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title: "大日經義釋 · 悉地出現品第六"
description: "《大日經義釋》又稱《大日經疏》是唐代高僧一行禪師對密宗根本經典《大日經》的權威注釋由一行禪師口述其弟子記錄整理而成該書撰寫於盛唐時期密宗在中原興盛之際內容系統闡釋了《大日經》的密教教義包括胎藏界曼荼羅修持法門三密相應等核心思想並對經中名相事相作了詳盡疏解此書是理解《大日經》的關鍵著作被歷代奉為漢傳密宗最權威的注疏之一對中國密宗及日本東密的形成與發展產生了深遠影響在佛教思想史上佔有極高地位是研究密教不可或缺的根本文獻"
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### 悉地出現品第六

悉地出現品者，如前品所明，雖能滿足眾生微小希願，然彼調心方便供養修行，本為成辦世、出世間大成就事。若求大成就者，不於一切種類中皆見真言實義，到悉地修不得成故。次明悉地出現品，正明如是悉地皆從法界神力中流出也。謂行者觀此成就之果，為從調心供養諸善根力生耶？從如來加持力生耶？從法界力生耶？若由自善根力，即是從自性生；若由佛加持力，即是從佗性生；若和合有，即是共性生，亦非無因緣有。若謂悉地從法界力生者，法界平等則無生相；若出平等法界而有悉地生者，則墮邪見戲論中，生義不成。若謂都無悉地，則為誹謗如來祕密之藏。當知如是悉地即於眾緣起時本不生故，法爾如是，非是行人所作，亦非佛作，作不可得故，乃至離諸因緣故，即是心之實相，即是悉地實相。以實相度諸魔事故，作成就時無能障蔽之者，隨此如意寶中所欲皆悉現前，故名悉地出現品也。

爾時世尊以普遍加持眼復觀諸大眾會，知已堅牢深淨堪持大法，為滿一切願故，復說三世無量門決定智圓滿法句。所以然者，世尊已廣開示三密漫荼羅，又說入無量門進趣方便竟，欲令此中普皆成就悉地果故，更說一切法界門決定智印。此決定印是真言實相也，謂以無礙淨慧於一念中了三世法，知彼皆從緣起無有自性，以無性故不出淨菩提心，是故等同虗空深廣無盡離諸分別，如毗盧遮那法界門乃至最下世天法界門，一一成就之相悉皆如是。此是究竟實際萬法所歸會處，故名圓滿法句也。

> 爾時に世尊は、普遍的な加持の眼で再び多くの会衆を見渡し、彼らがすでに堅固で深く清らかであり、大いなる法をよく受けるにふさわしいことを知り、すべての願いを満たすために、三世にわたる無量の門における決定智の円満な法の句を再び説かれた。なぜなら、世尊はすでに三密の曼荼羅を広く開示し、さらに無量の門に入る進み方の方便を説き終えられたからである。ここにおいて、すべての人々が悉地の果報を成就することを望み、さらに一切の法界の門における決定智の印を説かれたのである。この決定の印こそが真言の実相である。すなわち、妨げのない清らかな智慧をもって、一つの念のうちに三世の法を了知し、それらがすべて縁によって生じ、自性を持たないことを知る。自性がないがゆえに、清らかな菩提心を出でない。このゆえに、虚空と等しく深く広く尽きることなく、すべての分別を離れている。毘盧遮那の法界の門から、最も下の世天の法界の門に至るまで、一つ一つの成就の相はすべてこのようである。これこそが究極の実際であり、万人の法が帰し集まる所である。ゆえに、円満法句と名づけるのである。

偈初云虗空無垢無自性者，正說心之實相，心實相即是一切法中決定智印也。以無邊際無垢無分別故，少分喻如虗空，而實等虗空心亦復不守自性故，非彼所能譬喻。如是義故，雖復等同虗空無相，而具種種不思議權巧，曲順根緣而導利之。然此權巧但從機應因緣而生，是故法爾空寂，常無自性。以法常無性故，即是本初不生，本初不生即是入阿字門，入阿字門即是毗盧遮那本地身也。如自觀心實相，諸法亦然，是故一切諸法皆悉甚深難見，唯佛與佛乃能證之。故法華云：諸佛兩足尊，知法常無性，佛種從緣起，是故說一乘。統論彼經深趣，在斯一偈也。若行者見一切從緣起法皆是毗盧遮那法界身，爾時十方通同為一佛國，是名畢竟淨菩提心。以此畢竟淨菩提心，隨無盡法界、無餘眾生界機應因緣，一時普現色身，行菩薩道，於念念中供養無量善知識，悟入無量諸度門，如是於無量阿僧祗劫中恒殊勝進，嚴淨一切佛剎，成就一切眾生，所作佛事未曾休息，是名普賢行願。具此普賢道時，能隨一切眾生心所思念，滿其種種希願，乃至施與無上菩提願，是名一切菩薩真多摩尼。當知諸進趣門雖復無量，至論宗極悉皆為此一事因緣，三世如來更無異術，故此伽陀名為三世無量門滿足法句也。

復次，有人生疑：云何實際心中能作如是種種有為事？故偈中更說譬喻云：如世間一切諸趣及彼依報住處，皆悉依空而住，因空得成。而虗空的無所依，亦無念著起作之行。今此清淨法身亦復如是，雖常寂然不示諸法法相，而遍無餘世界，無所不為。以從慈善根力因緣生，不由惑業，故云清淨生也。如如來不思議境界經云：普賢菩薩告德藏菩薩言：世尊始從然燈佛所得受記已，即便入於如來不思議境界三昧，常無功用，自然應現無量佛事。謂於虗空一毛端處，有一切佛剎微塵數等諸佛世界，於中或現生兜率天；或從彼沒，下生入胎；或現適生，遊行七步，自言我今即為生死邊際；或現在王宮，出家苦行；或現降魔，成等正覺，轉玅法輪；或現住世經無量劫，或復示入涅槃；或一切劫為一剎那，或一剎那為一切劫，劫與剎那無增無減；乃至一切眾生未盡解脫剎那，一時普於此諸世界常作如是種種佛事，未曾休息而無功用。如彼虗空一毛端處，無量剎中念念普現諸佛種種威儀法則；乃至遍空毛端量處亦復如是，常作佛事利益眾生，窮未來際初不休息，而佛剎不減，微塵不增。何以故？一切諸法如幻焰故。如彼廣說，故云無餘清淨生也。

> さらに、こう疑問を抱く人もいるでしょう。「どのようにして、真実の心の世界（実際心）の中で、このような様々な因果による営み（有為の事）が生じ得るのか？」と。そこで、偈の中でさらに譬えを用いて説明されています。 例えば、この世の中のあらゆる生きとし生けるものの生存の場（諸趣）と、その依って立つ環境（依報住処）は、すべて虚空に依って存在し、虚空によって成り立っています。しかし虚空そのものは、どこにも依っておらず、また、ものごとに執着したり、何かを為そうとする心もありません。今、ここで説く清らかな真実の身体（清浄法身）も、これと同じです。常に静かで何らの相も示さないのですが、その働きは余すところなく全世界に及び、為さないことはありません。それは、慈しみと善の根（慈善根力）という因縁によって生じるのであって、迷いや煩悩（惑業）によるものではないからです。だから「清浄に生まれる」と言うのです。 例えば『如来不思議境界経』にはこうあります。普賢菩薩が徳蔵菩薩に告げました。「世尊（釈迦牟尼仏）は、かつて然燈仏から仏になることの予言（受記）を得て以来、すでに如来の不可思議な境地の三昧（如来不思議境界三昧）に入られました。それ以来、特別に努力しなくても（無功用）、自然に、限りない仏の働き（無量仏事）を現し示しておられます。すなわち、虚空の毛先ほどのごく小さな一点に、すべての仏の世界の微塵の数ほどもある無数の仏の世界が含まれており、その中で、兜率天に生まれる姿を現したり、そこから没して、母胎に下り入る姿を現したり、あるいは生まれたばかりの姿を現し、七歩歩んで『私は今こそ生死の境界を超えた』と宣言したり、王宮にいて出家して苦行する姿を現したり、あるいは悪魔を降伏させ、正しい悟りを開き、素晴らしい教えの車（妙法輪）を転じる姿を現したり、あるいは無量の劫（長い時間）この世に留まる姿を現したり、あるいは涅槃に入る姿を現したり、あるいはすべての劫を一刹那にしたり、あるいは一刹那をすべての劫にしたり、劫も刹那も増えることも減ることもありません。そして、すべての衆生が解脱を完成させるその瞬間まで、常に、余すところなく、これらの世界の中でこのような様々な仏の働きを、休むことなく、しかも努力することなく（無功用）行い続けておられます。」 虚空の毛先ほどの一点にある無数の世界の中で、一瞬一瞬に、すべての仏の様々な威厳ある振る舞い（威儀法則）が現れます。そして、虚空全体の毛先ほどの全ての点においても同様に、常に仏の働きをなして、衆生を利益し、未来の果てまでも休むことなく続けられます。しかし、仏の世界は減ることもなく、微塵が増えることもありません。なぜなら、すべての現象（諸法）は、幻や陽炎のようなものだからです。経典にはこのように詳しく説かれているので、「余すところなく清らかに生まれる（無余清浄生）」と言うのです。

次云普勝生嚴修此故者，勝是尊先之義，如世人謂舊德可師軌者為先生，即是先覺。是法而從胎藏生者，梵云􄙘􈃉避部，是具足種種財寶以自莊嚴。古普勝人皆因修此真言行故，令世間佛種相傳不斷，以至于今。若離如是法句，更有如來行者，無有是處。故云非佗句有難可得，以能出生一切如來行故。隨是法句出現之處，即為有佛出現世間，普作照明，猶如大日。故云作世照明。如世尊入此法明門者，常遍虗空法界，行普賢道，無終盡時。故云說極清淨修行法，深廣無盡離分別也。

> 次に「普勝生嚴」と説いてこの行を修める所以とは、「勝」とは「尊」に先んずるという意味で、世の人が「旧徳（かつての徳ある者）で師とすべき軌範となる者」を「先生」と呼ぶように、すなわち先に覚った者を指す。この法は胎蔵から生じるものであり、サンスクリットで「ヴィブー」と呼ばれる。これは様々な財宝を備えて自らを荘厳することを意味する。 古の普勝（あまねく勝れた者）たちは皆、この真言行を修めたことによって、世の中に仏の種が絶えることなく伝わり、今日に至っている。もしこの法の句を離れて、別に如来の行ずる道があるならば、それは正しくない。ゆえに「他の句に難を得ることはない」と言うのは、この法が一切の如来の行を生み出すからである。この法の句が現われる所には、即ち仏が世に現われ、あまねく光明を照らすこと、大日（太陽）の如くである。ゆえに「世の照明となる」と言う。 世尊がこの法明門に入るが如く、常に虚空法界に遍く、普賢の道を行じて、終わり尽きることがない。ゆえに「極めて清らかな修行の法を説き、深く広く尽きることなく、分別を離れる」と言うのである。

復次，此阿利沙伽陀即是如來神力加持句，修諸供養時以梵音讚歎彌善，今具存之。

> さらに、このアリシャ伽陀（聖なる偈）は、如来の神力を宿した真言です。さまざまな供養を修める際に、サンスクリット語の音で唱え称えると、より良い効果があります。ここにその全文を記します。

􄑘誐􄑘誐􄖩曩引虛空也􄗥麼􄗽攞無垢也􈉷󰴎無也􅁥婆嚩二合自也􄗚婆引􄙖嚩􄑀迦引性也一句􄙘尾􅁌濕嚩二合巧也􈂤枳孃二合􄖩曩智也􄙘尾􄑾唧􄩞怛囉二合種種􄕯那引􄗱野􄑁迦引授與也二句􄙧舜引􄡈寧夜二合􄚮係呼異反空也􅁤娑嚩二合􄗙婆去􄙖嚩􄕢多自性也􄙺薩􄕯那常也三句􄪼鉢羅二合􄟗底耶􄗲夜引緣也􄕾地􄖩曩生也􄑢儼􄗜避引􄗽囉甚深也􈇚訥􈓘󰴎𭌆二合􄙣奢難見也四句竟一誦

> (虚空)のごとき、 (無垢)なる(自性)ある(性)、 (巧)なる(智)、 (種々)なるものを(授与)する、 (空)なる(自性)あるは、 (常)なりと知れ、 (縁)より(生)じ、 (甚深)にして(難見)なり。

􄚦娑􄕗怛􄕡旦􄕛覩恒也􄙘尾􄙨勢引􄙮灑殊勝也􄑘誐􄙼弭􈁀難引往也一句􄗁撥􄙊邏菓也􄗥莫􄥩仡囒二合最上也􄕯娜􄕯娜􄕝帝與也􄙘尾􈓙進􄕙𫪭􄕡單隨所思念二句􄗷拽􄕣佗如也􄙺薩􅞣嚩諸也􄑘蘖􄕚底􄖩曩趣也􆿆阿引􄙊攞􄗹瑜宮室也三句􄑘誐􄑘誐􄖱奴虛空也􄗢坌􄕙底〔得有〕也􆿅阿上􄚦僧去􄑘誐無取著也􄑠遇􄑼拶􄙉囉行也四句竟兩誦也

> 恒常なるものにてあり殊勝なるものにてあり往くものにてあり果にして最上のものにてあり与えたもうたまうものにてあり思念のままにかなうものにして二句 如くに諸の趣きの宮室にして三句 虚空にして〔得有〕なるものにして無取著にして行ずるものにして四句竟 両誦也

􄕗怛􄕣佗去引亦也􆿏𪾼􄙮灑如是也􄙘尾􄙦秫詩聿反􇧻地平清淨也􄕻達􅝝磨􄕘跢引法也一句􄩠底哩二合􄗚婆去引􄙗嚩平三有也􄙨勢引􄙮灑無餘也􄙘尾􄙦秫􇧹駄清淨也􄚦三去􄗚婆􄙗嚩生也二句􄑼左􄗽囉􄕝帝修行也􄩠怛哩二合􄗲喻引此也􄥟仡囉二合􄒾祚祖魯反􄙘尾􈃉部勝生嚴也三句􄗙婆去引􄙖嚩􄕝帝有也􄙺薩􅞣嚩一切也􄒸爾慈以反􄖰乃􄑀迦諸佛也􄑠遇引􄑼左􄗽囉行也四句竟三誦

> タタガタ<note>同じ</note>キリシャー<note>正しく</note>ミシャヴァ<note>清らか</note> ダルマダー<note>法</note>トレーバヴァ<note>三有</note>ニシェシャ<note>余りなく</note>ヴィシャッダ<note>清らか</note> サンバヴァ<note>生</note>チャリタ<note>修行</note>トゥリーユ<note>この</note>グローポ<note>勝れた荘厳</note>ヴィブー<note>輝き</note> バヴァティ<note>ある</note>サルヴァ<note>一切</note>ジナカ<note>諸仏</note>グーチャラ<note>行</note> 如来の清らかな法界には、三つの世界の不完全さは全くなく、清らかであります。 この清らかな修行から生まれる、勝れた荘厳の輝きがあります。 これこそが、一切の諸仏の行いなのです。

􄖩曩􄖵跛􄙈囒非佗也􄖵跛􄕯娜句也􄗥莽􆶫悉𫪭有也􈇚訥􅝵攞􄗣坌難得也一句􄙺索􄑀迦􄙋羅引遍也􄙒路引􄑁迦明也􄑀羯􄙈㘕作也􄗷拽入􄕤佗引如也􄒸爾準上􄖰乃諸佛也，正翻云仁者二句􄑀迦􄙰體􄕘跢引說也􈂼蘇􄙙尾􄙦秫上􇧻地極清淨也􄕻達􅝝磨􄕗跢引法也􄑼左􄗽囉􄕘多修行也三句􄩞怛囉二合無也􄙘尾􄑀羯􈓚臘跛二合分別也􄙖嚩􄒸爾􄕘多引離也四句竟四誦也

􄙘尾􄖹補􄙐犂廣也􄕻達􅝝磨法也􄑢儼􄗜避􄗽囉深也􄗥莽􄢾嚩無改反􈓛曳無盡也，亦無壞也

> 広大なる法（ダルマ）は深く、尽きることなく、壊れることもありません。

右梵本於四偈外更有此一句助聲，今為文便故通入四偈中也。爾時大日世尊說此普門決定智印，印諸種子亦印萬行根牙及悉地果竟，即告諸大眾會言：汝等各從一門，皆隨自所通達而現法界神力悉地流出句。若諸眾生隨於何等法門見此法者，歡喜踊躍得安樂住故。此中神力亦是動用神變之義，亦是增廣義，謂從一得多乃至無量也。流出亦含多義，或名為得、或名為門，然以流出為正也。時執金剛等皆悉頂禮世尊而說是言：如是法主依所教敕，以蒙大師命故，一心敬順不敢有違。而後乘問復請佛言：唯願世尊哀愍我等，示現悉地流出句。何以故？於尊者薄伽梵前而自宣示所通達法，非是所宜。善哉世尊！唯願利益安樂未來眾生故。此中凡有三意：一為自修慚愧謙退之行，示諸行人尊師敬道儀法故。二為諸聖者等各於一法界門究了通達，而令法句圓滿，於一門中各具一切門，自惟心量不能及故，不敢於世尊前說所證法。三、為先請世尊演說普門成就法已，然後諸菩薩等各從一門而演說之。則條派可觀，法門有序。今此三千偈為本存略，故書不盡言。若行者瑜伽成就時，自當具足聞見也。佛讚金剛手言：善哉，善哉！善男子！如來所說法毗奈耶，稱讚一法，所謂有羞者。佛觀諸大士等，雖則智慧方便無量無邊，自知如十四日月，小分未圓滿故，不敢於如來前有所陳說，是即善人之相，故歎言善哉也。梵本羞字與慚愧各殊，今言有羞，則兼備慚愧二法。當知此二白法，即是萬善之因，故世尊推廣其義，所謂以有羞故，速生二事：一者不作所不應作者，二者則為時俗稱譽，名為有羞恥人。今諸佛子以具慚愧心故，則自觀察如來種姓，不越正三昧耶，故為十方聖眾常所稱歎也。

> さて、この梵本には四つの偈の他に、この一句が音声を助けるものとして加えられている。今、文章の都合上、これを四偈の中に含めて解釈する。 その時、大日世尊は、この普門の決定智印を説き、諸々の種子を印し、また万行の根芽や悉地の果実を印し終えられた。そして、会座の大衆に告げて言われた。「汝たちは各々一つの門より、それぞれ自らの悟ったところに従って、法界の神力と悉地の流出句を現じなさい。もし諸々の衆生が、どのような法門であっても、この法を見るならば、歓喜踊躍して安楽に住することができるであろう。」ここでいう「神力」とは、動かし変える神変の意味であり、また増広の意味でもある。すなわち、一から多を得て、ついには無量に至ることをいう。「流出」もまた多くの意味を含む。あるいは「得」と名づけ、あるいは「門」と名づけるが、流出を正しい意味とする。 その時、執金剛らは皆、世尊に頂礼して、こう言った。「このような法主よ、仰せのままに従います。大師の命を受けたので、一心に敬い従い、あえて違背することはありません。」そして、後に問う機会を得て、再び仏に請うて言った。「願わくは世尊、我らを哀れみ、悉地の流出句を示し給え。なぜならば、尊者薄伽梵の前で、自らの通達した法を宣言することは、ふさわしくないからです。善きかな世尊、願わくは未来の衆生を利益し安楽ならしめ給え。」 ここには三つの意図がある。第一に、自ら修して慚愧謙退の行を行うことにより、諸々の行者のために師を尊び道を敬う儀法を示すため。第二に、諸々の聖者らは各々一つの法界門を究了通達しているが、法句を円満にせんがために、一門の中に一切の門を具えることを、自らの心量が及ばないと思い、世尊の前であえて証した法を説かないため。第三に、まず世尊に普門成就の法を演説していただき、その後、諸菩薩らが各々一つの門よりこれを演説するならば、条理が整い、法門に秩序が生じるからである。 今、この三千偈は根本を簡略に記したものであり、故に書物に尽くし得ない。もし行者の瑜伽成就の時には、自ずから具足して聞き見ることができるであろう。 仏は金剛手を讃えて言われた。「善きかな、善きかな。善男子よ。如来の説くところの法と律は、一つの法を称賛する。すなわち、『恥じる心があること』である。」仏は諸々の大士らを観て、智慧方便が無量無辺であっても、自らを十四日の月の如く、まだ少し欠けたところがあると知り、如来の前であえて述べることをしない。これはすなわち善人の相である。故に「善きかな」と嘆じられたのである。梵本では「羞」という字と「慚愧」は各々異なるが、今「有羞」と言えば、慚愧の二つの法を兼ね備えている。この二つの白法は、すなわち万善の因であることを知るべきである。故に世尊はその意義を広め、恥じる心があることによって、速やかに二つの事が生じると説かれた。第一に、なすべきでないことをなさないこと。第二に、世間の称賛を得て、恥を知る人と呼ばれることである。今、諸仏の子らは慚愧の心を具えているが故に、自ら如来の種姓を観察し、正しい三昧耶を越えない。それゆえに十方の聖衆に常に称賛されるのである。

復次，以有羞故，速生二事，得與佛、菩薩同處。以要言之，一切功德未滿者，能令滿足，得與大悲漫荼羅大眾常會一處也。

> さらに、恥を知る心（慚愧）があるからこそ、すぐに二つの善い結果が生まれます。一つは、仏や菩薩と共に在ることができるということです。簡単に言えば、あらゆる善い行いがまだ十分でない人も、これを満たすことができ、大いなる慈しみの集い（大悲曼荼羅）の仲間たちと、常に一つの場所に集うことができるのです。

復次以有羞故更生二法，謂住尸羅、生於人天。尸羅是清涼義，如苦熱󳬂烝者得入八功德池，遇毒病者塗以海岸栴檀、灌以甘露，爾時內外清涼、身心安樂，故名尸羅。行人亦復如是，以有羞故得入大般涅槃第一清淨處，還以方便生人天中，何況世間善趣也。此中當以三四五六等乃至無量法門廣歎有羞義，以大宗可領，不復備舉三隅。世尊如是讚歎已，又復誡令善聽，然後演說悉地流出相應句。如生身佛放光明時，光有出處，所謂白毫頂相乃至足下腰下相，一一相中普皆流出。毗盧遮那亦爾，從大悲胎藏漫荼羅身，一一身法爾真言相，能令悉地功德普流出，瑜伽行者方便具足時得與相應，故曰相應句也。

> さらに、恥を知る心があるからこそ、さらに二つの法が生じる。すなわち、戒律を守ることと、人天に生まれることである。戒律とは清らかで涼しいという意味であり、例えば、ひどい暑さに苦しむ者が八功徳池に入り、毒に苦しむ者が海岸の栴檀を塗り、甘露を注がれるようなものである。その時、内外が清涼となり、身心が安楽となる。ゆえに戒律というのである。修行者もまた同じである。恥を知る心があるからこそ、大般涅槃という第一の清らかな境地に至り、そこからさらに方便を用いて人天の世界に生まれるのである。ましてや、世間の善い世界に生まれることはなおさらである。 このことは、三つ、四つ、五つ、六つ、さらには無数の教えを用いて、広く恥を知る意義を称賛することができるが、大きな要点は理解できるであろうから、細かくすべてを挙げることはしない。世尊はこのように称賛した後、さらに注意深く聞くよう戒め、それから悉地が流出し、相応する句を説かれた。例えば、仏の生身が光明を放つ時、その光には出所がある。すなわち、白毫や頂上の相から、足の裏や腰の下の相に至るまで、一つ一つの相からすべてが流れ出る。毘盧遮那仏もまた同様である。大悲の胎蔵の曼荼羅の身から、その一つ一つの身に生まれつき備わった真言の相があり、それによって悉地の功徳がすべて流れ出るのである。ヨガの修行者が方便を具足する時、これと相応する。ゆえに「相応句」というのである。

從此已下廣明悉地支分，最初明作成就人，以是悉地正因故。若行者道種未具法器不完，則三密之果無由出現。就此支分中更復分為多句：第一見漫荼羅者，如前得具滿法事，同於受大戒人，從此已後乃令修學諸真言行也。第二尊所印可者，謂行者既得灌頂，更於餘日廣供養阿闍棃諮受真言法要，當以吉祥寶缾次第傳度，如蘇悉地經受真言法品中廣明，但此經宗更加深祕瑜伽義耳。若不師師相受，但執文憶度輒爾行之，例如戒律，如無師檀出家者，非但無福反成障道，雖精進苦到悉地不成也。第三成就真語者，謂所持真言非但而已，又親蒙本尊印驗字句周圓，兼作增威等法勢力成就，則易獲加被無有疑心，如蘇悉地滿足真言法及增威品說也。第四發菩提心，第五深信，第六慈悲，第七無有慳恡，皆如第二品中釋。此對祕密乘中四重，第四句對不離菩提心戒，第五句對不捨正法戒，第六句對不於眾生作不饒益行戒，第七句對不於正法慳恡戒。若隨犯一一禁者，諸善功德終不得生，令此四心與彼極相違故，必能成就悉地果也。第八住於調伏，梵云難多，即是已調柔義，謂以十種方便學處，種種調御六情根故，一切三業任運調柔，如馴牛良馬，堪可隨意服乘，有所至到也。第九、能善分別從緣生法者，謂能深修觀察十緣生句，了知真言行門一切所作皆如幻化，乃至乾闥婆城，以無生無性畢竟不可得故，即是空義；不遮彼彼因緣合時，有如是如是幻相故，即是假義；窮照實際，不出於心故，即是中義。行者如是見時，種種戲論滅故，內外魔事無如之何，方可作大成就也。第十、受持禁戒者，此是真言行門別律儀法，如蘇悉地持明戒品及毗盧遮那供養法中廣明，能以無疑慮心敬順奉持，不越三昧耶教，則諸障不起，悉地速成也。第十一、善住眾學者，是真言門所應學事，如前入漫荼羅品中眾多支分、供養法中眾多支分，今此作成就時眾多支分等，乃至緣漫荼羅工巧伎藝明處，皆悉懃心諮受，如說而行，臨事無疑，不看佗面，譬如比丘法中已離依止，名為住位人也。第十二、具巧方便者，謂於真言事業曲盡能事，善得變通，譬如規矩繩墨，眾匠所同，而運思精微者，獨得其玅。是故雖犯大罪，若於有巧方便者，則易消除。雖植微善，若有巧方便者，則令無盡。如彼回聲入角，飈火焚薪。若不達如是權用，則功力徒勤，猶多滯礙也。第十三勇健義，如第二品阿闍棃德中說。以作大成就時，當有種種難起。要令心不退沒，又不驚怖者，然後可成也。第十四知時非時者，謂於種種事業，能用悉檀方便。既不先時，又不後時。善趣機會，動而有獲。如坐禪讀誦，營事化人。乃至行四威儀，飲食睡眠等，各有時非時相。如真言行者，若晝日尸臥，通夜不寢之類，皆不與時義會也。第十五好行惠施者，以樂修福事，常念利佗。故能於恩德悲愍二種田中，廣植善根。以此回向悉地，則所祈易果。若兼濟義闕，徒為宿障所纏。則滿願之寶，去之彌遠矣。第十六心無怖畏者，此義與前勇健，少有差別。如在尊嚴威德眾中，能以法自安，威儀不異。種種難問，無怯愞心。設令有所未悟，亦善諮決所疑，終不嬈亂。故外典謂之有守之人。以具斯德故，雖諸聖眾現前時，秉持法事，心不迷謬也。第十七勤修真言行法者，謂於祕密乘中，所為事業，終不中路懈廢。更俟後緣，則令當得者不得，已得者退失。多起障道，使習與性成。故此一緣，例如精進波羅蜜，能成五度。是以毗尼中說，以一心精進故，得阿耨多羅三藐三菩提，何況所餘善法。當引智度廣說之。第十八通達真言實義者，謂如前所說，一一名言成立中，明識字輪之相，達其深意，能於眾緣支分淺祕二釋，自在旋轉，曲赴眾機。譬如有智大臣，於先陀婆一名之下，得其四用，悅可王意，賞祿倍增。故能以法界胎藏，作諸成就也。第十九常樂坐禪者，如前品修習瑜伽，種種調心方便，是名悉地種子，妙果親因。要令深心一緣，念念無閒，方能有所觸證，自見成功。若不能爾，徒欲順𪾼目之求，於空中種樹，雖千萬億劫，尚無得義，何況此身，能致大成就耶？第二十樂作成就者，此是菩薩大貪。以此貪欲因緣，染著種種法界不思議色。猶如世人，以染著六塵，不能自捨，故成種種業受之身。故瑜伽宗受灌頂時，阿闍棃立要誓言：汝從今已後，慎勿斷貪欲。以不斷貪欲故，則不斷世間佛種也。譬如巧說王膳，樂學仙方，具曉烹任之宜，兼傳飛練之決，而不設方便，無心服食，誰能強之乎？若具此二十德者，乃名作成就人支分也。

> ここから広く悉地（成就）の条件を詳しく説明します。まず、成就を成し遂げる人について明らかにします。なぜなら、これが悉地の正しい原因だからです。もし修行者に道の種が備わっておらず、器（資質）が完全でなければ、三密（身・口・意）の果実は現れることがありません。この条件の中でも、さらに多くの項目に分けられます。 第一に「曼荼羅を見ること」とは、前に述べたように、法の務めを完全に満たし、大戒を受けた人と同じになることです。これ以降、真言の諸行を学ばせます。 第二に「本尊に認められること」とは、行者が灌頂を受けた後、別の日に師に広く供養し、真言の法要を諮り受けることです。その際、吉祥の宝瓶を用いて順次伝授します。これは『蘇悉地経』の「受真言法品」に詳しくありますが、この経典の宗旨ではさらに深遠な密教ヨガの義理が加わっています。もし師から師へと伝授されず、ただ文を執って憶測で行えば、例えば戒律において師や僧なしに出家するようなもので、福がないばかりか、かえって道を障げます。たとえ精進苦行しても、成就は得られません。 第三に「真言を成就すること」とは、唱える真言がただ言葉だけではなく、直接本尊の印可と、文字や句が完全であることの検証を得て、さらに威力を増すなどの法が勢力を成就することです。そうすれば加護を得やすく、疑いの心がありません。『蘇悉地経』の「満足真言法」や「増威品」に説かれています。 第四の「菩提心を発すこと」、第五の「深く信じること」、第六の「慈悲」、第七の「慳吝(けち)のないこと」は、すべて第二品で解釋した通りです。これらは密教の四つの重い戒に対応します。第四は「菩提心を離れない戒」、第五は「正法を捨てない戒」、第六は「衆生に不利益な行いをしない戒」、第七は「正法を惜しまない戒」です。もし一つでも犯せば、あらゆる善い功徳はついに生じません。この四つの心がそれらの戒と非常によく対応するからです。必ず悉地の果を成就できるでしょう。 第八に「調伏に住すること」。サンスクリット語で「ダーンタ（難多）」といい、すでに調えられ柔らかくなったという意味です。十の善行によって六つの感覚器官を様々に調御するので、すべての三業（身・口・意）が自然に調和し、まるで馴れた牛や良馬のように、意のままに乗りこなせ、どこへでも行けるのです。 第九に「縁から生じる法をよく分別できること」とは、十の縁生の句を深く観察し、真言の行門におけるすべての行いが幻のようであり、さらには乾闥婆の城のようなものであると了知することです。無生・無性・畢竟不可得であるから、それは「空」の意味です。しかし、それぞれの因縁が和合する時に、そのような幻の相があることを否定しないから、それは「仮」の意味です。そして、実際の真理を窮めても、心を出ないから、それは「中」の意味です。行者がこのように見る時、様々な戯論が滅するので、内外の魔の出来事もどうすることもできず、初めて大きな成就ができるのです。 第十に「禁戒を受け持つこと」とは、これは真言行門の別の律儀の法であり、『蘇悉地経』の「持明戒品」や『毘盧遮那供養法』に詳しく説かれています。疑いのない心で敬い従い奉持し、三昧耶の教えを越えなければ、諸々の障害は起こらず、悉地は速やかに成就します。 第十一に「多くの学びによく住すること」とは、真言門で学ぶべき事柄です。例えば、曼荼羅に入る品々の多くの部分、供養法の多くの部分、そしてこの成就を行う時の多くの部分など、曼荼羅に関する工巧や技術、学問に至るまで、すべて誠心をもって諮り受け、説かれた通りに行い、事に臨んで疑わず、他人の顔色をうかがわないことです。例えば比丘の法において、すでに依止を離れ、「住位の人」と呼ばれるようなものです。 第十二に「巧みな方便を具えること」とは、真言の事業において、その能力を余すところなく発揮し、うまく融通することです。例えば、規矩や墨縄は多くの大工に共通のものですが、思考を精密にする者は、独自にその妙を得ます。それゆえ、たとえ大きな罪を犯しても、巧みな方便がある者には、容易に消し去ることができます。たとえわずかな善を植えても、巧みな方便があれば、それを尽きないものとします。それは、音が角(つの)にこだまして返り、風の火が薪を焼くようなものです。もしこのような巧みな働きを悟らなければ、努力は徒労に終わり、多くの滞りがあるでしょう。 第十三に「勇健の意味」は、第二品の阿闍梨の徳のところで述べた通りです。大きな成就を行う時には、様々な困難が起こります。心が退転せず、また驚かない者でなければ、その後成就できるのです。 第十四に「時と非時を知ること」とは、様々な事業において、悉檀(相手に合わせた)の方便を用いることができることです。時期を先取りもせず、遅れることもなく、機会をうまくとらえ、動けば必ず収穫があります。座禅や読誦、営事や教化、さらには行住坐臥の四威儀、飲食や睡眠などに、それぞれ時と非時があります。真言行者が昼間に横になり、夜通し寝ないなどのことは、いずれも時の義に合いません。 第十五に「布施を好むこと」とは、楽しんで善い行いを積み、常に他者の利益を思うからです。それによって、恩徳の田と悲愍の田という二つの福田に、広く善根を植えることができます。これを悉地に回向すれば、願いは叶いやすくなります。もし他者を助ける心が欠ければ、ただ前世の障りに縛られ、満願の宝は遠ざかるばかりです。 第十六に「心に怖れのないこと」は、この意味は前の「勇健」と少し異なります。例えば、尊厳で威厳のある大衆の中でも、法によって自らを安んじ、威儀を崩しません。様々な難しい質問にも、臆する心がありません。たとえ悟っていないことがあっても、よく諮って疑いを決し、決して混乱しません。そのため、世俗の書物では「守る者のある人」と言います。このような徳を備えているからこそ、諸々の聖なる衆が現前する時でも、法事を執り行い、心が迷わないのです。 第十七に「真言行法を勤め修めること」とは、密教における事業を決して途中でやめず、後の機会を待たないことです。そうすれば、得るべきものを得、すでに得たものも退失させず、多くの障道を起こさせず、習慣を性質と同一にしないのです。したがって、この一つの条件は、例えば精進波羅蜜が五度を完成させるようなものです。毘尼（律蔵）にも、一心に精進するからこそ阿耨多羅三藐三菩提を得ると説かれ、ましてや他の善法はなおさらです。『大智度論』を引いて詳しく説くべきでしょう。 第十八に「真言の真実の義に通達すること」とは、前に述べたように、一つ一つの言葉の成立において、字輪の相を明らかに識り、その深い意味に達し、多くの条件や、浅い解釈と深い解釈の二つを自在に使い分け、様々な機根に合わせられることです。例えば、賢い大臣が「サンダヴァ（先陀婆）」という一言の下で、四つの用途（塩・器・水・馬）を得て、王の心を喜ばせ、賞禄が倍になるようなものです。それゆえ、法界胎蔵をもって、様々な成就をなすことができるのです。 第十九に「常に坐禅を楽しむこと」とは、前の品で述べたヨガの修行や、様々に心を調える方便であり、これが悉地の種子であり、妙果の直接の因です。深く一心に、瞬間も途切れずに集中し、初めて何かを触証し、自ら成功を見ることができます。もしそうでなければ、まさに目の前のものを求めるような、空中に木を植えるようなもので、たとえ千万億劫でも、得ることはありません。ましてやこの身で、大きな成就を得ることができるでしょうか？ 第二十に「成就をなすことを楽しむこと」とは、これは菩薩の大いなる貪欲です。この貪欲の因縁によって、様々な法界の不可思議な色に染まります。あたかも世の人々が、六塵に染まって自ら捨てられず、様々な業と感受の身をなすようなものです。それゆえヨガの宗派では、灌頂を受ける時に、阿闍梨が誓いを立てて言います。『あなたは今より後、決して貪欲を断ってはならない。貪欲を断たないからこそ、世間の仏の種を断たないのである』と。例えば、巧みに王の食事を説き、仙方(不老長寿の術)を学び、料理の適切さを詳しく知り、飛練(錬丹術)の秘訣を伝えられても、実行する方便を設けず、服食する気がなければ、誰が強制できるでしょうか？ もしこの二十の徳を備えるならば、成就を成し遂げる人としての資格があると言えるのです。

世尊欲慰喻作成就人，令深信樂不思議法性故，復告金剛手言：祕密主！譬如欲界有自在悅滿意明呪，乃至一切欲處天子，於此迷醉者，謂佗化自在天王，自以神通福智之力，成此明呪，能一時普應六天四域眾生，各各如其像類，悉令悅滿心願。又為欲界一切天子女，化作有情無情種種五塵境界，皆悉端嚴微玅，移奪人心，令彼深生味著，為之迷醉，如現香華伎樂飲食衣服等，皆可現前受用。若化女色等，亦與彼更相娛樂，有類生靈，故云受用遍受用，非但應佗而已，亦復自受用之。彼具貪欲愚癡神變尚爾，何況大聖真言，而不能普現色身，行如來事耶？

> 世尊は、修行を成し遂げた者を慰め励まし、思いもよらない法性を深く信じ喜ばせようとして、再び金剛手に告げられた。 「秘密主よ。例えば、欲界には自在悦満意の明呪がある。これは、欲界のすべての天子たちさえも酔いしれさせるものだ。すなわち、他化自在天王が自らの神通力と福智の力でこの明呪を成就させた。すると、この呪は一瞬のうちに六天と四域のすべての衆生に応じ、それぞれの姿や願いに合わせて、彼らの心の願いをことごとく満たし喜ばせる。 また、欲界のすべての天女たちのために、有情・無情のさまざまな五塵の境界を現す。そのすべてが美しく微妙で、人の心を奪い、深く味わい執着させ、酔いしれさせる。例えば、香りや花、音楽や舞、飲食や衣服などを現せば、それらはすべて目の前に現れてすぐに使用できる。 もし女色などを現せば、互いに楽しみ合い、生きている者のように振る舞う。だから『受用し遍く受用する』と言われるのだ。ただ他人に応えるだけでなく、自らもそれを受用するのである。 このように、貪欲や愚痴を具えた神変でさえこのようである。ましてや、大聖の真言が、さまざまな色身を現し、如来の働きを行うことがないはずがあろうか。」

復次，如摩醯首羅天王，更有明呪名勝意生，能一時普現三千大千世界，作一切眾生利益，乃至化作種種淨玅資具，悅可淨居諸聖天尊，令其受用遍受用，而亦自受用之。彼為大千世界主，猶固神力若是，何況遍一切處法界之主，而不能普現色身行如來事也？且置是事，如世間造幻術者，尚能以其呪力加持藥艸，示現種種園林人物。又如阿修羅王，猶是四惡趣攝，能以自真言力化為天帝釋身，坐於善法堂上，令三十三天眾皆生疑惑，何況如來窮盡諸法幻際，而不能以法性身作自在神變化耶？又置是事，如七母鬼等，亦以少分自在力結作明呪，能作眾生疾疫災癘，亦能息之。又現見世間持迦樓羅鳥呪等，能攝除眾毒變革寒熱，禁伏熾火使成清涼，何況如來於一切心自在中最為第一，而不能發誠諦言滅除種種災患耶？所以世尊廣說諸譬喻者，為彼作成就人未獲悉地已來，當生種種疑網。或自以心力推畫如是之事，為定有耶？為定無耶？或由未達不思議緣起故，取著真如實際而生是見。夫清淨法身無為無相，而今作種種相，將非虗妄耶？是以世尊為令普斷疑網故，更復結會諸句，顯明中道，言：善男子！當信如是流出句真言威德。此真言威德非從真言中出，亦不入眾生，不於持誦者處而有可得。若行者以此四不生句諦觀察時，若有、若無、若亦有無、若非有無等種種戲論滅故，即見本不生句。若見本不生句時，則知諸法法相有佛無佛，法爾如是住。故云：善男子！真言加持力故，法爾而生，無所過越。佛更自說因緣，以三時不越故，謂於去、來、現在一切諸世界中法爾。眾生有機，則法身有應；機應相關，則有種種如來事業生。如大海潮，久來常爾，終不過限。

> さらに、大自在天（マヘーシュヴァラ）でさえも、「勝意生」という真言（マントラ）を持っており、それにより一瞬にして三千大千世界に現れ、あらゆる衆生に利益をもたらし、さらにはさまざまな清らかで素晴らしい道具を生み出し、浄居天の聖なる天尊たちを喜ばせ、彼らにそれを十分に享受させ、また自らもそれを享受します。かの天は大千世界の主でありながら、すでにこれほどの神通力を持っています。ましてや、あらゆる場所に遍満する法界の主である如来が、さまざまな姿を現して如来の働きを行うことができないはずがありましょうか。 さて、このことはひとまず置きましょう。世間の幻術を操る者でさえ、その呪力をもって薬草に力を与え、さまざまな園林や人物を幻影として現すことができます。また、阿修羅王は四悪趣に属しながらも、自己の真言の力で帝釈天の姿に変わり、善法堂に座って三十三の天の衆を疑いの心で満たすことができます。ましてや、如来がすべての法の幻の極みを完全に悟りながら、法身の姿で自在に神通変化を行うことができないはずがありましょうか。 さらにまた、このことも置きましょう。七母鬼などでさえも、わずかな自在力をもって真言を結び、衆生に疫病や災いをもたらし、またそれを鎮めることもできます。また、現に世間では迦楼羅鳥の呪いなどを唱える者が、毒を取り除き寒熱を変え、激しい火を制して清涼にすることが見られます。ましてや、すべての心における自在のうちで最も第一である如来が、誠実な言葉を発してさまざまな災いを滅ぼすことができないはずがありましょうか。 それゆえに、世尊は多くの譬えを広く説かれました。それは、成就を目指す人々が、まだ悉地（成就）を得ていない間、さまざまな疑いの網を生じるからです。あるいは、自らの心の力で「これは確かに存在するのか、存在しないのか」と推し量ったり、あるいは不思議な縁起の道理を悟っていないために、真如や実際に執着してそのような見解を抱くのです。「清らかな法身は無為であり無相であるのに、今、さまざまな相を現すとは、それは虚妄ではないのか」と。 そこで世尊は、疑いの網を完全に断ち切らせるために、さらに諸々の句を結び合わせて中道を明らかにされました。こう仰います。「善男子よ、信じなさい。この流出句の真言の威徳を。この真言の威徳は、真言から出るのでもなく、衆生の中に入るのでもなく、また、それを唱える者に得られるものでもない。もし修行者が、この四つの不生の句をもって深く観察するならば、『有る』『無い』『有るとも無いとも言えない』『有るのでも無いのでもない』といったさまざまな戯論が滅し、その時、本来不生の句を見る。もし本来不生の句を見るならば、諸法の法相は、仏がおられようとおられまいと、そのまま法としてこのように安住していることを知る。」 それゆえに、「善男子よ、真言の加持力によって、法として自然に生じ、それを超えることはない」と説かれました。そして仏は自らその因縁を説かれました。「三時を超えないからである。すなわち、過去・未来・現在の一切の諸世界において、法として自然にそうである。衆生に機縁があれば、法身はそれに応じる。機と応が関わり合えば、さまざまな如来の働きが生じる。それは大海の潮が、昔から常に一定であり、決してその限界を超えないのと同じである。」

次復轉相釋云：何故如是？以不思議緣生理故。譬如明月在空器水澄淨，又無烟雲諸障隔礙，其間法爾影生來不可拒，及其一緣互闕則去不可追逮，復思量分別徒成戲論。故行者作成就時，但當自撿身心，務使因緣備具。至若有無成壞，何足致疑耶？

> さらに、互いに説き明かすには、「なぜそうなるのか？」というと、不可思議な縁起の理法があるからである。例えば、明月が空にあり、器の水が澄み切って、さらに煙や雲などの障害がなければ、その間に自然に影が現れ、それを拒むことはできない。そして、一度その縁が互いに欠けてしまえば、影は去って捉えることもできない。これを思量し分別することは、ただ戯論（むだな議論）となるだけである。 それゆえ、修行者が成就を目指す時は、ひたすら自らの身心を省みて、因縁が整うよう務めるべきである。成るか成らないか、あるいは壊れるかどうかといったことに、どうして疑いを抱く必要があろうか。

復次，敦勸言：是故，善男子！當通達不思議法性常不斷絕真言道。以行者隨順通達不思議法性時，則知諸法如幻際不異寂滅際，諸法寂滅際不異如幻際，已見無二際故，則解如來無邊感應。若解如來感應，則能以金剛儛戲普現色身，使世間佛種常無斷絕，故云不斷真言道也。

> さらに、心から勧める言葉があります。 それゆえ、善き男子たちよ、不可思議な法性（真理の本質）が絶えることなく続く真言の道を、深く理解しなさい。 修行者がこの不可思議な法性に沿って、理解を深めていく時、すべての現象は幻のように仮の姿であり、その本質は静かな消滅の境地と異ならないと知るのです。 また、すべての現象の静かな消滅の境地は、幻のような仮の姿と異ならないと知るのです。 すでにこの二つに区別のない境地を見たなら、如来の限りない感应（はたらきかけ）を理解することができます。 如来の感应を理解できたなら、金剛の舞のように自在に、あらゆる姿を現して、世の中に仏の種が絶えることがないようにすることができます。 だからこそ、「真言の道は断絶しない」と言うのです。

經云：爾時世尊復住三世無礙力，依如來加持不思議力，依莊嚴清淨藏三昧者，自此已下明所持真言支分。如上諸菩薩等各住三昧說自心真言，今毗盧遮那亦欲宣說自心真言，故先入三昧也。如世間眾生種種身口意業皆依於心，毗盧遮那亦爾，一切三世無礙智力、一切神變加持不思議力，皆依莊嚴清淨藏。一切眾生雖本有蓮華胎藏，以無礙智力未圓滿故，未得畢竟清淨；以加持神力未圓滿故，未得畢竟莊嚴。又一切眾生雖本有三世無礙智力、神變加持不思議力，但以蓮華胎藏未得莊嚴清淨故，照用皆不現前。唯有如來具足成就故，能住此三昧也。

> 経典にこう説かれている。その時、世尊は三世に障りのない力に安住し、如来の加持という不可思議な力に依り、荘厳清浄蔵という三昧に依っておられた。ここから以降は、受持すべき真言の部分について明らかにされる。先に述べた諸菩薩たちはそれぞれの三昧に安住して、自らの心の真言を説いた。今、毘盧遮那もまた自らの心の真言を説こうとして、まず三昧に入られたのである。 世間の生きとし生けるものの様々な身・口・意の業はすべて心に依っている。毘盧遮那もまた同様で、一切の三世に障りのない智慧の力、一切の神変加持の不可思議な力は、すべて荘厳清浄蔵に依っている。すべての生きとし生けるものは、本来、蓮華の胎蔵を有しているが、障りのない智慧の力がまだ円満でないため、究竟の清浄を得ていない。加持の神通力がまだ円満でないため、究竟の荘厳を得ていない。また、すべての生きとし生けるものは、本来、三世に障りのない智慧の力や神変加持の不可思議な力を有しているが、ただ蓮華の胎蔵がまだ荘厳清浄を得ていないため、その照らし用いる働きがすべて現れないのである。ただ如来のみがこれを具足し成就しているがゆえに、この三昧に安住することができるのである。

復次今說三昧，當知與智慧俱。然以蓮華胎藏清淨莊嚴智慧，即是如來常慧，無有入住出相，亦無可表，故說如來住於莊嚴清淨藏三昧。而實如來定慧無有二相，為順常途教門分別，令人易解，故言佛住於三昧也。梵音􄚦􄗥􄖵􄟗三摩引鉢底，正是三昧入證之時，即從定中為說佛心真言故，出無盡界無量語表。若對毗曇明義，即是諸佛常聲語表之業。又以十方諸佛共所印成，此印即是表標義也。次云依法界力、無等力、正等覺信解力，以一音聲四處流出者，又轉釋如是音聲非無因緣，要具三力然後生起。一者不思議法界力，二謂無等三昧耶力。法爾應度機生，則加持應生大誓海潮，終不過限。此是無等三昧耶力，故名無等力。若在行人，則名諸佛加持力。謂正等覺信解力，是如來本行菩薩道時所集善根。若在行人，則名自功德力。如持誦人，以三事和合正回向故，所願皆得成就。是故如來亦以三力和合故而出音聲，以從眾緣起故，當知此聲本不生也。言一音四處者，如一阿字，或加下畫，或安上點，或置傍點，則成四用。又阿聲是一，或短聲呼，或長聲呼，或含聲呼，或呵聲呼，則成四名。復次佛心是一，或約本不生理，或約本不生行，或約本不生菩提，或約本不生涅槃，則成四義。四相雖復不同，而體未曾異也。如來為表斯義故，從圓明心中現四字門，於此一體四門，以一音聲四處流出，譬如無熱池中四河流出，展轉無盡滿於大海，故云普遍一切法界，與虗空等無所不至。以此聲字之相表示佛心，即彼真言實義也。初句歸命一切諸如來，次句微溼嚩二合，古譯謂之毗首，是種種義亦是巧義，目佉是門，所謂種種巧度門也。次云薩嚩佗去引，是總攝一切法門，謂十方三世一切諸佛，各以無量無邊巧度門，種種因緣譬喻言辭演說諸法。今則統而論之，原其旨趣不出四字門，所謂􆿅阿􆿆阿引去􆿓暗􆿔噁也。以􆿅阿字門故，一切眾生本有佛知見性，如來以種種因緣為彼淨除眼瞙使開明，故法華第一句云開佛知見使得清淨，即是淨菩提心也。既得淨菩提心，當廣示法界藏中種種不思議境界，令普見一切善知識，遍學一切諸度門，故法華第二句云示佛知見，即長􆿆阿引字大悲萬行義也。已具大悲萬行，次以娑羅樹王華開敷智成大菩提，故法華第三句云悟佛知見，即是􆿓暗字義也。既成佛已，即以加持方便普門垂迹導利眾生，若眾生了知常住時，如來眾迹都盡，以無迹故名為入般涅槃，故法華第四句云入佛知見，即是􆿔惡字門也。字輪對如來方便智，更有第五長聲􈓜惡引字門，以無別體故此中不說。若欲指文辨相，即是歸命句中種種如來巧度門，以此五字統收一切佛法無有遺餘，故名為正等覺心也。

> 次に、今説く三昧について知るべきである。それは智慧と共にあるものだ。しかし、蓮華の胎蔵の清らかで荘厳な智慧とは、すなわち如来の常住の智慧であり、入・住・出という相がなく、また表し示すこともできない。それゆえ、如来は荘厳清浄蔵三昧に住するというのである。しかし実際には、如来の定と慧に二つの相はなく、通常の教えの区分に従って、人々に理解しやすくするために、あえて「仏は三昧に住す」と言うのである。 梵語の「三摩鉢底」は、まさに三昧に入り証を得る時であり、その定中から仏心の真言を説くために、尽きることのない世界の無量の言葉の表れを出すのである。これを毘曇の義理に照らせば、諸仏の常なる声の言葉の働きである。また、十方の諸仏が共に印可するものであり、この印とは表し示す義である。 次に、「法界力、無等力、正等覚信解力により、一音声が四處に流出する」とは、このような音声が無因縁ではなく、三つの力を備えて初めて生じることを説き明かしている。第一に不思議法界力、第二に無等三昧耶力である。法の理として、救うべき機縁ある衆生には、大誓の海潮が応じて生じ、決して期限を過ぎることはない。これが無等三昧耶力であり、故に無等力という。修行者においては、諸仏の加持力と名づける。正等覚信解力とは、如来がかつて菩薩道を修行していた時に積んだ善根である。修行者においては、自らの功徳力と名づける。例えば、念誦する人が三つの事を和合して正しく回向するならば、願いは全て成就する。それゆえ、如来も三つの力を和合させて音声を出すのであり、縁によって生じるものであるから、この声は本来不生であると知るべきである。 「一音四處」とは、例えば一つの「阿」の字に、下に画を加えたり、上に点を置いたり、傍らに点を置くことで、四つの働きとなる。また、「阿」の声は一つだが、短く呼んだり、長く呼んだり、含んで呼んだり、呵して呼んだりすることで、四つの名称となる。さらに、仏心は一つだが、本不生の理に基づいたり、本不生の行に基づいたり、本不生の菩提に基づいたり、本不生の涅槃に基づいたりすることで、四つの義となる。四つの相は同じではないが、その体は異なったことがない。如来はこの義を表すために、円明の心の中から四つの字門を現し、この一つの体に四つの門があり、一つの音声が四處に流出する。例えば、無熱池から四つの川が流れ出て、尽きることなく大海に満ちるようなものである。ゆえに、「普遍一切法界、虚空と等しく、至らざる所なし」というのである。この声と字の相によって仏心を表すのが、すなわち真実の真言の義である。 初めの句は「一切の諸如来に帰命す」、次の句は「微溼嚩」<note>二合</note>、古訳では「毗首」といい、これは「種々」の義であり、また「巧み」の義でもある。「目佉」は「門」であり、いわゆる種々の巧みな救済の門である。次に「薩嚩佗」<note>去</note><note>引</note>は、一切の法門を総摂することをいい、十方三世の一切の諸仏が、それぞれ無量無辺の巧みな救済の門により、種々の因縁や譬えや言葉を用いて諸法を説くことを意味する。今はこれらを総合して論じれば、その趣旨は四つの字門を出ない。すなわち、「阿（あ）」（短）・「阿（あー）」（長・去）・「暗（あん）」・「悪（あく）」である。「阿」の字門により、一切の衆生は本来仏の知見の性を有している。如来は種々の因縁をもって彼らの眼の曇りを除き、明らかに開かせる。ゆえに『法華経』の第一句は「仏知見を開き、清浄を得せしむ」といい、これが清浄な菩提心である。清浄な菩提心を得たら、広く法界蔵の中の種々の不可思議な境界を示し、あらゆる善知識を見せ、あらゆる救済の行を遍く学ばせる。ゆえに『法華経』の第二句は「仏知見を示す」といい、これが長音の「阿」の字の大悲・万行の義である。大悲・万行を備えたなら、次に沙羅樹王の花開く智慧により大菩提を成就する。ゆえに『法華経』の第三句は「仏知見を悟る」といい、これが「暗」の字の義である。成仏したなら、次に加持の方便により普遍の門より迹を垂れて衆生を導き利益する。もし衆生が常住の道理を了知する時、如来の衆跡は全て尽き、迹がないゆえに「涅槃に入る」という。ゆえに『法華経』の第四句は「仏知見に入る」といい、これが「悪」の字門である。 字輪には、如来の方便智に関して、さらに第五の長音「悪（おー）」<note>引</note>の字門があるが、別の体がないためここでは説かない。もし文に従って相を弁じるならば、すなわち帰命の句における「種種如来巧度門」であり、この五つの字によって一切の仏法を統摂し、余すところがない。ゆえに「正等覚心」と名づけるのである。

復次，今且約一途修行次第故，作淺深差別說。而實五字各是一切如來智，各各統收一切佛法。是故下文修觀時，隨舉一心，即見一切如來心。以旋轉無礙故，名為正等覺心也。世尊為顯如是義故，演說此真言時，一一聲字，悉皆普遍法界。於此四字，各出一切字門。如是一一字門，展轉復生一切字門。從字發聲，當知亦爾。此聲從字生故，以字為門。故云即時一切法界諸聲門，從正等覺標幟之音，而互出聲也。雖互出言音，展轉差別，然覈其本體，不出阿聲。是故諸菩薩等，聞此標幟之音，即時隨義，知如來心展轉出生一切法門，亦知一切法門畢竟不出如來心。是故得未曾有，開敷淨眼，發微玅言音，而說偈言：奇哉真言行，能具廣大智。此廣大梵音，名􄙘􄖹􄙊毗富攞。以真言聲，普遍一切法界，與虗空等，無所不至。當知佛心亦然。故云廣大智。若此智展轉流布，猶如標幟之音，互出聲時，即是成正覺句。故曰若遍布此者，成佛兩足尊。次一偈，以見如是利故，普令勸勉修行。若淨心離我縛時，當得如是自在用也。

> さて、ここでは一つの修行の道筋に沿って、浅い深いの違いを仮に説いてみよう。しかし実際には、五つの字はそれぞれ全ての如来の智慧であり、一つ一つが仏法の全てを収めている。それゆえ、後の観法を修行する時に、一つの心を挙げれば、そのまま全ての如来の心を見ることができる。回転して妨げがないから、正等覚心と名づけるのである。 世尊がこのような意味を明らかにするために、この真言を説かれた時、一つ一つの声や字が、ことごとく法界に普遍した。この四つの字から、それぞれ全ての字の門が出てくる。このように一つ一つの字の門が、さらにまた全ての字の門を生み出す。字から声が発することも、同じように知るべきである。この声は字から生まれるので、字を門とする。だから「即時に一切法界の諸声門は、正等覚の標幟の音から、互いに声を出し合う」と言うのである。 互いに言葉を発し合い、様々に異なってはいるが、その本体を究めれば、阿の声を出ることはない。それゆえ、諸々の菩薩たちは、この標幟の音を聞くと、即時にその意味に従って、如来の心が展転して全ての法門を生み出すことを知り、また全ての法門が結局は如来の心を出ないことをも知る。それゆえ、未曾有のことを得て、清らかな眼を開き、微妙な言葉を発して、偈を説いた。 「奇なるかな真言行、広大なる智を具足す。この広大なる梵音を、毘富攞と名づく」 真言の声によって、全ての法界に普遍し、虚空と等しく、至らないところがない。仏の心もまた同じであると知るべきである。だから「広大智」と言うのである。もしこの智慧が展転して流布し、ちょうど標幟の音が互いに声を出し合う時のように、それこそが正覚の句を成就することである。だから「もしこれを遍布すれば、仏・両足尊を成ず」と言う。 次の偈では、このような利益を見たので、広く人々に勧めて修行させようとする。もし心を清らかにし、我執の束縛から離れる時、このような自在の働きを得ることができるのである。

經云：爾時薄伽梵，復說此法句，於正等覺心，而作成就者。已下明先持誦供養支分。初偈先明持誦處所，於供養法中廣說觀菩提心，即是次下品中以無垢眼觀自心處八葉蓮華阿字門，使圓鏡現前光明清淨，然後依隨經教修種種瑜伽。當知此心遍布流出，行者初習觀時當有種種相貌，但應修常而住勿作異緣，久久施功不已自然明白，一切疑網漸次消除，故云乃至初安住，不生疑慮意也。此中修習瑜伽略說有二種地：一者非三摩引呬多地，二者三摩呬多地。其等引名相當約瑜伽師地論廣分別之，今經所明但以祕密觀為異耳。所謂非三摩呬多地者，如行者初見心蓮華內􆿅阿字時，其心任運安住，從此字門光明四照，以是心鏡淨光明故，隨行者所觀之境皆現其中。次當依所圖畫三昧耶祕密之身，善取本尊威儀色像而諦觀之，初時閉目住緣方得明了，其後開目普皆顯現分明。若欲受持正等覺心真言者，當於前說四字中，隨取一字，置在本尊心圓明上，而受持之。故云：隨取彼一心，以心置於心。梵本此二心字，皆是紇哩，乃野心，非唧多心也。行者初學觀時，若心未得調柔者，當用前品中方便，觀此心字，作淨乳流注，及與聲輪。又轉聲字，作本尊像，皆如上說。以此三密加持，淨除無始已來三業重障，乃至轉寂轉深，命風靜息。爾時心不外緣，恬安淡怕，明鏡不動，大海無波，自證極清淨句，離諸垢𪾼。雖瑜伽境界，炳著現前，如彼高堂懸鑒，無所分別。以此如鏡之心，觀此圓明本尊心上，復有圓明種子，倍復明淨，又甚微小。故云：不分別如鏡，現前甚微細也。所以然者，為表心種子故。如以阿字門，觀一切法，展轉皆從眾緣生。是故覈其本際，畢竟無依無相。以了本際常故，如是知世間萬法，畢竟不出阿字門。今觀圓明種子，亦復如是。以見初起時極微細故，則知但從心生，畢竟無住無本。以知無住無本故，後雖修習增廣，乃至彌綸法界，則知不異初起時。是故學此觀者，要從微小，漸至光大。

> 経典に説かれている。その時、世尊は再びこの法句を説き、正等覚心において成就する者を説かれた。以下では、まず読誦と供養の支分を明らかにする。 最初の偈では、まず読誦の場所を明らかにする。供養の法の中で、菩提心を観じることを広く説く。それは次の下の品で、無垢の眼で自らの心の場所、すなわち八葉の蓮華の中にある阿字門を観じ、鏡のように円かなる光明が現前し清らかになるようになす。そして経典の教えに従って、様々なヨーガを修める。 知るべきである。この心は遍布して流れ出る。修行者が初めて観じを習う時には、様々な相貌がある。しかし、ただ常に修め、安住し、異なる縁を作ってはならない。長く努め、絶えず功を積めば、自然に明らかになる。あらゆる疑いの網が徐々に消えていく。ゆえに、「初めて安住するに至っても、疑いの念を生じさせない」と言うのである。 ここで、ヨーガの修習について、大まかに二つの地がある。一つは非三摩呬多地、二つ目は三摩呬多地である。「等引」という名称は、『瑜伽師地論』に従って広く分別されるべきであるが、今この経典で説くところは、ただ秘密観を異としているに過ぎない。 所謂、非三摩呬多地とは、例えば修行者が初めて心の蓮華の中の阿字を見るとき、その心は任運に安住する。この字門から光明が四方に照らし、この心の鏡が清らかな光明を持つがゆえに、修行者が観ずる境はすべてその中に現れる。次に、描かれた三昧耶の秘密の身に従って、本尊の威儀や色像を善く取り、それを深く観ずる。初めは目を閉じて縁に住することで初めて明らかになり、その後は目を開けてもすべてがはっきりと現れる。 もし正等覚心の真言を受持しようとするならば、先に説いた四つの字の中から、一つを選び、本尊の心にある円明の上に置いて、それを受持するのである。ゆえに、「その一心を取り、心を心に置く」と言う。梵本におけるこの二つの「心」の字は、いずれも「紇哩」であり、これは「野」心であって、「唧多」心ではない。 修行者が初めて観を学ぶ時、もし心が未だ調柔に至らなければ、前の品の中の方便を用いて、この心の字を観じ、清らかな乳が流れ注ぐように、また声の輪のようになす。さらに声の字を転じて、本尊の像となす。これらはすべて上述の通りである。 これら三密の加持によって、無始以来の三業の重い障りを清め除き、ついには転じて寂かに、転じて深く、命の風が静まり息む。その時、心は外に縁せず、恬かに安らかに淡々とし、明鏡は動かず、大海に波はない。自ら極清浄句を証得し、すべての垢を離れる。たとえヨーガの境界がはっきりと現前しても、あたかも高い堂に掛けられた鏡のように、何も分別しない。 この鏡のような心をもって、この円明なる本尊の心の上を観ずる。そこにはまた円明の種子があり、倍々に明らかに清らかで、しかも非常に微細である。ゆえに、「鏡のように分別せず、現前して極めて微細なり」と言うのである。 そうである所以は、心の種子を表すからである。例えば、阿字門をもって、すべての法は、ことごとく衆縁から生じるものであると観ずる。それゆえ、その本際を極めれば、結局のところ依るところも相もない。本際の常なることを了知するがゆえに、このように世間の万法が、結局のところ阿字門を出でないことを知る。今、円明の種子を観ずることもまた、これと同じである。 最初に起ころうとする時が極めて微細であるのを見るがゆえに、ただ心から生じ、結局のところ住するところも本もないことを知る。住するところも本もないことを知るがゆえに、後に修習し広大になっても、ついには法界をおおうに至っても、最初に生じた時と異ならないことを知る。ゆえに、この観を学ぶ者は、微小なところから始めて、徐々に光り大きくなるようにしなければならない。

復次所以從小至大攝大歸小者，欲令行者心自在故。由彼心力卷舒無礙，漸能以一微塵包含無量法界，以無量法界內一微塵中。若深祕釋者，此是般若經中諸佛微細慧，以出過一切心量不可示人，然亦自在心加持無所不見，是故義云微細，非細小之謂也。

> さらに、小から大へと至り、大を小に収めるのは、修行者の心を自在にするためである。その心の力によって、伸縮に障りがなくなり、やがて一粒の微塵で無量の法界を含み、無量の法界を一粒の微塵の中に収めることができるようになる。これを深く秘められた意味で解釈すれば、これは『般若経』に説かれる諸仏の微細な智慧であり、一切の心の計量を超えて人に示すことができないものである。しかし、それもまた自在な心の加持によって見えないところはなく、そのために「微細」というのであって、単に小さいという意味ではない。

復次，行者以常修習相應故，不思議法界幖幟轉更現前，能觀自身即是本尊身，觀本尊身即是自身，如是不二而二，二而不二。若觀本尊心佛為自身時，即見自身在本尊心圓明中，於自心上亦有微細圓明種子，能令漸次增廣，卷舒自在。若觀自心中佛為本尊時，即見如來在行者心圓明中，於佛心上亦有微細圓明種子，能令漸次增廣，卷舒自在。皆無障礙，互不相妨，故云乃至本所尊，自身像皆現也。劑此已前，名為影像成就，猶屬未等引地。次從第二正等覺以下，方入等引地，能於觀行心中見佛真實加持身。故法華明深信解相，則為見佛常在耆闍崛山。普賢觀云：十方諸佛色身不滅，我濁惡眼障故不見。今此經宗以行者淨心為因，如來淨心為緣，從於心因緣生，故名自見心佛。如是見時，不離本不生句，故名真實加持身。不同散心人等心外見佛，又不同初學觀人但得影像成就也。

> さらに、修行者は絶えず修行を続けて心がそれに相応するようになることで、言葉を超えた真理の世界のしるしが一層はっきりと現れてくる。それにより、自分の身体がそのまま本尊の身体であり、本尊の身体がそのまま自分の身体であると観ずることができる。このように、一つでありながら二つ、二つでありながら一つという不思議な境地に至る。 もし、本尊の心の内にある仏を自分の身体と観るとき、自分の身体が本尊の心の光明の中にあるのをはっきりと見る。そして、自分の心の上にも微細な光明の種子があり、それが次第に広がったり、自由に縮んだりするのを感じる。 もし、自分の心の内にある仏を本尊と観るとき、如来が修行者の心の光明の中にいるのをはっきりと見る。そして、仏の心の上にも微細な光明の種子があり、それが次第に広がったり、自由に縮んだりする。これらはすべて互いに妨げ合うことなく、自由自在である。だから「本尊と自分の姿が同時に現れる」と説かれているのである。 ここまでの段階を「影像の成就」と呼び、まだ真の集中状態（等引）には到達していない。次の「第二・正等覚」以降の境地から、ようやく真の集中状態に入り、観想修行の心の内に仏の真実の加護を受けた姿（加持身）を見ることができる。 『法華経』には「深く信じ理解する相」として、仏が常に霊鷲山にいるのを見ると説かれている。『普賢観経』には「十方の諸仏の姿は決して滅びないが、私の濁った目の障害によって見えないだけである」とある。この経典の教えでは、修行者の清らかな心を因（直接の原因）とし、如来の清らかな心を縁（間接的な条件）として、心という因と縁から生まれるので、「自分の心の内に仏を見る」と説かれるのである。このように見るとき、それは「本来生まれない」という真理（本不生句）を離れていないので、「真実の加持身」と呼ばれる。これは、心が散乱している人が心の外に仏を見るのとは異なり、また、修行を始めたばかりの人がただ影像の成就を得るのとも異なるのである。

偈云於鏡漫荼羅者，謂如先觀自身作本尊三昧耶身竟，又觀心處圓明清淨微玅，喻如圓鏡，鏡中有八葉大蓮華王，鮮白嚴好𩯭蕊具足，如前於華臺上有種子字，轉此種子色聲義趣，即見大日如來真實加持身，如在甚深窟中住於三昧，首戴髮冠，通身普放無量光明，相好莊嚴不可窮盡。爾時行者以蒙法光所照，心轉開明，自然悟解十緣生句，了知如是妙色不異於空，雖復本性常空不異於色，色相既爾心義亦然，以色心皆入阿字門故，則知心性本寂猶如虗空，離一切執諍戲論過諸魔事，是名無相成就初種子心，亦名祕密觀門三摩引呬多地。對法華經即六根清淨位人，約涅槃經即是池珠影現時也。從此以後漸運巧方便安徐入水，是觀色像身時轉解法門身。當知正覺句者，即對此經初品明菩提心相正等覺顯現之義，以明珠在掌故名為顯現，非但遙觀見之也。鏡漫荼羅是淨菩提心諸法不能動義，大蓮華王座是玅法胎藏不染污常住義，深䆳而住即是深入無際義，總持髮髻冠即是萬德圓滿義。若就淺略明義，但云持髻冠，此持字即具陀羅尼聲，謂上窮萬德之頂畢竟同歸，譬如攬結眾髻戴之在首，故譯者欲兼淺祕二釋，故具云總持也。次云圍繞無量光，即是初品偈中無量智成就義。故涅槃經云：夫光明者，名為智慧，如瑠璃光。菩薩事中廣說。次云離妄執分別，是初品偈中越百六十心義。本寂如虗空，是初品偈中本來寂無相義。以上文菩提心印撿之，節節相對。故知此中第二深祕釋，正以淨菩提心為悉地種子也。若用此品第二正覺句，望前品所明第二諸佛勝句也，已是一重深祕。更約覺觀分證言之，又是一重深祕。入一一地，各有初種子心及三月持誦義。轉復深祕，隨行者心量淺深，皆可作諸成就。故此不空悉地，其義無邊也。次云攝意者，從一至一，十亦是一。若至一百、一千、一萬等，亦皆是一。一以遍多時故，乃至多時能自見也。梵云三摩引呬多，是等引義，亦是攝心一境之義，即一心義也。次第二月者，塗香等奉作饒益眾生諸種種類。如前世間行中，亦有塗香等供養。此中復說者，意與前殊異也。此中已得等引，其心清淨調柔，隨事能成。隨奉一香，即能如實遍滿法界，普遍一切眾生界，作種種利益，隨事皆成。如華嚴經回向中廣說其相。如香華者，隨有一切所作，亦復如是，無不成就大作佛事也。又佗月者，此中有兩月行，即到初地也。更問捨離利養者，以文解之，即是捨於八法違順之事，為妨道故。若作祕意，是此菩薩大種善根，此報無盡，現得無量法門功德之寶，不應於中而生取著。若生法愛，則不速入正位，故須捨此利養也。彼時行者復更如理思惟，即菩提心而發悲願，稱理而起，故言如理思惟也。此中思惟意者，謂如是應理思惟而得自在，謂行者住瑜伽得成就也。謂我當自在安樂一切眾生，得一切無障，即是發決定悲願。云何眾生同有如是覺性，而不自了受大苦惱耶？即生大勇猛心，要當以無數方便而成就之，必定皆令到一切智地，除彼一切垢障，使無有餘也。或復發願，願以如來稱讚悉地樂欲當成者，謂如來無量知見，究竟成就巧度妙權，若不得此，云何能以一大事因緣而出于世？如是諸佛所稱歎微玅方便，我當速成也。樂欲即是志願也。或時一切眾生諸願滿足無障，葢應理而生攀緣者，如是瑜伽無有障礙，以如是攀緣而念誦也。謂以我功德拔一切苦等，以大悲心滿一切眾生之所希願，拔除彼大苦而與現樂，亦能成就。何以故？以行者自心無垢障故，即有大勢力，能又為眾生隨分除障，由彼我無障因緣，即能隨事成就也。此即普賢行願也。此相云何？謂生如是大悲之願，傍生界中互相啗食之苦皆令永除，餓鬼趣中乏少飲食常令充滿，地獄趣中無量極苦皆令除滅。以我功德故者，以我所生無量勝福，佗月捨利養，謂第三月於內外無所貪著名捨利養，然外事論不求不受施也。捨此利養而施眾生，由真言行故皆得成就也。及此餘門思惟頻頻悲發者，此等悲願有無量種不可具言，初一月二月持誦亦復如是發願，但初二月但以信解心作然未好成，第三月所願皆成故回向自佗也。行者若得意時隨事而作，如是頻以大悲之水而洗其心，漸令此菩提心有大勢力，迄至第十一地以來漸漸力用增，皆由此也。初一月菩提心，次月觀佛形像名正覺句，第三住真言離一切相名三月，亦名三落叉也。次又廣大加持三種句想念，謂如來加持神力由三句得成，今欲行如來事故思想念此三句也。一者以我功德力故，二者周遍法界故，三者如來神力故，此三句和合而廣大加持力生。如是念已應誦念此句，此是一切真言心也。取三句功德，隨取華等以心念加之，如華即以華真言，如香即以香真言加之，乃至一切處拔苦與樂獻佛等皆成也。若不用本真言加之，用後明妃亦成。以我功德力於此眾生界周遍，如來加持力等法界及諸義利，思念欲饒益一切諸眾生，彼一切如理當得緣念，由住理故隨所緣念而成也。乃至除苦苦即除等，以我功德力故，以如來加持力故，以法界平等力故，以此三緣合故，則能成就不思議業也。如此作者當知應理，故言當得如理也。

> 偈に「鏡曼荼羅」と説くのは、まず自らを本尊の三昧耶身と観じ、さらに心の場所を円満明浄で微妙なものと観じ、それを円鏡に譬えることをいう。その鏡の中には八葉の大蓮華王があり、鮮やかに白く美しく、花蕊が整い備わっている。先に述べたように華台の上に種子字があり、この種子の色・声・義趣を転じて、大日如来の真実の加持身を現ずる。それは、深い窟の中に住して三昧に在るかのようであり、頭には髮冠を戴き、全身からは無量の光明を放ち、相好の荘厳は尽きることがない。 その時、行者は法の光に照らされて心が開けて明らかになり、自然に十縁生句を悟解し、このような妙なる色は空と異ならないこと、また、本性は常に空でありながら色と異ならないことを了知する。色の相がそうであるなら、心の義もまた同じである。色と心はともに阿字門に入るがゆえに、心の本性は本来寂静であり、虚空のようなものであると知る。一切の執着や争いや戯論を離れ、諸々の魔のわざを超える。これを無相成就の初種子心と名づけ、また秘密観門の三摩呬多地ともいう。法華経においては六根清浄の位に当たり、涅槃経においては池に珠の影が現れる時である。これより後、徐々に巧みな方便を運んで安らかに水に入る。これは色の像の身を観ずるとき、法の身を解する門に転ずるのである。 知るべきである。「正覚句」とは、この経の初品において、菩提心の相が正しく等覚として顕現する義を明かすものである。明珠を掌中に有するがゆえに「顕現」と名づけるのであり、遠くからただ眺めて見るのではない。鏡曼荼羅は、清らかな菩提心が諸法によって動かされない義である。大蓮華王座は妙法胎蔵が不染汚にして常住である義である。深く邃くに住するは、深く際限なく入る義である。総持の髮髻冠は、万徳の円満する義である。もし浅略に義を明かすなら、ただ「持髻冠」という。「持」の字には陀羅尼の声が具わり、上に万徳の頂を窮めて畢竟同帰することを意味し、譬えば多くの髻を束ねてこれを首に戴くようなものである。そこで訳者は浅秘二釈を兼ねようとして、「総持」と具に説くのである。次に「無量光を取り囲む」とは、初品の偈の「無量智成就」の義である。故に涅槃経に説く「光明というのは智慧と名づけ、瑠璃光の如し」と。菩薩事の中に広く説かれている。次に「妄執分別を離れる」は、初品の偈の「百六十心を超える」義である。「本寂にして虚空の如し」は、初品の偈の「本来寂にして相無し」の義である。以上の文を菩提心の印をもって検すれば、節々が相対している。故に知るべきは、この中の第二の深秘の釈は、まさに清らかな菩提心を悉地の種子とするものである。 この品の第二の正覚句を用いて、前の品の第二の諸仏勝句を望見すること、すでに一重の深秘である。さらに覚観・分証について言えば、また一重の深秘である。一一の地に入るごとに、それぞれ初種子心と三月持誦の義がある。さらに深秘に転じ、行者の心量の浅深に従って、いずれも諸成就を作すことができる。故にこの不空悉地は、その義が限りなく広いのである。 次に「摂意」とは、「一」から「一」に至るが、「十」もまた「一」である。もし百、千、万に至っても、またすべて「一」である。「一」は多時を遍くするがゆえに、多時に至っても自らを見ることができる。梵語で三摩呬多というのは、等引の義であり、また心を一境に摂する義であり、すなわち一心の義である。 次に第二の月とは、塗香などを奉じて、衆生を饒益する諸々の種類の利益を行うことである。例えば前世間行の中にも塗香などの供養があったが、ここで再び説くのは、その意が前とは異なるからである。ここではすでに等引を得て、その心は清浄で調柔であり、事に随って成就できる。一つの香を奉ずるごとに、即座に如実に法界に遍満し、一切の衆生界に普遍して、種々の利益を作すことができ、事に随って皆成就する。華厳経の回向の中にその相を広く説く。香華の例のように、他にもあらゆる所作は、また同じように、すべて仏事を大作して成就しないものはない。 さらに、他の月について、ここには二つの月の行があり、すなわち初地に至る。〈更に問う〉 「利養を捨てる」とは、文によって解すれば、八法の違順の事を捨てることであり、道を妨げるからである。もし秘意として解釈すれば、この菩薩は大いに善根を種え、その報いは尽きることがなく、現に無量の法門功徳の宝を得ているのだから、その中で取著を生じてはならない。もし法愛を生ずれば、速やかに正位に入ることができない。故にこの利養を捨てる必要がある。 その時、行者はさらに如理に思惟し、すなわち菩提心から悲願を発し、理にかなって起こす。故に「如理思惟」という。この中の思惟の意とは、「理に従って思惟し、自在を得る」ということであり、行者が瑜伽に住して成就を得ることをいう。すなわち「我は自ら一切衆生を安楽にし、一切の無障礙を得る」という、決定した悲願を発することをいう。「どうして衆生が皆、このような覚性を有しながら、自ら了知せずに大きな苦悩を受けるのか」と、すなわち大勇猛心を生じ、「必ず無数の方便をもってこれを成就させ、必ず皆を一切智地に至らせ、彼らの一切の垢障を取り除き、余すところなくせしめよう」と願う。 あるいはまた願を発して、「如来が称賛する悉地の楽欲をもって成就することを願う」とは、如来の無量の知見、究竟の成就、巧度の妙権を得なければ、どうして一大事因縁をもって世に出現できるだろうか。このように諸仏が称賛する微妙な方便を、我は速やかに成就したいと願う。「楽欲」とはすなわち志願である。 あるいはまた、一切の衆生の諸願が満たされ、障りなく、理に応じて攀縁を生ずるような場合、このような瑜伽には障礙がない。このような攀縁をもって念誦するのである。すなわち「我が功徳をもって一切の苦を抜く」などと、大悲心をもって一切の衆生の願いを満たし、彼らの大苦を抜いて、現世の楽を与え、また成就させる。なぜなら、行者自身の心に垢障がないがゆえに、すなわち大いなる勢力があり、衆生のためにその分に応じて障りを除くことができるからである。彼と我に障りのない因縁によって、事に随って成就するのである。これが普賢行願である。 この相はどのようなものか。すなわち、このような大悲の願を生じ、「傍生の世界で互いに食い合う苦しみを永く除きたい」、「餓鬼の趣で飲食に乏しい者を常に満たしたい」、「地獄の趣で無量の極苦を受ける者をすべて滅したい」と願うことである。 「我が功徳をもって」とは、我が生じた無量の勝れた福徳による。他の月に利養を捨てるとは、第三の月に内外に何ものにも貪著しないことを「利養を捨てる」といい、外の事について論じれば、施しを受けず求めないことである。この利養を捨てて衆生に施すこと、真言行によって皆成就を得るのである。 「及びこの余の門において、思惟して頻繁に悲心を発する」とは、これらの悲願には無量の種類があり、すべてを言い尽くすことはできない。初めの一月、二月の持誦もまた同じように願を発するが、初めの二月はただ信解の心をもって作すだけで、まだ十分に成就しない。第三の月には願いがすべて成就するので、自他に回向するのである。 行者が意を得たなら、事に随ってこれを作す。このように頻繁に大悲の水をもってその心を洗い、徐々にこの菩提心を大きな勢力をもつものとする。第十一地に至るまで、徐々に力用が増すのも、すべてこれによる。初めの一月は菩提心、次の月は仏の形像を観ずることを正覚句といい、第三は真言に住して一切の相を離れることを三月といい、また三落叉ともいう。 次に、広大加持の三種句を想念するとは、如来の加持神力は三句によって成る。今、如来の事を行おうとして、この三句を思想念ずるのである。一つは「我が功徳力をもって」、二つは「周遍法界」、三つは「如来神力」である。この三句が和合して広大な加持力が生じる。このように念じたなら、この句を誦念すべきである。これは一切の真言の心である。三句の功徳を取り、華などを取りて心念をもってこれを加える。華であれば華の真言をもって、香であれば香の真言をもってこれを加える。乃至一切の処において苦を抜き楽を与え、仏に献ずるなど、すべて成就する。もし本来の真言を用いず、後ろの明妃を用いても成就する。「我が功徳力により、この衆生界に周遍し、如来の加持力は法界および諸々の義利と等しく、思惟して一切の衆生を饒益せんと欲する。彼の一切は理に従って縁念を得るべきであり、理に住するがゆえに、縁念するところに従って成就する」と。乃至、苦を除き、等しく除く。「我が功徳力をもって、如来加持力をもって、法界平等力をもって、この三縁が和合するがゆえに、則ち思議を超えた業を成就することができる」と。このように作すことを、理にかなっていると知るべきである。故に「当に理を得る如し」という。

## 大毗盧遮那成佛神變加持經義釋卷第八

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