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title: "攝大乘論釋 · 6 彼修差別分"
description: "攝大乘論釋是古印度世親菩薩對無著菩薩所造攝大乘論的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論以唯識思想為核心系統闡釋阿毘達磨大乘經中攝大乘品深入論述阿賴耶識緣起三性三無性等教義建立完整的唯識學體系是印度瑜伽行派重要論書為研究唯識學根本典籍對漢傳佛教思想影響深遠被譽為大乘佛教義理之瑰寶"
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### 攝大乘論釋彼修差別分第六

> 摂大乗論釈　彼の修習の差異の区分　第六

論曰：如是已說彼入因果。彼修差別云何可見？由菩薩十地。何等為十？一極喜地、二離垢地、三發光地、四焰慧地、五極難勝地、六現前地、七遠行地、八不動地、九善慧地、十法雲地，如是諸地安立為十。云何可見？為欲對治十種無明所治障故。所以者何？以於十相所知法界有十無明所治障住。云何十相所知法界？謂初地中由遍行義，第二地中由最勝義，第三地中由勝流義，第四地中由無攝受義，第五地中由相續無差別義，第六地中由無雜染清淨義，第七地中由種種法無差別義，第八地中由不增不減義、相自在依止義、土自在依止義，第九地中由智自在依止義，第十地中由業自在依止義、陀羅尼門三摩地門自在依止義。此中有三頌：

> このように、彼の入る所の因果は既に説かれた。彼の修行における種々の相違は、いかにして見られるべきか。それは菩薩の十地による。十地とは何か。第一に極喜地、第二に離垢地、第三に発光地、第四に焔慧地、第五に極難勝地、第六に現前地、第七に遠行地、第八に不動地、第九に善慧地、第十に法雲地である。これらの諸地は十と定められている。いかにして見られるべきか。十種の無明という対治すべき障りを除くためである。なぜか。十の相において知られるべき法界には、十の無明という対治すべき障りがとどまっているからである。十の相において知られるべき法界とは何か。すなわち、初地においては遍行の義により、第二地においては最勝の義により、第三地においては勝流の義により、第四地においては無摂受の義により、第五地においては相続無差別の義により、第六地においては無雑染清浄の義により、第七地においては種種法無差別の義により、第八地においては不増不減の義、相自在依止の義、土自在依止の義により、第九地においては智自在依止の義により、第十地においては業自在依止の義、陀羅尼門・三摩地門自在依止の義による。ここに三つの偈がある。

遍行最勝義， 及與勝流義，如是無攝義， 相續無別義，無雜染淨義， 種種無別義，不增不減義， 四自在依義。法界中有十， 不染污無明，治此所治障， 故安立十地。

> 遍く行き渡る最勝の義、 および勝れる流れの義、 かくのごとく無摂の義、 相続して別異なき義、 雑染と清浄なき義、 種々にして別異なき義、 増えも減りもせぬ義、 四つの自在に依る義。 法界には十あり、 染まらざる無明を、 これが対治する障りを治するがゆえに、 十の地を安立す。

復次應知如是無明於聲聞等非染污，於諸菩薩是染污。

> さらに知るべきは、この無明は声聞などにとっては汚れではなく、菩薩にとっては汚れであるということです。

釋曰：依彼因果修位差別，故問答言。云何十相所知法界？謂初地中由遍行義，乃至第十地中由業自在依止義、陀羅尼門三摩地門自在依止義，由十種相法界可知，故名十相所知法界。謂地地中各有一相所知法界，由無明力不能了知，為欲對治如是無明故立十地。又所治障有其十種，故立十地。何等名為所治十障？一異生性；二於諸有情身等邪行；三遲鈍性，於聞思修而有忘失；四微細煩惱現行，俱生身見等攝，此最下品故、不作意緣故、遠隨現行故，應知是微細；五於下乘般涅槃；六麁相現行；七細相現行；八於無相作行；九於饒益有情事不作行；十於諸法中未得自在。遍行義者，謂此法界遍一切行，以無少法非無我故，若如是知得入初地。最勝義者，謂此法界一切法中最為殊勝，若如是知得入二地。勝流義者，謂大乘教，從此所流最為殊勝，若如是知得入三地。無攝受義者，謂於此中無計我所、無攝我所，如北洲人無有繫屬，於此法界若得證時，其中都無謂有我所，若如是知得入四地。相續無差別義者，謂於此中體無有異，非如眼等隨諸有情相續差別各各有異，若如是知得入五地。無雜染清淨義者，謂於此中本無雜染，性無染故，既無雜染即無清淨，若如是知得入六地。種種法無差別義者，謂於此中契經等法，雖有種種差別安立而無有異，若如是知得入七地。不增不減義者，謂於此中雜染減時而無有減，清淨增時而無有增。相自在依止義者，謂此法界是相自在之所依止，於諸相中而得自在名相自在，隨所欲相即現前故。土自在依止義者，謂此法界是土自在之所依止，於所現土而得自在名土自在，如欲令土成金等寶隨意成故。若如是知得入八地。智自在依止義者，謂此法界無礙辯智自在所依，若如是知得入九地。業自在等依止義者，謂此法界是身等業自在所依，及陀羅尼、三摩地門自在所依，若如是知得入十地。如是無明於聲聞等非染污者，由彼不欲入諸地故。於初地中已能通達一切諸地，何故次第復立諸地？釋此難者，雖初地中達一切地，然由此住而得安住，由此住力建立諸地。

> 解説： 十の段階に基づく悟りの境地と修行の違いについて、次のように問答される。どのような十の相によって悟りの法界を知るのか。初地では「遍行」の意味によって、第十地では「業自在の依止義」「陀羅尼門・三摩地門の自在の依止義」によって、十種の相によって法界が知られる。これが「十相所知法界」と呼ばれる。つまり、各段階に一つずつ知られるべき法界の相がある。無明の力によってこれを知ることができないため、その無明を対治するために十の段階が設けられた。また、対治すべき障りにも十種あるため、十の段階が立てられた。その十の障りとは何か。第一に「異生性」、第二に「有情の身などに対する邪行」、第三に「遅鈍性（聞・思・修において忘失すること）」、第四に「微細な煩悩の現行（俱生の身見などに含まれる。これは最も下位であり、故意に作意しないこと、遠くに及び現行することから微細と知るべき）」、第五に「下乗における般涅槃」、第六に「粗い相の現行」、第七に「細かい相の現行」、第八に「無相において行を作すこと」、第九に「衆生を益する事において行を作さないこと」、第十に「諸法において自在を得ていないこと」である。 「遍行」の意味とは、この法界が一切の行に遍く及ぶことである。なぜなら、無我でない法は微塵も存在しないからである。このように知って初地に入る。「最勝」の意味とは、この法界が一切の法の中で最も優れていることである。このように知って二地に入る。「勝流」の意味とは、大乗の教えがこの法界から流れ出たものであり、最も優れていることである。このように知って三地に入る。「無摂受」の意味とは、ここには我所有の計らいも、我所有の把握もないことである。例えて言えば、北倶廬洲の人々には所有の概念が無いように、この法界を証得した時には、「我が所有」というものが一切存在しない。このように知って四地に入る。「相続無差別」の意味とは、ここではその体に異なるものが無いことである。眼などのように、各々の有情の心身の連続に応じて異なるということがない。このように知って五地に入る。「無雑染清浄」の意味とは、ここには元来、雑染が無いことである。本性が染まっていないからであり、雑染が無ければ清浄もまた無い。このように知って六地に入る。「種種法無差別」の意味とは、ここでは経典などの教えが、様々に異なって立てられているが、本質に違いは無いことである。このように知って七地に入る。「不増不減」の意味とは、ここでは雑染が減るときにも減ることが無く、清浄が増すときにも増えることが無いことである。 「相自在依止」の意味とは、この法界は相の自在の拠り所である。諸々の相において自在を得ることを「相自在」と言い、望む相が即座に現前するからである。「土自在依止」の意味とは、この法界は国土の自在の拠り所である。現れる国土において自在を得ることを「土自在」と言い、例えば国土を金などの宝に変えようと望めば、意のままに成し遂げられるからである。このように知って八地に入る。「智自在依止」の意味とは、この法界は無碍弁智の自在の拠り所である。このように知って九地に入る。「業自在等依止」の意味とは、この法界は身などの業の自在の拠り所であり、また陀羅尼・三摩地の門の自在の拠り所である。このように知って十地に入る。 このような無明は、声聞などにとっては染汚ではない。なぜなら、彼らは諸々の段階に入ることを欲しないからである。初地において既に一切の段階を悟達できるのに、なぜ段階を追って諸地を立てるのか。この疑問に答える。初地において一切の段階を悟達するけれども、この悟りの境地によって安住し、この安住の力によって諸地が成立するのである。

論曰：復次何故初地說名極喜？由此最初得能成辦自他義利勝功能故。何故二地說名離垢？由極遠離犯戒垢故。何故三地說名發光？由無退轉等持等至所依止故、大法光明所依止故。何故四地說名焰慧？由諸菩提分法焚滅一切障故。何故五地名極難勝？由真諦智與世間智更互相違，合此難合令相應故。何故六地說名現前？由緣起智為所依止，能令般若波羅蜜多現在前故。何故七地說名遠行？至功用行最後邊故。何故八地說名不動？由一切相有功用行不能動故。何故九地說名善慧？由得最勝無礙智故。何故十地說名法雲？由得總緣一切法智，含藏一切陀羅尼門、三摩地門，譬如大雲能覆如空廣大障故，又於法身能圓滿故。

> 論じていう。では、なぜ初地を「極喜」というのか。これは、この地において初めて、自己と他者の利益を成し遂げる優れた力を得るからである。なぜ二地を「離垢」というのか。これは、戒を破る汚れから極めて遠く離れているからである。なぜ三地を「発光」というのか。これは、退くことのない禅定と三昧をよりどころとし、大いなる教えの光明をよりどころとするからである。なぜ四地を「焔慧」というのか。これは、あらゆる悟りの部分となる教えが、すべての煩悩を焼き尽くすからである。なぜ五地を「極難勝」というのか。これは、真実の智慧と世間の智慧が互いに矛盾するものであるが、この難しい両者を調和させて一つにするからである。なぜ六地を「現前」というのか。これは、縁起の智慧をよりどころとして、智慧の完成（般若波羅蜜多）を現前にするからである。なぜ七地を「遠行」というのか。これは、努力を伴う修行の最後の段階に至るからである。なぜ八地を「不動」というのか。これは、あらゆる相や努力を伴う修行によっても動かされることがないからである。なぜ九地を「善慧」というのか。これは、最も優れた無碍の智慧を得るからである。なぜ十地を「法雲」というのか。これは、すべての教えを総合的に捉える智慧を得て、あらゆる陀羅尼と三昧を蓄え、あたかも大きな雲が虚空のように広大な障害を覆うようであり、また、悟りの体（法身）を円満にするからである。

釋曰：何故初地名為極喜？由於此時初得能辦自他俱利勝堪能故。諸聲聞等真現觀時，唯得能辦自利堪能，不得他利，故彼不生如是歡喜同諸菩薩。何故二地名為離垢？由此地中性戒成就，非如初地思擇護戒。性戒成故，諸犯戒垢已極遠離。何故三地名為發光？由此地中與三摩地三摩鉢底常不相離，無退轉故，於大乘法能作光明。何故四地名為焰慧？由此地中安住最勝菩提分法，由住此故能燒一切根本煩惱及隨煩惱皆為灰燼。何故五地名極難勝？由此地中知真諦智是無分別，知諸世間工論等智是有分別，此二相違應修令合，能合難合令相應故名極難勝。何故六地名為現前？謂此地中住緣起智，由此智力無分別住，最勝般若波羅蜜多而得現前，悟一切法無染無淨，於第七地當成有行，第八地中當成無行。何故七地名為遠行？謂此地中於功用行得至究竟，雖一切相不能動搖，而於無相猶名有行。何故八地名為不動？由此地中所有諸相及一切行皆不能動，無分別智任運流行。何故九地名為善慧？由此地中無礙解智說名為慧，此慧妙善故名善慧。何故十地名為法雲？由此地中所有總緣一切法智譬如大雲，陀羅尼門、三摩地門猶如淨水，此智所藏如雲含水，又如大雲能覆虛空。如是總緣一切法智，普能覆滅諸廣大障。又於法身能圓滿者，如大雲起周遍虛空，如是此智於諸菩薩所依法身悉能周遍。此中圓滿，意說周遍。

> 問う：なぜ初地を「極喜」というのか。この時、初めて自他共に利益する優れた力を得るからである。声聞などが真の現観を得た時は、自らを利益する力だけを得て他を利益する力は得ず、そのため菩薩のような歓喜は生じない。 問う：なぜ第二地を「離垢」というのか。この地では本性の戒が成就し、初地のように思惟して戒を守るのではないからである。本性の戒が成就したため、すべての犯戒の汚れから遠く離れている。 問う：なぜ第三地を「発光」というのか。この地では三昧と三摩鉢底に常に離れず、退転することがないため、大乗の教えに光を放つことができるからである。 問う：なぜ第四地を「焔慧」というのか。この地では最も優れた菩提分法に安住し、そのためすべての根本煩悩と随煩悩を焼き尽くして灰にするからである。 問う：なぜ第五地を「極難勝」というのか。この地では真実の智慧は無分別であり、世間の工巧論などの智慧は有分別であると知る。この二つは相反するが、修行によって調和させるべきであり、調和し難いものを調和させるため「極難勝」という。 問う：なぜ第六地を「現前」というのか。この地では縁起の智慧に安住し、その智慧の力によって無分別に住し、最も勝れた般若波羅蜜多が現前する。すべての法に汚れも清浄もないと悟り、第七地では有行となり、第八地では無行となる。 問う：なぜ第七地を「遠行」というのか。この地では方便の行が究竟に達し、すべての相に動かされないが、無相においてなお有行であるからである。 問う：なぜ第八地を「不動」というのか。この地ではすべての相とすべての行が動かず、無分別智が自然に流れるからである。 問う：なぜ第九地を「善慧」というのか。この地では無礙解の智慧を慧と名づけ、この慧は妙に善いため「善慧」という。 問う：なぜ第十地を「法雲」というのか。この地ではすべての法を総括する智慧が大雲のようであり、陀羅尼門や三摩地門は清水のようである。この智慧に含まれるものは雲に水が含まれるようであり、また大雲が虚空を覆うように、すべての法を総括する智慧は広大な障りを覆い滅ぼす。また、法身を円満する者は、大雲が起こって虚空に遍くように、この智慧は菩薩の所依の法身にすべて遍く行き渡る。ここで「円満」とは、周遍の意味である。

論曰：得此諸地云何可見？由四種相：一得勝解，謂得諸地深信解故。二得正行，謂得諸地相應十種正法行故。三得通達，謂於初地達法界時，遍能通達一切地故。四得成滿，謂修諸地到究竟故。

> 論じて曰く、これらの地（段階）を得るとは、どのように見るべきか。四つの相によって知られる。第一に「勝解を得る」とは、諸地に対する深い信解を得ることによる。第二に「正行を得る」とは、諸地に相応する十種の正しい法の行いを得ることによる。第三に「通達を得る」とは、初地において法界に達する時、すべての地を遍く通達することによる。第四に「成満を得る」とは、諸地を修めて究竟（究極）に至ることによる。

釋曰：得成滿者，應知爾時修習諸地已至究竟。

> 解説します。「成就し満ち足りる」とは、その時点において、諸々の修行の段階（地）を修め終え、究極に達したことを知るべきです。

論曰：修此諸地云何可見？謂諸菩薩於地地中修奢摩他、毘鉢舍那，由五種相修。何等為五？謂集總修、無相修、無功用修、熾盛修、無喜足修。如是五修令諸菩薩成辦五果，謂念念中消融一切麁重依止，離種種想得法苑樂，能正了知周遍無量無分限相大法光明，順清淨分無所分別無相現行，為令法身圓滿成辦，能正攝受後後勝因。

> 論曰：これらの諸地における修行は、どのように見るべきか。それは、諸々の菩薩が各地において奢摩他（止）と毘鉢舍那（観）を修めることであり、次の五つの相によって修行される。その五つとは何か。すなわち、集総修、無相修、無功用修、熾盛修、無喜足修である。この五つの修行により、諸々の菩薩は五つの果報を成就させる。すなわち、刹那刹那においてすべての粗重の依りどころを消し溶かし、様々な想いを離れて法苑の楽を得ること、周遍し無量であり分限の相なき大法の光明を正しく了知すること、清浄の分に順じて無分別・無相の現行を為すこと、法身を円満に成就させるため、後のより勝れた因を正しく摂受することである。

釋曰：如一一地有五相修，今當顯示。修奢摩他、毘鉢舍那皆由五相並得修習。謂念念中消融一切麁重依止者，謂煩惱障及所知障無始時來熏習種子，說名麁重。此二障聚，由緣總法止觀智力念念消融。此中意取障聚破壞故名消融，或令羸損故名消融。離種種想得法苑樂者，契經等法住種種性，遠離如是種種性想，即是證得法苑之樂，於中可居故名為苑。復有餘義，於隨所受尋伺法中，不起麁顯領納觀察，但由止觀憶念光明，而起微細領納觀察。能正了知周遍無量無分限相大法光明者，謂正了達十方無邊無分限相，如善習誦文字光明名法光明。順清淨分無所分別無相現行者，謂事成辦諸相應法，名順淨分無所分別無相現行。此中意取所得佛果，名事成辦。為令法身圓滿成辦能正攝受後後勝因者，謂第十地法身說名圓滿，第十一佛地法身說名成辦。一切因中生佛地者最為殊勝，是故說言能正攝受後後勝因。

論曰：由增勝故說十地中別修十種波羅蜜多。於前六地所修六種波羅蜜多，如先已說，後四地中所修四者，一方便善巧波羅蜜多，謂以前六波羅蜜多所集善根，共諸有情迴求無上正等菩提故；二願波羅蜜多，謂發種種微妙大願，引攝當來波羅蜜多殊勝眾緣故；三力波羅蜜多，謂由思擇修習二力，令前六種波羅蜜多無間現行故；四智波羅蜜多，謂由前六波羅蜜多，成立妙智受用法樂，成熟有情故。又此四種波羅蜜多，應知般若波羅蜜多無分別智後得智攝。又於一切地中，非不修習一切波羅蜜多。如是法門，是波羅蜜多藏之所攝。

> 論曰：さらに優れたものとして、十地の中で特に十種の波羅蜜多を修行すると説かれている。最初の六地で修行する六種の波羅蜜多については、すでに述べた通りである。後の四地で修行する四種とは、第一に方便善巧波羅蜜多である。これは、先の六種の波羅蜜多によって集めた善根を、すべての有情と共に、無上の正しい悟りを求めることへと回向するものである。第二に願波羅蜜多である。これは、様々な微妙な大いなる願いを起こして、未来の波羅蜜多のための優れた様々な縁を引き寄せるものである。第三に力波羅蜜多である。これは、思考と修行という二つの力によって、先の六種の波羅蜜多を絶え間なく現前させるものである。第四に智波羅蜜多である。これは、先の六種の波羅蜜多によって、妙なる智慧を成立させ、法の喜びを受け享受し、有情を成熟させるものである。また、これら四種の波羅蜜多は、般若波羅蜜多の無分別智と後得智に含まれるものであると知るべきである。さらに、すべての地において、すべての波羅蜜多を修行しないということはない。このような教えの門は、波羅蜜多の蔵に含まれるものである。

釋曰：由增勝故說十地中別修十種波羅蜜多者，謂十地中作如是說，初地布施波羅蜜多最為增勝，其餘一切波羅蜜多非不修習，隨力隨分；乃至第十地智波羅蜜多最為增勝，其餘一切波羅蜜多非不修習，隨力隨分。是故說言，由增勝故說十地中別修十種波羅蜜多。若總相說，一切地中皆修一切波羅蜜多。於前六地所修六種波羅蜜多如先已說者，顯示次第別修十種波羅蜜多如次。前經先說布施波羅蜜多，最後說智波羅蜜多。今此論中如先所說少不具足，謂後四地所修四種波羅蜜多先所未說。若於是處唯說六種波羅蜜多，即於此處方便善巧等四波羅蜜多攝在其中。若於是處宣說十種波羅蜜多，此中唯說無分別智名為般若波羅蜜多。其餘方便善巧等四波羅蜜多，後得智攝，是故於後四種地中修餘四種波羅蜜多。方便善巧波羅蜜多者，謂後四中先說第一。共諸有情者，謂以此善共諸有情，如所共有。今當顯示，謂以此善願求無上正等菩提，作諸有情一切義利，要證菩提此意方遂。是故若有如是思惟，所有善根皆悉迴向無上菩提，作諸有情一切義利，如是名為共諸有情。方便善巧顯示般若及以大悲，謂以前六波羅蜜多所集善根共諸有情，此由大悲迴求無上正等菩提，不求帝釋等富樂果，由了知故不起煩惱，此即般若。又由具足方便善巧，不捨生死而無染污，是故說名方便善巧波羅蜜多。謂發種種微妙大願引攝當來波羅蜜多殊勝眾緣者，此顯示願波羅蜜多所作事業。此願即是波羅蜜多，是故名願波羅蜜多。言當來者，謂為當來此是所為，第七轉聲。為當來故發種種願。餘契經說有二種力，謂思擇力及修習力。若雖未有修習力者，由思擇力精進修習波羅蜜多故，說由此波羅蜜多無間現行，此顯示力波羅蜜多所作事業。謂由前六波羅蜜多成立妙智受用法樂成熟有情者，謂由般若波羅蜜多無分別智自性等故，成立如是後得妙智，復由此智成立前六波羅蜜多，由此自為與同法者受用法樂，及為成熟一切有情。如是法門是到彼岸藏所攝者，此中一切大乘教法，皆通說名到彼岸藏。如是所引十地法門是彼藏攝，非聲聞藏。由彼攝故，一切地中皆修一切波羅蜜多。如是諸地遍於一切諸佛國土，一切諸佛同所宣說，是故最勝。由此法門是最勝故，於最初時最勝處說，此處高廣殊妙堅牢，故名最勝。

> 解説します。「より優れている」という理由から、十の地において、それぞれ異なる十種の波羅蜜多（パーラミター）を修めると説かれています。これは、十の地について次のように述べられているからです。初地では布施の波羅蜜多が最も優れていますが、他のすべての波羅蜜多も能力や分に応じて修めないわけではありません。同様に、第十地まで続き、第十地では智慧の波羅蜜多が最も優れていますが、他のすべての波羅蜜多も能力や分に応じて修めないわけではありません。このため、「より優れている」という理由から、十の地においてそれぞれ別々に十種の波羅蜜多を修めると説かれているのです。 総体的に言えば、すべての地において、すべての波羅蜜多が修められます。先に、前の六つの地で修める六種の波羅蜜多については既に述べたとありますが、これは、順を追って別々に十種の波羅蜜多を修めることを示しています。先の経典では、最初に布施の波羅蜜多が説かれ、最後に智慧の波羅蜜多が説かれています。しかし、今この論書では、先に述べたところに若干の不足があります。それは、後の四つの地で修める四種の波羅蜜多については、まだ述べられていないからです。もし、ある場所で六種の波羅蜜多だけが説かれているなら、その場所では、方便善巧などの四つの波羅蜜多は、六つの波羅蜜多の中に含まれているのです。もし、ある場所で十種の波羅蜜多が説かれているなら、ここでは、無分別智だけを般若波羅蜜多と呼びます。残りの方便善巧などの四つの波羅蜜多は、後得智に含まれるため、後の四つの地では、この残りの四種の波羅蜜多を修めるのです。 方便善巧波羅蜜多とは、後の四つのうち、最初に説かれたものを指します。「有情と共にする」とは、この善根を、あるべき姿に従って、すべての有情と共にすることを意味します。今、これを明らかにしましょう。つまり、この善根によって、無上の正等菩提を願い求め、すべての有情のためにあらゆる義利を行うということです。菩提を証得して初めて、この願いは成就するのです。それゆえ、もしこのように考えて、すべての善根を無上の菩提に回向し、すべての有情のためにあらゆる義利を行うならば、これを「有情と共にする」と名付けます。方便善巧は、般若と大悲を明らかにします。つまり、先の六波羅蜜多によって集められた善根を諸々の有情と共にし、これは大悲によって無上の正等菩提を回向して求め、帝釈天などの富楽の果報を求めないこと、これは了然と知っているがゆえに煩悩を起こさないことであり、これが般若です。また、方便善巧を具足することによって、生死を捨てずに、しかも汚染されることがありません。このことから、方便善巧波羅蜜多と名付けられるのです。 「種々の微妙な大願を発して、未来における波羅蜜多の殊勝な様々な因縁を引き寄せる」とは、これは願波羅蜜多のなすべき働きを示しています。この願そのものが波羅蜜多であるから、願波羅蜜多と名付けられます。「未来」というのは、未来のためのものであることを意味し、これは第七の格変化（「のために」という意味）です。未来のための様々な願を発するのです。 他の経典では、二つの力が説かれています。すなわち、思択力と修習力です。もしまだ修習力がなくても、思択力によって精進して波羅蜜多を修習するなら、この波羅蜜多によって途切れることなく現行する、と説かれています。これは力波羅蜜多のなすべき働きを示しています。 「先の六波羅蜜多によって妙智を成立させ、法の楽しみを受け、有情を成熟させる」とは、般若波羅蜜多の無分別智の自性などによって、このような後得の妙智を成立させ、さらにこの智によって先の六波羅蜜多を成立させ、これによって自ら同じ法を学ぶ者と共に法の楽しみを受け、またすべての有情を成熟させることを意味します。 「このような法門は、到彼岸蔵に収められる」とは、ここでは、すべての大乗の教法を、広く到彼岸蔵と呼ぶことを意味します。このように引用された十地の法門は、その蔵に収められるものであり、声聞蔵には収められません。それによって収められるので、すべての地においてすべての波羅蜜多が修められるのです。このように、これらの地は、すべての仏の国土に広がり、すべての仏が共に説かれるものであるため、最も優れています。この法門が最も優れているからこそ、最初の時に、最も優れた場所で説かれました。この場所は、高く広く、殊勝で美しく、堅固であるため、最も優れていると名付けられるのです。

論曰：復次凡經幾時修行諸地可得圓滿？有五補特伽羅，經三無數大劫。謂勝解行補特伽羅，經初無數大劫修行圓滿。清淨增上意樂行補特伽羅，及有相行、無相行補特伽羅，於前六地及第七地，經第二無數大劫修行圓滿。即此無功用行補特伽羅，從此已上至第十地，經第三無數大劫修行圓滿。此中有頌：

> 論じて曰く、さらに、どのくらいの期間、修行の諸地を経て円満に達することができるのか。五種類の補特伽羅（修行者）が存在し、三つの無数大劫を経る。すなわち、勝解を行う補特伽羅は、最初の無数大劫を経て修行を円満する。清浄で増上された意楽行の補特伽羅、および有相行・無相行の補特伽羅は、前の六地と第七地において、第二の無数大劫を経て修行を円満する。そして、この無功用行の補特伽羅は、ここから上の第十地に至るまで、第三の無数大劫を経て修行を円満する。ここに偈がある。

清淨增上力， 堅固心昇進，名菩薩初修， 無數三大劫。

> 清らかな修行の力が増し、 心が固く定まり、向上していく―― これを菩薩の初めの修行と呼び、 数えきれない三つの大劫を経る。

釋曰：有五補特伽羅經三無數大劫者，謂勝解行補特伽羅，於解行地中經初無數大劫修行圓滿。既圓滿已，通達真如故，成清淨增上意樂行補特伽羅。此清淨增上意樂行遍十地中，此在六地名有相行補特伽羅，在第七地名無相有功用行補特伽羅。此經第二無數大劫修行圓滿，入第八地名無功用行補特伽羅。此無功用行猶未成滿，若至第九第十地中，無功用行方得成滿，此經第三無數大劫修行圓滿。如是唯一補特伽羅，位差別故建立五種，譬如預流、一來、不還。如說經三無數大劫得佛菩提，無始生死數修施等、數值諸佛，齊於何時名最初修三無數劫？故以伽他顯釋此問。清淨增上力者，謂善根力及大願力，由善根力應知所治不能降伏，由大願力應知常值諸善知識。堅固心昇進者，謂發牢固心，起增進行。牢固心者，應知所發大菩提心，諸惡友力不能令捨。增進行者，應知現在及生生中，善法常增終無退減。餘義易了，無煩重釋。

> 解説：五種類の修行者が三つの無数大劫を経ると説く。まず、勝解行の修行者は、理解と修行の段階（解行地）で最初の無数大劫の修行を完成させる。それが完成すると、真如（真理）を悟ることで、清らかで確かな志を持つ修行者（清淨增上意樂行補特伽羅）となる。この清らかな志の修行は十の修行段階（十地）全体にわたるが、そのうち第六地では「有相行」の修行者、第七地では「無相有功用行」の修行者と呼ばれる。この段階で第二の無数大劫の修行を完成させ、第八地に入ると「無功用行」の修行者となる。しかし、この無功用行はまだ完全ではなく、第九地と第十地に至って初めて完成する。これが第三の無数大劫の修行の完成である。このように、ただ一人の修行者が、その段階の違いによって五種類に分類される。例えば、預流果（一度還らずの果報）や一来果、不還果のようなものである。 「三つの無数大劫を経て仏の悟りを得る」と説かれるが、無限の生まれ変わりの中で布施などを繰り返し修行し、多くの仏に出会ってきた中で、いつからが三無数劫の最初の修行と言えるのか？そこで、この問いを解くために偈（げ）が示される。「清らかで確かな力」とは、善の根の力と大きな願いの力である。善の根の力によって、対治すべき煩悩に打ち勝つことができ、大きな願いの力によって、常に善き師に出会うことができる。「堅固な心と向上する行い」とは、揺るがない心を起こし、向上する修行を実践することである。揺るがない心とは、発した大いなる菩提心が、悪友の力によっても捨てられることがないこと。向上する修行とは、現在および未来の生涯において、善い行いが常に増え、決して退くことがないことである。その他の意味は明らかなので、あえて重ねて説明する必要はない。

## 攝大乘論釋卷第七

> 『摂大乗論釈』巻第七