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title: "攝大乘論釋 · 2"
description: "攝大乘論釋是古印度世親菩薩對無著菩薩所造攝大乘論的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論以唯識思想為核心系統闡釋阿毘達磨大乘經中攝大乘品深入論述阿賴耶識緣起三性三無性等教義建立完整的唯識學體系是印度瑜伽行派重要論書為研究唯識學根本典籍對漢傳佛教思想影響深遠被譽為大乘佛教義理之瑰寶"
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## 攝大乘論釋卷第五

> 『摂大乗論釈』巻第五

世親菩薩造

> 世親菩薩による

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 2所知相分第三之二

> 第3章 所知相（後半）

論曰：復次云何得知如依他起自性，遍計所執自性顯現而非稱體？由名前覺無稱體相違故、由名有眾多多體相違故、由名不決定雜體相違故。此中有二頌：

> 論曰：では、なぜ依他起性に基づいて、遍計所執性が現れるものの、その実体そのものとは一致しないと分かるのか？ それは、「名前による認識」が実体と一致しないからである。 第一に、名前によって生じる認識は、実体と合致しないという矛盾があるからである。 第二に、一つの実体に多くの名前が存在し、矛盾が生じるからである。 第三に、一つの名前に複数の実体が対応し、混乱が生じるからである。 ここに二つの頌がある。

由名前覺無， 多名不決定，成稱體多體， 雜體相違故。法無而可得， 無染而有淨，應知如幻等， 亦復似虛空。

> 名前に由って、実体は無いと覚る。 多くの名前は、一つの実体を指すと決められない。 もし名前が実体に従うなら、一つの実体に多くの名前は矛盾する。 よって、名前は実体を確定しないと知るべきだ。 法は実体がないのに認識され、 汚れが無いのに清らかさがある。 これらは幻やごまかしのように、 また虚空のようなものと知るべきである。

釋曰：如依他起自性，遍計所執分雖顯現可得，而非稱彼體。為顯此義故，說由名前覺無稱體相違故等。若依他起、遍計所執同一相者，應不待名，於義覺轉。如執有瓶，若離瓶名，於瓶義中無有瓶覺。若此瓶名與彼瓶義同一相者，瓶覺應轉；以非一相是故不轉。由此名義，若體相稱則成相違，此中安立名為依他起、義為遍計所執，以依他起由名勢力成所遍計故。又於一義有眾多名，若名與義同一相者，義應如名亦有多種。若爾，此義應成多體，一義多體則成相違。是故兩性若同一相，則成第二相違過失。又名不決定，以一瞿聲於九義轉。若執名義同一相者，多義相違應同一體，則成第三相違過失。由執牛等非一相義，同一性故，初一伽他重顯此義。於中成者，顯依他起、遍計所執非一義成。法無而可得等者，此一伽他以幻等喻開悟弟子。弟子有二相違疑問：云何法無而現可得？云何無染而有清淨？此中兩喻釋此疑問。如幻等者，譬如幻象實無所有而現可得。應知此中義亦如是，雖現可得而非實有。似虛空者，譬如虛空雖非雲等所能染污，性清淨故，而離彼時說名清淨。當知諸法亦復如是，雖實無染，性清淨故，然客障垢得滅離時說名清淨。

> 釈して言う。依他起性において、遍計所執の部分は現に顕われて知られるが、それはその本体にかなってはいない。この意味を示すために、「名前によって生じる認識は、その本体との一致がないから矛盾する」等と言われるのである。 もし依他起と遍計所執とが同じ相であるならば、名前を待たずに、その対象について認識が生じるはずである。例えば「瓶」と執着する場合、瓶という名前を離れては、瓶という対象について瓶の認識は生じない。もしこの瓶という名前と、瓶という対象とが同じ相であるならば、瓶の認識は常に生じるはずである。しかし、同一の相ではないから認識は生じない。このように、名前と対象とが、もしその本体において一致するならば、矛盾が生じる。ここでは、名前を依他起と、対象を遍計所執と立てる。依他起は名前の勢力によって遍計所執とされるからである。 また、一つの対象に対して多くの名前がある。もし名前と対象とが同じ相であるならば、対象も名前のように多種となるはずである。そうであれば、この対象は多くの本体を持つことになり、一つの対象に多くの本体があるならば、矛盾が生じる。それゆえ、もし二つの性質（依他起と遍計所執）が同一の相であるならば、第二の矛盾の過失となる。 さらに、名前は決定していない。一つの「牛」という音声が九つの意味に対して転ずるからである。もし名前と対象とが同じ相であると執着するならば、多くの異なる意味が同一の本体を持つという矛盾が生じ、第三の矛盾の過失となる。「牛」などのように、一つの相でない対象を同一の性質と執着するからである。 初めのガーターは、この意味を重ねて示している。「中に成る」というのは、依他起と遍計所執とが一つの意味ではないことを明らかにしている。 「法は無いのに得られる」等のこの一つのガーターは、幻などの譬えを用いて弟子たちを悟らせる。弟子たちには二つの矛盾した疑問がある。すなわち、「どうして法は存在しないのに、現に認識されるのか」という疑問と、「どうして汚れがないのに、清浄があるのか」という疑問である。ここでは二つの譬えによって、この疑問を解き明かしている。 「幻などのように」とは、例えば幻の象は実には全く存在しないが、現に認識されるようなものである。ここにおける意味も同様に、現に認識されるけれども、実には存在しないと知るべきである。 「虚空の似たように」とは、例えば虚空は雲などによって染められることがなく、その本性は清らかであるが、それらを離れたときに清浄と言われる。あらゆる諸法もまた同様に、実には汚れがないけれども、本性は清らかであり、しかも客の障りや汚れが滅び去ったときに清浄と言われると知るべきである。

論曰：復次何故如所顯現實無所有，而依他起自性非一切一切都無所有？此若無者，圓成實自性亦無所有。此若無者，則一切皆無。若依他起及圓成實自性無有，應成無有染淨過失。既現可得雜染清淨，是故不應一切皆無。此中有頌：

> 論じて曰く：さらに、なぜ示されたように現れたものが実として無いにもかかわらず、依他起性はすべてが全く無いわけではないのか。もしこれ（依他起性）が無ければ、円成実性もまた無いことになる。もしこれが無ければ、すべてが無となってしまう。もし依他起性と円成実性が無いならば、煩悩（汚れ）と清浄も無くなり、過失が生じるはずである。ところが、実際には煩悩と清らかさが現に存在している。ゆえに、すべてが無であるべきではない。ここに偈がある：

若無依他起， 圓成實亦無，一切種若無， 恒時無染淨。

> もし依他起性（他からの依存によって生じるもの）が存在しなければ、 円成実性（完全に成就された真実の境地）もまた存在しません。 もし、あらゆる種子（潜在的な力）が存在しなければ、 常に、迷いと悟り、汚れと清らかさという区別もありません。

釋曰：若依他起如所可得不如是有，既爾何不一切一切都無所有？此若無者，圓成實性亦應無有。何以故？由有雜染清淨有故。若二俱無，則一切種皆無所有。今當顯此非都無有，有謗雜染清淨過故。雜染清淨既現可得，故此二性俱非不有。若執為無，則撥現有雜染清淨，言無所有。

> 解説します。「他に依存して生じるもの（依他起性）」が、そのように捉えられた通りには実在しないのなら、なぜすべてのものがまったく存在しないと言わないのでしょうか。もしこれが存在しないならば、完全で真実の姿（円成実性）もまた存在しないはずです。なぜなら、煩わしさや汚れ（雑染）と清らかさ（清浄）があるからです。もしこの二つがともに存在しないなら、あらゆるものはすべて無となってしまいます。 ここで、これらがまったく無いわけではないことを示しましょう。なぜなら、「雑染」と「清浄」を否定する誤りがあるからです。「雑染」と「清浄」は実際に存在することが明らかです。したがって、この二つの性質（依他起性と円成実性）は、ともに「無い」とは言えません。もし無いと主張するならば、現に存在する「雑染」と「清浄」を否定して、「何も存在しない」と言っていることになります。

論曰：諸佛世尊於大乘中說方廣教，彼教中言：云何應知遍計所執自性？應知異門說無所有。云何應知依他起自性？應知譬如幻、炎、夢、像、光、影、谷響、水月、變化。云何應知圓成實自性？應知宣說四清淨法。何等名為四清淨法？一者自性清淨，謂真如、空、實際、無相、勝義、法界。二者離垢清淨，謂即此離一切障垢。三者得此道清淨，謂一切菩提分法波羅蜜多等。四者生此境清淨，謂諸大乘妙正法教。由此法教清淨緣故，非遍計所執自性；最淨法界等流性故，非依他起自性。如是四法總攝一切清淨法盡。此中有二頌：

> 論じて曰く、諸仏世尊は大乗の中で方広の教えを説かれた。その教えの中で言うには、「どのようにして遍計所執自性を知るべきか」と。知るべきである、別の観点から「無所有」と説かれていると。 「どのようにして依他起自性を知るべきか」と。知るべきである、例えば幻、炎、夢、像、光、影、谷響、水月、変化のごとしと。 「どのようにして円成実自性を知るべきか」と。知るべきである、四つの清浄法を説くと。 その四つの清浄法とは何か。 第一に自性清浄──すなわち真如、空、実際、無相、勝義、法界をいう。 第二に離垢清浄──すなわち、これがすべての障りや汚れを離れたものをいう。 第三に得此道清浄──すなわち、あらゆる菩提分法や波羅蜜多などをいう。 第四に生此境清浄──すなわち、すべての大乗の妙なる正しい法の教えをいう。 この法の教えの清浄なる縁によって、遍計所執自性ではなく、最も清らかな法界の等流性であるがゆえに、依他起自性でもない。 このように四つの法は、すべての清浄法を尽くして含む。 ここに二つの頌がある。

幻等說於生， 說無計所執；若說四清淨， 是謂圓成實。自性與離垢， 清淨道所緣，一切清淨法， 皆四相所攝。

釋曰：自性清淨者，謂此自性本來清淨，即是真如自性，實有一切有情平等共相；由有此故，說一切法有如來藏。離垢清淨者，即此真如遠離煩惱、所知障垢，即由如是清淨真如顯成諸佛。得此道清淨者，謂能得此真如聖道即是清淨，謂念住等菩提分法及以一切波羅蜜多。生此境清淨者，生此能證菩提分法所緣境界。生此境界即是清淨，故名生此境清淨，即契經等十二分教。何以故？若此聖教是遍計所執，應成雜染因。若是依他起，應成虛妄。最淨法界等流性故，非是虛妄。既離二自性，故成圓成實。又此四種於大乘中隨說一種，應知是說圓成實性。於中初二無有變異，圓成實故名圓成實。後之二種無有顛倒，圓成實故名圓成實。後伽他中具頌此義。幻等說於生者，謂依他起此中名生。若於是處說一切法，譬如幻事乃至變化，應知此說依他起性。說無計所執者，若於是處說無有色，乃至說無一切諸法，應知此說遍計所執性。

> 解説する。 「自性清浄」とは、この自性がもともと清らかであること、すなわち真如の自性そのものであり、実にすべての生きとし生けるものに平等に備わる共通の性質である。この性質があるからこそ、あらゆる法には如来蔵が備わっていると説かれるのである。 「離垢清浄」とは、この真如が煩悩と所知障という汚れを離れた状態である。このような清らかな真如が顕れ出て、諸仏が成就されるのである。 「得此道清浄」とは、この真如に至る聖なる道そのものが清らかであるということであり、すなわち四念住などの悟りのための修行法（菩提分法）や、すべての波羅蜜多（完全な修行）を指す。 「生此境清浄」とは、この悟りのための修行法を生じさせる所縁の境界（対象）のことである。この境界を生じさせること自体が清らかであるため、「生此境清浄」と名づけられる。すなわち、経典などの十二分教がこれにあたる。 なぜなら、もしこの聖教が遍計所執（誤って分別されたもの）であるならば、それは雑染（煩わしさ）の原因となってしまう。もし依他起（縁によって生じるもの）であるならば、虚妄（偽り）のものとなってしまう。しかしながら、これは最も清らかな法界（真実の世界）から等しく流れ出た性質であるため、虚妄ではない。二つの自性（遍計所執と依他起）を離れているからこそ、円成実（完全に成り立った真実）となるのである。 また、これらの四つは大乗の教えの中で、どれか一つが説かれているならば、それは円成実性を説いているのだと知るべきである。このうち最初の二つ（自性清浄と離垢清浄）は変異することがなく、円成実であるからこそ円成実と名づけられる。後の二つ（得此道清浄と生此境清浄）は顛倒（誤った見方）がなく、円成実であるからこそ円成実と名づけられる。後の偈（ガーター）において、この意味が完全に述べられている。 「幻等說於生」とは、依他起のことであり、ここでは「生」と呼ぶ。ある箇所で、あらゆる法は幻のようなもの、あるいは変化のようなものであると説かれるならば、それは依他起性を説いていると知るべきである。 「說無計所執」とは、ある箇所で色は存在しない、あるいはすべての法は存在しないと説かれるならば、それは遍計所執性を説いていると知るべきである。

論曰：復次何緣如經所說，於依他起自性說幻等喻？於依他起自性為除他虛妄疑故。他復云何於依他起自性有虛妄疑？由他於此有如是疑：云何實無有義而成所行境界？為除此疑說幻事喻。云何無義心心法轉？為除此疑說陽炎喻。云何無義有愛非愛受用差別？為除此疑說所夢喻。云何無義淨不淨業愛非愛果差別而生？為除此疑說影像喻。云何無義種種識轉？為除此疑說光影喻。云何無義種種戲論言說而轉？為除此疑說谷響喻。云何無義而有實取諸三摩地所行境轉？為除此疑說水月喻。云何無義有諸菩薩無顛倒心，為辦有情諸利樂事故思受生？為除此疑說變化喻。

> 論じていわく、さらに、なぜ経典に説かれるところの、依他起性について幻などの譬えを示すのか。それは、依他起性について、他者の虚妄の疑いを除くためである。 では、他者はどのように依他起性について虚妄の疑いを抱くのか。 ―「どうして実に意味のないものが、所行の境界となり得るのか」という疑いを除くために、幻の譬えを説く。 ―「どうして意味がないのに心と心所が生じるのか」という疑いを除くために、陽炎の譬えを説く。 ―「どうして意味がないのに、愛着すべきものと嫌悪すべきものとを受け取る違いがあるのか」という疑いを除くために、夢の譬えを説く。 ―「どうして意味がないのに、清らかな業や清らかでない業によって、愛着すべき果報や嫌悪すべき果報が異なって生じるのか」という疑いを除くために、影像の譬えを説く。 ―「どうして意味がないのに、様々な識が生じるのか」という疑いを除くために、光影の譬えを説く。 ―「どうして意味がないのに、様々な概念や言葉が巡るのか」という疑いを除くために、谷響の譬えを説く。 ―「どうして意味がないのに、実際に三昧の境地を対象とする心が生じるのか」という疑いを除くために、水中の月の譬えを説く。 ―「どうして意味がないのに、菩薩が倒錯した心なく、有情の利益と安楽のために受生するのか」という疑いを除くために、変化の譬えを説く。

釋曰：為此義故於依他起說幻等喻，今當顯示。此中虛妄疑者，謂於虛妄依他起性所有諸疑，為除此疑說幻等喻顯依他起。若實無義云何成境？為治此疑說幻事喻顯依他起。譬如幻象雖無實義而成境界，義亦如是。他復生疑：若無有義即無所緣，諸心心法云何而轉？為除此疑說陽炎喻顯依他起。此中陽炎譬心心法，水喻於義，譬如陽炎有動搖故，雖無有義而生水覺。諸心心法亦復如是，由動搖故，雖無有義而生義覺。是諸愚夫於此復疑：若無有義諸愛非愛受用差別云何可得？為除此疑說所夢喻顯依他起。如於夢中，雖無實義而見種種愛與非愛受用差別現前可得，此亦如是。於此復疑：淨不淨業義既實無，愛非愛果義云何起？為除此疑說影像喻顯依他起。譬如影像實無有義，即於本質起影像覺，然影像義無別可得。此亦如是，應知雖無愛與非愛真實果義而現可得。於此復疑：若無有義云何得有種種識轉？為除此疑說光影喻顯依他起。如弄影者有其種種光影可得，雖有多種光影可得而光影義實無所有。識亦如是，無種種義而有種種義現可得。於此復疑：若無有義無量品類戲論言說云何而轉？為除此疑說谷響喻顯依他起。譬如谷響雖無有義而現可得，戲論言說亦復如是，雖無實義而現可得。於此復疑：若無有義云何世間定心心法有義可得？由說定心能如實知如實見故。為除此疑說水月喻顯依他起。譬如水月其義實無，由水潤滑澄清性故而現可得。定心亦爾，所緣境義雖實無有而現可得。水喻其定，以是潤滑澄清性故。於此復疑：若有情義實無所有，云何證真諸菩薩等作彼利樂覺慧為先，彼彼趣中攝受自體？為除此疑說變化喻顯依他起。譬如變化實無有義，由化者力一切事成，非變化義而不可得。應知此中亦復如是，所受自體其義雖無，而有能作一切有情利益安樂所受自體義現可得。

> 解説：この目的のために、依他起性には幻などの譬えが説かれている。今ここでそれを明らかにしよう。 ここで「虚妄についての疑惑」とは、虚妄なる依他起性に関する様々な疑いを指す。この疑いを取り除くために、幻などの譬えが説かれ、依他起性が示される。 「もし実に意味が無いのであれば、どうして対象となり得るのか？」という疑問に対して、幻の事象の譬えを用いて依他起性を示す。例えば幻の象は実体が無いにもかかわらず対象として現れるように、意味もまた同様である。 さらに「もし意味が無ければ、認識の対象も無いことになる。では心や心のはたらきはいったいどのように生じるのか？」という疑いに対して、陽炎の譬えを用いて依他起性を示す。陽炎は心や心のはたらきに譬えられ、水は意味に譬えられる。陽炎が揺れ動くことで、水が無くとも水の認識が生じるように、心や心のはたらきも揺れ動くことで、実体の無い意味に対して意味の認識が生じるのである。 愚かな人々はさらにこう疑う：「もし意味が無いのであれば、好ましいものと好ましくないものの感覚の違いはどのようにして生じるのか？」この疑いに対して、夢の譬えを用いて依他起性を示す。夢の中で実体が無いにもかかわらず、好ましいものと好ましくない様々な感覚が目の前にあるように現れるのと同様である。 さらにこう疑う：「清らかな業も不浄な業も、その意味が実体として無いのであれば、好ましい結果と好ましくない結果の意味はどのように生じるのか？」この疑いに対して、影像の譬えを用いて依他起性を示す。影像には実体の意味が無いにもかかわらず、本来の対象に基づいて影像の認識が生じる。しかし影像の意味として別に得られるものは無い。これと同じように、好ましい結果と好ましくない結果の実体としての意味は無いが、現れとして得られるのである。 さらにこう疑う：「もし意味が無いのであれば、どのようにして様々な認識が生じるのか？」この疑いに対して、光影の譬えを用いて依他起性を示す。影絵師が様々な光影を生み出せるように、それらは得られるが、光影そのものに実体の意味は無い。認識もこれと同じで、様々な意味が無いにもかかわらず、様々な意味が現れて得られるのである。 さらにこう疑う：「もし意味が無いのであれば、無限の種類の虚構的言論（戯論）はどのように生じるのか？」この疑いに対して、谷響の譬えを用いて依他起性を示す。谷のこだまは実体の意味が無いにもかかわらず現れるように、虚構的言論も実体の意味が無いにもかかわらず現れるのである。 さらにこう疑う：「もし意味が無いのであれば、世間の定まった心や心のはたらきにおいて、どうして意味があると言えるのか？なぜなら、定まった心は如実に知り、如実に見ることができると説かれているからである。」この疑いに対して、水中の月の譬えを用いて依他起性を示す。水中の月はその意味が実体として無いが、水が滑らかで澄んでいる性質によって現れる。定まった心もこれと同じで、対象の意味は実体として無いが現れるのである。水は定まった心に譬えられ、滑らかで澄んでいる性質を持つからである。 さらにこう疑う：「もし有情の意味が実体として全く無いのであれば、真実を悟った菩薩たちが、彼らの利益と安楽のための智慧を先立てて、様々な生存の場所に自らの身体を受け取るのはなぜか？」この疑いに対して、変化の譬えを用いて依他起性を示す。例えば変化（化身）は実体の意味が無いにもかかわらず、変化を生み出す者の力によって全てのことが成し遂げられる。しかし変化の意味として別に得られるものは無い。ここでも同様に、受け取る身体の意味は実体として無いが、一切の有情の利益と安楽をなすことのできる、受け取る身体の意味が現れて得られるのである。

復有別義，世尊意說幻等八喻，今當顯示。此中幻喻為除眼等六種內處，應知顯示眼等六處，譬如幻象雖實非有而現可得。說陽炎喻為除器世間，由彼大故。於陽炎中實無有水，動搖力故似水可得。說所夢喻為除色等所受用境，顯如所夢，色等實無而能為因，起愛非愛受用差別。說影像喻為除身業果，顯善不善身業為緣，而有餘色影像生起。說谷響喻為除語業果，顯語業因感語業果猶如谷響。意業三種：一非等引地、二等引地、三聞種類。說光影喻為除非等引地諸意業果，顯此意業所得諸果猶如光影。說水月喻為除等引地諸意業果，顯等引地諸意業果猶如水月。說變化喻為除聞種類意業，聞種類者即是聞思之所熏習，此即顯示聞種類意差別而轉，猶如變化。

> さらに別の意味としては、世尊が説かれた幻などの八つの譬えについて、これから示すことにする。 この中の幻の譬えは、眼などの六つの内なる処を否定するためのものである。知るべきである。眼などの六つの処は、例えば幻の象のように、実際には存在しないにもかかわらず、現れとして認識されることを。 陽炎の譬えを説かれたのは、器世間を否定するためである。なぜなら、それは広大だからである。陽炎の中には実に水は存在しないが、動く力によって水のように認識されるのである。 夢の譬えを説かれたのは、色などの享受される対象の境を否定するためである。示すところは、夢に見るように、色などは実際には存在しないが、それによって因となり、愛するものと愛さないものという享受の違いが生じるということである。 影像の譬えを説かれたのは、身業の果報を否定するためである。示すところは、善不善の身業を縁として、他の色の影像が生じるということである。 谷響の譬えを説かれたのは、語業の果報を否定するためである。示すところは、語業の因が語業の果報を感ずることは、谷の響きのようなものであるということである。 意業には三つの種類がある。第一に非等引地、第二に等引地、第三に聞種類である。 光影の譬えを説かれたのは、非等引地における様々な意業の果報を否定するためである。示すところは、この意業から得られる様々な果報は、光と影のようなものであるということである。 水月の譬えを説かれたのは、等引地における様々な意業の果報を否定するためである。示すところは、等引地における様々な意業の果報は、水中の月のようなものであるということである。 変化の譬えを説かれたのは、聞種類の意業を否定するためである。聞種類とは、聞と思考によって熏習されたものである。これによって示すところは、聞種類の意業が差異をもって転じること、まるで変化のようなものであるということである。

論曰：世尊依何密意，於《梵問經》中說：如來不得生死、不得涅槃。於依他起自性中，依遍計所執自性及圓成實自性，生死涅槃無差別密意。何以故？即此依他起自性，由遍計所執分成生死，由圓成實分成涅槃故。

> 論じられる： 世尊はどのような深い意図に基づいて、『梵問経』の中で「如来は生死も得ず、涅槃も得ない」と説かれたのか。 それは、依他起性（他に依存して生じる性質）において、遍計所執性（誤って分別されて執著された性質）と円成実性（完成された真実の性質）に基づき、生死と涅槃に区別がないという深い意味が示されているのである。 なぜなら、この依他起性そのものが、遍計所執の側面から見れば生死となり、円成実の側面から見れば涅槃となるからである。

釋曰：如是三種自性相法，所說契經悉皆隨順，今當顯示。世尊依何密意於《梵問經》中說如來不得生死不得涅槃者，問於依他起自性中依遍計所執自性及圓成實自性生死涅槃無差別密意者，答次當廣釋。依他起自性非定生死，由圓成實分成涅槃故；亦非定涅槃，由遍計所執分成生死故，是故不可定說一性。由此自性，若得一分餘分不異。依此意趣，於彼經中說如來不得生死、不得涅槃。

> 解説：この三つの自性（存在の性質）に関する教えは、すべての経典の教えと一致している。そこで今、その意味を明らかにしよう。 世尊はどのような意図で『梵問経』において「如来は生死も得ず、涅槃も得ない」と説かれたのか。それは、依他起自性（縁起によって生じる性質）の中において、遍計所執自性（虚妄な分別による性質）と円成実自性（完成された真実の性質）に基づいて、生死と涅槃に差別がないという密意（深い意味）についての問いである。その答えは、後で詳しく説明する。 依他起自性は、必ずしも生死に定まるものではない。円成実自性の部分によって涅槃となるからである。また、必ずしも涅槃に定まるものでもない。遍計所執自性の部分によって生死となるからである。ゆえに、一つの性質のみと断定することはできない。この自性において、ある部分を得ても、残りの部分は異ならないのである。このような意趣に基づいて、あの経典では「如来は生死も得ず、涅槃も得ない」と説かれているのである。

論曰：阿毘達磨大乘經中，薄伽梵說法有三種：一雜染分、二清淨分、三彼二分。依何密意作如是說？於依他起自性中，遍計所執自性是雜染分，圓成實自性是清淨分，即依他起是彼二分。依此密意作如是說。於此義中以何喻顯？以金土藏為喻顯示。譬如世間金土藏中三法可得：一地界、二土、三金。於地界中土非實有而現可得，金是實有而不可得。火燒鍊時，土相不現金相顯現。又此地界，土顯現時虛妄顯現，金顯現時真實顯現，是故地界是彼二分。識亦如是，無分別智火未燒時，於此識中所有虛妄遍計所執自性顯現，所有真實圓成實自性不顯現。此識若為無分別智火所燒時，於此識中所有真實圓成實自性顯現，所有虛妄遍計所執自性不顯現。是故此虛妄分別識依他起自性有彼二分，如金土藏中所有地界。

> 論曰：『阿毘達磨大乗経』において、世尊は法に三種があると説かれた。すなわち、第一に雑染の部分、第二に清浄の部分、第三にその両方の部分である。どのような秘密の意図によって、このように説かれたのか。依他起性において、遍計所執性が雑染の部分であり、円成実性が清浄の部分であり、依他起性がその両方の部分である。この秘密の意図によって、このように説かれたのである。この意味を、どのような喩えで示すのか。金と土の鉱脈の喩えをもって示す。たとえば世間の金と土の鉱脈の中には、三つの要素がある。第一に地の層、第二に土、第三に金である。地の層において、土は実体として存在しないが、現れ出ることは可能であり、金は実体として存在するが、現れない。火で焼き熔かす時、土の相は現れず、金の相が現れる。またこの地の層は、土が現れる時には虚妄に現れ、金が現れる時には真実に現れる。したがって地の層はその両方の部分である。識もまた同様である。無分別智の火によってまだ焼かれていない時には、この識の中にあるすべての虚妄な遍計所執性が現れ、すべての真実な円成実性は現れない。この識がもし無分別智の火によって焼かれる時には、この識の中にあるすべての真実な円成実性が現れ、すべての虚妄な遍計所執性は現れない。したがって、この虚妄分別の識すなわち依他起性には、その両方の部分がある。金と土の鉱脈の中にある地の層のようなものである。

釋曰：阿毘達磨大乘經中，由此密意說有三法：一雜染分，謂遍計所執自性是雜染故。二清淨分，謂圓成實自性是清淨故。三彼二分，謂依他起自性通彼二故。為顯此義，以金土藏為其譬喻。此中藏者，是彼種子。言地界者，是堅硬性。土之與金，是所造色。於此喻中三法可得，謂此藏中先時有土相貌顯現，後時金相方乃可得。為顯金相後方可得，說火燒鍊後可得故金真實有。

> 解説します。「阿毘達磨大乗経」の中で、このような深い意味をもって三つの法が説かれています。 第一に「雑染の分」とは、遍計所執の自性が雑染であるからです。 第二に「清浄の分」とは、円成実の自性が清浄であるからです。 第三に「その二分」とは、依他起の自性がその両方に通じるからです。 この意味を示すために、金と土の鉱床を譬えとします。ここで「蔵」とは、その種子のことです。「地界」とは堅い性質です。土と金は、物質として造られたものです。この譬えの中には三つの法が認められます。すなわち、この鉱床の中に、最初は土の姿が現れていて、後になって金の姿がようやく得られるのです。金の姿が後になって得られることを示すために、火で焼いて精錬した後に金が得られるから、金は真実に存在すると説かれています。

論曰：世尊有處說一切法常，有處說一切法無常，有處說一切法非常非無常。依何密意作如是說？謂依他起自性，由圓成實性分是常，由遍計所執性分是無常，由彼二分非常非無常。依此密意作如是說。如常無常無二，如是苦樂無二、淨不淨無二、空不空無二、我無我無二、寂靜不寂靜無二、有自性無自性無二、生不生無二、滅不滅無二、本來寂靜非本來寂靜無二、自性涅槃非自性涅槃無二，生死涅槃無二亦爾。如是等差別一切諸佛密意語言，由三自性應隨決了，如前說常無常等門。此中有多頌：

> 論じて曰く、世尊はあるところでは一切法は常であると説き、あるところでは一切法は無常であると説き、あるところでは一切法は常でもなく無常でもないと説かれた。どのような密意に基づいて、このように説かれたのか。それは、依他起自性において、円成実性の部分は常であり、遍計所執性の部分は無常であり、その二つの部分によって常でもなく無常でもないとされる。この密意に基づいて、このように説かれたのである。 常と無常の無二（二つでないこと）のように、苦と楽の無二、浄と不浄の無二、空と不空の無二、我と無我の無二、寂静と不寂静の無二、自性ありと自性なきの無二、生と不生の無二、滅と不滅の無二、本来寂静と非本来寂静の無二、自性涅槃と非自性涅槃の無二、そして生死と涅槃の無二もまた同じである。このような様々な差別を含む一切の諸仏の密意の言葉は、三自性によって随って決了されるべきであり、それは先に説いた常や無常などの区分と同様である。 ここに多くの頌がある。

如法實不有， 如現非一種，非法非非法， 故說無二義。依一分開顯， 或有或非有，依二分說言， 非有非非有。如顯現非有， 是故說為無，由如是顯現， 是故說為有。自然自體無， 自性不堅住，如執取不有， 故許無自性。由無性故成， 後後所依止，無生滅本寂， 自性般涅槃。

> 法（ダルマ）は実在するものでなく、 現れも一つではない。 法でもなく、非法でもない。 ゆえに、二つの意味を超えていると説く。 一方から解き明かせば、 存在するとか、存在しないとか。 両方から語るなら、 存在せず、かつ非存在でもない。 現れとしてあるのではないから、 「無」だと説く。 そのように現れているから、 「有」だと説く。 自然に自ら存在するわけではなく、 その性質は確固としない。 捉えようとしても得られないから、 無自性であると認める。 無自性であるからこそ、 次々と依りどころが成り立つ。 生も滅もなく、本来静かであり、 その性質はすでに涅槃にある。

釋曰：伽他義中如法實不有如現非一種者，如其次第釋非法非非法因緣，由實不有故非法，由現非一種故非非法，以非法非非法故說無二義。依一分者，謂依一邊。開顯者，說示也。或有或非有者，或是有性或是無性。依二分說言非有非非有者，取依他起具二分性，說為非有及非非有。如顯現非有者，如現所得不如是有。是故說為無者，由此義故說之為無。由如是顯現者，由唯似有相貌顯現。是故說為有者，即由此義說之為有。說一切法無自性意，今當顯示。自然無者，由一切法無離眾緣自然有性，是名一種無自性意。自體無者，由法滅已不復更生故無自性，此復一種無自性意。自性不堅住者，由法纔生一剎那後無力能住，故無自性。如是諸法無自性理，與聲聞共。如執取不有故許無自性者，此無自性不共聲聞。以如愚夫所取遍計所執自性不如是有，由此意故依大乘理說一切法皆無自性。由無性故成者，由一切法無自性故，無生滅等皆得成就。所以者何？由無自性故無有生，由無生故亦無有滅，無生滅故本來寂靜，本寂靜故自性涅槃。後後所依止者，是後後因此而得有義。

> 釈して曰く、伽他の意味のうち、「法は実に有にあらず、現は一種にあらざる」とは、順に非・非非の因縁を釈す。実に有にあらざるが故に非とし、現は一種にあらざるが故に非非とする。非・非非なるが故に二つの意味無きことを説く。「一分に依る」とは、すなわち一方に依る意である。「開顕する」とは、説き示すことである。「或いは有り、或いは非有」とは、あるいは有る性質、あるいは無い性質である。「二分に依りて非有・非非有と言説す」とは、依他起が二種の性質を具えると取り、非有・非非有と説くのである。「顕現の如く非有」とは、現に得られる如くには有にあらざる意である。「故に無しと説く」とは、この意味によって無しと説くのである。「如是に顕現する」とは、ただ有るかのような相貌が現れることによる。「故に有りと説く」とは、すなわちこの意味によって有りと説くのである。 一切法は無自性なりという意を、今まさに示すべきである。「自然に無し」とは、一切法が衆縁を離れて自然に有る性質を持たないことにより、これを一種の無自性の意と名づける。「自体無し」とは、法が滅した後、再び生じることがないが故に自性無しとし、これもまた一種の無自性の意である。「自性は堅住せず」とは、法が生じて一刹那の後には、とどまる力が無くなるが故に自性無しとする。かくの如き諸法の無自性の理は、声聞と共通である。「執取の如く有にあらずと許す故に無自性」とは、この無自性は声聞とは共通しない。愚夫が執取する所の遍計所執の自性の如くには有にあらず、この意により大乗の理に依って、一切法は皆無自性と説くのである。「無性なるが故に成ず」とは、一切法は無自性なるが故に、無生・無滅等が皆成就するのである。なぜか？無自性なるが故に生が無く、生が無いが故に滅も無く、無生無滅なるが故に本来寂静であり、本寂静なるが故に自性涅槃だからである。「後の後の依止」とは、後の後のものが、これによって有るという意味である。

論曰：復有四種意趣四種祕密，一切佛言應隨決了。四意趣者，一平等意趣，謂如說言：我昔曾於彼時彼分即名勝觀正等覺者。二別時意趣，謂如說言：若誦多寶如來名者，便於無上正等菩提已得決定。又如說言：由唯發願便得往生極樂世界。三別義意趣，謂如說言：若已逢事爾所殑伽河沙等佛，於大乘法方能解義。四補特伽羅意樂意趣，謂如為一補特伽羅先讚布施後還毀呰。如於布施，如是尸羅及一分修當知亦爾。如是名為四種意趣。四祕密者，一令入祕密，謂聲聞乘中或大乘中，依世俗諦理說有補特伽羅及有諸法自性差別。二相祕密，謂於是處說諸法相顯三自性。三對治祕密，謂於是處說行對治八萬四千。四轉變祕密，謂於是處以其別義，諸言諸字即顯別義。如有頌言：

> 論に曰く、さらに四種類の意趣と四種類の秘密があり、すべての仏の言葉はこれに基づいて理解されるべきである。四つの意趣とは、第一に平等意趣であり、例えば「私はかつて、あの時、あの場において、すでに勝観正等覚者であった」と説かれることである。第二に別時意趣であり、例えば「多宝如来の名を唱えれば、無上正等菩提においてすでに決定を得る」と説かれ、また「ただ願いを発するだけで極楽世界に往生できる」と説かれることである。第三に別義意趣であり、例えば「すでにガンジス川の砂の数ほどの仏に供養した者が、大乗の法の意味を理解できる」と説かれることである。第四に補特伽羅（プドガラ）の意楽意趣であり、例えば、ある一人の人に対して、最初は布施を称賛し、後にそれを非難することである。布施についてそうであるように、戒律や一部の修行についても同様であると知るべきである。これらを四種の意趣という。 四つの秘密とは、第一に導入の秘密であり、声聞乗または大乗において、世俗諦の道理に基づいて、補特伽羅（プドガラ）や諸法の自性・差別があると説くことである。第二に相の秘密であり、諸法の相を説いて三自性を明らかにする箇所のことである。第三に対治の秘密であり、八万四千の行による対治を説く箇所のことである。第四に転変の秘密であり、別の意味をもって、様々な言葉や文字が異なる意味を表す箇所のことである。例えば、次の偈の通りである。

覺不堅為堅， 善住於顛倒，極煩惱所惱， 得最上菩提。

> 不確かなもの（この世の事物）を確かなもの（永遠のもの）と思い込み、しっかりと間違った見解に執着してしまう。 激しい煩悩に心を悩まされながらも、そのような者が最高の悟り（菩提）を得るのである。

釋曰：意趣祕密有差別者，謂佛世尊先緣此事後為他說，是名意趣。由此決定令入聖教，是名祕密。平等意趣者，謂如有人取相似法說如是言：彼即是我。世尊亦爾，平等法身置在心中，說言：我昔曾於彼等。非彼昔時毘鉢尸佛，即是今日釋迦牟尼，依平等義所起意趣作如是說。別時意趣者，謂此意趣令嬾惰者由彼彼因於彼彼法精勤修習，彼彼善根皆得增長。此中意趣顯誦多寶如來名因是昇進因，非唯誦名便於無上正等菩提已得決定。如有說言：由一金錢得千金錢。豈於一日？意在別時，由一金錢是得千因，故作此說。此亦如是，由唯發願便得往生極樂世界，當知亦爾。別義意趣中於大乘法方能解義者，謂於三種自性義理自證其相。若但解了隨名言義是佛意者，愚夫於此亦應解了。故知此中言解義者，意在證解要由過去逢事多佛。補特伽羅意樂意趣者，謂如為一先讚布施後還毀呰。此中意者，先多慳悋，為讚布施；後樂行施，還復毀呰令修勝行。若無此意，於一施中先讚後毀則成相違。由有此意，讚毀應理。於尸羅等當知亦爾。一分修者，謂世間修。令入祕密者，謂若是處依世俗諦理說有補特伽羅及一切法自性差別，為令有情入佛聖教，是故說名令入祕密。相祕密者，謂於宣說諸法相中說三自性。對治祕密者，謂於是處宣說有情諸行對治，為欲安立有情煩惱行對治故。轉變祕密者，謂於是處以說餘義諸言諸字轉顯餘義。於伽他中覺不堅為堅者，不堅謂定，由不剛強馳散難調，故名不堅；即於此中起尊重覺，名覺為堅。善住於顛倒者，是於顛倒能顛倒中善安住義。於無常等謂是常等名為顛倒，於無常等謂無常等是能顛倒，是於此中善安住義。極煩惱所惱者，精進劬勞名為煩惱。為眾生故長時劬勞精進所惱，如有誦言：處生死久惱，但由於大悲。如是等。得最上菩提者，其義易了。

> 【解説】 お釈迦様がおっしゃいました。「意趣」と「秘密」に区別があります。意趣とは、仏がまずある対象を縁として後に他の人に説くことをいいます。これによって決定的に人を聖なる教えへと導くこと、これを秘密といいます。 平等意趣とは、例えば誰かが似たような教えをとって「あれこそが私だ」と言うようなものです。世尊も同じく、平等な法身を心に置いて「私はかつてあのところにいた」と言われます。昔の毘鉢尸仏と今日の釈迦牟尼が別の仏であるわけではなく、平等の意味に基づいて起こされた意趣によってこのように説かれたのです。 別時意趣とは、この意趣によって怠惰な人が、それぞれの因によってそれぞれの教えに精進し修行し、それぞれの善根をみな成長させることをいいます。この意趣の意味は、多宝如来の名号を唱える因が上昇の因となることを示すもので、ただ名を唱えただけで無上正等菩提に決定したことになるのではありません。たとえば「一つの金貨によって千の金貨を得る」と言っても、それは一日で得られるわけではありません。意味は別の時にあり、一つの金貨が千を得る因となるからこのように言うのです。これも同じで、ただ願いを発するだけで極楽世界に往生できるというのも、同様に理解すべきです。 別義意趣において大乗の教法でようやく意味を理解できるとは、三種の自性の意味と道理を自ら証明し理解することをいいます。もし単に言葉の意味に従った名義を理解しただけで仏の意とするなら、愚かな者でもこれを理解できるはずです。したがって、ここで「意味を理解する」というのは、過去に多くの仏に巡り合った因縁によって証明し理解することを意味することがわかります。 補特伽羅意楽意趣とは、例えば一人の人に対して、まず布施を称賛し、後にそれを非難するような場合です。この意趣の意味は、最初は吝嗇が強いため布施を称賛し、後に布施を喜んで行うようになったら、さらに非難してより優れた行を修行させることにあります。もしこの意趣がなければ、同じ布施に対して初めに称賛し後に非難することは矛盾となります。この意趣があるからこそ、称賛と非難が理にかなうのです。戒律などについても同様に理解すべきです。 一分修とは、世間的な修行をいいます。令入秘密とは、もしあるところで世俗諦の道理に従って補特伽羅やあらゆる法の自性や差別を説き、有情を仏の聖なる教えに入らせるためのものを、令入秘密といいます。 相秘密とは、諸法の相を説くところで三自性を説くことをいいます。 対治秘密とは、あるところで有情の諸行に対する対治法を説き、有情の煩悩の行に対する対治法を確立しようとすることをいいます。 転変秘密とは、あるところで別の意味を説く言葉や文字によって、別の意味を転じて顕すことをいいます。伽他（詩句）の中で「堅固でないものを堅固と覚る」とは、堅固でないものを定とし、剛強でなく散乱し調御しにくいから堅固でないといい、その中で尊重の覚りを起こすことを「堅固と覚る」といいます。「善く顛倒に住する」とは、顛倒を能く顛倒させる中に善く安住する意味です。無常などを常などとすることを顛倒といい、無常などを無常などとすることを能く顛倒といい、この中に善く安住する意味です。「極めて煩悩に悩まされる」とは、精進の労苦を煩悩といい、衆生のため長い間労苦し精進に悩まされることで、例えば「長く生死に悩むのは、ただ大悲による」と唱えられるようなものです。これらがそうです。「最上の菩提を得る」とは、その意味は容易に理解できます。

論曰：若有欲造大乘法釋，略由三相應造其釋：一者由說緣起、二者由說從緣所生法相、三者由說語義。

> 論曰：もし大乗の法についての解説を作ろうとするならば、おおまかに三つの観点に従ってそれを述べるべきである。第一に縁起について説くこと、第二に縁から生じた法の相について説くこと、第三に語の意味について説くことである。

釋曰：由此三相隨其所應，應造一切大乘法釋。

> このように、三つの要素がそれぞれに適って備わっているならば、あらゆる大乗の教えの解説を作ることができる、と説かれているのです。

論曰：此中說緣起者，如說：

> ここで縁起について説くとは、次のように説かれている。

言熏習所生， 諸法此從彼，異熟與轉識， 更互為緣生。

> 言葉の薰習（くんじゅう）によって生じる あらゆる現象は、原因から結果へと生じる。 異熟識（いじゅくしき、阿頼耶識）と転識（てんしき、前七識）は 互いに縁となり合って生じるのである。

釋曰：言熏習所生諸法者，由外分別熏習在阿賴耶識中，以此熏習為因一切法生，即是轉識自性。此從彼者，此分別熏習用彼諸法為因，此即顯示阿賴耶識與彼轉識更互為因。

> 説明しよう。「熏習によって生じる諸法」とは、外界に対する分別心が阿頼耶識に熏習され、その熏習を原因としてあらゆる法が生じることを指す。すなわち、これが転識の自性である。この分別熏習は、それらの諸法を原因として生じる。つまり、阿頼耶識と転識は互いに原因となり合う関係にあることを示している。

論曰：復次彼轉識相法，有相有見，識為自性。又彼以依處為相、遍計所執為相、法性為相，由此顯示三自性相。如說：

> 論曰：さらに、あの転識（変化する心）の相法には、「相」（対象のイメージ）と「見」（認識する働き）があり、識そのものを本質とする。また、それは「依処」（基盤）を相とし、「遍計所執」（虚妄な分別による執着）を相とし、「法性」（真実の性質）を相とする。これによって三つの自性（本質的なあり方）の相が示される。経典にこう説かれる：

從有相有見， 應知彼三相。

> 「形あるもの」や「見解がある」という捉え方から、その三つの特徴（三相）を理解すべきである。

復次云何應釋彼相？謂遍計所執相，於依他起相中實無所有，圓成實相於中實有。由此二種非有及有，非得及得、未見已見真者同時。謂於依他起自性中，無遍計所執故，有圓成實故。於此轉時，若得彼即不得此，若得此即不得彼。如說：

> では、その相（特徴）をどのように解釈すべきでしょうか。 それは、次のように説明されます。 「遍計所執（へんげしょしゅう）」の相は、縁起によって生じたもの（依他起）の中には実在として存在しません。一方、「円成実（えんじょうじつ）」の相は、その中に実在として存在します。 このように、一方は非存在、他方は存在であり、一方は得られず、他方は得られるものです。真理をまだ見ていない者と既に見た者は、同時に存在することはありません。 なぜなら、縁起によって生じたもの（依他起）の性質の中には、遍計所執の性質は存在せず、円成実の性質は存在するからです。 この状態が転換するとき、もし遍計所執を得れば、円成実は得られず、もし円成実を得れば、遍計所執は得られません。 経典にはこう説かれています。

依他所執無， 成實於中有，故得及不得， 其中二平等。

> 他に依存するものとして執着されるものは存在しない。 しかし、成立した実体はその中に存在する。 ゆえに、得ることと得られないこと、 その両者は平等なのである。

釋曰：彼轉識相法有相有見識為自性者，謂彼識有相有見以為其體。又即彼相有其三種依處為相者，謂依他起相。由此所說三種自性顯示彼相，於伽他中即顯此義。從有相有見應知彼三相者，如釋顯示。由此二種非有及有非得及得未見已見真者同時者，遍計所執及圓成實名為二種。如是二種，第一非有，第二是有。未見真者，得遍計所執，不得圓成實。已見真者，即此剎那得圓成實，不得遍計所執。於伽他中即顯此義，謂依他所執無等。平等者，謂一剎那。其中者，謂依他起中。二者，謂未見真者及已見真者。故者，是由此因義。謂於依他起中，由遍計所執無故，及由圓成實有故。又諸愚夫顛倒執故，如是見轉。若諸聖者，由正見故，如是見轉。

> 解説：まず、「転識相法」とは、識には「相（対象）」と「見（認識作用）」があり、識自体がその本性であるということです。つまり、識は相と見をそなえて成り立っているのです。 また、その「相」には三つの依りどころがあるとされます。それが「依他起相」です。この三つの自性によって相が示されるということを、次の偈（げ）が明らかにしています。 「相と見によって、その三つの相を知るべきである」というのは、まさにこの解説の通りです。 次に、「この二つのもの（遍計所執と円成実）が有る・無い、得る・得ない、未だ真理を見ない者と既に見た者が同時に存在する」ということについて。遍計所執と円成実の二つを指します。このうち、第一の遍計所執は「無」であり、第二の円成実は「有」です。真理をまだ見ていない者は、遍計所執を得て、円成実を得ていません。真理をすでに見た者は、その瞬間に円成実を得て、遍計所執を得ません。 これを偈では「依他所執無等」と表現しています。「平等」とは、一刹那の瞬間のこと。「其中」とは、依他起の中でのこと。「二」とは、未見真者と已見真者の二つ。「故」とは、その理由によってという意味です。つまり、依他起の中において、遍計所執が無いこと、そして円成実が有ることによります。 また、凡夫は顚倒した執着によって、そのような見解が生じます。聖者は正しい見解によって、そのような見解が生じます。

論曰：說語義者，謂先說初句，後以餘句分別顯示，或由德處、或由義處。

> 論にはこう説かれています。「語義を説くとは、最初の句を述べ、その後に続く句で詳しく説明し示すことである。あるいは功徳の観点から、あるいは意味の観点から説明するのである。」

釋曰：由說語義如所造釋，今當顯示，或攝其德或攝其義。

> 解説： 言葉の意味について先に述べた解釈のとおり、ここではその功徳をまとめ、またはその意味をまとめて示すことにしよう。

論曰：由德處者，謂說佛功德：最清淨覺，不二現行，趣無相法，住於佛住，逮得一切佛平等性，到無障處，不可轉法，所行無礙，其所安立不可思議，遊於三世平等法性，其身流布一切世界，於一切法智無疑滯，於一切行成就大覺，於諸法智無有疑惑，凡所現身不可分別，一切菩薩等所求智，得佛無二住勝彼岸，不相間雜如來解脫妙智究竟，證無中邊佛地平等，極於法界，盡虛空性，窮未來際，最清淨覺者。應知此句由所餘句分別顯示，如是乃成善說。法性最清淨覺者，謂佛世尊最清淨覺，應知是佛二十一種功德所攝。謂於所知一向無障轉功德，於有無無二相真如最勝清淨能入功德，無功用佛事不休息住功德，於法身中所依意樂作業無差別功德，修一切障對治功德，降伏一切外道功德，生在世間不為世法所礙功德，安立正法功德，授記功德，於一切世界示現受用變化身功德，斷疑功德，令入種種行功德，當來法生妙智功德，如其勝解示現功德，無量所依調伏有情加行功德，平等法身波羅蜜多成滿功德，隨其勝解示現差別佛土功德，三種佛身方處無分限功德，窮生死際常現利益安樂一切有情功德，無盡功德等。

> 論曰：「徳の処」とは、仏の功徳を説くものである。すなわち、最も清らかな覚り、二つのものとして現れることのない行い、相のない法に向かうこと、仏の境地に住すること、一切の仏と平等な性質を得ること、障りのない境地に至ること、変えることのできない法、行いに障りがないこと、その安立するところは思議できないこと、三世にわたって平等な法の性質に遊ぶこと、その身はすべての世界に流れ広がること、すべての法について智慧に疑い滞りがないこと、すべての行において大覚りを成就すること、諸々の法の智慧について疑惑がないこと、現れるところの身は区別できないこと、一切の菩薩の等しく求める智慧、仏の二つとない境地の勝れた彼岸を得ること、互いに混ざり合わない如来の解脱の妙智を究めること、中辺のない仏地の平等を証得すること、法界に極まり、虚空の性質を尽くし、未来際を窮めること、最も清らかな覚り――である。 この句は、残りの句によって別々に示され、説明されることで、はじめて善く説かれたものとなる。法の性質における最も清らかな覚りとは、仏世尊の最も清らかな覚りのことであり、これは仏の二十一種の功徳に含まれると知るべきである。すなわち、認識されるものに対して常に障りなく転ずる功徳、有と無の相のない真如の最勝の清らかさに入る功徳、無功用で仏事を休みなく行う功徳、法身における所依・意楽・作業に差別のない功徳、すべての障りを対治する功徳、すべての外道を降伏する功徳、世間に生まれても世法に妨げられない功徳、正法を安立する功徳、授記の功徳、すべての世界に受用身と変化身を現わす功徳、疑惑を断つ功徳、様々な行に入らせる功徳、未来に法が生じる妙智の功徳、その勝解に従って現わす功徳、無量の所依によって有情を調伏する加行の功徳、平等な法身の波羅蜜多の成満の功徳、その勝解に従って差別ある仏土を現わす功徳、三種の仏身の方処に分限のない功徳、生死を窮めるまで常に一切の有情に利益と安楽を現わす功徳、無尽の功徳などである。

釋曰：此中不二現行者，謂二現行此中無有，是故說名不二現行。即是於所知一向無障轉功德，非如聲聞獨覺智亦有障亦無障故。趣無相法者，謂清淨真如名無相法，趣謂趣入，即是於有無無二相真如最勝清淨能入功德。謂此真如非是有相，諸法無性以為相故；亦非無相，自相有故。於此無相真如最勝清淨能入，最勝能入故、清淨能入故。住於佛住者，謂住佛所住無所住處，即是無功用佛事不休息住功德，謂此住中常作佛事無有休息。逮得一切佛平等性者，即是於法身中所依意樂作業無差別功德。到無障處者，即是修一切障對治功德，謂一切時常修覺慧對治一切障故。不可轉法者，即是降伏一切外道功德。所行無礙者，即是生在世間不為世法所礙功德，謂雖生世間行於世間所行之處，不為利等世間八法所染污故。其所安立不可思議者，即是安立正法功德，由契經等正法無量不可思議，非諸愚夫所能解故。由此故名最清淨覺，此最清淨覺句，於句句中皆遍相應。遊於三世平等法性者，即是授記功德。其身流布一切世界者，即是於一切世界示現受用變化身功德。於一切法智無疑滯者，即是斷疑功德。於一切行成就大覺者，即是令入種種行功德。於諸法智無有疑惑者，即是當來法生妙智功德，謂知當來如是法生如來妙智。凡所現身不可分別者，即是如其勝解示現功德。一切菩薩等所求智者，即是無量所依調伏有情加行功德，謂無量菩薩所依能作調伏諸有情事，此非諸佛已得自他平等更求此智，唯有諸佛已作如是勝調伏事。得佛無二住勝彼岸者，即是平等法身波羅蜜多成滿功德。謂無二法身名平等法身，即於如是無二法身得善清淨波羅蜜多。不相間雜如來解脫妙智究竟者，謂於無雜如來智中勝解究竟。此中勝解名為解脫，即是隨其勝解示現差別功德。證無中邊佛地平等者，即是三種佛身方處無分限功德，謂佛法身不可分限爾所方處受用變化，亦不可說爾所世界。極於法界者，謂極清淨法界，是名極於法界，即是窮生死際常現利益安樂一切有情功德。盡虛空性者，即是無盡功德，謂佛智無盡如虛空故。窮未來際者，即是究竟功德。等言，等此佛智究竟窮未來際無有間斷，是故名為最清淨覺。

> 解説しよう。ここで「不二現行」というのは、二つの現われる働きがこの中には存在しないことを意味する。したがって「不二現行」と名づけられる。これは、悟るべき対象に対して常に障害なくはたらく功徳を指し、声聞や独覚のように智慧に障害がある面とない面が混在するのとは異なる。 「無相の法に趣く」とは、清らかな真如を「無相の法」と呼び、「趣く」とは入ることを意味する。すなわち、有と無の二つの相を超越した真如において、最も勝れた清らかさをもって入る功徳である。この真如は有の相ではない。なぜなら、あらゆるものには固定的な性質がなく、それが相だからである。また無の相でもない。なぜなら、自らの本質として存在するからである。この無相の真如に、最も勝れた清らかさをもって入ることができる。最も勝れているからであり、清らかであるからである。 「仏の住むところに住む」とは、仏が住むところであって、しかも特定の場所にとどまらないこと、すなわち、はからいなく仏の働きを休みなく行うという住の功徳を指す。この住において、常に仏の教えを説き示す働きが休みなく行われるのである。 「一切の仏の平等性を獲得する」とは、法身における基盤、意図、働きに差別のない功徳である。 「障害のない境地に到る」とは、あらゆる障害に対処するための修行の功徳である。常に覚りの智慧を修めて、あらゆる障害に対処するからである。 「法を動かせない」とは、すべての外道を打ち負かす功徳である。 「行くところに妨げがない」とは、世間に生まれながらも、世間の法則に妨げられない功徳である。世間に生まれ、世間の中で行動しながらも、利益や不利益などの世間の八つの風に染まらないからである。 「その安立は不可思議である」とは、正しい教えを確立する功徳である。経典などの正しい教えは無量で不可思議であり、愚かな人々には理解できないからである。以上により、これを「最も清らかな覚り」と名づける。この「最も清らかな覚り」という句は、すべての句の一つ一つにわたって対応している。 「三世にわたって平等な法の性質に遊ぶ」とは、未来の成仏を予言する功徳である。 「その身は一切の世界に流れ広がる」とは、あらゆる世界に受用身と変化身を示現する功徳である。 「すべての法について智慧に迷いがなく滞りがない」とは、疑問を断つ功徳である。 「あらゆる行において大覚りを成就する」とは、様々な行いへと導く功徳である。 「諸々の法の智慧について疑惑がない」とは、未来に生じる妙なる智慧の功徳である。未来にこのように法が生じることを如来の妙なる智慧は知るのである。 「現れるところの身は分別できない」とは、相手の理解に応じて身を示現する功徳である。 「一切の菩薩が等しく求める智慧」とは、無量の基盤に依って有情を調伏する修行の功徳である。無量の菩薩たちが依って立ち、有情を調伏する働きをするためのものである。これは、すでに自分と他者の平等を得た諸仏がさらにこの智慧を求めるという意味ではない。ただ諸仏だけが、すでにこのような勝れた調伏の働きをしているのである。 「仏の二つなき境地の彼岸に到る」とは、平等な法身の波羅蜜多が完成した功徳である。二つなき法身を「平等な法身」と呼ぶ。この二つなき法身において、善く清らかな波羅蜜多を得るのである。 「混ざり合うことのない如来の解脱と妙なる智慧の究極」とは、混ざり合うことのない如来の智慧における勝れた理解の究極を指す。ここで勝れた理解を「解脱」と呼ぶ。すなわち、その理解に応じて示現の違いが生じる功徳である。 「中辺なき仏地の平等を証する」とは、三種の仏身に方所の限界がない功徳である。仏の法身は、特定の方所に限られることはない。受用身や変化身も、特定の世界に限定されることはない。 「法界に極まる」とは、極めて清らかな法界、すなわち「法界に極まる」ことを指す。これは、生死の終わりに至るまで、常に一切の有情に利益と安楽をもたらす功徳である。 「虚空の性質を尽くす」とは、尽きることのない功徳である。仏の智慧は虚空のように尽きることがないからである。 「未来の終わりを尽くす」とは、究極の功徳である。これらの功徳は等しく、この仏の智慧の究極は未来の終わりまで絶え間なく続く。ゆえに「最も清らかな覚り」と名づけられるのである。

論曰：復次由義處者，如說若諸菩薩成就三十二法乃名菩薩，謂於一切有情起利益安樂增上意樂故：令入一切智智故，自知我今何假智故，摧伏慢故，堅牢勝意樂故，非假憐愍故，於親非親平等心故，永作善友乃至涅槃為後邊故，應量而語故，含笑先言故，無限大悲故，於所受事無退弱故，無厭倦意故，聞義無厭故，於自作罪深見過故，於他作罪不瞋而誨故，於一切威儀中恒修治菩提心故，不悕異熟而行施故，不依一切有趣受持戒故，於諸有情無有恚礙而行忍故，為欲攝受一切善法勤精進故，捨無色界修靜慮故，方便相應修般若故，由四攝事攝方便故，於持戒破戒善友無二故，以慇重心聽聞正法故，以慇重心住阿練若故，於世雜事不愛樂故，於下劣乘曾不欣樂故，於大乘中深見功德故，遠離惡友故，親近善友故，恒修治四梵住故，常遊戲五神通故，依趣智故，於住正行不住正行諸有情類不棄捨故，言決定故，重諦實故，大菩提心恒為首故。如是諸句，應知皆是初句差別，謂於一切有情起利益安樂增上意樂。

> 論に曰く、さらに「義の処」とは、次のように説かれている。すなわち、もし諸々の菩薩が三十二の法を成就するならば、はじめて菩薩と名づけられる。それは、一切の有情に対して利益と安楽をもたらそうという増上意楽（強い決意）を起こすことによって、一切智智へと導き入れるためであり、自ら「今、何を仮りの智慧とするのか」と知るためであり、慢心を打ち砕くためであり、堅固で勝れた意楽を持つためであり、仮初めの憐れみではないためであり、親しい人にもそうでない人にも平等の心を持つためであり、常に善き友となり、ついには涅槃を最終的な目標とするためであり、言葉は適切に語り、笑顔で先に声をかけるためであり、限りない大悲を持つためであり、受け持った事柄に対して退屈したり弱気になったりしないためであり、飽きる心がないためであり、教えを聞くことに飽きることがないためであり、自らの犯した罪を深く過ちと見なすためであり、他者の犯した罪に対して怒らずに教え諭すためであり、すべての行儀作法において常に菩提心を修め整えるためであり、異熟の果報を望まずに布施を行うためであり、一切の生存の境地に執着せずに戒律を受持するためであり、諸々の有情に対して怒りや障りなく忍辱を実践するためであり、一切の善法を摂取しようとして精進に励むためであり、無色界を捨てて静慮（禅定）を修めるためであり、巧みな方便と相応して智慧を修めるためであり、四摂事によって教化の方便を取り入れるためであり、戒律を守る者も破る者も善き友として差別しないためであり、慇懃な心で正法を聴聞するためであり、慇懃な心で阿練若（閑静な場所）に住むためであり、世俗の雑事を好まないためであり、下劣な乗り物（小乗）を決して喜ばないためであり、大乗の中に深く功徳を見るためであり、悪友を遠ざけるためであり、善友に親しむためであり、常に四梵住（四無量心）を修め整えるためであり、常に五神通を自在に遊戯するためであり、智慧に依り頼むためであり、正しい行いに住する有情も、正しい行いに住しない有情も、捨て置かないためであり、言葉が確かであるためであり、真実を重んじるためであり、大菩提心が常に最前にあるためである。これらの諸々の句は、すべて最初の句の違いであると知るべきである。すなわち、「一切の有情に対して利益と安楽をもたらそうという増上意楽を起こすこと」である。

此利益安樂增上意樂句，有十六業差別應知。此中十六業者，一展轉加行業；二無顛倒業；三不待他請自然加行業；四不動壞業；五無求染業，此有三句差別應知，謂無染繫故、於恩非恩無愛恚故、於生生中恒隨轉故；六相稱語身業，此有二句差別應知；七於樂於苦於無二中平等業八無下劣業；九無退轉業；十攝方便業；十一厭惡所治業，此有二句差別應知；十二無間作意業；十三勝進行業，此有七句差別應知，謂六波羅蜜多正加行故，及四攝事正加行故；十四成滿加行業，此有六句差別應知，謂親近善士故、聽聞正法故、住阿練若故、離惡尋思故、作意功德故，此復有二句差別應知，助伴、功德故，此復有二句差別應知；十五成滿業，此有三句差別應知，謂無量清淨故、得大威力故、證得功德故；十六安立彼業，此有四句差別應知，謂御眾功德故、決定無疑教授教誡故、財法攝一故、無雜染心故。如是諸句，應知皆是初句差別。

> この利益と安楽をもたらすという増上意楽の句には、十六の業の区別があることを知るべきである。 その十六の業とは、第一に転々と加行する業。第二に顛倒しない業。第三に他者の請いを待たずに自然に加行する業。第四に動かされず壊されない業。第五に汚染された求めのない業。これには三つの句の区別があることを知るべきである。すなわち、汚れた執着がないから。恩に対しても非恩に対しても愛着と憎しみがないから。生まれ変わるたびに常に共に働くから。第六に相応しい言葉と身の業。これには二つの句の区別があることを知るべきである。第七に楽に対しても苦に対しても、また楽でも苦でもないものに対しても平等な業。第八に下劣でない業。第九に退転しない業。第十に方便を摂する業。第十一に対治すべきものを厭い嫌う業。これには二つの句の区別があることを知るべきである。第十二に間断なく作意する業。第十三に勝進して行ずる業。これには七つの句の区別があることを知るべきである。すなわち、六波羅蜜多を正しく加行することにより、また四摂事を正しく加行することによる。第十四に円満に成し遂げる加行の業。これには六つの句の区別があることを知るべきである。すなわち、善き師に親しく近づくことにより。正しい法を聞くことにより。阿蘭若処に住むことにより。悪い思考を離れることにより。功徳を思惟することにより。これにはさらに二つの句の区別があることを知るべきである。善き助け手と功徳によるものである。これにはさらに二つの句の区別があることを知るべきである。第十五に円満に完成する業。これには三つの句の区別があることを知るべきである。すなわち、無量の清浄があることにより。大いなる威力を得ることにより。功徳を証得することによる。第十六に彼の者を安立する業。これには四つの句の区別があることを知るべきである。すなわち、人々を導く功徳があることにより。疑いなく確かに教授し教誡することにより。財施と法施の二つを併せ持つことにより。雑染の心がないことによる。 これらの諸句は、すべて初めの句の区別であると知るべきである。

釋曰：由義處中，於一切有情起利益安樂增上意樂故者，此句義由十六業餘句顯示。由何等業顯示利益安樂增上意樂？謂展轉加行業者，即是令入一切智智故，謂令諸有情入一切智智，展轉化導，譬如一燈傳然千燈，此即顯示利益安樂增上意樂。如是一切所餘句中，皆應配屬利益安樂增上意樂。無顛倒業者，即是自知我今何假智故。謂或雖有利益安樂增上意樂，仍是顛倒，如有發起利益安樂增上意樂勸飲酒等。若有正智如實自知，方能稱量教導有情，非增上慢不如實知起饒益心勸他令作不饒益事。不待他請自然加行業者，即是摧伏慢故，謂由摧伏憍慢心故，不待勸請自為說法。不動壞業者，即是堅牢勝意樂故，不以有情行邪行故動壞菩薩利益安樂增上意樂堅固之心。無求染業者，即是非假憐愍故、於親非親平等心故、永作善友乃至涅槃為後邊故。謂後三句釋此三句，非為利養恭敬等因作諸有情利益安樂，是故說名無求染業利益安樂增上意樂。云何可知？謂由相稱語身業者，即是應量而語故、含笑先言故。此二句中，應量而語及先言是語業，含笑是身業。應量語者，唯作法語。言含笑者，舒顏往來作饒益事。於樂於苦於無二中平等業者，即是無限大悲故，無限悲者愍三苦故，於有苦有情愍其苦苦、於有樂有情愍其壞苦、於不苦不樂有情愍其行苦，不苦不樂故名無二。無下劣業者，即是於所受事無退弱故，謂不自輕云我不能當得佛果，如此等類。無退轉業者，即是無厭倦意故，謂勤精進修成佛因心無厭倦。攝方便業者，即是聞義無厭故，謂由多聞成善巧智饒益有情。厭惡所治業者，即是於自作罪深見過故，於他作罪不瞋而誨故，由此方便乃能如實調伏有情。無間作意業者，即是於一切威儀中恒修治菩提心故。如是句義如所行清淨，契經廣說。勝進行業者，即是不悕異熟而行施故，乃至由四攝事攝方便故。謂即依前利益安樂增上意樂修此加行，以為增長趣向果因。成滿加行業者，即是於持戒破戒善友無二故，乃至親近善友故。謂後六句釋此八句。若有習近如是加行，速得成滿。以慇重心住阿練若故者，由住此處離惡尋思。世雜事者，謂歌舞等。成滿業者，即是恒修治四梵住故、常遊戲五神通故、依趣智故。謂後三句釋此三句，此成滿業所有相狀。大威力者，謂六神通。依趣智故者，謂依趣智、不依趣識，內智生故，由此內智現見相應安住於法。安立彼業者，即是於住正行等。謂後四句釋此四句。由利益安樂增上意樂故，安立有情利益安樂。御眾功德故者，由於破戒亦不棄捨，安立不擯，令出不善令住於善。決定無疑教受教誡故者，由能一向與彼教勅，非自說已還復說言我言不善，由是因緣其言威肅。財法攝一故者，由言誠諦，以法攝取衣服等財，還如是施。無雜染心故者，由善攝受大菩提心饒益有情，非欲自求為給使故。云何有情由此善故速證無上正等菩提？如此攝受一切有情。

> 解釈します。心構えの要点として、あらゆる生きとし生けるものに対して「利益と安楽をもたらそう」という強い意志を起こすことです。この一節の意味は、十六種の具体的な行い（業）によって示されています。どのような業が、この利益安楽の強い意志を示しているのでしょうか。 まず、「次々に働きかける業」とは、一切の生きとし生けるものを仏の智慧へと導くことです。例えば、一つの灯が千の灯を次々にともしていくように、教えを伝え導くのです。これが利益安楽の強い意志を示しています。残りのすべての文も、この利益安楽の強い意志に関連づけて解釈すべきです。 「間違いのない業」とは、自らが正しい判断力を身につけることです。たとえ利益安楽の意志があっても、それが誤った方向に向かうことがあります。例えば、飲酒を勧めるような場合です。正しい智慧があれば、相手に合った教えを説くことができ、過った思い込みで不利益をもたらすことはありません。 「頼まれなくても自ら進んで行う業」とは、おごり高ぶる心を克服した結果です。相手からの依頼を待たず、自ら進んで法を説きます。 「揺るがない業」とは、確固たる意志によるものです。相手が誤った行いをしても、菩薩の利益安楽の強い意志が揺らぐことはありません。 「見返りを求めない業」とは、偽りのない憐れみによるものです。親しい人にもそうでない人にも平等に接し、永遠の善き友として、相手が悟りに至るまで寄り添います。後の三つの文がこれを説明しています。つまり、利益や尊敬などの見返りを求めずに行うことが「見返りを求めない業」なのです。 どのようにしてそれが分かるかと言えば、「言葉と身体の振る舞いが調和している業」によって示されます。具体的には、相手にふさわしい言葉を選び、笑顔で先に声をかけることです。笑顔は身体の業であり、ふさわしい言葉と先に声をかけることは言葉の業です。ふさわしい言葉とは、真理にかなった言葉のことです。笑顔とは、和やかな表情で人に接し、善い行いをすることを指します。 「苦しみと楽しみ、その中間に対して平等の業」とは、限りない大きな慈悲によるものです。この限りない慈悲は、三種の苦しみを思いやります。苦しんでいる人にはその苦しみそのものを、楽しんでいる人にはその楽しみがいつか壊れる苦しみを、苦しくも楽しくもない人にはすべてが変化していく苦しみを感じ取るのです。苦楽の中間を「無二」と呼びます。 「卑下しない業」とは、自分のなすべきことに臆病にならないことです。すなわち、「自分には仏の境地は無理だ」などと自分を低く見積もらないことです。 「退かない業」とは、飽きることなく努力し続けることです。仏の境地を目指して、あきることなく精進します。 「学びを集める業」とは、教えの意味を学ぶことに飽かないことです。多くの学びによって智慧を磨き、生きとし生けるものを利益します。 「誤りを嫌う業」とは、自分の過ちを深く反省し、他人の過ちには怒らずに諭すことです。これによって、はじめて相手を真に導くことができます。 「絶え間なく心を向ける業」とは、どのような時も常に菩提心を育てることです。これらの意味は『行清浄経』に詳しく説かれています。 「さらに向上する業」とは、供与の見返りを求めずに施しを行うことなど、四つの摂受の方法によって導くことです。つまり、利益安楽の強い意志に基づいてこのような実践を行い、悟りへと向かう因を育てるのです。 「完成へと導く業」とは、戒を守る人も破る人も善き友として平等に扱うことなど、善き友に親しむことです。後の六つの文がこれらの八つの文を説明しています。このような実践に親しめば、速やかに完成に至ります。 「真剣な気持ちで静かな場所に住む業」とは、そのような場所に住むことで、悪い思いから遠ざかることです。「世間の雑事」とは、歌舞などの遊興です。 「完成の業」とは、四つの清らかな心を常に育て、五つの神通力を自在に使いこなし、智慧に依ることです。後の三つの文がこれらの三つの文を説明しており、これが完成の業の姿です。「大いなる力」とは六つの神通力を指します。「智慧に依る」とは、意識に頼らず智慧に従うことであり、内なる智慧が生まれ、その智慧によって真理と一体化して安住することです。 「人を導く業」とは、正しい行いをしている人などに対するものです。後の四つの文がこれらの四つの文を説明しています。利益安楽の強い意志によって、生きとし生けるものを利益と安楽へと導きます。 「大衆を統率する功徳」とは、戒を破った者も見捨てず、追放もせずに、悪から善へと導くことです。 「確固たる教えと戒めを与える業」とは、一度与えた教えを「間違っていた」と後から言い直さないことです。そのため、言葉に威厳と信頼があります。 「物質と法の両方で摂受する業」とは、誠実な言葉によって、衣服などの物質的な支援と法の教えの両方を与えることです。 「雑染のない心の業」とは、大きな菩提心に基づいて生きとし生けるものを利益し、自分の利益のために相手を使うのではないことです。 このようにすべての生きとし生けるものを摂受することで、どのようにして彼らは速やかに無上の悟りを証するのでしょうか。以上がその説明です。

論曰：如說：

> 論典にはこう説かれています。

由最初句故， 句別德種類；由最初句故， 句別義差別。

> 最初の句によって、句ごとの功徳の種類が明らかになる。 最初の句によって、句ごとの意味の違いが明らかになる。

釋曰：此伽他中即為顯示前所說義，說如是言。

> 解説：この偈頌は、先に述べた意味を明らかにするために、このように説かれているのです。

## 攝大乘論釋卷第五