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title: "大乘阿毘達磨雜集論 · 1"
description: "大乘阿毘達磨雜集論由安慧菩薩糅合集成，唐代玄奘法師漢譯。該論屬瑜伽行派重要論書，以阿毘達磨經為綱要，融合大乘莊嚴經論、顯揚聖教論等內容，系統闡述諸法體相、唯識教義及修行次第。全分本事分與決擇分，詳釋五蘊、四諦、菩提分法等名相，確立識變緣起思想。此論為法相宗根本典籍，對漢傳佛教唯識學發展影響深遠，是研究大乘佛法體系與修證的重要權威著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcy7pbyv0c1il804qln9unjw"
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### 決擇分中得品第三之一

> 決択分中の得品 第三の一

云何得決擇？略說有二種，謂建立補特伽羅、建立現觀。前為能證，後是所證。補特伽羅雖非實有，由四種緣是故建立，謂言說易故、順世間故、離怖畏故、顯示自他具德失故。言說易者，若於無量色等差別、無量差別相想法中，總合建立一假有情，即呼召往來等種種言說遂不為難。順世間者，非諸世間唯依法想而起言說，多分依有情想而起言說，是故聖者為化世間，必應同彼方便建立補特伽羅。離怖畏者，世間有情未會甚深緣起法性，若聞一切有情無我，便生怖畏不受正化。顯示自他具德失者，若離假立有情差別，唯說諸法染淨相者，是則一切無有差別，不可了知如是身中如此過失若斷未斷、如是身中如此功德若證未證，是故建立補特伽羅。

> いかにして決択を得るのか。これを簡潔に述べれば二種あり、すなわち「補特伽羅（がしゃ）の建立」と「現観の建立」である。前者は証するための手段であり、後者は証されるべき目的である。 補特伽羅は実体として存在するものではないが、四つの理由によって仮に立てられる。すなわち「言葉で語りやすくするため」「世間の習わしに従うため」「恐れを取り除くため」「自他の 徳と過失 を示すため」である。 「言葉で語りやすくするため」とは、無量の色などの差異や、無量の差異を有する様々な思い浮かべられる法（ものごと）の中から、それらを総合して一つの仮の有情を立てれば、呼びかけや往来といった様々な言葉が難しくなくなることである。 「世間の習わしに従うため」とは、世間の人々は法（ものごと）の表象だけに基づいて言葉を発するのではなく、大部分は有情（生きとし生けるもの）の表象に基づいて言葉を発する。ゆえに聖者は世間を教化するために、必ずや同じくその方便で補特伽羅を立てるのである。 「恐れを取り除くため」とは、世間の有情たちは未だ深遠な縁起の法の真理を会得していない。もし一切の生きとし生けるものに我（自我）はないと聞けば、すぐに恐れを生じて正しい教化を受け入れられなくなるからである。 「自他の徳と過失を示すため」とは、もし仮に立てられた有情の区別を離れて、ただ諸法の清らかなものと汚れたものの相だけを説くならば、すべてに区別がなくなり、この身体にこのような過失が断じられたのか断じられていないのか、この身体にこのような功徳が証得されたのか証得されていないのかを知ることができなくなってしまう。ゆえに補特伽羅を立てるのである。

云何建立？略有七種，謂病行差別故、出離差別故、任持差別故、方便差別故、果差別故、界差別故、修行差別故。病行差別復有七種，謂貪行、瞋行、癡行、慢行、尋思行、等分行、薄塵行。出離差別有三種，謂聲聞乘、獨覺乘、大乘。任持差別有三種，謂未具資糧、已具未具資糧、已具資糧。方便差別有二種，謂隨信行、隨法行。果差別有二十七，謂信解、見至、身證、慧解脫、俱解脫、預流向、預流果、一來向、一來果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果、極七返有、家家、一間、中般涅槃、生般涅槃、無行般涅槃、有行般涅槃、上流、退法阿羅漢、思法阿羅漢、護法阿羅漢、住不動阿羅漢、堪達阿羅漢、不動法阿羅漢。界差別者，謂欲界異生有學無學。如欲界有，三色界無色界亦爾。又有欲色界菩薩，又有欲界獨覺，不可思議如來。修行差別略有五種：一勝解行菩薩、二增上意樂行菩薩、三有相行菩薩、四無相行菩薩、五無功用行菩薩。如是等補特伽羅無量差別。貪行補特伽羅者，謂有猛利長時貪欲，雖於下劣可愛境界而能發起上品貪故，起即長時無斷絕故。如貪行者，乃至尋思行者亦爾，各隨自境猛利長時，如理配釋。

> どのように分類されるのか。概略すると七つの種類がある。すなわち、病の行における違い、出離における違い、支えにおける違い、方便における違い、果における違い、界における違い、修行における違いである。 病の行における違いにはさらに七つの種類がある。すなわち、貪りの行、怒りの行、迷いの行、慢心の行、妄想の行、等分の行、薄い煩悩の行である。 出離における違いには三つの種類がある。すなわち、声聞乗、独覚乗、大乗である。 支えにおける違いには三つの種類がある。すなわち、資糧を備えていない者、すでに備えた者とまだ備えていない者、すでに備えた者である。 方便における違いには二つの種類がある。すなわち、信に従って修行する者、法に従って修行する者である。 果における違いには二十七の種類がある。すなわち、信による理解、見による到達、身による実証、智慧による解脱、両方による解脱、預流に向かう者、預流の果、一来に向かう者、一来の果、不還に向かう者、不還の果、阿羅漢に向かう者、阿羅漢の果、極めて七回の再生、家家、一間、中に涅槃する者、生まれて涅槃する者、努力なく涅槃する者、努力して涅槃する者、上流へ進む者、退きうる阿羅漢、思惟しうる阿羅漢、守護しうる阿羅漢、不動に安住する阿羅漢、到達しうる阿羅漢、動かない法の阿羅漢である。 界における違いとは、欲界の凡夫と有学と無学である。欲界にこれらの者がいるように、色界と無色界にもまた同じである。また、欲界と色界には菩薩がおり、欲界には独覚がおり、不可思議なる如来がいる。 修行における違いは、概略すると五つの種類がある。第一に勝解を行う菩薩、第二に増上意楽を行う菩薩、第三に相ある行を行う菩薩、第四に相なき行を行う菩薩、第五に努力を必要としない行を行う菩薩である。以上のような多くの異なる種類の人々が無数に存在する。 貪りの行を持つ人とは、激しく長く続く貪欲がある者をいう。たとえ低劣で愛着すべき対象に対しても、上等な貪りを引き起こし、そしてそれが生じると長く絶えることがない。貪りの行を持つ者のように、妄想の行を持つ者もまた同様であり、それぞれが自分の対象において激しく長く続く。道理に従って解釈すべきである。

等分行補特伽羅者，謂住自性位煩惱，遠離猛劣，住平等位諸煩惱故，隨境界勢力煩惱現行故。

> 等分行の補特伽羅とは、自らの本性の位にある煩悩にとどまり、猛りや劣りを離れて平等な位にある諸々の煩悩のため、また、対象となる境界の勢力に従って煩悩が現れ出る者のことを指す。

薄塵行補特伽羅者，謂住自性位微薄煩惱。如前所說自性位煩惱相，今此煩惱望彼是微薄故。雖於增上所緣境界，而微薄性煩惱現行，昔所修習勝對治力所摧伏故。

> 煩悩の薄い修行者とは、自然な状態において煩悩が微かである人のことを指します。先に述べた自然な状態での煩悩の様子に対し、この場合の煩悩はさらに薄くなっています。たとえ強く執着する対象（増上の所縁境）に接しても、その薄い性質の煩悩が現れるだけです。これは過去に修行した優れた対治法の力によって、煩悩がすでに抑え込まれているからです。

聲聞乘補特伽羅者，謂住聲聞法性，若定不定性，是鈍根，自求解脫發弘正願，修厭離貪解脫意樂，以聲聞藏為所緣境，精進修行法隨法行，得盡苦際。當知此中以種性、根、願、意樂、境界、行果差別說聲聞乘。對獨覺菩薩根性，說此為鈍，若不爾即與隨法行等利根言相違。

> 声聞乗の修行者とは、声聞の法性にとどまる者を指し、定性的または不定性的な性質を持つ者である。彼らは鈍根であり、自らの解脱を求めて広大な正しい誓いを立て、厭離（嫌って離れること）と貪りからの解脱を意図して修行する。声聞蔵を対象として、精進して法に従い、法に随って行うことで、苦しみの究極に至る。 ここで、種性（性質）、根（能力）、願（誓い）、意楽（心の向き）、境界（対象）、行果（修行と結果）の違いによって声聞乗が説明されていることを知るべきである。 独覚や菩薩の根性と比較して、これらは鈍根とされる。もしそうでなければ、法に随って修行する者など利根であるという教えと矛盾することになる。

獨覺乘補特伽羅者，謂住獨覺法性，若定不定性，是中根，自求解脫發弘正願，修厭離貪解脫意樂及修獨證菩提意樂，即聲聞藏為所緣境，精進修行法隨法行。或先未起順決擇分、或先已起順決擇分，或先未得果、或先已得果，出無佛世，唯內思惟聖道現前，或如麟角獨住、或復獨勝部行，得盡苦際。若先未起順決擇分亦不得果，如是方成麟角獨住，所餘當成獨勝部行。

> 独覚乗の修行者とは、「独覚の法性（本質的な性質）」に安住する者を指す。彼らは、固定的な性質を持つ者もいれば、そうでない者も含まれる、中程度の根機を持つ者である。自らの悟りを求めて、清らかで正しい誓願を起こし、世間への厭離と貪りからの解脱を望む心、また独りでさとりを証することを願う心を修行する。彼らは声聞の教えを学習対象とし、精進して教えに従った実践を行う。 ある者たちは、それまでに「順決択分（悟りの準備段階）」を起こしていなかったり、あるいは既に起こしていたり、あるいは果を得ていなかったり、あるいは既に果を得ていたりする。彼らは仏のいない世に現れ、ただ内省によって聖なる道を顕現させる。または「麟角独住（一角獣のように独りでいる）」の者となるか、もしくは「独勝部行（集団でいるが優れた独覚）」となることで、苦しみの限りを尽くす。 もしも「順決択分」を起こしたことがなく、かつ果も得ていないならば、その者は「麟角独住」となる。それ以外の者は「独勝部行」となるべきである。

大乘補特伽羅者，謂住菩薩法性，若定不定性，是利根，為求解脫一切有情，發弘大願，修無住處涅槃意樂，以菩薩藏為所緣境，精進修行法隨法行，成熟眾生修淨佛土，得受大記，證成無上正等菩提。得受大記者，謂住第八菩薩地，證得無生法忍故。

> 大乗の修行者とは、菩薩の性質を持つ人のことです。その性質が定まっているか定まっていないかにかかわらず、すべての鋭い根機を持つ人々を指します。彼らはすべての生きとし生けるものを救済するために大きな誓いを立て、とどまることのない涅槃（ねはん）を目指して修行する心を持っています。菩薩の教えを学びの対象とし、熱心に修行を積み、教えに従って実践します。そして、生きとし生けるものを成熟させ、仏の国を清らかにし、大きな授記（じゅき）を受け、無上の正しい悟りである阿耨多羅三藐三菩提（あのくたらさんみゃくさんぼだい）を成就します。大きな授記を受けるとは、第八の菩薩の位に達し、無生法忍（むしょうほうにん）を体得したことを意味します。

未具資糧補特伽羅者，謂緣諦增上法為境，發起軟品清信勝解，成就軟品順解脫分，未定生時。

> 資糧（修行に必要な条件）をまだ備えていない人のことを言います。具体的には、真理をよりどころとする教えを対象として、弱いレベルの清らかな信解を起こし、弱いレベルの「順解脱分（解脱に向かう素質）」を身につけているが、まだいつ生まれ変わるかが定まっていない段階の人です。

已具未具資糧補特伽羅者，謂緣諦增上法為境，發起中品清信勝解，成就中品順解脫分，已定生時。

> すでに資糧を備えている者と、まだ備えていない者について。 「資糧を備えている者」とは、真理（諦）をよりどころとする優れた教えを対象として、中くらいの清らかな信心と勝れた理解を発起し、中くらいの順解脱分を成就して、すでに次の生が確定している段階にある者のことをいう。

已具資糧補特伽羅者，謂緣諦增上法為境，發起上品清信勝解，成就上品順解脫分，即此生時。

> 資糧を具えた人は、真理を対象として、優れた清らかな信と理解を起こし、優れた解脱に向かう性質を成就します。この生涯のうちにその状態に達します。

又未具資糧者，謂緣諦增上法為境，於諸諦中成就下品諦察法忍，成就下品順決擇分，未定生時。

> また、資糧（しかるべき準備）が十分でない者とは、真理（諦）をよりどころとする教えを対象として、その真理に対して下位の段階の「諦察法忍」（真理を見極める忍耐）と、下位の「順決択分」（選択を助ける善き心）を成就しているものの、まだ確実に次の境地に生まれる状況には至っていない者をいいます。

已具未具資糧者，謂緣諦增上法為境，於諸諦中成就中品諦察法忍，成就中品順決擇分，已定生時。

> すでに資糧を備えた者、あるいはまだ備えていない者は、真理に基づく教えをよりどころとし、四つの真理に対して中程度の真理を観察する法忍を成就し、中程度の順決択分を成就し、すでに次の生において悟りへと向かうことが定まった時にいる。

已具資糧者，謂緣諦增上法為境，於諸諦中成就上品諦察法忍，成就上品順決擇分，即此生時。

> 資糧をそなえた者とは、真理をよりどころとする教えを対象として、諸々の真理のなかで、上品な真理を観察する法忍（真理に対する確固たる理解）を成就し、上品な順決択分（悟りに向かう確かな智慧）を成就した、その生涯の時をいう。

如是三種補特伽羅，由成就順解脫分、順決擇分各三品故。約能引生順決擇分及諦現觀，如其次第，未定、已定、即此生時。於諦增上法清信勝相，是順解脫分。即於此法諦察法忍相，是順決擇分。如其次第，信增上故、慧增上故。此中三品順決擇分者，謂除世第一法，由世第一法性唯一剎那必不相續，即此生時定入現觀，非前位故。從下中品順解脫分、順決擇分有可退義，此唯退現行非退習氣，已依涅槃先起善根者不復新起故。依此下品順解脫分善根，薄伽梵說：若有具世間，增上品正見，雖經歷千生，不墮三惡趣。

> このような三種類の修行者について、順解脱分と順決択分を成就するには、それぞれ三つの品（階位）があるからである。順決択分と諦現観を引き起こすことについては、それぞれ未定、已定、そしてこの世での生の時という順序である。諦（真理）についての勝れた教えに対する清らかな信解が勝れた相であること、これが順解脱分である。また、同じ教えについて諦察法忍（真理を観察し受け入れる智慧）の相であること、これが順決択分である。それぞれの順序で、信が勝れていること、智慧が勝れていることによる。 この中の三品の順決択分とは、世第一法を除くものである。なぜなら、世第一法はただ一刹那のみであり、必ず相続しないからである。この生の時に必ず現観に入るものであり、前の位ではないからである。 下品と中品の順解脱分と順決択分には退失する可能性がある。これは現行（表面の活動）を退失するだけであって、習気（潜在的な傾向）を退失するのではない。すでに涅槃に依って善根を起こした者は、新たに再び起こすことはないからである。 この下品の順解脱分の善根に基づいて、釈尊は次のように説かれている。「もし世間における増上品の正見を具えた者がいれば、たとえ千回の生を経ようとも、三悪趣に堕ちることはない。」

又有四種順解脫分：一者依憑順解脫分、二者勝解順解脫分、三者愛樂順解脫分、四者趣證順解脫分。從善法欲乃至為求解脫所有善根，皆名依憑順解脫分。於彼相應教法所有勝解俱行善根，是名勝解順解脫分。緣解脫境作意相續清淨喜俱所有善根，是名愛樂順解脫分。即於此生決定發起順決擇分所有善根，是名趣證順解脫分。

> また、解脱に向かう四つの種類がある。第一に「依憑による解脱への道」、第二に「確かな理解による解脱への道」、第三に「喜びの心による解脱への道」、第四に「悟りを目指す解脱への道」である。 善い行いを望み、解脱を求める心から生じるあらゆる善い根は、「依憑による解脱への道」と呼ばれる。その教えについて確かな理解を伴って生じる善い根は、「確かな理解による解脱への道」である。解脱を対象として心を集中し、清らかな喜びと共にある善い根は、「喜びの心による解脱への道」である。そして、この生涯において、確かに解脱への判断を生じさせる善い根は、「悟りを目指す解脱への道」である。

復有六種順決擇分，謂隨順順決擇分、勝進順決擇分、通達順決擇分、餘轉順決擇分、一生順決擇分、一座順決擇分。若最初所起緣諦境行下品善根，是名隨順順決擇分。即此善根轉成中品，是名勝進順決擇分，望前下品是增勝故。即此善根增至上品，於此生中決定堪能通達諦理，是名通達順決擇分。又即此位中，不定種性者為迴向最勝菩提，及諸獨覺為求無師自證菩提，轉趣餘生，是名餘轉順決擇分。若於此生定能通達，是名一生順決擇分。若於此座定能通達，是名一座順決擇分。

> さらに、六種の順決択分（じゅんけっちゃくぶん）というものがあります。すなわち、 \* 随順（ずいじゅん）順決択分 \* 勝進（しょうしん）順決択分 \* 通達（つうたつ）順決択分 \* 余転（よねん）順決択分 \* 一生（いっしょう）順決択分 \* 一座（いちざ）順決択分 です。 修行者が初めて真理（諦）の対象に向かい、下位の善根（ぜんこん）を起こす場合、これを「随順順決択分」と呼びます。 この善根がさらに中位へと成長したものを「勝進順決択分」といいます。これは先の下位に比べて、より優れたものとなったからです。 そして、この善根がさらに上位に達し、現世において必ず真理を悟ることができるようになったものを「通達順決択分」といいます。 また、同じ修行の段階にあっても、修行者の性質が定まっていない場合、最も優れた悟りを目指そうと心を向け変える者や、独覚（どっかく）として独りで悟りを求める者たちは、次の生へと移行して修行を続けます。これを「余転順決択分」といいます。 現世で必ず悟りに至るものを「一生順決択分」といいます。 そして、まさにその坐（ざ）において悟りを得るものを「一座順決択分」といいます。

隨信行補特伽羅者，謂資糧已具，性是鈍根，隨順他教修諦現觀。

> 信によって修行する人とは、すでに修行の基盤が整っており、性質は鈍根で、他人の教えに従って真理を観察する修行をする人のことをいいます。

隨法行補特伽羅者，謂資糧已具，性是利根，自然隨順諦增上法修諦現觀。

> 法に従って修行する人とは、修行に必要な準備が整い、生まれつき優れた理解力を持ち、自然と真理をよりどころとして、真理を観察する修行を進める人のことです。

信解補特伽羅者，謂隨信行已至果位。見至補特伽羅者，謂隨法行已至果位。身證補特伽羅者，謂諸有學已具證得八解脫定，即不還果說名身證，由身證得八解脫定具足住故。八解脫者，謂有色觀諸色等，後當廣說。

> 信解の人とは、随信行を経て果位に達した者を指します。 見至の人とは、随法行を経て果位に達した者を指します。 身証の人とは、有学の位においてすでに八解脱の定を具足して証得した者を指します。これは不還果を身証と名づけるもので、身体によって八解脱の定を具足して安住するからです。 八解脱とは、色あるものが色を観ずるなどの修行であり、詳しくは後で述べます。

慧解脫補特伽羅者，謂已盡諸漏，而未具證八解脫定，唯究竟斷慧所對治煩惱障故。

> 慧解脱の人は、すでにすべての煩悩の漏れを尽くしているが、八解脱の定めを完全には成就していない。ただ智慧によって対治すべき煩悩の障りを究極的に断ち切ったからである。

俱分解脫補特伽羅者，謂已斷諸漏及具證八解脫定，由煩惱障分及定障分俱得解脫故。預流果向補特伽羅者，謂住順決擇分位，及住見道十五心剎那位。此中意說，始從一座順決擇分乃至未得初果，皆名預流果向。豫流果補特伽羅者，謂住見道第十六心剎那位。即此見道，亦名入正性決定，亦名於法現觀。問：誰於見道最後心位得初果耶？答：若於欲界未離欲者，後入正性決定得預流果。謂次第者，雖少分離欲亦名未離欲，彼後入正性決定，至第十六心位得預流果。若倍離欲者，後入正性決定得一來果。謂先用世間道已斷欲界修道所斷六品煩惱，名倍離欲。彼後入正性決定，至第十六心位得一來果。若已離欲者，後入正性決定得不還果。謂先用世俗道已斷欲界修道所斷九品煩惱，名已離欲。彼後入正性決定，至第十六心位得不還果。問：若已永斷見道所斷一切煩惱得預流果，何故但言永斷三結得預流果耶？答：最勝所攝故，由此三種障解脫得最為殊勝。所以者何？於解脫是不發趣因故、雖已發趣復為邪出離因故、及不正出離因故、由薩迦耶見執五取蘊為我我所深生愛樂故，於大苦聚不生厭背、於勝解脫無發趣心。或有眾生雖已發趣解脫，然由戒禁取及疑，僻執邪道疑正道故，便邪出離及不正出離。又此三結是迷所知境因故、迷見因故、迷對治因故。所以者何？由薩迦耶見迷所知境，於大苦聚虛妄增益我我所相故。由戒禁取迷能知見，於顛倒見謂為清淨出離因故。由疑迷正對治，於三寶所不決定故。

> 俱分解脱の修行者とは、すでにすべての煩悩（もろもろの漏）を断ち切り、かつ八つの解脱定を具えて証得した者を指します。これは煩悩の障りと定の障りの両方から解脱しているからです。 預流果に向かう修行者とは、順決択分の位に留まる者、および見道の十五心刹那の位にいる者を指します。ここでいう意味は、一つの座から順決択分を始め、未だ初果を得ないに至るまで、すべて預流果に向かう者と名づけられます。 預流果の修行者とは、見道の第十六心刹那の位にいる者を指します。すなわち、この見道はまた「正性に決定に入る」とも名づけられ、「法において現観する」とも名づけられます。 問う：誰が、見道の最後の心位において初果を得るのでしょうか？ 答える：もし欲界において未だ欲を離れていない者であれば、後に正性に決定に入り預流果を得ます。段階を踏んで修行する者（次第者）は、たとえ少し欲を離れていても「未だ欲を離れていない」と称され、その者は後に正性に決定に入り、第十六心位に至って預流果を得ます。 もし倍の欲を離れた者（倍離欲者）であれば、後に正性に決定に入り一来果を得ます。これは、先に世間道を用いて、すでに欲界の修道所断の六品の煩悩を断じた者を「倍離欲」と称します。その者は後に正性に決定に入り、第十六心位に至って一来果を得ます。 もしすでに欲を離れた者（已離欲者）であれば、後に正性に決定に入り不還果を得ます。これは、先に世俗道を用いて、すでに欲界の修道所断の九品の煩悩を断じた者を「已離欲」と称します。その者は後に正性に決定に入り、第十六心位に至って不還果を得ます。 問う：もしすでに見道所断の一切の煩悩を完全に断ち切り預流果を得たのなら、なぜただ「三結を永久に断ち切って預流果を得る」とだけ言うのでしょうか？ 答える：それが最も優れたもの（最勝）に含まれるからです。この三つの結縛が解脱を妨げる障りとして、最も殊勝であるからです。なぜなら、それらは解脱に対して、発趣しない因となるからです。たとえすでに発趣したとしても、さらに邪な出離の因となり、正しくない出離の因となるからです。すなわち、サッカヤ・ディッティ（有身見）によって五取蘊を我がもの、我が所有と執着し深く愛着するゆえに、大きな苦しみの集まりに対して厭い離れる心を生じず、優れた解脱に対して発趣する心がありません。あるいは、衆生の中にはすでに解脱に発趣した者もいますが、しかし戒禁取（戒や禁制への執着）と疑によって、邪な道に固執し正道を疑うゆえに、邪な出離や正しくない出離をしてしまいます。また、この三つの結縛は、所知の境を迷う因、見を迷う因、対治を迷う因となるからです。なぜなら、サッカヤ・ディッティによって所知の境を迷い、大きな苦しみの集まりに対して虚妄に我と我が所有の相を増益するからです。戒禁取によって能知の見を迷い、顛倒した見解を清浄な出離の因であると謂うからです。疑によって正しい対治を迷い、三宝の処において決定しないからです。

一來果向補特伽羅者，謂於修道中已斷欲界五品煩惱安住彼道。所以者何？由見道後已斷欲界乃至中中品煩惱及住彼斷道故。

> 一来果に向かう補特伽羅とは、修行の道において、すでに欲界の五種類の煩悩を断ち切り、その道に安住している者を指します。なぜなら、見道の後に欲界の煩悩を、中くらいのレベルのものまで断ち切り、その断ち切りの道に留まっているからです。

一來果補特伽羅者，謂於修道中已斷欲界第六品煩惱安住彼道。所以者何？由已永斷中軟品煩惱，斷道究竟建立此故。

> 一来果の補特伽羅（サクラダーガーミン）とは、修行の道において、すでに欲界の第六品の煩悩を断ち切り、その道に安住している者のことです。なぜなら、中程度で微細な煩悩の束を完全に断ち切り、その断ち切りの道が究極に達したことをもって、この位が確立されるからです。

不還果向補特伽羅者，謂於修道中已斷欲界第七第八品煩惱安住彼道。所以者何？由一來果後已斷欲界軟上軟中品煩惱，及住彼斷道建立此故。

> 不還果に向かう修行者とは、修行の道において、すでに欲界の第七番目と第八番目の煩悩を断ち切り、その道に安住している人のことです。なぜかというと、一来果の後に、欲界の柔らかい上等・柔らかい中等の煩悩を断ち切り、その断ち切りの道に安住することによって、この位が定められるからです。

不還果補特伽羅者，謂於修道中已斷欲界第九品煩惱安住彼道。所以者何？由彼永斷欲界軟軟品煩惱，斷道究竟建立此故。問：若已永斷一切見道所斷煩惱，及已永斷欲界修道所斷一切煩惱得不還果，何故但言永斷五順下分結得不還果耶？答：最勝所攝故。云何最勝？由此五結能為下趣下界勝因，故名最勝。所以者何？下趣者，謂地獄、畜生、餓鬼。下界者，謂欲界。以薩迦耶見、戒禁取、疑為最勝因，令諸有情不越下趣故。以貪欲瞋恚為最勝因，令諸有情不越下界故。

> 不還果（アナガーミン）の修行者とは、修道の過程において、すでに欲界の第九品の煩悩を断ち切り、その道に安住している人のことです。なぜなら、彼らが欲界の最も微細な煩悩を永遠に断ち切り、その断ち切りの道が完成したことによって、この境地が確立されるからです。 問：もしすでにすべての見道で断つべき煩悩を永遠に断ち、さらに欲界の修道で断つべきすべての煩悩も永遠に断って不還果を得たのなら、なぜ「五つの下分結を永遠に断って不還果を得る」とだけ説くのですか？ 答：それが最も優れたものを含んでいるからです。なぜ「最も優れた」と言うのか？これら五つの結び目は、下劣な趣や下界に導く最も強力な原因となるため、最も優れたものと呼ばれます。なぜなら、下劣な趣とは地獄・畜生・餓鬼を指し、下界とは欲界を指します。このうち、有身見（サッカーヤ・ディッティ）、戒禁取（シーラッバタ・パラマーサ）、疑（ウィチキッチャー）が最も強力な原因となり、有情を下劣な趣から超え出させないようにします。また、貪欲と瞋恚が最も強力な原因となり、有情を下界から超え出させないようにするのです。

阿羅漢果向補特伽羅者，謂已永斷有頂八品煩惱安住彼道。

> 阿羅漢果に向かう修行者とは、すでに有頂天（三界の最も高い世界）における八種類の煩悩を完全に断ち切り、その道に安住している人のことを言います。

阿羅漢果補特伽羅者，謂已永斷有頂第九品煩惱安住彼究竟道。問：若阿羅漢永斷三界一切煩惱，何故但言永斷一切五順上分結得阿羅漢果耶？答：最勝所攝故。云何最勝？由此五結是取上分因及不捨上分因，故名最勝。所以者何？由色無色愛取欲界上色無色界生故，由掉慢無明不捨此上生故，以愛慢疑上靜慮者為彼所惱故。

> 阿羅漢果を得た者は、有頂天（非常に高い天）における第九番目の煩悩を永遠に断ち切り、その究極の境地に安住している者のことを指します。 \*\*問：\*\* 阿羅漢は三界（欲界・色界・無色界）の全ての煩悩を断ち切るのであれば、なぜ特に「五つの上分を結ぶ煩悩」（五順上分結）を全て断ち切って阿羅漢果を得たと説くのでしょうか？ \*\*答：\*\* それらが最も優れた（重要な）ものだからです。なぜ「最も優れた」と言えるのでしょうか。この五つの煩悩は、より高い世界に生まれ変わる原因となり、また、その高い世界から離れられない原因となるからです。すなわち、色界と無色界への愛着が、欲界からさらに上の色界・無色界へと生まれ変わらせるからです。また、高ぶり、慢心、無明（無知）が、その上の世界での生まれ変わりを捨てさせないからです。さらに、高い瞑想に達した者でも、この愛着、慢心、疑惑に悩まされるからです。

極七返有補特伽羅者，謂即豫流。於人天生往來雜受，極至七返得盡苦際。

> 極七返有補特伽羅とは、すなわち預流（よる）のことである。人や天の世界に生まれ変わり、さまざまな苦楽を受けながら、最長で七回までの生死を繰り返して、ついに苦しみの限りを尽くすに至る者をいう。

家家補特伽羅者，謂即預流。或於天上或於人中，從家至家得盡苦際。所以者何？即預流果進至一來果向，或於天上或於人中，決定往來極受二有方般涅槃故。

> 家家補特伽羅（家家の修行者）とは、すなわち預流果（初果）を指します。 彼らは天上界、あるいは人間界において、家から家へと（輪廻を）巡り、苦しみの終わりに至ります。 なぜなら、預流果から一来果（第二果）へと向かう彼らは、天上界か人間界において、必ず二度だけ生死を繰り返した後、完全な涅槃に入るからです。

一間補特伽羅者，謂即一來。或於天上唯受一有，得盡苦際。所以者何？即一來果進至不還果向，或於天上唯受一有，得般涅槃故。唯有一隙，容此一生，故名一間。

> 一間補特伽羅（いちげんぶとくら）とは、すなわち一来（いちらい）のことです。 つまり、天上界においてただ一度だけ生を受けて、苦しみの尽きる境界に達する者を指します。 なぜなら、一来果（いちらいか）から不還果（ふげんか）に向かう段階において、天上で一度だけ生を受けて、そこで涅槃（ねはん）に入ることがあるからです。 このように、わずかに一つの間（あいだ）だけがこの一生を受ける余地として残されていることから、一間（いちげん）と名づけられています。

中般涅槃補特伽羅者，謂生結已斷、起結未斷，或中有纔起，即便聖道現前，得盡苦際。或中有起已，為趣生有，纔起思惟，即便聖道現前，得盡苦際。或思惟已發趣生有，未到生有即便聖道現前，得盡苦際。此中顯示三種中般，由煩惱力往趣生處令生有相續，此煩惱已盡；唯由隨眠力令命終後諸蘊續起，此隨眠餘猶未盡。或中有纔起，由串習力聖道現前斷餘隨眠，即於此位入般涅槃。或中有起已，為往生有纔發思惟，聖道現前斷餘隨眠，入般涅槃。或思惟已往生有處，未得生有，聖道現前斷餘隨眠，入般涅槃。如是三種，望生有處，未發、纔發、已遠去位差別建立，隨順《七善丈夫趣經》。

> 中般涅槃の補特伽羅とは、生の結び目は断ち切ったものの、発生の結び目はまだ断ち切っていない者のことです。あるいは中有が生じたばかりで、ただちに聖道が現前し、苦の果てを尽くす場合もあります。または中有が生じてから、生有に向かおうとして、ちょうど思惟を起こしたときに、聖道が現前して苦の果てを尽くす場合もあります。あるいは思惟を終えて生有へ向かい始めたものの、まだ生有に至らないうちに、聖道が現前して苦の果てを尽くす場合もあります。 ここでは三種の中般が示されています。煩悩の力によって生まれる場所へと赴き、生有を引き継がせるものですが、この煩悩はすでに尽きています。ただ随眠の力によってのみ、命終後に諸蘊が続けて生じるのです。この残りの随眠はまだ尽きていません。あるいは中有が生じたばかりで、慣れ親しんだ力によって聖道が現前し、残りの随眠を断ち切って、この位において般涅槃に入ります。あるいは中有が生じてから、生有へと向かおうとして、ただ思惟を起こしたときに、聖道が現前して残りの随眠を断ち切り、般涅槃に入ります。あるいは思惟を終えて生有へ向かう場所に至ったものの、まだ生有を得ていないときに、聖道が現前して残りの随眠を断ち切り、般涅槃に入ります。 このように三種は、生有の場所に対して、まだ向かっていない、ちょうど向かい始めた、すでに遠くへ向かったという位の違いによって立てられており、『七善丈夫趣経』に従ったものです。

生般涅槃補特伽羅者，謂二結俱未斷，纔生色界已，即便聖道現前，得盡苦際。

> 生般涅槃の補特伽羅とは、二つの結縛のいずれもまだ断ち切られていないが、色界に生まれるとすぐに聖道が現前し、苦しみの果てに至る者を指します。

無行般涅槃補特伽羅者，謂生彼已，不由加行聖道現前，得盡苦際。不由加行者，由宿串習力，無漏聖道任運現前，無功用故。

> \*\*修行を経ずに涅槃に至る人\*\*とは、その世界に生まれた後、特別な修行をするまでもなく、悟りの道が自然と現れて、苦しみの限りを尽くすことができる人のことです。 「特別な修行によらない」とは、過去世における繰り返しの修行の力によって、煩悩を断つ清らかな道が、努力をしなくても自然と目の前に現れるからです。

有行般涅槃補特伽羅者，謂生彼已，由加行力聖道現前，得盡苦際。由加行者，與上相違故。

> 有行般涅槃の補特伽羅とは、その世界に生まれた後、修行の力によって悟りの道が現れ、苦しみの果てに達する者を言います。ここで「修行による」とは、上の説明と反対の意味です。

上流補特伽羅者，謂於色界地地中皆受生已，乃至最後入色究竟，於彼無漏聖道現前，得盡苦際。復有乃至往到有頂，聖道現前，得盡苦際。此中顯示二種上流，一極至色究竟、二極至有頂。極至色究竟者，謂多愛味補特伽羅，由多生起軟等靜慮差別愛味故，始從梵眾天乃至色究竟，於一切處次第各受一生，乃至最後入色究竟得般涅槃。極至有頂者，謂不雜修第四靜慮，唯避淨居，如前次第生一切處，乃至有頂方般涅槃。又雜修第四靜慮，有五品差別：一下品修、二中品修、三上品修、四上勝品修、五上極品修。由此五品雜修第四靜慮故，如其次第生五淨居。

> 上流の修行者とは、色界の各段階において、それぞれに生を受け、最終的に色究竟天に至り、その地で無漏の聖道が現前し、苦しみの尽きる果てを得る者です。また、有頂天に至ってから聖道が現前し、苦しみの尽きる果てを得る者もいます。 ここでは二種の上流を示しています。一つは色究竟天まで極まる者、もう一つは有頂天まで極まる者です。 色究竟天まで極まる者とは、愛着の多い修行者であり、微弱な静慮など様々な段階の静慮への愛着を多く生じさせるため、梵衆天から始まり色究竟天に至るまで、すべての場所に順に各一生を経て、最後に色究竟天に入り般涅槃を得ます。 有頂天まで極まる者とは、第四静慮を雑修せず、ただ浄居天だけを避け、先と同じ順序で全ての場所に生まれ、有頂天に至ってから般涅槃を得ます。 また、第四静慮を雑修することには五つの段階の違いがあります。一に下品の修、二に中品の修、三に上品の修、四に上勝品の修、五に上極品の修です。この五つの品によって第四静慮を雑修するので、その順序に従って五つの浄居天に生まれます。

退法阿羅漢者，謂鈍根性，若遊散若不遊散、若思惟若不思惟，皆可退失現法樂住。思惟者，欲害自身。不思惟者，不欲害自身。退現法樂住者，謂退世間靜慮等定。

> 退法阿羅漢とは、鈍根の性質を持つ者を指します。散漫に過ごしていようと、そうでなかろうと、また、思考にふけっていようと、いまいと、いずれの場合も、現世での安楽な境地（現法楽住）を失う可能性があります。思考にふけるとは、自らを害そうとすることであり、思考にふけらないとは、自らを害そうとしないことです。現法楽住を失うとは、この世における禅定（静慮）などの境地を失うことを意味します。

思法阿羅漢者，謂鈍根性，若遊散若不遊散、若不思惟，即可退失現法樂住。若思惟已，能不退失。

> 思法阿羅漢とは、鈍い根性を持つ人のことです。この人は、散漫に過ごしても、散漫でなく過ごしても、あるいは考えを巡らせなくても、現在の安らかな境地（現法楽住）を失ってしまうことがあります。しかし、考えを巡らせれば、その境地を失わずに保つことができるのです。

護法阿羅漢者，謂鈍根性，若遊散便可退失現法樂住，若不遊散即能不退住。不動阿羅漢者，謂鈍根性，若遊散若不遊散，皆能不退現法樂住，亦不能練根。練根者，謂轉下鈍根成上利根。是故不動法不說能練根，性是利根故。

> 「護法阿羅漢」とは、鈍根（どんこん）の性質を持つ者を指します。もし心を散漫に遊ばせれば、現世における安楽の境地（現法楽住）を失うことがありますが、散漫に遊ばせなければ、その境地を失わずにいられます。 「不動阿羅漢」とは、やはり鈍根の性質を持つ者ですが、心を散漫に遊ばせようと遊ばせまいと、いずれの場合でも現法楽住を失うことがありません。ただし、根（こん）を鍛え上げることはできません。 ここで「根を鍛える」とは、鈍い性質の根を、鋭く優れた性質へと変えることを言います。そのため、不動法の者は根を鍛えるとは言われません。なぜなら、もともとその性質が鋭い利根（りこん）だからです。

堪達阿羅漢者，謂鈍根性，若遊散若不遊散，皆能不退現法樂住，堪能練根。不動法阿羅漢者，謂利根性，若遊散若不遊散，皆能不退現法樂住。

> 堪達阿羅漢とは、鈍根の性質を持つ者です。遊び心がある場合も、ない場合も、どちらでも現法楽住（現在の安楽な境地）を退くことなく、さらに根を練り上げていく力があります。不動法阿羅漢とは、利根の性質を持つ者です。遊び心がある場合も、ない場合も、どちらでも現法楽住を退くことはありません。

欲界異生補特伽羅者，謂於欲界若生若長，不得聖法。

> 欲界の凡夫（補特伽羅）とは、欲界に生まれ育ち、聖なる教え（聖法）を得ていない者のことである。

欲界有學補特伽羅者，謂於欲界若生若長，已得聖法，猶有餘結。

> 欲界において修行中の人は、欲界に生まれ育ち、すでに聖なる教えを得ているが、まだ煩悩の束縛が残っている者を指します。

欲界無學補特伽羅者，謂於欲界若生若長，已得聖法，無有餘結。如欲界有三，如是色無色界各有三種，隨相應知。

> 欲界における無学の補特伽羅（修行を完成した人）とは、欲界に生まれ、あるいは育ち、すでに聖なる教えを得て、もはや煩悩の束縛が残っていない人のことです。欲界に三つの種類があるように、色界と無色界にもそれぞれ三つの種類があり、状況に応じて理解すべきです。

欲色界菩薩者，謂與滅離無色界生靜慮相應住靜慮樂，而生欲界或生色界。問：何緣菩薩不生無色界？答：若已證得最勝威德菩薩，凡所受生皆欲利益安樂眾生，以無色界非成熟眾生處故。滅離無色界生靜慮者，謂能除遣無色界生所有勝定。住靜慮樂者，謂不退靜慮。由此菩薩善巧迴轉故，為欲成熟所化有情，或生欲界或生色界。

> 欲界と色界に生まれる菩薩とは、無色界への生まれ変わりを離れ、静慮（瞑想）と相応してその楽に安住しつつ、欲界または色界に生まれる者のことです。 問：なぜ菩薩は無色界に生まれないのでしょうか。 答：すでに最勝の威徳を証得した菩薩は、その受ける生まれがすべて衆生を利益し安楽にするためのものであり、無色界は衆生を成熟させる場所ではないからです。 「無色界への生まれ変わりを離れた静慮」とは、無色界への生まれ変わりをもたらすすべての優れた定をも除き離れることをいいます。 「静慮の楽に安住する」とは、静慮から退失しないことをいいます。 このように菩薩は巧みに方向転換する力を持つため、教化すべき有情を成熟させる目的で、欲界または色界に生まれるのです。

欲界獨覺者，謂無佛出世時生於欲界，自然證得獨覺菩提。

> 欲界の独覚とは、仏がこの世に出現していない時代に欲界に生まれ、自然に独覚の悟りを開く者をいいます。

不思議如來者，謂且於欲界始從示現安住覩史多天妙寶宮殿，乃至示現大般涅槃，示現一切諸佛菩薩所行大行。一切菩薩所行者，謂從示現覩史多天宮，乃至現大神變降伏魔軍。諸佛所行者，謂從示現成等正覺，乃至示現大般涅槃。

> 不思議な如来というのは、欲界において、まず兜率天の妙宝宮殿に安住する様子を示現するところから始まり、大般涅槃を示現するに至るまで、すべての諸仏・菩薩が行う大いなる行いを示現することです。 すべての菩薩の行いとは、兜率天の宮殿を示現するところから、大神変を示現して魔軍を降伏させることに至るまでのことです。 諸仏の行いとは、等正覚を成就することを示現するところから、大般涅槃を示現することに至るまでのことです。

勝解行菩薩者，謂住勝解行地中，成就菩薩下中上忍。由其安住菩薩種姓，始從初發大菩提願，乃至未入極歡喜地，未得出世真實內證故，名勝解行菩薩。

> 勝解行の菩薩とは、勝解行の境地に住し、菩薩としての下・中・上の忍（忍びの位）を成就した者をいいます。菩薩の種姓（素質）に安住し、初めて大いなる悟りの願いを起こしてから、まだ極喜地（初地）に入らず、世を超えた真実の内証（心の悟り）を得ていないため、勝解行の菩薩と名づけられます。

增上意樂行菩薩者，謂十地中所有菩薩，由已證得出世內證清淨意樂故。有相行菩薩者，謂住極喜、離垢、發光、焰慧、極難勝、現前地中所有菩薩，由此六地雖不喜樂，而為諸相所間雜故。

> 增上意楽を行ずる菩薩とは、十地にあるすべての菩薩のことで、すでに世を超えた内なる悟りの清らかな意楽を証得しているからです。有相行の菩薩とは、極喜地・離垢地・発光地・焔慧地・極難勝地・現前地に住するすべての菩薩のことで、この六つの地にある者は、たとえそれを好まなくとも、様々な相によって間雜されているからです。

無相行菩薩者，謂住遠行地中所有菩薩，由此菩薩若作功用乃至隨其欲樂，能令諸相不現行故。

> 無相行の菩薩とは、遠行地（第七地）にとどまる菩薩のことです。この菩薩は、努力をすれば、あるいはその願いに従えば、あらゆる相が現れなくなる性質を持っています。

無功用行菩薩者，謂住不動、善慧、法雲地中所有菩薩，由此菩薩已得純熟無分別智故。

> 無功用の行を実践する菩薩とは、不動地・善慧地・法雲地に住する菩薩のことを言います。これらの菩薩は、すでに成熟した無分別智を獲得しているからです。

復次如說預流補特伽羅，此有二種：一漸出離、二頓出離。漸出離者，如前廣說。頓出離者，謂入諦現觀已，依止未至定發出世間道，頓斷三界一切煩惱，品品別斷唯立二果，謂預流果、阿羅漢果。品品別斷者，謂先頓斷欲色無色界修道所斷上上品隨眠，如是乃至軟軟品。頓斷三界者，如見道所斷，非如世間道界地漸次品品別斷。此義以何為證？如《指端經》說：諸所有色乃至識，若過去若未來若現在，廣說乃至若遠若近，總此一切略為一分一團一積一聚。如是略已，應觀一切皆是無常、一切皆苦，乃至廣說。依如是觀，但可建立初後二果。由此二果如其次第，永斷三界一切見修所斷煩惱無餘所顯故，不立第二第三兩果。由此二果，已見諦者唯斷欲界修道所斷，有餘無餘所顯故。又依如是頓出離者，如來於分別經中，預流果無間即建立阿羅漢果，如是補特伽羅多於現法或臨終時善辦聖旨。設不能辦，由願力故，即以願力還生欲界，出無佛世成獨勝果。設不辦者，未能無餘離諸欲故，即以願力生欲界者，彼能速證般涅槃故。

> 『預流果（しょうりゅうか）の修行者には、二つの種類があります。一つは「漸出離（ぜんしゅつり）」、もう一つは「頓出離（とんしゅつり）」です。 「漸出離」とは、これまで詳しく述べてきたように、段階を踏んで進む道です。「頓出離」とは、真理を観察する「諦現観（たいげんかん）」に入った後、未至定（みしじょう）という浅い禅定に基づいて、世間を超えた智慧を現し、三界（欲界・色界・無色界）のすべての煩悩を一気に断ち切る道です。煩悩を一つひとつ細かく分類して断つ場合でも、ここでは預流果と阿羅漢果（あらかんか）の二つの果報しか認めません。 「品品別断（ほんぽんべつだん）」とは、まず欲界・色界・無色界の修道において断たれるべき煩悩のうち、最も強いもの（上上品）から始めて、最も弱いもの（軟軟品）に至るまで、すべてを一度に断ち切ることを指します。このように三界の煩悩を一気に断つ方法は、見道（けんどう）で煩悩を断つ場合と同様であり、世間の修行道のように、一つの世界や段階ごとに少しずつ断っていく方法とは異なります。 この教えの根拠は何でしょうか。『指端経（してんきょう）』にこう説かれています。「あらゆる色（物質）や識（認識）について、過去・未来・現在のもの、遠いもの・近いものなど、すべてを一まとめにし、一つの塊、一つの集まりと見なせ。そのようにまとめた上で、これらすべては無常であり、すべては苦しみであると観察せよ。」このように観察するならば、最初の果（預流果）と最後の果（阿羅漢果）の二つだけが確立されるのです。 なぜなら、この二つの果報は、それぞれ三界におけるすべての見道・修道で断たれるべき煩悩を、余すところなく断ち切ったことを示すからであり、そのため第二の果（一来果）や第三の果（不還果）は立てられません。また、この二つの果報は、真理を見た修行者が、欲界における修道で断つべき煩悩だけを残らず断ち切った状態（有残余）と、完全にすべてを離れた状態（無残余）を表しているからです。 このように「頓出離」の道に従う者について、如来は『分別経（ふんべつきょう）』の中で、預流果を得た直後に、すでに阿羅漢果を達成したと説かれています。このような修行者の多くは、現世において、あるいは臨終の際に、見事に仏の教えを成就します。もし成就できなかったとしても、願いの力によって再び欲界に生まれ、仏のいない時代に独覚（どっかく）の悟りを開くことができます。また、もしそれも叶わず、欲望を完全に離れられなかった者でも、願いの力で欲界に生まれれば、速やかに涅槃（ねはん）に至ることができるのです。』

建立現觀略有十種，謂法現觀、義現觀、真現觀、後現觀、寶現觀、不行現觀、究竟現觀、聲聞現觀、獨覺現觀、菩薩現觀。法現觀者，謂於諸諦增上法中已得上品清信勝解隨信而行。所以者何？由於諸諦增上契經等法中，從聞他音增上緣力，已得最後順解脫分善根所攝上品清信勝解。由得如是清信勝解故，說名以法現觀現觀諸諦。

> 現觀を立てるには、おおよそ十種類があります。すなわち、法現觀、義現觀、真現觀、後現觀、寶現觀、不行現觀、究竟現觀、聲聞現觀、獨覺現觀、菩薩現觀です。 法現觀とは、諸々の真理（諦）に関する優れた教え（増上法）において、すでに上品の清らかな信と勝解（深い理解）を得て、その信に従って修行することをいいます。なぜなら、諸々の真理に関する経典などの教えにおいて、他者の声を聞くという優れた縁（増上緣）の力によって、すでに解脫に向かう最後の善根（順解脫分の善根）に含まれる上品の清らかな信と勝解を得ているからです。このような清らかな信と勝解を得たことから、法によって諸々の真理を現觀すると名づけられるのです。

義現觀者，謂即於諸諦增上法中已得上品，於諸諦境諦察法忍。此忍居順決擇分位。所以者何？由即於如上所說法中如理作意增上緣力，於苦等諦境已得最後順決擇分善根所攝上品諦察法忍。此諦察法忍，由三種如理作意所顯發故，復成三品，謂上軟、上中、上上。上軟者，謂即此生時煖位。上中者，謂頂、忍位。上上者，謂世第一法位。

> 義現観とは、すなわち諸々の真理（諦）に関する教えにおいて、すでに最上の品を獲得し、諸々の真理の対象を観察し理解する法忍（真理への忍耐・受容）を得た状態をいいます。この法忍は、順決択分（修行の階位）の段階に位置しています。なぜならば、先に述べた教えの中で、如理作意（正しい思考）という増上縁（強力な助縁）の力によって、苦などの真理の対象に対して、すでに最後の順決択分という善根に含まれる最上の品の諦察法忍を得ているからです。この諦察法忍は、三つの如理作意によって現れ出るものであるため、さらに三つの品に分けられます。すなわち、上軟、上中、上上です。上軟とは、この世に生まれたときの暖位（だんい）をいいます。上中とは、頂位（ちょうい）と忍位（にんい）をいいます。上上とは、世第一法位（せだいいちほうい）をいいます。

真現觀者，謂已得見道十六心剎那位所有聖道，又於見道中得現觀邊安立諦世俗智。由出世智增上緣力長養彼種子故，名得此智而不現前，以見道十六心剎那無有間斷，不容現起世間心故。於修道位，此世俗智方現在前。

> 真の現観とは、すでに見道の十六瞬間における聖なる道を得た状態を指します。また、見道において現観の境地に達した際に、世俗の智慧（世俗智）が確立されます。この智慧は、出世間の智慧の増上縁の力によってその種子が育まれるため、智慧そのものを得ていながらも顕在化しません。なぜなら、見道の十六瞬間は途切れることなく続き、世俗心が生起する余地がないからです。修道の段階に至って、この世俗智が初めて顕在化するのです。

後現觀者，謂一切修道，由見道後一切世間出世間道皆名後現觀故。

> 後観とは、すべての修道を指します。見道の後における、あらゆる世間的な道と出世間的な道は、すべて後観と名付けられるからです。

寶現觀者，謂於佛證淨、於法證淨、於僧證淨。由佛聖弟子於三寶所已得決定證清淨信，謂薄伽梵是真正等覺者、法毘奈耶是真善妙說、聖弟子眾是真淨行者。

> 宝の現観とは、仏への清らかな信、法への清らかな信、僧への清らかな信を指す。仏の聖なる弟子たちは、三宝に対してすでに確かな清らかな信を得ている。すなわち、世尊は真の正等覚者であり、法と律は真に善く妙に説かれたものであり、聖なる弟子たちの集いは真に清らかな行いを実践する者たちである、と。

不行現觀者，謂已證得無作律儀故，雖居學位，而謂我今已盡地獄、畜生、餓鬼顛墜惡趣，我不復能造惡趣業感惡趣異熟。已得無作律儀者，謂已證得聖所愛戒所攝律儀。由得此故，此所對治地獄異熟等必不復行。由地獄等永盡不行故，名不行現觀。

> 不行現觀（ふこうげんかん）とは、すでに無作律儀（むさりつぎ）を得ているため、修行段階にありながら「私はすでに地獄・畜生・餓鬼の悪道に堕ちることがなくなった。悪道に堕ちる業やその報いを再びつくり出すことはない」と確信している状態を指します。 無作律儀とは、聖者が愛する戒律（聖所愛戒）に含まれる律儀を得たことを意味します。これによって、その対治となる地獄などの報いが、必ず再び生じることがなくなります。地獄などの悪趣が完全に尽きて再び行くことがないため、「不行現観」と呼ばれます。

究竟現觀者，如道諦中究竟道說，謂已息一切麁重、已得一切離繫得，如是等。

> 究竟の現観とは、例えば道諦における究竟道で述べられているように、すでにあらゆる粗重（煩悩の重さ）が鎮まり、すでにあらゆる離繋の獲得を得た状態、このようなものを指します。

聲聞現觀者，謂前所說七種現觀，從聞他音而證得故，名聲聞現觀。

> 声聞の現観とは、先に述べた七種の現観のことで、他から教えを聞くことによって証得されることから、声聞現観と名づけられます。

獨覺現觀者，謂前所說七種現觀，不由他音而證得故，名獨覺現觀。

> 独覚の現観とは、前述した七種の現観のうち、他の人の教えによることなく自ら証得するため、独覚の現観と名づけられます。

菩薩現觀者，謂諸菩薩於前所說七現觀中，起修集忍而不作證，為於聲聞獨覺調伏方便中得善巧故、哀戀眾生不於下乘而出離故，然於菩薩極喜地中入諸菩薩正性決定，是名菩薩現觀。

> 菩薩の現観とは、これまでに述べた七つの現観の中で、菩薩が忍耐を修め集めながらも、それを証得しないことです。それは、声聞や独覚を調伏するための方便に巧みになるためであり、また、众生を哀れんで、下乗（声聞・独覚の道）によって出離しないからです。しかし、菩薩の極喜地において、諸菩薩の正性決定に入ることを、菩薩の現観と呼びます。

已說現觀，差別今當說。問：聲聞菩薩現觀有何差別？答：略說有十一種，謂境界差別、任持差別、通達差別、誓願差別、出離差別、攝受差別、建立差別、眷屬差別、勝生差別、生差別、果差別。

> すでに「現観」について説明しました。では、その違いについてこれから述べます。 問：声聞と菩薩の現観には、どのような違いがあるのでしょうか？ 答：大きく分けて十一の違いがあります。それは、 ・対象の違い ・支え方の違い ・悟りへの到達の仕方の違い ・誓いの違い ・迷いからの出離の仕方の違い ・他者を受け入れる方法の違い ・教えの仕組みの違い ・周囲の人々の違い ・よりよい生まれ方の違い ・生まれ方そのものの違い ・得られる結果の違い の十一です。

境界差別者，謂緣方廣大乘為境故。

> 境界の違いとは、方広大乗を対象（よりどころ）とすることをいう。

任持差別者，謂滿大劫阿僧企耶，福智資糧圓滿故。

> 任持差別とは、大劫（だいこう）や阿僧祇劫（あそうぎこう）といった途方もない長い時間をかけて、福徳と智慧の糧（資糧）を完全に満たすことを意味します。

通達差別者，謂由補特伽羅法無我理增上法方便所引出世間智，俱通達二無我故。

> 「差別を悟る」とは、補特伽羅（人）と法の二つの無我の道理を、出世間の智慧をもって悟ることをいいます。この智慧は、より優れた法の方便によって導かれ、人無我と法無我の両方を同時に悟るからです。

誓願差別者，謂能通達一切有情與己平等，猶如自身誓願攝益故。

> 誓願の違いとは、全ての生きとし生けるものが自分と等しい存在であると悟り、自分の身をまるごとかけるように相手を慈しみ、幸せへと導く誓いを立てることです。

出離差別者，謂依十地而出離故。

> 出離の違いについて説明します。それは、十地に従って出離するからです。

攝受差別者，謂無住涅槃所攝受故。

> 摂受の違いとは、無住処涅槃に摂受されることである。

建立差別者，謂善修治諸佛淨土故。

> 差別を立てるとは、諸仏の浄土をよく修行し整えるためである。

眷屬差別者，謂攝受一切所化眾生為眷屬故。

> 眷属の違いとは、すべての教化すべき衆生を眷属として受け入れることである。

勝生差別者，謂如世間腹所孕子，繼父種族令不斷絕。如是菩薩紹隆佛種令不斷絕，是佛真子相故。

> 法の継承における違いとは、例えばこの世で母の胎内に宿った子が父の家系を受け継ぎ、それを絶やさないように、菩薩が仏の種を引き継ぎ、仏の教えの系譜を絶やさないことです。これこそが、まことの仏の子としての姿なのです。

生差別者，謂於如來大集會中生故。

> 生の差別とは、如来の大いなる集いにおいて生まれることをいう。

果差別者，復有十種，謂轉依差別、功德圓滿差別、五相差別、三身差別、涅槃差別、證得和合智用差別、障清淨差別、和合作業差別、方便示現成等正覺入般涅槃差別、五種拔濟差別。

> 果たされる功徳の違いには、さらに十の種類がある。すなわち、 悟りのよりどころが変わる違い、功徳が満ち足りる違い、 五つの相による違い、三つの身による違い、 涅槃の違い、悟りを得て智慧が調和して働く違い、 さわりの清らかさの違い、調和した働きの違い、 巧みな手段で悟りを開き、涅槃に入る姿を示す違い、 五つの救いの方法の違いである。

轉依差別者，謂染不染一切種所依麁重永斷故、一切無上功德所依永轉故。

> 転依（転換）の違いについて述べるならば、それは煩悩に染まっているものと染まっていないもの、あらゆる種の基盤となる重苦しい煩悩が永遠に断たれることにより、またすべての最高の功徳の基盤が永遠に転換されることである。

功德圓滿差別者，謂力、無所畏、不共佛法等無邊功德永成滿故。

> 功徳の円満における違いとは、 すなわち、十力・四無所畏・仏の不共法など、 限りない功徳が永遠に成就していることを意味します。

五相差別者，謂清淨等五相差別。一清淨差別，謂永斷一切煩惱并習氣故。二圓淨差別，謂遍修治佛淨土故。三身差別，謂法身圓滿故。四受用差別，謂一切時處大集會與諸菩薩受用種種大法樂故。五業差別，謂隨其所應起種種變化，遍於十方無量無邊諸世界中作諸佛事故。

> 五つの相の違いとは、清らかさなどに関する五つの違いのことです。 第一に清らかさの違い。これは、あらゆる煩悩とその癖（習気）を完全に断ち切ることです。 第二に円満な清らかさの違い。これは、仏の浄土を余すところなく整え修めることです。 第三に身の違い。これは、法身が完全に満たされていることです。 第四に受用の違い。これは、いついかなる場所での大集会においても、多くの菩薩たちと共にさまざまな大きな法の楽しみを受けることです。 第五に業の違い。これは、それぞれに応じてさまざまな変化を起こし、十方の無量無辺の諸世界に広く及んで、諸仏の働きを行うことです。

三身差別者，謂證得圓滿自性、受用、變化身故。

> 三身の違いについて説明します。 悟りを完全に成就した「自性身」、 その功徳を享受する「受用身」、 そして人々のため姿を変えて現れる「変化身」、 この三つの身があるのです。

涅槃差別者，謂於無餘涅槃界為欲利樂一切有情，一切功德無斷絕故。

> 涅槃の違いについて説明すると、無余涅槃の境地においては、すべての生きとし生けるものを利益し、幸せにするために、あらゆる功徳が途絶えることがない、ということである。

證得和合智用差別者，謂證得最極清淨法界一味故，於彼能依一切種妙智用一一佛功能，等一切佛功能故。

> 一切の仏が等しく完全に清らかな法界という一味の境地に達しているため、それぞれの仏が持つすべての種の妙なる智慧の働きは、互いに等しいのです。

障清淨差別者，謂永斷一切煩惱障、所知障故。

> 障害の清らかさにおける違いとは、あらゆる煩悩の障りと、知るべきことに対する障りを完全に断ち切ることを言います。

和合作業差別者，謂化導一一有情作用，皆一切佛增上力故。

> 和合作業の違いとは、すべての有情を導くはたらきが、一切の仏の加助力によることをいう。

方便示現成等正覺入般涅槃差別者，謂於十方一切世界，隨其所應，乃至後際數數示現成正覺等，令一切所化眾生成熟解脫故。

> 方便の示現として、等正覚を成就し、般涅槃に入ることの違いとは、つまり十方のすべての世界において、それぞれの機縁に応じて、未来際にいたるまで繰り返し正覚を成就するなどを示現し、教化すべきすべての衆生を成熟させ、解脱させるためのものである。

五種拔濟差別者，謂拔濟災橫等五事。一拔濟災橫，謂如來入城邑等時，令盲聾等得眼耳等。二拔濟非方便，謂令得世間正見，遠離一切邪惡見故。三拔濟惡趣，謂令生見道，越諸惡趣故。四拔濟薩迦耶，謂令證阿羅漢果，永脫三界故。五拔濟乘，謂令諸菩薩不樂下乘故。

> 五つの救済の違いとは、以下の五つの事柄を指します。 第一に、災難からの救済。例えば如来が町などに入るとき、盲人や聾者に目や耳などを与えることです。 第二に、誤った手段からの救済。世間における正しい見解を得させ、あらゆる邪悪な見解から遠ざけることです。 第三に、悪趣からの救済。見道（真理を見通す境地）に至らせ、あらゆる悪い生存領域を超えさせることです。 第四に、自我（サッカーヤ）からの救済。阿羅漢果を証得させ、三界（欲界・色界・無色界）から永遠に解脱させることです。 第五に、乗り物（乗）からの救済。菩薩たちが劣った乗り物（小乗）を好まないようにさせることです。

問：如經說四無量等最勝功德，何現觀所攝耶？答：後現觀、究竟現觀所攝。所以者何？如是最勝功德，諸聖弟子等或於修道或究竟道之所發起，是故二現觀所攝。彼復云何？謂無量解脫、勝處、遍處、無諍、願、智、無礙解、神通、相隨好、清淨、力、無畏、念住、不護、無忘失法、永斷習氣、大悲、十八不共佛法、一切種妙智，如是等功德，如來於諸經中，或依聲聞乘說、或依大乘說。此諸功德隨其所應，略以五門顯示其相，謂所依、境界、行相、自體、助伴。

> 問う：経典に説かれる四無量などの最勝の功徳は、どの現観に含まれるのか。 答える：後の現観と究竟の現観に含まれる。なぜなら、これらの最勝の功徳は、聖なる弟子たちが修道あるいは究竟道において発起するものであり、そのため二つの現観に含まれるからである。 それらとは具体的に何か。すなわち、無量、解脱、勝処、遍処、無諍、願、智、無礙解、神通、相・随好、清浄、力、無畏、念住、不護、無忘失法、永断習気、大悲、十八不共仏法、一切種妙智である。これらの功徳を、如来は諸経典において、声聞乗に従って説くこともあれば、大乗に従って説くこともある。これらの功徳は、それぞれに応じて、大まかに五つの門によってその相を示すことができる。すなわち、所依、境界、行相、自体、助伴である。

無量者，謂四無量：一慈無量、二悲無量、三喜無量、四捨無量。慈云何？謂依止靜慮，於諸有情與樂相應意樂住具足中，若定若慧及彼相應諸心心法。此中顯慈無量，以靜慮為所依，有情為境界，願彼與樂相應為行相，定慧為自體，一切功德皆奢摩他、毘鉢舍那所攝故，諸心心法為助伴。當知悲等一切功德，隨其所應亦爾。悲云何？謂於諸有情離苦意樂住具足中，若定若慧，餘如前說，所依、自體、助伴與慈相似故。喜云何？謂於諸有情不離樂意樂住具足中，若定若慧，餘如前說。捨云何？謂依止靜慮，於諸有情利益意樂住具足中，若定若慧，餘如前說。利益意樂者，謂於與樂相應等有情所棄捨愛等作是思惟，當令彼解脫煩惱。如是意樂，名捨行相。利益意樂行相圓滿，名住具足。

> 「無量」とは、四つの無量心を指します。第一に慈無量、第二に悲無量、第三に喜無量、第四に捨無量です。 慈とは何か。それは、静慮（瞑想）に基づいて、すべての生きとし生けるものに対して「楽を与えたい」という心の状態に安住することです。その状態を完成させる中で働く、心の統一（定）と智慧（慧）、そしてそれらと共にある心と心の働きのすべてを指します。 ここで明らかにされる慈無量とは、静慮を拠り所とし、生きとし生けるものを対象とし、「彼らに楽が共にありますように」と願うことを行動の形とし、定と慧をその本質とします。なぜなら、すべての功徳は奢摩他（心の静けさ）と毘鉢舎那（観察の智慧）に含まれるからです。そして、心と心の働きのすべてが、その補助的な仲間となります。 悲など、他のすべての功徳についても、それぞれに応じて同じように理解すべきです。 悲とは何か。それは、すべての生きとし生けるものに対して「苦しみから離れてほしい」という心の状態に安住することです。その状態を完成させる中で働く定と慧があります。その他の点は先ほどと同様です。なぜなら、拠り所、本質、補助的な仲間は慈と似ているからです。 喜とは何か。それは、すべての生きとし生けるものに対して「楽が彼らから離れませんように」という心の状態に安住することです。その状態を完成させる中で働く定と慧があります。その他の点は先ほどと同様です。 捨とは何か。それは、静慮に基づいて、すべての生きとし生けるものに対して「利益をもたらしたい」という心の状態に安住することです。その状態を完成させる中で働く定と慧があります。その他の点は先ほどと同様です。 「利益をもたらしたいという心の状態」とは、楽を与えたいと思う生きとし生けるものなどに対して、愛情や執着などを手放し、「彼らを煩悩から解き放ちましょう」と考えることを指します。このような心の状態を、捨の行動の形と呼びます。この利益をもたらしたいという心の状態が完全に実践されることを、「状態を完成させる」と言います。

解脫者，謂八解脫，廣說如經。云何有色觀諸色解脫？謂依止靜慮，於內未伏見者色想，或現安立見者色想，觀所見色住具足中，若定若慧及彼相應諸心心法，乃至為解脫變化障。有色者，謂於內身未依無色定伏除見者色想故。或見者色想，安立現前故。觀諸色者，謂以意解觀見好惡等色故。解脫者，謂能解脫一切變化障故。

> 解脱とは、八つの解脱（八解脱）のことであり、経典に詳しく説かれている。では、「色（物質的なもの）を見て、色を観想する解脱」とは何か。それは、静慮（瞑想の境地）に依って、内なる自己に対して、まだ「見る者」という色の観想が克服されていない状態、あるいは、「見る者」という色の観想を現に立てている状態において、見られる色を観察し、その完全な境地に安住することである。その際の、定（心の統一）と慧（智慧）、およびそれらと相応する心と心のはたらきのすべてを指す。これは、変化の障害からの解脱のためである。 「有色」とは、内なる自己において、まだ無色定に依って「見る者」という色の観想が克服されていないこと、あるいは、「見る者」という色の観想が現に立てられていることをいう。 「色を観察する」とは、意識によって解釈し、美しい色や醜い色などを観察することをいう。 「解脱」とは、すべての変化の障害から解脱できることをいうのである。

云何內無色想觀外諸色解脫？謂於內已伏見者色想，或現安立見者無色想，觀所見色住具足中，若定若慧，餘如前說。內無色想者，謂於內身已依無色定伏除見者色想故。或見者無色想，安立現前故。謂見者名想現在前行，餘如前釋。

> 内的な色の想いを離れて、外的な様々な色を観察する解脱とは、どのようなものでしょうか。すなわち、自分の内側において、すでに「見る者」としての色の想いを克服した状態、あるいは、今まさに「見る者」としての無色の想いを確立している状態で、見られる色を観察し、その境地を十分に保つことにおける、定（精神統一）もしくは慧（智慧）のことを指します。その他の説明は、先に述べた通りです。「内的な色の想いを離れて」とは、自分の身体において、すでに無色定に依って「見る者」としての色の想いを克服し、取り除いているからです。あるいは、「見る者」としての無色の想いが、はっきりと目の前に現れている状態です。「見る者」という概念（想い）が今まさに活動していることを意味し、その他の説明は前に述べた通りです。

云何淨解脫身作證具足住？謂於內淨不淨諸色，已得展轉相待想、展轉相入想、展轉一味想故。於彼已得具足中，若定若慧，餘如前說，乃至為解脫淨不淨變化煩惱生起障。此中顯示於淨不淨諸色，依展轉相待想、展轉相入想，得展轉一味想。所以者何？待諸淨色於餘色中謂為不淨，待不淨色於餘色中謂為清淨，非不相待。何以故？唯見一類時，淨不淨覺無故。又於淨中不淨性所隨入，於不淨中淨性所隨入。何以故？於薄皮所覆共謂為淨中，現有髮毛等三十六種不淨物故。如是展轉總一切色，合為一味清淨想。解如是已，得隨所樂色解脫自在者，能斷淨不淨色變化障及於此中煩惱生起障。何等名於變化煩惱？謂於淨色變化加行功用，與不淨色變化相違故。

> 清らかな解脱を身で実証し、具足して安住するとは、どのような状態か。内的に清らかでも不浄でもない諸々の色について、相互に関連づける想い、相互に入り込む想い、相互に一味であるという想いを得ていることによる。その状態において、具足している中での定と慧があり、その他は先に述べた通りである。すなわち、清らかさと不浄さの変化による煩悩の生起という障礙を断ち切るためのものである。 ここで示されているのは、清らかでも不浄でもない諸々の色について、相互に関連づける想いと相互に入り込む想いによって、相互に一味であるという想いを得ることである。なぜか。清らかな色に対しては他の色を不浄と見なし、不浄な色に対しては他の色を清らかと見なすのであって、相互に関連づけることなしにはない。なぜなら、ただ一類のものだけを見るとき、清らかと不浄の感覚は生じないからである。 また、清らかなものの中には不浄な性質が入り込み、不浄なものの中には清らかな性質が入り込んでいる。なぜか。薄い皮に覆われて、一般に清らかとされるものの中にも、毛や髪などの三十六種の不浄な物が現に存在するからである。このように相互に、すべての色を一つにまとめて、一味の清らかな想いとする。これを了解したならば、好きな色に応じて自在に解脱する者が、清らかと不浄の色の変化の障礙と、その中での煩悩の生起という障礙を断つことができる。 変化の煩悩とは何か。清らかな色に変化させる加行と功用が、不浄な色に変化させることと相違することである。

云何無邊虛空處解脫？謂於隨順解脫無邊虛空處住具足中，若定若慧，餘如前說。如無邊虛空處解脫，無邊識處、無所有處、非想非非想處解脫亦爾。乃至為解脫、寂靜解脫無滯礙障。如是四種，若聖弟子所得，能順無漏、是清淨性，方名解脫，解脫愛味故。寂靜解脫者，謂超色無色，於中清淨，名無滯礙。味著無色是此障。

> 無辺虚空処の解脱とは何か。それは、無辺虚空処に随順して解脱し、安住し、具足している状態における、定と慧である。その他の点は、先に述べた通りである。無辺虚空処の解脱と同様に、無辺識処、無所有処、非想非非想処の解脱もまた同様である。これらの四つの解脱は、解脱そのものであり、寂静解脱であり、滞りや妨げがない。もし聖なる弟子がこれらを得たならば、無漏に順じ、清浄なる性質である。このようにして初めて解脱と名づけられ、愛着の味わいから解脱するからである。寂静解脱とは、色界と無色界を超え、その中で清浄であることを、滞りがないと名づける。無色界に味着することが、これに対する障りである。

云何想受滅解脫？謂依止非想非非想處解脫，超過諸餘寂靜解脫，住於似真解脫具足住中心心法滅，為解脫想受滅障。此顯想受滅解脫，以非想非非想處為所依，無境界、行相、助伴，心心法無故，以心心法滅為自體。又此解脫似真解脫，圓滿為性，以聖弟子由出世間道已得轉依，諸心心法暫不現起，於此位中極寂靜故、染污意不現行故。

> 「想受滅解脱」とは何か。それは、非想非非想処に依存した解脱であり、他のあらゆる寂静な解脱を超えたものである。真の解脱に似た境地に安住し、心と心のはたらきが滅した状態にあることにより、想と受を滅するという解脱の妨げを除くものである。これは、想受滅解脱が非想非非想処をよりどころとし、対象や行相、助縁がなく、心と心のはたらきがないことを示す。また、心と心のはたらきの消滅をその本質とする。さらに、この解脱は真の解脱に似ており、完全であることをその性質とする。なぜなら、聖なる弟子が世間を超えた道によってすでに転依を得ており、すべての心と心のはたらきが一時的に現れず、この状態においては極めて寂静であり、汚れた心（染汚意）が活動しないからである。

此八解脫亦名聖住，諸聖所住故。然諸聖者多依二住，謂第三第八，以最勝故。是故經中於此二解脫有身作證具足住言，非餘。由此二種，如其次第，有色無色解脫障斷無餘故、證得圓滿轉依故，說名最勝。

> この八つの解脱は「聖者の住まい」とも呼ばれます。なぜなら、全ての聖者が住む場所だからです。しかし、聖者の多くは特に二つの住まいを依り所としています。それは第三と第八の解脱です。これらが最も優れているからです。そのため、経典の中では、この二つの解脱についてのみ「身をもって作証し、具足して住する」と説かれており、他の解脱にはこの言葉は用いられません。この二つの解脱は、それぞれ順に、有色界と無色界における解脱の障りを余すことなく断ち切り、円満な転依を証得するため、最も優れていると説かれています。

勝處者，謂八勝處，廣說如經。前四勝處由二解脫所建立，後四勝處由一解脫所建立，從彼所流故。所以者何？謂內有色想觀外色少，若好若惡若劣若勝，於彼諸色勝知勝見得如實想，是初勝處。內有色想觀外色多，若好若惡，廣說乃至得如實想，是第二勝處。此二勝處從有色觀諸色解脫所出。內無色想觀外色少，廣說乃至得如實想，是第三勝處。內無色想觀外色多，廣說乃至得如實想，是第四勝處。此二勝處從內無色想觀外諸色解脫所出。是故前四勝處，由二解脫所建立。內無色想觀外諸色，若青青顯青現青光，猶如烏莫迦花、或如婆羅痆斯深染青衣，若青青顯青現青光。如是內無色想觀外諸色，若青乃至青光亦爾。於彼諸色勝知勝見得如實想，是第五勝處。內無色想觀外諸色，若黃乃至黃光，猶如羯尼迦花、或如婆羅痆斯深染黃衣，若黃廣說乃至得如實想，是第六勝處。內無色想觀外諸色，若赤乃至赤光，猶如槃豆時縛迦花、或如婆羅痆斯深染赤衣，若赤廣說乃至得如實想，是第七勝處。內無色想觀外諸色，若白白顯白現白光，猶如烏沙斯星色、或如婆羅痆斯極鮮白衣，若白白顯白現白光。如是內無色想觀外諸色，若白白顯白現白光亦爾。於彼諸色勝知勝見得如實想，是第八勝處。如是四勝處，從淨解脫身作證具足住所出。此中解脫是意解所緣，勝處是勝伏所緣，少多等境隨意自在，或令隱沒故、或隨欲轉故。少色者，有情數色，其量小故。多色者，非有情數色，舍林地山等，其量大故。好色惡色者，淨不淨顯色所攝。劣色勝色者，若人若天隨其次第，於彼諸色勝者自在轉故。知者，由奢摩他道故。見者，由毘鉢舍那道故。得如實想者，謂於已勝未勝中得無增上慢想故。若青者，是總句。青顯者，是俱生青。青現者，是和合青。青光者，謂彼二所放鮮淨光青。如青，黃赤白廣說亦爾。於一處說二譬喻者，為顯俱生、和合二顯色故。謂若青者，總舉花衣二青。青顯者，依花青說，以俱生故。青現者，依衣青說，以和合方成故。青光者，依二種說，由彼二種俱有鮮淨光故。如是二譬喻中若青青顯等，總句釋句如相應知。如青，黃等亦爾，餘如解脫中說。何等為餘？謂內有色想觀外色等。如有色觀諸色等，隨相應釋。已說勝處勝所緣境界。

> 勝処とは、八つの勝処を指し、経典に詳しく説かれている通りである。最初の四つの勝処は二つの解脱に基づいて成立し、後の四つの勝処は一つの解脱に基づいて成立する。それらはその解脱から生じるからである。なぜかというと、内に色の想いがありながら外の色を観察し、それが少なくとも、美しくても醜くても、劣っていても優れていても、それらの色に対して優れた知覚と優れた見方を得て、ありのままに認識する。これが第一の勝処である。内に色の想いがありながら外の色を観察し、それが多くとも、美しくても醜くても、詳しく説けばありのままに認識するに至るまで、これが第二の勝処である。この二つの勝処は、「色ありて諸色を観ずる解脱」から生じる。内に色の想いがなく外の色を観察し、それが少なくとも、詳しく説けばありのままに認識するに至るまで、これが第三の勝処である。内に色の想いがなく外の色を観察し、それが多くとも、詳しく説けばありのままに認識するに至るまで、これが第四の勝処である。この二つの勝処は、「内に色の想いなくして外の諸色を観ずる解脱」から生じる。したがって、前の四つの勝処は、二つの解脱によって成立するのである。内に色の想いがなく外の諸色を観察し、それが青く、青く現れ、青く輝き、青光を放つ。それはちょうどウモーカの花のようであり、あるいはバラーナシーで深く染められた青衣のようであり、青く、青く現れ、青く輝き、青光を放つ。このように内に色の想いがなく外の諸色を観察し、それが青く、青光を放つに至るまでも同様である。それらの色に対して優れた知覚と優れた見方を得て、ありのままに認識する。これが第五の勝処である。内に色の想いがなく外の諸色を観察し、それが黄色く、黄光を放つ。それはちょうどカニーカの花のようであり、あるいはバラーナシーで深く染められた黄衣のようであり、黄色く、詳しく説けばありのままに認識するに至るまで、これが第六の勝処である。内に色の想いがなく外の諸色を観察し、それが赤く、赤光を放つ。それはちょうどバンドゥジーヴァカの花のようであり、あるいはバラーナシーで深く染められた赤衣のようであり、赤く、詳しく説けばありのままに認識するに至るまで、これが第七の勝処である。内に色の想いがなく外の諸色を観察し、それが白く、白く現れ、白く輝き、白光を放つ。それはちょうどウシャスの星の色のようであり、あるいはバラーナシーの極めて清らかな白衣のようであり、白く、白く現れ、白く輝き、白光を放つ。このように内に色の想いがなく外の諸色を観察し、それが白く、白光を放つに至るまでも同様である。それらの色に対して優れた知覚と優れた見方を得て、ありのままに認識する。これが第八の勝処である。これらの四つの勝処は、「清らかな解脱を身で実証し具足して住する」ことから生じる。ここで言う解脱とは、心が対象を自由に観想することであり、勝処とは、対象を自在に制御することである。すなわち、対象が少ないか多いかなどの状況に応じて思いのままに、あるいは対象を隠滅させ、あるいは心のままに転じさせるのである。「少色」とは、有情の数を有する色であり、その量が小さいからである。「多色」とは、有情の数を有しない色であり、家、林、地、山などであり、その量が大きいからである。「好色、悪色」とは、清らかでない清らかな顕色に分類される。「劣色、勝色」とは、人間と天人のそれぞれに従い、それらの色に対して自在に転じるから優れているのである。「知る」とは、奢摩他（止）の道による。「見る」とは、毘鉢舎那（観）の道による。「ありのままに認識する」とは、すでに制したものと未だ制していないものに対して、増上慢の想いがないことをいう。「青」とは総じての句である。「青顕」とは、生まれながらに備わる青である。「青現」とは、和合して現れる青である。「青光」とは、それら二つが放つ清らかで輝く青い光である。「青」のように、「黄、赤、白」についても詳しく説けば同様である。一つの箇所に二つの譬えを説くのは、生まれながらに備わる顕色と和合した顕色の二つを示すためである。すなわち、「青」とは総じて花と衣の二つの青を挙げる。「青顕」とは、花の青に基づいて説く。生まれながらに備わるからである。「青現」とは、衣の青に基づいて説く。和合して初めて成るからである。「青光」とは、二つのものに基づいて説く。その二つ共に清らかで輝く光があるからである。このように二つの譬えの中で「青青顕等」という総句と解釈句は、相応して知るべきである。「青」のように「黄」等も同様であり、その他は解脱の中で説かれた通りである。その他とは何か。「内に色の想いがありながら外の色を観察する」などである。「色ありて諸色を観ずる」などがあり、相応して解釈される。ここまでが、勝処が対象を自在に制することを説いた箇所である。

遍處者，謂於遍滿住具足中，若定若慧，及彼相應心心法，是名遍處。遍滿者，其量廣大周普無邊。此復十種，謂地、水、火、風、青、黃、赤、白、無邊空處、無邊識處，皆悉遍滿。問：何故於遍處建立地等？答：由此遍處觀所依能依色皆遍滿故。若於此中不建立地等，遍處者即離所依大種，亦不能觀青等所造色為遍滿相。是故為觀所依能依皆悉遍滿，建立地等。餘隨所應，如解脫中說，謂無邊空處等。

> 「遍処」とは、あらゆるものに遍く満ち渡った状態を完全に体得している際の、定（サマーディ）もしくは慧（プラジュニャー）、およびそれらと対応する心・心作用のことを指します。「遍満」とは、その量が広大であり、あまねく行き渡り、果てしないことを意味します。この遍処にはさらに十種のものがあります。すなわち、地、水、火、風、青、黄、赤、白、そして無辺空処、無辺識処です。これらのすべてが、あまねく満ち渡っています。 問：なぜ遍処の中に地などが立てられているのでしょうか。 答：これらの遍処によって、観察のよりどころ（所依）である色（地など）と、観察する側（能依）である心が、ともに遍満していると観じられるからです。もしここに地などが立てられていなければ、遍処とは、そのよりどころである四大種（地・水・火・風）を離れて、青などの所造色が遍満する相を観じることができなくなってしまいます。それゆえ、観察のよりどころと観察する側の両方が遍満していると観ずるために、地などが立てられているのです。その他の事項については、解脱の説に従って理解すべきです。すなわち、無辺空処などがそれにあたります。

當知此中依解脫故造修，由勝處故起方便，由遍處故成滿。若於彼得成滿，即於解脫究竟。

> この中で知るべきは、解脱に依って修行を積み、勝処（すぐれた境地）によって手段を起こし、遍処（あまねく及ぶ境地）によって成就が満ちるということである。もしそれによって成就が満ちれば、すなわち解脱において究極に達するのである。

## 大乘阿毘達磨雜集論卷第十三

> 大乗阿毘達磨雑集論 巻第十三