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title: "嘉泰普燈錄 · 東京天寧芙蓉道楷禪師"
description: "嘉泰普灯录由南宋高僧正受编撰于嘉泰年间，是继五灯会元后重要的禅宗灯录体史书。全书三十卷，收录历代禅师机缘语录、行实传记及偈颂，涵盖临济、云门等宗派，以普照禅法、嘉惠学人为宗旨。它系统传承了禅宗法脉与思想，是研究宋代禅宗历史与思想的重要文献，在佛教史上具有承前启后的地位，与五灯会元并称为禅宗灯录双璧。"
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### 東京天寧芙蓉道楷禪師

> 東京天寧芙蓉道楷禅師

沂之沂水人。族崔氏。自幼舉辟穀。隱伊陽山。後游京師。籍名術臺寺。試法華得度具戒。趨淮西謁投子於海會。乃問。佛祖言句如家常茶飯。離此之外。別有為人言句也無。曰。汝道寰中天子敕。還假堯舜禹湯也無。師欲進語。青以拂子𢷾師口曰。汝發意來。早有三十棒也。師即開悟。再拜便行。青曰。且來。闍梨。師不顧。青曰。汝到不疑之地耶。師以手掩耳。後還沂上。居馬鞍山。元豐壬戌時年四十。道俗迎處僊洞。次遷招提．龍門。又徙大陽．大洪。皆一時名卿鉅公為之勸請。自是。洞上之風大行西北。崇寧三年。　詔住京師淨因。大觀改元。　敕移天寧。　上堂曰。喚作一句。已是埋沒宗風。曲為今時。通途消耗。所以借功明位。用在體處。借位明功。體在用處。若也體用雙明。如門扇兩開。不得向兩扇上著意。不見新豐老子道。峰巒秀異。鶴不停機。靈木迢然。鳳無依倚。直得功成不處。電火難追。擬議之間。長途萬里。　上堂。良久。曰。青山常運步。石女夜生兒。便下座。　上堂。入道之徑。內虗外靜。如水澄凝。萬象光映。不沈不浮。萬法自如。所以道。火不待日而熱。風不待月而凉。堅石處水。天瞽猶光。明暗自爾。乾濕同方。若能如是。岩前枯木半夜開華。木女擕籃清風月下。石人舞袖共賀太平。野老謳歌知音者和。於斯明得。何必重登塔廟。再見文殊。道在目前。一時參取。　上堂。假言唱道。落在今時。設使無舌人解語。無脚人能行。要且未能與那一人相應。還會麼。龍吟徒側耳。虎嘯謾沈吟。　僧問。如何是兼帶之語。曰。妙用全施該世界。木人閑步火中來。云。如何是和尚家風。曰。眾人皆見。云。未審見箇其麼。曰。東壁打西壁。　問。如何是無縫塔。曰。白雲籠嶽頂。終不露崔嵬。二年春。開封尹李公孝壽奏師道行卓冠叢林。宜有褒顯。即　賜紫方袍。號定照禪師。內臣持　敕命至。師迎謝曰。某辭父母出家時。嘗陳重誓。不為利名。專誠學道。用資九族。苟渝願心。當棄身命。父母以此聽許。今若不守本志。竊󰂛寵光。則佛法．親盟背矣。於是修表具辭。復降　旨京尹。堅俾授之。師確守不回。以拒　命坐罪。奉　旨下棘寺。與從輕。寺吏聞有司欲徙淄州。有司曰。有疾。與免刑。及吏問之。師曰。無疾。吏云。何有灸瘢耶。曰。昔者疾。今日愈。吏令思之。曰。已悉厚意。但妄非所安。乃恬然就刑而行。從之者如歸市。師以法語施之。獲益尤眾。靈源清禪師評曰。夫楷公大士也。其建志立行。當素有根本。豈悠悠者之所能知。因贊其像曰。惟唐正觀。靈潤投驩。匪移所守。能適其安。乃曰。此行略有三益。一酬往譴。二順厭生。三成大行。今日淄州楷公亦云。嚴天大雪。始見松筠。媚草天華。亦成造化。苟竊世榮。實辜恩者。師抵淄川僦居。學者愈親。明年冬。　敕令自便。庵於芙蓉湖心。道俗川湊。僅數百人。日食粥一杯。故多引去。政和七年冬。　賜額曰華嚴禪寺。八年五月十四日。索筆書偈付侍僧曰。吾年七十六。世緣今已足。生不愛天堂。死不怕地獄。撒手橫身三界外。騰騰任運何拘束。移時乃逝。

> 沂州の沂水の人。姓は崔。幼い頃から辟穀を志し、伊陽山に隠棲した。後に都へ遊学し、術台寺に名を記し、法華経の試問に合格して得度し、具足戒を受けた。淮西へ赴き、海会寺の投子和尚に参じた。そこで問うた。 「仏祖の言葉は日常の茶飯事のようですが、これを離れて、別に人を導く言葉はあるでしょうか。」 投子和尚は言った。 「汝、世界中の天子の勅命は、さらに堯・舜・禹・湯に頼る必要があるかどうか、言ってみよ。」 師が言葉を進めようとすると、投子和尚は払子で師の口を打って言った。 「汝が発心して来た時、すでに三十棒に値する。」 師はただちに悟りを開いた。再拝してすぐに立ち去ろうとした。 投子和尚は言った。 「待て、闍梨よ。」 師は振り返らなかった。 投子和尚は言った。 「汝、疑いのない境地に至ったのか。」 師は手で耳を覆った。 後に沂の地に戻り、馬鞍山に住した。元豊壬戌の年<note>時に四十歳</note>、道俗が迎えて僊洞に住まわせた。次に招提寺、龍門寺に移り、さらに大陽山、大洪山に移った。いずれも当代の名だたる公卿たちが懇請したことによる。ここに至って、洞山の宗風が大いに西北の地に広まった。 崇寧三年、詔により京師の浄因寺に住した。大観元年、勅命により天寧寺に移った。 上堂して言った。 「一句と呼ぶことすら、すでに宗風を埋没させている。時流に合わせて曲げれば、本来の道は消耗してしまう。だから、功を借りて位を明らかにするのは、体が用いられる所にあり、位を借りて功を明らかにするのは、用が体たる所にある。もし体用ともに明らかであれば、門の両扉が開くようで、両扉に意を留めてはならない。新豊の老子が言ったように、『峰巒は秀麗で、鶴も留まらず、霊木は遥かに聳え、鳳凰も寄る辺がない』。功成りて処せず、電光石火の速さで追い難く、思い巡らす間に、万里の長途を隔てている。」 上堂し、しばらくして言った。 「青山は常に歩を運び、石女は夜に子を生む。」 言い終えて下座した。 上堂して言った。 「道に入る道筋は、内は虚しく外は静か。水が澄みきったように、万象が光り映える。沈まず浮かばず、万法はおのずから然り。だから火は日を待たずして熱く、風は月を待たずして涼しい。堅い石は水の中にあり、盲目の天もなお光る。明暗はおのずからであり、乾湿は同じ方にある。もしこのようであれば、岩前の枯木が真夜中に花を開き、木女が籠を提げて清風月下にあり、石人が袖を舞わせて共に太平を賀し、野老が謳歌して知音の者が和する。ここに明らかになれば、どうして再び塔廟に登り、文殊に会う必要があろうか。道は目前にあり、ただちに参究すべきである。」 上堂して言った。 「言葉を借りて道を唱えるのは、今の時代に落ちている。たとえ舌のない人が言葉を解し、足のない人が歩けたとしても、なおあの一人（本来の自己）には相応していない。わかるか？ 龍の吟ずるのをただ側耳にし、虎の嘯くのを漫りに沈吟するのみである。」 僧が問うた。 「如何なるか兼帯の語。」 師曰く。 「妙用を全うしてこの世界に施し、木人が閑歩して火の中より来る。」 僧云く。 「如何なるか和尚の家風。」 師曰く。 「衆人皆見る。」 僧云く。 「未だ審らかにせず、何を見るか。」 師曰く。 「東の壁が西の壁を打つ。」 問う。 「如何なるか無縫の塔。」 師曰く。 「白雲、岳頂を籠めて、終に崔嵬たるを露わさず。」 二年の春、開封府尹の李公孝寿が上奏して言った。「師の道行は叢林に卓出しており、褒賞顕彰すべきである。」ただちに紫の方袍を賜り、定照禅師の号を賜った。内臣が勅命を持って来ると、師は迎えて謝して言った。 「某が父母を辞して出家する時、重ねて誓いを立てました。利名のためではなく、ひたすら誠を尽くして学道し、もって九族の資けとします。もしこの願いの心に背くことがあれば、身命を棄てるべきである、と。父母はこれをもって許されました。今もし本志を守らず、寵光を窃むならば、仏法と親との盟約に背くことになります。」 そこで上表文をしたためて固辞した。再び京尹に旨が下り、強いて授けるよう命じられたが、師は確固として守って応じず、命に逆らった罪に問われた。旨により獄寺に下され、軽い処分となった。獄吏が、役人が淄州への流刑を考えていると聞いた。役人が言った。 「病気があるなら、刑を免じよう。」 獄吏が尋ねると、師は言った。 「病気はない。」 獄吏が言った。 「どうして灸の痕があるのか。」 師曰く。 「昔は病気だったが、今日は治った。」 獄吏は思い直すよう促した。 師曰く。 「厚意はよくわかった。しかし、偽りは私の安んじるところではない。」 そして恬然として刑に就き、出立した。従う者は市に帰るようであった。師は法語を施し、利益を得る者は特に多かった。 霊源清禅師は評して言った。 「楷公は大士である。その志を立て行いをなすのは、もとより根本を有している。どうして浮ついた者たちの知るところであろうか。」 その像を賛して言った。 「惟れ唐の正観、霊潤は歓を投ず。守る所を移さず、能くその安きに適す。」 また言った。 「この行いには、およそ三つの益がある。一には過去の咎めに報いる。二には厭離の心に順う。三には大行を成ずる。」 今日、淄州の楷公もまた言う。 「厳しい天の大雪、初めて松や竹を見る。媚びる草や空華もまた造化を成す。もし世の栄誉を窃むならば、実に恩に背く者である。」 師は淄川に着き、家を借りて住んだ。学ぶ者はますます親しんだ。翌年の冬、勅令により自由の身となった。芙蓉湖の湖心に庵を結ぶと、道俗が川の流れのように集まり、数百人に及んだ。日に粥一杯を食したので、多くは去っていった。 政和七年の冬、「華厳禅寺」の額を賜った。八年五月十四日、筆を求め偈をしたためて侍僧に与えた。 「吾れ年七十六、世縁今已に足る。 生には天堂を愛せず、死には地獄を怕れず。 撒手横身三界の外、騰騰任運何ぞ拘束せん。」 しばらくして遷化した。