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title: "法苑珠林 · 唐沙門釋法順"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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唐癰州義善寺釋法順。俗姓杜氏。癰州萬年縣人。稟性柔和志存儉約。京室東阜地號馬頭。空崖岸重邃堪為靈窟。有因聖寺僧珍禪師。本是順受業師。珍草創伊基勸俗修理。端坐指揮示其儀則。忽感一犬不知何來。白足身黃自然馴擾。徑入窟內口銜土出。須臾往返勞而不倦。食則同僧過中不飲。既有斯異。四遠響歸。乃以聞上。隋高重之。日賜米三升。因供常限。乃至龕成無為而死。今所謂因聖寺是也。順時躬覩其事更倍歸依。力助締搆勸民設會。供限五日臨時倍來。供主懼少。順曰。莫遮。通給千人供足猶有餘剩。常有張河江張弘暢。家畜牛馬。性本弊惡。人皆患之。賣無取者。順語慈善如有聞從。自後調善更無觝齩。又每年夏中引眾驪山栖靜。地多蟲蟻無因種菜。順恐有損就地指示令蟲移徙。不久往示恰無蟲矣。又順患腫膿潰流泆。有敬𠲿之。或以帛拭尋即除愈。餘膿發香氣氳難比。拭帛猶在香氣不歇。又有三原縣人田薩埵者。生來患聾。兼有張蘇等。亦患瘂。順聞命來與共言議。遂如好人。永即痊復。又有武功縣僧為毒龍所魅。眾以投之。順端拱對坐。毒遂陰託病僧曰。禪師既來。義無久住。極相勞嬈。尋即釋放。但有障。癘魔邪所惱者。歸順皆愈。不施呪術。福力如是。其不測者。謂有陰德所加故使感靈偏敬。致言所教多抑浮詞顯直正理。敦實為懷。見有樹神廟室多即焚除。汎愛道俗貴賤皆投。讚毀兩途開匈莫二。似如不知翻作餘語。因行南野將度黃渠。其水汎漲無人敢度。岸復峻滑。雖登還墮水。忽斷流如行陸地。及順上岸水尋還溢。門徒目覩不測其然。所感幽通事多非一。財帛靡悋通用無主。但服麁弊卒無兼副。朝野知委聞徹。

> 唐の癰州義善寺の釋法順（しゃく ほうじゅん）は、俗姓は杜氏で、癰州萬年縣の人です。生まれつき柔和な性格で、志は質素倹約にありました。京室の東の丘に、地元で馬頭と呼ばれる場所がありました。崖が重なり合い深く、霊的な窟としてふさわしい場所でした。そこに因聖寺という寺の僧・珍禪師がおりました。もともと順の師匠です。珍はこの地を開拓し、人々に修理を勧めました。座って指示をし、その作法を示していると、突然一匹の犬が現れました。どこから来たのか分かりません。足は白く、体は黃色で、自然に人に馴れていました。直接窟の中に入り、口で土を運び出しました。しばらくするとまた往復し、疲れることもなく働きました。食べる時は僧侶と同じですが、昼を過ぎれば水も飲みませんでした。このような珍しいことがあったので、四方遠方から人々が集まり評判となりました。そこで朝廷に報告されました。隋の高祖はこれを重く見て、毎日米三升を賜りました。それ以来、常に供養が絶えませんでした。そして龕が完成するまでに、この犬は何もせずに死んでしまいました。今、因聖寺と呼ばれるものです。順はこの出来事を直接目撃し、いっそう帰依の心を深めました。力を尽くして寺の建立を助け、人々に勧めて法會を開きました。供養の日数は五日と決められていましたが、臨時に人々が倍以上やって来ました。供養の主催者は足りなくなることを心配しました。順は言いました。「妨げてはなりません。」千人に施しを与えても、まだ余りがありました。いつも張河江や張弘暢という者たちがおりました。家には牛や馬を飼っていましたが、性質はもともと荒く悪く、皆が手を焼いていました。売ろうとしても買う者はありませんでした。順が慈しみの言葉をかけると、まるで聞き従うかのようでした。それ以後、おとなしくなり、もはや角で突いたり噛んだりしませんでした。 また毎年夏には、人々を連れて驪山に靜かに過ごすために行きました。その地には蟲や蟻が多く、菜を植えることもできませんでした。順は害があるのを心配し、その場で指示して蟲たちを移動させました。まもなく見に行くと、ちょうど蟲がいなくなっていました。 また順は腫れ物を患い、膿が流れ出ました。ある者がこれを吸い出し、ある者は布で拭いましたが、すぐに治癒しました。残った膿からは香りが立ち込め、比べるものがないほどでした。拭った布にも香りが残り、消えることがありませんでした。 また三原縣に田薩埵という者がいました。生まれつき耳が聞こえませんでした。張蘇という者もおり、やはり口が利けませんでした。順はこれを聞いて、来るように命じ、一緒に話をしました。すると普通の人と同じようになり、永遠に治癒しました。 また武功縣の僧が毒龍に取り憑かれました。人々は彼を順のところに連れて来ました。順は端座して向かい合って座りました。すると毒龍は病僧に託して言いました。「禪師がおいでになったからには、自分も長く留まるわけにはいきません。大變お騒がせしました。」まもなく病僧は解放されました。障害や疫病、魔邪に悩まされた者は、順に帰依すれば皆治りました。呪術を用いることもなく、福の力はこのようなものでした。測り知れないものがあるとされ、隠された徳が加わっているため、霊験が偏に敬われたのでしょう。 彼の教えは、多くが虛飾の言葉を抑え、明らかに正しい道理を示すものでした。誠実を旨としておりました。木の神や廟があると、多くは焼き払って除きました。道・俗を問わず、貴賤を問わず、すべてを受け入れました。讃えようと毀ろうと、心に差別はありませんでした。まるで知らないかのようにして、他の言葉に變えてしまいました。 南の野を行く途中、黃渠を渡ろうとした時のことです。水が氾濫して増水しており、誰も渡る者がありませんでした。岸は険しく滑りやすく、登ってもまた水に落ちるばかりでした。すると突然、水は流れを斷ち、陸地を歩くかのようでした。順が岸に上がると、水はすぐに元のように溢れました。弟子たちは目撃しましたが、その理由を測り知ることができませんでした。彼が感じさせた神秘的なことは、このように一つや二つではありませんでした。 財や布帛には吝嗇ではなく、すべてを共通のものとして用いました。ただ粗末な衣服を身につけ、ついに余分なものは持たず、身一つでありました。朝廷や民間はそれを知り、その評判は皇帝にまで達しました。

皇帝。引入內宮崇敬致禮。合宮歸仰請受戒法。以貞觀十四年都無疾苦。告累門徒。生來行法令後承用。言訖如常跏趺坐。卒終於南郊義善寺。春秋八十有四。臨終忽有雙鳥投房悲哀驚切。因即坐送于樊川之北原。鑿穴處之。京邑道俗同嗟制服。人馬亘野悲號慟地。肉色不變經月逾鮮。安坐三周枯骸不散。自終至今常有異香流注屍所。往者同聞。學侶門徒恐有外侵。乃藏龕內不懼外竊。四眾良辰赴供彌滿右八驗出唐高僧傳。

> 皇帝は僧侶を内宮に迎え、敬意を表して厚く礼拝されました。宮中全体が帰依し、戒律の教えを受けたいと願われました。貞観十四年、僧侶に何の病もなく、弟子たちに「生涯行ってきた教えを、今後も受け継いで実行しなさい」と告げられました。その言葉が終わると、いつものように結跏趺坐されたまま、南郊の義善寺で亡くなられました。享年八十四歳でした。臨終の際、突然二羽の鳥が部屋に飛んできて悲しげに鳴き叫び、それは痛ましいものでした。その後、遺体は座ったままの姿で樊川の北の原に運ばれ、洞穴に安置されました。都の人々、僧侶も俗人も皆、嘆き悲しみ、喪服を着て弔いました。人や馬が野原に溢れ、悲しみの声が大地を揺るがしました。しかし、遺体の肉の色は変わらず、一ヶ月が過ぎてもさらに鮮やかでした。三週間そのまま座しておられましたが、枯れ朽ちた骨も散りばらばらになりませんでした。亡くなってから今に至るまで、常に異香が遺体の場所に漂い続けており、訪れる人々は皆それを感じました。弟子や学僧たちは外から荒らされることを恐れ、遺体を龕に納めて、外部からの盗難を防ぎました。そして、四衆は良き日には参集し、供養を捧げて満ち溢れました。<note>右の八つの験証は『唐高僧伝』に拠る。</note>