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title: "嘉泰普燈錄 · 東京慧林圓照宗本禪師"
description: "嘉泰普灯录由南宋高僧正受编撰于嘉泰年间，是继五灯会元后重要的禅宗灯录体史书。全书三十卷，收录历代禅师机缘语录、行实传记及偈颂，涵盖临济、云门等宗派，以普照禅法、嘉惠学人为宗旨。它系统传承了禅宗法脉与思想，是研究宋代禅宗历史与思想的重要文献，在佛教史上具有承前启后的地位，与五灯会元并称为禅宗灯录双璧。"
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### 東京慧林圓照宗本禪師

> 東京慧林円照宗本禅師

常之無錫人也。族管氏。體皃厖碩。所事淳厚。年十九。往姑蘇承天。依永安道昇禪師。報舂炊不自疲厭。遇昇入室。隨眾諮參。昇曰。道者竭力如此。有少勞乎。師曰。若捨一法。不名滿足。菩提寔欲此生身證。何勞之有。昇陰奇之。越十年。剃染受具。又巾侍三載。請辭遊方。至池陽。謁天衣於景德。衣舉。天親從彌勒內宮而下。無著問云。人間四百年。彼天為一晝夜。彌勒於一時中成就五百億天子證無生法忍。未審說甚麼法。天親云。只是說這箇法。如何是這箇法。久而開悟。一日。室中問師。即心即佛時如何。云。殺人放火有甚麼難。於是名播寰宇。漕使李公復圭命師開法瑞光。法席日盛。武林守陳公襄以承天．興教二剎。命師擇居。蘇人擁道遮留。又以淨慈堅請。移文諭道俗曰。借師三年。為此󳬛植福。不敢久占。道俗始從。元豐五年。　神宗皇帝下詔。闢相國寺六十四院為八。禪二律。驛　召師為慧林第一祖。既至。　上遣使問勞。閱三日。傳　宣就寺之三門為士民演法。翌日。　召對　延和殿。　賜坐。師即盤足加趺。擬仆。　上亟令近臣益以錦座二隻事見師行實及無為居士楊傑真贊。　神宗登遐。　命入福寧殿說法。以老乞歸林下。得　旨任便雲遊。州郡不得抑令住持。擊鼓辭眾。說偈曰。本是無家客。那堪任意遊。順風加櫓棹。船子下楊州。既出都城。王公貴人送者。車騎相屬。師臨別誨之曰。歲月不可把玩。老病不與人期。唯勤修勿怠。是真相為。聞者莫不感涕。晚居靈岩。其嗣法傳道者百餘人。　上堂曰。洪音一剖。震動乾坤。法令施行。萬機頓削。聖凡路絕。佛祖情忘。當此之時。東西不辨。南北不分。從教千古萬古黑漫漫。填溝塞壑無人會。卓拄杖。下座。　上堂。嶮峻無過雞足峰。行人到此路難通。唯恐祖師門下客。不移毫末到其中。參。　上堂。問也無妨。答亦無咎。何也。得之不為先。失之不為後。若達此宗。豈論空有。千聖從來也只寧。任他鳥兔爭頭走。成住壞空彈指間。得失是非唯一口。咄。　上堂。姑蘇臺畔不話春秋。衲僧面前豈論玄妙。只可著衣喫飯。翫水看山。夜見星。晝見日。兩手扶犂水過膝。靈山授記只如斯。歷劫何曾異今日。　上堂。於一毫端現寶王剎。坐微塵裏轉大法輪。拈起拄杖曰。這箇是塵。作麼生說箇轉法輪底道理。山僧今日不惜眉毛。與汝諸人說破。拈起也。海水騰波。須彌岌峇。放下也。四海晏清。乾坤肅靜。敢問諸人。且道拈起即是。放下即是。當斷不斷。兩重公案。擊禪床。下座。　上元日。僧問。千燈互照。𮈔竹交音。正恁麼時。佛法在甚麼處。曰。謝布施。云。莫便是和尚為人處也無。曰。大似不齋來。問。上是天。下是地。未審中間是甚麼物。曰。山河大地。云。恁麼則謝師答話。曰。大地山河。云。和尚何得瞞人。曰。却是老僧罪過。　問。如何是祖師西來意。曰。韓信臨朝。云。中下之流如何領會。曰。伏屍萬里。云。早知今日事。悔不忌當初。曰。三皇冢上草離離。　問。春風吹古樹。殘日下前山。如何是不遷義。曰。青山誰管你閑事。白日󱈎中自有人。　問。師唱誰家曲。宗風嗣阿誰。曰。調古神清風自高。貌悴骨剛人不顧。云。恁麼則薦福的子。雪竇親孫也。曰。想得未知落處。　問。如何是露地白牛。曰。放出無尋處。　問。適來消息從何而得。曰。合。　問。知師久蘊囊中寶。今日當場略借看。曰。何必如此。元符二年十二月二十八日。沐浴而臥。門弟子環列請偈。乞強起安坐。以化道俗。師熟眎曰。癡子。我尋常尚懶作偈。今日特地圖箇甚麼。尋常要臥便臥。不可今日特地坐也。索筆大書曰。後事付守榮。擲筆憨睡而逝。士庶獻最後供者。彌月還然。　敕全身塔於寺之上方。閱世八十。坐夏五十二。諡法空。塔曰瑞光續燈曰。坐亡。其異迹見僧寶傳。

> 常禅師は無錫の人で、俗姓は管氏。体つきは大きく立派で、人柄は誠実温厚であった。十九歳の時、姑蘇の承天寺に赴き、永安道昇禅師に師事した。米搗きや炊事の仕事を厭わず、道昇禅師が室に入って説法する際には、大衆に交じって参禅した。ある時、道昇が言った。「修行者がこれほどまでに力を尽くしているが、少しは苦労を感じるか」師は答えた。「一つの法を捨てるならば、それは菩提の完成とは言えません。この身で悟りを証したいと願っているのですから、何の苦労がありましょうか」道昇は内心、彼を非凡と認めた。 それから十年後、剃髪して具足戒を受け、さらに三年間、巾侍として師に仕えた。その後、諸方行脚を願い出て、池陽に至り、景德寺で天衣義懐禅師に参じた。天衣が挙げた公案。「天親菩薩が弥勒菩薩の内宮から下りて来た時、無著菩薩が尋ねた。『人間の四百年は、あの天界では一昼夜に過ぎない。弥勒菩薩は一時の間に五百億の天子をして無生法忍を証させたというが、いったいどんな法を説いたのか』天親は答えた。『ただこの法を説いたのである』では、この法とは何か」師は長い時を経て悟りを開いた。 ある日、室中で師は問われた。「即心即仏とはどういうことか」師は答えた。「人を殺し、火を放つことくらい、何が難しいことがあろうか」これにより、その名は天下に知れ渡った。 漕使の李復圭公は師に瑞光寺で法を開くことを命じ、法席は日に日に盛んになった。武林の太守、陳襄公は承天寺と興教寺の二つの寺を師に与え、どちらに住むかを選ばせた。蘇州の人々は道に押し寄せて引き留めたが、また淨慈寺からも強く招請があり、移る旨の文書が道俗に示された。「師を三年間お借りして、この地に福を植えたい。長く占拠するつもりはない」道俗はようやくこれに従った。 元豊五年、神宗皇帝は詔を下し、相国寺の六十四院を八院に統合し、禅院二つ、律院六つとされた。駅伝により師を召し出し、慧林寺の第一祖とした。到着すると、皇帝は使いを遣わして労い、三日後には宣旨により寺の三門で士民のために説法するよう命じられた。翌日、延和殿に召されて対面し、座を賜った。師は即座に結跏趺坐しようとしたが、よろめいた。皇帝は急ぎ近臣に命じ、錦の座布団二枚を添えさせた<note>この事は師の行実及び無為居士楊傑の真賛に見える</note>。 神宗皇帝が崩御されると、福寧殿に入って説法するよう命じられた。老齢を理由に山林への帰隠を願い出て、旨を得て自由に雲遊することを許され、州郡は住持に任命してはならないとされた。太鼓を打って衆に別れを告げ、偈を説いた。「本是无家客、那堪任意遊。順風加櫓棹、船子下揚州」（もとより家なき客、いずくんぞ任意に遊ぶに堪えん。順風に櫓棹を加え、船子は揚州に下る） 都を出ると、王公貴人たちが見送りに来て、車馬が連なった。師は別れに際して彼らを諭した。「歳月は弄ぶべからず、老病は人と期せず。ただ勤めて修し、怠ることなきが、これ真実の相助けなり」聞く者はみな感涙した。晚年は霊岩寺に住した。法を嗣ぎ道を伝えた者は百余人に及ぶ。 上堂して言われた。「洪音一たび剖かれれば、乾坤震動す。法令施行すれば、万機頓に削がる。聖凡の路絶え、佛祖の情忘る。この時に当たりては、東西弁ぜず、南北分かたず。教えに従って千古万古、黒漫漫として、溝を填ぎ壑を塞ぐも、人會すること無し」杖を卓して、下座した。 上堂して言われた。「嶮峻、鶏足峰に過ぎる無し。行人、此に到りて路通じ難し。唯だ祖師門下の客を恐るるは、毫末も其中に移さざるを」（険しく峻しいのは鶏足山に及ぶものなし。修行者がここに来れば道は通じ難い。ただ恐れるのは祖師の門下の客が、ほんの少しもその中に入らないことだ）参じよ。 上堂して言われた。「問うもまた妨げ無く、答うるもまた咎無し。何となれば、得るも先と為さず、失うも後と為さず。若し此の宗に達せば、豈に空有を論ぜん。千聖、从来也只だ寧し。任せよ他に鳥兎の頭を争いて走るを。成住壊空、弾指の間。得失是非、唯一口。咄」 上堂して言われた。「姑蘇台の畔、春秋を話さず。衲僧の面前、豈に玄妙を論ぜん。只だ衣を著て飯を喫い、水を翫び山を見るべし。夜には星を見、昼には日を見る。両手に犂を扶けて水膝を過ぐ。霊山の授記、只だ斯の如し。歴劫、何ぞ曾て今日に異ならん」 上堂して言われた。「一毫の端に宝王刹を現じ、微塵の裏に大法輪を転ず」杖を拈り上げて言われた。「これは塵だ。どうして法輪を転ずる道理を説くか。山僧今日、眉毛を惜しまず、汝ら諸人に説き破ろう。拈り上げれば、海水波を騰げ、須弥岌峇たり。放下すれば、四海晏清し、乾坤肅静たり。敢えて諸人に問う、拈り上げるが即ち是なるか、放下するが即ち是なるか。断ずべくして断ぜざれば、両重の公案なり」禅床を撃って、下座した。 上元の日、僧が問うた。「千燈互いに照らし、絲竹音を交わす。正に恁麼の時、佛法は什麼の処にあるか」師は言われた。「布施を謝す」僧が云う。「まさか和尚の人の為にする処では無いか」師は言われた。「大いに斎せず来たるに似たり」問う。「上は天、下は地。未だ審らかにせず、中間は什麼の物か」師は言われた。「山河大地」僧が云う。「恁麼ならば師の答話を謝す」師は言われた。「大地山河」僧が云う。「和尚、何ぞ人を瞞すを得る」師は言われた。「却って老僧の罪過なり」 問う。「如何なるか是れ祖師西来の意」師は言われた。「韓信、朝に臨む」僧が云う。「中下の流、如何にか領会すべきか」師は言われた。「屍を伏す万里」僧が云う。「早く今日の事を知らば、悔いざらんことを当初に忌むべきを」師は言われた。「三皇の冢上の草、離離たり」 問う。「春風、古樹を吹き、残日、前山に下る。如何なるか是れ不遷の義」師は言われた。「青山、誰か汝の閑事を管せん。白日󱈎中、自ら人あり」 問う。「師は誰が家の曲を唱え、宗風は阿誰に嗣ぐか」師は言われた。「調古く神清くして風自ずから高し。貌悴れて骨剛くして人顧みず」僧が云う。「恁麼ならば薦福の子、雪竇の親孫なり」師は言われた。「想うに未だ落ち処を知らざるべし」 問う。「如何なるか是れ露地白牛」師は言われた。「放出して尋ぬる処無し」 問う。「適来の消息、何よりか得たる」師は言われた。「合」 問う。「師の久しく囊中に蘊す宝を知る。今日、当场に略々借り看ん」師は言われた。「何必ずして如此せん」 元符二年十二月二十八日、沐浴して臥した。門弟子たちが周りに並んで偈を請い、強いて起きて安坐し、道俗を化導するよう乞うた。師はじっと見て言われた。「痴子よ、我れ尋常尚お偈を作るに懶い。今日、特地に何を図らん。尋常、臥せんと欲すれば便ち臥す。今日、特地に坐すべからず」筆を求め、大きく書かれた。「後事は守栄に付す」筆を投げ出し、深く眠るようにして逝去された。士庶が最後の供養を献じたが、一ヶ月経ってもまだ温かかった。 勅により全身を塔に納め、寺の上方に安置された。世寿八十、夏臘五十二。諡は法空、塔は瑞光と号す<note>『続燈録』には坐亡とある。その異跡は『僧宝伝』に見える</note>。