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title: "大乘廣百論釋論 · 1"
description: "《大乘廣百論釋論》是唐代高僧玄奘翻譯的重要佛教論典，原為印度論師護法對聖天《廣百論》的註釋。玄奘於貞觀年間西行求法，將此論帶回中土並譯為漢文，成為唯識學派的核心文獻之一。該論以破斥外道、闡揚中觀空性思想為主旨，通過邏輯論證揭示諸法無自性的真理，並融合瑜伽行派的唯識理論。在佛教史上，它既是中觀與唯識學派的重要橋樑，也被視為大乘佛教辯證哲學的典範，對漢傳佛教義學發展影響深遠。"
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### 大乘廣百論釋論1破我品第二之一

> 大乗広百論釈論

復次勝論外道作如是言：前說無餘般涅槃位無蘊無我，依誰而說有涅槃者，其理不然，我定有故。若無我者，依緣何法而起我見？我見若無，執我所見亦不得有。若異生等從無始來不起如是我我所見，應如永滅薩迦耶見，不受三界生死眾苦。又不應說緣心根身發生我見，以心根身世間說為我所有故。又我我所決定有異，所屬能屬言所詮故，如天授等所乘車等。又緣他身我見無故，若許我見緣心根身為境生者，應如天授德授等見，亦緣他身為境生起。亦不應說自他心等有差別故，我見不緣無始時來自心根等，剎那展轉前後各異，而許俱緣生我見故。又此我見不緣現在自心為境，與世現見事相違故。亦不得緣過去未來心等為境，彼無體故，如空華等不生我見。現見有我非曾當故，又於一身二心不並，故不可說緣現自心而生我見。又心念念異滅異生，若無我者，云何得有憶識習誦恩怨等事？又心根等決定不為我見所緣，男女等相此中無故，如瓶盆等。是故決定有真實我，由此為緣發生我見，因斯謂我是大丈夫。

> さらに、勝論外道（しょうろんげどう）は次のように主張する。「先に説かれた『無余涅槃の境地には、もはや五蘊も自己もない』という教えは、誰を基準として涅槃があると言うのか。その考えは道理にかなわない。なぜなら、私は確かに存在するからである。もし私というものが存在しなければ、何に基づいて『我見（がけん）』が生じるのか。我見がなければ、『我が所有物』という見解も成立し得ない。凡夫たちが無始の昔から、このような我と我が所有物への執着を起こさなかったならば、それは『薩迦耶見（さかやけん）』（身見）が完全に消滅した状態と同じであり、三界（さんがい）の生死の苦しみを受けることもないはずである。 また、心臓や身体（根身）を縁として我見が生じると説くべきではない。なぜなら、世間の人々は心臓や身体を『私のもの』と呼ぶからである。さらに、我と我が所有物は明確に区別される。それは、所有する者と所有される物とが言葉によって示されるからであり、例えば『天授』と彼が乗る車との関係と同じである。 また、他人の身体を縁として我見が生じることはない。もし、心臓や身体を境として我見が生じると認めるならば、例えば『天授』や『徳授』などの見解が他人の身体をも境として生じることになり、不合理である。また、自己と他人の心などには違いがあるから、我見が無始の昔から自己の心臓や身体を縁として生じると説くのも正しくない。なぜなら、心などは瞬間ごとに変化し、前後で異なるからである。にもかかわらず、全てを縁として我見が生じるとは認められない。 さらに、この我見は現在の自己の心を境としない。なぜなら、それは世間で実際に経験される事実と矛盾するからである。また、過去や未来の心などを境とすることもできない。それらには実体がないからであり、空華（くうげ）のように、そこから我見は生じない。現に我は認識されるが、過去や未来には存在しないからである。また、一つの身体に二つの心は同時に存在しないので、現在の自己の心を縁として我見が生じると説くこともできない。心は刹那ごとに消滅し、新たに生じる。もし私というものがなければ、どうして記憶や認識、学習、恩讐（おんしゅう）などの出来事が生じ得るのか。 また、心臓や身体などは、決して我見の対象とはならない。なぜなら、そこには男・女などの相（すがた）がないからであり、例えば瓶や盆などにそれらの相がないのと同じである。ゆえに、確かに実在の我が存在する。この我に基づいて我見が生じ、その結果、自己を『大丈夫（だいじょうふ）』と呼ぶのである。」

如是所說，雖有虛言而無實義。所以者何？我若是有，應如色等從緣而生，生定歸滅則非常住。若非緣生，應如兔角無勝體用，何名為我？又雖立我是有是常，而竟不能立因立喻，非無因喻所立得成。若唯立宗則得成者，一切所立皆應得成。設復方便矯立因喻，即所立我其體非常，一切有因皆非常故。又所立我定非實有，常住我性是所知故、是所說故，如瓶盆等。又所立我若是實有，應非顛倒我見所緣。若稱實見是顛倒者，一切聖智皆應顛倒。一切聖智稱境而見既非顛倒，我見亦爾應非顛倒。若爾我見應如聖智，非無始來生死根本。若此我見稱實而知，而無始來引生死者，聖智亦應引諸生死，則應究竟不得涅槃。是故異生愚癡顛倒，於五取蘊無我法中妄執有我，因執我所。由此妄執我我所見，不稱實境成顛倒故，能引三界生死眾苦。若於無我五取蘊中起聖智見，通達無我及無我所，永斷生死證得涅槃，是故定應信受無我。又汝所言，以心根身世間說為我所有故，不應緣彼生我見者，我亦不應是我見境，世間亦說我所有我有如是相，是故不應以世間說為我所故非我見境。我我所事相望不定，或有別物、或無別物。又汝所言，所屬能屬言所詮故，如天授等，我與我所定有異者，此因不定。世間亦說，如是飲食所有香味特異於常，豈離香味別有飲食？我我所見雖俱緣蘊，而或別執一蘊為我、餘蘊為所，或復總執內蘊為我、外蘊為所，故所立宗有相符過。又汝所言，以緣他身我見無故，心等非是我見境者，我亦應非我見所緣，由於他我我見無故。若緣他我不起我見，而緣自我生我見者，雖緣他身不起我見，何妨我見緣自心等？無智有情不了平等空無我理，唯於諸行無始數習我我所見，於自於他諸蘊相續，執自為我、異我為他，其中都無我之實性。又汝所言，亦不應說自他心等有差別故，我見不緣無始時來自心根等，剎那展轉前後各異，而許俱緣生我見者，此亦不然。自身前後因果相續，自望於他因果斷故。如汝所執，我體是一，前後無異，他我相別。我見自緣己身中我，力用斯盡不緣他我。我亦如是，自身前後雖念念別，而無始來因果不斷。如燈河等相續假一，無智有情謂為一我而生我見；他身於自因果斷故，我見不緣。又汝計我，自他相似皆遍皆常，無所繫屬，我見何緣？緣此非彼。若汝計我有所繫屬，或有所生此彼差別，應如色等其性無常，是故當知有為因果相續各異，故令我見如是差別。又汝所說，我見不緣現在自心為境等難，皆不應理。所以者何？緣自身中前後因果相續假一生我見故，無緣現在自心等過。又一身中有多心品，因果相屬名一有情。異心品中發起我見，緣異心品計我何失？汝等所計我是實者，我見見我應如正見即非妄見，若不見我應如邪見則非我見。又汝所言，心等念念異滅異生，若無我者，云何得有憶識習誦恩怨等者，此亦不然。有情身中一一各有阿賴耶識，一類相續任持諸法種子不失，與一切法互為因果，熏習力故得有如是憶識習誦恩怨等事。汝所計我常無變易，後位如前應無是事。有應常有、無應常無，我體一故。不可說言我用轉變，用不離體，我亦應變，若爾此我應如色等體用俱變則是無常。若言心等皆屬於我，心等轉變有如是事，故所屬我亦得其名。若爾心等應從我起，能生果故，我應非常。若我於心無生長用，云何得言心屬於我？我既是常，不能任持心等種子，云何得有憶識等事？又汝所言，此心根等決定不為我見所緣，男女等相此中無故，如瓶等者。此因不成，男女等相身現有故，又所計我亦應不為我見所緣，男女等相我中無故，即所立因便為不定。為顯此義，故次頌曰：

> そのように説かれても、それは虚偽の言葉であり、実の意味はありません。なぜなら、もし「我」が実在するならば、色などのように因縁から生じ、生じたものは必ず滅びるから常住ではありません。もし因縁から生じないならば、兎の角のようなもので、勝れた体や用はなく、何を「我」と呼べましょうか。 また、「我」は存在し常住であると主張しても、因や喩えを立てることができず、因や喩えなしに主張が成り立つことはありません。もし宗（主張）を立てるだけで成り立つなら、全ての主張が成り立つはずです。仮に因や喩えを無理に設けても、その「我」の体は常住ではありません。すべて因のあるものは常住ではないからです。 また、その「我」は実有ではなく、常住の「我」の性質は認識されるものであり、語られるものであるため、瓶や盆などのように実在しません。 また、その「我」が実有であるならば、顛倒した我見の対象となるべきではありません。もし実在の見方が顛倒であるならば、全ての聖智も顛倒です。聖智は対象にかなって見るので顛倒ではなく、我見もまた同様に顛倒ではないはずです。そうならば、我見は聖智のようになり、無始以来の生死の根本ではなくなります。 もしこの我見が実にかなって知るものでありながら、無始以来生死を引き起こすならば、聖智もまた生死を引き起こすはずであり、結局涅槃を得ることはできません。 それゆえ、凡夫は愚かで顛倒し、五取蘊という無我の法の中に誤って「我」があると執着し、「我所有」を執着します。この誤った執着によって我見と我所見が生じ、実の対象にかなわず顚倒となるため、三界の生死の眾苦を引き起こします。 もし無我の五取蘊の中で聖智の見を起こし、無我および無我所を悟れば、生死を断ち涅槃を得ます。よって、必ず無我を信受すべきです。 また、あなたが言う「心・根・身・世間を我が所有と言うから、それを縁として我見が生じるべきではない」という点について、私も我見の対象ではないはずです。世間でも「我が所有」「我はかくかくの相を持つ」と言うので、世間の言葉を理由に我所有が我見の対象でないとは言えません。我と我所有の関係は不定であり、別の物であることも、別でないこともあります。 また、あなたが言う「所属と能属の言葉で表されるから、天授などのように我と我所有は必ず異なる」という点は、因が不定です。世間でも「この飲食の香味は特別に優れている」と言うが、香味を離れて別に飲食があるでしょうか？我見と我所見は共に蘊を縁としますが、ある時は一蘊を我とし、残りを我所有と執し、またある時は内蘊を我とし、外蘊を我所有と執します。よって、あなたの主張には符合過失があります。 また、あなたが言う「他身を縁とする我見がないから、心などは我見の対象ではない」という点について、私も我見の対象ではないはずです。他我に対する我見がないからです。もし他我に対して我見が起こらず、自我に対してのみ我見が生じるなら、他身では我見が起こらなくても、我見が自心などを縁するのを妨げません。無智の有情は平等な空無我の理を悟らず、諸行において無始からの習慣で我見と我所見を起こし、自他の蘊の相続において、自を我と執し、異なるものを他としますが、そこには我の実性はありません。 また、あなたが言う「自他の心などに差別があるから、我見は無始からの自心・根などを縁としない」という点も、そうではありません。自らの身心は前後の因果が相続し、他に対しては因果が断たれています。あなたが主張するように、我の体は一つで前後が同じであり、他我とは別です。我見は自らの身中の我だけを縁とし、他我を縁としません。私も同じく、自らの身心は前後が念念別でも、無始から因果は断たれず、燈火や河川のように相続して仮に一つと見られます。無智の有情はそれを一つの我と思い我見を生じますが、他身は自に対する因果が断たれているので、我見は縁としません。 また、あなたが考える我は、自他とも遍く常であり、所属がなく、我見は何を縁とするのでしょうか？これに縁りあれに縁らないということはありません。もしあなたが我に所属や生起の差別があると言うなら、色などのように無常です。よって、有為の因果は相続しつつ各々異なるため、我見もこのように差別があるのです。 また、あなたの言う「我見は現在の自心を対象としない」などの難点は、すべて道理に適いません。なぜなら、自らの身心の中の前後因果が相続し仮に一つとされるものを縁として我見が生じるからであり、現在の自心などを縁としない過失はありません。 また、一身の中に多くの心の品類があり、因果が相属して一有情と名づけられます。異なる心の品類の中で我見を起こし、異なる心の品類を縁として我を計ることに何の過失がありましょうか？あなた方が実在と考える「我」は、我見が「我」を見るなら正見であり妄見ではなく、もし「我」を見ないなら邪見であり我見ではありません。 また、あなたが言う「心などは念念に滅し生じるが、もし我がなければ、どうして記憶や認識、学習、恩讐などの事があるのか」という点も、そうではありません。有情の身中には各々阿頼耶識があり、一類相続して諸法の種子を失わず保ち、すべての法と互いに因果となり、熏習の力によってこのような記憶や認識、学習、恩讐などの事があるのです。あなたの考える「我」は常に変わらず、後の状態も前と同じであるため、このような事は起こるべきではありません。あるものは常にあり、ないものは常になく、我の体は一つだからです。「用が変わっても体は変わらない」とは言えません。用は体を離れず、我もまた変わるべきであり、そうならば色などのように体と用が共に変わり無常です。 もし心などがすべて我に属し、心などの変化によってこのような事があり、所属する我もその名を得ると言うなら、心などは我から生じ、果を生む力があるので、我は無常であるべきです。もし我が心に対して生長の用を持たなければ、どうして心が我に属すると言えるでしょうか？我は常であり、心などの種子を保つことができないので、どうして記憶などの事があり得ましょうか？ また、あなたが言う「この心・根などは決して我見の対象とならず、男女などの相がここにはないから、瓶などのようである」という点は、因が成立しません。男女などの相は身に現にあるからです。また、あなたの考える「我」もまた我見の対象となるべきではなく、男女などの相は我の中にないからです。よって、あなたの立てた因は不定となります。 この意味を明らかにするために、次の頌を説きます。

「內我實非男， 非女非非二；但由無智故， 謂我為丈夫。」

> 私の本質は男でもなく、 女でもなく、その両方でもありません。 ただ、智慧がないがゆえに、 人を「男」と呼んでいるのです。

論曰：依止身相有差別故，世俗說為男女非二，此身別相內我中無，以所計我體是一故。又男等相生生改易，亦見此生有轉變者，捨別異相取所餘相。汝所執我常無變易，無捨無取故無此相。亦不可說男女等相雖非我體而是我德，我與德合說為男等。所以者何？樂等德中所不說故。我不共德略有九種：一苦、二樂、三貪、四瞋、五勤勇、六法、七非法、八行、九智。男女等相九所不攝，云何而言此是我德？又樂等德遍諸所依，男女等相所依不遍，云何得說此為我德？又不可說男女等相同異性攝，由同異性亦得說我為男女等。所以者何？同異性者所依決定常遍所依，我既是常，男女等相常應不捨，應一切時常有三相。又男等相遍表一切我及身等，云何唯我同異性攝？又同異性所依各別，設許唯我同異性攝，云何一我有三同異？不見一依有多同異。亦不可說如波羅奢一樹之上有三同異，波羅奢性樹性實性；我亦如是，一我體上有三同異，男性、女性非男女性。所以者何？波羅奢性遍波羅奢、樹性遍樹、實性遍實，此三所依互有寬狹。我上三性皆唯遍我，所依無別云何為喻？是故唯依無始數習妄想分別所起假相，世俗道中說為男等，非有實我有男等相。但由無明憍逸妄想，愚夫自謂我是丈夫，亦有自謂為女非二。頌中略故，且說丈夫。以身中有男女等相，所執我體男等相無，故汝比量因有不成不定過失。若汝復言，我及身等雖復皆有男女等相，然我是實身等是假。此亦不然，若男等相二處皆有，云何得知一假一實？應立量言，我見決定不緣實我，男女等相所雜糅故，如緣身等起男等相所雜糅心。又我見等不緣實我，有所緣故，如餘心等。又我見境非是實我，男等相心之所緣故，猶如身等。故汝所言虛無實義。

> 論じていう。依止する身の相に差別があるから、世間では男女・非二（中性）と説かれる。この身の別々の相は、内なる我の中にはない。なぜなら、計らうところの我の体は一つであるからだ。また、男などの相は生まれては変わり、この一生でさえ転変する者があるのを見る。別異の相を捨てて、余りの相を取るのである。汝の執する我は常にして変易なく、捨てることも取ることもないから、この相はない。また、男女などの相は我の体ではないが、我の徳であるとして、我と徳が合わさって男などと説くこともできない。なぜか。楽などの徳の中に説かれていないからである。我に共通しない徳は、略して九種ある。一に苦、二に楽、三に貪、四に瞋、五に勤勇、六に法、七に非法、八に行、九に智である。男女などの相は、九の中に含まれない。どうしてこれを我の徳と言えようか。また、楽などの徳はすべての所依に遍くあるが、男女などの相は所依に遍くない。どうしてこれを我の徳と言えるのか。また、男女などの相は同異性に摂されると説くこともできない。同異性によって、我を男女などと説くこともあり得るからである。なぜか。同異性の所依は決定して、常に所依に遍くある。我は既に常であるから、男女などの相は常に捨てられることなく、常に三相があるべきである。また、男などの相はすべての我および身などに遍く表れる。どうして我だけが同異性に摂されるのか。また、同異性の所依は各々別である。たとえ我だけが同異性に摂されるとしても、どうして一つの我に三つの同異があるのか。一つの所依に多くの同異があるのを見ない。また、例えば波羅奢（パラーシャ）の一つの樹に三つの同異があるように、波羅奢性・樹性・実性がある、我もまた同じで一つの我体に三つの同異、男性・女性・非男女性があると説くこともできない。なぜか。波羅奢性は波羅奢に遍く、樹性は樹に遍く、実性は実に遍く、この三つの所依は互いに広狭がある。我の上の三性はすべてただ我にのみ遍く、所依に別がない。どうして譬えとなろうか。ゆえに、ただ無始の数習・妄想・分別によって起こる仮の相に依って、世俗の道において男などと説くのである。実の我に男などの相があるのではない。ただ無明・憍逸・妄想によって、愚夫が自ら「我は丈夫である」と言い、また自ら「女である」「非二である」と言うのである。頌の中では略して、ただ丈夫と説く。身の中に男女などの相があるが、執する我の体には男などの相がないから、汝の比量には不成・不定の過失がある。もし汝がさらに言う、「我および身などは、男女などの相をともに持つが、我は実であり、身などは仮である」と。これもまたそうではない。もし男女などの相が二処にともにあれば、どうして一方が実で一方が仮であると知るのか。量を立てて言うべきである。「我見は決定して実我を縁ぜず。男女などの相に雑糅されているから。身などに縁って、男女などの相を起こす心が雑糅されているように。」また、「我見などは実我を縁ぜず。所縁があるから。他の心などのように。」また、「我見の境は実我ではない。男女などの相の心の所縁であるから。身などのように。」ゆえに、汝の言うところは虚しく、実義はない。

復次順世外道作如是言：諸法及我大種為性，四大種外無別有物。即四大種和合為我，及身心等內外諸法，現世是有、前後世無。有情數法如浮泡等，皆從現在眾緣而生，非前世來、不往後世。身根和合安立差別為緣，發起男女等心，受用所依與我和合，令我體有男等相現。緣此我境復起我見，謂我是男女及非二。今應問彼：汝說大種和合變異為身根等，如是成內大種自性，為是男等？非男等耶？彼答言非內外大種，性無異故。雖大種性內外無異，然有安立形相差別。如是世間所知形相，所有男等自性差別，皆是自心分別所起，非實物中有如是性。若爾頌曰：

> 次に、順世外道は次のように説く。「すべての存在と我は、四大元素を本質とする。四大元素の他に別の実体は存在しない。すなわち、四大元素が和合して我となり、身体や心などの内外の諸法を形成する。現在の世は存在するが、前世や来世は存在しない。有情を数える法は、泡や浮きびのように、すべて現在の様々な縁から生じ、前世から来るものではなく、後世に赴くこともない。身根が和合し、安立の差別によって縁となり、男女などの心を発起させる。受用の所依は我と和合し、我が体に男などの相を現させる。この我の境に縁って、さらに我見が起こり、我は男である、女である、またはそのどちらでもないと執着する。」 今、彼らに問うべきである。「あなたがたが説く、大種が和合し変化して身根などとなる、このようにして成就した内なる大種の自性は、男などであろうか？ 男などではないのであろうか？」と。彼らは答えて言う。「内なる大種も外なる大種も、その性に違いはない。しかし、大種の性に内外の違いはないものの、安立された形相の差別は存在する。このように、世間が知る形相、すべての男などの自性の差別は、すべて自らの心の分別によって生じたものであり、実物の中にそのような性があるわけではない。」と。 もしそうであれば、頌に曰く、

「若諸大種中， 無男女非二；云何諸大種， 有男等相生？」

> もし五大元素（地・水・火・風・空）の中にもともと男・女・両性具有という区別がないのであれば、なぜ五大元素からそのような区別を持った姿が生まれるのでしょうか？

論曰：若四大種本性，無有男女非二。云何得有男等相生？男女等心何緣而起？受用所依雖與我合，云何令我男等相現？若我無有男女等相，云何我見謂我是男女及非二？若本性無，雖與他合，終不能令轉成餘相，亦不能令生餘相心，如鮮白物雖合餘色不成餘相、不起餘心，頗胝迦等餘色合時前滅後生，不可為喻。是故決定無有實我大種為性經久時住，有男等相我見所緣。

> 論じて曰く：もし四大の本の性質として、男・女・非男非女の区別が本来ないのであれば、どうして男などの姿が生じるのか。男女等と認識する心は何に縁って起こるのか。感覚の依り所となる身体は「我」と結びついているとはいえ、どうして「我」に男などの姿を現させるのか。もし「我」に男女等の相がなければ、どうして「我は男である」「我は女である」「どちらでもない」という我見が生じるのか。もし本来その相がないならば、たとえ他と結びついても、決して別の相に変わることはできず、また別の相を認識する心を生じさせることもできない。例えば白い清らかな物は、他の色と混ざっても別の色に変わらず、別の色を思い起こす心も生じない。玻璃（はり）などの透明な物質が他の色と合わさる時、前の色が滅して後の色が生じるという例は、ここでの比喩としては適切ではない。よって、確かに実在の「我」など存在せず、四大を本性として長く持続し、男や女などの相について「我」という見解が生じる対象となるものはない、と断定される。

復次記論外道作如是言：諸法及我，一切皆與三相和合。由此三相，皆能發起三種心聲。何謂三相，一者男相，能生諸法；二者女相，能滅諸法；三非二相，能守本位。此亦不然。諸法及我，體非三相，云何能起三種心聲？亦不可說與他合故轉成三相，前所說過不相離故。若法及我體非三相，三相合故轉成三相，三相更無餘三相合，故此三相應非三相，應不能起三種心聲。又此三相與非相合，能使非相轉成相者，諸法及我與相合時，應令三相轉成非相，是則畢竟應不能起三種心聲。又此三相功能差別，更互相違必應不並，云何一物得有三聲？如角等物，男女非二，三聲所呼世共知故。又一物上三相功能，更互相違而得並者，應一切物皆具三相，不應現見聲有差別。又此三相若實有者，唯應依止有法非無，是則三聲應不周遍，云何現見諸方言音？有法上無、無法上有，現見境界不可誹謗；若無三相而有三聲，則一切處皆應如是。又此三相配生住滅，理不應然。男死女生，非二生死，世現見故。又此三相無別實體，後當廣辨。是故但隨世俗言路，說有男等三聲差別，非別實有如是三相。外道執有如是三相，依附實我我見所緣，是顛倒智；內道不執，故無顛倒。汝不應依有顛倒智，與無倒者正決擇時立為定量，以我見緣證實有我。又此我見，為隨我相執有我耶？為隨自覺執有我耶？若隨我相，應名正見；若隨自覺，應不緣我。又若初者，頌曰：

> さらに、論を記す外道はこう言う。「あらゆる存在と我（アートマン）は、すべて三つの相（特徴）と結びついている。この三つの相によって、三種の心と声が生じる。三つの相とは何か。第一に男相（能生の相）、すべての存在を生み出す。第二に女相（能滅の相）、すべての存在を滅ぼす。第三に非二相（非男女の相）、それぞれの本質を保つ。これは正しくない。存在と我は、その本質において三つの相ではない。どうして三種の心と声が生じるのか。また、他のものと結びつくことで三つの相に転じるとも言えない。先に述べた、互いに離れないという過失があるからだ。もし存在と我の本質が三つの相ではなく、三つの相と結びつくことで三つの相に転じるならば、その三つの相自身に、さらに別の三つの相と結びつくことはない。したがって、この三つの相は、本来の相ではなくなるはずであり、三種の心と声を生じるはずがない。また、この三つの相が非相（相でないもの）と結びつき、非相を相に転じさせるならば、存在と我が相と結びつく時には、三つの相を非相に転じさせるはずである。そうなれば、結局、三種の心と声を生じることはできない。さらに、この三つの相の働きや差別は互いに矛盾しており、必ず同時に存在することはありえない。どうして一つの物に三つの声（呼称）があり得るのか。例えば、角などの物に対して、男・女・非二（中性）という三つの声で呼ぶことは、世間では知られていない。また、一つの物の上で三つの相の働きが互いに矛盾しながら同時に存在するならば、すべての物が三つの相を持つはずであり、現に見られる声の差別（男女の区別）があってはならない。また、この三つの相が実在するならば、ただ有法（実在するもの）のみに依存し、無（存在しないもの）には依るべきではない。そうであれば、三つの声（呼称）は遍く行き渡るはずがなく、現に見られる諸々の地方の方言や音声はどう説明されるのか。有法の上に存在しないもの、無法（存在しないもの）の上に現に存在するものは、現に見られる境界であり、否定することはできない。もし三つの相がなくても三つの声が存在するならば、あらゆる場所でそうあるべきである。また、この三つの相を生・住・滅に配当するのは、道理に適わない。男が死に、女が生まれること、非二（中性）が生死することは、世間で現に見られるからである。さらに、この三つの相には別個の実体はなく、後で詳しく論じられるだろう。したがって、ただ世俗の言語表現に従って、男などの三つの声の差別が説かれているのであり、別個に実在する三つの相があるわけではない。外道はそのような三つの相が実在すると執着し、実我（真実の自己）の見解にとらわれて、そこに依存して認識する。これは顛倒した知恵である。内道（仏道）はそのように執着しないので、顛倒はない。あなたは、顛倒した知恵を持つ者を、顛倒のない者と正しく決択する際に、定量（確かな基準）として立てるべきではない。なぜなら、我見（自我の見解）を拠り所として、実在する我（アートマン）を証明するからである。 また、この我見（自我の見解）は、我の相（特徴）に従って我があると執着するのだろうか。それとも、自覚（自己の認識）に従って我があると執着するのだろうか。もし我の相に従うならば、それは正見と呼ばれるべきである。もし自覚に従うならば、それは我（アートマン）を認識の対象とすべきではない。また、もし前者（我の相に従う場合）ならば、次の偈頌の通りである。

「汝我餘非我， 故我無定相。」

> 「あなたと私は私ではない。だから、私に決まった姿はない。」

論曰：若汝身中我之自相，諸餘身中我亦同有，隨我自相而起我見，云何一見不緣一切？既無一見緣一切我，故知我見不隨我相。若汝身中我自相異，餘身中我自相復別，汝以為我，餘則為非；餘以為我，汝則為非。是則此我相不決定，既無定相便無定性，性相不定非實非常，云何執我真實常住？又立量言，自身我見，不隨自我自相而起，不緣餘我自相生故，如所餘緣所有心等。又自身我應不為緣發自我見，汝許我故，如他身我。又諸我見定不緣我，自他境相互有無故，如青黃等能緣之心。又一切我非我見境，諸餘有法所不攝故，猶如一切兔角等無。又一切我非實我性，是所知故，如一切法。是故我見不緣實我，諸所計我無實性相，一切智者皆非所見，唯諸愚人恒深樂著，如病眼境定非實有。故不可以我見所緣，證立此我實有常住。若第二者，頌曰：

> 論じて云く：もしもあなたの身体の中にある我の自相が、他の身体の中にある我にも同様に存在し、我の自相に従って我見が生じるならば、どうして一つの我見がすべての我を認識しないのであろうか。一つの我見がすべての我を認識することがない以上、我見は我の相に従って生じるものではないと知るべきである。 もしあなたの身体の中にある我の自相と、他の身体の中にある我の自相とが異なっているならば、あなたが我と見なすものは、他の者にとっては我ではなく、他の者が我と見なすものは、あなたにとっては我ではないことになる。そうであれば、この我の相は定まっておらず、定まった相がなければ定まった性質もなく、性質と相が定まっていなければ真実でも常住でもない。どうして我を真実であり常住であると執着することができようか。 さらに論証を立てるならば、自身の我見は、自己の我の自相に従って起こるものではなく、他の我の自相に縁って生じるものではないからである。例えば、他の縁に依存する心などのように。 また、自身の我は、自己の我見を生じさせる縁となるべきではない。あなたが我であると認めるものだからである。例えば、他の身体の我のように。 また、あらゆる我見は必ず我を縁とするものではない。自己と他者の境が相互に有ったり無かったりするからである。例えば、青や黄などの色を認識する心のように。 また、すべての我は我見の認識対象ではない。他の存在するものに含まれないからである。例えば、すべての兔角などの無いもののように。 また、すべての我は実在の我の性質ではない。認識される対象だからである。例えば、すべての法のように。 したがって、我見は実在の我を認識するものではなく、諸々の計らわれた我には実在の性質や相はなく、すべての智者によって認識されるものではない。ただ愚かな人々だけが深く執着するのである。例えば、病んだ眼に見える境は決して実在ではないように。 ゆえに、我見の認識対象であることをもって、この我が実在し常住であると証明することはできない。もし第二の説（我見の対象となる我が実在するという主張）に対しては、頌に曰く、

「豈不於無常， 妄分別為我。」

> 「無常なるものに、どうして我（永遠の自我）があると誤って分別するのであろうか。」

論曰：若隨自覺執有我者，豈不但緣無常身等，虛妄分別執為實我。所以者何？現見世間但緣身等，前後隨緣分位差別，虛妄計度我肥我瘦、我勝我劣、我明我闇、我苦我樂。身等無常可有是事，常住實我無此差別。由此比知，一切我見皆無實我以為境界，唯緣虛妄身等為境，隨自妄想覺慧生故，如緣闇繩顛倒蛇執。又如世間虛妄分別，執有空華第二月等，必由先見世間少事，然後方執有如是事。我見執我亦復如是，先緣生滅五取蘊事，後方決定執有實我。又如夢中虛妄境界，隨先所見和合計度。我見境界亦復如是，先緣諸蘊，然後和合虛妄計度。又諸我見略有二種：一者俱生、二者分別。俱生我見由無始來，內因力故恒與身俱，不待邪教及邪分別，任運而起故名俱生。此復二種：一常相續，在第七識，緣第八識起自心相，即執為我，名為我見。二有間斷，在第六識，緣五取蘊或總或別起自心相，即執為我，名為我見。如是二種，俱生我見微細難斷，數數修習勝無我觀方能除滅。分別我見，由現在世外緣力故，非與身俱，要待邪教及邪分別然後方起，故名分別。此亦二種：一緣邪教所說蘊相起自心相，分別為我，名為我見。二緣邪教所說我相起自心相，分別為我，名為我見。如是二種分別我見，麁重易斷，聖諦現觀初現行時即便除滅。如是所說一切我見，心外蘊境或有或無，心內蘊境一切皆有，是故我見皆緣無常諸蘊行相妄執為我。諸蘊行相從緣生故，是虛幻有；妄所執我非緣生故，決定非有。故契經說：「苾芻當知，世間沙門婆羅門等所有我見，一切皆緣五取蘊起。」

> 論じて曰く、もし自己の自覚に従って「我」が存在すると執着するならば、それはただ無常なる身体などの虚妄なる分別を縁として、実在する我と誤って執着しているに過ぎないのではないか。なぜなら、現に見る世間の人々は単に身体などを縁とし、前後の因縁による位相の差別に従って、虚妄に「我は太った」「我は痩せた」「我は勝った」「我は劣った」「我は明るい」「我は暗い」「我は苦しい」「我は楽しい」と計度するからである。身体などは無常であるから、このような事があり得るが、常住実在の我にはこのような差別はあり得ない。このことから推察するに、あらゆる我見はいずれも実在の我を境とするのではなく、ただ虚妄なる身体などを境とし、自己の虚妄な分別の覚慧によって生じるものである。例えば暗闇の中で縄を見て、それを蛇と誤って執着するようなものである。また、世間の虚妄なる分別が、空花や第二の月などの存在を執着するのも、必ず先に世間の些細な事を見た後に、そのような事があると執着するのである。我見が我を執着するのもまた同様であり、先に生滅する五取蘊の事を縁とし、後に決定して実在の我があると執着するのである。また、夢の中の虚妄なる境界も、先に見たものに従って和合し計度するものである。我見の境界もまたこれと同じであり、先に諸蘊を縁とし、その後和合して虚妄に計度するのである。また、諸々の我見には大まかに二種類ある。第一は俱生、第二は分別である。俱生の我見は無始以来、内なる因の力によって常に身体と共にあり、邪なる教えや邪なる分別を待たず、任運に起こるから俱生と名付ける。これにもまた二種類ある。第一は常に相続して第七識にあり、第八識を縁として自心の相を起こし、即座にそれを我と執着する。これを我見と名付ける。第二は間断があり、第六識にあって五取蘊を縁として、あるいは総体として、あるいは個別として自心の相を起こし、即座にそれを我と執着する。これを我見と名付ける。このような二種類の俱生の我見は微細で断ち難く、繰り返し勝れた無我観を修習することによってのみ除滅できる。分別の我見は、現在世における外縁の力によるものであって、身体と共にあるのではなく、邪なる教えや邪なる分別を待って初めて起こるから、分別と名付ける。これにもまた二種類ある。第一は邪なる教えの説く蘊の相を縁として自心の相を起こし、それを分別して我とする。これを我見と名付ける。第二は邪なる教えの説く我の相を縁として自心の相を起こし、それを分別して我とする。これを我見と名付ける。このような二種類の分別の我見は粗重で断じ易く、聖諦の現観が最初に現行する時に即座に除滅される。以上に説いた全ての我見について、心外の蘊の境は有ることも無いこともあるが、心内の蘊の境は全て有る。それ故、我見は全て無常なる諸蘊の行相を縁として、虚妄に我と執着するのである。諸蘊の行相は因縁から生じるものであるから、虚妄なる有であり、虚妄に執着する我は因縁から生じるものではないから、決定して非有である。故に契経は説く。「比丘よ、知るがよい。世間の沙門や婆羅門などの全ての我見は、全て五取蘊に縁って生起するのである。」と。

復次今應審問，諸瞖盲徒空無我理，有何所失，而強分別固執我耶？若一切法空無我者，生死涅槃二事俱失。所以者何？由有我故，諸無智者樂著生死，先造能招善不善業，後受所感愛非愛果。諸有智者欣樂涅槃，先觀生死苦火煎逼發心厭離，後方捨惡勤修諸善得正解脫。如是一切皆由我成，我為作者、我為受者，我為苦逼發心厭離，捨惡修善證得涅槃。若爾頌曰：

> さあ、ではここで改めて問おう。ああ、無知の瞑（くら）き者たちよ。「我」は実体として存在しないという「無我」の理を説くことが、いったい何の誤りを招くというのか。それなのに、なぜ執拗に「我」があると実体視し、強く分別し、固執するのか。 もし一切のありとあらゆるものが「無我」であるならば、二つの大事、すなわち「輪廻（生死）」と「悟り（涅槃）」の双方が成立しなくなる。なぜかと言えば、「我」があるからこそ、賢くない人々は輪廻に執着する。そしてまず善悪の行いを積み、後にその報いとして愛しいものや不快なものを受けるのだ。 また、賢き人々は涅槃を欣求（願い望み）する。まず輪廻の苦しみに焼かれ焦がされるその様を見、嫌悪し、そこから離れようと心を起こす。その後、悪を捨て、善を精進して修め、正しい解脱を得るのだ。 つまり、このような一切の営みは、「我」が存在するからこそ成り立つのである。「我」こそが行為の主体（作者）であり、「我」こそが報いを受ける主体（受者）である。「我」が苦しみに脅かされて嫌悪の心を起こし、悪を捨て善を修め、涅槃を証するのである。 もしこの理がなければ、どうなるのか。それを示そう。

「我即同於身， 生生有變易；故離身有我， 常住理不然。」

> 「我」はそのまま身体と同じものであり、生まれるたびに変化していく。だから、身体を離れて永遠に変わらない「我」が存在するという考えは、道理に合わないのである。

論曰：若我先造種種行業，後方領受種種果報，是則此我體應轉變，因必有轉變，果有差別故。無有道理，因不轉變而果眾多。及非恒有，謂所執我那落迦等諸趣諸界生差別中，若能造受種種業果，則應同身生生變易，非天授等身無變易，先能造作善惡二業，後能領受苦樂兩果。是故我體同所依身，能造受故生生變易，有變易故則有生滅，生滅相應豈得常住？又所執我不離身等有情數攝，體非常故，如所依身。是故執我常住離身，能為作者及為受者生死輪迴，皆不應理，以離身等無別用故。

> 論にこう述べられている。もし私が先に様々な業を造り、その後で様々な果報を受けるのだとすれば、この私という存在の本体は変化するはずである。なぜなら、原因に変化があれば結果にも違いが生じるからである。原因が変化しないのに結果が多様であるという道理はない。また、永遠に一定であることもない。なぜなら、主張される「我」が地獄などの様々な生存の境涯や世界に生まれる違いのうちで、様々な業を造り果報を受けることができるならば、それは身体とともに生まれ変わって変化するはずであり、天授などの身体が変化せずに、先に善悪の二つの業を造り、後に苦楽の二つの果報を受けるということはないからである。 ゆえに、「我」の本体は依り所となる身体と同じく、業を造り果報を受けることができるがゆえに、生まれるたびに変化するのであり、変化がある以上は生滅がある。生滅と相応するものが、どうして常住でありえようか。また、主張される「我」は身体などと離れず、有情としての分類に含まれるものであり、その本体は常住ではない。身体という依り所と同じであるからである。 それゆえ、「我」が常住であり身体から離れて存在し、行為の主体であり受報の主体であって生死を輪廻すると主張することは、いずれも道理に適わない。身体などから離れては、別に作用がないからである。

復次云何此我能造諸業？若謂與身合故能造，由此內我有勤勇德，因此德故與身和合起諸作業。此德作業雖待依身而屬於我，如以金石投於樹枝，重德相應故有搖動。是德作用雖待樹枝，而屬金石。此亦不然，有觸對物可有如是動搖作用。汝我不爾，云何身合能造諸業？所以者何？頌曰：

> また、なぜ「私は業を造ることができる」と言うのか。もし「私が身体と結合しているから業を造れる」というのなら、その内なる私には勤勇（努力する力）という性質があるという。その性質によって身体と調和し、様々な業を起こすという。この性質の働きは身体に依存するものの、私に属する。例えば、金や石を木の枝に投げれば、重い性質が対応して揺れ動きを生じる。その性質の働きは枝に依存しても、金や石に属する。しかし、これは正しくない。触れ合うものがあれば、そのような動きの作用はあり得るが、あなたの言う「私」はそうではない。どうして身体と結合して業を造れると言うのか。その理由とは何か。ここに偈頌で示す。

「若法無觸對， 則無有動搖；是故身作業， 非命者能造。」

> ある法が触れ合うものではないならば、動きや揺らぎもない。それゆえ、身体による行為は、「命ある者」が作るものではないのだ」と。

論曰：一切能起動搖作業，決定不離有觸對物。我無觸對，雖與身合，云何能作搖動業因？如所執時無有觸對，雖與身合不能作業。心及心法唯能生風，風與身合方能造業，故所立因無不定過。此說近因，非展轉故。又可合者必有方分，兩物相觸無間名合。所執我等既無方分，云何與身合故造業？不可假說我有方分，即有實起作業功能。勿以假名說水為火，即有實火焚燒作用。由能說人假說諸法，非能說人有差別故，令所說法其性轉變。法性決定，前已具論。於本頌中無觸對者，顯無方分。無動搖者，顯無合義。又自有動，方能動他。如金石等要自有動，方能為因令樹枝動。我既無動，無形礙故，何能為因令所依動，如金石等不動轉位，無觸對者顯無形礙，無形礙故自無有動，無動搖者顯非動因。如是所執無動神我，尚無能動一毫之力，況能造業得名作者？既不造業即無有果，若不受果何名受者？

> 論で述べる。すべての動きを起こし揺り動かす作用は、必ず触れ合うものがあることを離れない。我には触れ合うことがない。たとえ身体と合一しても、どうして動き揺り動かす業の因となり得ようか。執着する時のように触れ合うことがなければ、身体と合一しても業を作り出すことはできない。心と心の働きはただ風を生じさせるのみであり、風が身体と合一してはじめて業を造ることができる。ゆえに立てた因に不定の過失はない。これは近い因を説くものであって、転々としたものではない。また、合一し得るものは必ず方分（空間的な広がり）を持つ。二つの物が触れ合い間がないことを合一と名付ける。執着される我などには方分がないのだから、どうして身体と合一して業を造ると言えるのか。我に方分があると仮に説くことはできない。すなわち実に起こり働く業の機能があるならば、水を火と仮名で説いても、実に火の燃やし尽くす作用があることになってしまう。説く人が諸法を仮に説くからといって、説く人に差異があることで、説かれる法の性が転変するのではない。法の性が決定していることは、すでに前に詳しく論じた。本頌において「触れ合うものなし」とは、方分がないことを顕す。「動揺なし」とは、合一の意味がないことを顕す。また、自ら動くものがあってはじめて他を動かすことができる。金や石などのように、自ら動くことがあってはじめて因となり、樹の枝を動かすことができる。我には動きがなく、形の障害もないのだから、どうして因となって所依（よりどころ）を動かすことができようか。金や石などが動かない位置にあるように、「触れ合うものなし」とは形の障害がないことを顕し、形の障害がないから自ら動くことがない。「動揺なし」とは動かす因ではないことを顕す。このように執着される動きのない神我は、一毫（わずか）を動かす力さえもない。ましてや業を造って作者と名付けられることがあろうか。業を造らなければ果報もない。果報を受けなければ、何をもって受者と名付けるのか。

復次如汝所言，我為苦逼發心厭離，捨惡修善得解脫者，此亦不然。何以故？頌曰：

> さらに、あなたがおっしゃったように、「私は苦しみに迫られて発心し、厭離して、悪を捨て善を修めて解脱を得る」という考えもありますが、これもまた正しくありません。なぜならば、次の偈に示すとおりです。

「我常非所害， 豈煩修護因？誰恐食金剛， 執仗防眾蠹？」

> 我は常に害されることがない。　なぜ修護の因を煩わす必要があろうか？ 誰が金剛を食らうことを恐れて、　杖を持って衆の虫を防ぐことがあろうか？

論曰：汝所計我既無變易，如太虛空其體常住，一切災苦皆不能害，豈煩精進修防護因？有變壞身，苦所逼害罪所塗染，理須防護。誰有智者，了知金剛物無能壞，而恐侵食，率侶執仗防諸蠹蟲？唯有愚人或為是事，可變壞物應加守衛。若汝意謂，命可害故我亦隨害。此亦不然，我既是常不應隨害。又汝計命三事和合，謂身我意，前已遮破，我與身合無方分故。如汝所計，色等諸德無和合義，又和合者無別有性，唯有方分無間而生。既無別體，復何所害？此設可害必隨所依，所依既常云何可害？設復害命，於我何惱？以汝所計我常無礙，如太虛空寒暑風雨霜雹無損，如是我性苦何所惱？又所執我其性凝然前後無變，設離眾惡，復何所增而名解脫？豈不此位善法增耶？我性既常，善增何益？所執我體常無改變，餘法雖生亦無增損，如是解脫於我無用。是故執我常住無變，生死涅槃二事俱失；若空無我，二事俱成。

> 論じて言う。あなたが執着する「我」がもし永遠に変わらないものであるならば、それは大虚空のように常に存在し、あらゆる災いや苦しみがすべて害することができない。それならば、わざわざ精進して防護の修行をする必要があろうか？変わり壊れる身体があり、苦しみに迫られ、罪に染められるからこそ、防護することが理にかなっている。世の中に、金剛石のような破壊されないものを知りながら、それが食い荒らされるのを恐れて、仲間を率いて武器を持ち、虫を防ぐ者がいるだろうか？愚かな者だけがそのようなことをする。壊れやすいものこそ守るべきである。 もしあなたが、「命は害されることがあるので、我もそれに従って害される」と考えるならば、これもまた正しくない。私は永遠不変であるならば、それに従って害されることはない。また、あなたが考える「命」は三つの要素の和合、すなわち身体・我・意識によって成り立つが、これはすでに前に論破した。我と身体が結合することは、我には部分がないからである。 あなたが考えるように、色などの諸性質には和合の義がない。また、和合するものには別個の本性がなく、ただ部分と部分が間断なく生じるだけである。別個の本体がないのなら、何が害されるというのか？仮にこれが害されうるとしても、必ずそのよって立つものに従う。それに依拠するものが永遠不変ならば、どうして害されうるのか？ 仮に命を害したとしても、我にとって何の苦しみがあろうか？あなたが執着する我は永遠にして妨げられることがなく、大虚空が寒暑・風雨・霜雪によって害されないように、我の本性も苦しみによって何の煩わしさもない。 また、あなたが執着する我は、その本性が凝然として前後に変化しない。もしも衆悪を離れたとしても、何が新たに増えて「解脱」と呼ばれるのか？この位で善法が増えるのではないか？我の本性が永遠ならば、善が増えて何の益があろうか？執着する我の本体は永遠にして変化しないから、他の法が起こっても増減もない。そうであれば、解脱は我にとって何の役にも立たない。 ゆえに、永遠にして変化しない我を執着することは、生死と涅槃の両方を失うことになる。もし「空」であり「無我」を悟るならば、生死からの解脱と涅槃の成就の両方が成し遂げられるのである。

## 大乘廣百論釋論卷第二

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