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title: "南嶽總勝集 · 祝融峯"
description: "南嶽總勝集由宋代僧人陳田夫撰寫，是中國佛教史上重要的地方志與山誌經典。該書成書於南宋時期，系統記錄了南嶽衡山的自然地理、佛教寺院、高僧事迹、神話傳說與歷史沿革。內容涵蓋宗教活動、文化古跡及地方風物，具有極高的史料價值。作為研究宋代佛教、南嶽文化及中國山嶽信仰的權威文獻，該書不僅展現了佛教與本土文化的融合，也為禪宗聖地的歷史地位提供了重要依據，被視為佛教地理志書的典範之作。"
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### 〔祝融峯〕

> 祝融峰

者。昔炎黃之世。祝融君遊息之所。因而名焉。故廣記云。祝融棲息於衡阜者是也。融頂形似朱雀頭。元氣上連。熒星太陽炎老君所治。其中主夏氣。長養萬物。使丙丁之神行天德。使己午之神正地氣。萬神常以立夏之日昂此峯。入赤石玉闕。謁炎老君。受天玄符。各還四方。召使百神。斬殺惡鬼。所以佐天地長人物也。其衡山君領仙官。服朱光之袍。戴九丹日精之冠。佩夜光天真之印。乘赤龍。嶽神姓崇。諱󱤓徐真人云。融頂西南崑池甘泉神津之水。飲之長生昇仙。若君山之酒。嵩山之石芝。昔葫瓢子隱夕陽石室。得飲之成道。其溪曰夕陽。溪山高九千七百三十丈。在眾峯之北最高嶽之絕頂。下視眾山如坵垤。雖紫蓋雲密等峯亦不可侔。故盧載詩中一聯云。五千里路望皆見。七十二峯中最高。南有祝融廟。基址在焉。舊有光天觀。按福地誌云。係二十二光天壇福地。東有息菴。乃白雲先生延何尊師問道處。又有上清院。隈巖鑿壁架險而居。昔有隱者號嬾翁。惟吞符餌茶。隱顯不常。建隆末西入華山西有青玉壇。係二十一福地。故洞淵集福地誌詩一絕云。玉壇相對壽山高。峻極長疑壓巨鼇。住息真人曾隱此。洞前親種碧蟠桃。昔楚靈王時融頂崩。獲人皇九首之圖。按圖經云。青玉壇上有仙人行道處。逈然孤絕架險而上。國家修金籙齋畢藏。金龍玉簡亦於此處。又嶽圖經云。下有火山芝。神農本草云。赤芝生衡山赤芝即火山芝也。夜有靈光如飛燭。俗呼為聖燈。草芝圖云。衡山有九芝。三本生滿谷在蓮花峯東。三本生此壇下。三本生金簡峯東。又地理誌云。衡山青玉白璧二壇青玉即仙人橋也。白璧即光天壇也在此峯尖之上刺天仙如金字之狀。其上廣可數尺。亦猶桐柏之金庭句曲之金壇也。隋易觀為寺。即今上封寺是也。寺中伽藍土地。乃道觀之真宮土地。寺僧或絕於香火。即供寺之泉源枯涸矣。釋氏復以其青玉壇改名羅漢行道壇者是也。又有仙梨樹。湘中記云。祝融峯東有仙梨。大如斗。赤如日類萍實也。亦猶青城之牡丹．太華之蓮花．羅浮之籠𥮨竹也。又有石髓。昔衡陽令潘覺見之。石裂有紫泥出。經云。名出五百年一開流出。人得之喫即白日輕舉。又有蛟松。或變成大蟒。魅人不致害。拂壇松名矮樹萬年松。高不盈丈。根󰜏獰翠。怪狀如龍。乃。

> 昔、炎帝と黄帝の時代、祝融君が遊び休んだ場所であったことから、この名がついた。『広記』にも「祝融は衡阜に棲息す」と記されている。祝融峰の頂は朱雀の頭に似ており、元気が上へとつながっている。熒惑星と太陽の炎老君が治める場所であり、ここは夏の気を司り、万物を育てる。丙丁の神に天の徳を行わせ、己午の神に地の気を正させる。万神は常に立夏の日にこの峰に集い、赤石の玉闕に入って炎老君に謁見し、天玄符を受け取り、それぞれ四方へ帰って百神を召し使い、悪鬼を斬り殺す。それによって天地を助け、人と物を成長させるのである。 衡山の神君は仙官を率い、朱光の袍をまとい、九丹日精の冠を戴き、夜光天真の印を佩き、赤龍に乗る。岳神の姓は崇、諱は󱤓徐真人という。祝融峰の西南には崑池甘泉の神津の水があり、これを飲めば長生し仙人となる。君山の酒や嵩山の石芝のようなものである。昔、葫瓢子が夕陽の石室に隠れ住み、この水を飲んで道を成した。その溪を夕陽溪という。山の高さは九千七百三十丈で、諸峰の北に位置し、最も高い岳の絶頂である。下を見下ろせば、諸山は丘や塚のように見え、紫蓋峰や雲密峰なども比べものにならない。故に盧載の詩に「五千里の路望み皆見ゆ、七十二峰の中最高し」と詠まれている。南には祝融廟があり、その基址が残っている。かつては光天観があった。『福地誌』によれば、二十二の光天壇福地に属する。東には息庵があり、白雲先生が何尊師を招いて道を問うた場所である。また上清院があり、険しい岩壁に寄り添い、危険な場所に建てられて住んでいた。昔、嬾翁と号する隠者がおり、ただ符を呑み茶を喫するだけで、姿を現したり隠れたり定かではなかった。建隆の末年に西の華山に入った。西には青玉壇があり、二十一の福地に属する。故に『洞淵集』の福地誌の詩に「玉壇寿山に対し高く、峻極にして長く巨鼇を圧すと疑う。住息の真人曾て此に隠れ、洞前に親しく碧蟠桃を種く」とある。昔、楚の霊王の時代に祝融峰が崩れ、人皇九首の図が得られた。『図経』によれば、青玉壇の上には仙人が行った道があり、ひときわ孤高で険しく架けられて上る。国家が金籙斎を修め終えた後、金龍と玉簡をここに蔵した。また『岳図経』によれば、下には火山芝がある。『神農本草』には「赤芝は衡山に生ず」<note>赤芝は即ち火山芝である</note>とある。夜には霊光が飛ぶ燭のようであり、俗に聖灯と呼ばれる。『草芝図』によれば、衡山には九芝あり、三本は満谷に生え蓮花峰の東に、三本はこの壇の下に、三本は金簡峰の東に生える。また『地理誌』によれば、衡山の青玉壇と白璧壇<note>青玉は即ち仙人橋である。白璧は即ち光天壇である</note>はこの峰の尖った頂上にあり、天を刺す金字の形をしている。その上は広さ数尺ほどで、桐柏の金庭や句曲の金壇にも似ている。隋の時代に観を寺に改め、現在の上封寺となった。寺中の伽藍土地は、もと道観の真宮土地である。寺僧が香火を絶やせば、寺に供される泉の源も枯れてしまう。釈氏が青玉壇を羅漢行道壇と改名したのもここである。また仙梨樹がある。『湘中記』によれば、祝融峰の東に仙梨があり、斗ほども大きく、日に似て赤く萍実のようである。青城の牡丹、太華の蓮花、羅浮の籠𥮨竹にも似ている。また石髄がある。昔、衡陽令の潘覚が見たところ、石が裂けて紫泥が出た。経には「名出五百年に一度開き流れ出ず。人がこれを得て喫すれば即ち白日に軽挙す」とある。また蛟松があり、時に大蟒に変わり、人を惑わすが害は及ぼさない。壇を払う松は矮樹万年松と呼ばれ、高さは一丈に満たず、根は獰猛で翠色、怪しい姿は龍のようである。

吾皇比壽之松也。又有虎跑泉．夕陽溪．賓日亭可觀日出龍王堂．定心石．把鍼巖．最勝巖．夜光巖多蓄山魈雷池風淵穴。每雨將作陰風怒號自其穴而發。故本朝陶弼有登融峯一絕云。曾到祝融孤頂上。步隨明月宿禪關。夜深一陣打窓雨。臥聽風雷在半山。

> 我が皇帝は、長寿の松のごときお方でいらっしゃいます。また、虎跑泉、夕陽溪、賓日亭<note>日の出を眺めることができる</note>、龍王堂、定心石、把鍼巖、最勝巖、夜光巖<note>山の精霊が多く棲む</note>、雷池風淵穴などがあります。雨が降ろうとするたびに、陰気な風が怒号を上げ、その穴から吹き出します。そのため、本朝の陶弼は融峯に登った際に、一首の絶句を詠みました。かつて祝融の孤頂に到り、月明かりに従って歩き、禅寺に宿りました。夜更けに一陣の窓を打つ雨、寝ながらに半山に風雷を聴く。