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title: "法苑珠林 · 4 身量部"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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### 身量部第四

> 第四 身量の部

如菩薩處胎經云。第一大鳥不過金翅鳥。頭尾相去八千由旬高下亦爾。若其飛時從一須彌。至一須彌終不中止。廣如經說。第二獸者不過於龍。如阿含經說。難陀跋難陀二龍。其形最大。繞須彌山七匝。頭猶山頂尾在海中。第三魚身者不過摩竭大魚。如四分律說。摩竭大魚身長。或三百由旬四百由旬。乃至極大者。長七百由旬。故阿含經云。眼如日月。鼻如大山。口如赤谷。若依俗書。莊周說云。有大鵬。其形極大。鴻鵬之背不知幾千里。將欲飛時擊水三千里。翼若垂天之雲。搏扶搖而上。去地九萬。方乃得逝。要從北溟至於南溟。一飛六月。終不中息此當內典小金翅鳥。俗情不測謂言別有大鵬之鳥俗書復說。水獸大者。不過巨靈之鼇。其形最大。首冠蓬萊海中游戲。亦不說其高下長短也此鼇未同小小之摩竭。不可較其優劣也莊周說。小鳥之微不過於鷦螟之鳥。蚊子鬚上養子。有卵鬚上孚乳。其卵不落此亦未達。內典眾生受報極小者形如微塵。天眼方覩。故內律云。佛令比丘漉水而飲。舍利弗乃多遍而漉。猶有細蟲。因此七日不飲水。身形枯顇。佛知而故問。汝云何憔悴。答言。佛令漉水而飲。弟子。縱多遍漉。以天眼觀蟲。猶尚而過如器中漂水沙。以護生命不敢飲水。故身憔悴佛告舍利弗。若以天眼觀一切人民無有活者。自今已後但聽肉眼看水清淨。其內無蟲即得開飲。故知眾生微報處處皆遍。小者豈同鷦螟之質大也。

> 『菩薩處胎経』にこう説かれています。第一に大きな鳥といえば、金翅鳥（こんじちょう）を超えるものはありません。その頭と尾の間は八千由旬（ゆじゅん）もあり、高さも同じです。飛ぶときには、一つの須弥山（しゅみせん）から次の須弥山へ、決して途中で止まることなく進みます。詳しくは経典に述べられています。 第二に大きな獣といえば、龍です。『阿含経』によれば、難陀（なんだ）と跋難陀（ばつなんだ）という二匹の龍は、その姿が最も大きく、須弥山を七周もぐるりと巻きつけ、頭は山頂に、尾は海の中にあります。 第三に大きな魚といえば、摩竭（まかつ）の大魚です。『四分律』にこうあります。摩竭の大魚の体長は、三百由旬や四百由旬、さらに最も大きいものでは七百由旬にもなります。だから『阿含経』には、「その目は日月のようであり、鼻は大山のようであり、口は赤い谷のようである」とあります。 俗世の書物によれば、荘周（そうしゅう）がこう言っています。「大鵬（たいほう）という鳥がいる。その姿は極めて大きく、鴻鵬（こうほう）の背中が何千里あるか分からない。飛び立とうとするとき、水を三千里も打ち上げ、翼は空一面に垂れる雲のようであり、旋風（つむじかぜ）に乗って九万里もの高さに上がって初めて、飛び去ることができる。必ず北の海から南の海へと向かい、一度飛べば六ヶ月間、決して途中で休むことはない」 <注>これは仏典における小金翅鳥（しょうこんじちょう）に当たる。俗世の人は深く知らないので、別に大鵬という鳥がいると言うのである。</注> また俗書にはこうも言います。「水の獣で最も大きいものは、巨霊（きょれい）の大亀（おおがめ）に勝るものはいない。その姿は最も大きく、頭には蓬莱山（ほうらいさん）を頂き、海の中で遊び戯れる」と。しかし、その高さや長さについては何も述べられていません。<注>この大亀は、小さな摩竭（まかつ）の魚とも同列ではない。その優劣を比べることはできない。</注> 荘周はまた、「小さい鳥の最も微細なものは、鷦螟（しょうめい）の鳥に勝るものはない。蚊の触角の上で子を育て、卵を触角の上で温めるが、その卵は落ちることはない」と述べています。<注>これもまた、仏典に通じていない話である。仏典によれば、生きとし生けるものの最も小さな報いの姿は、微塵のように形が小さく、天眼（てんげん）で初めて見ることができる。だから『内律』にはこうある。仏は比丘たちに水を漉して飲むよう命じられた。舎利弗（しゃりほつ）は何度も漉したが、それでも細かい虫がいた。そのため七日にわたって水を飲まず、身体はやせ衰えてしまった。仏はそれをご存知でお尋ねになった。「なぜお前はそんなにやつれているのか」と。舎利弗は答えた。「仏は水を漉して飲むようお命じになりました。弟子は何度も漉しましたが、天眼で虫を見ると、まるで器の中で水と砂が漂うように、まだ虫が通り過ぎてしまうのです。命を守るために、水を飲むことができず、そのため身体がやつれてしまいました」と。仏は舎利弗に告げられた。「もし天眼で見るならば、すべての人々の中に生きている者はいないことになる。今日からはただ肉眼で水が清らかで、その中に虫がいなければ、飲んでよいことにする」と。これにより、生きとし生けるものの微細な報いの姿は、あらゆる場所に満ちていることが分かる。その小さなものは、どうして鷦螟（しょうめい）の鳥のような大きさのものと比べられようか。</注>