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title: "法苑珠林 · 元魏涼州石像山袈裟出現緣"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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元魏涼州山開出像者。至太武大延元年。有離石沙門劉薩何師。備在僧傳。歷游江表禮鄮縣塔。至金陵開育王舍利。能事將訖。西至涼州西一百七十里番禾郡界東。北望御谷山遙禮。人莫測其然也。何曰。此山崖當有像出。靈相具者則世樂時平。如其有缺則世亂人苦。經八十七載至正光元年。因大風雨雷震山巖挺出石像。高一丈八尺。形相端嚴唯無有首。登即選石命工。安訖還落。魏道凌遲其言驗矣。至周元年。涼州城東七里㵎。忽石出光照燭幽顯。觀者異之。乃像首也。奉安像身宛然符合。神儀彫缺四十餘年。身首異處二百許里。相好昔虧一時還備。時有燈光流照鍾聲飛響。皆莫委其來也。周保定元年立為瑞像寺。建德將廢首又自落。武帝令齊王往驗。乃安首像項。以兵守之。及明還落如故。遂有廢法國滅之徵接焉。備于周釋道安碑。周雖毀教不及此像。開皇通法依前置寺。大業五年煬帝西征躬往禮覲。改為感通道場。今像存焉。依圖擬者非一。及成長短終不得定云。

> 元魏の時代、涼州の山から仏像が現れた話がある。太武大延元年のこと、離石の沙門である劉薩何という師がいた。彼のことは僧伝に詳しく記されている。彼は江南を巡り、鄮県の塔に礼拝し、金陵に至っては育王の舎利を礼拝した。そうした修行を終えようとした時、西の涼州から一百七十里のところにある番禾郡の境、その東の方角にある御谷山に向かって遠くから礼拝した。人々はその理由を測り知ることができなかった。劉薩何は言った。「この山の崖から、やがて仏像が現れるであろう。その姿が完全に備わっていれば世は平和で楽しく、もし欠けるところがあれば世は乱れ、人々は苦しむであろう」と。それから八十七年後、正光元年のこと、激しい風雨と雷によって山の岩が裂け、石の像が現れた。丈は一丈八尺、姿形は端厳であったが、ただ頭だけがなかった。すぐに石を選び、工を集めて頭を造り、安置したが、落ちてしまった。魏の道が衰退したのは、この言葉が実証されたからである。周の元年、涼州の城の東七里の谷で、忽然と石が現れ、その光は明暗を照らし、見る者は皆不思議に思った。それは仏像の頭だったのである。これを像の体に奉安すると、見事に符合した。神々しい姿が欠けたこと四十余年、身と頭が離れること二百里余り。かつて欠けていた相好が、一時にして再び備わったのである。その時、灯火の光が流れ、鐘の音が響き渡ったが、誰もその由来を知る者はいなかった。周の保定元年、瑞像寺と名付けられた。建德の時、廃仏が行われようとしたが、頭がまた自ら落ちた。武帝は斉王に命じて検分させた。そこで頭を像の首に安置し、兵に守らせた。しかし朝になると、また元のように落ちていた。これによって、仏法が廃され、国が滅びる前兆が続いたのである。これは周の釈道安の碑に詳しく記されている。周は仏教を毀損したが、この像には及ばなかった。開皇の時、仏法が復興され、元のように寺が建てられた。大業五年、煬帝が西征の折、自ら訪れて礼拝し、「感通道場」と改称した。今もこの像は存在している。図に基づいて模造する者は一人ではなかったが、長さを測っても、ついに定まらなかったということである。