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title: "北磵居簡禪師語錄 · 頌古"
description: "北磵居簡禪師語錄由宋代禪師居簡的弟子大觀編撰而成，記錄了南宋臨濟宗高僧北磵居簡的禪法開示、機鋒問答及詩文著作。該語錄反映了宋代禪宗的思想特色與實踐風貌，內容涵蓋禪宗心要、修行指導及對機教化，是研究宋代臨濟宗禪法的重要文獻。居簡禪師作為大慧宗杲的法脈傳承者，其語錄語言犀利直指人心，在佛教史上具有承先啟後的地位，對後世禪宗發展影響深遠。"
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### 頌古

> 頌古

舉楞嚴經七處徵心。

> 楞厳経に、心の在り処を七回にわたって追求するという話が出てきます。

卍庵頌。七處徵心款便成。推窮尋逐桉分明。都緣家賊難防備。撥亂乾坤見太平　師頌云。

> 卍庵の頌： 「七箇所で心を尋ねる問答、その縁が整えばとっくに悟りは開けていた。 ただ追い求め探し回るうちに、事の真相ははっきりと明らかになる。 すべては、家の中の賊（煩悩）が防ぎにくいからだ。 しかし、乱れた世界を整えれば、太平の世が見えてくる。」 師の頌いわく： 「（このように悟りを開いたならば、）心の迷いも静まり、すべてが落ち着く。」

吹糠著米。翻成特地。不因一事。不長一智。

> 糠を吹けば米にのる。わざわざそうしているのだ。一つのことがなければ一つの智も育たぬ。

舉阿難大眾獲本妙心。

> 阿難や大衆は、みな本来の微妙な心を得ました。

卍庵頌。東西南北捉虗空。海角天涯信不通。力盡神疲無處覔。萬年松在祝融峰　師頌云。

> 卍庵の頌： 東西南北、虚空を捉えんとせしも 海角天涯、便り通わず 力尽き神疲れて、求むる処なし 万年の松、祝融峰にあり 師の頌に曰く：

適我昔所願。今者已滿足。是玉也大奇。只恐不是玉。

> 我が昔の願いにかなうこと、 今や満たされました。 この玉は実に不思議です。 ただ、玉ではないのではと恐れるばかりです。

舉八還辨見。

> 八つの「還る」という考えを取り上げて、見性について明らかにする。

卍庵頌。明暗色空不可還。不可還者絕躋攀。夾截虗空成畔岸。一重水隔一重山　師頌云。

> 卍庵の頌： 明暗や色と空は、元のところに戻せない。 戻せないものは、それ以上近づくことも、のぼることもできない。 虚空を断ち切って、はっきりと境界を作ったかのようだが、 一重の水が隔たり、さらに一重の山が立ちはだかる。 師の頌にいう：

色空明暗。各不相知。行到水窮處。坐看雲起時。

> 色も空も、明るさも暗さも、それぞれが互いに知ることはありません。 水の尽きるところに歩み至り、座して雲の立ち昇る時を眺める。

舉富樓那問佛。清淨本然。云何忽生山河大地。

> 富楼那が仏に問うた。「本来、清らかで静かなものであるならば、なぜ突然、山や川、大地が生じたのでしょうか。」

卍庵頌。清淨本然徧法界。山河大地即皆現。性覺必明認影明。眼耳便隨聲色轉　師頌云。

> 卍庵の頌： 清らかで本来のままの姿が、法界の隅々にまで遍満している。 この清らかな世界に、そのまま山河や大地が現れているのだ。 本質的な目覚めが明らかであることを、影のようなものに認めてしまうと、 たちまち眼や耳は声や色に振り回されてしまう。 師の頌： （師の頌の内容が省略されています）

彌滿清淨。終不容他。山河大地。萬象森羅。

> 清らかさで満ち溢れており、他のものを一切受け入れません。山や川、大地、そして森羅万象のすべてのものも。

舉六解一亡。

> 六つのものを挙げれば、一つのものは消えてなくなります。

卍庵頌。根塵縛脫本同源。一處休復六用捐。手把一條紅斷貫。娘生鼻孔一時穿　師頌云。

> 卍庵の頌： 「根と塵、束縛と解脱は、もともと同じ源から出ている。一箇所で休めば、六つの働きも捨てられる。手に一本の赤い断ち貫きを持てば、生まれつきの鼻の穴も一度に通る」 師の頌に曰く。

結解非殊。存亡無據。試問本來宗。當初誰縛汝。

> 結び解くも殊にあらず。存も亡も拠るところなし。試みに問う、本来の宗旨、いったい誰が最初にお前を縛ったのか。

舉楞嚴會上。觀世音菩薩三十二應身。十四無畏法。

> 楞厳経の会で説かれた、観世音菩薩の三十二応化身と十四の無畏の法について。

卍庵頌。三十二應不思議。十四無畏如流水。男子身中入定時。女子身中從定起　師頌云。

> 卍庵の頌： 三十二応は思いもよらぬ不思議。 十四の無畏は流れる水のごとし。 男の身にて定に入り、 女の身にて定より起つ。 師の頌に曰く。

翻手為雲。覆手為雨。業識忙忙。無本可據。

> 手のひらを返せば雲となり、手のひらを伏せれば雨となる。業（ごう）の意識に忙しく動かされ、よりどころとなるものはどこにもない。

舉妙性圓明。離諸名相。本來無有世界眾生。

> 妙なる性は円かに明らかであり、あらゆる名や形を離れています。本来、世界も衆生も存在しません。

卍庵頌。一錢為本萬錢利。富不足而貧有餘。換骨奪胎些子藥。輸它潘閬倒騎驢　師頌云。

> 卍庵の頌（じゅ）： 一本の銭が万の儲けを生む。 富める者は足らず、貧しき者は余裕がある。 骨を変え胎を奪う、わずかな薬。 潘閬（はんろう）が驢馬に逆さまに乗る姿にはかなわない。 師の頌（じゅ）： （※師の頌の本文が続きます）

金盤不可動。轆轆轉難住。停待良久間。圓明湛如露。

> 金の皿は決して動かないのに、 ころころと絶え間なく回り続ける。 しばらくじっと止まってみれば、 まるで露のように、円く澄んで輝いている。

舉阿難大眾。復白佛言。若此妙明真淨妙心。本來徧圓。如是乃至。大地草木。蠕動含靈。本元真如。即是如來成佛真體。佛體真實。云何復有地獄餓鬼畜生。

> 阿難と大勢の修行者たちが再び仏に申し上げた。 「もしこの、妙に明らかで真実に清らかな素晴らしい心が、もともと全てを満たし余すところなく、大地や草木、這う虫や命あるものの一つ一つに至るまで、本来の真実の姿そのものであり、それがまさに如来が仏となる真の本体であるならば、その仏の体は真実そのものであるはずなのに、なぜまた地獄や餓鬼や畜生という世界が存在するのでしょうか」

卍庵頌。雙劒峰前古寺基。天尊元是一牟尼。時難只得同香火。莫聽閑人說是非　師頌云。

> 卍庵の頌（じゅ）： 双剣峰の前、古い寺の跡。 天に尊ばれるもの、もとは一つの牟尼（ぶつ）。 時節が難しいから、同じ香を共にたくだけ。 人の噂話に耳を貸すな。 師の頌（じゅ）：

三蛇九鼠。一畞之地。干木隨身。逢場作戲。

> 三匹の蛇と九匹の鼠。一枚の田んぼほどの土地。 乾いた木を身にまとい、場に出ればそのまま芝居をする。

舉佛言。阿難。此等眾生。不識本心。受此輪迴。經無量劫。不得真淨。皆由隨順殺盜婬故。反此三種。又則出生無殺盜婬。有名鬼倫。無名天趣。有無相傾。起輪迴性。

> 仏が言われた。「阿難よ、これらの衆生は本来の心を認識できずに、この輪廻を受けている。無量の劫を経ても真の清浄を得られないのは、すべて殺生・盗み・婬欲に従っているからである。これら三つの逆をなすことで、また殺生・盗み・婬欲のない状態が生じる。あるものを鬼の仲間といい、ないものを天の境地という。有と無が互いに傾き合い、輪廻の性質を引き起こすのである。」

卍庵頌。七處精研一妄心。更隨三業殺盜婬。身心不是用家具。前箭猶輕後箭深　師頌云。

> 卍庵の頌： 七つの場所で一つの妄心を細かく調べても、 さらに三つの業（身・口・意）に従って、殺・盗・淫を繰り返す。 心も体も、ただの道具ではない。 前の矢はまだ軽いが、後の矢は深く刺さる。 師の頌：

客舍并州已十霜。歸心日夜憶咸陽。無端又渡桑乾水。却望并州是故鄉。

> 并州の宿に十年の霜が降りた。 帰る心は日夜、咸陽を懐かしむ。 理由もなくまた桑乾の水を渡り、 振り返れば并州こそが故郷であった。

舉如來自說禪魔後。告阿難云。無令心魔。自起深孽。

> たとえば如来が自ら禅の魔について説かれた後、阿難に告げて言われました。 「心の魔を起こしてはならない。自ら深い罪を造り出すことになるからである。」

卍庵頌。瞿曇徹底老婆心。見明色發理難任。入鄉隨俗那伽定。佛魔到此盡平沈　師頌云。

> 卍庵の頌： 瞿曇（釈迦）の徹底した老婆心―― 「見え、明るさ、色が現れる」という理は、受け入れがたい。 郷に入れば郷に従う、那伽（龍）の定。 仏も魔も、ここに至ればすべて平らかに沈む。 師の頌： （※現代訳は和文として自然に）

挽弓須挽強。用槍須用長。射人先射馬。擒賊先擒王。

> 弓は強いものを引け。 槍は長いものを使え。 人を射るなら先に馬を射よ。 賊を捕らえるなら、まず頭領を捕らえよ。

舉應庵示眾云。如世良馬。見鞭影而行。先佛照出眾云。見鞭影者非良馬。應庵休去　師頌云。

> 応庵和尚が大衆に向かって言った。「世の良馬は、鞭の影を見て走るという。」 先に仏照が大衆の中から進み出て言った。「鞭の影を見るようなものは、良馬ではない。」 応庵は言葉を引っ込めた。 師、これを頌す。

疾焰過風第二頭。不堪惆悵只堪愁。一聲振𩮻長鳴後。萬馬皆瘖一戰收。

> 疾風のごとき炎は、風よりも速く、 嘆きにも耐えず、ただ愁いのみが募る。 一たび鬣を振るい、長く嘶く声の後は、 万の馬も沈黙し、一戦にて全てを決する。

舉僧問趙州。萬法歸一。一歸何處。州云。我在青州。做一領布衫。重七斤　頌云。

> 僧が趙州に問うた。「すべての法は一つに帰すという。では、その一つはどこに帰すのでしょう。」 趙州が言った。「私は青州で、七斤の重さの布の衫を一着作った。」

當機覿面提。覿面當機疾。開眼放癡頑。鞭逼人上壁。

> その人に目の前で直接、この教えを示すのが、いちばん早い道だ。しかし、目を開けていながら愚かで頑なな者は、壁に向かって追い詰められるように鞭打たれなければならない。

舉香嚴去年貧　頌云。

> 去年、香厳が「貧しい」と語ったことを挙げて、次のように詠みます。

去年貧雷在天上壯。今年貧水出山下蒙。家風不與香嚴別。熨斗煎茶銚不同。

> 去年、貧が雷（いかずち）のように天上にあり、盛んでした。今年、貧は水のように山下から湧き出し、未熟な状態です。我家の風習は香厳（きょうごん）と別物ではありませんが、熨斗（のし）で茶を煎じるのと、薬缶（やかん）で煎じるのとでは、やはり同じではないのです。

舉丹霞訪龐居士　頌云。

> 丹霞禅師が龐居士を訪ねた話。

爺頑賴。兒還債。徹底老婆心。赤土涂牛嬭。

> 爺が頼み込めば、子は借金を返す。 徹底した老婆心、赤土で牛乳を塗るようなものだ。

舉丹霞訪國師　頌云。

> 丹霞和尚が国師を訪ねたことについての頌（賛歌）です。

絕乳於菟弄瓜牙。丹霞去後說丹霞。棒頭有眼明如日。須是南陽老作家。

> 乳離れした虎が爪牙を弄るように、 丹霞が去った後も、丹霞の話をする。 棒の先に眼あり、明らかなること日の如し。 まさに南陽の老大家たらん。

舉德山隔江招手。高亭橫趍。

> 徳山和尚が川向こうから手を振ると、高亭和尚が横合いからすっと現れた。

隔江誰薦箭鋒機。直下橫趍已是遲。惆悵曲終人不見。數峰削玉水瀰瀰。

> 川を隔てて、誰が矢先の機を見抜くのか。 まっすぐに進めば、すでに遅い。 曲が終わり、人の姿が見えなくなるのは切ない。 幾つもの峰は玉のようにそびえ立ち、水は果てしなく広がっている。

舉圓覺經云。居一切時。不起妄念。於諸妄心。亦不息滅。住妄想境。不加了知。於無了知。不辨真實。

> 『円覚経』にこうあります。 「常に、あらゆる時に、とらわれの心を起こさない。様々な迷いの心についても、それを消し去ろうとしない。妄想の状態にあるときも、それをわかろうとしない。わかろうとしないことについても、それが真実かどうかを区別しない。」

三春不是讀書天。九春炎炎且放禪。唯有秋冬較些子。不如打睡過殘年。

> 春の三ヶ月は読書に適さない時期。 長く続く暑い夏は、坐禅もひとまず休みにしよう。 ただ秋と冬だけは、少しばかり勉強に向いている。 だが、それも面倒だ。いっそ眠って、この年老いた身を過ごしてしまおう。

舉僧問大隋。劫火洞然。大千俱壞。

> ある僧が大隋和尚に問うた。「劫の火が燃え盛り、大千世界がことごとく壊れ去るとき」

才伸劫火光中問。便解隨他去復回。回到悔來坡下路。亂山依舊碧崔嵬。

> 才伸劫の火光の中に問うて、 すなわち解る、彼に随って行きてまた帰る。 帰って悔いる、来た坡の下の路、 乱れ山は旧のごとく碧く崔嵬たり。

舉罽賓國王。仗劒問獅子尊者云。師得蘊空否。者云。已得蘊空。離生死否。者云。已離生死。可施我頭。者云。身非我有。況於頭乎。王遂斬尊者頭。白乳高數丈。王臂自墮。

> 罽賓国の王が剣を手に獅子尊者に問いました。 「師よ、あなたは五蘊の空を悟ったのか」 尊者は答えました。 「すでに五蘊の空を悟りました」 「では、生死を離れたのか」 尊者は答えました。 「すでに生死を離れました」 「ならば、私にあなたの頭を差し出しなさい」 尊者は答えました。 「この身すら己のものではないのに、ましてや頭などあろうはずがありません」 そこで王は尊者を斬り、その首を落としました。 すると、尊者の首からは白い乳が数丈の高さまで噴き上がりました。 そして、王の腕は自ら落ちてしまいました。

劒下十分親。難藏獨露身。江流石不轉。獨有蘊空名。

> 剣の下では、親しさも十全。 隠しきれぬ、ただ独りの露わなる身。 川の流れも、石は動かず。 ただ、空に宿るという名のみ、残る。

舉本庵和尚云。諸方拈出半青黃。總欠韋郎一夜霜。爭似藥山今夜底。滿盤托出自馨薌。

> 本菴和尚が言われた。 「諸方の老師方は、青とも黄ともつかぬ話を出す。それは韋郎の一晩の霜（のような徹したもの）が欠けている。いったいどこが、薬山和尚の今宵のようなものだろうか。皿いっぱいに差し出されて、自ら香りを放っているのだ。」

總欠韋郎一夜霜。諸方拈出半青黃。碧雲更不上盤釘。舉似諸方笑一場。

> 韋郎の一夜の霜を、すべてが欠いている。 あちこちで取り出せば半青半黄。 碧き雲はさらに盤釘にのぼらず、 あちこちに示せば、一笑を買うばかり。

舉僧問古德。年窮歲盡時如何。古德云。東村王老夜燒錢。

> ある僧が古徳に問うた。「一年の終わり、年の瀬を迎えた時、どのように過ごすべきでしょうか。」 古徳は答えた。「東の村の王老が、夜に紙銭を焼いている。」

東村王老夜燒錢。不是年窮歲盡禪。歲盡年窮消息別。東村王老夜燒錢。

> 東村の王老が夜にお金を焼く。 これは年の終わりや年の暮れの禅ではない。 年の終わり、年の暮れには別の知らせがある。 東村の王老が夜にお金を焼く。