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title: "法苑珠林 · 2 會名部"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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### 會名部第二

> 第二部　会の名称

問曰。云何名六趣。依毘曇論云。趣者名到。亦名為道。謂彼善惡業因道能運到其生趣處。故名為趣。亦可依所造之業趣彼生處。故名為趣。又趣者歸向之義。謂所造業能歸向於天乃至地獄也。

> 問い：六趣とは何でしょうか。 『毘曇論』（びどんろん）によれば、「趣」とは「到る」という意味であり、また「道」とも呼ばれます。善悪の業という因が、その道によって生き物をそれぞれの生まれ変わる場所へと導いていくことから、「趣」と呼ばれます。また、自らが作り出した業に従って、その生まれ変わる場所へと向かうことからも「趣」と言います。さらに、「趣」には「帰りゆく」という意味もあります。すなわち、作り出した業が、天界や地獄などへと導いていくことを指します。

問曰。唯有此六趣定更有餘道耶。答曰。且據一家不增減說。若依樓炭經中。亦說九道眾生共居。一菩薩道。二緣覺道。三聲聞道。帖前六道。以凡聖同居為欲相化也。天者如婆沙釋名。光明照曜。故名為天。又天者顛也。顛謂上顛。萬物之中。唯天在上。故名顛也。又天者顯也。顯謂高顯。萬物之中。唯天獨高在上顯覆。故名顯也。

> 問う：この六つの道（六趣）だけが存在し、他に道はないのでしょうか。 答える：まず一つの解釈に基づけば、増減なくこの六つとされています。しかし『楼炭経』によれば、九つの道に众生が共に住むとも説かれています。すなわち、菩薩道、縁覚道、声聞道です。先に挙げた六つの道にこれらを加えるのは、凡夫と聖者が共に住み、互いに教化し合うためです。 「天」について、『婆沙論』ではその名を釈して、「光明が照り輝くから天という」とあります。また、「天」は「顛（いただき）」の意味でもあります。万物の中で、天だけが上にあるからです。さらに、「天」は「顕（あらわ）」の意味でもあり、万物の中で天だけが高く上にあり、覆い照らすからです。

問曰。何故彼趣名天。答曰。於諸趣中。彼最勝最樂最善妙最高。故名天趣。有說。先造作增上身語意妙行。往彼生彼令彼相續。故名天趣。有說。光明增故名天。以彼自然光常照晝夜故。聲論者說。能照故名天。以現勝果。照了先時所修因故。復次戲樂故名天。以常游戲受勝樂故。

> 問い：なぜ、その趣（生まれる世界）を「天」というのですか。 答え：あらゆる生存の世界の中で、天の世界が最も優れ、最も楽しく、最も素晴らしく、最も高いからです。だから「天趣」と呼ばれます。 また、ある説によれば、前世において優れた身体的行為・言葉の行為・心の行為を積み重ねて作り、そこに生まれ、そこで生き続けるから「天趣」というのだとも言います。 さらに、別の説では、「光が明るいから天という」のです。彼らは、昼も夜も自然に光が常に輝いているからです。 音声を論じる学者たちは、「照らすことができるから天という」と説きます。これは、優れた結果を現わすことで、以前に修めた因（原因）を明らかに照らし出すからです。 また、楽しんで遊ぶから天というのです。常に遊び戯れて、素晴らしい楽しみを受けているからです。

問曰。諸天形相云何。答曰。其形上立。問曰。語言云何。答曰。皆作聖語。又立世阿毘曇論云。天名提婆。謂行善因於此道生。故名提婆。今略論諸天報身之相。所謂諸天皆無骨肉。亦無大小便利不淨。身放光明無別晝夜。報得五通形無障礙。故正法念經云。譬如一室然五百燈光明不相逼迫。諸天手中置五百天亦復如是。不窄不妨。又彼經云。彼夜摩天或有一百。或有一千。共聚在一蓮華鬚同坐。不妨不隘不窄。以善業故。自業力故。又智度論云。第三遍淨天六十人坐一針頭而聽法不相妨礙。又正法念經云。爾時夜摩天王。為諸天說偈云。

> 問うて曰く、諸天の形相はいかがでしょうか。 答えていわく、その形はまっすぐに立っています。 問うて曰く、言葉はいかがでしょうか。 答えていわく、皆、聖なる言葉を話します。 また『立世阿毘曇論』にはこうあります。「天は提婆と名づける。善い行いの因を修してこの道に生まれるから、提婆という」。ここでは諸天の報身の相を簡潔に述べましょう。いわゆる諸天には骨も肉もなく、大小の不浄な排泄もありません。体は光明を放ち、昼夜の区別もありません。報いとして五通を得て、その形には障りがありません。 ゆえに『正法念経』にはこうあります。「例えば一つの部屋に五百の灯を灯しても、光が互いに押し合うことはない。天人の手の中に五百の天人を置いても、これもまた同じで、狭くもなく妨げにもならない」。 また同じ経にはこうあります。「かの夜摩天では、あるいは百、あるいは千の天人が、一つの蓮華の蕊に集まって共に座しても、妨げず、狭くなく、窮屈でない。善業のゆえに、自らの業の力のゆえである」。 また『智度論』にはこうあります。「第三の遍浄天では、六十人の天人が一つの針の先に座って法を聞いても、互いに妨げあわない」。 また『正法念経』には、その時、夜摩天王が諸天に向かって偈を説いて、こう言いました。

若人心念佛 是名善命人不離念佛故 是為命中命若人心念法 是名善命人不離念法故 是為命中命若人心念僧 是名善命人不離念僧故 是為命中命

> 心に仏を念じる人は、立派に生きている人です。 仏を念じ続けるからこそ、それは命の中の命なのです。 心に法を念じる人は、立派に生きている人です。 法を念じ続けるからこそ、それは命の中の命なのです。 心に僧を念じる人は、立派に生きている人です。 僧を念じ続けるからこそ、それは命の中の命なのです。

又夜摩天中有三大士。常為放逸諸天而演說法。何等為三。一者夜摩天王牟修輪陀菩薩。二者善時鵝王菩薩。三者種種莊嚴孔雀王菩薩。是三大士。常為利他而演說法。或有令得聲聞菩提。或有令得緣覺菩提。

> また、夜摩天には三人の大士が常に存在し、放逸な天人たちのために法を説いています。その三士とは何か。第一は夜摩天の王である牟修輪陀菩薩。第二は善時鵞王菩薩。第三は種種荘厳孔雀王菩薩です。この三士は常に他者を利益するために法を説き、ある者には声聞の悟りを得させ、ある者には縁覚の悟りを得させています。