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title: "攝大乘論釋 · 4 入所知相分"
description: "攝大乘論釋是古印度世親菩薩對無著菩薩所造攝大乘論的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論以唯識思想為核心系統闡釋阿毘達磨大乘經中攝大乘品深入論述阿賴耶識緣起三性三無性等教義建立完整的唯識學體系是印度瑜伽行派重要論書為研究唯識學根本典籍對漢傳佛教思想影響深遠被譽為大乘佛教義理之瑰寶"
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## 攝大乘論釋卷第六

> 『摂大乗論釈』 巻第六

世親菩薩造

> 世親菩薩による

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 入所知相分第四

> 入所知相分 第四

論曰：如是已說所知相。入所知相云何應見？多聞熏習所依，非阿賴耶識所攝，如阿賴耶識成種子；如理作意所攝似法似義而生似所取事有見意言。

> 論にはこう述べられている。以上のように、認識されるべき対象の特性（所知相）については説明した。では、その認識されるべき対象に入る方法（入所知相）とは、どのように理解すべきだろうか。 それは、多くの教えを聞くことによる熏習（くんじゅう）をよりどころとし、阿頼耶識（あらやしき）には含まれないものである。阿頼耶識が種子を形成するように、この熏習もまた種子となる。そして、理にかなった心の働き（如理作意）に含まれる、法（ことわり）に似たもの、義（意味）に似たものとして生じ、認識される対象に似た事柄を捉える、見解を伴う意言（いごん）である。

釋曰：如能悟入如是種類所應知相，今當顯說。入所知相者，謂能悟入所知境義。多聞熏習所依者，謂大乘法所熏自體。非阿賴耶識所攝者，謂能對治阿賴耶識故。如阿賴耶識成種子者，謂如阿賴耶識為一切雜染法因，此為一切清淨法因亦爾。如理作意所攝者，謂如理作意為自性。似法似義而生者，謂似法義相而生起時。似所取事者，謂似色等義。有見者，謂似於見此即成立有相見識。

> 解説しよう。「このようにして、理解すべき対象のあり方を悟ることができたなら、今からそれを明らかに説こう。」「入所知相（悟るべき対象のあり方に入ること）」とは、悟るべき対象の意味を悟り入ることをいう。「多聞熏習（多くの教えを聞いて熏習されたもの）に依る」とは、大乗の教えによって熏習された自己の本体を指す。「阿頼耶識に摂せられず」とは、阿頼耶識を対治するものであるからである。「阿頼耶識が種子を成すが如し」とは、阿頼耶識がすべての雑汚の法の因であるように、これ（多聞熏習）がすべての清浄な法の因となるのも同じである。「如理作意（理にかなった心の働き）に摂せられる」とは、如理作意をその自性とすることをいう。「法のごとく、義のごとく生ずる」とは、法や義の相に似て生じ起きることをいう。「取るべき所の事に似る」とは、色などの対象に似ていることをいう。「見あり」とは、これを見ることに似ていることをいう。これによって、有相の見識（対象と認識の相を備えた認識）が成立する。

論曰：此中誰能悟入所應知相？大乘多聞熏習相續，已得逢事無量諸佛出現於世，已得一向決定勝解，已善積集諸善根故，善備福智資糧菩薩。

> 論じて曰く、この中で、誰が知るべき真理の相を悟り入ることができるのか。大乗の教えを多聞し、熏習が相続し、すでに無量の諸仏が世に出現されるのを拝する機会を得て、すでに一方向に決定した勝解を得て、すでに善く諸々の善根を積み集め、福徳と智慧の資糧を善く備えた菩薩である。

釋曰：如是品類，如此方便而能悟入，今當顯示。大乘多聞熏習相續者，簡聲聞等所有多聞熏習相續。已得逢事無量諸佛出現於世者，已得現前逢事諸佛出現世間超過數量。已得一向決定勝解者，謂於大乘所得勝解，非諸惡友所能動壞，即由無間所說三因已善積集諸善根故，乃得名為善備福智資糧菩薩。又即如是福智資糧，云何漸次而得圓滿？謂由因力、由善友力、由作意力、由依持力。此中兩句即是二力，如數應知。作意力者，即是一向決定勝解。此用大乘熏習為因、事佛為緣，以有一向決定勝解，能修正行，修正行故積集善根，如是名為由作意力善修福智二種資糧。由此漸次善修福智二資糧故，能入大地，如是名為由依持力。

> 釈して曰く、このような種類、このような方便によって悟入することができることを、今まさに示そう。 大乗における多聞の熏習が相続するとは、声聞などにおける多聞の熏習の相続とは区別される。すでに無量の諸仏が世に出現するのに値いし奉仕したとは、すでに目の当たりに諸仏が世に出現することを、数を超えて経験したことをいう。すでに一向に決定した勝解を得たとは、大乗に対して得た勝解が、いかなる悪友によっても動かされ壊されることがないことをいう。すなわち、間断なく説かれた三つの因によって、すでに諸々の善根をよく積み集めたがゆえに、福智の資糧を善く備えた菩薩と名づけられるのである。 また、このような福智の資糧は、いかにして漸次に円満となるのか。すなわち、因の力によって、善友の力によって、作意の力によって、依持の力による。このうちの二句はすなわち二つの力であり、数のごとく知るべきである。作意の力とは、すなわち一向に決定した勝解である。これは大乗の熏習を因とし、仏に仕えることを縁とし、一向に決定した勝解があるがゆえに正しい修行を行うことができ、正しい修行を行うがゆえに善根を積み集める。これを、作意の力によって福智の二種の資糧を善く修めるという。これによって漸次に福智の二資糧を善く修めるがゆえに、大地に入ることができる。これを、依持の力によってという。

論曰：何處能入？謂即於彼有見似法似義意言，大乘法相等所生起勝解行地，見道、修道、究竟道中，於一切法唯有識性，隨聞勝解故、如理通達故、治一切障故、離一切障故。

> 論じて曰く：どこから入るのか。それは、まさにその大乗の教えや義理に似た意言（心の言葉）が、大乗の法の相によって生じる勝解行地において、あるいは見道・修道・究竟道において、あらゆる法はただ識のみであるという性質を、聞くに従って勝解し、理にかなって通達し、あらゆる障りを対治し、あらゆる障りから離れることによって入るのである。

釋曰：入如是類及入行相，今當顯示。意地尋思說名意言，如是意言以大乘法為因而生，此中顯示意言差別。大乘法相等所生者，是此教法為緣生義。或有即於勝解行地名能悟入，由但聽聞一切諸法唯有識性，深生信解故名能入。於見道中如是悟入，今當顯示。如理通達故者，謂於意言如理通達。云何於此如理通達？謂此意言非法非義、非所取非能取，如是通達。於修道中如是悟入，今當顯示。治一切障故者，謂觀此意言非法非義非所取非能取時，便能對治一切障故。究竟道中如是悟入，今當顯示。離一切障故者，謂善清淨妙智位中，最微細障亦無有故。

> 解説：このような種類に入ること、および入る際の行相について、今から示そう。心の働きである思索を「意言」と呼ぶ。この意言は大乗の法を因として生じるものであり、ここでは意言の違いを明らかにする。「大乗法相等所生」とは、この教えが縁となって生じるという意味である。 ある者は勝解行の地において、ただ一切の法は唯識の性質であると聞いて深く信解するだけで、悟りに入ることができる。これを「能入」という。見道における悟りについては、今から示そう。「如理通達」とは、意言を理にかなって通達することである。どのようにこれに理にかなって通達するのか。この意言は法でもなく、義でもなく、所取でもなく、能取でもない、とこのように通達するのである。 修道における悟りについては、今から示そう。「治一切障」とは、この意言は法でもなく義でもなく所取でもなく能取でもないと観察するときに、すべての障りを対治できるからである。 究竟道における悟りについては、今から示そう。「離一切障」とは、善く清らかな妙智の位においては、最も微細な障りさえも存在しないからである。

論曰：由何能入？由善根力所任持故，謂三種相練磨心故、斷四處故、緣法義境止觀恒常慇重加行無放逸故。

> 論にはこう説かれている。では、どのようにして入るのか？善根の力に支えられることであって、三つの相によって心を練り磨き、四つの障碍(しょうげ)を断ち、法と義を対象として止観(しかん)を常に怠らず、重ねて実践し、油断なく修行することによるのである。

釋曰：由此能入，今當顯示。由何能入？由善根力所任持故。謂三種相練磨心故乃至恒常慇重加行無放逸故者，謂於如是所說八句善順相應，名善根力所任持故。言恒常者，無間修故。言慇重者，恭敬修故。若於如是品類造修，即於如是能無放逸。

> 解説します。これによって悟りに入ることができる。ここでその方法を示そう。 何によって悟りに入るのか？善い根底の力によって支えられているからである。 すなわち、三つの相によって心を練磨することから、常に真剣に修行し、怠りなく努めることによるのである。 これは、先に述べた八つの句に善く順応していることを意味し、これを善根力に支えられているという。 「常に」とは、途切れることなく修行することである。 「真剣に」とは、敬いの心を持って修行することである。 このように、このような種類の修行に励めば、自然とその修行に対して怠ることがなくなるのである。

論曰：無量諸世界，無量人有情，剎那剎那證覺無上正等菩提，是為第一練磨其心。由此意樂，能行施等波羅蜜多，我已獲得如是意樂，我由此故少用功力修習施等波羅蜜多當得圓滿，是名第二練磨其心。若有成就諸有障善，於命終時即便可愛一切自體圓滿而生。我有妙善無障礙善，云何爾時不當獲得一切圓滿？是名第三練磨其心。

> 論じて曰く、無量の諸世界、無量の人・有情が、刹那刹那に無上正等菩提を証得する。これが第一の練磨（心を磨くこと）である。この意楽によって、布施などの波羅蜜多を行じることができる。私はすでにこのような意楽を得ている。私はこれによって、わずかな努力で布施などの波羅蜜多を修習し、それを円満にすることができるだろう。これが第二の練磨である。もし諸々の障りある善を成就した者がいれば、命終の時には、たちまち愛すべきすべての自ら（の姿）が円満に生じる。私は妙なる善・障りなき善を持つ。どうしてその時に、一切の円満を得ないことがあろうか？これが第三の練磨である。

釋曰：此中對治三種退屈心故，唯修三種練磨心。所以者何？以諸菩薩聞於無上正等菩提最勝甚深廣大難可證得，心便退屈。對治此故，修第一練磨心。又諸菩薩聞所修行波羅蜜多最勝甚深廣大難可證得，心便退屈。對治此故，修第二練磨心。由此意樂能行施等波羅蜜多者，此中意樂謂信及欲。菩薩於諸波羅蜜多，真實有性、具功德性、有堪能性深生信解，是名為信。深信解已樂欲修行，是名為欲。菩薩既得如是信欲，自性意樂少用功力，修習六種波羅蜜多當得圓滿。又諸菩薩於佛甚深廣大言教，思議決擇善巧轉時，如是思量：如是無上正等菩提難可證得，隔一念心方可證得。心便退屈。對治此故，修第三練磨心。我有妙善者，我有一切十種地中妙善積集福智資糧。無障礙善者，謂金剛喻定能破在骨麁重微細極難破障，此定無間得一切障離繫轉依。云何爾時不當獲得一切圓滿者，此中意說於障離繫，似彼命終時一切種智如彼體圓滿。又於此中三種練磨心者，謂諸菩薩善根無缺、善根力持，由此力故則能三種練磨其心，心無退屈。初當顯示第一練磨心，謂人趣中無量世界無量有情，剎那剎那能證無上正等菩提，云何我今獨不能證？次當顯示第二練磨心，謂諸菩薩作是思惟：我此意樂離諸障礙，波羅蜜多慳等障礙皆無有故，不由功用波羅蜜多當得圓滿，此圓滿故證佛菩提。後當顯示第三練磨心，有障善者，謂由世善而成其善。此有障善尚命終時即便可愛一切自體圓滿而生，況我今者由無障善而成其善，不當成佛無上菩提，無有是處。

> 解説：これは、三種類の退屈する心（退屈心）を対治するために、三種類の練磨する心（練磨心）を修することを示しています。なぜなら、諸々の菩薩は、無上正等菩提が最も優れ、深く、広大で、証得することが難しいと聞くと、心が退屈してしまうからです。これを対治するために、第一の練磨心を修します。また、諸々の菩薩は、修行すべき波羅蜜多が最も優れ、深く、広大で、証得することが難しいと聞くと、心が退屈してしまいます。これを対治するために、第二の練磨心を修します。「この意楽によって施などの波羅蜜多を行ずる」とは、ここでの意楽は信と欲を指します。菩薩は諸々の波羅蜜多について、真実の性があること、功徳の性を具えていること、能力があることに対して深く信解を生じます。これを信といいます。深く信解した後、喜んで修行を願うこと、これを欲といいます。菩薩がこのような信と欲を得れば、自性の意楽によってわずかな努力で、六種の波羅蜜多を修習し、円満に成就するでしょう。また、諸々の菩薩は、仏の深く広大な教えについて、思議し、決択し、善巧に転じる時に、このように思量します。「このような無上正等菩提は証得することが難しく、一念の心を隔てて初めて証得できる」と考え、心が退屈してしまいます。これを対治するために、第三の練磨心を修します。「我に妙善あり」とは、私には十種の地における妙に善く積集された福智の資糧があるということです。「無障礙の善」とは、金剛喩定が骨の中の粗重で微細で極めて破り難い障りを破ることができ、この定の無間によって一切の障りの離繫と転依を得ることをいいます。どうしてその時に一切の円満を得ないことがありましょうか。ここでいうのは、障りの離繫において、あたかも命終の時の一切種智がその体のごとく円満であることを意味します。また、ここで三種の練磨心とは、諸々の菩薩が善根を欠かず、善根の力に支えられていることをいいます。この力によって、三種に心を練磨し、心が退屈することがありません。最初に第一の練磨心を示します。それは、人趣において無量の世界、無量の有情が、刹那刹那に無上正等菩提を証得しているのに、どうして私だけが証得できないのか、というものです。次に第二の練磨心を示します。それは、諸々の菩薩がこのように思惟するのです。「私のこの意楽は諸々の障りを離れており、波羅蜜多の慳などの障りもすべて無いので、努力を要することなく波羅蜜多は円満し、この円満によって仏菩提を証得する」と。最後に第三の練磨心を示します。「障りある善」とは、世間の善によってその善を成すことをいいます。この障りある善でさえ、命終の時には直ちに愛すべき一切の自体が円満に生じるのです。ましてや私は、今や障り無き善によってその善を成しているのですから、仏の無上菩提を成就しないということは、決してあり得ません。

論曰：此中有頌：

> 論にはこうある。この中に、次のような偈（うた）がある。

人趣諸有情， 處數皆無量，念念證等覺， 故不應退屈。諸淨心意樂， 能修行施等，此勝者已得， 故能修施等。善者於死時， 得隨樂自滿，勝善由永斷， 圓滿云何無？

> 人々の世界に生きる生きとし生けるものは、 その数も境遇も計り知れない。 瞬きするたびに悟りを開くこともあるのだから、 どうして諦めて退いてよいものか。 清らかな心の喜びを持つ者は、 布施などの修行をよく行うことができる。 このすぐれた境地に達した者は、 すでに布施などの修行を実践しているのだ。 善き人は死の間際にも、 望み通りに自らの心を満たすことができる。 さらに優れた善は、煩悩を断ち切ることによって得られる。 完全な悟りがどうして得られないことがあろうか。

釋曰：復以伽他顯如是義。故不應退屈者，由上因緣策持其心令不怯弱，謂生是心：我不能證無上菩提。諸淨心者，是非不善無記心義。謂或有人以其散亂無記之心而行施等，如是外道以不善心而行施等。若求無上正等菩提，是最勝善，故名淨心。此勝者已得故能修施等者，最勝菩薩名為勝者，此之意樂菩薩已得，是故能修施等諸度。即是已得能斷慳等所治心義等者，取始從尸羅乃至般若波羅蜜多。善者於死時得隨樂自滿者，是乃至得非想非非想處義。勝善由永斷圓滿云何無者，是由永斷障而成勝善圓滿佛果，云何無義？

> 解説：そこで、偈（ガーター）によってこのような意味を明らかにしています。したがって、退屈してはなりません。なぜなら、上述のような理由によって心を奮い立たせ、弱気にならないようにするからです。すなわち、「私は無上菩提（悟り）を証得できない」という心を起こしてはならないということです。 「清らかな心」というのは、不善・無記の心ではないという意味です。ある人々は散乱した無記の心によって布施などを行い、また外道のように不善の心によって布施などを行うことがあります。しかし、無上の正等菩提（完全なる悟り）を求めるならば、それは最も優れた善であり、それを「清らかな心」と呼びます。 この「勝者（最も優れた者）」はすでにそれを得ているからこそ、布施などを修行できるのです。最も優れた菩薩を「勝者」と呼びます。この意楽（心の持ち方）を菩薩はすでに得ているので、布施などの諸度（波羅蜜）を修行できるのです。すなわち、すでに慳吝（けち）などの対治すべき心を断つことができるということです。 「等」という言葉は、戒律（尸羅）から智慧（般若波羅蜜）に至るまでのすべてを含みます。 「善き者は死ぬ時に思いのままに自ら満たされる」というのは、非想非非想処（無所有処）に至るまでの意味です。 「優れた善は永く断ち切ることによって完成される。どうして無いと言えようか？」というのは、障りを永く断ち切ることによって勝れた善が完成され、完全な仏果を得るのであって、どうして無意味でありましょうか？

論曰：由離聲聞獨覺作意，斷作意故。由於大乘諸疑離疑，以能永斷異慧疑故。由離所聞所思法中我我所執，斷法執故。由於現前現住安立一切相中無所作意無所分別，斷分別故。此中有頌：

> 論じて曰く、声聞・独覚の作意を離れ、作意を断ずるが故に。大乗の諸々の疑いを離れ、疑いを離れるが故に、永く異なる智慧の疑いを断ずるが故に。聞き、思うところの法における我・我所の執着を離れ、法の執着を断ずるが故に。現前し、現在し、安立せる一切の相において、作意せず、分別せざることにより、分別を断ずるが故に。ここに偈あり。

現前自然住， 安立一切相，智者不分別， 得最上菩提。

> 現前にして自然に住し、 一切の相を安立す。 智者は分別せず、 最上の菩提を得る。

釋曰：今當顯示斷除四處。斷作意故者，謂斷聲聞等諸作意故。以能永斷異慧疑故者，謂於大乘甚深廣大，能永斷除異慧及疑。此中異慧，謂鄙惡慧於理動搖。疑謂猶預。由於大乘諸疑離疑者，謂於大乘安立法相三自性教，謂若說諸法皆無自性、無生無滅、本來寂靜、自性涅槃，諸如是等永無異門。依遍計所執自性而說，若說諸法如幻、陽炎、夢相、光影、影像、谷響、水月、變化，諸如是等虛妄異門。依依他起自性而說，若說諸法真如、實際、無相、勝義、法界、空性。諸如是等真實異門，依圓成實自性而說，於此一切異慧及疑永無復轉。由離所聞所思法中我我所執者，此中意說斷除法執。斷法執故者，乃至所聞所思法中執我我所，終不於彼如實悟入。由於現前現住安立一切相中無所作意無所分別者，謂加行無分別智轉時，如理作意住一切定心，諸相作意分別皆斷。斷分別故者，謂於現前色等現住，及骨鎖等定所安立，一切所緣諸境界相皆不作意無所分別，由無分別方便能入，若異分別終不能入。現前自然住等頌，唯顯最後所斷義。

> 示します。ここで四つの断除すべきものを明らかにします。 「作意を断ずる」とは、声聞などの作意を断ち切ることです。 「異なる智慧や疑いを永く断ずる」とは、大乗の深遠で広大な教えにおいて、異なる智慧と疑いを永遠に断ち切ることです。ここで「異慧」とは、劣った悪しき智慧であり、真理に対して動揺するものを指します。「疑」とはためらいのことです。 大乗の教えにおいて様々な疑いから離れるとは、大乗が定める三つの自性（遍計所執性・依他起性・円成実性）の教えに基づいて、次のように説かれます。 「すべての法は自性がなく、生も滅もなく、本来寂静であり、自性涅槃である」といった様々な教えは、遍計所執性に基づいて説かれています。 「すべての法は幻、陽炎、夢、影、光の像、谷の響き、水中の月、変化のようである」といった様々な虚妄の教えは、依他起性に基づいて説かれています。 「すべての法は真如、実際、無相、勝義、法界、空性である」といった様々な真実の教えは、円成実性に基づいて説かれています。 これらのすべてにおいて、異なる智慧や疑いは永遠に生じることがありません。 「聞いたり考えたりした法における我と我所の執着から離れる」とは、法執を断つことを意味します。法執を断たなければ、聞いたり考えたりした法において我や我所を執着し、それらを真実として悟ることができません。 「現前し、現に住し、安立されたすべての相において、作意せず、分別しない」とは、加行無分別智が働くとき、如理作意がすべての定心に留まり、様々な相における作意や分別がすべて断たれることを意味します。 「分別を断ずる」とは、眼前の色など現に存在するものや、骨鎖観など定によって安立されたもの、すべての所縁の境界の相に対して、作意せず、分別しないことです。無分別という方便によって入ることができ、もし分別すれば決して入ることができません。 「現前自然に住する」などの偈は、最後に断たれるべき意味を示しています。

論曰：由何云何而得悟入？

> 論には次のように説かれている。何によって、どのようにして悟りに至ることができるのか。

釋曰：為顯由此如是悟入，故為此問。

> 解説します。このように悟りに至ることを明らかにするために、この問いが立てられました。

論曰：由聞熏習種類如理作意所攝似法似義有見意言。

> 論には述べられています。聞くことによる熏習（学びの種）が、道理にかなった心の働きによってまとめられ、法や義に似たもの、そしてそれを見る心の言葉として現れるのです。

釋曰：由此悟入，今當顯示。此中由聞熏習種類者，謂由聞熏習為因，即前所說悟入任持大乘熏習等所生故，應知是圓成實自性所攝。

> 解説しよう。この悟りへの道筋は、今から明らかにされる。 ここで「聞熏習の種類による」とは、聴聞による熏習（心に染み込む修行）を因として、先に述べた大乗の熏習を受け持つ悟りなどが生じることを意味する。これらは円成実自性（完全に成就した真実の性質）に含まれると知るべきである。

論曰：由四尋思，謂由名、義、自性、差別，假立尋思；及由四種如實遍智，謂由名、事、自性、差別，假立如實遍智，如是皆同不可得故。以諸菩薩如是如實為入唯識勤修加行，即於似文似義意言，推求文名唯是意言，推求依此文名之義亦唯意言，推求名義自性差別唯是假立。若時證得唯有意言，爾時證知若名若義自性差別皆是假立，自性差別義相無故同不可得。由四尋思及由四種如實遍智，於此似文似義意言，便能悟入唯有識性。

> 論じて曰く：四つの尋思によって、すなわち名・義・自性・差別という仮に立てられたものとしての尋思、および四つの如実遍智によって、すなわち名・事・自性・差別という仮に立てられたものとしての如実遍智によって、これらはすべて同様に得ることはできないのである。諸々の菩薩は、このように如実に唯識へと入るために、努め励んで加行を修し、まさに文字や意味に似た心の言葉において、文字や名前を尋ね求めて、それがただ心の言葉にすぎないとし、その文字や名前に基づく意味もまたただ心の言葉にすぎないとし、名前と意味の自性と差別もまた仮に立てられたものにすぎないと尋ね求める。もし心の言葉のみを証得する時がくれば、その時に、名前も意味も、その自性も差別もすべて仮に立てられたものであると知り、自性と差別の意味の相がないがゆえに、同様に得ることができないと知る。四つの尋思および四つの如実遍智によって、この文字や意味に似た心の言葉において、ただ識のみの本性であると悟ることができるのである。

釋曰：如是悟入，今當顯示。由四尋思者，謂由名、義、自性等文之所顯說。及由四種如實遍智者，謂由名、事、自性、差別假立等文之所顯說。如實遍知若名、若事、自性、差別，皆是假立，於中實義皆不可得，是故說言如是皆同不可得故。又先推求若名、若義、自性、差別唯是假立，後如實知如是真實皆不可得，於推求時名為尋思。若如實知不可得時，即名四種如實遍智。

> 解説：このように悟りに入る方法について、今から説明しよう。四つの尋思とは、「名前」「意味」「本質」などの言葉によって示されているものである。また、四つの如実遍智とは、「名前」「事物」「本質」「差異」という仮の設定などの言葉によって示されている。名前であれ事物であれ、本質であれ差異であれ、すべては仮の設定であり、その中に本当の意味は得られない。だからこそ「これらはすべて得られないという点で同じである」と言うのである。 また、まず名前や意味、本質や差異がただ仮の設定にすぎないと追究し、その後、このような真実はすべて得られないと如実に知る。追究している段階を「尋思」と呼ぶ。得られないと如実に知る段階に至れば、それを「四つの如実遍智」と呼ぶのである。

論曰：於此悟入唯識性中。何所悟入？如何悟入？入唯識性，相見二性及種種性，若名、若義、自性、差別假、自性差別義，如是六種義皆無故，所取能取性現前故，一時現似種種相義而生起故。如闇中繩顯現似蛇，譬如繩上蛇非真實，以無有故。若已了知彼義無者，蛇覺雖滅，繩覺猶在。若以微細品類分析，此又虛妄色香味觸為其相故，此覺為依繩覺當滅。如是於彼似文似義六相意言，伏除非實六相義時，唯識性覺猶如蛇覺亦當除遣，由圓成實自性覺故。

> 論じて曰く、ここに唯識性に悟入するにあたり、何を悟入し、いかに悟入するのか。唯識性に入るとは、相と見の二性、および種々の性、すなわち名・義・自性・差別・仮・自性差別義という、これら六種の義がすべて無いことによる。所取と能取の性が現前するからであり、一時に種々の相や義が現れ生じるからである。 暗闇の中の縄が蛇のように見えるのと同じで、例えば縄の上に蛇は実在せず、無いからである。もしその義が無いとすでに知れば、蛇の認識は消えても、縄の認識はなお残る。しかしさらに微細な種類に分析すれば、この縄もまた虚妄であり、色・香・味・触をその相とするから、この認識を依りどころとして、縄の認識も滅するであろう。 このように、文や義に似た六種の相の意言において、非実の六相の義を伏し除く時、唯識性の認識は、あたかも蛇の認識のように、やはり除き去られるべきである。円成実の自性の認識によるからである。

釋曰：今於此中問所悟入及悟入譬。唯識性者，唯有識性。相見二性者，顯示有相有見之識，顯現似因似所建立故名為相。種種性者，唯是一識顯現，似有種種相生，非速疾故別別而現。於此悟入唯識性中，如是三種為所悟入。一時現似種種相義而生起故者，謂似種種名句文相而生起故，及似種種依止此義而生起故。此中繩喻顯示悟入三種自性。伏除非實六相義時者，謂於遣滅六相義時，此中遣滅名為伏除。

> 今回、悟入すべきものとその譬えについて問う。唯識性とは、唯だ識のみの性である。相と見の二つの性とは、相と見とを有する識を示す。似因・似所建立として顕現するゆえに「相」と名づける。種々の性とは、ただ一つの識が顕現して、あたかも種々の相が生じるかのように見えるが、速やかではないため、別々に顕現するのである。この唯識性への悟入において、以上の三種が悟入すべきものとなる。 「一時に種々の相の義に似て生起するが故に」とは、種々の名・句・文の相に似て生起するがゆえであり、また種々のこの義に依止するものに似て生起するがゆえである。 ここで縄の譬えは、三種の自性への悟入を示す。 「非実の六相の義を伏除する時」とは、六相の義を遣り滅する時のことであり、この遣り滅することを「伏除」と名づける。

論曰：如是菩薩悟入意言似義相故悟入遍計所執性，悟入唯識故悟入依他起性。云何悟入圓成實性？若已滅除意言聞法熏習種類唯識之想，爾時菩薩已遣義想，一切似義無容得生，故似唯識亦不得生。由是因緣住一切義無分別名，於法界中便得現見相應而住，爾時菩薩平等平等所緣能緣無分別智已得生起，由此菩薩名已悟入圓成實性。

> 論じて曰く、かくの如き菩薩は、意言（こころの言葉）が似たような意味の相であると悟ることによって遍計所執性を悟り、唯識を悟ることによって依他起性を悟る。では、どうやって円成実性を悟るのか。もしすでに、意言による法の聞習の熏習という種類の唯識という考えを滅除したならば、その時、菩薩はすでに意味の想いを捨て去り、一切の似たような意味は生じようがなく、それゆえ似た唯識もまた生じ得ない。この因縁によって、一切の意味に分別しないという名に住し、法界において現に見て相応して住することを得る。その時、菩薩は平等平等なる所縁と能縁の無分別智をすでに生じ起こしている。これによってこの菩薩は、すでに円成実性を悟ったと名づけられる。

釋曰：悟入意言似義相故悟入遍計所執性者，謂知諸義唯是遍計分別所作。由是故言悟入遍計所執自性。悟入唯識故悟入依他起性者，舉其唯識即取意言，了知一切唯意言性，由此悟入依他起性。一切似義無容得生者，謂無如是品類實義可似其生。故似唯識亦不得生者，謂唯識相亦不得起。何以故？計有識時即有義故。從是已後現證真如，此現證位不可宣說，內自證故。爾時菩薩平等平等所緣能緣無分別智已得生起者，所緣謂真如，能緣謂真智，此二平等譬如虛空，即是不住所取能取二種性義。由不分別所取能取，是故說名無分別智。如是悟入圓成實性。

> 解説：心に浮かぶ言葉とその意味するもの（＝意言）が、あたかも実在するかのような姿として現れることを悟ることで、「遍計所執性」を悟るとは、あらゆる意味（義）が、ただ心による分別（とらえ方）によって作り出されたものであると知ることです。これによって「遍計所執性」を悟ると説かれます。また、「唯識」を悟ることで「依他起性」を悟るとは、その「唯識」という言葉によって「意言」を指し示し、一切のものがただ「意言」の働きに過ぎないと知ることです。これによって「依他起性」を悟ります。そして、〔その悟りにより〕あらゆる意味（義）に似せて現れるものは、決して生じることがなくなります。なぜなら、実際にそのような種類の実在する意味があって、それが似せて現れるということはありえないからです。同様に、ただ識のみが存在するという観念（唯識相）もまた生じなくなります。なぜなら、識というものを実在すると考えれば、そこには必ず対象（義）も同時に存在することになるからです。この境地に達した後、「真如（真理そのもの）」が直接に証知されます。この直接的な証知（現証）の境地は、言葉で説明できるものではありません。なぜなら、それは心の内側で直接的に自ら証するもの（内自証）だからです。その時、菩薩は、平等であり、さらに平等でもある〔主観と客観の区別のない〕状態で、認識の対象と認識する主体という区別を超えた「無分別智」を生じます。認識される対象（所縁）は真如であり、認識する主体（能縁）は真の智慧であり、この二つは、あたかも虚空のように平等です。これは、「取るべき対象（所取）」と「取る主体（能取）」という二つの性質に執着しない状態を意味します。対象と主体を区別しないことから、この智は「無分別智」と呼ばれます。このようにして、「円成実性」を悟るのです。

論曰：此中有頌：

> 論にはこうある。この中に、次のような偈（うた）がある。

法補特伽羅， 法義略廣性，不淨淨究竟， 名所行差別。

> 法と補特伽羅（人）、法の意味の簡略と詳細という性質、 不清浄・清浄・究竟（最終）、これらの名称による所行の違い。

釋曰：如前所說住一切義無分別名，何等為名？幾品類義？為答此問，以頌顯示名類差別。此中法名者，謂色受眼耳等。補特伽羅名者，謂佛及隨信行等。又法名者，謂契經等。義名者，謂依此法義。略名者，謂有情等。廣名者，謂彼一一各別能詮。姓名者，謂諸字本母。不淨名者，謂諸異生。淨名者，謂有學等。究竟名者，謂一切法總相所緣。是諸菩薩所緣名類略有十種：一法名，謂眼等。二補特伽羅名，謂我等。三法名，謂十二分教。四義名，謂此十二分教所詮諸義。五略名，謂一切法為無為等。六廣名，謂色受等及虛空等。七姓名，謂阿字為初，訶字為後。八不淨名，謂諸異生。九淨名，謂諸見諦。十究竟名，謂一切法總相所緣，即是二智所緣境界。謂出世智及後得智，以一切法真如實際為所緣故，以一切法種種相別為所緣故，如十地等。此中意取於一切義總相緣智所緣境界，如是品類是諸菩薩名所行別。

> 解説：先に述べたように、すべての意味を分別なく捉える「名」とは何か。どのような種類があるのか。この問いに答えるため、偈頌で名の種類と区別を示す。 ここで「法名」とは、色・受・眼・耳などを指す。「補特伽羅（ブドガラ）名」とは、仏陀や随信行などの人物を指す。 また、「法名」とは経典などの教えを指す。「義名」とは、その教えに基づく意味を指す。「略名」とは、例えば「有情」のような総称を指す。「広名」とは、それらを一つ一つ個別に表す名称を指す。「姓名」とは、文字や音声の基本となるものを指す。 「不浄名」とは、凡夫の呼び名を指す。「浄名」とは、修行者（有学など）の呼び名を指す。「究竟名」とは、すべての法の全体像を対象とすることを指す。 これらは菩薩が対象とする名の種類で、おおよそ十種ある。 第一は「法名」、例えば眼など。第二は「補特伽羅名」、例えば自己など。第三は「法名」、十二の区分に分かれた教え。第四は「義名」、この十二の教えが示す諸々の意味。第五は「略名」、すべての法における有為・無為などの総称。第六は「広名」、色・受など、あるいは虚空などの個別の名称。第七は「姓名」、阿の字を始めとし、訶の字を終わりとする文字。第八は「不浄名」、凡夫たち。第九は「浄名」、真理を見た者たち。第十は「究竟名」、すべての法の全体像を対象とするもので、これは二つの智慧が対象とする世界である。 すなわち、出世間の智慧と、その後に得られる智慧であり、一切の法における真如・実際を対象とするため、また一切の法の様々な相の区別を対象とするためであり、例えば十地などのようにである。ここでの趣旨は、すべての意味の全体像を捉える智慧が対象とする世界を取ることであり、このような種類が、菩薩が名前を巡って活動する領域の区別なのである。

論曰：如是菩薩悟入唯識性故，悟入所知相；悟入此故入極喜地，善達法界生如來家，得一切有情平等心性，得一切菩薩平等心性，得一切佛平等心性，此即名為菩薩見道。

> 論によれば、このように菩薩は唯識の本性を悟ることによって、認識すべき対象の相を悟るのである。これを悟ることによって、極めて喜ばしい境地である「極喜地」に入り、法界をよく理解して如来の家に生まれ、すべての有情に対する平等な心性を得、すべての菩薩に対する平等な心性を得、すべての仏に対する平等な心性を得る。これを菩薩の「見道」という。

釋曰：生如來家者，由此能令諸佛種性無斷絕故。得一切有情平等心性者，由作是思：如我自身欲般涅槃，一切有情亦如是故。得一切菩薩平等心性者，由得菩薩等意樂故。得一切佛平等心性者，由此位中得佛法身，證得此故得一切佛平等心性。又得一切有情平等心性者，謂證自他平等性故，如於自身欲盡眾苦，於他亦爾。得一切菩薩平等心性者，謂與一切菩薩意樂加行皆平等故。得一切佛平等心性者，見彼法界與己法界無差別故。

> 解説します。「如来の家に生まれる」とは、これによって諸仏の種性が断絶することがないからです。「一切の有情に対して平等な心性を得る」とは、次のように思うからです。「私自身が涅槃に入ろうと欲するように、一切の有情もまた同じである」と。「一切の菩薩に対して平等な心性を得る」とは、菩薩と等しい意楽を得たからです。「一切の仏に対して平等な心性を得る」とは、この位において法身を得るからであり、それを証得したからこそ、一切の仏と平等な心性を得るのです。 また「一切の有情に対して平等な心性を得る」とは、自他が平等である性質を証得したからであり、自分の身において苦しみを尽くそうと欲するように、他者に対しても同じであるからです。「一切の菩薩に対して平等な心性を得る」とは、一切の菩薩と意楽や加行がすべて平等であるからです。「一切の仏に対して平等な心性を得る」とは、彼の法界と自分の法界とに差別がないと見るからです。

論曰：復次為何義故入唯識性？由緣總法出世止觀智故，由此後得種種相識智故。為斷及相阿賴耶識諸相種子、為長能觸法身種子、為轉所依、為欲證得一切佛法、為欲證得一切智智，入唯識性。又後得智，於一切阿賴耶識所生一切了別相中，見如幻等性無倒轉。是故菩薩譬如幻師，於所幻事於諸相中及說因果，常無顛倒。

> 論じて曰く：さらに、なぜ「唯識性」（ただ識のみであるという真理）に入るのか。それは、総体としての真理を対象とする出世間の止観の智慧によるからであり、また、その後に得られる様々な相を識別する智慧によるからである。阿頼耶識における諸々の相の種子を断ち尽くし、さらに法身に触れる種子を長養し、所依（よりどころ）を転換し、一切の仏法を証得し、一切智智を証得するために、唯識性に入るのである。 また、後に得られる智慧は、阿頼耶識から生じる一切の了別の相の中にあって、それらを幻影などのように見て、その性質を誤りなく転ずる。それゆえ、菩薩はあたかも幻術師のように、幻化した事柄や諸々の相、また因果の説示についても、常に顛倒することがないのである。

釋曰：由緣總法出世止觀智故者，謂由止觀所顯智故。為斷及相阿賴耶識諸相種子者，此中及相是及因義，於阿賴耶識中諸雜染法種子，名阿賴耶識諸相種子。復舉相者，為欲顯示即彼種子是所緣相。如是說已，顯彼種子因果俱斷。若無分別智斷一切障證得佛法，此後得智復何所用？無分別智不能宣說諸因果法，無分別故。由是因緣須後得智，宣說所有諸因果法常無顛倒，譬如幻師於所幻事。於一切阿賴耶識所生者，謂阿賴耶識為因。一切了別相中者，謂識為因，見相分中由後得智見如幻等，及宣說時皆無顛倒。

> 解説：総法を縁とする出世間の止観の智慧とは、止観によって顕わされた智慧のことである。阿頼耶識の諸相の種子を断つための「及び相」とは、ここでは「及び」が因の意味であり、阿頼耶識の中にある様々な雑染の法の種子を、阿頼耶識の諸相の種子と呼ぶ。さらに「相」を挙げるのは、その種子が認識の対象となる相であることを示すためである。このように説いて、その種子の因果がともに断たれることを明らかにする。 無分別智がすべての障りを断ち切り、仏の教えを証得するならば、その後得智は何の役に立つのか。無分別智は因果の諸法を説き明かすことができない。なぜなら無分別だからである。このような理由により、後得智が必要とされるのであり、すべての因果の法を常に顛倒なく説くことができる。例えば幻師が幻の事物に対してそうであるように。 すべての阿頼耶識から生じるものとは、阿頼耶識を因とすることをいう。一切の了別の相の中とは、識を因として、見分と相分の中において、後得智によって幻などのように見ること、そして説くときにもすべて顛倒がないことをいう。

論曰：於此悟入唯識性時，有四種三摩地，是四種順決擇分依止。云何應知？應知由四尋思，於下品無義忍中，有明得三摩地，是煖順決擇分依止。於上品無義忍中，有明增三摩地，是頂順決擇分依止。復由四種如實遍智，已入唯識，於無義中已得決定，有入真義一分三摩地，是諦順忍依止。從此無間伏唯識想，有無間三摩地，是世第一法依止。應知如是諸三摩地，是現觀邊。

> 論じるには、唯識性に悟入するとき、四種の三昧があり、これらが四種の順決択分のよりどころとなる。どのように知るべきか？四種の尋思によって、下品の無義の忍において、明得三昧があり、これは煖の順決択分のよりどころである。上品の無義の忍において、明増三昧があり、これは頂の順決択分のよりどころである。さらに、四種の如実遍智によって、すでに唯識に入り、無義においてすでに決定を得て、真義の一分に入る三昧があり、これは諦順忍のよりどころである。ここから間断なく唯識の想を伏する、無間三昧があり、これは世第一法のよりどころである。これらの三昧は、現観の辺であると知るべきである。

釋曰：於一切處入真觀時，皆有四種順決擇分，故於此中亦應顯示。是順決擇分依止者，謂決擇分因所依止義。於下品無義忍中有明得三摩地者，謂於無義中起下品愛樂，以其明名顯下品無義智，三摩地名顯此無義智所依止定。於上品無義忍中者，謂於無義中起上品愛樂。有明增三摩地者，謂以明名顯上品無義智，三摩地名顯此無義智所依止定。諦順忍依止者，法無我理名諦，此忍順彼名諦順忍。此云何成？謂於外無中已決定者，於無能取亦深愛樂，應知於利順忍轉時。是現觀邊者，謂現觀時義。

> 解説する。あらゆる対象において真実の観察に入る時、必ず四種の「順決択分」が存在する。したがって、ここでもこれを示すべきである。この「順決択分」のよりどころとは、決択分の因としてよりどころとなる意味である。 下位の「無義忍」の中には「明得三摩地」がある。これは、「無義」に対して下位の好楽を生じさせるものである。「明」という言葉は下位の「無義智」を示し、「三摩地」という言葉はこの「無義智」のよりどころとなる定を示す。 上位の「無義忍」の中には「明増三摩地」がある。これは、「無義」に対して上位の好楽を生じさせるものである。「明」という言葉は上位の「無義智」を示し、「三摩地」という言葉はこの「無義智」のよりどころとなる定を示す。 「諦順忍」のよりどころとは、法無我の理を「諦」と呼び、この忍がそれに従うことから「諦順忍」という。これはどのように成り立つのか。すでに外的な無について決定している者が、内的な能取に対しても深く好楽するとき、これが「諦順忍」に転じていると知るべきである。 「現観辺」とは、現観の時という意味である。

論曰：如是菩薩已入於地、已得見道、已入唯識，於修道中云何修行？於如所說安立十地，攝一切經皆現前中，由緣總法出世後得止觀智故，經於無量百千俱胝那庾多劫數修習故，而得轉依。為欲證得三種佛身，精勤修行。

> 論にはこう説かれています。 このように菩薩は、すでに菩薩の階位に入り、真理を見る道を成就し、唯識の境地に達しました。では、修行の道において、どのように修行を進めるのでしょうか。 先に説かれた十の菩薩の階位（十地）に基づき、すべての経典の教えを目の当たりにしつつ、全体としての真理を対象とする、世間を超えた智慧とその後の智慧による、止と観の力を用います。そして、無数の長い時間をかけて修行を重ねることにより、より深い境地への転換（転依）を達成します。 それも、三種の仏の身（三身）を悟り得るために、努力を惜しまず修行に励むのです。

釋曰：於如所說安立十地者，謂於隨說安立菩薩十種地中。由緣總法者，謂緣總相，非分別緣。言出世者，無分別智。後得即是能成立智，此不應說唯是世間，由於世間未積習故；亦不應說唯出世間，由隨世間而現前故，由是因緣不可定說。而得轉依者、由緣總智故得轉依。為欲證得三種佛身精勤修行者、謂我當證三種佛身故勤修行。

> 釈には、先に説かれたように菩薩の十地が安立されているとは、その説かれたところに従って菩薩の十種の位が立てられていることをいう。 「総法に縁ずる」とは、総相に縁ずることであって、分別によって縁ずるのではない。 「出世間」とは、無分別智のことである。 後得智は、能く成立する智であるが、これを単に世間の智とも言えない。なぜなら、世間において未だ修習が積まれていないからである。また、単に出世間の智とも言えない。なぜなら、世間に随って現前するからである。これらの理由によって、明確に定めて説くことはできない。 「転依を得る」とは、総相に縁ずる智によって転依を得ることをいう。 「三種の仏身を証得せんがために精勤修行す」とは、「私は三種の仏身を証得せん」と願って修行に励むことをいう。

論曰：聲聞現觀、菩薩現觀有何差別？謂菩薩現觀與聲聞異，由十一種差別應知。一由所緣差別，以大乘法為所緣故。二由資持差別，以大福智二種資糧為資持故。三由通達差別，以能通達補特伽羅法無我故。四由涅槃差別，攝受無住大涅槃故。五由地差別，依於十地而出離故。六七由清淨差別，斷煩惱習淨佛土故。八由於自他得平等心差別，成熟有情加行無休息故。九由生差別，生如來家故。十由受生差別，常於諸佛大集會中攝受生故。十一由果差別，十力、無畏、不共佛法無量功德果成滿故。

> 論じて曰く、声聞の現観と菩薩の現観には、どのような違いがあるのか。菩薩の現観は声聞のそれとは異なり、以下の十一種の差別によって知られるべきである。 第一に、所縁の差別。菩薩は大乗法を所縁とするからである。 第二に、資持の差別。菩薩は大きな福徳と智慧という二種の資糧によって支えられているからである。 第三に、通達の差別。菩薩は人我と法我の二つの無我を共に通達することができるからである。 第四に、涅槃の差別。菩薩は住する所なき大涅槃を受け入れるからである。 第五に、地の差別。菩薩は十地に依って生死を出離するからである。 第六と第七は、清浄の差別。菩薩は煩悩の習気を断じ、仏土を清浄にするからである。 第八に、自他に対する平等心の差別。菩薩は成熟すべき有情のための修行を休みなく行うからである。 第九に、生の差別。菩薩は如来の家に生まれるからである。 第十に、受生の差別。菩薩は常に諸仏の大集会の中で生を受け入れるからである。 第十一に、果の差別。菩薩は十力、無畏、不共の仏法という無量の功徳の果を円満に成就するからである。

釋曰：由涅槃差別者，以菩薩現觀攝受無住大般涅槃，聲聞不爾。由清淨差別者，以菩薩現觀永斷煩惱及諸習氣，能淨佛土，聲聞不爾。

> 涅槃の違いについて説明すると、菩薩の現観は無住大般涅槃を摂受するが、声聞はそうではない。清浄の違いについて説明すると、菩薩の現観は煩悩とその習気を永遠に断ち切り、仏土を清浄にすることができるが、声聞はそうではない。

論曰：此中有二頌：

> 論には、ここに二つの偈がある。

名事互為客， 其性應尋思，於二亦當推， 唯量及唯假。實智觀無義， 唯有分別三，彼無故此無， 是即入三性。

> 名前と事物は互いに他に依存し合っており（客）、 その本質はよく観察すべきである。 また、この二者についても、 唯だ量（心の働き）と唯だ仮の存在であると考えるべきである。 真実の智慧で観ると、実体のないことを知り、 ただ三つの分別のみがある。 それ（実体の対象）がなければ、これ（分別）もまたなくなる。 これが三性（遍計所執性・依他起性・円成実性）に入る道である。

釋曰：將入真觀，故說二頌。名事互為客其性應尋思者，謂名於事為客，事於名為客，非稱彼體故。由定而觀，故名尋思。於二亦當推唯量及唯假者，應當推尋義之自性差別並無，唯有識量，唯有自性差別假立。言實智者，應知即是如實遍智，謂由四種尋思為因，發生四種如實遍智。所言觀無義唯有分別三者，謂觀於義本無所有，唯有三種虛妄分別，謂名分別、自性分別、差別分別。彼無故此無者，謂義無故分別亦無。何以故？若有所分別義，可有能緣分別；由義無所有故，當知分別亦無。是即入三性者，謂於此中悟入三性，觀見名事互為客故，即是悟入遍計所執性。觀見二種本無有義，唯有分別量，唯有名自性差別假立故，即是悟入依他起性。亦不觀見此分別故，即是悟入圓成實性。如是名為悟入三性。

> 解説：真実の観照に入るために、この二頌が説かれています。 「名と事は互いに客であり、その性は尋思すべきである」とは、名は事に対して客であり、事も名に対して客であることを意味します。つまり、互いにその本質を正しく表していないからです。禅定によって観察するので、これを「尋思」と呼びます。 「また二つについて、唯だ量と唯だ仮を推すべきである」とは、義の自性と差別には実体がなく、唯だ識の量だけがあり、唯だ自性と差別の仮の立て方だけがあることを、推し尋ねるべきだということです。 「実智」とは、如実遍智を指します。四種の尋思を因として、四種の如実遍智が生じるのです。 「義無くして、唯だ分別の三つのみ有りと観ず」とは、義には本来何も実体がなく、唯だ三種の虚妄分別だけがあると観察することを意味します。その三種とは、名分別、自性分別、差別分別です。 「彼無ければ故に此無し」とは、義が無いから分別も無いということです。なぜなら、もし分別される義があれば、能縁の分別も存在し得ますが、義が全く無い以上、分別もまた無いと知るべきだからです。 これが三性に入ることです。すなわち、ここにおいて三性を悟入します。名と事が互いに客であると観見するのは、遍計所執性を悟入することです。二つのものには本来義が無く、唯だ分別の量のみであり、唯だ名・自性・差別の仮の立て方だけであると観見するのは、依他起性を悟入することです。そして、その分別をも観見しないのが、円成実性を悟入することです。以上が三性を悟入するという意味です。

論曰：復有教授二頌，如《分別瑜伽論》說：

> 論曰：また、教えとしての二つの頌がある。それは『分別瑜伽論』に説かれている通りである。

菩薩於定位， 觀影唯是心，義想既滅除， 審觀唯自想。如是住內心， 知所取非有，次能取亦無， 後觸無所得。

> 菩薩の境地に安住するときは、〔外界の〕影はただ心にすぎないと観ずる。 対象についての思いが既に滅び去ったならば、ただ自己の想念のみであると深く観ずる。 このようにして心の内に安住すれば、捉えられるもの（客観）が存在しないと知る。 次に、捉えるもの（主観）もまた存在しないと知り、ついには、得るもののない境地に触れる。

釋曰：為入真觀授以正教，於此義中說其二頌。菩薩依定位觀影唯是心者，謂觀似法似義影像，唯是其心。誰能觀？謂菩薩。在何位？於定位。義想既滅除審觀唯自想者，謂此位中義想既遣，審觀似法似義之想唯是自心。如是住內心者，如攝自心住於無義，即是令心住於內心。知所取非有者，謂了所取義無所有。次能取亦無者，由所取義既是非有，故能取心能取之性亦不得成。後觸無所得者，謂從此後觸證真如，由此真如無所得故，名無所得。

> 釈して曰く、真観に入るために正しい教えを授ける。この義において、その二つの頌を説く。菩薩は定位に依って、影は唯だ心なりと観ずるとは、いわゆる法や義に似た影像を観じて、それらは唯だその心に過ぎないとする。誰が観ずるのか。すなわち菩薩である。いずれの位にいるのか。定位にある。義想すでに滅し、審らかに唯だ自想なりと観ずるとは、この位において義想をすでに遣り、法や義に似た想いも唯だ自心に過ぎないと審らかに観ずることである。 このように内心に住するとは、自心を無義に摂めて住するように、すなわち心を内心に住せしめることである。 所取は非有なりと知るとは、取るべき義が無所有であると了知することである。 次に能取も亦た無しとは、取るべき義がすでに無であるがゆえに、取る心の能取の性も亦た成り立たないことである。 後に無所得に触れるとは、これより後に無所得なる真如に触れて証することであり、この真如は無所得であるがゆえに、無所得と名づける。

論曰：復有別五現觀伽他，如《大乘經莊嚴論》說：

> 論にはこう述べられている。さらに別の五つの現観に関する詩句がある。それは『大乗経荘厳論』に説かれているとおりである。

福德智慧二資糧， 菩薩善備無邊際，於法思量善決已， 故了義趣唯言類。若知諸義唯是言， 即住似彼唯心理，便能現證真法界， 是故二相悉蠲除。體知離心無別物， 由此即會心非有，智者了達二皆無， 等住二無真法界。慧者無分別智力， 周遍平等常順行，滅依榛梗過失聚， 如大良藥消眾毒。佛說妙法善成立， 安慧并根法界中，了知念趣唯分別， 勇猛疾歸德海岸。

> 功徳と智慧という二つの糧を、 菩薩は限りなく完全に備えています。 法をよく考え抜き、善く判断したので、 「意味」の趣旨は言葉の範疇にすぎないと悟りました。 もし諸々の意味が言葉にすぎないと知れば、 その似たものとしての心だけが存在する境地に住し、 真実の法界を現に証することができるのです。 それゆえに、対象と認識という二つの相はすべて除かれます。 心から離れて別に物はないと体得すれば、 これによって心も存在しないと悟ります。 智者は二つとも無いと了達し、 二つの無に等しく住する真実の法界に入ります。 慧ある者は分別のない智慧の力によって、 あまねく平等に、常に順じて行じます。 依りどころや障害や過失の集まりを滅ぼし、 あたかも優れた良薬がすべての毒を消すかのようです。 仏が説かれた妙法は善く成立しており、 安慧（安定した智慧）と根を法界の中にそなえています。 念や趣きはただ分別にすぎないと了知し、 勇猛に速やかに功徳の岸に帰着します。

釋曰：復有現觀伽他，如經《莊嚴論》說。其中難解於此顯示。福德智慧二資糧菩薩善備無邊際者，資糧有二種：一福德資糧、二智慧資糧。謂施等三波羅蜜多是福德資糧，第六般若波羅蜜多是智慧資糧，精進波羅蜜多二資糧攝。何以故？若為智慧而行精進是智慧資糧，若為福德而行精進是福德資糧。如是靜慮波羅蜜多亦通二種，若緣無量而修靜慮是福德資糧，餘是智慧資糧。如是資糧是誰所有？謂諸菩薩。長遠難度名無邊際，如無邊語非無有邊，但以多故得無邊稱，此亦如是。於法思量善決已者，要由定後思惟諸法方善決定，非餘所能。故了義趣唯言類者，謂了知諸義唯意言為因。若知諸義唯是言即住似彼唯心理者，謂若了知似義顯現唯是意言，即住似義唯心正理，便能現證真法界。是故二相悉蠲除者，謂從此後現證真如，永離所取能取二相，如入現證次當顯示。體知離心無別物由此即會心非有者，體知離心無所緣義，彼無有故，即會能緣心亦非有。智者了達二皆無者，謂諸菩薩了達此二悉皆是無。等住二無真法界者，謂平等住離義離心真實法界。慧者無分別智力者，謂諸菩薩無分別智所有勢力。周遍平等常順行者，於平等中隨順而行，觀契經等一切諸法猶如虛空性平等故。內外諸法皆如是觀，故名周遍。常者，時恒。滅依榛梗過失聚如大良藥消眾毒者，滅謂除滅，依謂所依，即所依中雜染法因極難了故。如溪谷林榛梗難入。過失聚者，是雜染法熏習自性。佛說妙法善成立安慧并根法界中者，謂由佛教善安其慧置真如中，及能緣彼根本心中。根本心者，謂緣如來所有正教總為一相，應知即是無分別心。了知念趣唯分別者，謂彼安住根本心已為說正教，由後得智念諸義趣，知此念趣唯是分別。勇猛疾歸德海岸者，謂諸菩薩由無分別智及後得智巧方便故，速趣佛果功德海岸。如是五頌總略義者，謂第一頌顯資糧道，第二初半顯加行道，後半第三顯於見道，第四一頌顯於修道，第五一頌顯究竟道。

> 解説にはこう述べられている。 次に、さとりの境地（現観）に関する偈頌がある。それは『荘厳経論』に説かれている通りである。その中で理解しにくい点を、ここで明らかにする。 「福徳と智慧の二つの資糧を、菩薩は限りなく完全に備える」とは、資糧には二種類ある。第一に福徳資糧、第二に智慧資糧である。布施・持戒・忍辱の三つの波羅蜜多は福徳資糧であり、第六の般若波羅蜜多は智慧資糧である。精進波羅蜜多はこの二つの資糧に含まれる。なぜか。智慧のために精進するならば智慧資糧となり、福徳のために精進するならば福徳資糧となるからである。同様に、禅定波羅蜜多も二種に通じる。無量の衆生を対象として修行する禅定は福徳資糧であり、それ以外は智慧資糧である。 このような資糧は、誰のものであるか。それは菩薩たちのものである。長く遠大で超え難いことを「無辺際」と言う。「無辺」という言葉も、全く限りがないというわけではなく、ただ量が多いゆえに「無辺」と称されるのであり、ここでも同様である。 「法についてよく思惟し、善く決定した者」とは、禅定の後に諸法を思惟して初めて善く決定するのであり、他の方法ではできない。よって「了義趣唯言類」とは、あらゆる対象（義）はただ言葉（意言）を原因として生じることを了知することを意味する。 「諸義唯是言と知れば、即ち似彼唯心の理に住する」とは、対象（義）のように現れるものがただ言葉（意言）にすぎないと了知すれば、対象のように思われるものは心のみであるという正しい理法に住し、そのまま真実の法界を現にさとることができる。ゆえに「二相悉く蠲除す」とは、その後、真如を現にさとり、主観と客観の二つの相を永遠に離れることをいう。これは現観に入る順序に従って、後に詳しく示される。 「体知す、心を離れて別の物無きを、此によって即ち心の非有に会す」とは、心を離れて認識対象となるものがないと知る。その認識対象がないゆえに、認識する心もまた存在しないと悟るのである。 「智者は二つともに無きを了達す」とは、菩薩たちがこの両者が全く無いことを了達することをいう。 「等しく二無の真法界に住する」とは、対象（義）もなく心もない真実の法界に平等に安住することをいう。 「慧者は無分別智力ある」とは、菩薩たちが無分別智のすべての力を持つことをいう。 「周遍平等に常に順行す」とは、平等に従って行じ、経典などの一切の諸法を、虚空のように本性が平等であると観ずることをいう。内外のすべての法をこのように観ずるから「周遍」といい、「常」とは常に絶え間ないことをいう。 「滅依榛梗過失聚、大良薬の如く諸毒を消す」とは、「滅」は除滅、「依」は所依、すなわち心の基体の中にある雑染の法の因が極めてわかりにくいことを、渓谷や林のやぶが入りにくいことにたとえている。「過失聚」とは、雑染の法の熏習（潜在的な影響力）の自性をいう。 「仏の説きたもう妙法、善く成立して安慧を根とし、法界の中に」とは、仏の教えによって智慧を真如の中に善く安立し、またそれを認識する根本心の中に置くことをいう。「根本心」とは、如来のすべての正しい教えを一つの相として捉える心であり、それが無分別心であると知るべきである。 「了知す、念の趣は唯分別なるを」とは、根本心に安住した後、正しい教えのために、後得智によって様々な対象（義趣）を憶念し、この憶念の対象はただ分別にすぎないと知ることをいう。 「勇猛にして疾く徳の海岸に帰す」とは、菩薩たちが無分別智と後得智の巧みな方便によって、速やかに仏果という功徳の海岸に至ることをいう。 以上の五つの偈頌の全体的な意味は、次の通りである。第一偈は資糧道を示す。第二偈の前半は加行道を示し、後半と第三偈は見道を示す。第四偈は修道を示す。第五偈は究竟道（完成の道）を示す。

## 攝大乘論釋卷第六

> 『摂大乗論釈』 巻第六