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title: "法苑珠林 · 3 受苦部"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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### 受苦部第三

> 第三 苦しみの章

今述諸經具明諸天趣苦光明色界無色界苦。上界雖勝仍有微苦。故成實論云。上二界中雖無麁苦而有微細苦。何以知之。四禪中說有行立臥。隨有四故。皆應有苦。又色界有眼耳身識。即此識中所有諸受。名為苦樂。從一威儀求一威儀。求一威儀故知有苦。又無理解愛著已報。失時大苦。如經中說。唯得道者將命終時無憂苦色。今既是凡寧無憂喜。論中無苦者。以苦相微故說言無。如食少鹽故言無鹽。非是一向唯樂無苦。由上界樂行寂滅不著不能發起麁貪恚瞋。故名無苦無樂。又無刀杖等苦故言無苦。非無微苦。故涅槃經云。世間雖有上妙清淨園林。然死屍處中則為不淨。眾共捨之不生愛著。色界亦爾。雖復淨妙。以有身故。諸佛菩薩悉共捨之。若不作此觀名不修身。故知有苦。又法句喻經云。有四比丘坐於樹下。共相問言。一切世間何者最苦。一人言。天下之苦無過婬慾。一人言。世間之苦無過飢渴。一人言。世間之苦無過瞋恚。一人言。天下之苦莫過驚怖。共諍苦義紛紜不止。佛知其言。往到其所問諸比丘。向論何事。即起作禮具白所論。佛言。比丘。汝等所論不究苦義。天下之苦莫過有身。飢渴寒熱瞋恚驚怖。色欲怨禍。皆由於身。夫身者。眾苦之本。患禍之元。勞心極慮憂畏萬端。三界蠕動更相殘害。吾我縛著生死不息。皆由身與。欲願離世苦當求寂滅。攝心守正泊然無想可得泥洹。此最為樂。故知未得聖智滅此三界之身。當非苦耶。問曰。色界有身有苦可爾。無色無形苦受何生。答曰。彼報精微凡小不覩。無其麁礙非無細色。廣論有無被在別章。故智度論云。上二界死時退時。生大懊惱。甚於下界。譬如極處墮摧碎爛。又成實論云。苦樂隨身至於四禪。憂喜隨心至於有頂。

> ただいま述べたところによれば、諸々の経典には、天界における様々な苦しみや光明、色界・無色界における苦しみが明確に説かれています。上の界は勝れているとはいえ、やはり微細な苦しみが存在します。ゆえに『成実論』にはこうあります。「上の二界には粗い苦しみはないが、微細な苦しみはある。それをどう知るのか。四禅の中には、行・立・臥という四つの威儀があると説かれている。この四つがある以上、全てに苦しみがあるはずだ。また色界には眼・耳・身の認識があり、その認識の中にある全ての受を苦楽という。一つの威儀から別の威儀を求める。一つの威儀を求めることから、苦しみがあると知られる。さらに無理に己の報いに執着し、それを失うときには大いなる苦しみがある。経典の中にも、道を得た者だけが命終わるときに憂いや苦しみの色がないと説かれている。今の者は凡夫である以上、どうして憂いや喜びがないと言えよう。論の中で『苦がない』と言うのは、苦の相が微細であるゆえに『ない』と言うのである。それは、塩が少ないから『塩がない』と言うのと同じだ。決して一方的に楽だけで苦がないのではない。上の界の楽は、行いが寂滅にかなっていて執着せず、粗い貪りや怒りを発起させないことから、『苦なく楽なし』と言われるのである。また刀や杖などの苦しみがないことから『苦なし』と言うのであり、微細な苦しみがないわけではない。ゆえに『涅槃経』にはこうある。「世の中には素晴らしく清らかな庭園があるが、死体のある場所は不浄である。人々は皆それを避けて愛着を抱かない。色界もまた同じである。清らかで素晴らしいとはいえ、身体があるゆえに、諸々の仏や菩薩は皆これを捨てる。もしこのように観じなければ、身を修める者とは呼ばない」。これによって苦しみがあると知られる。 また『法句喩経』にはこうある。四人の比丘が木の下に座って互いに問い合った。「一切の世の中で、何が最も苦しいのか」。一人が言った。「天下の苦しみは、婬欲に勝るものはない」。別の者が言った。「世間の苦しみは、飢えと渇きに勝るものはない」。また別の者が言った。「世間の苦しみは、怒りに勝るものはない」。もう一人が言った。「天下の苦しみは、驚き恐れることに勝るものはない」。彼らは苦しみの意味をめぐって争い、言葉がやまなかった。仏はその言葉を知り、彼らのもとへ行き、比丘たちに問われた。「今、何を論じていたのか」。彼らはすぐに立ち上がって礼をし、論じていたことを詳しく申し上げた。仏は言われた。「比丘たちよ。あなたがたが論じていることは、苦しみの真の意味を極めていない。天下の苦しみは、身体があることに勝るものはない。飢え・渇き・寒さ・暑さ・怒り・驚き・色欲・怨みや災い、これら全ては身体に由来する。そもそも身体は、諸々の苦しみの根本であり、禍いの元である。心を労し、考えを尽くし、憂いや恐れは万端に及ぶ。三界の生きとし生けるものは互いに傷つけ合う。我と我が者に縛られ、生死が絶えない。これら全ては身体に由来するのではないか。世の苦しみから離れたいと願うなら、寂滅を求めるべきである。心を収め、正しく保ち、静かにして無想の境地に入り、泥洹を得ること。これが最も楽である」。ゆえに、聖なる智慧を得てこの三界の身体を滅ぼしていない者が、苦しくないはずがあろうか。 問う。色界には身体があり、苦しみがあるのはその通りであろう。しかし無色界には形がなく、苦しみの受はどこから生じるのか。 答える。かの報いは精密で微細であり、凡夫や小乗の者には見ることができない。粗い障害はないが、微細な色がないわけではない。有無についての詳細な議論は別の章に譲る。ゆえに『大智度論』にはこうある。「上の二界は、死ぬときや退堕するときには、下の界よりもはるかに大きな懊悩を生じる。たとえば、最も高い所から落ちれば砕け散るようなものである」。また『成実論』にはこうある。「苦楽は身体に伴って四禅にまで至り、憂喜は心に伴って有頂天にまで至る」と。

問曰。生上天者離惡積善。何故報盡即入三塗。答曰。凡夫無始已來惡業無窮。一日貪瞋尚受千形。況惡既多。暫伏結生。報福既盡昔業時熟。還墮三塗。何所致惑。故成實論云。人在色無色界謂是涅槃。臨命盡時。見欲色中陰。即生邪見。謂無涅槃。謗無上法。當知彼中有不善業。又智度論云。非有想非無想天中死墮阿鼻地獄中。故知三界輪轉皆苦。第三明欲界諸天苦者。謂彼天中鬪戰之時。遞相加害身心俱苦。若割股節斷而復生。斬首截腰則有死苦。如毘曇說欲界諸天有十業道離不律儀。雖天不害天。而害餘趣。亦有截手截足斷而還生。若斬首則死。展轉相奪。乃至十業道皆有。又福欲盡時。五衰相現則大憂惱。故涅槃經云。天上雖無大苦惱事。然其身體柔軟細滑。見五相時極受大苦。如地獄苦等無差別。如和毒藥初美後苦。故正法念經偈云。

> 問う。天に生まれる者は悪を離れ善を積むのに、なぜ報いが尽きるとすぐに三悪道に堕ちるのか。 答えよう。凡夫は無始以来、悪業が限りなく、一日の貪りや怒りでさえ千もの姿を受けている。まして悪が多く、しばらく煩悩を抑えて生まれたとしても、報いの福が尽きれば、過去の業が熟す時が来て、再び三悪道に堕ちる。何を迷うことがあろうか。ゆえに『成実論』には、「人は色界・無色界にいて、これを涅槃と思う。しかし命終わりの時に、欲界・色界の中陰を見て、邪見を生じ『涅槃はない』と言い、無上の法を謗る。知るべきである、彼らの中には不善の業があると」とある。また『智度論』には、「非有想非無想天から死んで、阿鼻地獄に堕ちる」とある。ゆえに三界の輪廻はすべて苦であると知るべきだ。 第三に、欲界の諸天の苦について述べる。彼らの天では、戦いの時に互いに害し合い、心身ともに苦しむ。もし太ももや関節を切られても、それは断たれてまた生える。しかし首を斬られたり腰を断たれたりすれば、死という苦がある。『毘曇』に説くように、欲界の諸天には十の業道があるが、不律儀は離れている。天が天を害することはないが、他の趣を害することはある。また手や足を切られても断たれてなお生えるが、首を斬られれば死ぬ。互いに奪い合い、十の業道すべてが存在する。また福が尽きようとする時には、五衰の相が現れて大いに憂い苦しむ。ゆえに『涅槃経』には、「天上には大きな苦しみの出来事はないが、その身体は柔らかく細やかで、五衰の相を見る時に極めて大きな苦しみを受ける。それは地獄の苦しみと等しく、差別はない。ちょうど毒を混ぜた薬のように、初めは甘美でも後には苦い」とある。ゆえに『正法念経』の偈には、

如蜜和毒藥 是則不可食天樂亦如是 退沒時大苦業盡懷憂惱 捨離諸天女退時大苦惱 不可得譬喻善業欲盡時 如燈焰欲滅不知何所趣 心生大苦惱天上欲退時 心生大苦惱地獄眾苦毒 十六不及一一切諸焰輪 愛力之所作愛鎖縛眾生 至諸險惡道三界如轉輪 業繫輪不斷是故捨愛欲 離欲得涅槃

> 蜜に毒を混ぜたものは、決して食べてはならない。 天の楽しみもまた同じで、退き失う時には大いなる苦しみがある。 （天人の）業が尽きると、心に憂い悩みを抱き、すべての天女たちから離れなければならない。 退く時の大きな苦しみは、たとえようがない。 善い業が尽きようとする時は、ちょうど灯の炎が消えようとする時のように、 どこへ向かうのかも分からず、心に大きな苦悩が生じる。 天上から退こうとする時、心には大きな苦しみが生じる。 地獄のあらゆる苦しみの毒でも、その十六分の一にも及ばない。 すべての炎の輪は、愛欲の力によって作られたものである。 愛という鎖が衆生を縛り、様々な険しい悪道へと導いていく。 三界は輪のように巡り、業の繫ぎ目がその輪を絶やすことがない。 それゆえ、愛欲を捨てよ。欲望を離れて、涅槃を得よ。

又涅槃經云。雖復得梵天之身乃至非想非非想天。命終之時還墮三惡道中。雖為四天王乃至他化自在天身。命終生於畜生道中。或為師子虎兕豺狼象馬牛驢等。故知天報盡時其身大苦。既有斯難即須披誠疏條此業懺令伏滅。若人造罪受報盡已。後時修善設生天上。由昔餘殃天中微受。故正法念經云。若於先世有偷盜業。爾時自見諸天女等。奪其所著莊嚴之具。奉餘天子。若於先世有妄語業。諸天女等聞其所說生顛倒解。謂其惡罵。若於先世以酒施於持戒之人。或破禁戒而自飲酒。或作麴釀。臨命終時。其心悶亂。失於正念。墮於地獄。若於先世有殺生業。壽命短促速疾命終。若於先世有邪婬業。見諸天女皆悉捨已。共餘天子互相娛樂。是則名曰五衰相也。以其持戒五種缺故。業網所縛受此業報。又天帝釋復觀業果於殿中。叫喚大地獄十八隔處。殺生偷盜邪婬妄語業。墮此地獄具受眾苦。從地獄出生餓鬼中。壽命長遠。從餓鬼中死生畜生中。互相殘害。從畜生中死。若生人中。身色憔悴無有威德。若有餘業得生天中。身量形貌皆悉減劣。一切眾寶莊嚴之具光明微少。不為天女之所愛敬。天女背叛。捨至餘天。智慧薄少心不正直。為餘天子之所輕笑。若諸天眾與阿修羅鬪戰之時。為他所殺。以餘業故。

> 『涅槃経』にもこう説かれています。たとえ梵天の身を得ようとも、非想非非想天に至ろうとも、命終の時には三悪道に堕ちてしまうのです。四天王や他化自在天の身を得ても、命終すれば畜生道に生まれ、獅子や虎、犀、狼、象、馬、牛、驢馬などになることもあります。したがって、天の報いが尽きる時、その身には大きな苦しみがあると知るべきです。このような艱難がある以上、心を尽くして誠実に、この業を明らかにし、懺悔して消し滅ぼさねばなりません。 もし人が罪を造り、報いを受け終えた後、善を修して天に生まれても、過去の余殃によって天においてもわずかに苦しみを受けます。ゆえに『正法念経』にはこうあります。「前世に盗みの業があれば、その時、自ら天女らが自分の身につけている荘厳の具を奪い取り、他の天子に捧げるのを見る。前世に妄語の業があれば、天女らがその言葉を聞いて逆さまに解釈し、悪口を言われたと思う。前世に戒を守る人に酒を施したり、戒を破って自ら飲酒したり、麹を造って酒を醸したりすれば、臨終の時に心が乱れ、正念を失い、地獄に堕ちる。前世に殺生の業があれば、寿命が短く速やかに命終する。前世に邪淫の業があれば、天女たちが皆自分のもとを離れ、他の天子と共に楽しみ合うのを見る。これを五衰相という。戒を守ることに五つの欠けがあるため、業の網に縛られ、この業報を受けるのである。」 また、帝釈天は再び業の果報を殿中で観察されます。叫喚大地獄の十八の隔てられた場所では、殺生・盗み・邪淫・妄語の業によって、この地獄に堕ちて様々な苦しみを受けます。地獄から出れば餓鬼に生まれ、寿命は長く続きます。餓鬼から死ねば畜生に生まれ、互いに傷つけ合います。畜生から死んで、もし人に生まれれば、その身はやつれて威厳も徳もありません。余業があって天に生まれても、身の丈や形貌はすべて劣っており、あらゆる宝の荘厳の具も光が少なく、天女から愛され敬われることもありません。天女は背いて他の天のもとへ行ってしまいます。智慧は乏しく心は正直でなく、他の天子に軽く笑われるのです。天の衆が阿修羅と戦う時には、他の者に殺される。これらはすべて余業によるものです。