。所以者何？是一切法真種子故。應知如是一切種子復有六義。剎那滅者，謂二種子皆生無間定滅壞故。所以者何？不應常法為種子體，以一切時其性如本無差別故。言俱有者，謂非過去亦非未來，亦非相離得為種子。何以故？若於此時種子有，即於爾時果生故。恒隨轉應知者，謂阿賴耶識乃至治生，外法種子乃至根住或乃至熟。言決定者，謂此種子各別決定，不從一切一切得生，從此物種還生此物。待眾緣者，謂此種子待自眾緣方能生果，非一切時能生一切，若於是處是時遇自眾緣，即於此處此時自果得生。唯能引自果者，謂自種子但引自果，如阿賴耶識種子唯能引生阿賴耶識，如稻穀等唯能引生稻穀等果。如是且顯種果生義，今當更示熏習異相。堅者，堅住方可受熏，非如動風。所以者何？風性踈動不能任持，所有熏氣一踰膳那，彼諸熏氣亦不隨轉；占博迦油能持香氣百踰膳那，彼諸香氣亦能隨轉。言無記者，是不可記極香臭義。由此道理蒜不受熏，以極臭故；如是香物亦不受熏，以極香故。若物非極香臭所記，即可受熏。言可熏者，謂應受熏方可熏習，非不受熏如金石等。不應受熏，名不可熏。若於此時能受熏習，即於爾時名為可熏，如可熏物。與能熏相應者，能熏相應方名可熏，非不相應，當知即是無間生義。言所熏者，阿賴耶識具上四德，應受熏習，故名所熏，非轉識等。非異此者，謂若離此阿賴耶識，餘非所熏，是故所熏即此非異。是為熏習相者，謂阿賴耶識有剎那滅等是熏習相，剎那滅故、與諸轉識俱時有故，乃至對治恒隨轉故、或窮生死恒隨轉故、定與善等為因性故、待福非福不動行緣於善惡趣異類熟故。如是等義，於轉識中一切異法皆應成立。是故唯此阿賴耶識與如是等勝德相應，可受熏習。六識無相應者，謂彼諸識有動轉故。三差別相違者，謂彼諸識別別所依、別別所緣、別別作意。復有餘義，別別行相一一轉故。譬喻論師欲令前念熏於後念，為遮彼故，說言二念不得俱有，無二剎那一時而有，俱生俱滅熏習住故。若謂此識種類如是，雖不相應，然同識類亦得相熏。如是例餘，應成過失。謂餘種類例亦應爾，以眼等根同淨色類，亦應展轉更互相熏。此意說言眼耳兩根同有淨法，二淨展轉應互相熏，餘亦如是。然汝不許，雖同淨法，異相續故不得相熏。識亦應爾，雖同識法何得相熏？如是所說二種種子，謂外及內，應知皆有能生能引。此中外種乃至果熟為能生因，內種乃至壽量邊際為能生因。外種能引枯後相續，內種能引喪後屍骸，由引因故多時續住。若二種子唯有生因，此因既壞果即應滅，應無少時相續住義。若謂剎那展轉相續，前念為因後念隨轉，是則後邊不應都滅，由此決定應有引因。此二種子，譬如放弦彎弓為因，箭不墮落遠有所至。

> 説明：これまでに阿頼耶識がすべての現象の真の種子であると述べてきましたが、ここではその種子の本質をさらに明らかにするために、五つの偈を説きます。 「外」とは、稲や穀物などのことです。「内」とは、阿頼耶識のことです。「不明了」とは、外の種子が無記であることを意味します。「於二者」とは、阿頼耶識が善と不善の二つの性質について明瞭であり、有記であることを指します。さらに別の意味として、雑染と清浄について明瞭であるということもあります。「唯世俗」とは、外の種子は単に世俗的な意味で種子と呼ばれるに過ぎないということです。なぜなら、それらもすべて阿頼耶識が変現したものだからです。「勝義」とは、阿頼耶識のことです。なぜなら、それがすべての現象の真の種子だからです。 これらのすべての種子には、六つの性質があることを知るべきです。「刹那滅」とは、内外の種子がどちらも生じた後、間断なく必ず滅することを意味します。なぜなら、常住のものが種子の体となることはありえず、常にその性質が本来と変わらず差別がないからです。「倶有」とは、過去や未来ではなく、また互いに離れていることも種子の条件ではないということです。なぜなら、種子が存在する時には、その時点で果が生じるからです。「恒随転」とは、阿頼耶識は対治が生じるまで、外の種子は根が存在する間、あるいは成熟するまで、常にそれに伴って作用することを意味します。「決定」とは、種子はそれぞれに決まったものであり、すべてのものからすべてのものが生じるのではなく、この物の種子からこの物が生じることを言います。「待衆縁」とは、種子は自らの衆縁を待って初めて果を生じ、常にすべてを生じるわけではなく、ある場所・ある時に自らの衆縁に遇えば、その場所・その時に自らの果が生じることを言います。「唯能引自果」とは、自らの種子は自らの果のみを引くこと、例えば阿頼耶識の種子は阿頼耶識のみを引き、稲や穀物の種子は稲や穀物の果のみを引くことを言います。 さて、種子が果を生じる意味は以上のように示しました。次に、薫習の異なった特徴を示しましょう。「堅」とは、堅固に留まることであり、初めて薫習を受けられるもので、風のように動くものではありません。なぜなら、風の性質は疎らで動きやすく、その薫気を保持できず、一由旬を過ぎればその薫気も共に作用しませんが、瞻博迦の油は百由旬もの間、香気を保ち、その香気も共に作用するからです。「無記」とは、極めて香ばしいか臭いかという判別ができないことを意味します。この道理により、大蒜は薫習を受けません。極めて臭いからです。同様に、香りの強いものも薫習を受けません。極めて香りが強いからです。あるものが極めて香りが強いとか臭いという判別をされなければ、薫習を受けることができます。「可薫」とは、薫習を受けることができるものを言い、金石のように薫習を受けないものではありません。薫習を受けるべきでないものを「不可薫」と言います。ある時に薫習を受けることができるならば、その時に「可薫」と呼ばれ、薫習可能な物のようです。「与能薫相応」とは、能薫と相応して初めて「可薫」と呼ばれ、相応していなければならず、これは間断なく生じることを意味すると知るべきです。「所薫」とは、阿頼耶識は上記の四つの徳を備え、薫習を受けるべきであり、これが「所薫」であり、転識などではないということです。「非異此」とは、この阿頼耶識を離れて他に所薫はなく、したがって所薫はこの阿頼耶識そのものであり、他ではないということを意味します。「是為薫習相」とは、阿頼耶識には刹那滅などの薫習の特徴があるということです。すなわち、刹那滅であること、諸転識と同時に存在すること、対治が生じるまで常にそれに伴って働くこと、あるいは生死が尽きるまで常に伴って働くこと、善などに対して必ず因となる性質を持つこと、福・非福・不動の行縁を待って善趣・悪趣に異類の熟をもたらすことなどです。これらのような性質は、転識においてはすべて異なった法として成立すべきものです。したがって、この阿頼耶識のみがこのような優れた徳と相応し、薫習を受けることができます。六識は相応しません。なぜなら、それらの識には動き転ずる性質があるからです。「三差別相違」とは、それらの識にはそれぞれ異なる所依、異なる所縁、異なる作意があるからです。さらに別の意味として、それぞれ異なる行相を持ち、一つ一つが転ずるからです。 譬喩論師は前の念が後の念を薫習するという考え方を主張しますが、それを否定するために、二つの念が同時に存在することはなく、二つの刹那が同時にあることはなく、共に生じ共に滅して薫習が留まると説かれます。もし「この識の種類がこのようであり、たとえ相応していなくても、同じ識の種類であれば互いに薫習し合うことができる」と主張するなら、それを他にも適用すれば過失が生じます。なぜなら、他の種類にも同様の例が当てはまるはずであり、眼根や耳根なども同じ浄色の種類であるから、互いに転じ合って薫習し合うべきことになります。この意味は、眼根と耳根は共に浄法を持つが、二つの浄が転じ合って互いに薫習すべきであり、他の根も同様であるということです。しかし、あなた方はこれを認めません。同じ浄法であっても、異なる相続であるから互いに薫習しないとされます。識も同様に、同じ識法であっても、どうして互いに薫習し合うことがあり得るでしょうか？ 以上に説かれた二種の種子、すなわち外と内の種子は、どちらも能生と能引の二つの機能を持つと知るべきです。このうち、外の種子は果実が成熟するまでが能生の因であり、内の種子は寿命の限界までが能生の因です。外の種子は枯れた後の連続を引き、内の種子は死後の屍骸を引きます。引因があるからこそ、長い間続いて留まり続けるのです。もし二種の種子に生因だけがあり、その因が壊れれば果もすぐに滅するなら、一瞬たりとも続いて留まるということはありえません。もし刹那ごとに転じ合って相続し、前の念が因となって後の念が作用するというなら、最後にはすべてが滅するはずはありません。したがって、必ず引因が存在すると決定されます。この二種の種子は、例えば弓を放つ時に弓を引くことが因となり、矢が落ちることなく遠くに届くようなものです。

論曰：復次其餘轉識普於一切自體諸趣，應知說名能受用者。如《中邊分別論》中說伽他曰：

> 論には述べられている。さらに、その他の転識は、あらゆる生存領域における自己の身体に対して、受用するもの（享受するもの）であると知るべきである。 『中辺分別論』の中の伽他（偈）にこう説かれている。

一則名緣識， 第二名受者，此中能受用， 分別推心法。

> 一つの名前は「縁による認識」、 二つ目の名前は「感受する主体」。 その中で享受する働きがある。 これを分析し、心の働きを明らかにする法である。

釋曰：此中受用是生起義。受用中有，名受用者。為顯此義故，引《中邊分別論》頌為阿笈摩。

> 説明しよう。ここで「受用」とは「生じさせる」という意味である。中有において受用することから、その存在を受用者と呼ぶ。この意味を明らかにするために、『中辺分別論』の偈頌を引用して、確かな教えとしているのである。

論曰：如是二識更互為緣，如《阿毘達磨大乘經》中說伽他曰：

> 論じて述べる。この二つの識（阿頼耶識と転識）は互いに縁となり合っている。例えば『阿毘達磨大乗経』の中の偈にこう説かれている。

諸法於識藏， 識於法亦爾，更互為果性， 亦常為因性。

> あらゆる現象は心の奥深くにある阿頼耶識に納められており、 阿頼耶識もまた現象によって影響を受けている。 両者は互いに相手を結果としながら、 同時に常に互いの原因ともなっている。

釋曰：阿賴耶識與一切法，於一切時互為因果展轉相生，若於此時阿賴耶識為諸法因，即於爾時諸法為果；若於此時阿賴耶識為諸法果，即於爾時諸法為因。

> 解説します。阿賴耶識（あらやしき）とすべての現象（諸法）は、常に互いに原因・結果となり合いながら、巡り巡って生じ合っています。ある時点で阿賴耶識が諸法の原因となるなら、その瞬間には諸法は結果となります。また、別の時点で阿賴耶識が諸法の結果となるなら、その瞬間には諸法は原因となるのです。

論曰：若於第一緣起中如是二識互為因緣，於第二緣起中復是何緣？是增上緣。如是六識幾緣所生？增上、所緣、等無間緣。如是三種緣起，謂窮生死、愛非愛趣及能受用，具有四緣。

> 論曰： 第一の縁起において、このように二つの識が互いに因となり縁となる。 では、第二の縁起においては、それは何の縁となるのか。 それは「増上縁」である。 では、六識はいくつの縁によって生じるのか。 それは「増上縁」「所縁縁」「等無間縁」である。 このように三種の縁起——すなわち「生死を尽くす縁起」「愛・非愛の趣の縁起」「受用する能力の縁起」——は、四つの縁すべてを備えている。

釋曰：此中第一緣起，謂阿賴耶識中所有習氣與彼諸法互為因緣。第二緣起，謂無明等為增上緣，由無明等增上勢力行等生故。又六轉識名受用緣起，三緣所生。謂眼識以眼為增上緣，以色為所緣緣、等無間緣，謂彼無間此識生起。所以者何？若彼不與容受處者，此不生故。餘識亦爾。

> 解説します。第一の縁起とは、阿頼耶識のなかに存在するすべての習気（潜在的な力）が、諸々の現象と相互に原因・条件となり合うことをいいます。第二の縁起とは、無明（無知）などが強化する条件（増上縁）となり、その無明などの強い力によって行（心の働き）などが生じることをいいます。 また、六つの転識（眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識）は「受用縁起」と呼ばれ、三つの条件によって生じます。たとえば眼識は、眼という強化する条件（増上縁）と、色という対象の条件（所縁縁）、そして等無間縁（途切れることなく次々と心が生じる条件）によって成り立ちます。というのも、もしその条件が心に受け入れられる場を与えなければ、この眼識は生じないからです。他の五つの識も同様です。

論曰：如是已安立阿賴耶識異門及相。復云何知如是異門及如是相，決定唯在阿賴耶識非於轉識？由若遠離如是安立阿賴耶識，雜染清淨皆不得成，謂煩惱雜染、若業雜染、若生雜染皆不成故，世間清淨、出世清淨亦不成故。

> 論じて曰く、このようにして阿頼耶識の異名とその性質を明らかにした。では、これらの異名と性質が、他の識ではなく、まさに阿頼耶識にのみ存在することを、どうやって知ることができるのか。なぜなら、もしこのように阿頼耶識を確立しなければ、煩悩の汚れも、行為（業）の汚れも、生まれ変わることの汚れも、いずれも成立しないからである。さらに、世間における清らかさも、世間を超えた清らかさも、同様に成立し得ないからである。

釋曰：如是已說阿賴耶識安立異門及安立相，今當顯示此二唯在阿賴耶識，應正道理，非於餘處，以理決擇。

> ここまで、アーラヤ識の様々な呼び名とその性質について説明してきました。次に、これらの二つ（名称と性質）が、なぜ他のものではなく、アーラヤ識だけに当てはまるのかを、理にかなった形で明らかにしていきます。

論曰：云何煩惱雜染不成？以諸煩惱及隨煩惱熏習所作彼種子體，於六識身不應理故。所以者何？若立眼識貪等煩惱及隨煩惱俱生俱滅，此由彼熏成種非餘，即此眼識若已謝滅、餘識所間，如是熏習、熏習所依皆不可得，從此先滅、餘識所間現無有體，眼識與彼貪等俱生不應道理，以彼過去現無體故。如從過去現無體業，異熟果生，不應道理。又此眼識貪等俱生所有熏習亦不成就，然此熏習不住貪中，由彼貪欲是能依故、不堅住故，亦不得住所餘識中，以彼諸識所依別故，又無決定俱生滅故。亦復不得住自體中，由彼自體決定無有俱生滅故。是故眼識貪等煩惱及隨煩惱之所熏習，不應道理。又復此識非識所熏。如說眼識，所餘轉識亦復如是，如應當知。

> 論じて曰く：なぜ煩惱の雜染は成り立たないのか。それは、あらゆる煩惱と隨煩惱の熏習によって生じるそれらの種子の本質が、六識の身において道理に合わないからである。その理由は何か。もし眼識に貪等の煩惱と隨煩惱が同時に生じ同時に滅すると仮定すれば、これらはそれによって熏習され種を成すのであって、他のものによるのではない。しかし、この眼識がすでに滅し去り、他の識によって間断された場合、そのような熏習も熏習の所依もともに得られない。先に滅し去り、他の識によって間断されて、現在において存在しないこの眼識が、貪等と同時に生じることは道理に合わない。なぜなら、それらは過去のものであり、現在において実体がないからである。例えば、過去において現在の実体のない業から異熟の果が生じるとするのも、道理に合わない。また、この眼識が貪等と同時に生じる場合の熏習も成り立たない。しかし、この熏習は貪の中に住するものではない。なぜなら、貪欲は能依であり、堅固に住しないからである。また、他の識の中に住することもできない。なぜなら、それらの諸識は所依が異なり、さらに決定的な同時生滅もないからである。また、自分自身の体の中に住することもできない。なぜなら、自分自身の体は決定的に同時生滅がないからである。ゆえに、眼識が貪等の煩惱や隨煩惱によって熏習されることは道理に合わない。また、この識は識によって熏習されるものではない。眼識について説いたように、残りの転識もまた同じであり、それに応じて知るべきである。

釋曰：此中此者，即此眼識。由彼熏者，由貪等熏。言成種者，謂成因性。言非餘者，非耳識等。餘識所間者，耳等識所間。如是熏習者，貪等熏習。熏習所依者，謂即眼識。眼識與彼貪等俱生等者，謂從過去現無體因，眼識與彼貪等俱生，不應道理。如從過去現無體業，異熟果生不應道理者，如彼果生不應道理，此亦如是，不應道理。復有餘師執彼有體，謂異論師欲令過去是實有性。然過去能詮所詮不可得。所以者何？若法是實有，云何名過去？是故從彼異熟果生，不應道理，熏習無故。又此眼識者謂與貪等俱生眼識所有熏習亦不成就者，謂彼熏習尚不成就，何況從彼後時眼識與貪俱生而當得成？然此熏習不住貪中者，謂眼識熏習在貪欲中不應道理。何以故？由彼貪欲依眼識故。不堅住故亦不得住所餘識中者，謂此熏習不得在於耳等識中。何以故？以彼諸識所依別故。由所依別，無有決定俱生滅義。謂眼識依眼、耳識依耳，如是乃至意識依於未那，所依遠故，所餘熏習在所餘處，不應道理。亦復不得住自體中者，謂此眼識亦復不得熏習眼識，無二眼識俱時起故。以無二故，決定無有俱生滅義。由此道理，是故眼識定不應為貪等煩惱及隨煩惱之所熏習，亦非眼識眼識所熏。

> 解説する。ここで「この」とは、すなわちこの眼識のことである。「それによって熏習される」とは、貪りなどによって熏習されることである。「種となる」と言うのは、因としての性質を形成することを意味する。「他のものではない」とは、耳識などではないということである。「他の識によって中断される」とは、耳などの識によって中断されることである。「このように熏習される」とは、貪りなどによって熏習されることである。「熏習のよりどころ」とは、すなわち眼識のことである。「眼識は貪りなどと共に生じる」などとは、過去にあって現在は実体のない因から、眼識が貪りなどと共に生じるということは道理に合わない、という意味である。「ちょうど過去にあって現在は実体のない業から異熟果が生じるということが道理に合わないように」とは、あの果が生じることが道理に合わないのと同様に、これもまた道理に合わない、ということである。また、他の論師たちはそれを実体のあるものと主張する。異なる論を唱える者たちは、過去を実在の性質を持つものと認めさせようとする。しかし、過去は概念として表現することも、説明することもできない。なぜなら、もしある法が実在するなら、どうして過去と呼ばれることがあろうか。それゆえ、その過去から異熟果が生じることは道理に合わず、熏習が存在しないからである。また、「この眼識は」とは、貪りなどと共に生じる眼識のことである。「すべての熏習も成立しない」とは、その熏習すらも成立しないのに、ましてやその後、眼識が貪りと共に生じることがどうして成立するだろうか。しかし、「この熏習は貪りのうちに留まらない」とは、眼識の熏習が貪欲の中にあるということは道理に合わない、ということである。なぜなら、その貪欲は眼識に依存しているからである。また、堅固に留まることがないため、他の識の中にも留まることができない。つまり、この熏習は耳などの識の中にあることはできない、ということである。なぜなら、それらの識はそれぞれよりどころとするものが異なるからである。よりどころが異なることによって、確定して共に生じ、共に滅するという性質は存在しない。すなわち、眼識は眼に依り、耳識は耳に依り、このように意識は末那に至るまで依るところがあり、よりどころが遠く離れているため、残りの熏習が他の場所にあるということは道理に合わない。また、「自らの体のうちに留まることもできない」とは、この眼識はさらに眼識を熏習することもできない。なぜなら、二つの眼識が同時に生じることはないからである。二つが存在しないことによって、確定して共に生じ、共に滅するという性質はない。この道理によって、眼識は決して貪りなどの煩悩や随煩悩によって熏習されることはなく、また眼識が眼識を熏習することもないのである。

論曰：復次從無想等上諸地沒來生此間，爾時煩惱及隨煩惱所染初識，此識生時應無種子，由所依止及彼熏習並已過去現無體故。

> 論：さらに、無想天などの上の諸地から命終してこの世に生まれるとき、その時、煩悩および随煩悩に染まった最初の識が生じる。この識が生じる時には、種子（原因）がないはずである。なぜなら、そのよりどころ（所依）と、その熏習（熏習）はすでに過ぎ去って、現在には存在しないからである。

釋曰：所染初識者，謂來此間最初生識。此識生時應無種子者，謂初生識應無因生。所依止者，謂所依止。彼熏習者，煩惱熏習。

> 解説します。「所染の初識」とは、この世に生まれる最初の識（しき）のことです。この識が生じる時、「種子（しゅじ）がないはずだ」というのは、最初の識には原因がないはずだ、という意味です。「所依止（しょえじ）」とは、その識がよりどころとするものを指します。「彼の熏習（くんじゅう）」とは、煩悩（ぼんのう）の熏習のことです。

論曰：復次對治煩惱識若已生，一切世間餘識已滅，爾時若離阿賴耶識，所餘煩惱及隨煩惱種子在此對治識中，不應道理。此對治識自性解脫故，與餘煩惱及隨煩惱不俱生滅故。復於後時世間識生，爾時若離阿賴耶識，彼諸熏習及所依止久已過去現無體故，應無種子而更得生。是故若離阿賴耶識，煩惱雜染皆不得成。

> 論じて曰く：さらに、煩惱を対治する識がすでに生じたならば、一切の世間のその他の識はすでに滅している。その時、もし阿頼耶識を離れるならば、残された煩惱および随煩惱の種子がこの対治する識の中にあるというのは道理に合わない。なぜなら、この対治する識はその性質がすでに解脱しており、他の煩惱や随煩惱と共に生滅することがないからである。また、後の時に世間の識が生じるが、その時、もし阿頼耶識を離れるならば、それらの熏習やそのよりどころは久しく過ぎ去って、現在には存在しないため、種子がなくても再び生じることになる。ゆえに、もし阿頼耶識を離れるならば、煩惱の雑染はすべて成立しない。

釋曰：對治煩惱識若已生一切世間餘識已滅者，謂六識已滅。所餘煩惱及隨煩惱種子在此對治識中不應道理者，謂對治識非後世間識生起因。復於後時者，謂復從此出世心後。彼諸熏習者，謂餘煩惱及隨煩惱所有熏習。及所依止者，謂所依識。應無種子而更得生者，謂若無有阿賴耶識，彼應無因而更得生。此中煩惱即是雜染，是故說名煩惱雜染。由上道理，煩惱雜染皆不得成。

> 論じます： 煩悩を対治する心（識）がすでに生じたならば、一切の世間の他の心はすでに滅したことになります。すなわち、六識が滅したのです。残っている煩悩および随煩悩の種子が、この対治する心の中に存在するということは道理に合いません。なぜなら、対治する心は、後の世間の心が生じる原因とはならないからです。 さらに後の時とは、すなわちこの出世間の心の後に再び生じることを指します。「彼の諸々の熏習」とは、残りの煩悩および随煩悩のすべての熏習をいいます。「および所依止」とは、よりどころとなる心（識）をいいます。「種子がなくて、さらに生じるべき」とは、もし阿頼耶識が存在しなければ、それら（煩悩など）は原因なくしてさらに生じることになるという意味です。 ここでいう煩悩とは、すなわち雑染（煩わしい汚れ）であり、そのため煩悩雑染と名づけられます。以上の道理によって、煩悩雑染はいずれも成立しないことになります。

論曰：云何為業雜染不成？行為緣識不相應故。此若無者，取為緣有亦不相應。

> 論じて曰く、なぜ業の雑染は成立しないのか。それは、「行」を縁として「識」が生じるという道理に合致しないからである。もしこの道理がなければ、「取」を縁として「有」が生じるという道理にも合致しないことになる。

釋曰：為辯業雜染不得成因緣故，次問云何業雜染不成？業為緣識不相應故者，謂福非福及不動行生已謝滅，若不信有阿賴耶識，當於何處安立熏習？如六識身不能任持所有熏習，於諸煩惱雜染事中已具顯示。此若無者，謂若無有行為緣識。取為緣有亦不相應者，謂亦無有取為緣有。此復何緣？謂前諸行所熏習識，由取力故，熏習增長轉成有故。此中即業是雜染性名業雜染，或依於業而有雜染名業雜染。若不信有阿賴耶識，此業雜染亦不得成。

> 問う：なぜ「業」が原因として成立しないのかというと、次に「どうして業の雑染は成立しないのか」と問うからである。 「業を縁として識が対応しない」とは、福・非福・不動の行が生じては滅することを指す。もし阿頼耶識の存在を信じなければ、いったいどこに熏習を置くべきなのか？ 例えば六識の体は、あらゆる熏習を保持することができない。このことは、煩悩の雑染の事例においてすでに詳しく示されている。 ここで「これ（行為を縁とする識）がない」とは、行為を縁とする識が存在しないことをいう。「取を縁とする有もまた対応しない」とは、取を縁とする有もまた存在しないことを意味する。 それはなぜか？ 先の諸行によって熏習された識は、取の力によって熏習が成長し、有へと転じるからである。 ここにおいて、業そのものが雑染の性質であるから「業雑染」と呼び、あるいは業に基づいて雑染があるから「業雑染」と名づける。もし阿頼耶識の存在を信じなければ、この業の雑染もまた成立しないのである。

## 攝大乘論釋卷第二

> 『摂大乗論釈』 巻第二