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title: "禪門鍛鍊說 · 辨器授話第二"
description: "禪門鍛鍊說是明末清初臨濟宗高僧戒顯所著的一部禪宗修行指導著作。戒顯法師身處明清易代之際，有感於禪門流弊，為匡正禪風而撰寫此書。全書系統闡述了禪宗師家鍛鍊學人的原則與方法，核心內容圍繞選材、鍛鍊、機鋒運用及印證等環節，強調師資授受的嚴謹與實修實證的重要性。該書被譽為禪門的兵法，是研究明清禪宗教學法與修行體系的重要文獻，在佛教禪宗史上具有承先啟後的權威地位，對後世禪林影響深遠。"
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### 辨器授話第二

> 第二 器の識別と法の授与

欲鍛禪眾。當示真參。欲下鉗錘。先辨機器。臨濟曰。我此閒作三種根器斷。或奪境。或奪人。或奪法。或俱奪。或俱不奪。此辨驗機器之大要也。唐代禪風鼎盛。機器不凡。老古錐接人。皆全機大用。頓斷命根。純用活機。殊無死法。至宋以後。參禪用話頭而死法立矣。然人至末法。根器愈劣。智巧愈深。狂亂愈紛。定慧愈淺。主法者欲令禪眾開廓本有。透脫牢關。不得不用死法。時代使然也。然不善用。則雖活法。皆成死法。能善用之。則死法中。自有活法。活法者何。辨機器是已。禪眾入門。先以目機銖兩。定人材之高下。次以探竿影草。驗參學之淺深。立主立賓。一問一答。絲來線去。視其知有與否。而人根見矣。或上上機器來。即以師子爪牙。象王威猛。拋金圈。擲栗棘視其透關與否。而把柄在師家矣。人根既定。方令進堂。既進禪堂。即應入室。隨上中下機器而示以話頭。其已歷諸方。舊有話頭者。或搜刮。或移換。或撥正。雖事無一法。然話頭正而定盤星在矣。或曰。有不用話頭。竟以德山臨濟便棒便喝接人者如何。曰奇則奇矣。然視人根太高而不可槩用也。有不論機器利鈍。禪眾多少。祇用一話頭而不變者何如。曰均則均矣。然視人根太混。雖參而多不得益也。請言其故。不用話頭者。誠直截痛快。不帶廉纖矣。然在昔人則可。在今時則不可。何故。昔人根器高勝。定慧力強。一經名師大匠。棒喝提持。一信永信。更無誵訛。一徹永徹。更無反覆。所以可用。今人以最深之智巧。最紛之狂亂。不用話頭重封密鎖。痛劄深錐。令情枯智竭。驀地翻身。而但用擊石火閃電光一著。以為門庭縱或承當。多屬光影。而於言句關棙。宗師血脈。總未󳬇透。以此號省悟。將來反覆不可言矣。故不可用。非全不可用。不可概用也。老黃龍語晦堂曰。若不看話頭。百計搜尋。令自見自肯。即吾埋沒汝也。豈不信哉。止用一話頭者。似平等簡徑。不落揀擇矣。然禪眾中。生材有利鈍。受氣有純駁。信道有淺深。參學有久暫。買帽者當相頭。著楔者須看孔。自然之勢也。宜數息者。教令觀白骨。宜觀骨者。教令數息。雖佛世不能證果。況末法乎。明大法者。察氣候以下鉗錘。識通變而施錐鑿。三根皆利矣。使不問利鈍純駁淺深久暫。徒用一話頭以篐學者。畫地而為牢。釘樁而搖櫓。高者抑而不能下。卑者跂而不能至矣。此所謂活法而成死法也。妙喜曰。善知識大法不明。止以自證悟處指示人。必瞎却人眼。非此之謂乎。然則指授話頭。當用何法。亦仍曰作三種根器斷而已矣。初機參學者。話大艱深。必然杆格。須令稍有咬嚼。以發其根本。氣宇英靈者。話頭寬鬆。易滋卜度。須令壁立萬仞以斷其攀緣。如萬法歸一。父母未生前。死了燒了等。乃至目前一機一境。雖智愚皆可用。而初機為便。南泉三不是。大慧竹篦子。道得道不得皆三十棒。恁麼不恁麼總不是等。雖高下皆可用。而英靈為便。更有擎頭戴角。知見雄強者。師家爪牙倍宜毒辣。或機權喜怒以剷其命根。或詰曲誵訛以去其祕蓄。臨濟所謂全體半身。獅子象王等。皆為若輩而設。此則視師家作用何如。不可言傳也。要之。話頭雖多種不同。皆須上截妙有關鎖。既有關鎖。學人用心時。四門堵塞。六路剿絕。下截審問處。其發疑情也必真。疑情既真。則擴悟機也必徹。東山立盜父鎖櫃令子潰圍之喻。非不傳之祕乎。然亦有機器宜參荅語者。如麻三觔。乾矢橛。青州布衫。庭前柏樹子。乃至狗子無佛性等。亦有機器宜參機用者。如入門便棒。進門便喝。睦州接雲門。汾陽接慈明等。往往發大悟門。亦視師家用處何如耳。無死法也。閒有時師不知關棙。止教人參如何是西來意。如何是本來面目。如何是學人自己者。此則上無關鎖。望空啟告。師家下刀不緊。學家發疑無力。死水浮沈。白首不悟。坐病在此。豈。不惜哉。最悞人者。有初進禪門。根本未悟。遂令參南泉斬猫。百丈野狐。丹霞燒佛。女子出定等話。此真方木逗圓孔。唐喪人光陰。而天地懸隔者矣。謂之杜撰。不亦宜乎。是故欲鍛鍊禪眾者。審辨機器。簡別話頭。俾高下咸宜。利鈍兼濟。為入門第一大要事也。

> 禅の修行者を鍛えようと思うなら、真実の参究を示すべきである。道具を用いるなら、まずその器を見極めよ。臨済は言った。「私はここで三種の根器を判別する。境を奪う、人を奪う、法を奪う、あるいは全てを奪う、あるいは全てを奪わない、という具合にだ。」これこそが、人材を見極める肝要な点である。 唐代には禅風が盛んで、人材も優れていた。先達の老師たちは、完全な働きと大いなる活用で人を導き、即座に生死の根本を断ち切った。全てが生き生きとした方法で、決して型にはまった方法ではなかった。宋の時代以降、公案を用いる参禅が広まり、型にはまった方法が確立した。しかし、末法の世となり、人々の根器はますます劣り、知恵や策略は深まり、心の乱れは激しくなり、定慧の力はますます浅くなった。法を指導する者が、修行者に本来の自己を開顕させ、迷いの殻を打ち破らせようとするなら、型にはまった方法を用いざるを得ない。時代がそうさせるのだ。 しかし、使い方を誤れば、たとえ生きた方法も死んだ方法となる。うまく使えば、死んだ方法の中にも生きた方法がある。その生きた方法とは何か？人材を見極めることだ。修行者が入門したら、まずその力量を測り、人物の優劣を定める。次に、探りを入れて、その参学の深さを確かめる。主と賓を立て、問答を重ね、言葉のやり取りを通じて、彼らが真理を自覚しているかどうかを観察すれば、その人の根器が見えてくる。 もし最上級の根器を持つ者が来たら、獅子の爪や牙、象王の威厳をもって、金の輪や栗の棘を投げ与え、それが関門を打ち破れるかどうかを試す。主導権は師家の側にある。そうして人の根器が定まれば、はじめて禅堂に入れる。禅堂に入ったなら、すぐに師家の部屋に入室させ、上・中・下の根器に応じて公案を与える。すでに他で修行し、古い公案を持っている者には、それを徹底的に調べ上げたり、別のものに取り換えたり、正しい方向に導いたりする。一つとして決まった方法はないが、公案が正しければ、指針は定まる。 ある人が言った。「公案を用いずに、徳山や臨済のように棒や喝で人を導くのはどうか？」答えよう。「それは確かに珍しいが、人の根器を高く見積もりすぎていて、誰にでも使える方法ではない。」また聞く。「根器の良し悪しや修行者の多寡にかかわらず、ただ一つの公案だけを変えずに用いるのはどうか？」答えよう。「それは確かに平等だが、人の根器をごちゃ混ぜにしていて、それで修行しても得るものが少ない。」その理由を述べよう。 公案を用いない方法は、確かに直截で痛快であり、余計なものが一切ない。しかし、それは昔の人には通用しても、今の時代には通用しない。なぜか？昔の人は根器が優れ、定慧の力が強かった。名高い師匠のもとで、棒や喝による指導を受ければ、一度信じたら永遠に信じ、迷いがなかった。一度悟れば永遠に悟り、後戻りがなかった。だからこそ、その方法が使えたのだ。今の人は、極めて深い知恵と策略、激しい心の乱れを抱えている。公案という重い鍵でしっかりと封じ込み、痛烈に突き詰めて、感情や知性を枯渇させ、不意に真理を掴ませる必要がある。ところが、ただ火花や稲妻のような一撃に頼り、それで門構えとする。たとえ受け取ったとしても、それは多くが幻影に過ぎず、言葉の仕掛けや宗師の血脈を全く理解していない。これを悟りと称しても、後々の迷いは計り知れない。よって、その方法は使えない。全く使えないわけではないが、誰彼かまわず使うことはできないのだ。老黄龍が晦堂に言った。「もし公案（話頭）を見ずに、あらゆる方法で探し求めて、自ら見て自ら肯ずることをさせなければ、私はあなたを埋もれさせることになるだろう。」これは確かではないか。 ただ一つだけの公案を用いる方法は、平等で簡潔であり、選択に陥らないように見える。しかし、修行者の中には、生まれつきの才に優劣があり、気質に純粋さと雑駁さがあり、仏法を信じる心に深浅があり、参学の期間に長短がある。帽子を買うのに頭の大きさを測り、木片を打ち込むのに穴を見なければならない。これは自然の道理である。数息観に適した者に白骨観をさせ、白骨観に適した者に数息観をさせる。仏陀の在世であっても、これでは悟りの果報を得ることはできない。ましてや末法の世においてはなおさらだ。大法を明らかにした者は、機運を見極めて道具を用い、変化を理解して針や鑿を施す。そうすれば、三種の根器の者全てが利益を得る。もし根器の良し悪し、純粋さや雑駁さ、深さ浅さ、長短を顧みず、ただ一つの公案で修行者を縛るならば、それは地に線を引いて牢獄を作り、杭を打って櫂を漕ぐようなものである。優れた者は抑えられて伸びず、劣った者は背伸びしても届かない。これこそが、生きた方法を死んだ方法にしてしまう所以である。妙喜が言った。「善知識が大法を明らかにせず、ただ自分の悟ったところを人に示せば、必ず人の目を潰す。まさにこのことではないか。」 では、公案を指導するには、どのような方法を用いるべきか？やはり、「三種の根器に応じて判断する」のみである。初めて参禅する者は、公案が難しすぎると必ず戸惑う。まずは噛み応えのあるものを与え、その根本を発揮させる必要がある。気概のある優れた者は、公案が緩すぎると憶測を生みやすい。そのため、万丈の崖のようにそびえ立ち、あらゆる執着を断ち切らせる公案を与えるべきだ。「万法帰一」「父母未生以前」「死了焼了」などといった公案、あるいは目前の一つの働きや一つの境涯を用いるものは、賢者にも愚者にも使えるが、初心者に適している。南泉の「三不是」、大慧の「竹篦子」、「道得道不得皆三十棒」、「恁麼不恁麼総不是」などは、優れた者にも劣った者にも使えるが、特に気概ある者に適している。さらに、頭をもたげ角を生やし、強い見識を持つ者に対しては、師家の爪牙が一層辛辣であるべきだ。ある時は心機や喜怒を自在に操ってその命根を刈り取り、ある時は複雑で紛らわしい言葉でその隠し持った秘見を取り去る。臨済が言う「全体半身」「獅子象王」などは、すべてこうした者のためにある。これは師家の働き方次第であり、言葉で伝えられるものではない。 要するに、公案には様々な種類があるが、いずれも最初の部分に巧妙な関所がなければならない。関所があれば、修行者が心を用いる時、四方の道が塞がれ、六つの通路が断たれる。後半の問いの部分では、疑惑を引き起こす心が真実となる。疑惑が真実であれば、悟りの機が必ず徹底する。東山が、盗賊の父が金庫に鍵をかけ、息子に包囲を突破させる喩えを立てたのは、不伝の秘訣ではないだろうか。また、麻三斤、乾屎橛、青州布衫、庭前柏樹子、狗子無仏性などの答えを参じるのに適した根器もいる。睦州が雲門を迎え、汾陽が慈明を迎えたように、入門と同時に棒や喝を与える機用を参じるのに適した根器もいる。これらはしばしば大悟の門を開く。これもまた、師家の働き方次第である。決まった方法はないのだ。 ところが最近の師家の中には、仕掛けを知らずに、ただ「如何是西来意」「如何是本来面目」「如何是学人自己」といった公案を参じさせる者がいる。これらは上部に関所がなく、空に向かって祈るようなものである。師家の刀の入れ方が甘く、修行者の疑いを起こす力も弱い。そのため、死水に浮かぶように沈み、年老いても悟ることがない。その病根はここにある。なんと惜しいことではないか。最も人を誤らせるのは、禅門に入ったばかりで根本がまだ悟れていない者に、「南泉斬猫」「百丈野狐」「丹霞焼仏」「女子出定」といった公案を参じさせることである。これはまさに四角い木を丸い穴に押し込むようなもので、人の時間を無駄にし、天地ほどの隔たりがある。これを「杜撰」と言わずして何と言おう。 ゆえに、禅の修行者を鍛えようと思う者は、人材を見極め、公案を選別し、優れた者も劣った者も共に利益を得られるようにすることが、入門における最も大切な事柄なのである。