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title: "淨慈要語 · No. 1166-C 淨慈要語序"
description: "淨慈要語是明代高僧永覺元賢所著的一部佛教典籍。元賢禪師屬曹洞宗法脈，活躍於明末清初，該書成於這一佛教復興與融合的時期。其主要內容闡述淨土法門與禪宗心要，強調禪淨雙修、淨心為本，匯通各宗思想，指導學人老實念佛、明心見性。該著作語言簡練而義理深邃，是研究明清佛教禪淨合流思想的重要文獻，在中國佛教史上具有承先啟後的地位，對後世修學者有深遠影響。"
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### No. 1166-C淨慈要語序

> No. 1166-C 浄慈要語序

淨慈者何聞谷大師所命菴名也菴名之以淨慈者何謂念佛放生也念佛放生其所求者何謂還其心之本淨本慈也葢本然之心廓然常淨自眾生迷其本然則心外見法故目為色染耳為聲染鼻為香染舌為味染身為觸染意為法染流逸外奔不能自返繇是起業造罪永沉五濁之區無有出期我佛愍之乃為說治染還淨之法機固靡一教亦各殊然念佛一門其最要者也一心念佛用志不分六根都攝淨念相繼則目不為色染耳不為聲染鼻不為香染舌不為味染身不為觸染意不為法染即現處娑婆界內渾身已坐在蓮花國裡又何後報之不清淨乎然雖修念佛三昧而福德不具善果難成故必廣修眾善以為助因眾善夥矣而慈行其首也慈行亦夥矣而戒殺放生其首也盖以眾生所最愛者莫如生所最苦者莫如死凡有血氣斯情萬均秪為相習於忍同體之仁痿痺不行乃恬然殺戮不以為怪豈心之本然哉以故我佛苦口丁寧首戒殺生廣勸放生與其所最愛而救其所最苦功德之及物為何如也建州城若緇若素奉大師之教篤于念佛放生之業有年矣猶慮其不能廣且遠也乃謀于余余為取淨土及戒殺諸書集成要語付之梓庶幾淨慈之化葢洋溢于不窮也哉嗚呼淨慈之義大矣豈止於念佛放生而已哉念佛放生可以言淨慈而不可以盡淨慈極而言之淨極覺圓成無上道不出一淨義也廣度有情悲臻永劫不出一慈義也夫諸菩薩上求佛果下化眾生自前前以及後後諸大乘經明此至汗牛充棟今以二字括之了無剩義敢謂大師命名之意止於念佛放生而已哉諸君當善躰此意擴而充之可也雖然更有一句子淨慈二字括不得余欲總為諸君說破怎柰舌頭短也諸君其質之大師。

> 「淨慈」とは、何を意味するのか。これは聞谷大師が名付けた庵の名である。庵を淨慈と名付けたのは、いったい何のためか。念佛と放生を実践するためである。念佛と放生によって求めるものは何か。それは、自らの心の本来の清らかさ（本淨）と本来の慈しみ（本慈）に立ち返ることである。 そもそも本来の心は広大で、常に清らかである。しかし、衆生はその本心に迷い、心の外に法があると思い込む。そのため、目は色に染まり、耳は声に染まり、鼻は香りに染まり、舌は味に染まり、身は触れに染まり、心は法に染まる。そして外に逃れ奔り、自らに立ち返ることができず、そこから業を起こし罪を造り、永く五濁の世界に沈み、出離の時期がない。 我が仏はこれを哀れみ、衆生を汚れから救い清らかに戻すための法を説かれた。機根は一様ではなく、教えもそれぞれ異なるが、念佛の一門が最も重要である。一心に念佛し、心を集中して散らさず、六根をすべて収め、清らかな念を相続させれば、目は色に染まらず、耳は声に染まらず、鼻は香りに染まらず、舌は味に染まらず、身は触れに染まらず、心は法に染まらない。 そうすれば、現に娑婆世界に在りながら、その身はすでに蓮華の国に座しているのと同じである。ましてや後の果報が清らかでないことがあろうか。 しかし、ただ念佛三昧を修するだけでは、福徳が具わらず善果は得難い。ゆえに、必ず広く善を修めて助縁としなければならない。善は数多いが、その中で慈行が最も大切である。慈行もまた多いが、その中で戒殺と放生が第一である。 なぜなら、衆生が最も愛するものは命に勝るものはなく、最も苦しむものは死に勝るものはないからである。血気あるものは、この感情はすべて同じである。ただ慣れ親しんで忍び、同じ体という慈悲の心が麻痺して動かなくなり、平然と殺生をして怪しまないのは、どうして心の本性であろうか。 そのため、我が仏は苦心して繰り返し戒め、まず殺生を戒め、広く放生を勧められた。最も愛するものを与え、最も苦しむものを救うことは、物に対する功徳がどれほどであろうか。 建州の城で、僧も俗も大師の教えを奉じ、念佛と放生の業を長年篤く実践してきた。しかし、それが広く遠くまで及ばないことを憂い、私に相談してきた。私はそこで、淨土と戒殺に関する諸々の書物を取り出して、重要な語句を集め、版木に彫ってもらった。そうすれば、淨慈の教化が限りなく広がり、尽きることはないであろう。 ああ、淨慈の意味は広大であり、ただ念佛と放生だけに留まるものではない。念佛と放生は淨慈を言うことはできても、淨慈のすべてを尽くすことはできない。極めて言えば、淨が極まり覚りが円く成り、無上の道を成すことは、一つの淨の義を出ることはない。広く有情を度し、慈悲を永劫に極めることは、一つの慈の義を出ることはない。 諸々の菩薩は、上には仏果を求め、下には衆生を教化する。前々から後々に至るまで、諸々の大乗経典がこれを明らかにしたことは、汗牛充棟（汗牛充棟）のほどである。今、この二字で括って、少しの余剰もない。あえて、大師が名付けた意味が、ただ念佛と放生だけにあると言えようか。諸君は、この意味をよく体得し、拡大してゆくべきである。 しかし、もう一つ、淨慈の二字では括れない一句がある。私は諸君のために今まさに説き明かそうとしたのだが、どうして舌が短いのだろう（言葉が及ばない）。諸君は、そのことを大師に問い質してほしい。

旹崇禎甲戌端午後三日　鼓山釋　元賢　題

> 時は明の崇禎甲戌年、端午の節句の三日後。鼓山の僧・元賢が記す。