---
title: "法苑珠林 · 4 受生部"
description: "法苑珠林由唐代高僧道世编纂，成书于唐高宗总章元年（668年），是佛教重要的类书典籍。全书共一百卷，系统分类整理了佛教经律论三藏中的典故、名相、教义及因果故事，内容涵盖佛教宇宙观、修行方法、戒律仪轨等，被誉为佛教百科全书。道世以严谨的学术态度广引经典，保存了大量唐代以前的佛教文献，具有极高的史料价值。该书不仅对唐代佛教研究影响深远，更为后世学者提供了系统研究佛教教义的重要依据，在中国佛教文献史上占据重要地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcy5b2dn09yvl404fbx6miyl"
---

### 受生部第四

> 第四部 受生の章

夫生則八識持。死則四大離散。迅矣百齡終歸磨滅。循環三界運轉靡停。故經曰。有始必終。既生則滅。聖教不虛自覩交臂。所以於此緣中略述六門。

> 生者は、八つの識によって保たれています。 死に臨めば、体をつくる四つの要素は離れ散り、ああ、百年の命もついには滅び去ってしまいます。 三つの世界を巡りながら、その動きは止まることを知りません。 それゆえ経典には「始まりあるものは必ず終わりがあり、生まれたものは必ず滅びる」と説かれています。 聖なる教えは虚偽ではなく、その真理を目の当たりにすることができるのです。 そこで、この因縁に基づき、ここに六つの要点を簡潔に述べることにします。

第一門中臨命終時。檢身冷熱。驗其善惡。具知來報。故瑜伽論云。此有情者。非色非心。假為命者。大小皆同死通漸頓。諸師相傳。造善之人從下冷觸至臍已上。煖氣後盡。即生人中。若至頭面熱氣後盡。即生天道。若造惡者與此相違。從上至腰熱後盡者。生於鬼趣。從腰至膝熱氣盡者。生於畜生。從膝已下乃至脚盡者。生地獄中。無學之人入涅槃者。或在心煖。或在頂也。然瑜伽論云。羯羅藍義最初託處。即名肉心。如是識於此處最初託。即從此處最後捨。釋云。依瑜伽論由造善生上。故從下漸捨至肉心。後方說上捨。由造惡生下故先從上捨至肉心。後方從下捨也。

> 第一に、臨終の際には、身体の冷たさや熱さを調べることで、その人の善悪が明らかになり、来世の報いが具体的に分かります。そこで『瑜伽論』にはこう説かれています。「この有情は、色でも心でもなく、仮に命と名づけられたものである。大小の生き物はすべて死を迎えるが、その死は一瞬に訪れる場合もあれば、徐々に訪れる場合もある。諸師の伝承によれば、善を積んだ者は、下の方から冷たくなり、臍のあたりまで冷えが及んだ後、温かさが最後に残る。これにより人間に生まれ変わる。もし頭や顔が熱くなった後に冷えるなら、天道に生まれる。悪を積んだ者はこれとは逆で、上から腰まで熱が残った後、冷えるなら鬼道に生まれ、腰から膝まで熱が残るなら畜生道に生まれ、膝から下、足先まで熱が残るなら地獄に生まれる。悟りを開き煩悩を断ち切った者は、涅槃に入る際に、心臓のあたりか頭頂に温かさが残るという。」 しかし『瑜伽論』にはこうも説かれています。「羯羅藍（父精母血の最初の結びつき）の意味は、最初に識が宿るところであり、それを肉心と名づける。このように識は最初にここに宿り、最後にもここから去るのである。」これについて解釈すれば、『瑜伽論』によれば、善を積んで上（天道など）に生まれる者は、下から徐々に冷えが肉心に至った後、上から冷えると言われる。悪を積んで下（地獄など）に生まれる者は、先に上から冷えが肉心に至った後、下から冷えるのである。

俱舍論云。若人正死。於何身分中意識斷滅。若一時身死根共意識一時俱滅。若人次第死。此中偈曰。

> 「倶舎論」にこう説かれている。人がまさに死のうとする時、意識は身体のどの部分で断滅するのか。もし全身が同時に死ぬなら、感覚器官と意識は同時に消滅する。もし人が順を追って死ぬなら、この場合、次の偈に示される。

次第死脚齊 於心意識斷下人天不生

> 徐々に死に至り、その足はひとしく、心・意・識が断たれる。 下の人間や天道に生まれることはない。

論中釋曰。若人必往惡道受生及人道。如此等人。次第於阿羅漢。此人於心意識斷絕。有餘部說於頭上。何以故。身根於此等處與意識俱滅故。若人正死。此身根如熱。石水漸漸縮滅。於脚等處次第而滅。釋云。俱舍論述小乘義。故云身於此等處與意識俱滅。若依大乘。身根於此等處與本識俱滅也。

> 論の中でこう説明されています。 もし人が必ず悪道や人道に生まれ変わるのであれば、その人は順に阿羅漢に至るまで、心・意・識が断絶します。 ある部派の説によれば、それは頭の部分で起こるとされます。 なぜなら、その場所で身根が意識と共に消滅するからです。 人がまさに死にかける時、この身根は熱せられた石の上の水のように、次第に縮みながら、足などの部分から順に消えていきます。 解説： 『倶舎論』では小乗の教義を述べているため、「身根がこれらの場所で意識と共に消滅する」とされています。 大乗の教えに従えば、身根はこれらの場所で根本識（阿頼耶識）と共に消滅します。

第二受生方法者。依俱舍論云。為行至。應生道處故。起此中陰眾生。由宿業勢力所生眼根。雖住最遠處。能見應生處。於中見父母變異事。若變成男。於母即起男人欲心。若變成女。於父即起女人欲心。倒此心起瞋。此中有眾生。由二起顛倒心故。求欲戲往至生處。是即樂得屬已。是時不淨已至胎處。即生歡喜。仍託彼生。從此剎那是眾生五陰和合堅實。中有五陰。即滅如此方說受生。若胎是男依母左脇。面向母背蹲坐。若胎是女。依母右脇向母腹而住。若胎非男非女。隨欲類託生。住亦如此。無有中有異於男女皆具根故。是故或男或女。託生而住。後時在胎中增長。或作黃門。若託胎卵二生。道理如此。若眾生欲受濕生愛樂香故至生處。此香或淨。或不淨。隨宿業故。若是化生愛樂處所故至生處。若爾地獄眾生。云何生樂處所。由心顛倒故。此眾生見寒風冷雨觸惱身。見地獄火猛熾盛可愛。欲得暖觸故往入彼。復見身為熱風光及火焰等所炙。苦痛難忍。見寒地獄清涼愛樂冷觸故往入彼。胎卵二生於父母變異事生愛。濕化二生不由託赤白為身故無此變。濕生但愛著香故。至所生處。隨業善惡。所愛之香自有淨穢。化生但愛所依之處。地獄雖是苦處。然罪人樂亦得愛處。於中受生。何以故。非愛不受生故。論云。如往昔造作能感如此生。樂見身是如此位。見彼眾生亦爾。是故往彼。先舊諸師作如此說。若眾生年三十時。行殺生業網捕眾生。行此事時必有伴類。此業能感地獄生。後於中陰中。見自身如昔年三十行網捕時故言位。又見昔伴與昔不差。見地獄時。如昔見江湖諸伴類等相牽共入其中。緣此起變即於中受生後解昔所造業雖多。必以一業牽地獄生。或於年二十時作此業。或三十時作此業。後於中陰中見自身。如昔作業時少老。見地獄眾生。並如己年時。年時既相似。於此眾生起變。即往就彼。由此愛故受生。依經部師作如此釋。

> 第二の受生の方法について。『倶舎論』によれば、次のように説かれている。行動して、生まれるべき場所に到達するため、この中有の衆生が生じる。過去の業の力によって生じた眼根は、最も遠くにいても、生まれるべき場所を見ることができる。そして、その場所で父母が交合する様子を見る。もし父が男の姿に変われば、母に対して男の欲心を起こす。もし母が女の姿に変われば、父に対して女の欲心を起こす。この心とは逆に、瞋りの心も起こる。この中有の衆生は、この二つの顚倒した心によって、欲楽を求めて戯れ遊び、生まれる場所へと赴く。すなわち、自分自身のものとなることを喜ぶのである。その時、不浄がすでに胎に至れば、すぐに歓喜を生じ、それに依り託って生まれる。この刹那から、衆生の五陰が和合して堅固となる。中有の五陰は、その時、すぐに滅する。このようにして受生が説かれる。もし胎児が男であれば、母の左脇に依り、母の背中に向かって蹲踞する。もし胎児が女であれば、母の右脇に依り、母の腹に向かって留まる。もし胎児が男女いずれでもなければ、欲する種類に従って託生し、その住まい方もこれと同じである。中有が男女と異なることはない。いずれも諸根を具えているからである。ゆえに、あるいは男、あるいは女として託生し、留まるのである。後に胎内で成長し、あるいは黄門となることもある。 もし胎生・卵生であれば、道理はこのようである。もし衆生が湿生を受ける場合、香りを愛好するがゆえに、生まれる場所に至る。この香りは清浄であったり、不浄であったりする。過去の業によるのである。もし化生である場合、場所を愛好するがゆえに、生まれる場所に至る。もしそうであれば、地獄の衆生は、どうして楽しい場所を好むのであろうか。心の顚倒によるのである。この衆生は、寒風や冷たい雨が身を悩ますのを見て、地獄の激しく燃え盛る火が愛らしく感じられ、暖かい触れ合いを求めて、そこへ入る。また、身が熱風や光、炎などに炙られ、苦痛で耐え難いのを見て、寒地獄の清涼さを愛好し、冷たい触れ合いを求めて、そこへ入る。 胎生・卵生は、父母の交合の様子に愛着を生じる。湿生・化生は、赤白に託って身となるのではないから、このような交合の様子はない。湿生はただ香りに執着するのみで、生まれる場所に至る。業の善悪に従って、愛する香りに自ずから清浄・不浄がある。化生はただ依り所となる場所を愛するのみである。地獄は苦しい場所ではあるが、罪人もまた楽しい場所として愛するのであり、その中に受生する。なぜか。愛さなければ受生しないからである。論にいう。例えば、過去に造作した業が、このような生を感得させる。自らの身がこのような姿であるのを喜んで見、また、他の衆生もそのように見る。ゆえに、そこへ赴くのである。 先の古い諸師は、このように説く。もし衆生が三十歳の時に、殺生の業を行い、網で魚や鳥を捕らえる。この行為をする時には、必ず仲間がいる。この業は地獄に生まれる原因となる。後に中有の中で、自らの身がかつて三十歳で網捕をしていた時と同じであるのを見る。ゆえに「位」という。また、昔の仲間を、昔と少しも違わずに見る。地獄を見る時、昔、江湖などで仲間たちが互いに手を引いて入っていったのを見るのと同じである。この因縁によって変異を起こし、すなわちその中に受生する。 後の解釈では、昔に造った業は多いけれども、必ず一つの業が地獄への生を牽き寄せる。あるいは二十歳の時にこの業を作り、あるいは三十歳の時にこの業を作る。後に中有の中で、自らの身を、昔、業を作った時の若さや老いのように見る。地獄の衆生を見る時も、すべて自分の年齢と同じである。年齢がすでに似ているので、この衆生に対して変異を起こし、すなわちそのもとへ赴く。この愛着によって受生するのである。経量部の師はこのように解釈する。

又瑜伽論云。若居薄福者。當生下賤家。彼於死時及入胎時。便聞種種紛亂之聲。及自妄見入於叢林竹𥯤蘆荻等中。若多福者。當生尊貴家。彼於爾時便自聞有寂靜美妙可意音聲。及自妄見昇宮殿等可意相現。

> また『瑜伽論』にはこう説かれています。 「福徳の少ない者は、貧しい家に生まれる。その場合、死ぬ時や胎内に入る時に、様々な騒がしい音を聞き、また自分が竹や葦（あし）の茂みの中に入るという幻覚を見る。 一方、福徳の多い者は、高貴な家に生まれる。その時には、静かで美しく心にかなった音声を聞き、また自分が宮殿などに昇るという好ましい幻影が現れる。」

又俱舍論云。若人臨終起邪見心。是人以先不善為因邪見為緣故墮地獄。有論師言。一切不善皆是地獄因。此不善之餘生畜生餓鬼中。又法業盛故墮畜生中。如婬慾盛故生於鴿雀鴛鴦之中。瞋恚盛故生於蚖蝮蛇蠍中。愚癡盛故生猪羊蚌蛤中。憍慢盛故生於師子虎狼中。掉戲盛故生獼猴中。慳嫉盛故生餓狗中。若有少分施善餘福。雖生畜生於中微樂。身口二業雖由心為主。然其口業受報者多。如罵人輕躁喻如獼猴即生猴中。若言貪悷如烏。語如狗吠。騃如猪羊。聲如驢鳴。行如𩥟駝。自高如象。惡如逸牛。婬如鳥雀。怯如猫狸。諂如野狐。如是諸惡隨口受報。然由三毒為本。三毒之中貪愛為重。如捉布一頭餘則盡隨。故智度論云。若不斷愛愛則潤生。是故四生皆由愛起。如說多欲生鳥雀中。多貪味故。廁中受生。又愛欲故卵生。貪香味故受濕生。隨其所愛故。起慇重業則受化生。若慇重心樂行罪業。死時妄見地獄受其化生。若慇重愛福上界化生。故成論云。如樹根不拔其樹猶生。貪根不拔苦樹常在。

> 『倶舎論』にもこう説かれている。もし人が臨終の際に邪見の心を起こせば、その人は先に積んだ不善を因とし、邪見を縁として地獄に堕ちる。ある論師は言う、「あらゆる不善はすべて地獄の因である。しかし、その不善の余力によって、畜生や餓鬼の世界に生まれることもある」と。 また、ある行為や業が特に盛んであるために畜生に堕ちることもある。例えば、婬欲が盛んなれば鳩や雀、鴛鴦の中に生まれ、瞋恚が盛んなれば、まむしや蛇、蠍の中に生まれ、愚痴が盛んなれば、豚や羊、蛤の中に生まれ、驕慢が盛んなれば、獅子や虎、狼の中に生まれ、掉戯（ふざけ騒ぐこと）が盛んなれば、猿の中に生まれ、慳吝や嫉妬が盛んなれば、飢えた犬の中に生まれるのである。 たとえわずかでも施しの善や余福があれば、畜生に生まれても、その中でわずかな楽しみを受けることもある。 身と口の二つの業は、心を主として起こるものではあるが、特に口の業によって報いを受けることは多い。例えば、人を罵って「軽はずみで騒がしい、まるで猿のようだ」と言えば、その言葉のままに猿の中に生まれる。また、「貪り欲しがる様が烏のようだ」「言葉が犬の吠え声のようだ」「愚かで豚や羊のようだ」「声が驢馬の鳴き声のようだ」「歩き方が駱駝のようだ」「高慢で象のようだ」「悪逆で放れた牛のようだ」「婬らで鳥や雀のようだ」「臆病で猫や狸のようだ」「お世辞で狐のようだ」など、このような様々な悪口は、その言葉の通りに報いを受けるのである。 しかし、これらはすべて三毒（貪・瞋・癡）を根本として起こる。そして三毒の中でも、貪りの執着（愛）が最も重い。たとえば布の一端を掴めば残りがすべて付いてくるように、愛を根本とすれば他の煩悩も皆これに従う。 ゆえに『大智度論』にはこう説かれている。「もし愛を断ち切らなければ、愛は生命を潤し育てる。それゆえ、胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方は、すべて愛によって起こる」と。 例えば、多くの欲望がある者は鳥や雀の中に生まれる。味への貪りが強いゆえに、汚物の中に生を受けることもある。また、愛欲によって卵生となり、香味を貪るゆえに湿生となる。その愛するところに従って、深く重い業を起こせば化生となるのである。 もし深い心で罪業を行うことを好めば、死ぬ間際に虚妄に地獄を見て、そこに化生する。もし深く福徳を愛すれば、上界に化生する。 故に『成実論』にはこうある。「樹の根を抜かなければ、その樹はなお生き続ける。貪りの根を抜かなければ、苦しみの樹は常に存在する」と。

又瑜伽論云。云何生我愛無間已生故。無始樂著戲論。因已熏習故。淨不淨業因已熏習故。彼所依體。由二種因。增上力故。從種子。即於是處中有異熟無間得生。死時如稱兩頭低昂時等。而此中必具諸根造惡業者。所得中有如黑𦏌光。或陰暗夜作善業者。如白衣光。或晴明夜。俱舍論云。此中有具足五根。金剛等所不能礙。須彌山下金剛中有蝦蟇。於中受生。中有細色金剛。不能礙之。有天眼者。能見此事。重舉所聞事證。曾聞人說。燒鐵令熱。破之見蟲。

> 『瑜伽論』にはこう説かれています。「どうして『我』への愛着が生じるのか。それは、途切れることなく生じ続けるからである。無始の昔から、楽しいものへの執着や虚妄の分別に慣れ親しんできたからである。また、清らかな行いと清らかでない行いの原因に慣れ親しんできたからである。そのよりどころとなる存在は、この二つの原因の強い力によって、種子から、その場において、果報としての中陰が途切れることなく生じる。死ぬときは、ちょうど天秤の両端が高低するように、同時に起こる。そして、この中陰には必ず五根（五感）が備わっている。悪い行いをした者が得る中陰は、黒い羊毛の光のようなもの、あるいは暗い夜のようなものである。善い行いをした者のものは、白い衣の光のようなもの、あるいは晴れた夜のようなものである。」 『倶舎論』にはこう説かれています。「この中陰には五根が完全に備わっており、金剛杵などの硬いものでも妨げることができない。須弥山の麓にある金剛の中に、ヒキガエルがいて、そこで生を受けることがある。中陰は非常に微細な物質でできているため、金剛もそれを妨げることはできない。天眼を持つ者は、この様子を見ることができる。」 さらに、聞いた話として、この事実を裏付ける例が挙げられています。「鉄を熱して真っ赤に焼き、それを割ると、中から虫が見える、と人が言うのを聞いたことがある。」

第三壽量長短者。俱舍論云。若不定生處於餘處。此道中皆得受生。譬如牛於夏時欲事偏多。狗於秋時。熊於冬時。馬於春時。野干等欲事無時。是時此眾生應生牛中。若非夏時則生野干中。若應生狗中。非時則生野干中。

> 第三に、寿命の長さや短さについて。『倶舎論』にはこうある。「もし、決まった生まれ変わりの場所がない場合、その道の中であればどこでも生まれることができる。例えば、牛は夏に欲情が特に多く、犬は秋に、熊は冬に、馬は春に、野干（やかん）などは欲情に時季がない。そのため、この生き物が牛として生まれるべきところ、夏でなければ野干として生まれる。また、犬として生まれるべきところ、その時季でなければ野干として生まれる」。

又俱舍小乘師有四釋不同。一說極促時死已即受陰生。二說得住七日。七日滿已。處中有不限時節。三說得住四十九日生緣未具。死已更受。亦不限時節。四說隨受生緣。乃至經劫住不命終。第五依瑜伽論云。若未得生緣極七日住。死而復生。乃至七七日受死生。自此已後決得生緣。此與前四皆不同也。

> また、倶舎小乗の師には四つの異なる解釈があります。 第一の説：極めて短い時間で命終わると、すぐに次の生を受ける陰（中有）が生じる。 第二の説：七日間とどまることができる。七日が満ちると、中有は限りなく時を過ごす。 第三の説：四十九日間とどまることができるが、生を受ける縁が整わなければ、命終わって再び中有を受ける。これも時節に限りはない。 第四の説：生を受ける縁に従って、劫を経ても命終わることがない。 第五に、瑜伽論によれば、「もし生を受ける縁を得ていなければ、最長で七日間とどまり、命終わってまた生じる。そして七七日（四十九日）に至るまで死と生を繰り返す。その後は必ず生を受ける縁が定まる」と説く。これは前述の四つの説とも異なるのである。

第四通力遲速者。俱舍論云。此中陰游空而去。如人捨命應至無量世界外受生。俄頃即到。二乘通力未出一世界。中陰已至無量世界外。縱佛神力亦不能遮令不往生得住餘道。以業力定故。論業通勝者。據勝凡夫一乘神通。婆沙論云。神足勝者。據佛神通速也。

> 第四に、神通力の速さについて。『倶舎論』にはこうあります。「この中有（ちゅうう）は虚空を遊ぶようにして去っていく。人が命を終えると、無量の世界の外で生まれ変わるべきところがあれば、たちまちのうちにそこへ到達する。二乗（声聞・縁覚）の神通力は、まだ一つの世界を出ることもできないのに、中有はすでに無量の世界の外に至っている。たとえ仏の神通力をもってしても、その者が他の生存状態（道）に生まれ変わるのを妨げることはできない。それは業の力が定まっているからである。」なお、業による神通力が優れているというのは、凡夫や二乗の神通力と比べての話である。『婆沙論』にはこうあります。「神足（神通）に優れているというのは、仏の神通力が速いことを指す。」

第五互見不同者。依俱舍論云。若同生道中陰定互相見。若人有天眼最清淨是一道慧類。此人亦得見彼生。若報得天眼則不能見。以最細故。薩婆多部云。若同於人道中受生。同是人道中陰。互得相見。此義為定。不能見餘道中陰。若人修得天眼。此天眼則是道類。能見中陰色。若報得天眼則不能見中陰色。中陰色細餘色故。依正量部云。天道中陰備能見五道中陰色。人道中陰能見四道。除天道中陰。非其所能見。如是次第除前。乃至地獄道中陰。除前四道中陰。非其所見。唯見地獄道中陰。

> 第五に、互いに見えるかどうかの違いについて。『倶舎論』によれば、同じ道に生まれる場合、中有（ちゅうう）は必ず互いに見えるとされています。もし人が極めて清らかな天眼を有し、それは一つの道の智慧の類であるなら、その人もまたその中有を見ることができます。しかし、報得（ほうとく）の天眼では見ることができません。なぜなら、中有は最も微細だからです。 『薩婆多部』（せつあばたぶ）では、同じ人間の道で受生する場合、同じ人間道の中有どうしは互いに見えると説いています。これは定まった義です。しかし、他の道の中有は見ることができません。もし人が修行によって天眼を得たなら、この天眼は道の類であり、中有の色を見ることができます。報得の天眼では中有の色を見ることはできません。中有の色は他の色より微細だからです。 『正量部』（しょうりょうぶ）によれば、天道の中有は五道すべての中有の色を見ることができます。人道の中有は天道の中有を除いた四道の色を見ることができます。天道の中有はその見える範囲ではありません。このように順次に前を除いていき、地獄道の中有に至っては、前の四道の中有は見ることができず、ただ地獄道の中有のみを見ることができます。

第六身量大小者。俱舍論云。身量如六七歲小兒。而識解聰利。若菩薩在中陰。如圓滿少病人。具大小相。是故雖在中陰。正欲入胎。而能遍照萬俱胝剡浮洲。

> 第六に、その身体の大きさについて。『倶舎論』にはこうある。「身体の大きさは、六、七歳の幼児ほどである。しかし、その認識力や理解力は聡明で鋭い。もし菩薩が中有（ちゅうう）にある時は、ちょうど病気が治ったばかりの若者のように、完全な容貌を備えている。それゆえ、たとえ中有にあって、まさに胎内に入ろうとする時であっても、一万億の閻浮提（えんぶだい）をくまなく照らすことができるのである。」

頌曰。

> 偈に曰く。

高堂信逆旅 壞業理常牽玉匣方委觀 金臺不復延挽聲隨遙遠 蘿影帶松懸詎能留十念 唯應逐四緣幻工作同異 變弄作多身愚俗諍人我 誰復非謂真謬者疑久固 達者知幻賓親疎既無定 何勞悲蒼旻

> 高き殿も仮の宿と知れ 壊れる業（わざ）は常に身を縛る 玉の箱はさながら見渡せど 黄金の台はもはや延びず 挽歌の声は遥か遠く 蔦の影は松に懸かる 十念を留めること能わず ただ四縁に従うのみ 幻師（げんし）は同じものにて異を作り 変化して多くの身を現す 愚かなる世の人、我と人とを争う 誰がさらに、あれを真実と言おうか 誤れる者は久しく固きに疑い 達せる者は幻が主賓（しゅひん）と知る 親しきも疎（うと）きも定めなきものを 何ぞわざわざ天（あめ）を悲しもう