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title: "曹溪大師別傳 · No. 1598-B 書曹溪大師別傳後"
description: "曹溪大師別傳是一部記載禪宗六祖惠能生平事蹟與思想的重要典籍，原書已佚，作者不詳，推測為唐代惠能弟子或再傳弟子所撰。該傳記以惠能在曹溪寶林寺的弘法活動為核心，補充了《壇經》未載的早期行誼與機緣對話，詳述其得法、隱修及開壇傳法的歷程。內容深入闡釋了頓悟法門與般若思想，對研究早期禪宗史具有極高文獻價值。此傳不僅是了解六祖生平不可或缺的權威史料，更對後世禪宗典籍如《祖堂集》等產生了深遠影響，在佛教史中地位卓著。"
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### No. 1598-B書曹溪大師別傳後

> 曹溪大師別伝の後書き

曹溪大師初樵采供親。一日負薪於市。聞客誦金剛經。至應無所住而生其心。感悟。直趨黃梅。諸傳所載咸爾。獨壇經記曰。三鼓入室。祖以袈裟遮圍不令人見。為說金剛經。至應無所住而生其心。言下大悟。今謂若不曾聞經於市𢌅開悟。豈往黃梅見五祖酬問如流哉。況自復言。米熟久矣。唯欠篩耳。如言傳衣之宵聞經方悟。則初後不應。文理倒置。大可疑矣。甞閱續叢林公論四明竺仙梵仙述曰。六祖初於市邸。聞客誦金剛經。至應無所住而生其心。豁然開悟。遂乃求謁黃梅。此乃古本壇經所載。由緒宛然。蒙於十七八歲時獲見之。今悉無有。且其自與黃梅相見。至和秀禪師偈等語。皆是妙悟性元。深達法本。異出天然。非凡庸未悟所能道者。今壇經謂五祖以袈裟遮圍不令人見。為說金剛經。恰至應無所住而生其心。言下便悟。蒙謂此乃六祖之下鄙俚之徒改竄造作之語。而加恰至二字。原其鄙意。即謂親從其師言下而悟。親得其法。乃紹六祖位也。殊不知具無師智。自然智。自得自悟。方堪傳受。又云。以袈裟遮圍不令人見。其袈裟乃有神通。人之不能見歟。否則但是踏襲世尊於多子塔前命迦葉以僧伽黎圍之之語耳。忠國師云。把他壇經改換。添糅鄙談。削除聖意。惑亂後徒。斯論盡矣。昔於東武獲曹溪大師別傳。曩古傳教大師從李唐手寫齎歸。鎮藏叡嶽。何日流落子院秘之年尚。享保乙巳春。東武儒官山田大介延同學天野丈右衛門。歷觀京師名區。偶獲此寶冊。拜寫。十襲其家焉。傳末有貞元十九二月十九日畢天台最澄封之字。且搭朱印三箇。刻比叡寺印四字。貞元十九當日本延曆二十年乙酉也。大師遷寂乃唐先天二年。至于貞元十九年。得九十一年。謂壇經古本湮滅已久。世流布本宋後編修。諸傳亦非當時撰。唯此傳去大師謝世不遠。可謂實錄也。而與諸傳及壇經異也。然撿黃梅傳法一事。師資唱酬。機緣如此。實可尊信哉。乃前疑方消。竺仙評論亦有驗。惜乎失編者之名。考請來進官錄。曰曹溪大師傳一卷是也。嗚呼。何幸假鴻德乎。千年舊物流于吾桑域。是國之寶也。仍欲垂不朽。授之欹劂氏云。

> 曹渓大師の六祖慧能は、初めは薪を樵り、採って親に孝養していました。ある日、市で薪を担いでいると、客が金剛経を読誦するのを聞き、「応無所住而生其心」の句に至って、感悟し、直接黄梅の五祖のもとへ赴きました。諸伝に伝えられる所は、皆そうであります。ただ壇経には、「三更（夜中）に室に入る。祖が袈裟で周りを蔽い、人に見せず、金剛経を説いた。『応無所住而生其心』に至り、その言葉の下で大悟した」と記されています。 今、考えてみますと、もし市場で経文を聞いて開悟していなかったなら、どうして黄梅に行き、五祖に会って、問答を流れるように交わすことができたでしょうか。ましてや自ら「米はとっくに熟しています。ただ篩にかけるだけです」と言ったのは、伝衣の夜に経文を聞いて初めて悟ったというのでは、始めと終わりが合わず、文理が逆転しており、大いに疑わしい限りです。 かつて『続叢林公論』（四明の竺仙梵仙述）を読みました。そこにはこうあります。「六祖は初め、市の宿で、客が金剛経を読誦するのを聞き、『応無所住而生其心』に至って、豁然として開悟し、そこで黄梅に参詣を求めた。これは古本の壇経に載っていることであり、経緯は明らかである。私は十七八歳の時にこれを目にしたが、今は全く見られない。しかも、彼が黄梅と相見え、秀禅師の偈に和するなどの言葉は、みな妙悟して性元を究め、法本を深く達し、天然に異なって出ており、凡庸で未悟の者が言える所ではない。今の壇経は、五祖が袈裟で周りを蔽い、人に見せず、金剛経を説き、ちょうど『応無所住而生其心』で、その言葉の下で悟ったという。私は思うに、これは六祖の下の鄙俚の徒が改竄し造作した語であり、『恰至』という二字を加えたものである。その鄙しい意図を推測するに、すなわち『親しくその師の言葉の下で悟り、親しくその法を得たので、六祖の位を継いだのだ』と言いたいのである。無師智、自然智を具え、自ら得て自ら悟るからこそ、伝授に堪えるということを、全く知らないのである。また『袈裟で蔽い囲んで人に見せない』と言うが、その袈裟に神通があって、人は見ることができなかったのだろうか。そうでなければ、世尊が多子塔の前で迦葉に僧伽梨を以て囲んだという話を踏襲したに過ぎない。忠国師は言った。『彼（の人が）壇経を改め変え、鄙談を添え混ぜ、聖意を削除し、後の徒を惑わし乱した』。この論で尽きている。」 昔、東武で『曹溪大師別伝』を得ました。遠い昔、伝教大師が唐から手書きで持ち帰り、叡山に秘蔵したものです。それがいつか子院に流れ、長年秘蔵されていました。享保乙巳の春、東武の儒官山田大介が同学の天野丈右衛門と共に、京師の名区を歴観し、偶然この宝冊を得て、拝写し、その家に大切にしまいました。伝の末尾には「貞元十九年二月十九日畢 天台最澄封」の字があり、さらに朱印三個、「比叡寺印」の四字が刻まれています。貞元十九年は、日本の延暦二十年乙酉にあたります。大師の遷化は唐の先天二年、貞元十九年までに九十一年を経ています。 壇経の古本は湮滅して久しく、世に流布する本は宋以後に編修されたものであり、諸伝も当時の撰ではありません。ただこの伝だけは、大師の謝世から遠くなく、まさに実録と言えます。そして諸伝や壇経とも異なっています。しかしながら、黄梅伝法の一事を検すれば、師資の唱酬、機緣がこの様であるので、まことに尊び信じるに足るものです。そこで先の疑いがようやく消えました。竺仙の評論にも確かな証拠があります。惜しいかな、編者の名を失っていることよ。請来進官録を考うるに、「曹渓大師伝一巻」とあります。ああ、何という幸い、鴻徳を借りることができたことか。千年の旧物が、我が桑域に流れることは、国の宝です。そこで不朽に伝えんと欲し、これを彫版に付す次第です。

寶曆十二年壬午夏四月　　　祖芳謹識

> 宝暦十二年、壬午の夏、四月　　　祖芳、謹んで識す