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title: "陰騭文圖 · 帝君曰吾一十七世為士大夫身"
description: "陰騭文圖是一部融合了繪畫與文本的佛教勸善典籍。該書由清代畫家費丹旭繪製插圖，學者許光清進行文字集證。其內容以文昌帝君陰騭文為核心，通過費丹旭生動的圖畫和許光清詳實的考證注釋，闡釋積德行善、因果報應之理。作品產生於清代善書文化盛行時期，旨在以圖文並茂的形式教化民眾。它在佛教民間信仰及善書傳播史上佔有獨特地位，是研究清代佛教藝術與道德教化思想的重要圖文資料。"
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### 帝君曰吾一十七世為士大夫身

> 帝君は言われた。「私は十七世にわたり、士大夫の身分であった。」

化書帝君於周武王乙巳歲生會稽山陰隱者張氏家名善勳其鄉剪髮文身乃尋冠屨自習禮文化者十七八有耆舊誦唐虞大訓數篇就習焉記授無遺邑人以為師後究脈理味藥性造其妙京周召為醫師遷司諫告老歸沒後天帝以為君山主宰又生河朔張氏名忠嗣字仲為保氏奉先人之職陞為大夫以諫死為雪山大仙蜀門行化為蜀北門山王降生為趙王如意為呂后所殺孝宣時生邛邑張子家受形趙國為張禹之子名勳為清河令順帝永和閒生世為張孝仲不登顯仕復生河朔大將軍鄧艾辟請為從事晉武帝太康八年二月初三日生於金馬山張老家名亞字需美建興末作儒士稱謝艾陳隋閒生銅川家為文中子唐明皇幸蜀至萬里橋以儒生謁帝歸闕封為左丞相僖宗出鳳翔以儒服見帝居清涼寶山蜀苦水災及疾化里人為篙師拯溺又化太醫生為診候宋興翊聖降於終南張守真之廬二聖北狩應化清河氏之家紹聖丁丑託化張浚隆興甲申死葬衡陽掌文昌之命於天奉玉音加秩金闕昊天太師

> 文昌帝君は、周の武王の乙巳の年に会稽の山陰に生まれました。隠者である張氏の家に生まれ、名を善勲と言いました。その土地では髪を短く切り、体に入れ墨をする風習がありましたが、やがて冠や履き物を身につけ、みずから礼儀や文化を学び始めました。十七、八歳のころには年長の人々が唐や虞の時代の大切な教えを唱えるのを聞き、それを学んで、一度聞いただけで全てを記憶し、何も忘れませんでした。村の人々は彼を師として敬いました。後に脈を見る術を究め、薬の性質を味わい、その素晴らしさを極めました。京の都で周や召のように仕え、医師となり、やがて司諫に昇進しましたが、年老いて職を辞し、故郷に帰りました。亡くなった後、天帝は彼を君山の主宰とされました。また、河北の張氏の家に生まれ変わり、名を忠嗣、字を仲と言いました。保氏の職務を引き継ぎ、大夫に昇進しましたが、諫言のために命を落とし、雪山の大仙となりました。蜀の門で教えを広め、蜀の北門の山王となりました。さらに転生して趙王如意となり、呂后に殺されました。漢の宣帝の時代には邛邑の張子の家に生まれ、趙の国で身を受けて張禹の子となり、名を勳と言いました。清河の県令となり、順帝の永和の間に生まれ、代々張孝仲として世に知られましたが、高い地位には就きませんでした。再び河北に生まれ、大将軍の鄧艾に召し出されて従事となりました。晋の武帝の太康八年、二月初三日に金馬山の張老家に生まれ、名を亜、字を需美と言いました。建興の末には儒者となり謝艾と称しました。陳や隋の時代には銅川の家に生まれ、文中子となりました。唐の明皇が蜀に行幸されたとき、万里橋で儒者の姿で帝にお目通りし、都に帰ってからは左丞相に封じられました。僖宗が鳳翔に逃れたときも、儒服で帝にお会いし、清凉宝山にお住まいになりました。蜀で水害や疫病が起こったときには、村人を篙師に変えて人々を救い、また太医に化身して診察させました。宋が興ると、翊聖として終南の張守真の庵に降臨されました。二聖が北方へと去られたときには、清河氏の家に応化として現れました。紹聖の丁丑の年に張浚として託生され、隆興の甲申の年に亡くなり、衡陽に葬られました。天において文昌の職務を掌り、玉音を奉じて金闕昊天太師の位を授けられました。

〔附證〕化書一十七世之盡孝盡忠又以衍上帝一十七光之休　勸戒士子文歷一十七世之艱慈悲不改　命彭定求宣示第一條吾為士大夫一十七世未嘗不孝父母不忠君王又第二條吾為士大夫一十七世何嘗不以濟人利物為心又第三條吾一十七世為士大夫未嘗一念驕人一念欺人　觀心齋語錄然余總司文教濟人利物自十七世以至今未嘗少懈又果能體余一十七世之慈自可優入聖賢之域

> 〔附証〕『化書』には、十七世にわたり尽くした孝と忠が記され、また上帝の十七の光明の功徳を広めたとある。士子を戒める文には、十七世の艱難を経ながらも慈悲が変わらなかったとある。彭定求に命じて第一条を宣示する。我は士大夫として十七世、父母に孝を尽くさず、君王に忠を尽くさなかったことは一度もない。また第二条に、我は士大夫として十七世、人を助け物を利する心を抱かなかったことがあろうか。また第三条に、我は十七世にわたり士大夫として、一度も人に対して驕る心や、人を欺く心を持ったことがない。『観心斎語録』に見える。されど我は文教を総べ、人を助け物を利すること、十七世より今日に至るまで、少しも怠ったことがない。また、もし我の十七世にわたる慈悲をたしかに体得するならば、自ずから聖賢の境地に入り得るであろう。