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title: "觀所緣緣論釋記 · No. 832-D 觀所緣緣論釋記問答釋疑"
description: "觀所緣緣論釋記是唐代高僧明昱對陳那菩薩所著《觀所緣緣論》的註釋與講解記錄。該論屬於佛教因明學重要典籍，探討心識與外境關係，論證所緣緣作為認識對象的條件與真實性。明昱的釋記深入闡發陳那思想，融合唯識與因明理論，反映唐代佛教對認識論的精研。此作是研究印度與漢傳佛教因明學、唯識學的關鍵文獻，有助理解佛教知識體系與修證理論，在佛教哲學史上佔有重要地位。"
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### No. 832-D觀所緣緣論釋記問答釋疑

問。何緣造此所緣緣論。答。為明內外色故。何名外色。曰。他宗以極微和合為五識境。及世人見根身器界。皆執境在心外。故名外色。何以得知。曰。釋論云。由諸世俗。共許於境。在外而住。所以得知。問。極微和合。從心變現。皆不離心。何名心外。答。彼執境在心外。各別實有。故名心外。本論云。諸有欲令眼等五識。以外色作所緣緣者。或執極微。許有實體。能生識故。或執和合。以識生時。帶彼相故。是執外義。問。何名內色。曰。即前五識。緣現量境。及第六識。不作解時。名為內色。問。彼之外色。以極微和合。及根身器界為體。汝立內色。以何為體。答。即彼世人所見根身器界為體。世人見山。即起堅持想相。安立山名。見水。即起流動想相。安立水名。此皆意識妄計器界為心外有。根身亦然。若前五識。緣山河等。決定不起山河等想。雖有物對。不起對想。明證眾境。不起證想。取境清明。無清明想。諸想不起。心境不分。故名內色。釋論云。此中內聲。為顯不離於識。而有所緣。又云。此中內聲。言不離識。本無其外。望誰為內。故知色無內外。由能緣識。有差別故。立內外名。謂前五識。緣山河等。現量證時。不執為外。即山河等。名為內色。若第六識。緣山河時。從彼變起山河等相。執為外有。即山河等名為外色。問。何名觀所緣緣。曰。觀是見分。即能緣之心。所義是相分。即所緣之境。緣是相分中發識功能。名勝義根。本論云。識上色功能。名五根應理。功能與境色。無始互為因。應知五勝義根。徧一切法。不同浮塵。局一形體。既名勝義。體即真如。故說真如。徧一切法。此即大乘萬法唯識。問。既名萬法。何曰唯識。答。謂緣境時。無分別想。心境一如。即一切法。本自寂滅。豈非當體唯心乎。問。觀所緣緣論。近講解者。都無比量之說。今釋論中。多言比量。何也。曰。西域釋義。原有二種。若解經論。用六離合釋。若破外執。用三支比量。今造本論。為破外執。故本論中。立二比量。護法釋之。初量云。極微前陳有法於五識。設緣非所緣宗也。彼相識無故因也。猶如眼根等喻也。次量云。和合前陳有法於五識。設所緣非緣宗也。彼體實無故因也。猶如第二月喻也。問。本論云。若此與彼。有無相隨。彼說何義。曰。此即五識。彼即五根。有是現行。無是種子。謂識與根。俱有種現。而不相離。是唯識義。

> 問。なぜこの所縁縁論を造ったのか。答。内外の色を明らかにするためである。 何を外色というのか。曰く。他宗は極微の和合を五識の対象とし、また世間の人々が根身と器界を見るとき、すべて対象が心の外にあると執着する。ゆえに外色という。どうしてそれがわかるのか。曰く。釈論に云う、「諸々の世俗が、共に境が外に住していると認めることによって」と。それゆえに知ることができる。 問。極微の和合は、心から変現したもので、すべて心を離れない。なぜ心の外というのか。答。彼らは対象が心の外にあり、それぞれ別個に実在すると執着するから、心の外というのである。本論に云う、「眼などの五識が、外色を所縁縁とすることを主張する者たちは、あるいは極微を執って実体があり識を生じさせると認め、あるいは和合を執って、識が生じるときにその相を帯びるからだと主張する。これが外を執る意味である」。 問。何を内色というのか。曰く。すなわち前述の五識が現量の境を縁り、および第六識が分別を起こさないとき、これを内色という。 問。彼らのいう外色は、極微の和合、および根身・器界を本体とする。あなたが立てる内色は、何を本体とするのか。答。すなわち、あの世間の人々が見る根身・器界を本体とするのである。世間の人が山を見れば、即座に堅固で保持するという想いの相を起こし、山という名を立てる。水を見れば、即座に流動するという想いの相を起こし、水という名を立てる。これらはすべて意識が妄りに器界を心の外にあると計ることである。根身についても同様である。もし前五識が山河などを縁るならば、決して山河などの想いを起こさない。たとえ物に対しても、それに対する想いを起こさず、明らかに衆境を証しても、それを証する想いを起こさず、境を清明に取っても、清明という想いがない。諸々の想いが起こらなければ、心と境は分かれない。ゆえに内色という。釈論に云う、「ここで内という言葉は、識を離れずに所縁があることを顕わすためである」。また云う、「ここで内という言葉は、識を離れないことを言うのであり、もとより外がないのに、誰を望んで内とするのか」。ゆえに、色には内も外もなく、能縁の識に差別があるがゆえに、内外の名を立てるのであると知るべきである。すなわち、前五識が山河などを縁り、現量で証するとき、外であると執着しなければ、その山河などは内色と呼ばれる。もし第六識が山河を縁るとき、それから変じて山河などの相を起こし、外にあると執着すれば、その山河などは外色と呼ばれる。 問。何を観所縁縁というのか。曰く。観は見分であり、すなわち能縁の心である。所は相分であり、すなわち所縁の境である。縁は相分の中にある識を発する機能であり、勝義根と呼ばれる。本論に云う、「識上の色の機能を五根と呼ぶのは理に適う。機能と境の色とは、無始以来互いに因となっている」。五勝義根は一切の法に遍満し、浮塵根のように一つの形体に限定されないものであると知るべきである。すでに勝義と名づけられている以上、その本体は真如である。ゆえに真如は一切の法に遍満すると説かれる。これが大乗の万法唯識である。 問。すでに万法と名づけられているのに、なぜ唯識というのか。答。境を縁るとき、分別の想いがなく、心と境が一如であれば、すなわち一切の法はもとより寂滅しているのである。これが当体唯心でないだろうか。 問。観所縁縁論について、近ごろ講解する者は、ほとんど比量の説がない。今、釈論の中には、多く比量の言葉がある。なぜか。曰く。西域の釈義には、もともと二種類ある。もし経論を解するならば、六離合釈を用いる。もし外の執着を破るならば、三支比量を用いる。今、本論を造ったのは、外の執着を破るためである。ゆえに本論の中に、二つの比量を立て、護法がこれを釈した。初めの量は、「極微（前陳の有法）は五識に対して、たとえ縁となっても所縁とはならない（宗である）。その相は識にないからである（因である）。眼根などのように（喩である）」。次の量は、「和合（前陳の有法）は五識に対して、たとえ所縁となっても縁とはならない（宗である）。その本体は実在しないからである（因である）。第二の月のように（喩である）」。 問。本論に云う、「もしこれと彼とが、有無相随うならば、彼は何の意味を説くのか」。曰く。これすなわち五識であり、彼すなわち五根である。有は現行であり、無は種子である。すなわち識と根は、ともに種子と現行があり、しかも互いに離れない。これが唯識の意味である。