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title: "太平廣記選輯（卷八十七～一三四） · 釋道安"
description: "《太平廣記選輯（卷八十七～一三四）》由北宋李昉等人奉宋太宗之命編纂，成書於太平興國年間，是中國古代大型類書《太平廣記》中聚焦佛教內容的選輯部分。該書收錄漢至宋初的佛教故事、高僧傳奇、因果報應及靈驗事蹟，反映佛教在中國民間社會的傳播與影響。其內容融合儒釋道思想，展現宋代佛教與文化的交融，對研究中國佛教史、文學及社會觀念具有重要價值，是了解佛教中國化進程的權威文獻之一。"
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### 釋道安

> 釈道安

釋道安姓魏氏。常山扶柳人也。家世為儒。早失覆蔭。為外兄孔氏所養。年七歲。讀書再覽能誦。鄉隣嗟異。至年十二出家。神性聰敏。而形貌甚陋。不為師之所重。數歲之後。方啟師求經。與辯意經一卷。可五千言。安齎經入田。因休息就覽。暮歸。以經還師。更求餘者。師曰。昨經未讀。今復求耶。答曰。即以闇誦。師雖異之。而未言也。復與成具光明經一卷。不減一萬言。齎之如初。暮復還師。師執覆之。不差一字。師大驚嗟。敬而異之。後為受具戒。原作戒具。據明鈔本改。恣其遊學。至鄴。遇佛圖澄。因事澄為師。及石氏將亂。與弟子惠遠等四百餘人渡河南遊。夜行值雷雨。乘電光而進。前行得人家。見門裏有一馬樁。樁之間懸一馬兜。可容一斛。安使呼林百升。百升謂是神人。厚相賞接。既而弟子問何以知其姓字。安曰。兩木為林。兜容百升也。既達襄陽。復宣佛法。時襄陽習鑿齒鋒辯天逸。籠罩當時。其先藉安高名。及聞安至止。即往修造。既坐。稱言四海習鑿齒。安曰。彌天釋道安。時人以為名答。時苻堅素聞安名。每云襄陽有釋道安。是神器。方欲致之。以輔朕躬。後遣苻平南攻襄陽。安與朱序。俱獲於堅。堅謂僕射權翼曰。朕以十萬之師取襄陽。唯得一人半。翼曰。誰耶。堅曰。安公一人。習鑿齒半人也。既至。住長安五重寺。初堅承石氏之亂。至是戶民殷富。四方略定。唯建業一隅。未能克伏。每與侍臣談語。未嘗不欲平一江左。堅弟平陽公融及朝臣石越、原紹等。並切諫。終不能廻。眾以安為堅所信敬。乃共請曰。主上將有事東南。公何能不為蒼生致一言耶。會堅出東苑。命安外輦同載。僕射權翼諫曰。臣聞天子法駕。侍中陪乘。道安毀形。寧可參廁。堅勃然作色曰。安公道德可尊。朕以天下不易。輿輦之榮。未稱其德。即𢽟僕射扶安登輦。俄而顧謂安曰。朕將與公南遊吳越。整六師而巡狩。陟會稽以觀滄海。不亦樂乎。安對曰。陛下應天御世。有八州之富。居中土而制四海。宜棲神無為。與堯舜比隆。今欲以百萬之師。求厥田下之土。且東南一隅。地卑氣厲。禹遊而止。舜狩而殂。秦王適而不歸。以貧道觀之。非愚心所同也。平陽公懿戚。石越重臣。謂並不可。猶尚見距。貧道輕淺。言必不允。既荷厚遇。故盡丹誠耳。堅曰。非為地不廣。民不足治也。將簡天心。明大運所在耳。順時巡狩。亦著前典。若如師言。則先帝王無省方之文乎。安曰。若鑾駕必動。可先幸洛陽。抗威蓄銳。傳檄江南。如其不伏。伐之未晚。堅不從。遣平陽公融等精銳二十五萬為前鋒。堅躬率步騎六十萬。至須城。晉遣征虜將軍謝石、徐州刺史謝玄距之。堅前軍大潰於八公山。晉軍遂北三十餘里。堅單騎而遁。如所諫焉。安註諸經。恐不合理。乃誓曰。若所說不甚遠遠原作道。據明鈔本改。理。願見瑞相。乃夢見道人。頭白眉長。語安云。君所註經。殊合道理。我不得入泥洹。住在西域。當相助通。可時時設食。後十十原作日。據高僧傳改。誦律至。遠公乃知和尚所夢賓頭盧也。後至秦建元二十一年正月二十七日。忽有異僧。形甚庸陋。來寺寄宿。寺房既窄。處之講堂。時維那直殿。夜見此僧。從窗而出入。遽以白安。安驚起禮訊。問其來意。答云。特相為來。安曰。自惟罪深。詎可度脫。答云。甚可以度耳。安請問來生所生之處。彼乃以手虛撥天之西北。即見雲開。備覩兜率妙勝之報。安至其年二月八日忽告眾曰。吾當去矣。是日齋畢。無疾而卒。葬城內五級寺中。是歲晉太元元年也。出高僧傳

> 釈道安は姓を魏といい、常山扶柳の人である。家は代々儒教の家柄であったが、幼くして両親を失い、母方の従兄である孔氏に養育された。七歳の時、書物を二度見ただけで暗誦でき、近隣の人々は驚き感嘆した。十二歳で出家したが、天性聡明である一方、容貌は非常に醜く、師匠からは重んじられなかった。数年後、ようやく師に経典を求めたところ、『弁意経』一巻（約五千字）を与えられた。道安は経典を田畑に持ち込み、休憩時に読み、日暮れに帰って師に返し、さらに他の経典を求めた。師は言った。「昨日の経はまだ読んでいないのに、また求めるのか」。道安は答えた。「すでに暗誦しました」。師は不思議に思ったが、何も言わなかった。次に『成具光明経』一巻（一万字近く）を与えたが、道安は前と同じように持ち出し、日暮れに返した。師が確かめると、一字も間違っていなかった。師は大いに驚き感嘆し、敬服してその才能を認めた。後に具足戒を受けさせ、自由に遊学させた。 鄴に至り、仏図澄に出会い、師事した。石氏の乱が起こりそうになると、弟子の恵遠ら四百余人とともに黄河を渡り南下した。夜道で雷雨に遭い、稲妻の光を頼りに進み、一軒家を見つけた。門の中に馬つなぎの杭があり、その間に馬の飼い桶（一斛ほど入る）がかかっていた。道安は「林百升を呼んでくれ」と言った。百升は道安を神人と思い、手厚くもてなした。後で弟子がどうしてその姓名を知ったのか尋ねると、道安は言った。「二本の木で『林』、桶が百升入るから『百升』だ」。 襄陽に着くと、再び仏法を宣揚した。当時、襄陽の習鑿歯は弁舌鋭く、一世を風靡していた。彼はかねてより道安の高名を聞き、到着を知るや、すぐに訪ねてきた。着座すると、「四海の習鑿齒」と名乗った。道安は「弥天の釈道安」と応じ、当時の人々はこれを名答と称賛した。 苻堅はかねてより道安の名を聞き、「襄陽に釈道安という人物がいる。これは神器である。朕の補佐として招きたい」と常々語っていた。後に苻丕に襄陽を攻めさせ、道安と朱序を捕らえた。堅は僕射の権翼に言った。「朕は十万の軍勢で襄陽を取ったが、得たのは一人半だけだ」。翼が「誰ですか」と尋ねると、堅は「安公一人と、習鑿歯半人だ」と答えた。 長安に至り、五重寺に住した。初め、堅は石氏の乱を継ぎ、この時には戸数も増え民も豊かで、四方はほぼ平定されていた。ただ建業の一角だけが未だ平定できず、侍臣と語るたびに、江南を平定したいと口にした。弟の平陽公苻融や朝臣の石越、原紹らは強く諫めたが、聞き入れられなかった。人々は道安が堅に信頼されているのを見て、共に請うた。「主上はまさに東南に出兵しようとされています。あなたはどうして民衆のために一言も諫めないのですか」。ちょうど堅が東苑に出て、道安を呼び輦に同乗させようとした時、僕射権翼が諫めた。「臣が聞くところでは、天子の法駕には侍中が陪乗します。道安は出家の身であり、どうしてその列に加わることができましょう」。堅は色をなして言った。「安公の道徳は尊ぶべきである。朕は天下をもってしても安公に匹敵せず、輦に乗せる栄誉さえ、その徳にふさわしいとは言えない」。すぐに僕射に命じて道安を輦に乗せた。しばらくして道安に振り返り言った。「朕はあなたと共に呉越に遊び、六軍を整えて巡狩し、会稽に登って滄海を眺めたい。楽しいではないか」。道安は答えた。「陛下は天の命を受けて世を治め、八州の富を有し、中原に居ながら四海を制しておられます。無為の境地に心を留め、堯や舜と並ぶ隆盛をなさるべきです。今、百万の軍勢をもって、あの貧しい土地を求めようとされています。しかも東南の一角は地が低く気候も厳しく、禹は行って留まり、舜は巡狩中に亡くなり、秦王（始皇帝）は行ったきり帰りませんでした。貧道の見るところ、これは賢明な心が賛同するところではありません。平陽公は陛下の近親、石越は重臣で、ともに不可と言っていますが、まだ聞き入れられていません。貧道のような軽い身分の者の言葉が、どうして聞き入れられましょうか。厚い遇いを受けているからこそ、誠意を尽くして申し上げるのです」。堅は言った。「土地が狭いとか、民が治めきれないからではない。天の心を推し量り、大運の所在を明らかにしたいのだ。時に順って巡狩するのは、前代の典籍にも記されている。師の言うとおりなら、先代の帝王に地方視察の記録はないというのか」。道安は言った。「どうしても行かれるなら、まず洛陽に行幸され、威を示し鋭気を養い、江南に檄文を飛ばされるのがよろしいでしょう。もし従わなければ、討伐しても遅くはありません」。堅は聞き入れず、平陽公融らに精鋭二十五万を前鋒とさせ、自らは歩兵騎兵六十万を率いて須城に至った。晋は征虜将軍謝石と徐州刺史謝玄を派遣して防がせた。堅の前軍は八公山で大敗し、晋軍は三十余里も追撃した。堅は単騎で逃げたが、まさに道安の諫めの通りであった。 道安は諸経に注釈を加えたが、道理に合わないのではないかと心配し、誓いを立てた。「もし私の説くところが道理から大きく外れていなければ、瑞相を見せたまえ」。すると夢に、頭が白く眉の長い僧侶が現れ、道安に言った。「あなたの注釈した経典は、まさに道理に合っている。私は涅槃に入ることができず、西域に住んでおり、あなたの通訳を助けよう。時々食事を供養してほしい」。後に『十誦律』が伝来し、恵遠は師の夢に見たのが賓頭盧尊者であったと知った。 その後、秦の建元二十一年正月二十七日、見すぼらしい異僧が寺に宿を求めてきた。寺の部屋が狭かったので、講堂に泊めることになった。その夜、維那が殿の当直をしていると、この僧が窓から出入りするのを見た。急いで道安に報告すると、道安は驚いて起き、礼をしてその来意を尋ねた。僧は答えた。「特にあなたのために来たのです」。道安は言った。「私は罪が深いと思っています。どうして救われることができましょう」。僧は言った。「十分に救うことができます」。道安が来世に生まれる処を尋ねると、彼は手で天の西北を虚しく払い、雲が開けて兜率天の妙勝な報いの世界がはっきりと見えた。 道安はその年の二月八日、突然大衆に告げた。「私はまさに去らねばならない」。その日、斎食を終えると、病気もなく亡くなった。城内の五級寺に葬られた。この年は晋の太元元年であった。