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title: "法苑珠林 · 魏崔皓"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
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宋文帝元嘉二十三年丙戌。是北魏太平真君七年。太武皇帝信任崔皓邪佞諂諛。崇重寇謙號為天師。殘害釋種毀破浮圖。廢棄淫祀。時諸臣僉曰。如康僧感瑞太皇創寺。若也除毀恐貽後悔。又於後宮內掘地得一金像。皓乃穢之。陰處尤痛噭聲難忍。太史卜曰。由犯大神故。於是廣祈名山多賽祀廟。而屏苦尤重內痛彌甚。有信宮人屢設諫曰。陛下所痛由犯釋像。請祈佛者容可止苦。皓曰。佛為大神耶。試可求之。一請便愈。欣慶易心。乃以車馬迎康僧會法師。請求洗懺從受五戒。深加敬重也。太武皇帝方知寇謙陰用邪誤。乃加重罰。以置四郊。埋身出口。令四衢行人皆用口廁。以盡形命。徒黨之流並皆斬決。至庚寅年。大武遭疾。方始感寤。兼有曇始白足禪師。來相啟發。生愧悔心。即誅崔皓。到壬辰歲太武帝崩。孫文成立。即起浮圖。毀經七年還興三寶。至和平三年。昭玄統沙門釋曇曜。慨前凌廢欣今再興。故於此臺石室寺。集諸僧眾譯經傳流。通後賢之徒使法藏住持。千載不墜。准此掘地獲像。明知秦周已有佛教驗矣。

> 宋の文帝元嘉二十三年（丙戌）、北魏の太平真君七年にあたる。太武皇帝は、崔皓という奸邪でへつらいに長けた者を信任し、寇謙という者を「天師」と尊び重んじた。そのため、仏教の僧侶を迫害し、仏塔を破壊し、あらゆる異教の祭祀を廃止した。 当時、大臣たちは口を揃えて言った。「康僧が瑞兆を現し、太皇が寺院を建立したように、もし仏教を廃し破壊しては、後悔することになりましょう」と。また、後宮の庭を掘ったところ、黄金の仏像が出土した。 崔皓はその仏像を汚した。すると、彼の陰部がひどく痛み、耐え難い悲鳴を上げるようになった。太史が占って言った。「これは大神に触れたことによる罰です」そこで、広く名山に祈り、多くの祠や廟で祀りを行ったが、苦しみはますます激しくなり、内なる痛みは一層ひどくなった。 信仰心のあったある宮人が幾度も諫めて言った。「陛下の痛みは、仏像を汚したことが原因です。どうか仏に祈ってください。そうすれば苦しみも止みましょう」と。 崔皓は「仏は大神なのか？」と問い、試しに祈ってみると、たちまち治った。彼は喜び、心を改め、馬車を遣わして康僧会法師を招き、懺悔を求め、五つの戒めを受け、深く仏法を敬うようになった。 太武皇帝は、初めて寇謙がこっそりと邪悪な誤りを導いていることを知り、厳しい罰を科した。彼を四つの郊外に置き、地面に埋め、口だけを出させた。そして、四つ辻を行き交う人々に、その口を便所として使わせ、彼の一生の間続けさせた。その仲間たちは皆、斬首された。 庚寅年（450年）になり、太武帝は病に倒れた。そこでようやく悟りを得た。そこへ白足禅師・曇始が訪れ、教えを説いた。皇帝は恥じ悔いる心を起こし、すぐに崔皓を誅殺した。 壬辰年（452年）、太武帝は崩御し、孫の文成帝が即位した。文成帝はただちに仏塔を建立した。仏教が破壊されて七年後、再び三宝が興隆したのである。 和平三年（462年）、昭玄統の沙門・曇曜僧は、かつての仏法の衰退を憤り、今日の再興を喜んだ。そこで、この台（石窟寺）に僧侶たちを集め、経典を翻訳し広め、後の賢者たちに伝え、仏法の宝が永久に続くようにした。そして、千年の時が流れても絶えることがないようにした。 このように、地面を掘って仏像を得たという事実によって、秦や周の時代からすでに仏教が存在していたことが明らかである。