---
title: "法苑珠林 · 2 優劣部"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcy5aw7d04l3l404ptkge6xc"
---

### 優劣部第二

> 第二品：善悪の比較

如優婆塞戒經云。佛言。世間福田凡有三種。一報恩田。二功德田。三貧窮田。報恩田者。所謂父母師長和上。功德田者。從得暖法乃至阿耨菩提。貧窮田者。一切窮苦困厄之人。世尊是二種田。一報恩田。二功德田。法亦如是。眾僧是三種田。一報恩田。二功德田。三貧窮田。以是因緣已受戒者。應當至心供養三寶。若人共施財物福田施心俱等。是二福德等無差別。有財心俱等。福田勝者得果報勝。有田心俱下財物勝者得果則勝。有田財俱下施心勝者得果亦勝。有田財俱勝施心下者得果不如。善男子。智者施時不為果報。何以故。定知此因必得果故。

> 佛が説かれました。世の中の福田には三つの種類があります。第一に報恩田、第二に功徳田、第三に貧窮田です。報恩田とは、父母、師匠、和尚のことです。功徳田とは、暖法（修行の暖かい境地）を修めた者から、無上の悟りに至るまでの修行者たちのことです。貧窮田とは、すべての貧しく苦しみ、困難にある人々のことです。 世尊（仏陀）は二つの福田、すなわち報恩田と功徳田を持ち、法（教え）もまた同じです。僧伽（僧侶の集まり）は三つの福田、すなわち報恩田、功徳田、貧窮田を持っています。このような理由から、すでに戒を受けた人は、心を尽くして三宝（仏・法・僧）を供養すべきです。 もし人が財物を一緒に施す場合、福田と施す心が等しければ、その二つの福徳に差別はありません。財物と施す心が等しく、福田が優れているなら、得る果報も優れます。福田と施す心が共に劣っていても、財物が優れているなら、得る果報は勝れます。また、福田と財物が共に劣り、施す心が優れている場合も、得る果報は勝れます。しかし、福田と財物が共に優れ、施す心が劣っているなら、得る果報は劣ります。 善き人よ。智慧ある者は施すときに、果報を求めて施しません。なぜなら、この因（原因）が必ず果報をもたらすと確かに知っているからです。

又僧伽吒經云。佛告一切勇菩薩言。若三千大千世界滿中胡麻。以此數轉輪聖王。若有人布施如是輪王。不如布施一須陀洹。若施三千世界諸須陀洹所得功德。不如施一斯陀含。若施三千世界諸斯陀含。不如施一阿那含。若施三千世界諸阿那含。不如施一阿羅漢。若施三千世界諸阿羅漢。不如施一辟支佛。若施三千世界諸辟支佛。不如施一菩薩。若施三千世界諸菩薩。不如施一如來所起清淨心。若於三千世界諸如來所生清淨心。不如凡夫聞此法門功德勝彼。何況書寫讀誦受持。爾時一切大眾白佛言。世尊。一佛福德有幾量耶。佛言。譬如大地微塵如恒河沙等眾生悉作十地菩薩。如是一切十地菩薩所有功德。不如一佛福德之力。

> 『僧伽吒経』にはこう説かれています。 仏が一切勇菩薩に告げられた。 「三千大千世界に胡麻が満ちるほどの数の、多くの転輪聖王がいたとする。もし誰かがその全ての王に施しをしても、一人の須陀洹（預流果）に施す功徳には及ばない。 三千世界の全ての須陀洹に施す功徳も、一人の斯陀含（一来果）に施す功徳には及ばない。 三千世界の全ての斯陀含に施す功徳も、一人の阿那含（不還果）に施す功徳には及ばない。 三千世界の全ての阿那含に施す功徳も、一人の阿羅漢に施す功徳には及ばない。 三千世界の全ての阿羅漢に施す功徳も、一人の辟支仏（独覚）に施す功徳には及ばない。 三千世界の全ての辟支仏に施す功徳も、一人の菩薩に施す功徳には及ばない。 三千世界の全ての菩薩に施す功徳も、如来に対して清らかな心を起こすことには及ばない。 また、三千世界の全ての如来に対して清らかな心を起こすよりも、凡夫がこの法門を聞く功徳の方が、はるかに勝れている。ましてや、これを書き写し、読み、暗唱し、心に受けて守ることの功徳はなおさらである。」 その時、一切の大衆が仏に申し上げた。 「世尊よ、一人の仏の福徳は、どれほどの量なのでしょうか。」 仏は答えられた。 「たとえば、大地の微塵の数よりもさらに多くの、ガンジス川の砂の数ほどの衆生が、皆、十地の菩薩となったとする。その全ての十地菩薩の功徳を合わせても、一人の仏の福徳の力には及ばないのだ。」

又阿毘曇甘露味經云。田好有三種。一大德田。二貧苦田。三大德貧苦田。云何大德田。謂佛辟支四沙門果等。云何貧苦田。謂畜生老病等。云何大德貧苦田。謂聖人老病等。若施大德田恭敬心得大報。若施貧苦田憐愍心得大報。若施大德貧苦田恭敬憐愍心得大報。是為福田好。云何物好。不殺偷奪欺誑得物。隨有淨物多少布施。是為物好。若布施佛即時一切得福。若布施眾僧。受用得一切福。未受用不得一切福。若供養法故得大報。若學人聰明大智慧以法故供養。是謂供養法。布施得富。受施竟得樂力壽等。功德殊勝得大果報。若施畜生受百世報。若施不善人受千世報。若施善人受千萬世報。若施離欲凡夫受千萬億世報。若施得道人得無數世報。若施佛得至涅槃。又布施有六難。一憍慢施。二求名施。三為力施。四強與施。五因緣施。六求報施。

> また、『阿毘曇甘露味経』にはこう説かれています。 田には三つの良い種類があります。第一に大徳の田、第二に貧苦の田、第三に大徳でありながら貧苦の田です。 大徳の田とは、仏・辟支仏・四沙門果などの聖者を指します。貧苦の田とは、畜生や老病などの苦しむ者たちを指します。大徳でありながら貧苦の田とは、聖者でありながら老病などにある者を指します。 もし大徳の田に施すなら、恭敬の心によって大きな報いを得ます。貧苦の田に施すなら、憐れみの心によって大きな報いを得ます。大徳であり貧苦の田に施すなら、恭敬と憐れみの両方の心によって、より大きな報いを得ます。これが「田の良し悪し」です。 では、「物の良し悪し」とは何でしょうか。それは、殺生・盗み・欺きなどによって得たものではなく、清らかな物を、その多少にかかわらず施すことです。これが「物の良し悪し」です。 もし仏に布施すれば、即座に全ての福徳を得ます。僧伽に布施すれば、その受用が行われた後に全ての福徳を得ます。まだ受用されていない間は、すべての福徳を得ることはありません。 また、法のため供養すれば、大きな報いを得ます。学びある人が聡明で大いなる智慧を持ち、法のために供養する、これを「法の供養」といいます。 布施すれば富を得ます。施しを受けた後は、楽・力・寿命などを得ます。その功徳は殊勝で、大きな果報をもたらします。 畜生的な者に施せば、百世の報いを受けます。不善の人に施せば、千世の報いを受けます。善人に施せば、千万世の報いを受けます。欲望を離れた凡夫に施せば、千万億世の報いを受けます。道を得た人に施せば、数え切れないほどの世の報いを受けます。仏に施せば、涅槃に至る報いを得ます。 さらに、布施には六つの難点があります。一つは高慢な心での施し、二つは名声を求める施し、三つは力を得ようとする施し、四つは無理強いの施し、五つは因縁による施し、六つは見返りを求める施しです。

又佛說華聚陀羅尼經云。佛言。若復有人持以七寶如須彌山等。於一劫中布施聲聞辟支佛。不如有出家在家人能持一錢以用布施初發菩提心人得福德多。比前功德。百分千分萬分不及其一。乃至算數譬喻所不能及。寶梁經云。佛言。善男子。我今說世有二人應受信施。何等為二。一勤行精進。二得解脫。令此施主得大利益有三種施。一常施食。二僧房舍。三行慈心。此三福中慈心最勝。

> さらに、仏が説かれた『華聚陀羅尼経』にはこうあります。「仏は言われた。もし人が、須弥山のように大きな七宝の山を、一劫の間、声聞や縁覚に布施したとしても、出家者や在家者が一銭でも持って、初めて発菩提心した人に布施するほどの功徳は得られない。その功徳は、百分、千分、万分の一にも及ばず、たとえや計算でたとえることすらできない。」 『宝梁経』にはこうあります。「仏は言われた。善男子よ、私は今、世の中に二種類の人が、信者の施しを受けるにふさわしいと説く。その二つとは何か。第一には、精進に励む人。第二には、解脱を得た人である。これらの施主に大きな利益をもたらす施しには三種類がある。第一に、常に食事を施すこと。第二に、僧侶の住まいを与えること。第三に、慈しみの心を行うことである。この三つの福の中で、慈しみの心が最も優れている。」

又菩薩本行經云。須達居家貧窮。無有財產。至信道德。佛教布施。須達白佛。多施耶。少施耶。佛告須達。所施雖多而獲報少。布施雖少而獲報多。如施雖多而無至心貢高自大信邪倒見不得快士。所施雖多而獲報少。猶如田薄下種雖多收實甚少。何謂施少而獲大福者。如施雖少歡喜恭敬與不望報施佛及辟支四沙門等。所施雖少獲報弘大。猶如良田所種雖少收實甚多。

> また、『菩薩本行経』にはこう説かれている。 須達は家に住み、貧しくして財産もなかったが、真理と道徳を深く信じていた。仏は布施を教えられた。須達が仏に尋ねた。「多く施すことと、少なく施すこと、どちらが良いのでしょうか。」 仏は須達に告げられた。「多く施しても、得る報いが少ないこともある。少なく施しても、得る報いが大きいこともある。 たとえば、多く施しても真心がなく、高ぶり自惚れ、邪見に陥り、善き人に遇わなければ、施しは多くとも報いは少ない。それはちょうど、やせた田に多くの種を蒔いても、得る実りが非常に少ないようなものだ。 では、少なく施して大きな福を得るとはどういうことか。それは、施すものが少なくとも、喜びと敬いの心をもって行い、見返りを望まずに、仏や辟支仏（びゃくしぶつ）、四沙門（ししゃもん）などに施すことである。こうした施しは少なくとも、得る報いは非常に大きい。それはちょうど、良い田にわずかな種を蒔いても、多くの実りを得るようなものだ。」

又智度論云。以大悲心施物雖同福德多少隨心優劣。如舍利弗。以一鉢飯上佛。佛即迴施狗。而問舍利弗。汝以飯施我。我以飯施狗。誰得福多。舍利弗言。如我解佛義。佛施狗福多。佛田第一不如施狗。以是故知。大福從心不在田也。如舍利弗。千萬億倍不及佛心。所以者何。心為內主。田是外事故。或時布施之福在於福田。如億耳阿羅漢。昔以一華施於佛塔。九十一劫人天中受樂。餘福德力得阿羅漢。又如阿輸迦王。為小兒時以土施佛。王閻浮提起八萬塔。最後得道。施物至賤。小兒心薄。但以福田妙故得大果報。當知大福從良田生。若大中之上三事都具。心物福田皆妙。如佛以好華散十方佛時。問曰。此布施福云何增長。答曰。應時施故得福增長。如經說。飢餓時施得福增多。或遠行來時。若曠路險道中施。若常施不斷。或時常念施故施得增廣。又增一阿含經云。施畜生食者獲福百倍。與犯戒人食者獲福千倍。施持戒人食獲福萬倍。施斷欲仙人食者獲福千萬倍。與向須陀洹食者獲福不可計。況成須陀洹乎。況向斯陀含得斯陀含道。乃至那含羅漢辟支如來等。其福功德不可稱計。又智度論云。如大月氏弗迦羅城中。有一畫師。名曰千那。到東方多剎施羅國客。畫十二年得三十兩金。持還本國。於弗迦羅城中聞打鼓作大會聲。往見眾僧。信心清淨即問維那。此眾中用幾許物得作一日食。維那答曰。用三十兩金足得一日食。即以所有三十兩金付維那。為我作一日食。我明日當來空手而歸。其婦問曰。十二年作得何物。答曰。我得三十兩金。即問。金在何所。答言。已作福田中種子。婦言。何等福田。答言。施與眾僧。婦便縛其夫送官治罪。斷事大官問。以何事故。婦言。我夫狂癡。十二年作得金三十兩。不憐愍婦兒盡以與他。依如官制取縛將來。大官問其夫。汝何以不供給婦兒乃以與他。答言。我先世不行功德。今世貧窮受諸辛苦。今世遭遇福田。若不種福後世復貧。貧貧相續無得脫時。我今欲頓捨貧窮。以是故盡以金施眾僧。大官是優婆塞信佛清淨。聞是語已讚言。是為甚難。勤苦得此少物。盡以施僧。汝是善人。即脫身瓔珞。及所乘馬并一聚落以施貧人。而語之言。汝始施眾僧眾僧未食。是為穀子未種芽已得生。大果方在後耳。以是故言。難得之物盡用布施。其福最多。

> また『智度論』に説かれている。大悲心をもって施しをするとき、与える物は同じでも、福徳の多少は心の優劣に従う。例えば舎利弗が、一鉢の飯を仏に捧げたところ、仏はすぐにその飯を犬に施された。そして舎利弗に問われた。「あなたは私に飯を施し、私は犬に飯を施した。どちらがより多くの福を得るか。」舎利弗は答えた。「私が仏の教えを解する限り、仏が犬に施された方の福がより大きいのです。仏の福田は第一でありながら、犬に施すことの方が福が多いのです。」このことから、大いなる福は心から生じるのであって、田（福田）からではないと知られる。たとえ舎利弗といえども、仏の心には千万億倍も及ばない。なぜなら、心は内なる主であり、田は外なる事柄にすぎないからだ。 しかし時には、布施の福が福田に依ることもある。例えば、億耳阿羅漢は、かつて一輪の花を仏塔に捧げたことで、九十一劫もの間、人天の世界で楽しみを受け、その余力で阿羅漢果を得た。また、阿輸迦王は幼い頃、土を仏に捧げ、閻浮提を統べる王となり八万の塔を建て、最後には悟りを得た。この場合、施し物は極めて粗末であり、子供の心も浅はかであったが、福田が優れていたために大いなる果報を得たのである。したがって、大いなる福は良き福田から生じることも知らねばならない。最も優れた布施とは、三つの要素（心・物・福田）すべてが優れていることである。例えば、仏が美しい花を十方の仏に散じ捧げられたような場合である。 問う。「この布施の福は、どのようにして増大するのか。」答え。「時に応じて施すことにより、福は増大する。例えば経典に説かれるように、飢餓の時に施すと福は増し、遠方から来た人や、荒野や険しい道で出会った人に施すと福は増す。また、常に施しを絶やさず、あるいは常に施しを念じることによって、施しの功徳は広大となる。」 さらに『増一阿含経』にはこうある。畜生に食物を施せば百倍の福を得る。戒を破った人に施せば千倍、戒を守る人に施せば万倍、欲望を断った仙人に施せば千万倍の福を得る。預流果に向かう人に施せば、その福は計り知れない。ましてや預流果を成就した人、一来果に向かい、一来果を得た人、さらには不還果、阿羅漢、辟支仏、如来などに施せば、その福徳は言葉に表せないほどである。 また『智度論』にはこうある。例えば、大月氏国の弗迦羅という町に、千那という名の画家がいた。彼は東方の多刹施羅国へ行き、十二年もの間、絵を描いて三十両の金を得た。故郷に帰ると、弗迦羅の町で法会の太鼓が鳴り響くのを聞き、大勢の僧侶のもとへ行った。彼は清らかな信心を起こし、維那に尋ねた。「この僧団で一日の食事を賄うには、いくら必要ですか。」維那は答えた。「三十両の金で十分です。」そこで画家は、持っていた金三十両すべてを維那に渡し、「私のために一日の食事を施してください。明日、また参ります」と言って、手ぶらで家に帰った。 妻が問う。「十二年もの間、働いて何を得たのか。」画家は答えた。「三十両の金を得た。」妻が「その金はどこにある。」と尋ねると、画家は「すでに福田の中に種をまいた。」と答えた。妻が「どんな福田か。」と問うと、「僧侶たちに施したのだ。」と言った。妻は夫を縛り、役所へ連れて行き裁きを求めた。裁判官が理由を問うと、妻は言った。「私の夫は狂っています。十二年も働いて得た三十両の金を、妻や子供を顧みず、すべて他人に与えてしまいました。法律に従って、この者を罰してください。」裁判官は画家に問う。「なぜ、妻や子供を養わず、他人に与えたのか。」画家は答えた。「私は前世で功徳を積まなかったため、今世は貧しく、様々な苦しみを受けています。今、この素晴らしい福田に出会いました。もしここで種をまかなければ、来世もまた貧しいままでしょう。貧しさが貧しさを呼び、連鎖は絶えることがありません。私は今こそ貧しさを一気に断ち切りたいと思い、すべての金を僧侶たちに施したのです。」この裁判官は在家の信者であり、仏への信心が清らかであった。この言葉を聞いて、彼は称賛した。「これは本当に難しいことだ。苦労して得たわずかな金を、すべて僧侶に施すとは。あなたは善人だ。」そして、自分の身に着けていた瓔珞や馬、さらには一つの村までもを貧しい人々に施し、画家に言った。「あなたは僧侶に施したが、まだ彼らは食事をしていない。これは、まだ種をまく前に芽が出たようなものだ。大きな果報はこれから訪れるだろう。」このように、得難いものをすべて布施に用いるならば、その福は最も大きいのである。