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title: "攝大乘論釋 · 1"
description: "攝大乘論釋是古印度世親菩薩對無著菩薩所造攝大乘論的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論以唯識思想為核心系統闡釋阿毘達磨大乘經中攝大乘品深入論述阿賴耶識緣起三性三無性等教義建立完整的唯識學體系是印度瑜伽行派重要論書為研究唯識學根本典籍對漢傳佛教思想影響深遠被譽為大乘佛教義理之瑰寶"
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### 1所知相分第三之一

> 第3章 所知相（その一）

論曰：已說所知依。所知相復云何應見？此略有三種：一依他起相、二遍計所執相、三圓成實相。

> 論じて曰く、すでに「所知の依（阿頼耶識）」について説いた。では、「所知の相（認識の対象となるもののすがた）」とは、どのように見るべきであろうか。これを大まかに分けると、三つの種類がある。第一に「依他起相（他に依って生じるすがた）」、第二に「遍計所執相（あれこれと仮に決めつけたすがた）」、第三に「円成実相（完全に成し遂げられた真実のすがた）」である。

釋曰：依所知相，說如是言。略者，要也。

> 略して言えば、その知られるべき相に基づいてこのように語っているのです。「略」とは、要点をまとめるという意味です。

論曰：此中何者依他起相？謂阿賴耶識為種子，虛妄分別所攝諸識。此復云何？謂身、身者、受者識、彼所受識、彼能受識、世識、數識、處識、言說識、自他差別識、善趣惡趣死生識。此中若身、身者、受者識、彼所受識、彼能受識、世識、數識、處識、言說識，此由名言熏習種子。若自他差別識，此由我見熏習種子。若善趣惡趣死生識，此由有支熏習種子。由此諸識，一切界趣雜染所攝依他起相虛妄分別皆得顯現。如此諸識，皆是虛妄分別所攝，唯識為性，是無所有非真實義顯現所依，如是名為依他起相。

> 論じて曰く、ここでいう依他起相とは何か。それは、阿頼耶識を種子とし、虚妄分別に摂せられる諸々の識である。では、その識とは何か。すなわち、身識、身者識、受者識、彼所受識、彼能受識、世識、数識、処識、言説識、自他差別識、善趣・悪趣の死生識である。 このうち、身識、身者識、受者識、彼所受識、彼能受識、世識、数識、処識、言説識は、名言の熏習種子によるものである。自他差別識は、我見の熏習種子によるものである。善趣・悪趣の死生識は、有支の熏習種子によるものである。 これらの諸識によって、あらゆる界・趣の雑染に摂せられる依他起相、すなわち虚妄分別が、ことごとく顕現する。このように諸々の識は、すべて虚妄分別に摂せられ、唯識を性とし、無所有にして真実の義ではない顯現の所依である。これを、依他起相と名づける。

釋曰：虛妄分別所攝諸識者，謂此諸識虛妄分別以為自性。謂身身者受者識者，身謂眼等五界，身者謂染污意，能受者謂意界，彼所受識者謂色等六外界，彼能受識者謂六識界，世識者謂生死相續不斷性，數識者謂算計性，處識者謂器世間，言說識者謂見聞覺知四種言說。如是諸識，皆用所知依中所說名言熏習差別為因。自他差別識者，謂依止差別，此用前說我見熏習差別為因。善趣惡趣死生識者，謂生死趣種種差別，此由前說有支熏習差別種子。由此諸識者，即由次前所說諸識。一切界趣雜染所攝者，謂墮三界五趣雜染，是彼自性故名所攝。依他起相者，謂依他起為體，虛妄分別皆得顯現。如此諸識皆是虛妄分別所攝唯識為性者，謂此諸識皆是虛妄分別自性故名所攝，是無所有非真實義顯現。所依者，謂無所有非真實義顯現所因。非真實故名無所有，如所執我無所有故，名非真實義者所取。謂即彼我實無所有，似我顯現。言所依者，顯現所依，是所因義。此即名為依他起相。

> 釈にはいう。虚妄分別に摂せられる諸識とは、これら諸識が虚妄分別を自性とすることをいう。すなわち、身（しん）・身者（しんじゃ）・受者（じゅしゃ）・識（しき）について、身とは眼などの五界、身者とは染汚意、受者とは意界、受けられる識とは色などの六外界、受ける識とは六識界をいう。世識とは生死相続の不断性、数識とは計算性、処識とは器世間、言説識とは見・聞・覚・知の四種の言説をいう。これらの諸識は、すべて所知依の中に説かれる名言薫習の差別を因とする。自他の差別識とは、依止の差別であり、これは先に説いた我見薫習の差別を因とする。善趣・悪趣の死生識とは、生死の趣の種々の差別であり、これは先に説いた有支薫習の差別の種子による。これらの諸識とは、すぐ前に説いた諸識のことである。一切の界・趣の雑染に摂せられるとは、三界・五趣の雑染に堕するものであり、それが自性であるから「摂せられる」という。依他起相とは、依他起を体として虚妄分別がすべて顕現することをいう。これらの諸識はすべて虚妄分別に摂せられ、唯識を性とするとは、これらの諸識はすべて虚妄分別を自性とするから「摂せられる」といい、無所有にして非真理の義が顕現するものである。所依とは、無所有にして非真理の義が顕現するための因である。非真理であるから無所有といい、例えば執着された我が無所有であるように、非真理の義とは取られる対象である。すなわち、その我は実に無所有であり、我のように顕現する。言うところの「所依」とは、顕現の所依であり、因の義である。これを名づけて依他起相という。

論曰：此中何者遍計所執相？謂於無義唯有識中，似義顯現。

> 論によれば、ここでいう「遍計所執の相（とらわれて執着する対象）とは何か」と言うと、それは、本来実体のないものでありながら、ただ識（心のはたらき）のみが存在するその中で、あたかも実体があるかのような姿を現わすことである。

釋曰：於無義者，謂無所取如實無我。唯有識中者，謂無實義似義識中，如唯似我顯現識中。似義顯現者，似所取義相貌顯現，如實無我似我顯現。

> 解説します。「無義」とは、捉えるべき対象（所取）が実在せず、その通りに我（自己）がないということです。「唯有識中」とは、実在する意味（実義）がなく、それに似た意味（似義）が識（心）のうちにあることです。ちょうど、我（自己）のように見えるが実は我がない識の中で、それが我のように現れるのと同じです。「似義顯現」とは、捉えるべき対象のように見える相（姿）が現れることです。これは、我がないのに我のように現れるのと同じです。

論曰：此中何者圓成實相？謂即於彼依他起相，由似義相永無有性。

> 論じて曰く、ここでいう円成実相とは何か。それは、その依他起性の相において、あたかも実体があるかのような相が永遠に存在しないという性質のことである。

釋曰：於無所有非真實義顯現因中，由實無有似義相現永無有性，如似我相雖永是無而無我有。

> 解説する。無所有であり、真実の意味ではないものが現れる因（原因）のうちに、実として似た意味の相が現れることが永遠に無い性質がある。それは、例えば「我（私）」という相が永遠に無いものでありながら、「我なし」という観念が存在するようなものである。

論曰：此中身、身者、受者識，應知即是眼等六內界。彼所受識，應知即是色等六外界。彼能受識，應知即是眼等六識界。其餘諸識，應知是此諸識差別。又此諸識皆唯有識，都無義故。此中以何為喻顯示？應知夢等為喻顯示。謂如夢中都無其義，獨唯有識，雖種種色聲香味觸舍林地山似義影現，而於此中都無有義。由此喻顯應隨了知，一切時處皆唯有識，由此等言應知。復有幻誑、鹿愛、瞖眩等喻。若於覺時，一切時處皆如夢等。唯有識者如從夢覺，便覺夢中皆唯有識。覺時何故不如是轉？真智覺時亦如是轉。如在夢中此覺不轉，從夢覺時此覺乃轉。如是未得真智覺時此覺不轉，得真智覺此覺乃轉。其有未得真智覺者，於唯識中云何比知？由教及理應可比知。此中教者，如《十地經》薄伽梵說如是三界皆唯有心。又薄伽梵《解深密經》亦如是說，謂彼經中慈氏菩薩問世尊言：諸三摩地所行影像，彼與此心，當言有異、當言無異？佛告慈氏：當言無異。何以故？由彼影像唯是識故，我說識所緣，唯識所現故。世尊！若三摩地所行影像即與此心無有異者，云何此心還取此心？慈氏！無有少法能取少法。然即此心如是生時，即有如是影像顯現，如質為緣還見本質，而謂我今見於影像，及謂離質別有所見影像顯現。此心亦爾，如是生時，相似有異所見影現。即由此教，理亦顯現。所以者何？於定心中隨所觀見諸青瘀等所知影像，一切無別青瘀等事，但見自心。由此道理，菩薩於其一切識中，應可比知皆唯有識無有境界。又於如是青瘀等中，非憶持識見所緣境現前住故。聞思所成二憶持識，亦以過去為所緣故，所現影像得成唯識。由此比量，菩薩雖未得真智覺，於唯識中應可比知。

> 論じて曰く、ここでいう「身」「身者」「受者」の識とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの内界であると知るべきである。それらが受け取る対象である識は、色・声・香・味・触・法の六つの外界であると知るべきである。また、それらを受け取る能動的な識は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの識界であると知るべきである。その他の様々な識は、これらの識の違いにすぎないと知るべきである。 さらに、これらの識はすべて「識のみ」であり、いかなる実体（義）も存在しない。ここでは、それを何のたとえで示すのか？　夢などのたとえで示すと知るべきである。例えば、夢の中には実体はなく、ただ識のみがある。様々な色・声・香・味・触・家・林・地・山など、実体があるように見える影像が現れるが、そこには実体は全くない。このたとえによって、あらゆる時と場所においても、ただ識のみがあると理解すべきである。「等」という言葉によって、さらに幻惑・陽炎・目の翳（かすみ）・眩暈（めまい）などのたとえもあると知るべきである。 もし覚醒時においても、すべての時と場所が夢などと同様に、ただ識のみであるならば、夢から覚めた時に、夢の中がすべて識のみであったと悟るように、なぜ覚醒時にはそのように転じないのか？　真実の智慧（真智）によって覚醒した時には、そのように転じるのである。夢の中でこの覚醒は起こらず、夢から覚めた時にこの覚醒が初めて現れるように、真実の智慧を得ていない間はこの覚醒は現れず、真実の智慧を得た時にこの覚醒が初めて現れるのである。 では、まだ真実の智慧を得ていない者は、どのようにして「唯識」を比量的に知ることができるのか？　教え（聖教）と論理（道理）によって比量的に知ることができるのである。 ここでいう教えとは、例えば『十地経』において世尊（薄伽梵）が「この三界はすべて唯心である」と説かれたことである。また、世尊が『解深密経』においても同じように説かれている。すなわち、その経典の中で慈氏菩薩（弥勒菩薩）が世尊に問うた。「様々な三昧（定）において対象となる影像は、この心と異なるものと言うべきでしょうか、それとも異ならないものと言うべきでしょうか？」　仏は慈氏菩薩に答えられた。「異ならないものと言うべきである。なぜなら、その影像はただ識であるからだ。私は、識の認識対象は唯識が現じたものであると説くのである。」　世尊よ、もし三昧における影像がこの心と異ならないのであれば、どうしてこの心が再びこの心を認識するのでしょうか？　慈氏よ、いかなる法も他のいかなる法を認識することはない。しかし、この心がそのように生起する時、そのままそのような影像が現れるのである。例えば、鏡像を映す元の姿（質）を縁として、再びその元の姿を見るようなものである。しかし、人は「私は今、影像を見ている」と言い、また「元の姿を離れて別に影像が現れている」と言うのである。この心もまた同じである。このように生起する時、あたかも異なるものがあるかのように、見られる影像が現れるのである。 この教えによって、論理もまた明らかに示される。なぜなら、定中の心において観察される様々な青瘀（青く変色した死体）などの認識対象の影像は、すべて実際の青瘀などの事物とは別のものではなく、ただ自らの心を見ているにすぎないからである。この道理によって、菩薩はすべての識において、ただ識のみがあり、外界の対象（境界）は存在しないと比量的に知ることができるのである。 また、このような青瘀などの影像は、記憶による識（憶持識）が認識対象を眼前に現前させているものではない。なぜなら、聞慧と思慧によって成立する二つの憶持識は、過去を認識対象とするからである。したがって、現れる影像は唯識として成立するのである。この比量によって、菩薩はまだ真実の智慧を得ていなくとも、唯識について比量的に知ることができるのである。

釋曰：此唯有識，由教顯示。如《十地經》言如是三界皆唯有心故。《解深密經》中我說識所緣唯識所現故者，謂識所緣，唯識所現，無別境義。復舉識者，顯我所說定識所行，唯識所現無別有體。然即此心如是生時者，謂即由此品類生時。相似有異所見影現者，謂定所行相似離識，別有所取分明顯現。又於如是青瘀等中非憶持識見所緣境現前住故者，謂青瘀等是三摩地所行影像，非憶持識。由此不即在彼方處，如昔所受還如是憶，此住現前分明見故。彼憶持識所見暗昧，此現前住所見分明。若有復謂如聞思慧，由串習故境雖謝往，纔作意時如昔而生。此亦爾者。聞思兩慧境既謝往、現無有體，於無體中若更生時，但識影現似彼而生故。聞思慧不緣謝往曾所受境，是故唯識由此彌彰所取義無，理亦成就。

> 釈して曰く、これは唯識であると、教えによって示される。例えば『十地経』に「このように三界はすべて唯心である」と説かれている。『解深密経』において、私（仏）が「識の所縁は、唯識の所現である」と説いたのは、識が認識する対象は、唯識が顕現したものであり、別に外境が存在するという意味ではないことを示す。さらに「識」を挙げたのは、私の説く定（三昧）において識が行ずる所は、唯識の現れであり、別に実体がないことを明らかにするためである。 「しかしてこの心がそのように生じる時」とは、すなわちこの種類の心が生じる時をいう。「似て異なる所ある影の現ずるを見る」とは、定において行ずる所が、識を離れて別に取るべき対象があるように相似して、明らかに顕現することをいう。 また、「このような青瘀などのうちにおいて、憶持の識は所縁の境が現前して住するを見るにあらず」とは、青瘀などは三摩地（三昧）の行ずる影像であり、憶持の識ではない。それゆえ、過去の経験をそのまま思い出すように、そこ（本来の場所）にそのままあるわけではない。この（三昧における影像は）現前して明らかに見えるからである。あの憶持の識が見る所は暗くぼんやりしているが、この現前して住するものの見る所は明らかである。 もし、「聞思の慧のように、習熟によって境が去った後でも、わずかに作意すれば昔の如く生じる。これもまた同じである」と主張するならば、聞思の二慧は、境がすでに去って現に体が無い。その無体の中にさらに生じる時は、ただ識の影像がそれに似て現れるだけである。それゆえ、聞思慧はすでに去ったかつて受けた境を縁するのではない。よって、このことから唯識はますます明らかとなり、「取られる所の義は無い」という理もまた成立するのである。

論曰：如是已說種種諸識，如夢等喻，即於此中眼識等識可成唯識。眼等諸識既是有色，亦唯有識云何可見？此亦如前由教及理。

> 論じて曰く：かくのごとく、すでに種々の識を説き終えたり。夢などの喩えのごとく、すなわちこの中において眼識などの識は、唯識として成り立つべし。眼などの諸識は、すでに色を有するものなれば、また唯識のみにてあること、いかでか見るべきや。これもまた、前に説くがごとく、教えおよび道理による。

釋曰：眼識等識皆非有色，可成唯識；眼等諸識既是有色，云何唯識？此亦如前由教及理者，此眼等識如前所引，理教顯示亦成唯識。

> 解説します。「眼識」などの心の働きは形あるものではないので、「すべては心だけが実在する（唯識）」と説くことができます。しかし、眼などの感覚器官は形あるものです。それでは、なぜ「唯識」と言えるのでしょうか。これも、先に述べた教えと道理に基づいています。つまり、眼などの感覚器官も、先に示したような理屈と教えによって、やはり「唯識」であると証明できるのです。

論曰：若此諸識亦體是識，何故乃似色性顯現？一類堅住相續而轉，與顛倒等諸雜染法為依處故。若不爾者，於非義中起義顛倒應不得有。此若無者，煩惱、所知二障雜染應不得有。此若無者，諸清淨法亦應無有。是故諸識應如是轉。此中有頌：

> 論じて曰く：これらの諸識もまたその本質は識であるならば、なぜ色の性質のように現れるのか。それは一類として堅固に住し、相続して転じ、顛倒などの諸々の雑染法のよりどころとなるからである。もしそうでなければ、実体のないものにおいて実体があるという顛倒した認識は生じえないであろう。これがなければ、煩惱障と所知障という二つの障りの雑染もまた生じえないであろう。これがなければ、諸々の清浄な法もまた存在しえないであろう。それゆえに、諸識はこのように転ずるのである。ここに頌がある：

亂相及亂體， 應許為色識，及與非色識， 若無餘亦無。

> 乱れの相と、その本体であるところの、 色（物質）と識別（認識作用）として許されるべきです。 また、色（物質・感官）と無関係な識別も、 もし別に残っているものがないならば、存在し得ません。

釋曰：一類堅住相續轉者，由相似故名為一類，多時住故說名堅住。諸有色識，相似多時相續而轉。顛倒等者，即是等取諸雜染法與煩惱障及所知障為因性故。為依處者，為彼因性。若彼諸識離如是轉，於非義中起義心倒應不得有。此若無者，若煩惱障諸雜染法、若所知障諸雜染法應不得有。於此頌中顯如是義。亂相亂體如其次第，許為色識及非色識。此中亂相即是亂因，色識為體；亂體即是諸無色識。色識亂因若無有者，非色識果亦應無有。

> 解説：一つのまとまりとして長く続いて現れるものとは、互いに似ていることから「一類」と呼ばれ、長い時間続くことから「堅住」とされる。様々な物質的な認識（色識）は、似た状態で長く続きながら現れる。 「顛倒など」とは、煩悩の障りと智慧の障りの原因となる様々な汚れた法をも指す。「為依処者」とは、それらの原因となることである。もしこれらの認識がそのような現れ方をしなければ、意味のないものに意味があるという心の倒錯（義心倒）は起こり得ない。これがなければ、煩悩の障りとなる諸々の汚れた法も、智慧の障りとなる諸々の汚れた法も存在し得ない。 この偈では以上の意味が示されている。乱れた因（乱相）と乱れた結果（乱体）は、その順序に従って、物質的な認識（色識）と非物質的な認識（非色識）であると認められる。ここで乱相とは乱れの因であり、物質的な認識を体とする。乱体とは非物質的な認識である。物質的な認識という乱れの因が存在しなければ、非物質的な認識という結果もまた存在しないことになる。

論曰：何故身、身者、受者識、所受識、能受識，於一切身中俱有和合轉？能圓滿生、受用、所顯故。何故如說世等諸識差別而轉？無始時來生死流轉無斷絕故、諸有情界無數量故、諸器世界無數量故、諸所作事展轉言說無數量故、各別攝取受用差別無數量故、諸愛非愛業果異熟受用差別無數量故、所受死生種種差別無數量故。

> 論じて言う。なぜ、身体・身体それ自体・感受する者・識・感受されるもの・感受する識が、あらゆる身体において同時にかつ調和してはたらき続けるのか？それは、完全な生・受用・顕現を成就するからである。 なぜ、説かれるように、世間などの様々な認識が区別されてはたらき続けるのか？それは、無始の昔から生死の流転が絶えず、有情の世界に限りがなく、器の世界にも限りがなく、諸々の所作や相互の言説に限りがなく、個々に受け取り享受する違いに限りがなく、愛されるものも愛されないものも、業の果報や異熟の受け取り方の違いに限りがなく、受ける生死の様々な違いに限りがないからである。

釋曰：為令自身圓滿受用故。身、身者、受者三識，一切身中許彼一時俱有，和合一時轉故說名俱有。所顯故者，是彼因性。

> 解説します：自らが完全に受用するために、身体、身体の主体、受用者という三つの識があらゆる身体において同時に存在することが認められます。これらが一つに和合して同時に作用するため、「ともに存在する」と説かれます。「示すもの」とは、それらの因となる性質のことです。

論曰：復次云何安立如是諸識成唯識性？略由三相：一由唯識，無有義故；二由二性，有相有見二識別故；三由種種，種種行相而生起故。所以者何？此一切識無有義故得成唯識，有相見故得成二種。若眼等識以色等識為相，以眼識識為見，乃至以身識識為見；若意識，以一切眼為最初，法為最後。諸識為相，以意識識為見，由此意識有分別故，似一切識而生起故。此中有頌：

> 論じて曰く：さらに、これらの諸識がどのようにして唯識性として成立するのか。大まかに三つの相による。第一に、唯識であり、対象となる義（意味）がないからである。第二に、二性であり、相と見という二つの識別があるからである。第三に、種々の行相が生起するからである。なぜなら、これらの一切の識は、対象となる義がないゆえに唯識となり、相と見があるゆえに二種となるからである。例えば、眼などの識は、色などの識を相とし、眼識の識を見とする。同様に、身識の識を見とするに至るまでである。また、意識は、一切の眼を最初とし、法を最後とする。諸識を相とし、意識の識を見とする。この意識には分別があるから、あらゆる識のように生起するのである。ここに偈がある。

唯識二種種， 觀者意能入，由悟入唯心， 彼亦能伏離。

> 唯識には二つの働きがあり、 それを観る者は心によって悟りに入ることができる。 心のみであると悟ることによって、 その心さえも克服し、離れることができる。

釋曰：此中長行及頌，顯示由三種相成立唯識。於長行中，由唯識者，唯有識故，一切諸識皆唯有識，由所識義無所有故。由二性者，由於一識安立相見，即此一識一分成相、第二成見。眼等諸識，即於二性安立種種，謂一識上如其所應一分變似種種相生，第二變似種種能取。若就意識，即以一切眼為最初，法為最後。諸識為相，意識識為見，由此意識遍分別故，似一切識而生起故。又於三中唯就意識以為種種，所取境界不決定故。其餘諸識境界決定又無分別，意識分別，故唯於此安立第三種種相見，是故於此意識具足安立唯識。於伽他中能入唯識者，悟入所取義永無有故。能入二者，悟入此識有相、見故。能入種種者，悟入此識似種種相而生起故。觀者意者，諸瑜伽師所有意趣。問：於何悟入？答：由悟入唯心，彼亦能伏離。若能悟入唯有其心都無有義，是則於彼亦能伏離。既無所取義，何有能取心？說入二性及入種種，皆為成立入唯識因；餘義相似。

> 解説：ここで示される長行（散文）と偈頌は、三つの相によって唯識が成立することを明らかにしている。 長行において、「唯識」とは、ただ識のみが存在するという意味である。すべての識はただ識のみであり、認識される対象（義）は実体として存在しないからである。「二性」とは、一つの識の上に「相」（対象の側面）と「見」（認識する側面）が立てられることを指す。すなわち、同一の識の一部が相となり、他の部分が見となる。 眼識などの諸識は、この二性の上に様々な種類を立てる。つまり、一つの識において、その働きに応じて一方は様々な相を生じるように変化し、他方は様々な能取（認識作用）を生じるように変化する。 意識に関していえば、すべてを対象とする。眼を最初とし、法（現象一般）を最後として、諸識を相とし、意識の識を見とする。なぜなら、この意識はあまねく分別し、すべての識のように生じるからである。 さらに、三つのうち「意識」だけが「種種」として扱われる。それは、意識の対象となる境界（所取の境）が定まらないからである。他の諸識は境界が定まっており、かつ無分別である。しかし意識は分別する。それゆえ、意識のみに第三の「種種相見」が立てられる。したがって、この意識に唯識が完全に成立する。 偈頌において、「能入唯識」とは、認識される対象（義）が永遠に存在しないと悟ることを意味する。「能入二」とは、この識に相と見があると悟ることである。「能入種種」とは、この識が様々な相のように生じると悟ることである。「観者意」とは、ヨーガの修行者たちの意図である。 問：何に悟入するのか？ 答：ただ心のみであると悟ることによって、それ（対象）をも克服し離れる。もしただ心のみであって対象（義）が全くないと悟れば、その対象をも克服し離れる。対象（所取の義）が既にないなら、いったいどうして能取の心があるといえようか。「二性に入る」や「種種に入る」と言うのは、すべて「唯識に入る」という因を成立させるためであり、他の意味も同様である。

論曰：又於此中有一類師說一意識，彼彼依轉得彼彼名，如意思業名身語業。

> 論曰：さらにこの中で、ある一派の師は「意識は一つである」と説く。それぞれの依り所に従って転じ、それぞれの名前を得る。例えば、意（心）による業が身業や語業と名づけられるように。

釋曰：一類菩薩欲令唯有一意識體，彼復次第安立顯示。如意思業名身語業者，如一意思，於身門轉得身業名，於語門轉得語業名，然是意業。意識亦爾，雖復是一，依眼轉時得眼識名，如是乃至依身轉時得身識名。非離意識別有餘識，唯除別有阿賴耶識。

> 解説によれば、ある種の菩薩たちは、ただ一つの意識の本体（根本意識）だけが存在すると説く。そして彼らは、その考えを段階的に示している。例えば、「意」である「思」（心の働き）が、身と語の業（行為）の名を得るようなものだ。つまり、一つの「思」が身体という門を通じて働くとき「身業」と呼ばれ、言葉という門を通じて働くとき「語業」と呼ばれるが、その本質はあくまで「意業」（心の行為）である。意識もこれと同じである。たとえ一つの意識であっても、眼根に依って働くときは「眼識」という名を得る。このように、耳、鼻、舌、身に依って働くときは、それぞれ耳識、鼻識、舌識、身識という名を得る。したがって、この意識とは別に、他の識（認識）が存在するわけではない。ただし、別のものとして阿頼耶識がある場合は、その限りではない。

論曰：又於一切所依轉時，似種種相二影像轉，謂唯似義影像及分別影像。又一切處亦似所觸影像而轉，有色界中即此意識依止身故，如餘色根依止於身。

> 論曰：また、すべての所依が転ずるとき、種々の相に似た二つの影像が転ずる。すなわち、ただ義に似た影像と、分別の影像である。また、すべての場所においても、触れたものに似た影像として転ずる。色界においては、この意識が身に依止するからである。例えば、他の色根が身に依止するように。

釋曰：或有難言：眼等諸根無有分別，是故意識依彼轉時應無分別；如染污意為雜染依令雜染轉，此亦應爾。故次解言：又於一切所依轉時，似種種相二影像轉，謂唯義影像及分別影像。此中一切所依者，謂眼等所依。似種種相二影像轉者，謂唯似義影像及分別影像，二句解釋。由此二句說唯一識，一分唯義影像顯現，第二分別此義相生，是故前說無有過失。又一切處亦似所觸影像而生，謂有色處於定位中無五識時，在色身中內領受起，如餘色根依止於身者，如餘眼等有色諸根依止於身。由此諸根依止身故，於自所依能起損益。意識亦爾，依止身故，應知於身能作變異。復有別義，謂如身根依止於身，若有外緣所觸現前，身根便似所觸相起。即此起時，於自依身能作損益。意識亦爾，依止身故似彼所觸影像生時，於所依身能作損益。

> なお、「眼などの諸根には分別作用がない。したがって、意識がそれらに依って働くときには分別がないはずだ。ちょうど染汚意が雑染の依り所となって雑染を起こさせるように、これも同様である」という難問がある。 そこで次に説明する。「さらに、一切の所依において働くとき、種々の相を持つ二つの影像が現れる。すなわち、意味の影像と分別の影像である。」 ここで「一切の所依」とは、眼などの所依を指す。「種々の相を持つ二つの影像が現れる」とは、意味だけの影像と分別の影像の二つを説明している。この二つの句によって、ただ一つの識があり、一方では意味だけの影像が現れ、第二のものはこの意味の相に基づいて生じる分別であると説かれる。ゆえに、先に述べた難には過失がない。 また、あらゆる場所においても、触の影像に似たものが生じる。例えば、色のある世界において、禅定の状態で五識が働いていないとき、色身の中で内的な領受が生じる。これは、他の色根が身体に依存するのと同じである。すなわち、眼などの有色彩根が身体に依存するようにである。これらの諸根が身体に依存するから、その所依に対して損益を生じさせることができる。 意識もまた同様に、身体に依存するから、身体に変化を起こすことができると知るべきである。 さらに別の意味もある。例えば、身根が身体に依存するように、外部の触縁が現前すれば、身根はその触の相に似たものを起こす。まさにこれが起こるとき、自身の依り所である身体に対して損益を生じさせることができる。意識もまた同様に、身体に依存するから、その触の影像に似たものが生じるとき、所依の身体に対して損益を生じさせることができるのである。

論曰：此中有頌：

> 論にはこうある。この中に、次のような偈（うた）がある。

若遠行獨行， 無身寐於窟，調此難調心， 我說真梵志。

> 遠くを一人で行き、身を離れて洞窟に眠り、 この調え難き心を調御する者、我はこれを真のバラモンと呼ぶ。

釋曰：彼諸菩薩為成此義，引阿笈摩伽他為證。若遠行者，能緣一切所緣境故。言獨行者，無第二故。言無身者，遠離身故。寐於窟者，於身窟中而居止故。言調此者，作自在故。難調心者，性暴惡故。

> （解説）あの菩薩たちは、この意味を確かにするために、阿笈摩（アーガマ）の詩句を証拠として引用した。 「遠くを行く」とは、あらゆる対象を認識できるからである。 「独り行く」とは、第二のものが無いからである。 「身を持たない」とは、身体から離れているからである。 「洞穴に眠る」とは、身体という洞穴の中に住んでいるからである。 「これを調える」とは、自在にするからである。 「心は調え難い」とは、性質が荒々しいからである。

論曰：又如經言：如是五根所行境界，意各能受，意為彼依。

> 論じて曰く、また経典にこう説かれている。このように五つの感覚器官がそれぞれ触れる対象を、心はそれぞれに受け取ることができる。心はそれらのよりどころとなるのである。

釋曰：復引餘教證成此義。如是五根所行境界意各能受者，諸根所行名為境界。如是境界意各能受，悉能分別一切法故。一一各各能領受故，名各能受。意為彼依者，是彼諸根能生因故，以意散亂彼不生故。

> 解説：さらに他の教えを引用して、この道理を証明する。 「このように五根がそれぞれ対象とする境涯を、意はすべて受け取ることができる」とは、諸根が対象とするものを「境涯」という。この境涯を意はすべて受け取ることができ、あらゆるものを分別できるからである。一つひとつを個別に領受できるので、「各々受け取ることができる」という。 「意はそれらのよりどころとなる」とは、それが諸根の生じる原因だからである。意が散乱していると、それらは生じないからである。

論曰：又如所說十二處中，說六識身皆名意處。

> 論にはこう説かれている。さらに、先に述べた十二処の中で、六つの識身はすべて意処と名づけられている。

釋曰：復有聖教能證此義，謂六識身皆說名意，無餘識名。由六識身皆是意處，聖所說故，是故得知唯有意識。

> 解説します。さらに、この意味を証明できる聖なる教えがあります。すなわち、六識（六つの認識作用）はすべて「意」と呼ばれ、それ以外の識の名前はありません。六識はすべて意処（意識の拠り所）であると聖者が説いているからです。したがって、意識だけが存在すると知るべきです。

論曰：若處安立阿賴耶識識為義識，應知此中餘一切識是其相識，若意識識及所依止是其見識。由彼相識是此見識生緣相故，似義現時能作見識生依止事。如是名為安立諸識成唯識性。

> 論じて曰く、もし阿頼耶識を「義」の認識として定めるならば、ここにおけるその他のすべての認識は「相識」（対象を写す認識）であり、また意識の認識とそのよりどころは「見識」（主体の認識）であると知るべきである。なぜなら、その相識がこの見識の生じる縁となる相であるから、似たような対象が現れるとき、見識が生じるためのよりどころとして働くのである。これをもって諸々の認識を唯識の性質として定めるのである。

釋曰：於阿賴耶識亦得安立相見二識。謂阿賴耶識以彼意識及所依止為其見識，眼等諸識為其相識，以一切法皆是識故。由彼相識者，謂眼等諸識。是此見識生緣相故者，是見生因，由所緣性名見生因。似義現時能作見識生依止事者，能於彼見故名見識。即此見識似義現時，彼諸相識與意見識能作相續不斷住因，是故說名生依止事。

> 解説する。阿頼耶識においても、見識と相識という二つの識が成立するのである。すなわち、阿頼耶識は、意識とそのよりどころとを自らの見識とし、眼などの諸識をその相識とする。なぜならば、すべての法は識であるからである。その相識とは、眼などの諸識のことである。これは、この見識が生じる縁となる相である。すなわち、これは見識が生じる原因であり、認識の対象となる性質によって見識を生む原因と名づけられる。似たような対象が現れるとき、それが見識の生じる拠り所となる働きをする。その対象に対して認識することができるので、見識と名づけられる。この見識に似た対象が現れるとき、それら相識は意見識に対して、絶え間なく続く住する因を作り出す。それゆえに、生じる拠り所となる働きと説かれるのである。

論曰：諸義現前分明顯現而非是有，云何可知？如世尊言：若諸菩薩成就四法，能隨悟入一切唯識都無有義。一者成就相違識相智，如餓鬼、傍生及諸天、人，同於一事，見彼所識有差別故。二者成就無所緣識現可得智，如過去未來夢影緣中有所得故。三者成就應離功用無顛倒智，如有義中能緣義識應無顛倒，不由功用智真實故。四者成就三種勝智隨轉妙智。何等為三？一得心自在一切菩薩，得靜慮者，隨勝解力諸義顯現。二得奢摩他修法觀者，纔作意時諸義顯現。三已得無分別智者，無分別智現在前時，一切諸義皆不顯現。由此所說三種勝智隨轉妙智，及前所說三種因緣，諸義無義道理成就。

> 論じて曰く、あらゆる事象が目前にはっきりと現れているにもかかわらず、それが実在ではないと、どうして知ることができるのだろうか。これは世尊の教えによる。もし菩薩が四つの法を成就すれば、全てが唯識であり、いかなる実体もないことを悟ることができる。 第一に、認識する主体によって対象が異なって見える智慧を成就すること。例えば、餓鬼・畜生・天・人間が同じ一つの物を見ても、それぞれの認識によって異なって見えるからである。 第二に、認識の対象がなくても認識が現れる智慧を成就すること。例えば、過去や未来の出来事、夢、幻影などにおいて、認識の対象がなくても認識が成立するからである。 第三に、特別な努力を必要とせず、誤りのない智慧を成就すること。もし言葉や概念に対応する実体があるならば、それを認識する心は誤りがないはずである。しかし、実際には認識は努力を必要とせず、智慧は真実そのものである。 第四に、三つの優れた智慧を成就すること。その三つとは何か。 第一に、心の自在を得た菩薩や、静慮を修した者は、その勝れた理解力に従って、様々な事象が現れる。 第二に、奢摩他（止）を修め、法の観察を行う者は、心を働かせた瞬間に様々な事象が現れる。 第三に、すでに無分別智を得た者は、無分別智が現前する時には、一切の事象は全く現れなくなる。 このように説かれた三つの優れた智慧と、先に述べた三つの理由によって、様々な事象には実体がないという道理が成立するのである。

釋曰：相違識相智者，謂能了知相違者識所緣義相。無所緣識現可得智者，謂現見有雖無所緣而識得生，如過去等。應離功用無顛倒智者，謂能了知若如是義如所顯現即是實有，離起對治，無顛倒智任運應成。三種勝智隨轉妙智者，謂能了知三種勝智境隨轉義。得心自在者，得心調順有所堪能。得靜慮者，謂諸聲聞及獨覺等已得靜慮。隨勝解力諸義顯現者，謂若願樂地成其水，如意則成，火等亦爾。得奢摩他者，得三摩地修法觀者，於契經等策勤觀察。纔作意時諸義顯現者，隨於一義如如作意，如是如是非一品類境相顯現。無分別智現在前時一切諸義皆不顯現者，若如顯現義，即如是實有，應不得有無分別智。無分別智若是實有，決定應許諸義皆無。

> 解説：相違識相の知恵とは、互いに矛盾し合う認識の主体が捉える対象の意味を理解することをいう。対象がなくても認識が生じることがあり得ると知る知恵とは、例えば過去の事柄のように、目の前に対象がなくても認識が起こり得ることを現に見て知ることをいう。無功用で無顛倒の知恵とは、もしある意味がそのまま現れている通りに実在するならば、対治を施す必要もなく、無顛倒の知恵が自然に成り立つはずであると理解することをいう。三種の勝れた知恵に随って転ずる妙なる知恵とは、三種の勝れた知恵の対象が心に従って現れる意味を理解することをいう。心自在を得た者とは、心が調えられ従順で、様々な働きに堪えられる者をいう。静慮を得た者とは、声聞や独覚などがすでに静慮を得た者をいう。勝解の力に従って諸々の意味が現れるとは、もし水を願望すれば水が、火を願望すれば火が現れるなど、意のままに成就することをいう。奢摩他を得た者とは、三摩地を得て法の観察を修する者であり、経典などに励み精進して観察する。ただ作意すると諸々の意味が現れるとは、一つの意味について作意するごとに、その都度異なる種類の対象の様相が現れることをいう。無分別智が現前するとき、一切の諸々の意味は全て現れないとは、もし現れている通りに意味が実在するならば、無分別智はあり得ないはずである。無分別智がもし実在するならば、諸々の意味は全て存在しないと決定して認めるべきである。

論曰：若依他起自性，實唯有識，似義顯現之所依止。云何成依他起？何因緣故名依他起？從自熏習種子所生，依他緣起故名依他起；生剎那後無有功能自然住故，名依他起。

> 論：もしも「他に依存して生じる性質」が、実はただ識のみであり、似て非なる意味が現れるための拠り所であるならば、どのようにして「他に依存して生じる性質」は成立するのか。また、どのような理由で「他に依存して生じる性質」と呼ばれるのか。自己の熏習（じゅんじゅう）という種子から生じ、他に依存した縁（えん）によって起きるから「他に依存して生じる性質」と名づける。生じてから一瞬の後には、自然に留まる働きがないから、「他に依存して生じる性質」と呼ぶのである。

釋曰：實唯有識似義顯現之所依止者，謂實無義唯有其識，與彼似義顯現為因即此唯識，名依他起。云何成依他起者，問自攝受。何因緣故名依他起者，問為他說。從自因生，生已無能暫時安住，名依他起。應自攝受亦為他說。

> 解説：実在するのは識のみであり、似たような意味の顕現が生じる基盤となる。すなわち、実際には意味はなく、ただ識があるだけであり、その識が似たような意味の顕現の原因となる。この唯識を「依他起」と呼ぶ。では、なぜ依他起となるのか――これは自らの理解のために問うものである。また、どのような因縁によって依他起と名付けられるのか――これは他者に説明するために問うものである。自らの因から生じ、生じた後は一時的にとどまることもできないため、これを依他起という。自らが理解するとともに、他者にも説明すべきである。

論曰：若遍計所執自性依依他起，實無所有似義顯現。云何成遍計所執？何因緣故名遍計所執？無量行相意識遍計顛倒生相，故名遍計所執。自相實無，唯有遍計所執可得，是故說名遍計所執。

> 論にはこう説かれている。 「遍計所執の自性」は、依他起に基づいて生じるが、実際には何も実体として存在せず、あたかも意味があるかのように現れるだけである。 では、なぜ「遍計所執」と呼ぶのか。また、どのような因縁によって「遍計所執」と名づけられるのか。 答えはこうである。心のはたらきによる無数の認識のあり方（行相）が、真理に反した見方によって生じるからである。 そのため、これを「遍計所執」と名づける。 その本質には実体はなく、ただ「遍計されたもの」として認識されるだけである。ゆえに「遍計所執」と呼ばれる。」

釋曰：依依他起者，謂依唯識。實無所有者，實無自體。似義顯現者，唯有似義顯現可得。云何何故等者，如次前說。無量行相者，所謂一切境界行相。意識遍計者，謂即意識說名遍計。顛倒生相者，謂是能生虛妄顛倒所緣境相。自相實無者，實無彼體。唯有遍計所執可得者，唯有亂識所執可得。

> 解説しよう。依他起性とは、ただ唯識に依って生じるものである。実に所有するところはなく、実に自らの体はない。「似た義が現れる」とは、ただ似た義が現れることだけが認識されるという意味である。「どうして、なぜ」などとは、直前に述べたとおりである。「無量の行相」とは、いわゆるあらゆる対象のあり方を指す。「意識の遍計」とは、すなわち意識が遍計であると説かれることをいう。「顛倒の生相」とは、虚妄なる顛倒を生み出すところの対象のあり方をいう。「自相は実に無し」とは、実にその体は存在しないということである。「ただ遍計所執のみが得られる」とは、ただ乱れた認識によって執着されたものが得られるにすぎないという意味である。

論曰：若圓成實自性，是遍計所執永無有相。云何成圓成實？何因緣故名圓成實？由無變異性故名圓成實。又由清淨所緣性故、一切善法最勝性故，由最勝義名圓成實。

> 論曰：もし円成実自性が、遍計所執の永く無い相であるならば、どのようにして円成実が成り立つのか。何の因縁によって円成実と名づけるのか。変異しない性質であるから、円成実と名づける。また、清浄なる所縁の性質であることから、一切の善法の中で最も優れた性質であることから、最勝義によって円成実と名づけるのである。

釋曰：是遍計所執永無有相者，謂遍計所執自性，無性為性。云何何故等，如前依他起中已說。由無變異性故者，謂無虛誑性，如不虛誑性。又由清淨所緣性故，一切善法最勝性故。由最勝義名圓成實者，謂由清淨所緣性故，最勝性故名圓成實。

> 解説します。「遍計所執（へんげしょしゅう）の相は永遠に存在しない」とは、遍計所執の自性（本質）は、無性（本質がないこと）をその本質とする、ということです。では「どのように」とか「なぜ」といった問いについては、先に述べた依他起（えたき）の説明で既に述べられています。また、「無変異性（むへんいしょう）のゆえに」とは、虚偽（うそ）ではない性質、すなわち真実（いつわりない）の性質を指します。さらに、清らかな対象（所縁）の性質であるがゆえに、すべての善（良い）法（ものごと）の中で最も優れた性質を持ちます。この最も優れた意味（最勝義）によって「円成実（えんじょうじつ）」と名づけられるのです。すなわち、清らかな対象の性質であり、最も優れた性質ゆえに「円成実」と呼ばれるのです。

論曰：復次有能遍計、有所遍計，遍計所執自性乃成。此中何者能遍計？何者所遍計？何者遍計所執自性？當知意識是能遍計，有分別故。所以者何？由此意識用自名言熏習為種子，及用一切識名言熏習為種子，是故意識無邊行相分別而轉，普於一切分別計度，故名遍計。又依他起自性名所遍計。又若由此相令依他起自性成所遍計，此中是名遍計所執自性。由此相者，是如此義。復次云何遍計能遍計度？緣何境界？取何相貌？由何執著？由何起語？由何言說？何所增益？謂緣名為境，於依他起自性中取彼相貌，由見執著，由尋起語，由見聞等四種言說而起言說，於無義中增益為有，由此遍計能遍計度。

> 論じて曰く：さらにまた、能く遍く計るものがあり、遍く計られるものがあり、遍計所執の自性が成立する。ここで、何が能遍計か？何が所遍計か？何が遍計所執の自性か？知るべきである、意識が能遍計であることを。分別を有するからである。なぜか？この意識は、自らの名言の熏習を種子とし、さらに一切の識の名言の熏習を種子とするからである。それゆえ、この意識は無辺の行相をもって分別しながら転じ、あまねく一切の分別・計度を行う。故に遍計と名づける。また、依他起の自性を所遍計と名づける。また、もしもこの相によって依他起の自性が所遍計となるとき、この中においてこれを遍計所執の自性と名づける。「この相によって」とは、このような義である。さらにまた、どのように遍計が能く遍計度するのか？いかなる境界を縁とするのか？いかなる相貌を取るのか？何によって執著するのか？何によって語を起こすのか？何によって言説するのか？何を増益するのか？謂く、名を境として縁じ、依他起の自性の中において、その相貌を取り、見によって執著し、尋によって語を起こし、見・聞等の四種の言説によって言説を起こし、無義の中において有を増益する。これによって遍計は能く遍計度する。

釋曰：復次云何遍計能遍計度者，謂意識名能遍計，依他起性名所遍計。為欲顯示由此品類能遍計度故，又說緣名為境等。於依他起自性中取彼相貌者，謂即於此依他起中，由眼等名取彼相貌，由取彼相能遍計度。由見執著者，如所取相如是執著。由尋起語者，如所執著，由語因尋而發語言。由見聞等四種言說而起言說者，如語所說見聞覺知四種言說，與餘言說。於無義中增益為有者，如所言說，於無義中執有義故。

> 解説：では、どのようにして「遍計」が「遍計度する」のかというと、意識が「能遍計」と呼ばれ、依他起性が「所遍計」と呼ばれる。このような種類によって遍計度することを示すため、さらに「名を縁として境とする」などと言われる。依他起性の自性の中にあって、その姿を取るとは、すなわちこの依他起のうちで、眼などの名によってその姿を取ることであり、その姿を取ることによって遍計度するのである。「見によって執著する」とは、取られた姿の通りに執著することである。「尋によって語を起こす」とは、執著した通りに、語の因である尋によって言葉を発することである。「見聞などの四種の言説によって言説を起こす」とは、言葉で語られた見・聞・覚・知の四種の言説と、その他の言説のことである。「無意味なものの中に意味があると増益する」とは、語られた通りに、無意味なものの中に意味があると執著するからである。

論曰：復次此三自性為異、為不異？應言非異非不異。謂依他起自性由異門故成依他起，即此自性由異門故成遍計所執，即此自性由異門故成圓成實。由何異門此依他起成依他起？依他熏習種子起故。由何異門即此自性成遍計所執？由是遍計所緣相故，又是遍計所遍計故。由何異門即此自性成圓成實？如所遍計畢竟不如是有故。

> 論じて曰く：さらに、この三つの自性は異なるのか、異ならないのか。答えて言うべきは、異なるのでもなく、異ならないのでもない。すなわち、依他起自性は異なる観点によって依他起となり、同じこの自性が異なる観点によって遍計所執となり、同じこの自性が異なる観点によって円成実となるのである。 どのような異なる観点によって、この依他起が依他起となるのか。それは、熏習の種子に依って生起するからである。 どのような異なる観点によって、同じこの自性が遍計所執となるのか。それは、遍計の所縁の相であるからであり、また遍計によって遍計されるからである。 どのような異なる観点によって、同じこの自性が円成実となるのか。それは、遍計されたところのものは、結局のところ、そのように存在するものではないからである。

釋曰：由是遍計所緣相故者，謂彼意識名為遍計，此為所取所緣境性，能生遍計，是故亦名遍計所執。又是遍計所遍計故者，即彼意識名為遍計，緣彼相貌為所取境為所遍計。由此義故，依他起性亦名遍計所執自性。如所遍計者，如彼意識遍計所執。畢竟不如是有故者，所遍計上遍計所執畢竟無故。由此義故，即此自性成圓成實。

> 解説： 「そのように遍計される所縁の相がある」とは、その意識が「遍計」と呼ばれ、これが取られる対象（所取）や縁となる境の性質であり、遍計を生じさせるものであるから、それゆえにまた「遍計所執」とも名づけられる。 また、「その遍計によってさらに遍計されるもの」とは、すなわちその意識が「遍計」であり、その姿（相貌）を取られる対象・境として「遍計されるもの」とする。 このような意味によって、依他起性もまた「遍計所執自性」と名づけられる。 「遍計されるものの如く」とは、その意識が遍計し執着するように、畢竟してそのようにあるわけではないから、「そのようなものとして実在するわけではない」ということである。 遍計されるものの上における遍計所執は、畢竟して存在しないからである。 このような意味によって、この自性が「円成実性」となるのである。

論曰：此三自性各有幾種？謂依他起略有二種：一者依他熏習種子而生起故、二者依他雜染清淨性不成故。由此二種依他別故，名依他起。遍計所執亦有二種：一者自性遍計執故、二者差別遍計執故，由此故名遍計所執。圓成實性亦有二種：一者自性圓成實故：二者清淨圓成實故，由此故成圓成實性。

> 論曰く、この三つの自性には、それぞれ幾つの種類があるのか。 答えよう。依他起性には、おおまかに二つの種類がある。一つは、熏習（潜在的影響力）による種子に依存して生じることによるものである。二つは、雑染（煩悩にけがれた状態）と清浄の性質が確定しないことによるものである。この二つの依他（他に依存するあり方）が区別されることにより、依他起性と名づける。 遍計所執性にも二つの種類がある。一つは、自性（本質）に対する遍計執（あらゆるものに実体があると執着すること）であり、二つは、差別（区別）に対する遍計執である。これにより、遍計所執性と名づける。 円成実性にも二つの種類がある。一つは、自性（本質）が円成実（完全に成立している）であることによるものであり、二つは、清浄性が円成実であることによるものである。これにより、円成実性が成立するのである。

釋曰：雜染清淨性不成故者，由即如是依他起性，若遍計時即成雜染，無分別時即成清淨。由二分故一性不成，是故說名依他起性。自性遍計執故者，如於眼等遍計執為眼等自性。差別遍計執故者，如即於彼眼等自性，遍計執為常無常等無量差別。自性圓成實故者，謂有垢真如。清淨圓成實故者，謂無垢真如。

> 解説します。「雑染と清浄の性質が成立しない」とは、次のような意味です。すなわち、この依他起性（他に依存して生じる性質）そのものが、分別（しゅうべつ）によって捉えられるときには雑染となり、無分別の状態にあるときには清浄となります。このように、二つの側面があるために一つの性質として定まらず、それゆえに「依他起性」と名づけられます。 「自性に対する遍計執（へんけしゅう）」とは、例えば眼などに「これは眼という自性（本来の性質）である」と執着して捉えることです。「差別に対する遍計執」とは、その同じ眼という自性に対して、「常住である」「無常である」といった無数の区別を執着して作り出すことです。 「自性の円成実（えんじょうじつ）」とは、煩悩の汚れをまとったままの真如（しんにょ）の状態を指します。「清浄の円成実」とは、その汚れが取り除かれた清らかな真如の状態を指します。

論曰：復次遍計有四種：一自性遍計、二差別遍計、三有覺遍計、四無覺遍計。有覺者，謂善名言。無覺者，謂不善名言。如是遍計復有五種：一依名遍計義自性，謂如是名有如是義。二依義遍計名自性，謂如是義有如是名。三依名遍計名自性，謂遍計度未了義名。四依義遍計義自性，謂遍計度未了名義。五依二遍計二自性，謂遍計度此名此義。如是體性。

> 論じて曰く、さらに、遍計には四種がある。第一に自性遍計、第二に差別遍計、第三に有覚遍計、第四に無覚遍計である。有覚とは、名言に巧みな者をいう。無覚とは、名言に巧みでない者をいう。このように遍計にはさらに五種がある。第一に名によって義の自性を遍計する。すなわち、「このような名には、このような意味がある」と捉えることである。第二に義によって名の自性を遍計する。すなわち、「このような意味には、このような名がある」と捉えることである。第三に名によって名の自性を遍計する。すなわち、まだ意味が明らかでない名をあれこれと推し量ることである。第四に義によって義の自性を遍計する。すなわち、まだ名が明らかでない意味をあれこれと推し量ることである。第五に両者によって両者の自性を遍計する。すなわち、「この名はこの意味である」とあれこれと推し量ることである。これがその体性である。

釋曰：善名言者，謂解名言。不善名言者，謂牛羊等雖有分別，然於文字不能解了。

> 解説します。善く名辞を解する者とは、言葉や概念を理解する者のことです。不善く名辞を解する者とは、牛や羊などのことで、たとえ分別（認識）の作用があっても、文字や言葉の意味を理解することができない者のことです。

論曰：復次總攝一切分別略有十種：一根本分別，謂阿賴耶識。二緣相分別，謂色等識。三顯相分別，謂眼識等并所依識。四緣相變異分別，謂老等變異、樂受等變異、貪等變異、逼害時節代謝等變異、捺落迦等諸趣變異，及欲界等諸界變異。五顯相變異分別，謂即如前所說變異所有變異。六他引分別，謂聞非正法類及聞正法類分別。七不如理分別，謂諸外道聞非正法類分別。八如理分別，謂正法中聞正法類分別。九執著分別，謂不如理作意類，薩迦耶見為本，六十二見趣相應分別。十散動分別，謂諸菩薩十種分別。

> 論曰：さらに、すべての分別を総合すると、おおよそ十種類がある。 第一に、根本分別とは、阿頼耶識である。 第二に、縁相分別とは、色などの認識である。 第三に、顕相分別とは、眼識などとそのよりどころとなる認識である。 第四に、縁相変異分別とは、老化などの変化、楽しい感覚などの変化、貪欲などの変化、苦痛や季節の移り変わりなどの変化、地獄などの生存領域の変化、そして欲界などの世界の変化である。 第五に、顕相変異分別とは、先に述べた変化そのものがさらに変化することである。 第六に、他引分別とは、正しくない教えや正しい教えを聞いて生じる分別である。 第七に、不如理分別とは、仏教以外の教えを聞いて生じる分別である。 第八に、如理分別とは、正しい教えの中で正しい教えを聞いて生じる分別である。 第九に、執著分別とは、道理に合わない心の働きに基づき、我執を根本として六十二の見解に結びつく分別である。 第十に、散動分別とは、菩薩たちが持つ十種類の分別である。

釋曰：總攝一切分別略有十種者，是總標舉，後當別釋。根本分別者，謂阿賴耶識是諸分別根本，自體亦是分別。緣相分別者，謂色等識為所緣相所起分別。顯相分別者，謂眼識等并所依識顯現似彼所緣境相所起分別。有所分別或能分別故，名分別緣相。變異分別者，謂即緣相所有變異。緣此緣相變異分別，故名緣相變異分別。謂老等變異者，身中大種衰朽改易，名老變異分別。此故說名緣相變異分別。等者等取病死變異。樂受等變異亦爾，謂由樂受身體改易，等者等取苦及不苦不樂。貪等變異亦爾，等者等取瞋癡。逼害時節代謝等變異亦爾，謂身變異為所緣境所起分別。逼害者，謂殺縛等。時節代謝者，謂寒時等時節改易。捺落迦等諸趣變異者，等取傍生及餓鬼趣，及欲界等諸界變異亦爾，等者等取色無色界。顯相變異分別者，謂眼識等顯現似彼所緣境相所有變異，緣此顯相變異分別，此亦如前所說老等種種變異，由此亦於老等位中變異起故。他引分別者，謂由他教所起分別，此復二種：一聞非正法類；二聞正法類，此復二種於法分別，謂聞正法類或善或不善，聞非正法類亦如是釋。不如理分別者，謂諸外道及彼弟子聞非正法類為因分別。如理分別者，謂正法中諸佛弟子聞正法類為因分別。執著分別者，謂不如理作意為因，依止我見，起六十二諸惡見趣相應分別，如經廣說。散動分別者，謂諸菩薩如後所說十種分別。

> 解説します。すべての分別をまとめると、おおよそ十種類あります。これは全体を挙げて示したもので、後にそれぞれ詳しく説明します。 根本分別とは、阿頼耶識がすべての分別の根本であり、その自体もまた分別であることです。 縁相分別とは、色などの識が対象とする相（特徴）に基づいて起こる分別です。 顕相分別とは、眼識などと、そのよりどころとなる識が、対象とする境の相（姿）をあたかも現し示すことから起こる分別です。対象を持つこと、または分別する力を持つことから、分別縁相と呼びます。 変異分別とは、先に述べた縁相におけるあらゆる変化です。この変化する縁相を対象とする分別であるため、縁相変異分別といいます。例えば、老化などの変化とは、身体の中の四大要素が衰え変わることで、これを老化の変化分別といいます。このことから、縁相変異分別と呼ばれます。「など」には、病気や死の変化も含まれます。快楽の感受などの変化も同様で、快楽によって身体に変化が生じることを指し、「など」には苦痛や苦でも楽でもない感受が含まれます。貪欲などの変化も同様で、「など」には怒りや無知が含まれます。危害や時節の移り変わりなどの変化も同様で、身体の変化を対象として生じる分別です。危害とは、殺害や束縛などを指します。時節の移り変わりとは、寒い時期など、季節の変化のことです。地獄などの生存領域の変化は、「など」に畜生や餓鬼の領域、さらには欲望界などの諸界の変化も含まれます。「など」には色界や無色界も含まれます。 顕相変異分別とは、眼識などが対象とする境の相（姿）を現し示すことにおけるすべての変化であり、この現れた相の変化を対象とする分別です。これも先に述べた老化などの様々な変化と同様に、老化などの状態においても変化が生じるからです。 他引分別とは、他者から教えを受けることによって起こる分別です。これには二種類あります。一つは正しくない教えを聞くこと、もう一つは正しい教えを聞くことです。この正しい教えを聞く場合にも、さらに法についての分別が二種類あり、善である場合と不善である場合があります。正しくない教えを聞く場合も同様に解釈されます。 不如理分別とは、様々な外道やその弟子たちが、正しくない教えを聞くことを因として生じる分別です。 如理分別とは、正しい教えの中において、仏の弟子たちが正しい教えを聞くことを因として生じる分別です。 執著分別とは、理にかなわない心の働きを因とし、我見（自我への執着）に基づいて、六十二種の誤った見解の集まりと対応する分別です。これについては経典に詳細に説かれています。 散動分別とは、菩薩における、後に述べる十種類の分別のことです。

論曰：一無相散動、二有相散動、三增益散動、四損減散動、五一性散動、六異性散動、七自性散動、八差別散動、九如名取義散動、十如義取名散動。為對治此十種散動，一切般若波羅蜜多中說無分別智。如是所治能治，應知具攝般若波羅蜜多義。

> 論じて曰く、一に無相の散動、二に有相の散動、三に增益の散動、四に損減の散動、五に一性の散動、六に異性の散動、七に自性の散動、八に差別の散動、九に名の如く義を取る散動、十に義の如く名を取る散動である。これらの十種の散動を対治するために、あらゆる般若波羅蜜多において、無分別智が説かれている。このように、対治されるべきものと対治するものが、般若波羅蜜多の意味をすべて含んでいることを知るべきである。

釋曰：此中無相散動者，謂此散動即以其無為所緣相。為對治此散動故，《般若波羅蜜多經》言：實有菩薩。言實有者，顯示菩薩實有空體。空即是體，故名空體。有相散動者，謂此散動即以其有為所緣相。為對治此散動故，即彼經言：不見有菩薩。此經意說不見菩薩以遍計所執及依他起為體。增益散動者，為對治此散動故。即彼經言：色自性空。由遍計所執色自性空故。損減散動者，為對治此散動故。即彼經言：不由空故。謂法性色性不空故。一性散動者，為對治此散動故，即彼經言：色空非色。何以故？若依他起與圓成實是一性者，此依他起應如圓成實是清淨境。異性散動者，為對治此散動故，即彼經言：色不離空。何以故？此二若異，法與法性亦應有異。若有異性，不應道理，如無常法與無常性。若取遍計所執自性，色即是空、空即是色。何以故？遍計所執色無所有即是空性，此空性即是彼無所有，非如依他起與圓成實，不可說一。自性散動者，為對治此散動故，即彼經言：舍利子！此但有名謂之為色。何以故？色之自性無所有故。差別散動者，為對治此散動故，即彼經言：自性無生無滅無染無淨。生即有染、滅即有淨，無生滅故無染無淨，如是諸句有如是義。如名取義散動者，謂如其名於義散動。為對治此散動故，即彼經言：假立客名別別於法而起分別。言別別者，謂別別名。如義取名散動者，如義於名而起散動。為對治此散動故，即彼經言：假立客名隨起言說，非義自性有如是名。為對治此十散動故，說般若波羅蜜多。由此說為因，無分別智生。

> 解説しよう。ここで「無相の散動（分別）」とは、無そのものを所縁の相とする分別をいう。この分別を対治するために、『般若波羅蜜多経』では「実に菩薩有り」と説く。「実に有り」と言うのは、菩薩には実に空なる体があることを示す。空がすなわち体であるから、空体と名づける。 「有相の散動」とは、有そのものを所縁の相とする分別をいう。この分別を対治するために、同じ経では「菩薩有るを見ず」と説く。この経の意図は、菩薩を遍計所執性と依他起性を体として見ないということである。 「増益の散動」――これを対治するために、同じ経では「色の自性は空なり」と説く。遍計所執の色の自性が空であるからである。 「損減の散動」――これを対治するために、同じ経では「空なるが故に非ず」と説く。これは、法性である色の性は空ではないからである。 「一性の散動」――これを対治するために、同じ経では「色と空とは異なり、色にあらず」と説く。なぜか。もし依他起と円成実とが一つの性質なら、この依他起は円成実のように清浄な境であるはずだが、そうではないからである。 「異性の散動」――これを対治するために、同じ経では「色は空を離れず」と説く。なぜか。この二者が異なるなら、法と法性もまた異なるはずである。もし異なる性質があるなら、道理に合わない。例えば無常の法と無常の性質のようなものである。もし遍計所執の自性を取れば、「色即是空、空即是色」となる。なぜなら、遍計所執の色が無所有であることがそのまま空性であり、この空性がその無所有だからである。依他起と円成実のように、一とも異なるとも言えないのとは異なる。 「自性の散動」――これを対治するために、同じ経では「舎利子よ、これはただ名があるのみで、これを色と謂う」と説く。なぜか。色の自性は無所有だからである。 「差別の散動」――これを対治するために、同じ経では「自性は無生無滅、無染無浄なり」と説く。生があれば染があり、滅があれば浄がある。無生滅であるから無染無浄である。これらの句にはこのような意味がある。 「名に如いて義に取る散動」とは、名のままに義について分別することをいう。これを対治するために、同じ経では「仮に客名を立てて、別々に諸法について分別を起こす」と説く。「別々に」とは、それぞれ別の名があるという意味である。 「義に如いて名に取る散動」とは、義のままに名について分別することをいう。これを対治するために、同じ経では「仮に客名を立てて、それに随って言説を起こす。義の自性にこのような名があるのではない」と説く。 この十の散動を対治するために、般若波羅蜜多が説かれたのである。これにより、因として、無分別智が生じる。

論曰：若由異門，依他起自性有三自性。云何三自性不成無差別？若由異門成依他起，不即由此成遍計所執及圓成實。若由異門成遍計所執，不即由此成依他起及圓成實。若由異門成圓成實，不即由此成依他起及遍計所執。

> 教えに曰く：もし異なる観点から見るならば、依他起自性には三つの自性がある。では、なぜ三つの自性は互いに異ならないものとならないのだろうか。もしある観点から依他起が成立するならば、その同じ観点から遍計所執や円成実が成立するわけではない。もしある観点から遍計所執が成立するならば、その同じ観点から依他起や円成実が成立するわけではない。もしある観点から円成実が成立するならば、その同じ観点から依他起や遍計所執が成立するわけではない。

釋曰：此義如前道理解釋。

> 解説します：この意味は、先に述べた道理のように解釈します。

## 攝大乘論釋卷第四

> 摂大乗論釈 巻第四