夫三界定位六道區分。麁妙異容苦樂殊跡。觀其源始不離色心。檢其會歸莫非生滅。生滅輪迴是曰無常。色心影幻斯謂苦本。故涅槃喻之於大河。法花方之於火宅。聖人啟悟息駕反源。超出三有漸逾十地也。尋世界立體四大所成。業和緣合與時而作。數盈災起復歸于滅。所謂短壽者謂其長壽。長者見其短矣。夫虛空不有故厥量無邊。世界無窮故其狀不一。於是大千為法王所統。小千為梵王所領。須彌為帝釋所居。鐵圍為蕃牆之城。大海為八維之浸。日月為四方之燭。總總群生於茲是宅。瑣瑣含識莫思塗炭。沈俗而觀。則迂誕之奢言。大道而察。乃掌握之近事耳。但世宗周孔雅伏經書。然辯括宇宙臆度不了。易稱玄天。蓋取幽深之名。莊說蒼天。近在遠望之色。於是野人信明謂旻青如碧。儒士據典謂乾黑如漆。青黑誠異乖體是同。儒野雖殊不知是一。然則俗尊天名而莫識實。豈知六欲之嚴麗。十梵之光明哉。嗟夫。區界現事猶莫之知。不思妙義固其已矣。竊惟方等大典多說深空。尋長含樓炭辯章世界。而文博偈廣卒難撿究。今簡要略用摽厥致耳。
三つの世界(三界)はそのあり方が定められ、六つの生存領域(六道)は区別されています。粗いものと妙なるものではその姿が異なり、苦しみと楽しみの跡も同じではありません。その根源をたどれば、色(物質)と心(精神)を離れることはなく、その帰趨を調べれば、生滅(生まれ変わること)を免れません。生滅の輪廻こそが無常と呼ばれ、色と心の影のような幻こそが苦しみの根元とされます。ゆえに涅槃(悟りの境地)は大河にたとえられ、法華経は火の燃えさかる家にたとえられました。 聖なる人は悟りを開き、迷いの旅を終えて本源に立ち返り、三つの有(三界)を超えて、十地(菩薩の修行段階)を順に登っていかれます。 世界の構造を調べてみると、四大(地・水・火・風)によって成り立っています。業(行い)と縁(条件)が和合し、時に応じて生じます。そして、その満ちる時期が過ぎれば災害が起こり、また消滅へと帰します。寿命の短い者は長い者を見て長寿と思い、長い者は短い者を見て短命と見なすのです。 虚空は実体がないゆえに、その量には限りがありません。世界もまた無限であるため、その姿は一つではありません。そこで、大千世界は法王(仏)が統べ、小千世界は梵天が治めます。須弥山は帝釈天の住まいであり、鉄囲山は城壁のような役目を果たします。大海は八方の地を潤し、日月は四方を照らします。無数の生きとし生けるものたちは、ここを住まいとしています。数えきれないほどの意識ある者たちは、苦しみの泥沼から逃れようともしません。 俗世の観点から見れば、これらの話は荒唐無稽で誇張されたものに思えるでしょう。しかし、悟りの道から考察すれば、それは掌中のもののように身近な事柄なのです。 世の人々は周や儒教を尊び、経典や書物を深く信じています。しかし、宇宙を論じ解釈するにあたっては、勝手な推測に過ぎず、十分に理解しているとは言えません。易経では「玄天」と言い、これは深遠で見えにくいことを表した名前です。荘子は「蒼天」と言い、遠くを見渡したときの青い色を指しています。そこで、田舎者はその青さを信じて、天は碧玉のような青だと考えます。儒者は経典に基づいて、天は漆のように黒いと主張します。青と黒は確かに異なりますが、その本体(天そのもの)は同じものです。儒者も田舎者も、それが一つであることを知りません。 このように、世俗の人々は「天」という名を尊びながら、その実体を知らないのです。ましてや、六欲天の荘厳で美しいありさまや、十の梵天の光明をどうして知ることができましょうか。 ああ、境界や領域といった眼前の事柄でさえ理解できないのに、深遠な真理を考えようとしないのは、まったく当然のことかもしれません。 思うに、方等(大乗)の経典には、深遠な空の教えが多く説かれています。『長阿含経』や『楼炭経』などを調べれば、世界について詳しく述べられています。しかし、その文章は広範で、偈文も多く、にわかに調べ究めるのは難しいものです。そこで今、簡潔に要点をまとめ、その大要を示すことにしました。