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title: "法苑珠林 · 4 中陰部"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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### 中陰部第四

> 中陰部 第四

如正法念經云。有十七種中陰有法。汝當係念行寂滅道。若天若人念此道者。終不畏於閻羅使者之所加害。何等十七中陰有耶。

> 『正法念経』にこう説かれています。「十七種の中陰のあり方がある。あなたは心を集中して、煩悩の消えた道を歩みなさい。天の者であれ、人間であれ、この道を心に念じる者は、決して閻魔の使いに害されることを恐れることはない。その十七種の中陰とは何か。」

第一若人中死生於天上。則見樂相中陰。猶如白㲲垂欲墮。細軟白淨。復見園林華池。聞諸歌舞戲笑。次聞諸香。一切受樂無量種物。和合細觸。即生天上。以善業故現得天樂。含笑怡悅顏色清淨。親族兄弟悲啼號泣。以善相故不聞不見。心亦不念。於臨終時初生樂處。天身相似如印文成。見天勝處即生愛境。故受天身。是則名曰初生中陰有也。

> 第一に、もし人が死して天上に生まれれば、楽しい相の中陰を見る。それは、まるで白い絹（はくへん）が今にも落ちようとして垂れ、細やかで柔らかく白く清らかなようなものである。また、園林や華やかな池を見、様々な歌や舞、戯れや笑い声を聞く。次いで様々な香りを嗅ぎ、あらゆる楽しみ、無量の種類のもの、和合した細やかな感触を受ける。そして、ただちに天上に生まれる。善業の故に、現世で天の楽を受けるのである。含笑し、心楽しげに顔色は清らかで、親族や兄弟が悲しみ泣き叫んでも、善い相の故に聞こえず見えず、心にも留めない。臨終の時、初めて楽しい場所に生じ、天の身は印文が成就するように似ている。天の勝れた場所を見て、即ち愛着の境を生じ、それゆえ天の身を受ける。これを、初めて生じる中陰の有と名づける。

第二中陰有者。若閻浮提人。命終生欝單越。則見細軟赤㲲可愛之色。即生貪心。以手捉持舉手攬之。如攬虛空。親族謂之兩手摸空。復有風吹。若此病人冬寒之時。暖風來吹除其寒苦。若暑熱時涼風來吹。除其欝蒸令心喜樂。以心緣故不聞哀泣悲啼之聲。若其集動其心亦動。聞其悲聲吹生異處。是故親族臨終悲哭。甚為障礙。若不妨礙生欝單越。中間次第有善相出。見青蓮華池。鵝鴨鴛鴦充滿池中。即走往趣入中游戲。欲入母胎。從華池出行於陸地。見於父母欲染和合。因於不淨。以顛倒見見其父身。乃是雄鵝。母為雌鵝。若男子生。自見其身作雄鵝身。若女人生。自見其身作雌鵝身。若男子生。於父生礙。於母生愛。若女人生。於父生愛。於母生礙。是名生欝單越第二中陰有也。

> 第二の中陰有について。閻浮提（人間界）の人が命終えて鬱単越（北俱盧洲）に生まれる場合、まず細やかで柔らかな赤い毛織物の美しい色を見ます。それに貪りの心を起こし、手を伸ばしてそれを掴もうとしますが、虚空を掴むように手を動かすだけです。親族はこれを両手で空を撫でる様子だと見ます。 また、風が吹いてきます。この病人が冬の寒さにある時は暖かい風が吹いて寒さを和らげ、夏の暑さにある時は涼しい風が吹いて暑さを除き、心に喜びを感じさせます。その心の状態により、悲しみの泣き声が聞こえなくなります。もし心が動かされ揺れ動くと、その悲しみの声に引かれて異なる場所に生まれてしまいます。それゆえ、親族が臨終に際して悲しみ哭くことは、大きな妨げとなるのです。 妨げられることなく鬱単越に生まれる場合、順を追って良い相が現れます。青い蓮華の池が見え、鵝や鴨、鴛鴦が池の中に満ちています。それを見て走り寄り、池に入って遊戯します。そして母胎に入ろうとして、蓮華の池から出て陸地に至り、父母が交合しているのを目にします。そこには不浄がありますが、倒錯した見方によって、父の身を雄の鵝と見、母を雌の鵝と見ます。 男子として生まれる場合は、自らの身を雄鵝の身と見なし、父に障礙を感じ母に愛着を抱きます。女子として生まれる場合は、自らの身を雌鵝の身と見なし、父に愛着を感じ母に障礙を抱きます。これを鬱単越に生まれる第二の中陰有と説きます。

第三中陰有者。若閻浮提中死生瞿耶尼。則有相現。若臨終時。見有屋宅盡作黃色。猶如金色。遍覆如雲。見虛空中有黃㲲相。舉手攬之。親族兄弟說言。病人兩手攬空。是人爾時壽命將盡。見身如牛。見諸牛群如夢所見。若男子受生。見其父母和合而行不淨。自見人身多有宅舍。見其父相猶如特牛。除去其父與母和合。若女人生。自見其身猶如乳牛。作如是念。何故特牛與彼和合不與我對。如是念已受女人身。是名生瞿耶尼第三中陰有也。

> 第三の中陰有について。閻浮提で死んで瞿耶尼に生まれる場合、その兆候が現れる。臨終の時、家々がすべて黄色く、金色のように輝き、雲のように広がって覆うのを見る。虚空の中に黄色い布（綿）の形を見て、手を挙げてそれをつかもうとする。親族や兄弟が「病人が両手で虚空を掴んでいる」と言う。その人はまもなく寿命が尽きようとして、自分の体が牛のように見え、多くの牛の群れを夢の中で見るかのように見る。 もし男として生まれるなら、父母が交合して不浄を行うのを見る。自分の体には多くの家屋があるように見え、父の姿が雄牛のように見える。父を除いて母と交合する。 もし女として生まれるなら、自分の体が乳牛のように見える。そして「なぜ雄牛は彼女と交合して、私とは交合しないのか」と考える。このように思って女の身を受ける。これを瞿耶尼に生まれる第三の中陰有という。

第四中陰有者。若閻浮提人命終。生於弗婆提界則有相現。見青㲲相。一切皆青。遍覆虛空。見其屋宅悉如虛空。恐青㲲墮。以手遮之。親族說言遮空命終。見中陰猶如馬形。自見其父。猶如䭸馬。母如騲馬。父母交會愛染和合。若男子生。作如是念。我當與此騲馬和合。若女人生。自見己身如騲馬形。作如是念。如是䭸馬何故不與我合。作是念已即受女身。是名生弗婆提第四中陰有也。

> 第四の中陰有について。閻浮提（人間世界）で命を終えた者が、弗婆提（東勝神洲）に生まれる場合、次のような相が現れます。青い絹の布のようなものが現れ、すべてが青く、虚空を覆い尽くします。自分の家屋が虚空のように見え、その青い布が落ちてくるのを恐れて手で遮ります。親族は「空を遮っている」と言い、このような状態で命終します。 この中陰は馬の形をしています。自分の父を雄馬のように、母を雌馬のように見ます。父母が交合し、愛欲が結びつくとき、もし男子として生まれるのであれば、「私はこの雌馬と交わろう」と考えます。もし女子として生まれるのであれば、自分の身体が雌馬の形であると見て、「この雄馬はなぜ私と交わらないのか」と考えます。こう考えた瞬間に女身を受け取ります。これが弗婆提に生まれる第四の中陰有と呼ばれるものです。

第五中陰有者。若欝單越人臨命終時。見上行相。若大業心自在生天。以手攬空如夢中所見。好華上妙之香。第一妙色香氣在手。見華生貪。今見此樹我當升之。作是念已即上大樹。乃是升於須彌。見天世界華果莊嚴。我當游行。是名欝單越人下品受生第五中陰有也。

> 第五の中陰有について。もし欝単越（うたんえつ）の人が命終わろうとする時、上に向かう様相を見る。もし大きな業によって心が自在に天に生まれようとするならば、手で虚空をかき集める。それは夢の中で見るような、美しい花や素晴らしい香りである。第一の妙なる色と香りが手にあるのを見て、花に執着を生じる。今この木を見て、私はこれに登ろうと考える。そう思って大きな木に登るのだが、それは須弥山に登ることになる。天の世界には花や果実が荘厳してあるのを見て、「私はそこで遊び歩こう」と思う。これを欝単越の人の下品の受生における第五の中陰有という。

第六中陰有者。若欝單越人。以中業故。臨命終時。欲生天上。則有相現。見蓮華池甚可愛樂。眾蜂莊嚴一切皆香。升此蓮華須臾乘空而飛。猶如夢中。生於天上。作如是念。我今當至勝蓮華池。是名欝單越人中品受生第六中陰有也。

> 第六の中陰の在り方について。もし欝単越（北倶廬洲）の人が、中くらいの業によって命終わろうとするとき、天に生まれようとして、その兆しが現れる。美しく楽しい蓮華の池を目にし、多くの蜂が飾り、すべてが香りに満ちている。この蓮華に登ると、しばらくして空中に舞い上がり、夢の中にいるかのように天に生まれる。こう思う——「今、私は見事な蓮華の池に至るのだ」と。これを、欝単越の人の中品の受生による第六の中陰の在り方という。

第七中陰有者。欝單越人。以業勝故生三十三天善法堂等。臨命終時見勝妙堂莊嚴殊妙。其人爾時即升勝堂。生此殿中。以為天子。是名欝單越人生於天上受上品生第七中陰有也。

> 第七の中間状態（中有）の者について。鬱単越の人は、その業が勝れているゆえに三十三天（とりいてん）の善法堂などに生まれる。臨終の時、見事な殿堂が荘厳で殊妙であるのを見る。その人はその時にその勝れた堂に昇り、この殿の中に生まれて天子となる。これを鬱単越の人が天上に生まれて上品の生を受ける第七の中間状態（中有）という。

第八中陰有者。若欝單越人臨命終時。則有相現。見於園林游戲之處。香潔可愛。聞之悅樂。不多苦惱。其心不濁。以清淨心即升宮殿。見諸天眾游空而行。猶如夢中。三十三天勝妙可愛。一切五欲皆悉具足。從欝單越死生此天中。是名欝單越人生此天處熏習游戲乃死時相第八中陰有也。

> 第八の中陰有（中有）について。もし欝単越（ウッタラクル）の人々が命終わろうとする時、次のような相が現れます。すなわち、林や園で遊び楽しむ場所を見ます。それは香り高く清らかで愛らしく、耳にすれば楽しく、それほどの苦しみはありません。その心は濁らず、清らかな心を持ってすぐに宮殿に昇ります。天の衆が虚空を遊行するのを見ます。あたかも夢のようです。三十三天（トリヤストリムシャ）は素晴らしく愛らしく、あらゆる五欲がすべて十分に備わっています。欝単越から死んで、この天に生まれます。これを「欝単越の人がこの天処に生まれるために、遊戯の熏習によって死ぬ時の相、第八の中陰有」と名付けます。

第九中陰有者。若瞿耶尼人命終生天有二種業。何等為二。一者餘業。二者生業。生於天上。其人臨命終時則有相現。以善業故。垂捨命時。氣不咽濁。脈不斷壞。諸根清淨。見大池水。其水調適。洋洋而流。浮至彼岸。既至彼岸。見諸天女。第一端正。種種莊嚴。戲笑歌舞。其人見已。欲心親近。前抱女人。即時生天。受天快樂如夢。中陰即滅。是名第九中陰有也瞿耶尼人生有三品。上中下業同一光明等。一中陰。一切相似不同欝單越人三種受生差別相也。

> 第九の中陰有について。もしも瞿耶尼人の命終えて天に生まれる場合、二種類の業がある。それらとは何か。第一は余業、第二は生業である。天に生まれる時、その人が臨終の際には相が現れる。善業によって、命を終えようとする時、気は濁らずに滞ることなく、脈は途切れずに健全であり、諸根は清らかである。大きな池の水を見る。その水は程よく温かく、ゆったりと流れており、彼岸まで浮かんで行く。彼岸に至ると、諸天女を見る。彼女たちは第一に端正で、種々の荘厳を施し、戯れ笑い歌い舞っている。それを見た人は、欲心を起こして親しもうとし、女人に抱きつく。その時に即座に天に生まれ、天の楽しみを受ける。夢のようであり、中陰は滅する。これを第九の中陰有という。 <note>瞿耶尼人には三つの品がある。上中下の業は同じ一つの光明などを有する。一中陰において一切は相似であり、鬱単越人の三種の受生の差別相とは異なる。</note>

第十中陰有者。若弗婆提人臨命終時。見於死相。見於自業。或見他業。或見殿堂殊勝莊嚴。心生歡喜。欲近受生。於殿堂外見眾婇女。與諸丈夫歌頌娛樂。於中陰有作如是念。欲得同戲。即入戲眾。猶如睡覺。即生天上。是名第十中陰有也。

> 第十の中陰有について：もし弗婆提の人が命終わろうとする時、死の相を見、自らの業や他者の業を見る。あるいは殿堂の荘厳で素晴らしい様子を見て、心に喜びが生じ、近づいて生まれ変わりたいと願う。殿堂の外では多くの女性たちが男性たちと歌い奏で楽しんでいるのを目にする。中陰有において「共に遊びたい」と願い、その遊びの集いに加わる。すると、まるで眠りから覚めたように、天界に生まれる。これを第十の中陰有という。

第十一中陰有者。諸餓鬼等惡業既盡受餘善業。本於餘道所作善業。猶如父母。欲生天中則有相現。若餓鬼中死欲生天上。於餓鬼中飢渴燒身。常貪飲食。常念漿水。欲命終時不復起念。本念皆滅。一切惡業皆悉不近。雖見飲食唯以目視。如人夢中見。不食不飲。見天可愛即走往趣。至於彼處即生天上。是名第十一中陰有也。

> 第十一の中陰有について。飢えた亡者たちは、悪い行いを終え、残余の善い行いを受ける。元いた世界で積んだ善い行いが、あたかも父母のように働く。天の世界に生まれようとするとき、その兆しが現れる。飢えた亡者の世界で死に、天に生まれようとする時、飢えや渇きに身体を焼かれ、常に食べ物や飲み物を切望していた者も、命終わろうとする時には、そのような思いは起こらなくなる。元の思いはすべて消え去り、一切の悪行は近づかなくなる。食べ物や飲み物を見かけても、ただ目で見るだけとなる。あたかも夢の中で見るように、食べも飲みもしない。天の愛らしい様子を見ると、すぐに走り寄り、その場所に至って天界に生まれる。これを第十一中陰有という。

第十二中陰有者。以愚癡故受畜生身。無量種類。受百千億生死之身。墮於地獄餓鬼畜生。輪轉世間不可窮盡。以餘善業。畜生中死生二天處。或生四天王天。或生三十三天。於畜生惡道苦報欲盡。將得脫身則有相現。臨命終時見光明現。以餘善業癡心薄少。或見樂處即走往趣。如夢所見。走往趣之即生天上。是名第十二中陰有也。

> 第十二の中陰有について説明します。 愚かさによって畜生の身を受け、無数の種類の存在として、百千億もの生死の輪廻を繰り返します。地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ち、世の中を輪転して尽きることがありません。 しかし、わずかな善業の余力によって、畜生の世界で死んだ後に、二つの天上の世界に生まれることがあります。四天王天か、あるいは三十三天に生まれるのです。 畜生という悪道の苦しみの報いが終わりに近づき、そこから脱しようとする時、その兆候が現れます。臨終の時に光が現れるのを見ます。そして、善業の余力によって愚かさが薄らいでいるので、楽しい場所を見ると、そこへ向かって走っていくのです。まるで夢の中で見るかのように、その楽しい場所へ走り向かうと、天上に生まれます。 これが第十二の中陰有です。

第十三中陰有者。地獄眾生希有難得生於天上。餘善因緣如業成熟。是地獄人。以業盡故。將欲得脫。從此地獄臨命終時則有相現。命欲終時。若諸獄卒擲置鑊中。猶如水沫。滅已不生。若以棒打。隨打即死。不復更生。若置鐵函。置已即死。不復更生。若置灰河。入已消融。不復更生。若鐵棒打。隨打即死。滅已不生。若諸鐵鳥食已不生。若諸惡獸噉已不生。是地獄人惡業既盡。命終之後不復見於閻羅獄卒。如油炷盡則無燈業。地獄中陰有相不現。忽於虛空中見有第一歌舞戲笑。香風觸身受第一樂。欲近生有。或生三十三天。或生四天王天。是名第十三中陰有也。

> 第十三の中陰有について。地獄の衆生が天上に生まれることは極めて稀である。その他の善因縁が業として成熟すれば、この地獄の者は業が尽きて、まさに解脱しようとするところに、命終の際に様相が現れる。命終わらんとする時、もし獄卒が釜の中に投げ入れるなら、それは水の泡のように消えて生じず、もし棒で打たれれば、打たれたまま死に、再び生まれない。もし鉄の箱に入れられれば、入れられるや否や死に、再び生まれない。もし灰の河に入れられれば、入るや溶け去り、再び生まれない。もし鉄の棒で打たれれば、打たれたまま死に、消えて生じない。もし鉄の鳥に食べられれば、食べられた後に生じず、もし悪獣に噛まれれば、噛まれた後に生じない。この地獄の者は悪業が尽き、命終の後には閻魔の獄卒をもはや見ない。油の灯芯（しん）が尽きれば燈明の業がないように、地獄の中陰にはその相が現れない。忽ち虚空の中に第一の歌舞や笑い戯れを見て、香風が身に触れ、第一の楽を受ける。近くに生有を求めて、あるいは三十三天に生まれ、あるいは四天王天に生まれる。これを第十三の中陰有と名づける。

第十四中陰有者。若人中死還生人中則有相現。於臨終時見如是相。見大石山。猶如影相在其身上。爾時其人作如是念。此山或當墮我身上。是故動手欲遮此山。親里見之謂為觸於虛空。既見此已又見此山。猶如白㲲。即升此㲲乃見赤㲲。次第臨終復見光明。見其父母愛欲和合而起顛倒。若男子生。自見其身與母交會。謂父妨礙。若女人生。自見其身與父交會。謂母妨礙。當於爾時。中陰即壞。生陰次起。如印所印。印壞文成。是名人中命終還生人中第十四中陰有也。

> 第十四の中陰の有について。もし人が人間の世界で死んで、再び人間の世界に生まれるならば、そのような相が現れる。臨終の時に、このような相を見る。巨大な石の山が、あたかも影のように自分の上にのしかかるのを見る。その時、その人はこう思う「この山が私の体の上に落ちてくるかもしれない」と。それで手を動かしてこの山を防ごうとする。親族はそれを見て、虚空を掴んでいるように見える。これを見た後、さらにこの山が白い布のように見える。その白い布に登ると、赤い布が見える。次第に臨終に際して、再び光明を見る。そして父母が愛欲の交わりをしているのを見て、逆転した妄想を起こす。もし男として生まれるなら、自分の体が母と交わっているのを見て、父が邪魔をしていると考える。もし女として生まれるなら、自分の体が父と交わっているのを見て、母が邪魔をしていると考える。その時、中陰は即座に壊れ、生の陰が次に生じる。あたかも印で押されたように、印が壊れると同時に文字が現れる。これが人間で命終わり、再び人間に生まれる第十四の中陰の有である。

第十五中陰有者。天中命終還生天上則無苦惱。如餘天子。命終之時。愛別離苦墮於地獄餓鬼畜生。如此天子不失己身莊嚴之具。亦無餘天坐其本處生於勝天。若四天處命終之後生三十三天。可愛勝相是名第十五中陰有相續道也。

> 第十五の中陰有について。天界で命を終え、再び天界に生まれる場合には、苦しみや悩みはありません。ほかの天子たちのように、命終の時に愛する者と別れる苦しみを味わって地獄・餓鬼・畜生に堕ちることはありません。このような天子は、自らの身を飾る道具を失うこともなく、また他の天がその本来の場所に座ることもありません。より勝れた天に生まれるのです。例えば、四天王天で命終した後、三十三天に生まれるような場合です。愛しく勝れた相が現れること、これを第十五の中陰有の相続の道といいます。

第十六中陰有道相續者。若從上天終還生下天。見眾蓮華園林流池。皆亦不如。既見此色飢渴苦惱。渴仰欲得。即往彼生。如是雖同生天。二種陰有。二種相生。是名第十六中陰有相續道也。

第十七中陰有道相續者。若弗婆提人生瞿陀尼。有何等相。瞿陀尼人生弗婆提。復有何相。如是二天下人。彼此互生。皆以一相。臨命終時見黑闇窟。於此窟中有赤電光。下垂如幡。或赤或白。其人見之以手攬捉。現陰即滅。以手接幡。次第緣幡。入此窟中。受中陰身。近於生陰。見受生法亦如前說。或見二牛。或見二馬。愛染交會即生欲心。既生欲心即受生陰。是名第十七中陰有也。