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title: "攝大乘論釋 · 1"
description: "攝大乘論釋是古印度無性菩薩為世親《攝大乘論》所作的權威註釋由唐代玄奘法師漢譯本論屬瑜伽行唯識學派核心典籍系統闡釋阿賴耶識緣起三性三無性等唯識教義奠定大乘佛教認識論與修行體系基礎是研究唯識思想必讀經典對漢傳佛教唯識宗形成具有深遠影響為連接印度與中國佛教哲學的重要橋樑"
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### 所知相分第三之一

> 所知相分第三

論曰：已說所知依，所知相復云何應見？此略有三種：一依他起相、二遍計所執相、三圓成實相。

> 論に曰く、既に所知の依（よりどころ）を説きたり。それでは、所知の相（すがた）は、いかにして見るべきであろうか。これは要約すると三種ある。第一は依他起相、第二は遍計所執相、第三は円成実相である。

釋曰：已說所知依者，謂不復當說。此者，此所知相。略有三種者，謂一切法要有所應知、所應斷、所應證差別故。依他起相者，謂依業煩惱，所取能取遍計隨合他而得起故。如是相者何所表知？謂依他起相。遍計所執相者，謂永無相。永無相者是遍計所執所取能取補特伽羅及法有性之所相故。云何非有可為所相？謂即如是而分別故。由薄伽梵說如是言：乃至實有不知實有，乃至非有不知非有；如是實有知為實有，若非實有知非實有。圓成實相者，謂即於彼遍計所執所取能取或我或法無性之性，用彼為量所了境性。於彼遍知，方能了別遍計所執決定非有，有相違性故、非為境性故。

> 釈して言う：すでに「所知依」を説いたとは、もはや説くべきでないことを指す。ここでいう「此」とは、この所知相のことである。「略して三種あり」とは、すべての法には要するに、知るべきもの、断つべきもの、証すべきものという区別があるからである。 「依他起相」とは、業と煩悩に依り、所取と能取が遍計によって随合し、それによって起こることをいう。このような相は何を表しているのか？それは依他起相である。 「遍計所執相」とは、永遠に実体のない相をいう。永遠に実体のない相とは、遍計所執によって執着された所取と能取、すなわち補特伽羅（我）や法が実体あるものとして捉えられる相のことである。どうして実体がないものが相として現れるのか？それはそのように分別するからである。薄伽梵（仏陀）はこのように説かれている：「実有なるものは実有として知らず、非有なるものは非有として知らず、かくのごとく実有なるものを実有として知り、実有ならざるものを実有ならずとして知る」。 「円成実相」とは、まさにその遍計所執によって捉えられた所取と能取、すなわち我や法の無性の性（実体のない本質）を、それを尺度として了知される境の性質をいう。それについて遍く知ることによって初めて、遍計所執が確かに実体なきものであると了別できるのである。なぜなら、有る相と矛盾する性質であり、境としての性質を持たないからである。

論曰：此中何者依他起相？謂阿賴耶識為種子，虛妄分別所攝諸識。此復云何？謂身、身者、受者識、彼所受識、彼能受識、世識、數識、處識、言說識、自他差別識、善趣惡趣死生識。此中若身、身者、受者識、彼所受識、彼能受識、世識、數識、處識、言說識，此由名言熏習種子。若自他差別識，此由我見熏習種子。若善趣惡趣死生識，此由有支熏習種子。由此諸識，一切界趣雜染所攝依他起相虛妄分別皆得顯現。如此諸識，皆是虛妄分別所攝，唯識為性，是無所有非真實義顯現所依，如是名為依他起相。此中何者遍計所執相？謂於無義唯有識中似義顯現。此中何者圓成實相？謂即於彼依他起相，由似義相永無有性。

> 論じるに、ここで何が依他起相かというと、阿頼耶識を種子とし、虚妄分別に含まれる諸々の識である。これはさらにどういうものか。すなわち、身識、身者識、受者識、それらが受け取る対象の識、それらが受け取る働きの識、世間の識、数の識、場所の識、言葉による識、自己と他者の区別の識、善い境遇や悪い境遇、死と生の識である。このうち、身識、身者識、受者識、対象の識、働きの識、世間の識、数の識、場所の識、言葉の識は、これらは名による言葉の習気の種子によるものである。自己と他者の区別の識は、これらは我という見解の習気の種子によるものである。善い境遇や悪い境遇、死と生の識は、これらは生存を支える因縁の習気の種子によるものである。これらの諸識によって、あらゆる世界や境遇にわたる雑染に含まれる依他起相としての虚妄分別がすべて現れ出るのである。このような諸識は、すべて虚妄分別に含まれ、ただ識をその本性とし、実体のない非真実の意味が現れるよりどころとなる。このように、これを依他起相というのである。 ここで何が遍計所執相かというと、実体のないところに、ただ識がある中で、あたかも実体があるかのように現れることである。 ここで何が円成実相かというと、まさにその依他起相において、あたかも実体があるかのような相が、永遠に実在しない性質であることである。

釋曰：謂身身者受者識者，如後當說眼等六內界為性。如其所應，眼等五識所依意界名身者識，第六意識所依意界名受者識，彼所受識者如後當說是色等六外界，彼能受識者如後當說是六識界。世識者，謂似三時影現。數識者，謂似一等算數影現。處識者，謂似聚落園等影現。言說識者，謂似見聞覺知言說影現。自他差別識者，謂身等識，我我所執相續不斷，執我我所、他他所等有差別故。善趣惡趣死生識者，謂似天、人及㮈落迦、傍生、餓鬼死生影現。此中若身身者等乃至言說識此由名言熏習種子者，謂彼身等皆由名言熏習種子識所變現，無別事故。若自他差別識此由我見熏習種子者，謂染污意我見熏習為因變現。若善趣惡趣死生識此由有支熏習種子者，謂由有支熏習為因變現。如此諸識皆是虛妄分別所攝者，如前所說身等諸識所取能取，虛妄分別安立為性。唯識為性者，由邪分別二分顯現，實唯是識。善等法中雖無邪執，緣起力故二分顯現，亦唯是識，是無所有非真實義顯現。所依者，所取色等名無所有，能取識等名非真實，此二皆是遍計所執並名為義。虛妄分別所攝諸識，是此二種顯現因緣，故名所依。如是名為依他起相者，如上所辨阿賴耶識為種子等，皆說名為依他起相。謂於無義唯有識中似義顯現者，實無所取及能取義，唯有虛妄分別所攝。種種識中遍計所執似義顯現。謂即於彼依他起相由似義相永無有性者，謂於緣起心及心法所現影中，由橫計相永無所顯真如實性，此即名為圓成實相。又一切法從因緣生，唯識為性，當知皆名依他起相。顛倒橫計似義顯現，當知皆名遍計所執相。依他起上遍計所執永無所顯真如實性，當知皆名圓成實相。譬如鹿愛自相續力，安立似水所取能取邪遍計性，當知名為依他起相。橫計實有水事顯現，當知名為遍計所執相。即於如是鹿愛事中，橫計水相畢竟無性，當知是名圓成實相。又遍計所執相即是遍計所執自性，依他起相即是依他起自性亦名分別自性，圓成實相即是圓成實自性亦名法性自性，如是三種即是宣說應知、應斷、應證三法。如《大般若波羅蜜多經》中亦說，佛告慈氏：若於彼彼行相事中，遍計為色、為受、為想、為行、為識，乃至為一切佛法依止，名想施設言說遍計。以為諸色自性，乃至一切佛法自性，是名遍計所執色乃至遍計所執一切佛法。若復於彼行相事中唯有分別法性安立，分別為緣起諸戲論，假立名想施設言說，謂之為色乃至謂為一切佛法，是名分別色乃至分別一切佛法。若諸如來出現於世若不出世，法性安立、法界安立。由彼遍計所執色故，此分別色於常常時於恒恒時是真如性、無自性性、法無我性、實際之性，是名法性色乃至由彼遍計所執一切佛法故。此分別一切佛法，於常常時於恒恒時，乃至是名法性一切佛法。廣說如經。

> 釈しますと、身（身体）・身者（身体の主体）・受者（感受する主体）・識者（認識する主体）について、後で述べるように、眼などの六つの内界（六根）をその本性とします。それぞれ対応するものとして、眼識などの五識のよりどころとなる意界（意識の基盤）を「身者識」と呼び、第六意識のよりどころとなる意界を「受者識」と呼びます。それらが感受する対象である「識者」は、後で述べるように色などの六つの外界（六境）であり、それらを感受する主体である「識者」は、後で述べるように六つの識界（六識）です。 世識（時間の認識）とは、過去・現在・未来という三時の影が現れるようなものです。 数識（数量の認識）とは、一や二などの算数の影が現れるようなものです。 処識（場所の認識）とは、集落や庭園などの影が現れるようなものです。 言説識（言葉の認識）とは、見・聞・覚・知といった言説の影が現れるようなものです。 自他差別識（自他の区別の認識）とは、身体などの認識において、我や我所への執着が相続して絶えず、我・我所、他・他所などと区別があるからです。 善趣悪趣死生識（善悪の生まれ変わりと死生の認識）とは、天・人、および地獄・畜生・餓鬼の死と生の影が現れるようなものです。 ここで、身・身者などから言説識までは、これらは名言（概念・言葉）の習気（習慣的な力）の種子によるものです。すなわち、それらの身などはすべて、名言の習気の種子である識によって変現したものであり、別個の実体があるわけではありません。 自他差別識は、これらは我見（自我への執着）の習気の種子によるものです。すなわち、染汚意（煩悩に汚れた心）の我見の習気を原因として変現したものです。 善趣悪趣死生識は、これらは有支（生存を構成する要素）の習気の種子によるものです。すなわち、有支の習気を原因として変現したものです。 このような諸々の識はすべて、虚妄分別（誤った分別）に属するものです。前に述べたように、身などの諸識の、捉えられる対象（所取）と捉える主体（能取）は、虚妄分別によって仮に立てられた性質を持ちます。 「唯識を性とする」とは、邪な分別によって二つの部分（所取・能取）が現れているが、実はただ識だけであるということです。善い法などにおいては邪な執着はありませんが、縁起の力によって二つの部分が現れているのも、やはりただ識だけであり、それは「無所有」（実体がないもの）であり、「非真実義」（真実でない対象）が現れているのです。 「所依」（よりどころ）とは、捉えられる対象である色などが「無所有」と呼ばれ、捉える主体である識などが「非真実」と呼ばれ、この二つはともに遍計所執（虚構されたもの）であり、ともに「義」（対象）と呼ばれます。虚妄分別に属する諸々の識は、この二種が現れる原因・条件であるため、「所依」と呼ばれるのです。 このようにして「依他起相」（他に依って起こる性質）と呼ばれます。上に弁じたように、阿頼耶識を種子とするなど、すべて「依他起相」と言います。 「無義（対象なきところ）において、ただ識の中に義（対象）のように現れる」とは、実は捉えられる対象も捉える主体も存在せず、ただ虚妄分別に属する種々の識の中に、遍計所執として義のように現れているということです。 「すなわち、その依他起相において、義のような相が永遠に存在しない性質」とは、縁起する心および心の作用によって現れた影の中に、横計（誤った推量）による相によっては、永遠に真如の実性が現れることがないということです。これを「円成実相」（完全に成就された真実の性質）と呼びます。 また、一切の法は因縁から生じ、唯識をその本性とするので、すべて「依他起相」と呼ばれるべきです。 顛倒した横計によって義のように現れるものは、すべて「遍計所執相」と呼ばれるべきです。 依他起の上にありながら、遍計所執が永遠に現れることのない真如の実性は、すべて「円成実相」と呼ばれるべきです。 たとえば、鹿が渇愛によって自らの相続する力（業の流れ）によって、水のように捉えられる対象と捉える主体を誤って遍計する性質を仮に立てることを、「依他起相」と呼ぶべきです。 誤って実在の水があると推量して水の事柄が現れることを、「遍計所執相」と呼ぶべきです。 まさにそのような鹿の渇愛の事柄の中において、誤って推量された水の相が究極的には存在しない性質こそが、「円成実相」と呼ぶべきです。 また、遍計所執相とはすなわち遍計所執自性であり、依他起相とはすなわち依他起自性（またの名を分別自性）であり、円成実相とはすなわち円成実自性（またの名を法性自性）です。この三種は、まさに「知るべきもの」「断つべきもの」「証すべきもの」という三つの法を説いたものなのです。 『大般若波羅蜜多経』の中でも説かれているように、仏が慈氏（弥勒菩薩）に告げられました。 「もし、それぞれの行相（現れ方）を持つ事柄の中で、遍計して色である、受である、想である、行である、識である、乃至一切の仏法の依止であるとし、名称を想定し施設し言説によって遍計し、それを諸々の色の自性、乃至一切の仏法の自性とみなすならば、これを遍計所執色、乃至遍計所執一切仏法という。 もしまた、その行相を持つ事柄の中に、ただ分別の法性が仮に立てられており、分別を縁として諸々の戯論（無意味な議論）が起こり、仮に名称を想定し施設し言説を立て、それを色と呼び、乃至一切の仏法と呼ぶならば、これを分別色、乃至分別一切仏法という。 もし諸々の如来が世に出現しようがしまいが、法性は立てられ、法界は立てられている。その遍計所執色によって、この分別色は、常なる時に、恒なる時に、真如性であり、無自性性であり、法無我性であり、実際の性である。これを法性色という。乃至、その遍計所執一切仏法によって、この分別一切仏法は、常なる時に、恒なる時に、…（中略）…これを法性一切仏法という。」 経文にはこのように広く説かれています。

論曰：此中身身者受者識，應知即是眼等六內界。彼所受識，應知即是色等六外界。彼能受識，應知即是眼等六識界。其餘諸識，應知是此諸識差別。

> 論に曰く、この中の「身身者受者識」とは、眼などの六つの内界であると知るべきである。その「彼所受識」とは、色などの六つの外界であると知るべきである。その「彼能受識」とは、眼識などの六つの識界であると知るべきである。その他の諸識は、これら諸識の差別であると知るべきである。

釋曰：此諸識者，謂如前說身等為初、能受為後。言差別者，是此諸識差別性故，謂即於此有為識中，皆有已行、現行、當行差別性故，依之建立世影現識。於此諸識皆有一等差別性故，依之建立數影現識。於所受識有上下等差別性故，依之建立處影現識。餘類應知。

> 釈しますと、これらの識とは、先に述べたように「身」を初めとし、「能受」を終わりとするものです。「差別」というのは、これらの識にそれぞれ異なる性質があることを指します。つまり、この有為の識の中には、すでに行われたもの、現在行われているもの、これから行われるものという区別があるのです。この区別に基づいて「世の影現識」が立てられます。また、これらの識には一や多といった数の違いがあるため、それに基づいて「数の影現識」が立てられます。さらに、受け取る対象の識には上下などの違いがあるので、それに基づいて「処の影現識」が立てられます。他の例も同様に理解すべきでしょう。

論曰：又此諸識皆唯有識，都無義故。此中以何為喻顯示？應知夢等為喻顯示，謂如夢中都無其義，獨唯有識。雖種種色聲香味觸舍林地山似義影現，而於此中都無有義。由此喻顯，應隨了知一切時處皆唯有識。由此等言，應知復有幻誑、鹿愛、翳眩等喻。若於覺時一切時處皆如夢等唯有識者，如從夢覺便覺夢中皆唯有識，覺時何故不如是轉？真智覺時亦如是轉，如在夢中此覺不轉，從夢覺時此覺乃轉。如是未得真智覺時此覺不轉，得真智覺此覺乃轉。

> 論にはこう述べています：また、これらのすべての識はただ識のみであり、実在する対象はまったく存在しない。では、これをどのような譬えで示せばよいでしょうか。夢などの譬えで示すべきであると知るべきです。つまり、夢の中には実在する対象はまったくなく、ただ識だけがあるように。様々な色や声、香り、味、触れ、家屋や林、地や山などが実在する対象のように現れますが、その中には実在する対象はまったくありません。この譬えによって、あらゆる時と場所においてただ識だけがあると理解すべきです。この「など」という言葉によって、幻術、陽炎、目の翳などの譬えもあると知るべきです。 もし覚醒している時もあらゆる時と場所で夢などのようにただ識だけであるなら、夢から覚めた時に夢の中がただ識だけだったと悟るように、なぜ覚醒時にはそのように気づかないのでしょうか。真実の智慧が目覚めた時にはそのように気づくのです。夢の中ではこの気づきは起こりませんが、夢から覚めた時にこの気づきが起こります。同じように、真実の智慧を得る前にはこの気づきは起こらず、真実の智慧を得た時にこの気づきが起こるのです。

釋曰：一切唯識都無有義。舉夢等喻以顯示者，共成立故。如夢中等，其文易了無勞重釋。

> 釈しますと、一切はただ識のみであり、実在する対象はまったく存在しません。夢などのたとえを挙げて示すのは、それが誰にでも理解できるからです。夢の中の出来事のように、この文章は容易に理解できるので、改めて説明する必要はありません。

論曰：其有未得真智覺者，於唯識中云何比知？由教及理應可比知。此中教者，如《十地經》薄伽梵說：如是三界皆唯有心。又薄伽梵《解深密經》亦如是說。謂彼經中慈氏菩薩問世尊言：諸三摩地所行影像，彼與此心當言有異、當言無異？佛告慈氏：當言無異。何以故？由彼影像唯是識故，我說識所緣唯識所現故。世尊！若三摩地所行影像即與此心無有異者，云何此心還取此心？慈氏！無有少法能取少法。然即此心如是生時，即有如是影像顯現。如質為緣還見本質，而謂我今見於影像，及謂離質別有所見影像顯現。此心亦爾，如是生時相似有異所見影現。即由此教，理亦顯現。所以者何？於定心中隨所觀見諸青瘀等所知影像，一切無別，青瘀等事但見自心。由此道理，菩薩於其一切識中，應可比知，皆唯有識無有境界。又於如是青瘀等中，非憶持識見所緣境現前住故。聞思所成二憶持識，亦以過去為所緣故所現影像得成唯識。由此比量，菩薩雖未得真智覺，於唯識中應可比知。

> 論に曰く、未だ真の智覚を得ざる者、唯識の中において如何にして比知すべきか。教え及び理によって比知すべきなり。ここに教えとは、『十地経』に薄伽梵が説く如く、「かくの如く三界は皆唯だ心のみなり」と。また薄伽梵の『解深密経』にもかくの如く説く。すなわちその経中にて慈氏菩薩が世尊に問うて言う、「諸の三摩地の行ずる所の影像、それとこの心とを当に異なりと言うべきか、当に異ならずと言うべきか」と。仏、慈氏に告げて言う、「当に異ならずと言うべし。何を以ての故にか、その影像は唯だ識なるが故なり。我、識の縁ずる所は唯だ識の現ずる所なりと言うが故なり」と。世尊よ、もし三摩地の行ずる所の影像、すなわちこの心と異なること無きならば、如何にしてこの心、またこの心を取るのか。慈氏よ、少しの法も能く少しの法を取ること無し。然れども即ちこの心、かくの如く生ずる時、すなわちかくの如き影像の顕現することあり。質を縁として還って本質を見るが如く、しかして「我、今、影像を見る」と言い、及び「質を離れて別に所見の影像の顕現することあり」と言う。この心もまたしかり、かくの如く生ずる時、相似て異なる所見の影の現ずることあり。即ちこの教えによって、理もまた顕現す。何を以ての故にか。定心の中において、随って観見する所の諸の青瘀等の知る所の影像、一切別ならず、青瘀等の事はただ自心を見るのみ。この道理によって、菩薩はその一切の識の中において、応に比知すべく、皆唯だ識のみにして境界無し。またかくの如き青瘀等の中において、憶持識に非ずして見る所の縁境の現前に住するが故に。聞思によって成ずる二つの憶持識もまた、過去を以て所縁とするが故に、現ずる所の影像、唯識を得て成ず。この比量によって、菩薩は未だ真の智覚を得ずと雖も、唯識の中において応に比知すべし。

釋曰：由教及理者，由至教量及由比量，雖未證得唯識真智，應可比知唯識無境。《十地經》者，於彼經中宣說菩薩十種地義，此即安立十地行相名句文身，識所變現聚集為體，謂彼聖者金剛藏識所變影像為增上緣，聞者身中識上影現似彼法門，如是展轉傳來于今，說名為教。唯有心者，心識是一。唯聲，為遣所取境義，由彼無故能取亦無。不遮心法，由彼與心不相離故。如說若無心所有法，心未曾轉。若爾，滅定何故唯心？是彼宗過。我大乘宗，若處有心，必定亦有心相應法；若處無有心相應法，心亦定無。如是三界皆唯有心，此言顯示三界唯識。言三界者，謂與欲等愛結相應，墮在三界。此唯識言成立唯有諸心心法，無有三界橫計所緣。此言不遣真如所緣依他所緣，謂道諦攝根本、後得二種所緣，由彼不為愛所執故、非所治故、非迷亂故，非三界攝亦不離識故不待說。若爾，應說如是二界，無色界中經部唯有心心法故。此難不然，識所取義皆無義故，非但色無說名唯識。何者亦無？餘虛空等識所取義。經部諸師許無色界諸心心法是無色相、無體無實，所取境義顯現所依。恐彼執為非心心法，故說三界皆唯有心。《解深密經》所明意趣，如十地釋。經謂教法。三摩地者，是能令心住一境性。心法為體，此所緣境說名所行，本境名質，似彼現者說名影像。我說識所緣唯識所現故者，我說在外識所緣境，唯是內識之所顯現，即是所緣境識為自性義。此意說言識所緣境，唯是識上所現影像，無別有體。云何此心還取此心者，此顯作用於自相違。慈氏無有少法能取少法者，此釋前難，無作用故，謂一切法作用作者皆不成故。如是生時者，緣起諸法威力大故，即一體上有二影生，更互相望不即不離。諸心心法由緣起力，其性法爾如是而生。如質為緣還見本質等者，譬如依止自面等質，於鏡等中還見本質，由迷亂故謂我見影。由鏡等緣威力大故，雖無異影而似別有影像顯現。此心亦爾如是生時等者，謂心心法種種憶念分別等緣功能大故，如是生時，雖無有異三摩地等所行影像，而似別有影像顯現。即由此教理亦顯現者，謂此教中亦即兼顯比量道理。所以者何？於定心中等者，序述教中有別理義，謂青瘀等不離於心，隨所樂欲而顯現故，譬如夢中所見青瘀等。又於如是青瘀等中非憶持識等者，恐彼異計故作此說。謂若有人作如是計：由彼先於淡泊路等見骨鎖等，今猶憶持為三摩地所行影像。為遮此計，故言又於如是青瘀等中非憶持識見所緣境現前住故。若此所緣即是昔日所憶持者，如昔所見方處決定，如昔所受應如是憶。然不如是，修所成智是真現量，所見境界分明現前，非憶持識有如是事。若爾，聞思所成兩慧相應之識，憶持本事彼二所行，應離於識。此亦不然，由彼聞等二憶持識緣過去故，過去無故，所緣影像並唯是識。譬如憶昔自己少年，是故此識現所憶持，並唯有識所念空故。如觀行者所想現前不淨骨鎖女人影像。由此比量等，語義分明不須重釋。

論曰：如是已說種種諸識如夢等喻，即於此中眼識等識可成唯識。眼等諸識既是有色，亦唯有識，云何可見？此亦如前由教及理。

釋曰：教即《十地》、《解深密經》，理即經中所說道理，謂三摩地所行影像，及夢等喻，皆如前說。

論曰：若此諸識亦體是識，何故乃似色性顯現，一類堅住相續而轉？與顛倒等諸雜染法為依處故。若不爾者，於非義中起義顛倒應不得有。此若無者，煩惱、所知二障雜染應不得有。此若無者，諸清淨法亦應無有。是故諸識應如是轉。此中有頌：

亂相及亂體， 應許為色識，及與非色識， 若無餘亦無。

釋曰：若此諸識亦體是識等者，此問色識一類堅住相續轉因。言一類者，是相似義，前後一類無有變異亦無間斷，故名堅住，即此說名相續而轉。與顛倒等諸雜染法為依處故者，等即等取煩惱、業、生諸雜染法。眼等諸識與顛倒等諸雜染法作所依處，所依處者即是因義。故者須也。觀彼問意而作此答，謂無義中顯現似於眼等諸識，一類堅住相續而轉，由此起彼顛倒等法。若不爾者，若不如是轉，於非義中起義顛倒應不得有。若無顛倒，煩惱、所知二障雜染應不得有，無因緣故。若無雜染，清淨亦無，要息雜染顯清淨故。是故諸識應如是轉者，眼等諸識應如是轉。為不因力諸法得生非須力耶？不爾，隨問興答言故。彼問所須不問因種，由彼不執別有諸色，但問何須阿賴耶識變作諸色不唯作識，故作此答。亂相許為似色變識，亂體許為非色變識。順結頌法故文隔越，其義相屬。若無似色所變因識，非色果識不應得有，以若無境有境亦無。

論曰：何故身、身者、受者識、所受識、能受識，於一切身中俱有和合轉？能圓滿生受用所顯故。

釋曰：何故身等，如前為問。能圓滿等，如前而答。由此五識，一切身中無不具足受用所顯，若闕一支即不圓滿。

論曰：何故如說世等諸識差別而轉？無始時來生死流轉無斷絕故、諸有情界無數量故、諸器世界無數量故、諸所作事展轉言說無數量故、各別攝取受用差別無數量故、諸愛非愛業果異熟受用差別無數量故、所受死生種種差別無數量故。

釋曰：何故如說世等識等如前為問？等者，等取數、處、言說、自他差別、善趣惡趣及與死生六變現識。無始時來乃至所受死生差別無數量故者，如數次第顯世等識須說之果。

論曰：復次云何安立如是諸識成唯識性？略由三相：一由唯識，無有義故；二由二性，有相、有見二識別故；三由種種，種種行相而生起故。所以者何？此一切識無有義故，得成唯識。有相見故，得成二種，若眼等識以色等識為相，以眼識識為見，乃至以身識識為見。若意識，以一切眼為最初、法為最後諸識為相，以意識識為見。由此意識有分別故，似一切識而生起故。此中有頌：

唯識二種種， 觀者意能入，由悟入唯心， 彼亦能伏離。

釋曰：復次云何安立如是諸識等者，謂依前理，更以別理種種徵問。由唯識者，是無義義，故次說言無有義故。所說唯言，專為遣義，無義之理少分已說、少分當說。由二性者，謂相及見。於一識中有相有見二分俱轉，相見二分不即不離。始從眼識乃至身識，隨類各別，變為色等種種相識，說名相分。眼等諸識了別境界，能見義邊說名見分。又所取分名相，能取分名見，是名二性。由種種者，種種行相而生起故。於一識中一分變異似所取相，一分變異似能取見，此之二分各有種種差別行相俱時而起。若有不許一識一時有種種相，應無一時覺種種境。若意識以一切眼為最初等者，謂彼意識有能一時取一切義。增上勢力眼識為初、法識為後，所安立相是其相分。即此意識了別義邊，說名見分。由此意識遍分別故、似一切識而生起故，是故意識說名相名見亦名種種。於伽陀中諸瑜伽師能入唯識二性種種，遣外境界竟為伏離，能取之心所緣無故，能緣之識亦不得有。了別無故了者亦無，非無了別而有了者。勿境界相無分別事，亦名有境。能分別心若出世心，雖離分別能取所取，然有內證聖智所依能緣所緣平等性在。

論曰：又於此中有一類師說一意識，彼彼依轉得彼彼名，如意思業名身語業。

釋曰：又於此中有一類師說一意識等者，此顯諸師所見差別。謂有一類菩提薩埵，欲令唯有一意識性，依於彼彼眼等生時得彼彼名，所謂眼識乃至意識，此中無別餘識種類。此如何等？如意思業。如一意思在身處所發動於身則名身業，在語處所發動於語則名語業，與意相應名為意業；意識亦爾。

論曰：又於一切所依轉時，似種種相二影像轉，謂唯義影像及分別影像。又一切處亦似所觸影像而轉，有色界中，即此意識依止身故，如餘色根依止於身。

釋曰：或謂若爾，如是意識應無分別，所依鈍故，如眼等識。夫能依者，皆順所依，如染污意為雜染依，意識俱轉亦成雜染。為解此難，說於一切所依轉等。一切所依者，謂眼等。所依轉時者，生起時。似種種相二影像轉者，謂似種種所取能取二影像轉。為釋此故，次復說言謂唯義等。唯一意識，一分似義影像顯現，第二於義分別而生，是故無有無分別過。又一切處亦似所觸影像而轉者，謂於定中領納分別輕重等觸而非散亂，隨順彼故。有色界中者，非於無色界。何以故？即此意識依止身故。如餘色根依止於身者，如餘眼等有色諸根依止身故，即於此身能作損益。意識亦爾，有色界中依止身故，即於此身領納分別能作損益。

論曰：此中有頌：

若遠行獨行， 無身寐於窟，調此難調心， 我說真梵志。

釋曰：說一意識菩提薩埵引教證言。若遠行等，遊歷一切所識境故，名為遠行。為證此義復說獨行，無第二故。言無身者，無形質故。寐於窟者，居在內故。言調此者，於如是心作自在故。難調心者，性𢤱悷故。

論曰：又如經言：如是五根所行境界，意各能受，意為彼依。

釋曰：復引第二聖教為證。如是五根所行境界意各能受者，謂此五根所行境界，唯是意識一一各別能領受義。意為彼依者，由此增上，彼生起故。

論曰：又如所說十二處中，說六識身皆名意處。

釋曰：復引第三聖教為證。說六識身皆名意處者，所謂宣說意識事故。

論曰：若處安立阿賴耶識識為義識，應知此中餘一切識是其相識。若意識識及所依止是其見識，由彼相識是此見識生緣相故，似義現時能作見識生依止事，如是名為安立諸識成唯識性。

釋曰：若處安立阿賴耶識識為義識者，義是因義，即是安立阿賴耶識以為因識。餘一切識者，謂身等識。是其相識者，是所緣相，是所行故。若意識識及所依止者，謂第六識及所依止無間過去意及與染污意，此二能作生起雜染所依性故。是其見識者，能分別故。由彼相識是此見識生緣相故者，謂阿賴耶識所變異相，是二見識生緣相故。似義現時者，謂意見識似義現時。能作見識生依止事者，謂眼等識能與見識作生依事。

論曰：諸義現前分明顯現，而非是有。云何可知？如世尊言：若諸菩薩成就四法，能隨悟入一切唯識，都無有義。一者成就相違識相智，如餓鬼、傍生及諸天人，同於一事，見彼所識有差別故。二者成就無所緣識現可得智，如過去未來夢影緣中有所得故。三者成就應離功用無顛倒智，如有義中能緣義識，應無顛倒不由功用，知真實故。四者成就三種勝智隨轉妙智。何等為三？一得心自在，一切菩薩得靜慮者，隨勝解力諸義顯現。二得奢摩他，修法觀者纔作意時，諸義顯現。三已得無分別智者，無分別智現在前時，一切諸義皆不顯現。由此所說三種勝智、隨轉妙智及前所說三種因緣，諸義無義道理成就。

釋曰：復為成立無有境義，故引餘教及餘道理，謂諸菩薩成四法等。相違識相智者，更相違反故名相違。相違者識，名相違識。生此識因，說名為相。了知此相唯內心變外義不成，故無有義，說名為智。如餓鬼傍生及諸天人等者，謂於餓鬼自業變異增上力故，所見江河皆悉充滿膿血等處；魚等傍生即見舍宅遊從道路；天見種種寶莊嚴地；人見是處有清冷水波浪湍洄；若入虛空無邊處定，即於是處唯見虛空。一物實有為互相違，非一品類智生因性，不應道理。云何於此一江河中，已有膿血屎尿充滿，持刀杖人兩岸防守；復有種種香潔舍宅，清淨街衢眾寶嚴地；清冷美水波浪湍洄；虛空定境。若許外物都無實性，一切皆從內心變現，眾事皆成。如有頌言：

於一端嚴婬女身， 出家耽欲及餓狗，臭屍昌艷美飲食， 三種分別各不同。

無所緣識現可得智等者，過去未來皆非實有。此與經部共許成就夢境實無一切共了。諸三摩地所行影像已說非有，亦非憶持。水鏡等中面等影像都無所有，如前已說。此中無境而識得成，應離功用無顛倒智，本文雖顯而少助說。若有欲令如所得義即真實有，應不用功自然解脫，一切有情皆見實故。得心自在者，得心調順堪有所作。得靜慮者，謂諸聲聞及獨覺等。若已證得清淨靜慮心一境性。樂靜思慮，名靜慮者。隨勝解力諸義顯現者，謂隨增上意解勢力，如所願樂，欲令地等變成水等，皆悉顯現。得奢摩他者，謂已證得奢摩他定，滋潤相續，令心寂靜。所言修者，空境相應，或四聖諦所緣相應，止觀雙運故名相應。與此相應故名為修法觀者。謂此後得觀契經等，正法妙慧纔作意時，諸義顯現者。謂契經等正法教中，隨於一種無常等義，如如作意思惟剎那速滅等性。如是如是非一品類境界顯現，無分別智現在前時，一切諸義皆不顯現者，無分別智後當廣釋。義若實有，此智應無，非有分別、無分別成。義若是實有，無分別智生不應不顯現，此智如實緣境義故。由此無間所說道理，及前所說三種因緣，諸義皆無，道理成就。

論曰：若依他起自性，實唯有識，似義顯現之所依止，云何成依他起？何因緣故名依他起？從自熏習種子所生，依他緣起，故名依他起。生剎那後無有功能自然住故，名依他起。

釋曰：云何成依他起者，問所解法。何因緣故名依他起者，問所釋詞解不解品。由此雙關能了義故，餘二自性兩問亦爾。依此諸問，兩兩酬答。從自熏習種子等者，謂從遍計所執名言熏習種生，依自種子，他所生故，名依他起，此說彼體依他而生。生剎那後無有功能自然住者，此說彼體依他而住。由此二因，名依他起。

論曰：若遍計所執自性，依依他起實無所有似義顯現，云何成遍計所執？何因緣故名遍計所執？無量行相意識遍計，顛倒生相，故名遍計所執。自相實無，唯有遍計所執可得，是故說名遍計所執。

釋曰：依依他起者，謂依唯識依他起性，實無所有。似義顯現者，謂實無體，但似其義相貌顯現。若體實無，云何名義？為避此難，是故說言似義顯現。謂由名言熏習種子，雖無實體而似有義相貌顯現，是故名義如幻像等似有顯現。言顯現者，是明了義無而似有明了現前，故名顯現。即此似義為彼自性，如自性受。無量行相者，種種我法境界影像。意識遍計者，謂即意識說名遍計。顛倒生相者，謂是亂識所取能取，義相生因故。名遍計所執者，謂即遍計所執義相，名為遍計所執自性。自相實無唯有遍計所執可得者，謂於實無我及法中，唯有遍計所執影像相貌可得，由此故名遍計所執。

論曰：若圓成實自性是遍計所執永無有相，云何成圓成實？何因緣故名圓成實？由無變異性故名圓成實。又由清淨所緣性故、一切善法最勝性故，由最勝義名圓成實。

釋曰：由無變異性故名圓成實等者，應知此性常無變故。又由清淨所緣性故、一切善法最勝性故，圓滿成就真實為性。

論曰：復次有能遍計、有所遍計，遍計所執自性乃成。此中何者能遍計？何者所遍計？何者遍計所執自性。當知意識是能遍計，有分別故。所以者何？由此意識用自名言熏習為種子，及用一切識名言熏習為種子，是故意識無邊行相分別而轉，普於一切分別計度故名遍計。又依他起自性名所遍計。又若由此相，令依他起自性成所遍計，此中是名遍計所執自性。由此相者，是如此義。復次云何遍計能遍計度？緣何境界？取何相貌？由何執著？由何起語？由何言說？何所增益？謂緣名為境，於依他起自性中取彼相貌，由見執著，由尋起語，由見聞等四種言說而起言說，於無義中增益為有，由此遍計能遍計度。

釋曰：復次有能遍計等者，為欲分別遍計所執故說此言當知意識是能遍計。有分別故者，由有顯示隨念分別所雜糅故。用自名言熏習為種子者，無始生死所有意識戲論名言熏習種子為此生因。及用一切識名言熏習為種子者，謂用無邊色等影識名言熏習種子為因，似彼生故，是故一切無邊行相分別而轉。又依他起自性名所遍計者，謂此一分眼等諸相是所計業。又若由此相令依他起自性成所遍計，此中是名遍計所執自性者，謂由此品類緣相是名遍計所執自性。是如此義者，是如此品類緣相義。復次云何遍計能遍計度者，作問生起，為欲宣說遍計所執自性差別。緣名為境者，謂色受等天與等名於義相應，起諸遍計，說異行相為識其名，非無有名能於其義起諸分別。於依他起自性中取彼相貌者，是執自相義。由能取相說名為想。如其所想作是言說，或於依他起自性中取眼等相。由見執著者，由五品類推求行轉，起諸執著。取相貌已起執著故，是於相貌堅執著義。由見推求於義決定，起執著已欲為他說。由尋起語者，如契經說：由尋由伺而說語言，非無尋伺能說語言。由見聞等四種言說而起言說者，由見聞覺知四種言說而起言說。如緣似蛇繩等相貌，取盤曲等種種相貌，自執著已為覺悟他，說如是言：我已見蛇。我已見蛇。此亦如是，他聞是已復更增益，謂為實有。

論曰：復次此三自性，為異、為不異？應言非異非不異。謂依他起自性，由異門故成依他起。即此自性，由異門故成遍計所執。即此自性，由異門故成圓成實。由何異門此依他起成依他起？依他熏習種子起故。由何異門即此自性成遍計所執？由是遍計所緣相故，又是遍計所遍計故。由何異門即此自性成圓成實？如所遍計畢竟不如是有故。

釋曰：非異者，謂依他起性，與遍計所執有非有故。有望於有，可得言異，非望非有兔角等無。非不異者，有與非有不成一故。依他起性與圓成實亦復如是，性不清淨、性清淨故。今復依止異門意趣，此三自性或成一性、或成異性。由是遍計所緣相故，又是遍計所遍計故者，由依他起，是我色等，遍計所執所依止故。又依他起，是我色等，意識遍計所遍計故。由此意趣，假說依他起為遍計所執。如所遍計畢竟不如是有故者，於依他起如所顯現畢竟無故，如是即說三種自性不全成異亦非不異，觀待別故。若時觀待熏習種子所生義邊成依他起，不即由此成餘二性。若時觀待遍計所緣成遍計執，不即由此成餘二性。若時觀待遍計所執畢竟無邊成圓成實，不即由此成餘二性。

論曰：此三自性各有幾種？謂依他起略有二種：一者依他熏習種子而生起故；二者依他雜染清淨性不成故。由此二種依他別故，名依他起。遍計所執亦有二種：一者自性遍計執故、二者差別遍計執故，由此故名遍計所執。圓成實性亦有二種：一者自性圓成實故、二者清淨圓成實故，由此故成圓成實性。

釋曰：依他熏習種子而生起故者，由託因緣而得生故，名依他起。依他雜染清淨性不成故者，由分別時成雜染性，無分別時成清淨性，依二分故，名依他起。自性遍計者，謂總執取眼等有法事體。差別遍計者，謂別執取常無常等義別法義。自性圓成實者，謂有垢真如。清淨圓成實者，謂離垢真如。

論曰：復次遍計有四種，一自性遍計、二差別遍計、三有覺遍計、四無覺遍計。有覺者謂善名言，無覺者謂不善名言。

釋曰：善名言者，謂自意趣在語前行，領解具足故名有覺；與此相違說名無覺。

論曰：如是遍計復有五種，一依名遍計義自性，謂如是名有如是義；二依義遍計名自性，謂如是義有如是名；三依名遍計名自性，謂遍計度未了義名；四依義遍計義自性，謂遍計度未了名義；五依二遍計二自性，謂遍計度此名此義如是體性。

釋曰：依名遍計名自性者，謂如生在椰子洲人，聞說牛聲不了其義，數數分別如是牛聲。依義遍計義自性者，謂曾未習想與有想更互相應，欻見牛身，數數分別如是牛義。依二遍計二自性者，謂依假立能詮所詮分別二種。

論曰：復次總攝一切分別，略有十種：一根本分別，謂阿賴耶識。二緣相分別，謂色等識。三顯相分別，謂眼識等并所依識。四緣相變異分別，謂老等變異、樂受等變異、貪等變異、逼害時節代謝等變異、捺落迦等諸趣變異，及欲界等諸界變異。五顯相變異分別，謂即如前所說變異所有變異。六他引分別，謂聞非正法類，及聞正法類分別。七不如理分別，謂諸外道聞非正法類分別。八如理分別，謂正法中聞正法類分別。九執著分別，謂不如理作意類，薩迦耶見為本，六十二見趣相應分別。十散動分別，謂諸菩薩十種分別。

釋曰：根本分別者，謂阿賴耶識是餘分別根本自性，亦是分別，故名根本分別。緣相分別者，謂分別色等有如是緣相。顯相分別者，謂眼識等并所依識，顯現似彼所緣相故。緣相變異分別者，謂似色等影識變異所起分別。老等變異者，謂色等識似老等相起諸變異。何以故？外內色等皆有老等轉變相故。等者，等取病死變異。樂受等變異者，由樂受故身相變異，如說樂者面目端嚴。等者等，取苦及不苦不樂受。貪等變異者，謂由貪等身相變異。等者，等取瞋癡忿等，如說忿等惡形色等。逼害時節代謝等變異者，謂殺縛等令身相等生起變異，時節代謝亦令內外身樹色等形相改變，如說寒等所逼切時身等變異。捺落迦等諸趣變異者，等即等取一切惡趣，彼處色等變異共了。及欲界等諸界變異者，等取色界無色界中無似色等影像識故。於諸天中及靜慮中，亦有有情及器色等種種變異，如末尼珠威神力故，種種淨妙光色變異。顯相變異分別者，謂由眼等所依根故，令似色等影像顯現。眼識等識種種變異，即於此中起諸分別。即如前說老等變異，隨其所應而起變異。何以故？如說眼等根有利鈍、識明昧故。如無表色，所依變異，彼亦變異。由樂受等變異亦爾，如說樂者心安定故。如說苦者心散動故，貪等逼害時節代謝變異亦爾。捺落迦等及欲界等，依身變異識亦變異，如應當知。無色界中亦有受等所作變異。諸識分別他引分別者，謂善惡友親近所起，及與聽聞正非正法為因分別。即是外道迦比羅等，及正法中諸騷揭多所有分別，名不如理、如理分別。如是二種隨其所應，能生邪見、正見相應二種分別。薩迦耶見為因所起六十二見相應分別，即《梵網經》中前際後際中際分別，謂我過去為曾有耶？如是等分別，名執著分別。言見趣者，是品類義。散動分別者，散亂擾動故名散動。此即分別，是故說名散動分別。此即擾亂無分別智。何以故？由此擾亂般若波羅蜜多故，無分別智即是般若波羅蜜多。謂諸菩薩十種分別者，謂諸菩薩能發語言他引而轉，不稱真理十種分別。何以故？證會真理若正現前，不可說故。

論曰：一無相散動、二有相散動、三增益散動、四損減散動、五一性散動、六異性散動、七自性散動、八差別散動、九如名取義散動、十如義取名散動。為對治此十種散動，一切般若波羅蜜多中說無分別智。如是所治能治應知具攝般若波羅蜜多義。

釋曰：於一切般若波羅蜜多中，具說如是十種散動對治。且如說言：世尊！云何菩薩應行般若波羅蜜多？舍利子！是菩薩實有菩薩，不見有菩薩。何以故？色自性空，不由空故色空非色。色不離空，色即是空、空即是色。何以故？舍利子！此但有名，謂之為色。此自性無生無滅、無染無淨，假立客名別別於法而起分別，假立客名隨起言說，如如言說如是如是生起執著。如是一切菩薩不見，由不見故不生執著，如說於色乃至於識當知亦爾。此中為對治無相散動故，彼經說言實有菩薩等，謂實有空為菩薩體。為對治有相散動故，即彼經言不見有菩薩等，謂遍計所執自性永無有故。為對治增益散動故，即彼經言色自性空等，謂即遍計所執自性永無有故。為對治損減散動故，即彼經言不由空故等，謂彼法性是實有故。為對治一性散動故，即彼經言色空非色等，淨不淨境性各別故。為對治異性散動故，即彼經言色不離空等，謂遍計所執色自性無所有即是空故。為對治自性散動故，即彼經言此但有名謂之為色等。為對治差別散動故，即彼經言無生無滅等。為對治如名取義散動故，即彼經言假立客名別別於法而起分別等。為對治如義取名散動故，即彼經言假立客名隨起言說，如如言說如是如是生起執著。如是一切菩薩不見，由不見故不生執著，此意說言於名於義如實了知無妄執著。

論曰：若由異門，依他起自性有三自性。云何三自性不成無差別？若由異門成依他起，不即由此成遍計所執及圓成實。若由異門成遍計所執，不即由此成依他起及圓成實。若由異門成圓成實，不即由此成依他起及遍計所執。

釋曰：此義如前，不須重釋。

## 攝大乘論釋卷第四