---
title: "薩婆多毘尼毘婆沙 · 2 七種得戒法"
description: "薩婆多毘尼毘婆沙是說一切有部的重要律藏註釋文獻，相傳為古印度迦旃延子等論師所造，成書於公元2至3世紀。該論以說一切有部思想為基礎，系統闡釋比丘戒律的制戒因緣、條文細節與實踐方法，涵蓋止持與作持等內容，反映了部派佛教時期的戒律學發展。此論雖漢譯本已佚，僅存部分引文，但作為有部律學的核心著作，對研究早期佛教戒律思想及部派律藏體系具有極高權威性與歷史價值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcxvo57v0on7ky048np2liz5"
---

## 薩婆多毘尼毘婆沙卷第二

> 『薩婆多毘尼毘婆沙』 巻第二

失譯人名今附秦錄

> 失訳者不明、秦録に付す

### 七種得戒法

> 七種得戒法

問曰：「佛在世幾年便聽白四羯磨受戒？」

> 質問：「仏が世にいらっしゃった何年目に、白四羯磨による受戒が許されるようになったのですか？」

答曰：「有言：佛初得道一年後聽白四羯磨受具足戒。有言：四年後。有言：八年後。以義而推，八年者是正義也。佛以二月八日弗星現時初成等正覺，亦以二月八日弗星出時生，以八月八日弗星出時轉法輪，以八月八日弗星出時取般涅槃。佛初得道，於七七日中遊諸法門及觀眾生。初七日八喜法門，第二七日入樂法門，第三七日入諸解脫，第四七日遊入大捨，第五七日入逆順觀十二因緣，第六七日重復遊歷前諸法門，第七七日觀諸眾生應受化者。」

> 答え：次のように言われています。「仏が初めて悟りを得てから一年後に、白四羯磨（四度の告白と三度の宣告）による具足戒の授戒を認めたという説がある。四年後という説もあり、八年後という説もある。道理で考えれば、八年後という説が正しい。仏は二月八日、弗星（かんむり座）が現れる時に、正しい悟りを完成された。また、同じ二月八日の弗星の出る時に生まれ、八月八日の弗星の出る時に法輪を転じ、八月八日の弗星の出る時に般涅槃に入られた。仏は悟りを得た後、四十九日の間、様々な法の門を巡り、また衆生を観察された。最初の七日に八喜法門に入り、第二の七日に楽法門に入り、第三の七日に諸々の解脱に入り、第四の七日に大いに捨てる境地を巡り、第五の七日に逆順の観察で十二因縁を観じ、第六の七日に再び先の法門を巡り、第七の七日には、教化を受けるべき衆生を観察された。」」

問曰：「佛三阿僧祇劫習菩薩行，為成佛道度諸眾生。何故四十九日遊諸法門而不度耶？」

> 問いかけます：「仏は三阿僧祇劫もの長きにわたり菩薩の行を積み、仏道を成し遂げてすべての衆生を救おうとされました。それなのに、どうして成道後四十九日の間、様々な教えの世界に遊んで、人々を救わなかったのでしょうか？」

答曰：「佛先自安身而後度彼，是故遊諸法門以自娛樂，令身心調適後度眾生。又為憍陳如五人根未熟故、又為佛法尊重故。詳而後說。又為滿梵天王本願故。梵天王本願，成佛道時要先請佛轉於法輪。是故待梵天王請而後說法。過七七日佛即生念，令梵天王知。爾時梵王如屈伸臂頃於色界沒來至佛所，請轉法輪。佛受彼請已，然後觀諸眾生誰應度者。譬如大龍從大海出，令密雲彌布欲注大雨，觀閻浮提何處國土應可雨者。佛亦如是，從無量大法海出，布慈悲雲無所不遍。欲雨法雨，觀諸眾生誰可度者。先念阿蘭迦蘭待接有禮，及欝頭藍弗等異道諸師。諸人已先命終。佛即言曰：『彼為長衰。甘露當開，汝何不聞？生死往來何緣得息？』」

> 答えて曰く、「仏はまず自らの身を安んじ、その後で他を救う。それゆえ、様々な教えの門を巡って自ら楽しみ、心身を調え整えてから、初めて衆生を救うのである。また、憍陳如ら五人の者たちの善根がまだ熟していなかったからであり、さらには仏法を尊重するためでもある。仔細を尽くしてから説かれたのだ。また、梵天王の本願を満たすためでもある。梵天王の本願とは、仏が成道されたなら、まず仏に請いて法輪を転じていただくことであった。そのため、梵天王の請いを待ってから説法されたのである。七七日を過ぎて、仏が『梵天王に知らせよう』とお思いになると、その時、梵天王は腕を伸ばし曲げるほどの瞬時に色界を去り、仏のもとに来て法輪を転じるよう請うた。仏はその請いを受け入れられた後、どの衆生を導くべきかを観察された。例えば大海から出た大竜が、密雲を広く覆わせて大雨を降らそうとし、閻浮提のどの国に雨を降らせるべきかを見極めるように。仏もまた、無量の大法の海から出て、慈悲の雲をどこにでも遍く広げ、法の雨を降らせようとして、どの衆生を導くべきかを観察された。まず、阿蘭迦蘭（アーラーラ・カーラーマ）は礼儀をもって遇してくれたこと、欝頭藍弗（ウッダカ・ラーマプトラ）など異道の師たちのことをお思いになったが、彼らは既に命を終えていた。そこで仏は言われた。『彼らは長く衰えの中にある。甘露の法はまさに開かれようとしているのに、どうしてそれを聞くことができなかったのか。生死の往き来は、いかによれば息むことがあろうか。』」

問曰：「若彼諸人必應入道，不應命終而得聞法。若不應聞不入道者，佛何故生念欲度彼人？」

> 問う：「もしその人々が必ず仏道に入るべきであったなら、命終えることなく法を聞く機会があったはずです。しかし、もし法を聞くべきでなく仏道に入らない人々であるなら、なぜ仏は彼らを救おうと思いを巡らせたのでしょうか？」

答曰：「佛欲令眾生不忘恩德。此諸人等先有小恩，佛憶欲度，而況大恩而可忘者！又此異道諸師，時人所宗，咸謂得道。欲滅一切邪憶想故、明九十六種無出要法故，痛彼長衰生死不息。唯先五人應食甘露，是故詣彼鹿園欲度五人。佛與五人安居一時。或三人乞食、二人聽法，或二人乞食、三人聽法。」

> 答えにはこうあります。「仏は、すべての衆生が恩を忘れないように望んでおられます。これらの人々には、かつて小さな恩があったため、仏は彼らを救おうと覚えておられます。ましてや大きな恩を忘れることがありましょうか。また、これらの異なる教えの師たちは、当時の人々から尊ばれ、皆が悟りを得たと思われていました。そこで、あらゆる誤った考えを消し去り、九十六種の外道に解脱への道がないことを明らかにするため、そして彼らが生死の流れの中で長く衰え続けるのを嘆かれるためです。最初に、五人だけが甘露を味わうべきでした。それゆえ、鹿野苑に向かい、その五人の者を救おうとされたのです。仏は五人の者と共に、一つの安居の期間を過ごされました。ある時は三人が托鉢に行き、二人が法を聞き、またある時は二人が托鉢に行き、三人が法を聞く、というふうにされたのです。」

問曰：「何以故二人三人各異？等侶去住不同耶？」

> 問う：なぜ二人や三人でそれぞれ違いがあり、同じ仲間でも行き先や留まり方が異なるのでしょうか？

答曰：「三人是佛父親，而愛多；二人是佛母親，而見多。是故二人三人各為等侶。所以二人三人去住不同者，若二人乞食、三人聽法，若三人乞食、二人聽法。即得食還，佛及五人共食此食。食既得辦，聽法不空。是故五人去住不俱。爾時五人雖未得戒，而剃髮著袈裟與佛相似。六年樹下給侍菩薩時，儀式已爾不適今日。安居九十日常為說法，施戒生天及陰界入種種異法以調伏之。爾時佛與五人前三月安居，過安居已至八月八日，得入見諦成須陀洹。爾時始名轉於法輪授於前人。佛及五人，始有六聖人在世間。次度寶稱等五人，皆是善來。次度五十人，亦是善來。如是次第度人轉多。佛勅諸比丘令遊行世間，欲令法處處流布。爾時世人棄俗入道詣諸比丘，或三語受戒、或三歸受戒，以眾生宿業力故。若應三語得戒者，三語則止。若應三歸得戒者，三歸便止。以業力故，自然使爾。牛呞比丘先將七萬人詣諸比丘，諸比丘各盡與三語受戒。次大迦葉來詣佛所言：『佛是我師，我是弟子。世尊修伽陀是我師，我是弟子。』是名自誓受戒。次後優樓頻螺迦葉兄弟門徒千人，舍利弗、目連等門徒二百五十人，合千二百五十人，盡是善來。所以常偏稱千二百五十人者，以是諸人同是婆羅門中出家故、又以門徒師眾大故、又俱是善來故、又以皆是阿羅漢故。佛遣阿難與大愛道八法受戒。十四年後聽白四羯磨受戒。凡七種受戒：一者見諦受戒、二者善來得戒、三者三語得戒、四者三歸受戒、五者自誓受戒、六者八法受戒、七者白四羯磨受戒。於七種中，見諦得戒唯五人得，餘更無得者。善來得戒、三語、三歸，佛在世得，滅後不得。自誓，唯大迦葉一人得，更無得者。八法受戒，唯大愛道一人得，更無得者。白四羯磨戒，佛在世得，滅後亦得。」

> 答えて曰く、「三人は仏の父方の親族であり、愛着が強い。二人は仏の母方の親族であり、見解が深い。そのため、この三人と二人はそれぞれ対等な仲間である。三人と二人の間で去就が異なるのは、二人が托鉢に行き、三人が説法を聴くか、あるいは三人が托鉢に行き、二人が説法を聴くためである。托鉢から戻ればその食を得て、仏と五人の者たちが共にその食を頂く。食が整い、説法を聴くことも怠らない。ゆえに五人の者の去就は常に共にあるわけではない。当時、五人はまだ戒律を得てはいなかったが、頭を剃り袈裟を着けて仏と似た姿であった。六年の間、木の下で菩薩に仕えていた時から、その儀式はすでにそのように行われており、今日に始まったことではない。安居の九十日の間、常に彼らのために説法し、布施、戒律、天界への生まれ変わり、五蘊・十二処・十八界など、様々な法を用いて彼らを調伏した。その時、仏は五人の者と共に最初の三ヶ月の安居を行い、安居が終わった後の八月八日、彼らは真理を見極めて須陀洹（預流果）を得た。ここに初めて『法輪を転じ、先達に授ける』という事が行われたのである。仏と五人の者たちによって、初めて六人の聖者が世の中に現れた。次に宝称（バドラ）ら五人の者を度したが、彼らは皆「善来（ようこそ）」と唱えて受戒した。次に五十人を度したが、これも「善来」によるものであった。このように次々に人を度すことが増えていった。仏は諸々の比丘たちに命じて世の中を遊行させ、法をあまねく流布させようとされた。その時、世の人々は俗世を捨てて道に入り、諸々の比丘のもとへ訪れた。ある者は三語（三つの言葉）によって受戒し、ある者は三帰（三帰依）によって受戒した。これは衆生の過去世の業の力によるものである。もし三語で戒を得るべき者は、三語で済ませた。もし三帰で戒を得るべき者は、三帰で済ませた。業の力によって、自然とそのようになったのである。牛の反芻のような比丘が先に七万人を率いて諸々の比丘のもとへ行き、諸々の比丘は皆、彼らに三語で受戒させた。次に大迦葉（マハーカッサパ）が仏のもとへ来て言った、『仏は我が師であり、私は弟子です。世尊の修行された善き道（スガタ）は我が師であり、私は弟子です。』これを自誓の受戒という。その後、優楼頻螺迦葉（ウルヴェーラ・カッサパ）ら兄弟の門弟千人、舎利弗（シャーリプトラ）と目連（モッガラーナ）らの門弟二百五十人、合わせて千二百五十人が、皆「善来」によって受戒した。常に特に千二百五十人と称されるのは、これらの人々が皆、同じバラモンの中から出家したからであり、また門弟や師の集団が大きかったからであり、また皆「善来」による受戒者であったからであり、また皆が阿羅漢（アラハン）であったからである。仏は阿難（アーナンダ）を遣わして、大愛道（マハーパジャーパティー）に八つの法（八敬戒）によって受戒させた。十四年後には、白四羯磨（一回の告白と三回の読み上げによる議決）による受戒が聴許された。合わせて七種の受戒がある。一つ目は真理を見極めての受戒、二つ目は「善来」による得戒、三つ目は三語による受戒、四つ目は三帰による受戒、五つ目は自誓による受戒、六つ目は八法による受戒、七つ目は白四羯磨による受戒である。この七種の中で、真理を見極めて戒を得たのは五人の者のみであり、他の者には得た者がいない。「善来」による得戒、三語、三帰は、仏の在世中には得られたが、仏の滅後には得られない。自誓は、大迦葉一人だけが得たものであり、他に得た者はいない。八法による受戒は、大愛道一人だけが得たものであり、他に得た者はいない。白四羯磨の戒は、仏の在世中に得られ、滅後にも得られる。」

問曰：「佛與辟支佛云何得戒？」

> 問い：仏と辟支仏は、どのようにして戒を得るのでしょうか？

答曰：「無師得戒。」

> 答え「師無くして戒を得たり」

問曰：「從教得戒、不從教得耶？」

> 問う：「教えによって戒を得るのですか、それとも教えによらずに得るのですか？」

答曰：「不從教得。有言：從教得，如佛在樹下結跏趺坐言：『我要不解此坐而得漏盡。』即身教成就、口教成就，後得漏盡，戒亦俱得，是謂身教得戒。辟支佛亦爾。若有百劫積行辟支佛，無佛法時於中出世，正得有一、不得有二。譬如犀有一角無第二角。離俗出家獨處閑靜，而自說偈：『遠離惡法，當得善法。善惡俱滅，然後得道。』爾時亦身口教二俱成就，後得漏盡戒亦俱得。是名從教得戒。若須陀洹、斯陀含、阿那含此三道人，佛法滅後若得漏盡，是鈍根辟支佛。佛法滅後，此鈍根辟支佛出，不限多少，或一或二乃至眾多。佛與百劫積行辟支佛，一坐漏盡無有階差，見諦得戒。或言：從教得戒。或言：不從教得。言從教得者，安居一時乞食聽法，身口二教亦俱成就，然後見諦戒亦俱得，是名從教得戒。佛與辟支佛及見諦得戒，是三種戒有同有異。佛與辟支佛、見諦得戒，同是具戒、同障身口七惡、同無漏心中得，是名為同。云何為異？佛與辟支佛此二戒是無師得，見諦戒是從佛得。又此二戒，大盡智現在前得；見諦戒，道未知智現在前得。又此二戒無學人得，見諦戒是學人得。是名為異。」

> 答え：教えによって得るのではない。教えによって得るとも言われる。例えば、仏が木の下で結跏趺坐して言われた。「この坐を解かずして漏尽を得よう」と。すると、身の教えと口の教えが共に成就し、後に漏尽を得、戒も同時に得た。これを身の教えによって戒を得ると言う。辟支仏もまた同じである。百劫の間、行を積んだ辟支仏が、仏法の無い時代に世に現れる場合、ただ一人であり、二人はいない。例えば犀の角が一つで二つ目が無いように。俗を離れ、出家して独り閑静な場所に住み、自ら偈を説く。「遠く悪法を離れ、当に善法を得るべし。善悪ともに滅し、しかる後に道を得ん。」その時、身と口の教えの二つが共に成就し、後に漏尽を得、戒も同時に得る。これを教えによって戒を得ると言う。須陀洹、斯陀含、阿那含の三つの道の人は、仏法が滅びた後に漏尽を得るならば、これは鈍根の辟支仏である。仏法滅後、この鈍根の辟支仏が現れるが、その数に制限はなく、一人、あるいは二人、あるいは多くいる。仏と百劫の間、行を積んだ辟支仏は、一坐にして漏尽を得、その間に階差は無く、諦を見て戒を得る。ある者は言う。教えによって戒を得ると。ある者は言う。教えによっては得ないと。教えによって戒を得ると言うのは、安居の一時、乞食し法を聴き、身と口の二つの教えが共に成就し、その後、諦を見て戒も同時に得る。これを教えによって戒を得ると言う。仏と辟支仏、および諦を見て戒を得る、この三種の戒には同じ点と異なる点がある。仏と辟支仏、諦を見て戒を得ることは、共に具足戒であり、共に身と口の七つの悪を防ぎ、共に無漏の心の中で得る。これを同じと言う。何をもって異なるのか。仏と辟支仏のこの二つの戒は師無しに得るものであり、諦を見て得る戒は仏に従って得る。また、この二つの戒は、大尽智が現在前する時に得るものであり、諦を見て得る戒は、道の未知智が現在前する時に得る。また、この二つの戒は無学人が得るものであり、諦を見て得る戒は学人が得るものである。これを異なると言う。

問曰：「此三戒十智中，何智現前得？」

> 問う：この三戒十智の中で、どの智が目の前に現れて得られるのですか？

答曰：「佛與辟支佛戒，大盡智現在前得。」

> 答え：仏と辟支仏（縁覚）の戒は、完全な智慧が現前した時に得られるものです。

問曰：「無漏心中云何得有漏戒？」

> 問う：「漏れのない心に、どうして漏れのある戒があると言えるのですか？」

答曰：「法應有爾。以業力故，無漏心中得有漏、無漏二種戒。見諦戒道未知智現在前得。無漏心中得有漏、無漏二種戒，亦如前說。見諦得戒，五人中憍陳如為上座，以先見諦故；善來中寶稱為上座，以先來故。如是善來比丘次第為上座。三語、三歸亦以先至為上座。見諦得戒、善來比丘、自誓得戒，此三種得戒必從佛得。」

> 答え：法として当然のことです。業の力によって、無漏の心の中に有漏と無漏の二種の戒が存在します。見諦の戒と道の未知智が現在に現れることで得られます。無漏の心の中に有漏と無漏の二種の戒があることは、先に述べた通りです。見諦によって戒を得た者の中では、五人では憍陳如が上座とされます。彼が最初に見諦を得たからです。善来の者の中では、宝称が上座とされます。彼が最初に来たからです。このように、善来の比丘は来た順に上座となります。三語や三帰も、先に達した者が上座とされます。見諦によって戒を得る者、善来の比丘、自誓によって戒を得る者、これらの三種の戒は必ず仏から得るものです。

問：「得稱佛作和上阿闍梨不？」

> 問う：「仏を称して和上や阿闍梨として呼んでも良いのでしょうか？」

答曰：「於弟子有和上阿耆利義；佛不為人作和上阿耆利，是故不得稱也。」

> 答えましょう。「弟子にとっては、和尚（師匠）や阿闍梨（教師）の役割があるのです。しかし、仏は人のために和尚や阿闍梨となることはありません。ですから、そう呼ぶことはできないのです。」

「從諸比丘三語、三歸受戒，得稱和上阿耆利不？」

> 「比丘たちから三語（さんご）と三帰（さんき）によって戒（かい）を受けた場合、その師を和尚（おしょう）や阿闍梨（あじゃり）と呼んでよいのでしょうか？」

答曰：「不稱和上，得稱阿耆利。大愛道八法受戒，亦得稱阿難作阿耆利，不得作和上也。」

> 答えていわく、「和尚（おしょう）とは呼べないが、阿耆利（あぎり）とは呼べる。大愛道（だいあいどう）が八つの法（おきて）によって戒を受けた時に、阿難（あなん）を阿耆利と呼ぶのは許されるが、和尚（おしょう）として呼ぶことはできない。」

問曰：「佛何以不為人作和上、阿耆利？」

> 問う：なぜ仏陀は人のために和尚や阿闍梨とならないのですか？

答曰：「為平等故。佛等心一切令盡，事以無偏，不與彼作和上、不與此作和上。又止鬪諍故，若作和上、阿耆利則有親有踈，既有親踈則有鬪諍。又為止誹謗故，若作和上，外道當言：『沙門瞿曇自言慈等一切，與一作和上、不與一作和上，與凡人無異。』又為成三歸故，若佛作和上則墮僧數。如受具戒，三師七僧十眾受戒，若作和上則入十眾，若入十眾即墮僧數，無有佛寶。若無佛寶，不成三歸。又為成四不壞淨故，若作和上則無佛不壞淨。又為成六念故，若作和上則無念佛。復次若作和上，弟子有病，應當看視飲食醫藥種種所須，豈是自在法王所應為耶？復次若作和上，弟子有病及諸苦難，則應營理供給，所乏則滅前人所有功德。如昔一時有一比丘應得羅漢，而有轉輪王業障不得漏盡。佛欲除其障故，即為比丘一正富羅，轉輪王福一時滅盡，即得無著。以是因緣故，若作和上有損無益。復次佛法流布有近有遠，若作和上，設有弟子若欲受戒，不問近遠一切盡來，則令眾生多受苦惱。若不作和上、阿耆利，則令諸弟子無有如是諸苦難也。復次若作和上，佛在世時理則可爾；若佛滅後，誰作和上？以是種種因緣，佛不為弟子作和上、阿耆利也。」

問曰：「七種受戒，幾從佛得？幾不從佛得？」

答曰：「大而言之，七種受戒盡從佛得，以佛出世有是戒故。以義而推，三種戒從佛而得：一者見諦得戒、二者善來得戒、三者自誓得戒，是從佛得。餘四種受戒從弟子得：一者三語、二者三歸、三者八法受戒、四者白四羯磨，此四種戒從弟子得。」

「七種受戒，幾從他得？幾從自得？」

答曰：「六從他得，一須分別。見諦得戒以根本而言，以佛說法故得證聖諦，名從他得。以義而推，自以忍智明照真諦而得具戒，則名自得。」

問曰：「七種戒，幾白得？幾不白得？」

答曰：「六種戒不由白得，正有白四羯磨戒由白而得。」

問曰：「七種受戒，幾是業？幾非是業耶？」

答曰：「七種戒盡是業也。」

問曰：「七種戒，幾是比丘，不共比丘尼？」

答曰：「五是比丘，不共比丘尼：一者見諦戒、二者善來、三者三語、四者三歸、五者自誓。」

問曰：「七種受戒，幾是比丘尼，不共比丘？」

答曰：「一是比丘尼，不共比丘，所謂八法受戒。」

問曰：「七種受戒，幾是比丘比丘尼共？」

答曰：「一是比丘比丘尼共，所謂白四羯磨戒也。」

問曰：「七種戒，幾通三天下？幾不通三天下？」

答曰：「一種戒通三天下，所謂白四羯磨戒也。餘六種戒，但在閻浮提，不通三天下。」

問曰：「七種戒，幾戒羸？幾戒不羸？幾戒捨？幾戒不捨？幾根變？幾根不變？幾斷善根？幾不斷善根？」

答曰：「一戒羸，六戒不羸。一戒捨，六戒不捨。一根變，六根不變。一斷善根，六不斷善根。一戒者，所謂白四羯磨戒也，以眾生福德淺薄感得此戒，致使不能牢固，有諸災患也。六種戒者，所謂見諦戒乃至八法受戒，以眾生福德深厚致得此戒，始終堅固，無災患也。」

問曰：「七種戒，幾是增上尊重？幾不尊重？」

答曰：「大而言之，七種戒盡是尊重，以義分別則有差別也。六種得戒，眾生功德力重致得此戒，則名為勝。然不能大唯持正法，是以不勝。如見諦得戒、自誓得戒、八法得戒，此三種戒，正有一得無有重得。如善來得戒，極至須跋，後更無得也。三語得戒、三歸得戒，佛成道已八年中得，八年後更無得者。白四羯磨戒，若佛在世、若佛滅後，一切時得。佛法始終以白四羯磨戒為宗本，能繼續三寶作無邊利益，莫上於白四羯磨戒，是故於七種戒中最勝最妙最為尊重。」

問曰：「於七眾中，幾從佛得受？幾不從佛得受耶？」

答曰：「大而言之，七眾盡從佛得受，以佛出世故有此七種。以事而言，七眾中比丘、優婆塞、優婆夷三眾從佛得受；沙彌中正有二沙彌從佛得受：一者難提、二者耶奢；餘三眾比丘尼、式叉摩尼、沙彌尼，佛不受也，為止誹謗故。佛若自受三眾，外道當言：『瞿曇沙門本在王宮在婇女中，今雖出家，自度女人以自娛樂。』以是因緣佛不度也。復次佛為法王，與一切眾生作大師，導引眾生背俗入道，先令眾生信向無疑，然後道教得化流天人。是故如來捨近取遠，自不度也。」