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title: "攝大乘論釋 · 1"
description: "攝大乘論釋是古印度世親菩薩對無著菩薩所造攝大乘論的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論以唯識思想為核心系統闡釋阿毘達磨大乘經中攝大乘品深入論述阿賴耶識緣起三性三無性等教義建立完整的唯識學體系是印度瑜伽行派重要論書為研究唯識學根本典籍對漢傳佛教思想影響深遠被譽為大乘佛教義理之瑰寶"
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### 攝大乘論釋1增上慧學分第九之一

> 摂大乗論釈 第9章 増上慧学（上）

論曰：如是已說增上心殊勝。增上慧殊勝云何可見？謂無分別智，若自性、若所依、若因緣、若所緣、若行相、若任持、若助伴、若異熟、若等流、若出離、若至究竟、若加行無分別後得勝利、若差別、若無分別後得譬喻、若無功用作事若甚深，應知無分別智名增上慧殊勝。

> 論には述べられている。以上のように、心の増上（すぐれた修行の状態）の殊勝さについて述べた。では、慧の増上（すぐれた智慧）の殊勝さはどのように見られるべきか。それは「無分別智」のことである。その自性（本質）、所依（よりどころ）、因縁（原因と条件）、所縁（対象）、行相（はたらきの様子）、任持（支え）、助伴（補助するもの）、異熟（結果）、等流（同じ流れの結果）、出離（解脱に向かうこと）、究竟（究極）、加行無分別と後得の勝利（修行による無分別と、その後に得られる功徳）、差別（区別）、無分別と後得のたとえ、無功用の作事（努力なしにはたらくこと）、甚深（深遠さ）といったことについて、知られるべきである。この無分別智こそが、「増上慧殊勝」と呼ばれるのである。

釋曰：今正至說增上慧時。此中意說，無分別智名增上慧。此復三種：一加行無分別智，謂尋思慧；二根本無分別智，謂正證慧；三後得無分別智，謂起用慧。此中悕求慧是第一增上慧，內證慧是第二增上慧，攝持慧是第三增上慧。今且成立無分別智，由唯此智通因果故。其尋思智是此智因，其後得智是此智果，所以成此兼成餘二。

> 説明しよう。今まさに、増上慧（すぐれた智慧）について述べる時である。ここで言う増上慧とは、無分別智（分別を超えた智慧）を指す。この無分別智には三つの種類がある。 第一に、加行無分別智（実践の準備段階の智慧）であり、これは物事をよく考え観察する智慧（尋思慧）である。第二に、根本無分別智（根本的な智慧）であり、真理を直接に悟る智慧（正証慧）である。第三に、後得無分別智（悟りを得た後の智慧）であり、悟りを活かして行動する智慧（起用慧）である。 このうち、真理を求める智慧が第一の増上慧、自己の内側で真理を悟る智慧が第二の増上慧、そして悟りを保ち活かす智慧が第三の増上慧である。 今はひとまず、無分別智について明らかにしよう。なぜなら、この智慧だけが原因と結果の両方に通じるからである。思考を深める智慧（尋思智）はこの智慧の原因であり、悟りを得た後の智慧（後得智）はこの智慧の結果である。したがって、根本となる無分別智を明らかにすれば、残りの二つの智慧も同時に明らかになるのである。

論曰：此中無分別智，離五種相以為自性：一離無作意故、二離過有尋有伺地故、三離想受滅寂靜故、四離色自性故、五離於真義異計度故。離此五相，應知是名無分別智。

> 論には次のように説かれている。この無分別智は、五つの相を離れたものがその自性である。第一に、無作意を離れていること。第二に、有尋有伺地を超えていること。第三に、想受滅の寂静を離れていること。第四に、色の自性を離れていること。第五に、真実の義について異なる計度を離れていること。これら五つの相を離れたものを、無分別智と知るべきである。

釋曰：且應先說無分別智所有自性，此中體相說名自性。謂諸菩薩無分別智，離五種相以為自性。離五相者，若無作意是無分別智，睡醉悶等應成無分別智。若過有尋有伺地是無分別智，第二靜慮已上諸地應成無分別智，若如是者，世間應得無分別智。若想受滅等位中心心法不轉是無分別智，滅定等位無有心故，智應不成。若如色自性是無分別智，如彼諸色頑鈍無思，此智應成頑鈍無思。復有餘義，若如色性，智不應成。若於真義異計度轉，無分別智應有分別。謂分別言此是真義，若智遠離如是五相於真義轉，於真義中不異計度，此是真義無分別智。有如是相緣真義時，譬如眼識不異計度，此是其義。

> 釋曰：まず、無分別智の本質について述べるべきである。ここで「自性」とは、その体のあり方を指す。すなわち、菩薩の無分別智は、五つの相を離れることをもって自性とする。 五つの相を離れるとは何か。もし作意（意図的なはたらき）がないことが無分別智であるならば、睡眠・酔い・気絶なども無分別智となってしまう。もし有尋有伺（粗い思考・細かい思考）の段階を超えることが無分別智であるならば、第二静慮以上の禅定の境地も無分別智となってしまう。もしそうならば、世間の人々も無分別智を得ることになる。 もし想受滅（想と受が消えた状態）などの位において心・心所がはたらかないことが無分別智であるならば、滅尽定などの位には心が存在しないため、智慧そのものが成立しなくなる。もし物質（色）のように自性が無分別であるならば、物質が鈍く無思であるように、この智慧も鈍く無思となってしまう。 さらに別の意味として、もし物質のような性質であるならば、智慧は成立しない。もし真実の義に対して異なる計度（分別的な思考）をはたらかせるならば、それは無分別智ではなくなってしまう。すなわち、「これは真実の義である」と分別することを意味する。 もし智慧がこれら五つの相を離れて真実の義に対してはたらき、真実の義において異なる計度をしないならば、それが真実の義に対する無分別智である。そのような智慧は、真実の義を対象とするとき、例えば眼識（視覚認識）が「これはこれである」と異なる計度をしないのと同様である。

論曰：於如所說無分別智成立相中，復說多頌：

> 論（ここに）述べたように、無分別智の成立する相（すがた）において、さらに多くの偈頌（げじゅ）が説かれている。

釋曰。於上所說無分別智略成立中，廣說多頌。

> 解説する。すでに述べた無分別智（ことばや概念を超えた智慧）についての簡潔な説明の中で、さらに多くの詩句を用いて広く詳しく述べられている。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩自性， 遠離五種相，是無分別智， 不異計於真。

> 菩薩の本質（自性）は、 五つの形相を離れている。 これが無分別の智慧であり、 真実（真如）と異ならないと知るべきである。

釋曰：由此初頌顯上所說無分別智。初自性義如是已說。此智自性依彼而轉，次頌當說。

> さて、この最初の偈頌によって、上述の「無分別智」の自性（本質）の意義が示されました。このようにして、すでに説明が終わりました。この智慧の本質は、それ（無分別智）に基づいてはたらくため、次の偈頌で述べられることになります。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩所依， 非心而是心，是無分別智， 非思義種類。

> 諸菩薩の拠り所は、 心ではなく、これこそが心である。 それは分別を超えた智慧であり、 思慮や分別の対象ではない。

釋曰：如是所說無分別智，當言依心、為依非心？若言依心能思量故說名為心，依心而轉是無分別，不應道理。若依非心，則不成智。為避如是二種過失，故說此頌。此智所依不名為心，不思義故。亦非非心，心所引故。此生所依是心種類，亦名為心，因彼而生。次頌當顯。

> 問うに、このように説かれる無分別智は、「心に依る」と言うべきか、「心に依らない」と言うべきか。もし「心に依る」と言うなら、心は思量するからこそ心と名づけられる。心に依って働くものが無分別であるというのは、道理に合わない。もし「心に依らない」と言うなら、それは智慧とはならない。この二つの欠点を避けるために、この偈頌が説かれたのである。 この智慧のよりどころは、心とは名づけられない。なぜなら、分別して考えないからである。しかし、心ではないとも言えない。心によって導かれるからである。この智慧の生じるよりどころは、心の種類であって、それゆえに心とも呼ばれる。その心によって生じるからである。次の偈頌で明らかにされるであろう。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩因緣， 有言聞熏習，是無分別智， 及如理作意。

> 菩薩が修行する縁(よすが)には、 「聞くことによる熏習(くんじゅう)」と言われるものがある。 それは、分別を超えた智慧（無分別智）であり、 また、道理にかなった心の働き（如理作意）でもある。

釋曰：諸菩薩因緣者，謂此智因。有言聞熏習者，謂由他音正聞熏習。及如理作意者，謂此熏習為因，意言如理作意，無分別智因此而生。復何所緣？次頌當顯。

> 解説します。諸菩薩の因縁とは、この智の原因を指します。「聞熏習（もんくんじゅう）」と言うのは、他者からの正しい教えを聞いて熏習することです。「如理作意（にょりさくい）」とは、この熏習を因として、心の中で真理にかなった思考を働かせることです。無分別智はこれによって生じます。では、何を所縁とするのか。次の偈頌で明らかにされます。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩所緣， 不可言法性，是無分別智， 無我性真如。

> 諸菩薩がよりどころとするものは、 言葉で言い表せない真理の本質であり、 それは分別を超えた智慧であり、 無我の真如であります。

釋曰：不可言法性者，謂由遍計所執自性，一切諸法皆不可言。何等名為不可言性？謂無我性所顯真如，遍計所執補特伽羅，及一切法皆無自性，名無我性。即此無性所顯有性，說名真如。勿取斷滅，故說此言。又於所緣所作行相，次頌當顯。

> 解説します。「言葉にできない法の本質」とは、仮に名づけられた性質によって、あらゆる現象が言葉では表現できないことを意味します。では、その「言葉にできない性質」とは何でしょうか。それは「無我の性質」として現れる真実の姿（真如）です。仮に名づけられた「自己」やあらゆる現象には、本来の実体がないこと、これを「無我の性質」と言います。この実体のなさによって現れる「真実のありよう」を、真如と呼びます。ただし、これを「何もない」という意味にとらないでください。その誤解を避けるために、このように説明しています。また、認識の対象や心の働きについては、次の詩節で明らかにされるでしょう。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩行相， 復於所緣中，是無分別智， 彼所知無相。

> 諸菩薩の修行のすがたは、 さらにその対象（所縁）において、 これは「無分別智」である。 その智が知るものには、形（相）はない。

釋曰：菩薩行相於所緣中所現無相，謂即此智於真如中平等平等生起無異無相之相以為行相。如眼取色見青等相，非此青等與色有異。此亦如是，智與真如無異行相。即於此中為釋疑難，復說二頌。

> 解説：菩薩の修行において、心に映る対象には固定的な形はない。その智慧は真如（真理）と完全に一つとなり、「差別のない相」というあり方として現れる。例えば、目で色を見るとき「青い」などの相を捉えるが、この「青い」という相は色そのものとは別のものではない。それと同じく、智慧と真如の「あり方」も別ではない。 ここで疑問に答えるため、さらに二つの偈が説かれる。

論曰：

> 論に曰く。

相應自性義， 所分別非餘，字展轉相應， 是謂相應義。非離彼能詮， 智於所詮轉，非詮不同故， 一切不可言。

> 自己自身の本質に相応するという意味であり、 分別されるものはそれ以外ではありません。 語が互いに相応し合うこと、 これを相応の意味といいます。 その言葉の表現を離れて、 知恵が表現される意味へと向かうことはありません。 表現と意味が同じではないから、 あらゆるものは言葉では言い表せません。

釋曰：若一切法皆不可言，復以何等為所分別？為釋此故說如是言，相應自性義所分別非餘。謂即相應為自性義，是所分別，非離於此，故言非餘。此云何成？為重成立復說是言。字展轉相應，是謂相應義。謂別別字相續宣傳，以成其義，是相應義。如言斫芻。二字不斷說成眼義。是相應義為所分別。又一切法皆不可言，因何成立？故復說言非離彼能詮智於所詮轉。由若不了能詮之名，於所詮義覺知不起，故一切法皆不可言。若言要待能詮之名，於所詮義有覺知起。為遮此故復說是言，非詮不同故，以能詮名與所詮義互不相稱，各異相故，能詮所詮皆不可說。由此因故，說一切法皆不可言。無分別智何所任持？

> 問う：もしすべての法が言葉にできないのなら、いったい何が分別の対象となるのか？ この疑問に答えるために、次のように説かれる。 「相応」という自性の意味こそが分別の対象であり、それ以外ではない。 すなわち、「相応」を自性とする意味こそが分別されるものであり、それ以外のものではないから「非余」と言うのである。 では、このことはどのように成立するのか？ その成立をさらに確かにするために、次のように説かれる。 「文字が次々と連なり合うこと、これを相応の意味という」。 つまり、個々の文字が連続して伝え合い、そのことによって意味を成す。これが相応の意味である。 例えば「斫芻（しゃくす）」という語のように、二つの文字が途切れることなく続くことで「眼」の意味が成立する。このような相応の意味が、分別の対象となるのである。 また、すべての法が言葉にできないということは、何によって成立するのか？ そのために、さらに次のように説かれる。 「能詮の智を離れて、所詮の対象の上に（認識が）転じることはない」。 もし能詮の名（言葉）を了解しなければ、所詮の意味（対象）についての認識は生じないからである。ゆえに、すべての法は言葉にできないのである。 もし「能詮の名（言葉）があればこそ、所詮の意味について認識が生じるのだ」と言うならば、それを遮断するために、次のように説かれる。 「詮（ことば）が異なるからではない」。 なぜなら、能詮の名と所詮の意味とは互いに相応せず、それぞれ異なる相を持つからである。したがって、能詮も所詮も共に言い表すことはできない。 このような理由により、すべての法は言葉にできないと説かれるのである。 では、無分別智は何を拠り所とするのか？

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩任持， 是無分別智，後所得諸行， 為進趣增長。

> 諸菩薩が心に保つもの、それが分別を超えた智慧である。 その智慧から生まれる後の行いは、さらなる向上と成長のためのものである。

釋曰：由無分別後所得智得菩薩行，此行即依無分別智。為進趣增長者，為令如是諸菩薩行得增長故。無分別智是彼任持，此智復以何為助伴？

> （この智慧を聞いた後、さらに問う）この智慧にはどのような支えがあるのか。 答え：無分別智の後に生じる得られた智慧によって、菩薩の行いを成就する。この行いは、すなわち無分別智に基づいている。進んで向上・増長させるために、つまりこれらの菩薩の行いを増大させるために、無分別智がその支えとなる。では、この無分別智は何を助けとするのか。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩助伴， 說為二種道，是無分別智， 五到彼岸性。

> 諸菩薩の助け手となるものは、二種の道と呼ばれる。 すなわち、それは無分別智と、五つの波羅蜜（到彼岸）の性質である。

釋曰：二種道者，一資糧道、二依止道。資糧道者，謂施、戒、忍及與精進波羅蜜多。依止道者，即是靜慮波羅蜜多。由前所說波羅蜜多所生諸善，及依靜慮波羅蜜多，無分別智即得生長，此智名慧波羅蜜多。乃至未得佛果已來，無分別智於何處所感異熟果？

> 解説します。二種類の道とは、第一に「資糧道」、第二に「依止道」です。資糧道とは、布施、戒律、忍辱、そして精進の波羅蜜多を指します。依止道とは、すなわち静慮（瞑想）の波羅蜜多です。先に述べた波羅蜜多によって生じるさまざまな善行と、静慮の波羅蜜多に依って、無分別の智慧が生まれ育ちます。この智慧を慧の波羅蜜多と呼びます。仏の境地に至るまでの間、この無分別の智慧は、どのような場所で異熟の果報を受けるのでしょうか。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩異熟， 於佛二會中，是無分別智， 由加行證得。

> 諸菩薩の異熟は、仏の二つの会において、 これは無分別智であり、加行によって証得される。

釋曰：於佛二會中者，謂受用身會中，及變化身會中。若無分別加行轉時，於變化身會中受生，受異熟果。若已證得無分別智，於受用身會中受生，受異熟果。為顯此義故，復說由加行證得。無分別智誰為等流？

> 説明します。「仏の二つの会」とは、受用身の会と変化身の会です。 もし無分別の修行をしている段階なら、変化身の会に生まれ、異熟の果報を受けます。 もし無分別智をすでに証得したなら、受用身の会に生まれ、異熟の果報を受けます。 この意味を示すために、さらに「修行によって証得する」と説かれています。 では、無分別智の等流は何でしょうか？

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩等流， 於後後生中，是無分別智， 自體轉增勝。

> 諸々の菩薩たちの流れは、後の後の生涯において、 この無分別の智慧そのものが、自ずと増上していく。

釋曰：諸菩薩等流於後後生中者，於次前說二身大會後後生中。是無分別智自體轉增勝者，即彼所修無分別智展轉增勝，應知即是彼等流果。無分別智出離云何？

> 次のように解説される。諸々の菩薩に等流する後の後の生においてとは、先に述べた二身の大いなる集いの後の後の生中のことである。無分別智の自ら体が転じて増勝するとは、その修行された無分別智が次第に転じ増し勝ることをいい、これがすなわちその等流果であると知るべきである。無分別智の出離とは、どのようなものであろうか。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩出離， 得成辦相應，是無分別智， 應知於十地。

> 諸菩薩が迷いより離れて悟りを得る、 その成就の道すじと対応するもの。 それが分別を超えた智慧であり、 十の修行の段階にあると知るべきである。

釋曰：諸菩薩出離者，進趣究竟故名出離，即是進趣大涅槃義。得成辦相應是無分別智者，初獲此智名得相應，次後無量百千大劫成辦相應。應知於十地者，謂從初地乃至第十，如是次第。此智初地唯名為得，爾後多時乃名成辦，是故菩薩經無數劫乃證涅槃，由爾所時方到究竟。無分別智誰為究竟，而次前說次第獲得？

> 訳して申します。諸菩薩の「出離」とは、進み趣いて究竟に至ることを「出離」と言います。すなわち、大涅槃に進み趣くという意味です。「得成辦相應」とは、すなわち無分別智のことです。初めてこの智慧を得ることを「得相應」と言い、その後に無量百千の大劫（長い時間）を経て、それが円満に成就することを「成辦相應」と言います。十地については、初地から第十地まで、このように順を追って理解すべきです。この智慧は、初地においてはただ「得」と名付けられ、その後長い時を経て初めて「成辦」と呼ばれます。それゆえ、菩薩は無数の劫を経て、ようやく涅槃を証するのです。なぜなら、その長い時間を経て初めて究竟に至るからです。では、無分別智の「究竟」とは何を指すのでしょうか。前に「次第に獲得する」と説かれているのは、そのためです。

論曰：

> 論に曰く。

諸菩薩究竟， 得清淨三身，是無分別智， 得最上自在。

> すべての菩薩が究極の境地に達し、清らかな三身（さんじん）を獲得します。 これは分別を超えた智慧であり、最高の自在を得るものです。

釋曰：得清淨三身者，是得如來淨三身義。言清淨者，謂初地中唯得三身，至第十地乃善清淨。得最上自在者，無分別智非唯證得清淨三身以為究竟，而復獲得十種自在，此如後說應知其相。無分別智有何勝利？此中三種無分別智：一者加行無分別智、二者根本無分別智、三者後得無分別智。此中加行無分別智，謂諸菩薩初從他聞無分別理，次雖未能自見此理而生勝解。次此勝解為所依止，方便推尋無分別理，是名加行無分別智。由此能生無分別智，是故亦得無分別名。如是加行無分別智無染勝利，其譬云何？

> 解釈すると、「清浄なる三身を得る」とは、如来の清らかな三身をそなえるという意味です。「清浄」とは、初地（初めての悟りの段階）ではただ三身を得るにとどまり、第十地に至って初めて完全に清らかになることを指します。「最も優れた自在を得る」とは、無分別智によって清らかな三身を証得するだけで終わるのではなく、さらに十種の自在を獲得することを意味します。これについては後で詳しく述べられるでしょう。 では、無分別智にはどのような優れた効果があるのでしょうか。ここでは三種の無分別智があります。第一に「加行無分別智（修行を積む段階の無分別智）」、第二に「根本無分別智（悟りの根本にある無分別智）」、第三に「後得無分別智（悟りを得た後に働く無分別智）」です。 このうち、加行無分別智とは、菩薩が最初に他者から無分別の道理を聞き、まだ自らその道理を悟ってはいないものの強い確信（勝解）を生じる段階を言います。次に、その確信に基づいて、無分別の道理を推し測り追求する修行を積みます。これを加行無分別智と呼びます。この智によって根本無分別智が生まれるため、同じく「無分別智」の名で呼ばれます。 この加行無分別智には、煩悩を汚さないという優れた効果があります。その例えはどのようなものでしょうか。

論曰：

> 論に曰く。

如虛空無染， 是無分別智，種種極重惡， 由唯信勝解。

> 虚空の如く 染まらず、これが無分別の智慧である。 様々な極めて重い悪も、ただ信と勝解によってのみ清められる。

釋曰：為欲顯示彼不能染故，說種種極重惡言。為欲顯示不能染因故，說由唯信勝解。言由唯信樂無分別理而起勝解，故能對治種種惡趣，此即顯示諸惡不染。此中根本無分別智無染勝利，其譬云何？

> 説明しよう。その者が染まらないことを示すために、あらゆる非常に重い悪口が語られている。また、染まらない原因を示すために、「ただ信によって勝解する」と言われている。「ただ無分別の理を信じ楽しんで勝解を起こす」という意味であり、それによって様々な悪趣を対治できる。これが、諸々の悪に染まらないことを示している。ここで、根本無分別智が染まらないという功徳について、そのたとえはどのようなものか。

論曰：

> 論に曰く。

如虛空無染， 是無分別智，解脫一切障， 得成辦相應。

> 虚空のように汚れがなく、それは分別を超えた智慧です。 すべての障りから解き放たれて、完成した境地に至ります。

釋曰：從何解脫？謂解脫一切障。由何解脫？謂成辦相應如是解脫。由於諸地唯得相應，成辦相應以為因故，此即顯示無分別智能治諸障。此中後得無分別智無染勝利，其譬云何？

> 次のように説明される。「何から解脱するのか。あらゆる障害から解脱するのである。何によって解脱するのか。修行を完成させることとそれに相応することによって、このような解脱が実現する。各段階において、ただ相応することを得て、修行を完成させることと相応することを原因とするからである。これは、無分別智が諸々の障害を対治することを示している。このうち、後得の無分別智には煩悩の汚れがないという功徳があるが、そのたとえはどのようなものか。」

論曰：

> 論に曰く。

如虛空無染， 是無分別智，常行於世間， 非世法所染。

> 虚空のように染まることがない、これが分別を超えた智慧である。 常に世の中を行きながらも、世の煩わしさに染まることがない。

釋曰：由此智力觀諸有情諸利樂事故，思往彼世間受生。既受生已，一切世法所不能染。世法有八：一利、二衰、三譽、四毀、五稱、六譏、七苦、八樂。從無分別智所生故，此智亦得無分別名，今當顯此三智差別。

> この智慧の力によって、すべての生きとし生けるものの利益と安楽を見て、その世に生まれることを願う。生まれた後は、世間のあらゆる法則に染まることがない。世間の法則には八つある。第一に利益、第二に衰退、第三に誉められること、第四に貶されること、第五に称賛されること、第六に非難されること、第七に苦しみ、第八に楽しみである。この智慧は無分別智から生じるため、無分別という名を得る。ここで、この三つの智慧の違いを示そう。

論曰：

> 論に曰く。

如啞求受義， 如啞正受義，如非啞受義， 三智譬如是。如愚求受義， 如愚正受義，如非愚受義， 三智譬如是。如五求受義， 如五正受義，如末那受義， 三智譬如是。如未解於論， 求論受法義，次第譬三智， 應知加行等。

> 唖者のように意味を求め、 唖者のように意味を受け取り、 唖者ではないように意味を受ける。 三智とは、このようなものである。 愚者のように意味を求め、 愚者のように意味を受け取り、 愚者ではないように意味を受ける。 三智とは、このようなものである。 五識のように意味を求め、 五識のように意味を受け取り、 末那識のように意味を受ける。 三智とは、このようなものである。 まだ論を理解していない者が 論を求め、法の意義を受け取るように。 三智を順に譬えるならば、 加行等と知るべきである。

釋曰：此中三智如其譬喻，應知差別。譬如啞人求受境義不能言說，如是加行無分別智應知亦爾。譬如啞人正受境義寂無言說，如是根本無分別智應知亦爾。如非啞人受境義已，如其所受而起言說，如是後得無分別智應知亦爾。此中意取能作文字名為言說，如愚頌中無所了別說名為愚。如前啞喻應正安立三智差別。如五頌中，五謂眼等五無分別，應知此中求受、正受俱無分別，加行、根本於真如義差別亦爾。如意受義亦能分別，如是後得亦能受義亦能分別。如是三智如前啞喻安立差別。於論頌中，如未解論於論求解，如是加行無分別智應知亦爾。如溫習論但受於法，如是根本無分別智應知亦爾。此中法者意取文字，如解論者於法於義皆能領受，如是後得無分別智應知亦爾。次第之言，顯示三智似於法義領受差別。次當顯示根本後得譬喻差別。

> 解説：三つの智慧の区別は、たとえ話によって理解すべきである。例えば、唖者が対象の意味を求めようとしても言葉を発することができないように、加行無分別智もまた同様である。例えば、唖者が対象の意味を正しく受け止めて静かに言葉を発しないように、根本無分別智もまた同様である。例えば、唖者でない人が対象の意味を受け止めた後、その受け止めたままに言葉を発するように、後得無分別智もまた同様である。 ここでいう「言説」とは、文字を書き表すことができることを指す。例えば、「愚かな者」という言葉が何も区別しないことを「愚か」と呼ぶのと同じである。先の唖のたとえによって、三つの智慧の区別を正しく示すべきである。 例えば五つの頌において、「五」とは眼などの五つの無分別を指す。ここで求めていること、正しく受け止めることは、いずれも無分別である。加行と根本は真如の意味においても同様の区別がある。心が意味を受け止めるとき、同時に分別することもできる。後得もまた意味を受け止め、分別することができる。このように三つの智慧は、先の唖のたとえのように区別される。 論の頌において、まだ論を理解していない者が論を解こうと求めるのと同じように、加行無分別智もまた同様である。論を習熟してただ法を受け止めるのと同じように、根本無分別智もまた同様である。ここでいう「法」とは文字を指す。論を理解した者が法と意味の両方を受け取ることができるように、後得無分別智もまた同様である。 「次第」という言葉は、三つの智慧が法と意味を受け取る際の区別の順序を示している。次に、根本と後得のたとえの区別を示す。

論曰：

> 論に曰く。

如人正閉目， 是無分別智，即彼復開目， 後得智亦爾。應知如虛空， 是無分別智，於中現色像， 後得智亦爾。

> 人が静かに目を閉じている状態、それが無分別智です。 そして再び目を開く状態、それが後得智でもあります。 虚空のようにとらえどころのないもの、それが無分別智です。 その中に色や形が現れること、それが後得智でもあります。

釋曰：初頌顯示二智差別，其相可知。如虛空者，譬如虛空周遍無染，非能分別、非所分別，如是根本無分別智應知亦爾。遍一切法一味空性，故名周遍。一切諸法所不能染，故名無染。自無分別，是故說名非能分別。亦不為他分別行相，是故說名非所分別。如是應知，無分別智譬如虛空。現色像者，譬如空中所現色像是可分別，如是後得無分別智應知亦爾，是所分別亦能分別。若以如是無分別智修成佛果，既離功用作意分別，云何能成利益安樂諸有情事？

> 解説によれば、初めの偈は二つの智慧の違いを示しており、その様子は理解できるであろう。「虚空の如し」とは、例えば虚空があまねく広がり、汚れに染まらず、分別するものではなく、分別されるものでもない。このように、根本無分別智もまた同じであると知るべきである。すべての法にわたって一味の空性であるから「周遍」と言い、すべての諸法によって汚されることがないから「無染」と言う。自ら分別がないから「非能分別」と名づけられ、また他によって分別される行相でもないから「非所分別」と名づけられる。このように、無分別智は虚空のごとくであると知るべきである。 「現色像者」とは、例えば空中に現れる色像は分別されるものである。このように、後得無分別智もまた同じであると知るべきであり、それは分別されるものであるとともに、分別するものでもある。 もしこのような無分別智によって仏果を成就したならば、すでに功用や作意の分別を離れているのに、どのようにして一切の有情を利益し安楽にするという働きを成し遂げるのだろうか。

論曰：

> 論に曰く。

如末尼天樂， 無思成自事，種種佛事成， 常離思亦爾。

> あたかも天の楽器が、何も考えずに自然に音を奏でるように、 仏の働きもまた、思いを離れて、様々な形で自然に現れ成就するのです。

釋曰：如離分別，所作事成。於此頌中末尼天樂譬喻，顯示如如意珠，雖無分別而能成辦隨諸有情意所樂事。又如天樂無擊奏者，隨生彼處有情意樂出種種聲。如是應知，諸佛菩薩無分別智，雖離分別而能成辦種種事業。次當顯此無分別智所有甚深，此智為緣依他起性，分別事轉為緣餘境。若爾何失？若緣分別，無分別性應不得成。若緣餘境，餘境定無，云何得緣？

> 説明：分別を離れているにもかかわらず、行うべきことが成就される。 この偈頌において、如意宝珠と天の楽器という喩えが示されている。如意宝珠は、それ自体には分別がなくとも、心ある者たちが願う事柄を叶えることができる。また、天の楽器は、奏でる者がいなくとも、その場所にいる心ある者たちの好みに応じて、さまざまな音を奏でる。 このように知るべきである。諸仏や菩薩の無分別智は、分別を離れているにもかかわらず、様々な事業を成し遂げることができる。 次に、この無分別智の持つ全ての深遠さを示す。この智慧は、依他起性を縁として、分別の対象として働くのか、あるいは他の対象を縁とするのか。もしそうならば、どのような誤りがあるのか。もし分別を縁とするならば、無分別の性質は成立し得ない。もし他の対象を縁とするならば、その対象は必ず存在しないため、どのようにして縁とすることができるのか。

論曰：

> 論に曰く。

非於此非餘， 非智而是智，與境無有異， 智成無分別。

> ここに於いても、他の場所でもなく 智慧でもなく、智慧によってでもない 境と異なることなく 智慧は分別のないものとなる

釋曰：非於此非餘者，此智不緣分別為境，無分別故。不緣餘境即緣依他，諸分別法真如法性為境界故，法與法性若一若異不可說故。此說根本無分別智不緣分別亦不緣餘。又此根本無分別智，為智為非？若爾何失？若是智者，云何是智而是無分別？若非智者，云何說為無分別智？答此問言：非智而是智。此顯根本無分別智非定是智，以於加行分別智中此不生故。亦非非智，以從加行分別智因而得生故。復有別義，非於此非餘非智而是智者，以非於此分別轉故，說名非智。以非於餘，即於分別法性轉故，而亦是智。前後二句互相解釋。與境無有異智成無分別者，非如加行無分別智，有其所取能取性轉，名無分別。與所取境無差別轉，平等平等，名無分別。此智不住所取能取二種性中，如薄伽梵餘契經中說：一切法皆無分別。為欲顯示無分別義，復說頌言：

> 解説します。この「非智、而是智」とは、根本無分別智が決して「分別の智」ではないことを示します。なぜなら、加行の分別智においては、この智は生じないからです。また、決して「智でない」わけでもありません。なぜなら、加行の分別智という原因から生じるからです。別の意味として、「この世の分別において作用しない」から「非智」であり、「世の分別ではないところ、すなわち分別の真如において作用する」から「智」でもあるのです。前後の二句は互いに説明し合っています。 「境と異なることなく、智は無分別となる」とは、加行の無分別智のように、所取と能取の性質が作用しているために「無分別」と呼ばれるのとは異なります。この根本無分別智は、所取の境と区別なく作用し、平等であるため「無分別」と呼ばれます。この智は、所取と能取の二つの性質に留まりません。これは、世尊が他の経典で「すべての法は無分別である」と説かれたことと同じです。この無分別の意味を明らかにするために、さらに次の偈が説かれています。

論曰：

> 論に曰く。

應知一切法， 本性無分別，所分別無故， 無分別智無。

> あらゆるものごとは、その本性において区別のないものであると知るべきである。 区別する対象がないのだから、区別しない智慧もまた存在しないのである。

釋曰：應知一切法本性無分別者，是一切法本來自性無分別義。何以故？所分別無故。此即顯示所分別事無所有故，諸法本性無有分別。若所分別無所有故，諸法本性無分別者，何故本來一切有情不得解脫？答此問言：無分別智無。此顯彼無無分別智，雖一切法本來自性無有分別而不解脫。若於諸法無分別理真證智生，現見諸法無分別性即得解脫，此未生故未得解脫。真證智者，應知即是無分別智，今當顯此三智差別。

> 解説：あらゆるものごとは、本来、区別や分け隔てのない性質を持っていると知るべきです。なぜなら、区別される対象そのものが存在しないからです。つまり、区別される対象が全くないので、すべてのものごとは本来、区別のない性質なのです。 このように、すべてのものごとが本来、区別のない性質であるならば、なぜすべての生きとし生けるものは最初から悟りを開いていないのか？という問いに答えます。「分別のない智慧（無分別智）が存在しないから」です。これは、たとえすべてのものごとが本来、区別のない性質であっても、その智慧が欠けているために悟りを得られないことを示しています。 ものごとの区別のない真理を真に理解する智慧（真証智）が生まれ、ものごとの分別のない性質をありのままに見るとき、初めて悟りを得ることができます。この智慧がまだ生じていないため、悟りを得られないのです。 この真証智こそが無分別智であり、ここでその三種類の智慧の違いを明らかにします。

## 攝大乘論釋卷第八

> 摂大乗論釈 巻第八