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title: "攝大乘論釋 · 5 彼入因果分"
description: "攝大乘論釋是古印度世親菩薩對無著菩薩所造攝大乘論的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論以唯識思想為核心系統闡釋阿毘達磨大乘經中攝大乘品深入論述阿賴耶識緣起三性三無性等教義建立完整的唯識學體系是印度瑜伽行派重要論書為研究唯識學根本典籍對漢傳佛教思想影響深遠被譽為大乘佛教義理之瑰寶"
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## 攝大乘論釋卷第七

> 『摂大乗論釈』巻第七

世親菩薩造

> 世親菩薩による

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 彼入因果分第五

> 第5章 修行の因と果

論曰。如是已說入所知相，彼入因果云何可見？謂由施、戒、忍、精進、靜慮、般若六種波羅蜜多。云何由六波羅蜜多得入唯識？復云何六波羅蜜多成彼入果？謂此菩薩不著財位、不犯尸羅、於苦無動、於修無懈，於如是等散動因中不現行時心專一境，便能如理簡擇諸法，得入唯識。菩薩依六波羅蜜多入唯識已，證得六種清淨增上意樂所攝波羅蜜多。是故於此，設離六種波羅蜜多現起加行，由於聖教得勝解故，及由愛重隨喜欣樂諸作意故，恒常無間相應方便，修習六種波羅蜜多速得圓滿。

> 論じて述べよう。以上のようによく入所知相について説いたが、その入因果とはどのように見られるべきか。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若という六種の波羅蜜多によるのである。どのように六種の波羅蜜多によって唯識に入るのか。また、どのように六種の波羅蜜多がその入る果となるのか。この菩薩は財や地位に執着せず、戒律を犯さず、苦しみに動じず、修行に怠らず、このような散乱の原因が現れないときには心を一つの境に集中させ、そのまま道理に従って諸法を選別し、唯識に入るのである。菩薩は六種の波羅蜜多によって唯識に入った後、六種の清らかで高貴な意楽に含まれる波羅蜜多を証得する。それゆえ、ここでは仮に六種の波羅蜜多の顕在的な修行を離れても、聖教に対する確かな理解、そして愛重・随喜・欣楽という作意によって、常に絶え間なく相応する方便で六種の波羅蜜多を修習し、速やかに円満させることができるのである。

釋曰：若於爾時得入唯識，即於是時證得清淨增上意樂波羅蜜多。現起加行者，謂波羅蜜多現行加行。由於聖教得勝解者，謂即於此波羅蜜多相應聖教，雖極甚深而能信解。愛重作意者，謂即於彼見勝功德深生愛味。欣樂作意者，謂如已到最勝彼岸諸佛所得清淨意樂，願我及彼一切有情亦當證得。

> 解説：もしその時に唯識に入ることができれば、その時に清らかな増上意楽波羅蜜多を証得するのです。 現に起きる加行とは、波羅蜜多の実践のための加行のことです。 聖教において勝解を得るとは、すなわちこの波羅蜜多に相応する聖教について、非常に深遠であっても信解できることをいいます。 愛重の作意とは、すなわちそれに勝れた功徳を見て深く愛着し大切に思うことです。 欣楽の作意とは、すでに最勝の彼岸に到達した諸仏が得た清らかな意楽のように、私もまたあらゆる有情とともに必ず証得しようと願うことです。

論曰：此中有三頌：

> 論にはこう述べられている。ここに三つの偈がある。

已圓滿白法， 及得利疾忍，菩薩於自乘， 甚深廣大教，等覺唯分別， 得無分別智，希求勝解淨， 故意樂清淨。前及此法流， 皆得見諸佛，了知菩提近， 以無難得故。

> すでに善き教えを円満にし、 また速やかな忍辱を得た菩薩は、 自らの乗り物についての、 深く広大な教えの中で、 すべての認識はただ分別に過ぎないと覚り、 分別を超えた智慧を得る。 すぐれた理解の清らかさを求め、 意志の喜びも清らかとなる。 この教えの流れの前と最中に、 すべての仏を見ることができ、 悟りが近いと知る、 それは決して難しいことではないからである。

由此三頌，總顯清淨增上意樂有七種相：謂資糧故、堪忍故、所緣故、作意故、自體故、瑞相故、勝利故。如其次第，諸句伽他應知顯示。

> この三つの偈によって、清らかで高潔な意志には七つの特徴があることが示されています。すなわち、準備（資糧）、忍耐（堪忍）、対象（所縁）、心の働き（作意）、本質（自体）、吉兆（瑞相）、そして功徳（勝利）です。それぞれの句が、順を追ってこれらの特徴を明らかにしているのです。

釋曰：如是清淨增上意樂有何等相，而能攝彼波羅蜜多？為答此問，次說三頌顯示其相。已圓滿白法者，謂先於彼勝解行地善備資糧故，於此中白法圓滿。及得利疾忍者，忍有三品，謂軟、中、上，此中最上名利疾忍。由是所緣而得清淨，次當顯示。菩薩於自乘甚深廣大教者，謂於大乘名於自乘，此中宣說無量甚深廣大事故。法無我性名甚深事，虛空藏等諸三摩地名廣大事。由是作意而得清淨，次當顯示。等覺唯分別得無分別智者，謂若覺知一切諸法唯有分別，即能獲得無分別智。意樂自體，次當顯示。希求勝解淨故意樂清淨者，欲及勝解俱清淨故意樂清淨。應知此中欲名希求，信名勝解。意樂瑞相，次當顯示。前及此法流皆得見諸佛者，前謂意樂清淨位前，此謂意樂清淨位中，皆得見佛是其瑞相。言法流，謂定位中。意樂勝利，次當顯示。了知菩提近以無難得故者，謂此位中見菩提近得，彼能得勝方便故，得不為難。此三頌中顯示清淨增上意樂，有如是資糧、如是堪忍、如是所緣、如是作意、如是自體、如是瑞相、如是勝利。由此三頌，成立清淨增上意樂所有體相。

> 釈にはこうある。このような清らかな増上意楽には、どのような特徴があって、六波羅蜜をその内に収められるのか。この問いに答えるために、次に三つの偈頌でその特徴を示している。 「すでに白法を円満させた」とは、まず勝解行の地において、よく資糧を備えていることにより、ここで白法が円満したことをいう。 「そして利疾忍を得た」とは、忍には三品がある。すなわち軟・中・上である。このうち最上のものを利疾忍という。 これによって所縁が清らかになることが、次に示される。 「菩薩は自乘の甚深で広大な教えについて」とは、大乗を自乘という。ここでは無量の甚深広大な事が説かれている。 法無我性を「甚深なる事」と名づけ、虚空蔵三昧などの諸三摩地を「広大なる事」と名づける。 これによって作意が清らかになることが、次に示される。 「等しく覚るとは、ただ分別のみであり、無分別智を得る」とは、もし一切の諸法がただ分別のみであると覚知すれば、すなわち無分別智を得ることができることをいう。 意楽の自体について、次に示される。 「希求と勝解が清らかで意楽が清らかである」とは、欲と勝解がともに清らかであることにより、意楽が清らかであることをいう。ここで、欲を希求と名づけ、信を勝解と名づけることを知るべきである。 意楽の瑞相について、次に示される。 「前およびこの法流において、ともに諸仏を見る」とは、「前」とは意楽清らかの位の前をいい、「この」とは意楽清らかの位の中をいう。いずれも仏を見ることができる。これが瑞相である。法流とは、定中の位をいう。 意楽の勝利について、次に示される。 「菩提が近いと了知し、得るのが難しくないからである」とは、この位において菩提が近くにあると見て、それを得るためのすぐれた方便があるから、得るのが難しくないことをいう。 この三つの偈頌では、清らかな増上意楽に、このような資糧があり、このような堪忍があり、このような所縁があり、このような作意があり、このような自体があり、このような瑞相があり、このような勝利があることを示している。この三つの偈頌によって、清らかな増上意楽のすべての体と相が成立するのである。

論曰：何因緣故波羅蜜多唯有六數？成立對治所治障故、證諸佛法所依處故、隨順成熟諸有情故、為欲對治不發趣因故，立施戒波羅蜜多。不發趣因，謂著財位及著室家。為欲對治雖已發趣復退還因故，立忍進波羅蜜多。退還因者，謂處生死有情違犯所生眾苦，及於長時善品加行所生疲怠。為欲對治雖已發趣不復退還而失壞因故，立定慧波羅蜜多。失壞因者，謂諸散動及邪惡慧。如是成立對治所治障故，唯立六數。又前四波羅蜜多是不散動因，次一波羅蜜多不散動成就，此不散動為依止故，如實等覺諸法真義，便能證得一切佛法。如是證諸佛法所依處故，唯立六數。由施波羅蜜多故，於諸有情能正攝受。由戒波羅蜜多故，於諸有情能不毀害。由忍波羅蜜多故，雖遭毀害而能忍受。由精進波羅蜜多故，能助經營彼所應作。即由如是攝利因緣，令諸有情於成熟事有所堪任。從此已後，心未定者令其得定、心已定者令得解脫，於開悟時彼得成熟。如是隨順成熟一切有情，唯立六數，應如是知。

> 論じられています。 なぜ波羅蜜多（完成された実践）は六つだけなのでしょうか。それは、対治すべき障りを断つため、諸仏の教えを証得するための拠り所とするため、そして一切の有情を成熟させるために他なりません。 まず、修行に発心しない原因を断つために、布施と持戒の波羅蜜多が立てられました。発心しない原因とは、財産や地位に執着し、家庭や妻子に安住してしまうことです。 次に、一度発心しても退転してしまう原因を断つために、忍辱と精進の波羅蜜多が立てられました。退転の原因とは、生死の迷いの中にいる有情たちから受ける違背や苦しみ、そして長い修行に対する疲れや怠りです。 さらに、発心し退転せずとも、悟りを損なってしまう原因を断つために、禅定と智慧の波羅蜜多が立てられました。損なう原因とは、心の散乱と邪な智慧のことです。 このように、対治すべき障りを断つという理由から、波羅蜜多は六つと定められています。 また、最初の四つの波羅蜜多（布施・持戒・忍辱・精進）は心を散乱させないための因であり、次の禅定波羅蜜多はその散乱しない状態を成就させます。この散乱しない心を拠り所として、諸法の真実の意味をあるがままに覚り、一切の仏法を証得することができるのです。こうして、諸仏の教えを証得するための拠り所として、六つと定められています。 さらに、布施波羅蜜多によって有情を正しく摂受し、持戒波羅蜜多によって有情を害さず、忍辱波羅蜜多によって害を受けても耐え忍び、精進波羅蜜多によって有情の為すべきことを助け行います。これらの摂受と利益の因縁によって、有情たちは成熟へと向かう力を得ます。その後、心の定まっていない者には心を定めさせ、心の定まった者には解脱を得させ、目覚めた時には彼らは成熟を遂げます。このようにして一切の有情を成熟させるため、波羅蜜多は六つと定められている、と知るべきです。

釋曰：成立對治所治障中，失壞因謂邪惡慧者，顛倒執取名邪惡慧，如諸外道，由邪惡慧而失壞故。餘義可知。證諸佛法所依處者，謂證一切佛法因故。由此第二成立因緣，波羅蜜多其數唯六不增不減。此不散動為依止故如實等覺諸法真義者，依止靜慮波羅蜜多，能起般若波羅蜜多如實等覺諸法真義。餘義可知。第三成立數因緣中，隨順成熟諸有情者，謂為隨順成熟一切有情類故，唯立六數不增不減。其心未定令得定者，謂得靜慮波羅蜜多心。已得定令解脫者，謂得般若波羅蜜多。於開悟時彼得成熟者，謂教授時令彼成熟。

> 釈して言う。対治すべき所治の障りを成立させる中で、「失壊因」とは、邪悪な慧のことである。顕倒して執着することを邪悪な慧といい、例えば外道たちのように、邪悪な慧によって失壊するからである。その他の意味は知るべきである。 「諸仏の法を証する所依の処」とは、一切の仏法を証する因であることを意味する。この第二の成立因縁によって、波羅蜜多の数はただ六つであり、増えも減りもしない。 「この散動せざるを依止として、如実に諸法の真義を等覚す」とは、静慮波羅蜜多に依止することで、般若波羅蜜多を起こし、如実に諸法の真義を等覚することをいう。その他の意味は知るべきである。 第三の数を成立させる因縁の中で、「随順して諸の有情を成熟す」とは、すべての有情の類を随順して成熟させるために、ただ六つの数を立てて、増えも減りもしないことをいう。 「その心未だ定まらざるをして、定を得せしむ」とは、静慮波羅蜜多の心を得ることである。「已に定を得たるをして解脫せしむ」とは、般若波羅蜜多を得ることである。「開悟の時に、彼の成熟するを得」とは、教授の時に彼をして成熟せしめることである。

論曰：此六種相云何可見？由六種最勝故。一由所依最勝，謂菩提心為所依故；二由事最勝，謂具足現行故；三由處最勝，謂一切有情利益安樂事為依處故；四由方便善巧最勝，謂無分別智所攝受故；五由迴向最勝，謂迴向無上正等菩提故；六由清淨最勝，謂煩惱所知二障無障所集起故。若施是波羅蜜多耶？設波羅蜜多是施耶？有施非波羅蜜多，應作四句。如於其施，如是於餘波羅蜜多亦作四句，如應當知。

> 論じて言う。この六つの相は、どのようにして見ることができるのか。六つの最も優れた点によるからである。第一に、よりどころが最も優れていること。それは菩提心をよりどころとするからである。第二に、行いが最も優れていること。それは完全に実践するからである。第三に、対象が最も優れていること。それはすべての生きとし生けるものの利益と安楽をよりどころとするからである。第四に、方便が最も優れていること。それは無分別智に支えられているからである。第五に、回向が最も優れていること。それは無上の正等菩提に向けて回向するからである。第六に、清浄が最も優れていること。それは煩悩障と所知障の二つの障りなくして生じるからである。 では、布施はそのまま波羅蜜多（完全な修行）であると言えるだろうか。また、波羅蜜多はそのまま布施であると言えるだろうか。布施ではあっても波羅蜜多ではない場合がある。このことについては、四句で説明すべきである。布施についてそうであるように、他の波羅蜜多についても四句で説明される。その通りに知るべきである。

釋曰：以何等相，施等得名波羅蜜多？由諸世間及聲聞等亦有施等，是故決定應說其相。謂六最勝為施等相。所依最勝者，謂菩提心為所依止。事最勝者，謂無有一於內外事具足現行，唯有菩薩能具現行。處最勝者，謂以一切有情利益安樂為處。方便善巧最勝者，謂三輪清淨是此中所取方便善巧，由無施物施者受者三分別故。如是無分別智所攝，施等得名波羅蜜多。迴向最勝者，謂以施等迴求無上正等菩提。清淨最勝者，謂至佛果施等方淨，爾時解脫煩惱所知二種障礙所集起故。若施是波羅蜜多耶設波羅蜜多是施耶者，是問於答中，有施非波羅蜜多，謂離六種最勝而行布施。有波羅蜜多非施，謂六種最勝所攝戒等。有亦施亦波羅蜜多，謂六種最勝所攝布施。有非施非波羅蜜多，謂離六種最勝而行戒等。如是一切處，作四句應知。

> 釈していうには、どのような相によって布施などが波羅蜜多と名づけられるのか。世間の人々や声聞なども布施などを実践しているため、その相を明確に示す必要がある。すなわち、六つの最勝なるものが布施などの相である。 〔第一に〕「所依の最勝」とは、菩提心をよりどころとすることである。 〔第二に〕「事の最勝」とは、内も外もすべての事柄にわたって完全に行ずる者は他におらず、菩薩だけが完全に行ずることをいう。 〔第三に〕「処の最勝」とは、一切の有情の利益と安楽をその対象とすることである。 〔第四に〕「方便善巧の最勝」とは、この中で取るべき方便善巧として三輪清浄があることである。それは、施す物・施す者・施される者の三つの区別がないからである。このように、無分別智に摂せられることによって、布施などは波羅蜜多と名づけられる。 〔第五に〕「回向の最勝」とは、布施などを無上の正等菩提を求めて回向することである。 〔第六に〕「清浄の最勝」とは、仏の果位に至ってはじめて布施などが清浄となることである。そのとき、煩悩障と所知障の二つの障礙がともに断ち尽くされているからである。 〔問い〕「もし布施であれば、それは波羅蜜多であるのか。また、もし波羅蜜多であれば、それは布施であるのか」との問いに対しては、答えとして次のように分別される。 布施ではあるが波羅蜜多ではないものとは、六つの最勝から離れて布施を行うことである。 波羅蜜多ではあるが布施ではないものとは、六つの最勝に摂せられた戒などである。 布施でもあり波羅蜜多でもあるものとは、六つの最勝に摂せられた布施である。 布施でもなく波羅蜜多でもないものとは、六つの最勝から離れて戒などを行うことである。 あらゆる場合において、このように四句分別によって理解すべきである。

論曰：何因緣故如是六種波羅蜜多此次第說？謂前波羅蜜多隨順生後波羅蜜多故。

> 論じて曰く：どのような理由で、これら六種の波羅蜜多がこの順序で説かれるのか。それは、前の波羅蜜多が後の波羅蜜多を自然に生み出すからである。

釋曰：如是六種波羅蜜多，依生前後說此次第。

> 仏陀の教えでは、この六つの波羅蜜多（完成された功徳）は、実践する順序に従ってこのように説かれています。

論曰：復次此諸波羅蜜多訓釋名言，云何可見？於諸世間，聲聞獨覺施等善根最為殊勝，能到彼岸，是故通稱波羅蜜多。又能破裂慳悋貧窮，及能引得廣大財位福德資糧，故名為施。又能息滅惡戒惡趣，及能取得善趣等持，故名為戒。又能滅盡忿怒怨讎，及能善住自他安隱，故名為忍。又能遠離所有懈怠惡不善法，及能出生無量善法令其增長，故名精進。又能消除所有散動，及能引得內心安住，故名靜慮。又能除遣一切見趣諸邪惡慧，及能真實品別知法，故名為慧。

> 論じていう。さらに、これらの波羅蜜多の語義解釈は、どのように見るべきか。世間や声聞・独覚の布施などの善根よりも最も勝れており、彼岸に至ることができるので、総じて波羅蜜多と称する。また、慳吝や貧窮を打ち破り、広大な財産や地位、福徳の資糧を引き寄せるから、布施という。また、悪戒や悪趣を消し止め、善趣の等持（禅定）を得させるから、戒という。また、怒りや怨みを消し尽くし、自他の安らぎに善く住するから、忍という。また、あらゆる懈怠や悪・不善の法を遠く離れ、無量の善法を生じさせ成長させるから、精進という。また、あらゆる散乱を除き去り、心の内なる安住を引き寄せるから、静慮という。また、あらゆる見解や邪悪な智慧を除き去り、真実に諸法を分別して知るから、智慧という。

釋曰：今當顯示訓釋名言。且釋總名。由此一切能到彼岸，是故說名波羅蜜多。超諸世間聲聞獨覺施等彼岸，是故通名波羅蜜多。次釋別名。以於因時破慳惠施，果時能裂一切貧窮，及於果時引大財位廣福資糧，故名為施。又於因時息諸惡戒，果時能滅一切惡趣，及於未來能取善趣，於現在世能得等持，故名為戒。如是一切波羅蜜多訓釋言詞如應當說。及能善住自他安隱者，謂於自身不為忿怒過失所惱，不生他苦，故得安隱。

> 解説します。ここで、名称の意味を説明しましょう。まず総称を述べます。これらの修行によって全ての者が彼岸（悟り）に到達できることから、”波羅蜜多”と名づけられます。また、世間や声聞・独覚の行う施しなどの修行を超え、その彼岸に至ることから、総称して”波羅蜜多”と呼ばれます。 次に個別の名称を説明します。 施（布施）とは、修行の因において貪りを破って施しを行い、その果として全ての貧困を断ち切り、さらに財産や地位といった大きな福徳の糧をもたらすことから、こう名づけられます。 戒（持戒）とは、修行の因において悪い戒めを静め、その果として全ての悪趣（苦しい世界）を滅し、未来において善趣（良い世界）に生まれ変わり、現在において心の統一（等持）を得られることから、こう名づけられます。 このように、すべての波羅蜜多の名称の解釈は、それぞれにふさわしく述べるべきものです。 また、「自他ともに安らかに留まる」とは、自分自身に対して怒りや過ちの悩みに苦しまず、他者にも苦しみを与えないため、安らかであることを意味します。

論曰：云何應知修習如是波羅蜜多？應知此修略有五種：一現起加行修、二勝解修、三作意修、四方便善巧修、五成所作事修。此中四修如前已說。成所作事修者，謂諸如來任運佛事無有休息，於其圓滿波羅蜜多復更修習六到彼岸。又作意修者，謂修六種意樂所攝愛重隨喜欣樂作意：一廣大意樂、二長時意樂、三歡喜意樂、四荷恩意樂、五大志意樂、六純善意樂。若諸菩薩乃至若干無數大劫現證無上正等菩提，經爾所時一一剎那，假使頓捨一切身命，及以殑伽河沙等世界盛滿七寶奉施如來，乃至安坐妙菩提座，如是菩薩布施意樂猶無厭足。經爾所時一一剎那，假使三千大千世界滿中熾火，於四威儀常乏一切資生眾具，戒、忍、精進、靜慮般若心恒現行，乃至安坐妙菩提座，如是菩薩所有戒、忍、精進、靜慮、般若意樂猶無厭足，是名菩薩廣大意樂。又諸菩薩即於此中無厭意樂，乃至安坐妙菩提座常無間息，是名菩薩長時意樂。又諸菩薩以其六種波羅蜜多饒益有情，由此所作深生歡喜，蒙益有情所不能及，是名菩薩歡喜意樂。又諸菩薩以其六種波羅蜜多饒益有情，見彼於己有大恩德，不見自身於彼有恩，是名菩薩荷恩意樂。又諸菩薩即以如是六到彼岸所集善根，深心迴施一切有情，令得可愛勝果異熟，是名菩薩大志意樂。又諸菩薩復以如是六到彼岸所集善根，共諸有情迴求無上正等菩提，是名菩薩純善意樂，如是菩薩修此六種意樂所攝愛重作意。又諸菩薩於餘菩薩六種意樂，修習相應無量善根，深心隨喜，如是菩薩修此六種意樂所攝隨喜意樂。又諸菩薩深心欣樂一切有情六種意樂所攝六種到彼岸修，亦願自身與此六種到彼岸修恒不相離，乃至安坐妙菩提座，如是菩薩修此六種意樂所攝欣樂作意。若有聞此菩薩六種意樂所攝作意修已，但當能起一念信心，尚當發生無量福聚，諸惡業障亦當消滅，何況菩薩。

> 論が述べるには、いかにしてこの波羅蜜多（パーラミター）を修習すべきかを知るべきである。この修行には、おおよそ五つの種類があると知るべきである。第一に、現起加行修（現在の行を起こす修行）、第二に、勝解修（深く理解する修行）、第三に、作意修（心を向ける修行）、第四に、方便善巧修（巧みな手段を用いる修行）、第五に、成所作事修（なすべきことを成就する修行）である。このうち、四つの修行については先に述べた通りである。成所作事修とは、如来たちが自然に仏の業を行い、休むことなく、円満した波羅蜜多においてさらに六つの到彼岸（到彼岸）を修習することをいう。また、作意修とは、六種の意楽（心の喜び）によって支えられた、敬愛・喜び・欣楽（心から喜ぶこと）の三つの作意を修習することである。すなわち、第一に広大意楽、第二に長時意楽、第三に歓喜意楽、第四に荷恩意楽、第五に大志意楽、第六に純善意楽である。 もし菩薩たちが、無数の大劫の間、現に無上正等菩提（最高の悟り）を証得するに至るまで、その間の一刹那ごとに、仮に一瞬で一切の身命を捨て、さらにはガンジス川の砂の数ほどの世界に満ちた七宝を如来に捧げ、そして妙菩提座（悟りの座）に安坐するに至るまで、布施を行っても、その菩薩の布施の意楽にはなお飽き足りることがない。その間の一刹那ごとに、仮に三千大千世界が猛火に満ち、四威儀（行住坐臥の四つの姿勢）において常にすべての生活必需品が乏しくとも、戒・忍・精進・静慮・般若の心が常に現れ行じ、そして妙菩提座に安坐するに至るまで、その菩薩の戒・忍・精進・静慮・般若の意楽にはなお飽き足りることがない。これを菩薩の広大意楽という。 また、菩薩たちはこの意楽に飽くことなく、妙菩提座に安坐するに至るまで常に途切れることなく修行する。これを菩薩の長時意楽という。 また、菩薩たちはその六種の波羅蜜多によって有情（生きとし生けるもの）を利益し、その行いによって深く喜びを生じる。その喜びは有情を利するものの及ぶところではない。これを菩薩の歓喜意楽という。 また、菩薩たちはその六種の波羅蜜多によって有情を利益するが、彼らが自分に対して大きな恩徳があると見て、自分が彼らに恩を与えたとは見ない。これを菩薩の荷恩意楽という。 また、菩薩たちはまさにこの六つの到彼岸によって集めた善根を、深く心から全ての有情に回向し、彼らに愛すべき優れた果報を得させる。これを菩薩の大志意楽という。 また、菩薩たちはさらに、この六つの到彼岸によって集めた善根を、有情たちと共に無上正等菩提に回向する。これを菩薩の純善意楽という。 このように菩薩は、この六種の意楽によって支えられた、敬愛の作意を修習する。 また、菩薩たちは他の菩薩たちの六種の意楽による修行に相応する無量の善根に対して、深く心から喜びを感じる。このように菩薩は、この六種の意楽によって支えられた、喜びの作意を修習する。 また、菩薩たちは深く心から、一切の有情による六種の意楽に支えられた六種の到彼岸の修行を喜び、また自らもこの六種の到彼岸の修行と常に離れず、妙菩提座に安坐するに至ることを願う。このように菩薩は、この六種の意楽によって支えられた、欣楽の作意を修習する。 もし、この菩薩の六種の意楽に支えられた作意の修行を聞いて、ただ一度の信じる心を起こすことさえできれば、無量の福徳の集まりを生じ、様々な悪業の障りも消え去る。ましてや菩薩はなおさらである。

釋曰：五種修中，現起加行修者，謂於現起加行而修。成所作事修者，謂諸如來安住法身，有無功用所作佛事，常無休息。於其六種波羅蜜多雖無現行，然為攝益諸有情故，恒常現行成所作事。於爾所時一一剎那者，假使以三無數劫量為一剎那，如是剎那積集時量乃至菩提。經爾所時一一剎那假使頓捨一切身命等，其義易了，應隨本文。如此次第積集時量乃至菩提，經爾所時一一剎那，假令為起一戒等心，處在三千大千世界滿中熾火，恒乏一切資生眾具，此言顯示住處艱難資緣乏少，此中意樂無有厭足，當知即是廣大意樂。即此長時恒無間斷，當知即是長時意樂。長者久也。餘義易了。諸惡業障亦當消滅者，此中意說滅彼能與異熟功能，或對治彼往惡趣力。

> 釈して曰く。五種の修習のうち、「現起加行修」とは、目の前に現れているものに対して加行（努力）を修することである。「成所作事修」とは、諸々の如来は法身に安住しながら、有功用・無功用による仏事を常に休みなく行うことをいう。六波羅蜜多に対しては、現に行うわけではないが、有情を摂取し利益するために、常に「成所作事」を現行させている。 その時間、一々の刹那について、仮に三無数の劫を一刹那とし、そのような刹那を積み重ねた時間が菩提に至るまでの量である。その間、一々の刹那において、仮に一度にすべての身や命を捨てるとする。その意味は容易に理解できるので、本文の通りに従うべきである。 このように次第に時間を積み重ねて菩提に至るまで、その間の一々の刹那において、仮にただ一つの戒を起こそうとする心のために、三千大千世界に満ちた大火の中に身を置き、常にあらゆる生活の資材に乏しい状況があったとしても、これは住む場所の困難さと資材の乏しさを示している。ここにおける意楽（心の願い）には満足することがなく、これこそが「広大意楽」であると知るべきである。 そして、この長い時間が常に途切れなく続くこと、これを「長時意楽」と知るべきである。「長」とは「久しい」という意味である。その他の意味は容易に理解できる。 「諸々の悪業の障りもまた消滅する」とは、ここでいうのは、それらが異熟（果報）をもたらす機能を滅ぼすこと、あるいは、それらが悪趣に向かう力を対治することを意味する。

論曰：此諸波羅蜜多差別云何可見？應知一一各有三品。施三品者，一法施、二財施、三無畏施。戒三品者，一律儀戒、二攝善法戒、三饒益有情戒。忍三品者，一耐怨害忍、二安受苦忍、三諦察法忍。精進三品者，一被甲精進、二加行精進、三無怯弱無退轉無喜足精進。靜慮三品者，一安住靜慮、二引發靜慮、三成所作事靜慮。慧三品者，一無分別加行慧、二無分別慧、三無分別後得慧。

> 論じて曰く、これらの波羅蜜多の違いは、どのように見るべきであろうか。知るべきである。それぞれに三つの種類があることを。 施（布施）の三種類とは、第一に法施、第二に財施、第三に無畏施である。 戒の三種類とは、第一に律儀戒、第二に摂善法戒、第三に饒益有情戒である。 忍（忍辱）の三種類とは、第一に耐怨害忍、第二に安受苦忍、第三に諦察法忍である。 精進の三種類とは、第一に被甲精進、第二に加行精進、第三に無怯弱・無退転・無喜足精進である。 静慮（禅定）の三種類とは、第一に安住静慮、第二に引發静慮、第三に成所作事静慮である。 慧（智慧）の三種類とは、第一に無分別加行慧、第二に無分別慧、第三に無分別後得慧である。

釋曰：於此宣說波羅蜜多品差別中，顯示體性各三差別。此中何故說法施等三種差別？謂由法施故資他善根，由財施故資益他身，由無畏施故資益他心，以是因緣故說三施。三種戒中，律儀戒者是依持戒，為欲建立其餘二戒，是故安住。所以者何？住律儀者便能建立攝善法戒，由此修集一切佛法、證大菩提，復能建立益有情戒，由此故能成熟有情。三種忍中，耐怨害忍能忍受他所作怨害，勤修饒益有情事時，由此忍力遭生死苦而不退轉。安受苦忍能正忍受所遭眾苦，由此忍力於生死中雖受眾苦而不退轉。諦察法忍堪能審諦觀察諸法，由此忍力建立次前所說二忍。三精進中其體差別，即薄伽梵契經中說：有勢、有勤、有勇、堅猛、不捨善軛。彼經五句即是此中三精進體之所解釋。由被甲精進故，最初有勢。由加行精進故，於加行時能有精勤。由無怯弱無退轉無喜足精進故，如其次第於此後時有勇、堅猛，不捨善軛故。由此三釋彼五句。所以者何？或有最初為求無上正等菩提，雖有勢力而加行時不能策勵，故說有勤。雖復有勤，心或怯弱，為對治彼故說有勇。由有勇故心無退屈，應知怯弱即是退屈。心雖無怯，逢生死苦心或退轉，由此退失所求佛果，為對治彼立無退轉。無轉退者，即是堅猛，故無退轉顯示堅猛，由堅猛故逢苦不退。有雖逢苦能不退轉，而得少善便生喜足，由此不證無上菩提，是故次須說無喜足。是不得少生喜足義，此即顯示不捨善軛。由是義故說三精進。三靜慮中，安住靜慮者，由此能安現法樂住。引發靜慮者，由此引發六種神通。成所作事靜慮者，謂依此故成立所作利有情事，是故說名成所作事。由此義故靜慮有三。安立慧體有三種中，其義易了。

> 解説：この般若波羅蜜多の区分において、それぞれの本質を三つに分類して示している。では、なぜ法施などの三つの布施の区別を説くのか。法施は他者の善根を育て、財施は他者の身体を助け、無畏施は他者の心を支えるからである。これらの理由により三つの布施が説かれる。 三つの戒について、律儀戒は持戒の基礎であり、残る二つの戒を確立するために安住する。なぜか。律儀に安住する者は、善法を集める戒を確立でき、これによって一切の仏法を修行し大菩提を証悟する。さらに有情を利益する戒を確立し、これによって有情を成熟させることができる。 三つの忍について、耐怨害忍は他者の害を耐え忍ぶ。有情を利益する修行の際、この忍の力によって生死の苦しみに遭っても退転しない。安受苦忍は様々な苦しみを正しく耐え忍ぶ。この忍の力によって生死の中で多くの苦しみを受けても退転しない。諦察法忍は諸法を深く観察する能力であり、この忍の力によって前述の二つの忍を確立する。 三つの精進の本質的な違いは、世尊の経典で説かれる「勢いあり、勤めあり、勇気あり、堅固で猛々しく、善き軛を捨てない」という五つの句によって説明される。この五句は、ここでの三つの精進の本質を解釈したものである。被甲精進によって最初に勢いがあり、加行精進によって修行の際に精励でき、無怯弱・無退転・無喜足の精進によって、その後順に勇気、堅固で猛々しいこと、善き軛を捨てないことがある。これら三つによって五句が説明される。 なぜか。ある者は最初に無上正等菩提を求めて勢いがあっても、修行の際に励めないことがあるため、「勤めあり」と説く。勤めがあっても心が怯むことがあるため、それを対治して「勇気あり」と説く。勇気によって心が退屈しない。怯むとは退屈することと知るべきである。心に怯えがなくても、生死の苦しみに遭って退転することがある。これによって求める仏果を失うため、それを対治して「退転なし」と立てる。退転がないとは堅固で猛々しいことであり、退転がないことは堅固で猛々しいことを示す。堅固で猛々しいことによって苦しみに遭っても退かない。 苦しみに遭っても退かない者がいても、少しの善を得て満足し、これによって無上菩提を証悟しない。そのため次に「満足なし」を説く必要がある。これは少しの善を得て満足しないという意味であり、これが「善き軛を捨てない」ことを示す。このような意味で三つの精進が説かれる。 三つの静慮について、安住静慮は現在の安楽に安住できる。引發静慮は六種の神通を引き起こす。成所作事静慮はこれに依って有情を利益する行為を成就するため、成所作事と名付けられる。この意味により静慮に三つがある。 慧の本質の三つの区分については、その意味は容易に理解できる。

論曰：如是相攝云何可見？由此能攝一切善法，是其相故、是隨順故、是等流故。

> 論じて曰く、このような相互摂取（そうごせっしゅ）とは、どのように見ることができるのか。それによってすべての善い教え（ぜんほう）を摂（おさ）めることができるからである。その姿（すがた）のゆえに、その流れ（ながれ）に沿うゆえに、その同類（どうるい）の流れ出るゆえに。

釋曰：如是相攝云何可見者，此問如是波羅蜜多與諸善法互相攝義云何可見。由此能攝一切善法者，應知由此波羅蜜多能具足攝一切善法，彼亦能攝波羅蜜多。應知此中一切善法，即是一切菩提分法。是其相故者，是般若相。是隨順故者，應知即是信輕安等。是等流故者，謂六神通及十力等諸餘功德。

> 解説：このように互いに含み合うとは、どのように理解すべきか。この問いは、波羅蜜多と諸々の善い教えが互いに含み合う関係を、どのように見ればよいのかを尋ねている。この波羅蜜多によってすべての善い教えを含むとは、波羅蜜多が完全にすべての善い教えを含み、それら善い教えもまた波羅蜜多を含むと知るべきである。この中で「すべての善い教え」とは、すなわち菩提に至るすべての教えのことである。「その本質であるから」とは、智慧の本質であるということである。「それに随順するから」とは、信仰や安らぎなどの性質を指す。「その流れを汲むから」とは、六つの神通力や十種の力などのその他の功徳を意味する。

論曰：如是所治攝諸雜染，云何可見？是此相故、是此因故、是此果故。

> 論じて曰く、このようにして対治されるべきものは、あらゆる煩悩をまとめたものである。では、それはどのように見ることができるのか？それは、これがその相であるからであり、これがその因であるからであり、これがその果であるからである。

釋曰：如到彼岸攝諸白法，前已顯示；此所對治亦攝一切諸雜染法，今當顯示。是此相故者，是貪等相。是此因故者，是慳等因，所謂不信及邪見等。是此果故者，謂慳犯戒忿等諸果。

> 解説しよう。悟りの彼岸に至る道には、あらゆる清らかな教えが含まれていることは、すでに示した通りだ。では、その反対にあるもの、すなわち対治すべきあらゆる煩悩について、これから明らかにしていこう。 「これがその姿である」とは、欲などの様子を指す。「これがその原因である」とは、物惜しみなどが生じる原因、すなわち心の奥にある疑いや誤った見解などを指す。「これがその結果である」とは、物惜しみや戒律を破ること、怒りなどの様々な結果を意味する。

論曰：如是六種波羅蜜多所得勝利，云何可見？謂諸菩薩流轉生死，富貴攝故、大生攝故、大朋大屬之所攝故、廣大事業加行成就之所攝故、無諸惱害性薄塵垢之所攝故、善知一切工論明處之所攝故，勝生無罪乃至安坐妙菩提座，常能現作一切有情一切義利，是名勝利。

釋曰：今當顯說波羅蜜多所得勝利。勝生無罪者，非如外道雖得勝生而名有罪，雜染污故。又彼勝生皆是無常。波羅蜜多果非無常，由說乃至安坐妙菩提座故。又彼勝生唯能自利不能利他，由不說彼常能現作有情義利。波羅蜜多所得勝果，常能現作一切有情一切義利。如是名為諸到彼岸得無罪等勝果義利。

論曰：如是六種波羅蜜多互相決擇，云何可見？世尊於此一切六種波羅蜜多，或有處所以施聲說，或有處所以戒聲說，或有處所以忍聲說，或有處所以勤聲說，或有處所以定聲說，或有處所以慧聲說。如是所說有何意趣？謂於一切波羅蜜多修加行中，皆有一切波羅蜜多互相助成。如是意趣。

釋曰：於三百頌般若波羅蜜多等經中，本為說一波羅蜜多，乃說一切波羅蜜多。於如是說有何意趣？於修一時一切相助，應知此中有是意趣。謂修施時防護身語，由此有戒波羅蜜多而相助成。乃至了知施之因果，由此有慧波羅蜜多而相助成。其餘相助，如應當知。

論曰：此中有一嗢拕南曰：

數相及次第， 訓詞修差別，攝所治功德， 互決擇應知。

釋曰：次第頌前，其文易了。