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title: "祖庭事苑 · 雲門室中錄"
description: "祖庭事苑由北宋僧人了善卿编正，是一部重要的佛教辞书类著作。该书编撰于中国佛教禅宗鼎盛的宋代，旨在汇集和解释禅宗典籍中的疑难字词、名相典故及丛林制度。其内容广涉经律论、祖师语录、公案机锋等，为学人阅读和理解禅宗文献提供了极大便利。作为早期禅宗辞典的代表，祖庭事苑对研究唐宋禅宗思想、语言及历史具有极高的文献价值，是佛教工具书发展史上的重要里程碑。"
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### ●雲門室中錄五葉

> <note>『雲門室中録』五葉</note>

達摩傳法偈曰。吾本來茲土。傳法救迷情。一花開五葉。結果自然成。善吉

> 達磨が法を伝えたときの偈にこうあります。「私はこの地に来て、法を伝え、迷える人々を救おうとした。一つの花が五枚の葉を開き、やがて自然に実を結ぶであろう。」善吉。

梵云須菩提。此言善吉。序云。毗耶問疾。何獨美於文殊。舍衛解空。亦偏推於善吉。蓋序家抑揚之意。亦。當作豈。乃傳寫之誤。智論七十人。問曰。佛為一切智。何以不自為說主。而令須菩提說般若。答。須菩提樂於空行。偏善說空。般波羅蜜多說空。故令須菩提說也。倜儻

> 梵語で「須菩提」とは、中国語では「善吉」という意味です。序文にはこうあります。「ヴァイシャーリーで病の見舞いについて問われたとき、なぜ文殊菩薩だけが称賛されたのか。舎衛城で空を解き明かしたときも、やはり善吉（須菩提）だけが特に推挙されている。これは序文の作者が抑揚をつけた表現であろう。また、『亦』は『当に豈と作すべし』とあるのは、写し伝えるうちに生じた誤りである。」『大智度論』の七十巻に、こう問うている。「仏は一切智であられるのに、なぜご自身で説法の主とならず、須菩提に般若を説かせたのか。」答えはこうです。「須菩提は空の修行を好み、特に空を説くことに優れていた。般若波羅蜜多は空を説くものである。それゆえ須菩提に説かせたのである。」

上它歷切。下它郎切。大節非常也。買餬餅

> 「上」は「它」と「歷」を切り、「下」は「它」と「郎」を切る。大いなる節義は、尋常なことではない。餬餅を買う。

餬當作胡。胡虜之總稱。用胡麻作餅。故曰胡餅。故釋名曰胡餅。言以胡麻著之也。前趙錄云。石季龍諱胡。改為麻餅。胡麻。即油麻也。餬。寄食也。非義。是分不分

> 胡は胡虜の総称です。胡麻で作った餅なので胡餅といいます。『釈名』には「胡餅とは胡麻を付けたもの」とあります。『前趙録』には、石季龍が胡という字を避けて麻餅に改めたとあります。胡麻はすなわち油麻です。餬は寄食の意味で、ここでは意味が通りません。分けるべきか分けないべきか。

當作不可不分也。見懷和上本。明星

> 当然不可不辨明。参见怀和尚的版本。明星

曉星也。修行本起經云。菩薩自知。云棄惡本。無婬怒癡。生死已除。五陰諸種悉斷。無餘㘽孽。所作已成。智慧已了。明星出時。廓然大悟。得無上正真。為最正覺。如來禪

> 明けの明星が出るころのことです。『修行本起経』にはこう説かれています。「菩薩は自ら悟った——悪の根源を捨て、淫欲と怒りと愚かさを離れた。生死はすでに除かれ、五陰のあらゆる要素はことごとく断たれ、残る業の種もない。なすべきことはすでになし終え、智慧はすでに完成した。明けの明星が現れたとき、はっきりと大いなる悟りを開き、無上の正しい真理を得て、最も正しい覚りとなった」と。これが如来の禅です。

香嚴智閑初參大溈祐。因併淨道路。棄瓦礫。擊竹響。忽然省悟。有頌云。一擊忘所知。更不自修持。動容揚古路。不墮悄然機。處處無蹤跡。聲色外威儀。諸方達道者。咸言上上機。仰山聞。云。此是夙構記持所成。若是正悟發明。別更說看。又云。去年貧。未是貧。今年貧。始是貧。去年貧。有卓錐之地。今年貧。錐也無。仰山云。如來禪許師兄會。祖師禪未夢見在。嚴又成一頌。我有一機。瞬目示伊。若人不會。別喚沙彌。仰山云。且喜師兄會祖師禪也。致問

> 香厳智閑は最初、大潙祐に参じていた。ある時、道の掃除をしていて、瓦礫を捨てたところ、それが竹に当たって音を立てた。その瞬間、はっと悟った。そこで頌を一首作った。「一撃の音に所知を忘れ、さらに自ら修持することもない。身を動かし古の道を示しても、静かにひそむ機に堕ちることはない。どこにも蹤跡はなく、声色の外に威儀がある。諸方の道を達した者たちは、みな言う、これこそ最上の機であると。」仰山がこれを聞いて言った。「これは前世からの積み重ねの記憶によってできたものだ。もし本当の悟りが明らかになったのなら、別のものを説いてみなさい。」また言った。「去年の貧しさは、まだ貧しさではなかった。今年の貧しさこそ、本当の貧しさだ。去年の貧しさには、錐を立てるほどの土地があった。今年の貧しさには、錐すらもない。」仰山が言った。「如来禅ならば、師兄は会得していると認めよう。祖師禅は、まだ夢にも見ていない。」香厳がまた一首の頌を作った。「私に一つの機がある。瞬きして彼に示す。もし人が会得しなければ、沙弥を呼びなさい。」仰山が言った。「まことに喜ばしい、師兄は祖師禅を会得した。」と問いかけた。

致。當作置。立也。致。至也。非此義。時云

> いたします。置くという意味です。立てるということです。いたすとは、至るという意味です。ここでの意味ではありません。時に申します。

若有。第五板十五行上脫若有二字。本來法

> もしあるならば。第五板の十五行目の上に「若有」の二字が脱けている。本来の法。

賞箇名。喚作本來法。第六板第十三行上少八字。見懷和上本。師云

> その名をほめても、本来の法と呼ぶ。第六板の第十三行の上に八字が欠けている。懐和尚の本に見える。師が言われた。

一切法皆是佛法。繩牀露柱是一切法。還我佛法來。僧無對。師又問僧。經中道。第六板第十八行少三十字。見懷和尚本。那

> すべての法は仏法である。縄床や露柱もまたすべての法である。私に仏法を返してみよ。僧は答えられなかった。師はさらに僧に問うた。経の中に説かれている。第六板の第十八行に三十字が欠けている。懐和尚の本を見よ、と。

乃賀切。語餘聲。南方禪客

> 「乃賀切」。 「語餘聲」。 南方から来た禅の修行者よ。

忠國師問禪客。何方來。曰。南方來。師曰。南方有何知識。曰。知識頗多。師曰。如何示人。曰。彼方知識直下示學人。即心是佛。佛是覺義。汝今悉具見聞覺知之性。此性善能揚眉瞬目。去來運用。徧於身中。抶頭頭知。抶脚脚知。故名正徧知。離此之外。更無別佛。此身即有生滅。心性無始以來未曾生滅。身生滅者。如龍換骨。蛇蛻皮。人出故宅。即身是無常。其性常也。

> 忠国師が禅客に尋ねた。「どこから来たのか。」 禅客は答えた。「南方から来ました。」 国師が言った。「南方にはどんな師がいるのか。」 禅客は答えた。「師はたくさんおられます。」 国師が言った。「どのように人に教えているのか。」 禅客は答えた。「あちらの師は、学ぶ者に直接こう示されます。『即心是仏』——この心こそが仏である、と。仏とは覚りの意味です。あなたは今、見聞覚知の性質をすべて備えています。この性質はよく眉を動かし目を瞬き、行き来し働きます。体中に遍く行き渡り、頭に触れれば頭で知り、足に触れれば足で知ります。だから正遍知というのです。これ以外に別の仏はありません。この身体には生滅がありますが、心の性質は無始以来、生滅したことがありません。身体が生滅するのは、龍が骨を換え、蛇が皮を脱ぎ、人が古い家を出るようなものです。つまり身体は無常ですが、その性質は常住なのです。」

師曰。若然者。與彼先尼外道無有差別。我此間佛性全不生滅。汝南方佛性半生半滅。半不生滅。曰。如何區別。師曰。此則身心一如。身外無餘。所以全不生滅。汝南方身是無常。神性是常。所以半生半滅。半不生滅。曰。和尚色身豈得便同法身不生滅耶。曰。汝那得入邪道。曰。學人早晚入邪道。曰。汝不見金剛經云。色見聲求。皆行邪道。今汝所見。不其然乎。破凡

> 師が言われた。「もしそうなら、それはかの先尼外道と何ら変わりはない。私のところでは仏性はまったく生滅しない。お前たち南方では仏性は半ば生じ半ば滅し、半ば生滅しないというのか。」弟子が問うた。「どのように区別するのですか。」師が言われた。「ここでは身心は一如であり、身のほかに何もない。だからまったく生滅しない。お前たち南方では身は無常であり、神性は常である。だから半ば生じ半ば滅し、半ば生滅しないのだ。」弟子が言った。「和尚さま、色身がどうしてそのまま法身と同じく生滅しないなどと言えましょうか。」師が言われた。「お前はどうして邪道に入るのか。」弟子が言った。「学人はいつ邪道に入るのでしょう。」師が言われた。「お前は金剛経に『色をもって見、声をもって求める者は、みな邪道を行く』とあるのを知らないのか。今お前が見ているのは、まさにそのとおりではないか。」

上破。音潑。摵

> 上破。音潑。摵

當作摵。砂獲切。拂也。摵。子育切。非義。謦󳸡

> くしゃみをすることを「摵」といいます。砂獲切の音で、「拂う」という意味です。「摵」は子育切の音で、意味をなしません。「謦」も同様です。

上去挺切。下正作欬。口溉切。󴂂气也。且致

> 咳は気を出すことです。

當作且置。置。猶赦也。白㲲

> そのままにしておきなさい。置くとは、すなわち許すという意味です。白い綿布。

徒葉切。草名也。出高昌國。採其花。織以為布。又出婆利國。粗者名古具。細者名白㲲。國師看戲

> ダンヨウセツ。草の名前です。高昌国に産します。その花を摘み、織って布にします。また婆利国にも産します。粗いものを古具といい、細かいものを白㲲といいます。国師は芝居を見ます。

叢林多說唐帝盛展歌舞齋眾。端肅無聞。帝問。聽察如何。國師為說死囚持油之喻。然竊覧國師廣錄。而無此緣。甞讀毗柰耶雜事。即大迦演那為猛光大王說此攝心之緣。此蓋當時之誤。學者詳焉。者裏

> 叢林では、唐の皇帝が盛大に歌舞を催して僧衆に斎を施したという話がよく語られますが、端正で厳粛な話は聞かれません。皇帝が「見聞きすることはどうか」と問い、国師が死囚が油を運ぶ譬えを説いたとされます。しかし国師の広録をひそかに見ても、この因縁はありません。かつて毗奈耶雑事を読むと、大迦演那が猛光大王のためにこの心を収める因縁を説いたとあります。これはおそらく当時の誤りでしょう。学ぶ者は詳しく調べるべきです。ここに。

乃喝云。長連牀上飽喫飯了。說葛藤。第十二板第十二行下少十四字。見懷和尚本。屎上加尖

> そこで一喝して言った。「長連床の上で腹いっぱい飯を食って、余計なことをべらべらと。」第十二板の第十二行の下に十四字が欠けている。懐和尚の本に見える。糞の上にさらに先を尖らすようなものだ。

當作矢上。謂尖上加尖。今用屎尿字。甚無謂也。蜜嵓

> 矢の先にさらに矢を重ねるようなものだ。先端の上にさらに先端を加えるということである。今、糞尿という文字を用いるのは、まったく意味のないことである。蜜嵓。

當作󴂎巖。便打

> 岩のようにどっしりと構えて、すぐに打ちかかれ。

師舉。僧問睦州。以一重去一重即不問。不以一重不去一重時如何。州云。昨日㘽茄子。今日種冬苽。第十三板三行後脫此一節。古本云不以一重不去一重。今學者多不舉不字。而或妄以為園頭之緣者。誤矣。是你忘却

> 師が挙げられた。僧が睦州に問うた。「一重をもって一重を去ることは問わない。一重をもって一重を去らない時はどうですか」。睦州は言った。「昨日は茄子を植え、今日は冬瓜を種える」。第十三板の三行の後にこの一節が抜けている。古本には「一重をもって一重を去らない」とある。今の学者は多く「不」の字を挙げず、あるいは誤って園頭の因縁と考えているが、これは間違いである。お前が忘れているのだ。

當作只者忘却。舉法身說法

> 忘れ去ることこそ、ただそれだけのこと。法身が説法することを挙げて説く。

舉。法身說法。青青翠竹總是法身。未是提掇時節。有為無三世。是有為法。何處得三世來。無為有三世。不是守寂處法。此是實學葛藤言語。未是提掇時節。於拈提猶在半途。已上一節。印本分作三段。而又語言顛錯。故錄此以證之。舉三種人

> 举げる。法身が説法するとは、青青たる翠竹はことごとくこれ法身であるというが、これはまだ提掇すべき時節ではない。有為には三世がない。これは有為の法である。どこから三世が得られようか。無為には三世がある。これは寂に守る処の法ではない。これは実学の葛藤の言語であって、まだ提掇すべき時節ではない。拈提においてなお半途にある。以上の一節は、印本では三段に分けているが、また言語が顛倒している。ゆえにこれを録して証とする。三種の人を挙げる。

師舉。三人。一人因說得悟。一人因舉得悟。一人才見舉便却回去。你道却回者意旨如何。師云。直饒與麼。也好與三十棒。與印本不同。而又旨意顯煥。故用錄之爾。舉僧問

> 師が三人の例を挙げられた。一人は説法を聞いて悟り、一人は問いかけられて悟り、一人は問いかけを聞いた途端にそのまま帰ってしまった。その帰った者の真意はどうだろうか。師は言われた。「たとえそうであっても、三十棒は免れない」。これは流通本とは異なるが、意味がはっきりしているので、ここに記録する。ある僧が問いかけた話を挙げる。

舉。僧問雲居。湛湛時如何。居云。不流。說甚麼湛湛。師云。此是嚼鐵之言。已上三節。見懷和尚本。舉光明寂照

> ある時、僧が雲居に尋ねた。「湛湛として動かない時はどうでしょうか」。雲居は答えた。「流れないものを、どうして湛湛と言えようか」。師は言った。「これは鉄を噛み砕くような言葉である」。以上三節は、懐和尚の本に見える。光明寂照の話を挙げる。

因僧舉光明寂照徧河沙。師云。豈不是張拙秀才語。僧云。是。師云。話墮也。此緣印本語意倒錯。而或謂張拙為相公。因錄其緣以示學者。拙。唐人也。因訪石霜。霜問曰。公何姓。曰。姓張。何名。曰。名拙。霜曰。覓巧了不可得。拙自何來。公於言下有省。乃述悟道頌曰。光明寂照徧河沙。凡聖含靈共我家。一念不生全體見。六根才動被雲遮。斷除煩惱重增病。趣向真如總是邪。隨順眾緣無罣礙。涅盤生死是空花。簾纖

> 僧が「光明寂照、河沙に遍し」という句を挙げたので、師は言った。「それは張拙秀才の言葉ではないか。」僧が「はい」と答えると、師は言った。「話が堕ちたな。」この因縁は印本によって語意が倒錯しており、あるいは張拙を相公とするものもある。そこでその因縁を録して学者に示す。拙は唐の人である。石霜を訪ねたとき、霜が問うた。「公は何姓か。」「姓は張です。」「名は何か。」「名は拙です。」霜は言った。「巧を覓めても得られない。拙はどこから来るのか。」公はその言葉の下で省るところがあった。そこで悟道の頌を述べた。「光明寂照、河沙に遍し、凡聖含霊、共に我が家。一念生ぜざれば全體見え、六根才に動けば雲に遮られる。煩悩を断除するのは重ねて病を増す。真如に趣向するは總是れ邪。衆縁に随順すれば罣礙なく、涅槃生死は是れ空花。」簾を織る

上當作廉。下正作纖。廉纖。猶檢斂細微也。無情

> 上は「廉」とすべきで、下は正しくは「纖」とする。「廉纖」とは、細かいところまで慎み整えること、つまり細やかに行いを引き締めることを意味する。「無情」とは、

說法。第十六板六行下脫二字。本身盧舍那

> 説法。第十六板の六行目の下に二文字が欠けている。もとは盧舎那そのものである。

此緣傳燈諸錄皆云僧問鹽官齊安和上。今云國師者。非也。況國師廣錄且無此緣。漚麻

> この縁は伝灯の諸録がみな「僧が塩官の斉安和上に問うた」と伝えている。今「国師」というのは誤りである。まして国師の広録にはこの縁はない。漚麻。

烏侯切。久漬也。國師云

> 久しく漬かる、の意。国師が言うには、

當作國師󳬴文云。第十七板九行上。說法

> 国師としての教えを説かれた、その文にこうあります。第十七板の九行目の上段に、「説法」と。

身說。即是應化身說。十七板二十二行上脫九字。見懷和尚本。應化非真佛

> 身説とは、すなわち応化身の説である。十七板二十二行の上に九字が脱けている。懐和尚本に見える。応化は真の仏にあらず。

般若金剛論云。應化非真佛。亦非說法者。說法不二取。無說離言相。輥毬

> 般若金剛論にこう説かれています。「応化の仏は真実の仏ではなく、法を説く者でもない。法を説くことは二つに執着することなく、説くことなくして言葉の相を離れている」と。輥毬。

雪峯義存禪師常輥二毬以示人。一日。玄沙到。師亦輥毬示之。沙便放身倒作閃勢。以字

> 雪峯義存禅師は、いつも二つの毬を転がして人に示していた。ある日、玄沙が訪ねて来たので、師はまた毬を転がして示した。玄沙はすぐに身を投げ出して倒れ、身をかわすそぶりをした。

見對機。水椀

> 相手に応じて示す。水の椀。

未見所出。羅漢書字

> 出典は不明です。羅漢が文字を書いています。

仰山和尚在洪州觀音時。粥後坐次。有僧來禮拜。師不顧。其僧問。師識字否。師云。粗識。僧乃右旋一帀。云。是甚麼字。師於地上書十字酬之。僧左旋一帀。云。是甚麼字。師改十字作卍字。僧以兩手托圓相。如修羅掌日月勢云。是甚麼字。師乃𦘕一圓相圍却卍字。僧乃作金剛勢。師云。如是。如是。僧禮謝。騰空而去。書字

> 仰山和尚が洪州の観音院にいたときのこと。粥を食べた後の坐禅の最中に、一人の僧が礼拝に来ました。師は見向きもしませんでした。その僧が問いました。「師よ、文字をご存じですか」師は答えました。「だいたいは知っている」。僧は右に一回りして言いました。「これは何という字ですか」。師は地面に「十」の字を書いて答えました。僧は左に一回りして言いました。「これは何という字ですか」。師は「十」を「卍」に書き換えました。僧は両手で丸い形を捧げ、阿修羅が日月を掌に持つような仕草をして言いました。「これは何という字ですか」。師はそこで一つの円相を描き、卍の字を囲みました。僧は金剛の勢いを示しました。師は言いました。「そのとおり、そのとおり」。僧は礼をして感謝し、空へと飛び去りました。

曾有僧問老僧。如何是諸佛出身處。我向伊道。東山水上行。此總是向上拈提時節。此一節脫一十六字。第十九板第二行中。名身句身

> あるお坊さんが私に尋ねました。「仏たちはどこから生まれてくるのですか」と。私はこう答えました。「東の山が水の上を歩いている」と。これはみな、悟りの核心を直接指し示すための言葉です。この一節には十六字が欠けています。第十九版の第二行目に「名身句身」とあります。

楞伽經偈云。名身與句身。及字身差別。凡愚所計著。如象溺深泥。解者曰。身者。以依聚為義。聲名句文。是教主言音詮表之法。名者。是次第行列。句者。是次第安布。文者。是次第聯合。聲即說法之聲。此四皆為幻法也。什麼

> 楞伽経の偈にこう説かれています。「名身と句身、および字身の区別は、凡愚が執着するところであり、象が深い泥に沈むようなものだ」と。解釈する人は言います。身とは、より集まることを意味する。声・名・句・文は、教主の言葉の音が意味を表す法である。名とは、次第に並ぶこと。句とは、次第に配置されること。文とは、次第に組み合わされること。声とはすなわち説法の声である。これら四つはみな幻の法である。

物合成一塊。第十九板十一行少物字。剩不是二字。什麼。當作甚麼。鹽軍

> 物が一つに合成される。第十九板十一行に「物」の字が少ない。「剩」は「不是」の二字ではない。「什麼」は「甚麼」とすべきである。塩軍。

當作監軍。監軍。唐官也。皆中貴為之。如魚朝恩至德中監軍事是也。向繩墨

> 監軍（監軍というのは、唐の官職である。いずれも宮中の貴人がこれに任じられた。魚朝恩が至徳年間に軍事を監察したのがその例である）し、繩墨に従う。

當作打椀子。第二十板二十二行中。見懷本。蹤橫

> まるで椀を打つかのように。第二十板の二十二行目に、懐本に見える。縦横に。

當从糸。作縱。東西曰橫。南北曰縱。蹤。迹也。非義。袈裟

> より糸の字を用いて「縱」と書く。東西の方向を「横」といい、南北の方向を「縱」という。「蹤」は足跡という意味で、ここでは当てはまらない。袈裟。

梵語。此云不正色。即壞色染衣也。染。表心染於法。壞。即要無所染也。媿圖

> 梵語では「不正色」といいます。すなわち、壊れた色に染めた衣のことです。「染」は、心が法に染まることを表します。「壊」は、染まることがないことを意味します。

當作貴圖。漕溪

> 尊いお姿として大切にされ、曹渓に運ばれました。

當作曹溪。漕。衛邑名。非義。控缺

> 曹溪とすべきである。漕は、衛の邑の名であり、意味をなさない。控缺。

當作空缺。苦貢切。缺也。缺亦空也。古之重語。如殫盡．󴂓謀之類是也。依鉢

> 欠けていること、つまり空（くう）と同じである。「苦貢」と音を切るのは、欠けるという意味である。欠けるとはすなわち空である。古い時代の重ね言葉で、たとえば「殫尽（たんじん）」「謀（ぼうぼう）」といった類である。依鉢（えはつ）にならう。

依。當作衣。鉢。梵語鉢多羅。此方云應量器。擭浪

> 依とは、衣や鉢のことです。鉢は梵語で「鉢多羅」といい、この国では「応量器」と呼びます。

一獲切。手取也。啗󲣅

> 一つひとつ手に取るように、はっきりと理解する。手に取るように、である。

當作𪅎󲣅。竹咸切。鳥󲣅物。趙州無賓主

> 鳥の群れのように集まること。竹と塩を切るように、鳥の群れと物事を分ける。趙州は主も客もない。

趙州垂語云。我三十年前在南方火爐頭有一則無賓主話。舉似諸人。雪峯聞舉。云。當時便好與一踏。猴白

> 趙州がこう言いました。「私が三十年前、南方の火炉のそばで、主も客もない一つの言葉を持っていた。それを皆に示そう。」 雪峯はこれを聞いて言いました。「その時すぐに一蹴りしてやるべきだった。」 猴白

當作侯白。姓也。和靖詩云。伶倫今日無侯白。奴僕當年有衛青。伶倫。謂滑稽之士也。拾遺

> 侯白のようなものだ。姓である。和靖の詩に云う、伶倫は今日侯白なく、奴僕は当年衛青ありと。伶倫とは、滑稽な士をいう。拾遺

舉。雪峯云。我且作死馬醫。一口吞盡乾坤。師云。山河大地何處得來。直饒者裏倜儻分明。特舍兒七十棒反成一百四十。

> 雪峯が言いました。「私はとりあえず死んだ馬を生き返らせる医者の真似をしよう。一口で天地をすっかり飲み込んでしまうのだ。」 師は言いました。「それなら、山や川、大地はどこから来たのか。」 たとえこの場で潔くはっきりと見極めたとしても、あの子には七十の棒が、かえって百四十になって返ってくるのだ。

○師舉。西禪東平共官人坐次。西禪云。風作何色。官人無對。禪却問僧。風作何色。僧拈起衲衣云。在府中鋪。禪云。用多少帛子。僧云。勿交涉。禪無語。師代云。咄。者話墮阿師○。

> 師が挙す。西禅と東平が官人と共に坐していた時、西禅が言った。「風はどんな色か」。官人は答えられなかった。西禅は代わりに僧に問うた。「風はどんな色か」。僧は衲衣を取り上げて言った。「府中に鋪くのです」。西禅が言った。「どれほどの帛子を使うのか」。僧が言った。「関わりありません」。西禅は言葉がなかった。師が代わって言った。「咄。この話は阿師の負けだ」。

師因炙茄次。問僧。喫得多少茄子。僧云。和上試道看。師云。你問我。與你道。僧便問。師云。消不得。

> 師が茄子を焼いているとき、僧に尋ねた。「茄子をどれだけ食べられるか。」 僧が言った。「和尚、試しにおっしゃってみてください。」 師が言った。「お前が私に問うなら、お前に説いてやろう。」 僧がそこで問うた。師が言った。「消化できない。」