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title: "大方廣佛華嚴經疏 · 1"
description: "大方廣佛華嚴經疏是唐代高僧澄觀為八十卷本華嚴經所作的權威注疏。澄觀被尊為華嚴四祖之一，此疏成於中唐時期，旨在闡發華嚴奧義，系統詮釋經中法界緣起、四法界、十玄門等核心教理。全疏結構嚴謹，內容廣博，融合諸宗思想，深入闡釋一真法界與事事無礙的圓融境界。此疏被譽為華嚴宗最重要的注疏之一，對中國佛教哲學體系建構影響深遠，是研習華嚴經論的必讀典籍，在漢傳佛教中具有崇高地位。"
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### 世主妙嚴品第一

> 世主妙嚴品第一

歸命十方極三際， 塵剎圓明調御師，法界功德大悲雲， 毘盧遮那大智海；所住甚深真法性， 所流圓滿修多羅；一一塵方佛會中， 普賢文殊諸大士。我今欲以一毛智， 測量無邊法界空，願承三寶同體慈， 句句冥符諸佛意。俾令法眼常無缺， 盡眾生界如普賢，迴茲勝善洽群生， 速證菩提常樂果。

> 十方の果てなき世界に、塵の数ほどの国土に輝く、調御師なる仏に帰依いたします。 法界の功徳と大悲の雲、毘盧遮那仏の大いなる智慧の海に帰依いたします。 深遠なる真実の法性に安住し、そこより流れ出る円満なる経典に帰依いたします。 あらゆる塵の一つ一つに広がる仏の集いの中にいます、普賢菩薩、文殊菩薩をはじめとする大いなる方々に帰依いたします。 今、私は一本の毛ほどの小さな智慧をもって、 限りなき法界の空を測ろうとしています。 どうか三宝の一体となった慈悲に支えられ、 一語一語が諸仏の御心に深くかないますように。 仏の教えを見る眼が常に欠けることなく、 すべての衆生が普賢菩薩のように、 この勝れた善の功徳をめぐらして群生を潤し、 速やかに菩提の常楽の果てを証し得ますように。

將釋經義，總啟十門：一教起因緣、二藏教所攝、三義理分齊、四教所被機、五教體淺深、六宗趣通局、七部類品會、八傳譯感通、九總釋經題、十別解文義。

> 経典の意味を解釈するにあたり、全体を十の項目に分けて説明します： 一、教えが起こった縁起 二、蔵と教えの分類 三、教理の体系と範囲 四、教えが対象とする機根 五、教えの本質の深浅 六、宗旨と趣旨の通じ方と限界 七、部類と品の構成 八、伝訳と感応の通じ合い 九、経題の総合的解釈 十、経文の詳細な解釈

初因緣者，夫聖人設教必有由致，若須彌巨海大因方為傾搖，今搖如來融金之德山、動深廣之智海，非小緣矣。故下經云「非以一緣、非以一事，如來出現而得成就。」出現本為大華嚴故，先因後緣各開十義，以顯無盡。因十義者：一法應爾故、二酬宿因故、三順機感故、四為教本故、五顯果德故、六彰地位故、七說勝行故、八示真法故、九開因性故、十利今後故。

> 初めに因縁を説くのは、聖人が教えを説くには必ず由来と目的があるからです。須弥山や大海が揺れ動くには大きな原因が必要なように、今や如来の融けゆく金のごとき徳の山を揺るがし、深く広大なる智の海を動かすには、小さな縁ではありえません。ですから、後に続く経文にも「一つの縁によってではなく、一つの事柄によってでもなく、如来の出現は成就される」とあります。如来の出現はそもそも『華厳経』という大いなる教えのためであり、まず「因」と「縁」のそれぞれを十の意義に分けて説き、その無限なる広がりを示すのです。 「因」の十の意義とは以下の通りです： 一、法の道理として当然であるから。 二、過去の因に報いるため。 三、衆生の機根と感応に順うため。 四、教えの根本を示すため。 五、仏果の徳を顕わすため。 六、修行の階位を明らかにするため。 七、優れた行いを説くため。 八、真実の法を示すため。 九、仏因となる本性を開示するため。 十、現在と未来の衆生を利益するため。

言法爾者，夫王道坦坦千古同規、一乘玄門諸佛齊證，故一切佛，法爾皆於無盡世界常轉如是無盡法輪，令諸眾生反本還源，窮未來際無有休息。故〈不思議品〉中明，一切諸佛能於一身化現不可說不可說佛剎微塵數頭，一一頭化爾所舌，一一舌出爾所音聲，乃至文字句義，一一充滿一切法界無有窮盡。斯則處以毛端、橫該法界，時以剎那、豎窮劫海，處則頓起、時則常起，不待別因，但隨見聞說有初成、九會之別。諸慈悲者，於無盡中略此流傳，令尋於此見無邊法，如觀牖隙見無際空，而此時處即同無盡，以一處即一切處、一時即一切時故。

> 法爾というのは、王道が平らかで千古の規矩と同じであり、一乗の玄門は諸仏が共に証するところである。ゆえに、すべての仏は、法爾として、無尽の世界において常にこのような無尽の法輪を転じ、一切の衆生をして本源に返らしめ、未来際に至るまで休息することがない。それゆえ、〈不思議品〉において明らかにされているように、一切の諸仏は、一身の中に不可説不可説の仏刹微塵数の頭を化現することができ、一々の頭はそれだけの舌を化し、一々の舌はそれだけの音声を出し、文字や句義に至るまで、一々が一切の法界に充満して窮尽することがない。これは、処は毛端にありながら横に法界を包括し、時は刹那でありながら縦に劫海を窮める。処は頓に起こり、時は常に起こるのであって、別の因を待つことなく、ただ見聞に随って初成や九会の別があると説くに過ぎない。諸々の慈悲者は、無尽の中からこれを略して流伝し、ここを尋ねて無辺の法を見させようとするのである。ちょうど窓の隙間から無際の空を見るように、この時処はすなわち無尽と同じであり、一処はすなわち一切の処、一時はすなわち一切の時であるからである。

二酬宿因者，何以法爾如是轉耶？宿因深故。夫根深則果茂、源遠則流長，宿因既深，教起亦大。深大云何？我佛世尊創躡玄蹤、棲神妙寂，悲智雙運、行願齊周，是以妄想弗翦而廓徹性空、靈鑑匪磨而頓朗萬法，乃以無障礙解脫闡斯沙門宿因雖多略有二種：一者大願力故。〈現相品〉云「毘盧遮那佛，願力周法界，一切國土中，恒轉無上輪。」〈兜率偈〉云「如來不出世，亦無有涅槃。以本大願力，示現自在法。」諸會佛加，皆言願力，及餘諸文成證非一。二者昔行力故。謂無量劫依願起行，行成得果方能頓演。故主山神偈云「往修勝行無有邊，今獲神通亦無量。法門廣闢如塵數，悉使眾生深悟喜。」

> 二つ目に、過去の因縁に応えることについてですが、なぜこのように自然に転じていくのでしょうか。それは、過去の因縁が深いからです。根が深ければ果実も豊かに実り、水源が遠ければ流れも長くなるように、過去の因縁が深ければ、教えが起こることも大きくなります。では、その深さと大きさとはどのようなものか。我が仏陀世尊は、初めて玄妙な道を踏み、神妙な寂静の中に心を宿らせ、慈悲と智慧をともに働かせ、行いと誓願を共に満たされました。そのため、妄想を断ち切ることなく性空を明らかにし、心の鏡を磨かずとも万法を瞬時に照らし、障りのない解脱をもってこの沙門の道を説かれたのです。過去の因縁は数多くありますが、大きく二つに分けられます。 一つは、大いなる願いの力によるものです。『現相品』には、「毘盧遮那仏の願いの力は法界に満ち、すべての国土で絶えず無上の法輪を転じさせる」とあります。『兜率偈』にも、「如来は世に出ずることもなく、涅槃に入ることもない。本来の大願の力によって、自在の法を現じさせる」と説かれています。諸々の会座で仏が加護を与えるのも、すべて願いの力によるものであり、その他の経文にも多くの証拠が示されています。 二つ目は、過去の修行の力によるものです。つまり、無量劫の昔から願いに基づいて修行を積み、その行いが成就して果を得たからこそ、一気に教えを説くことができたのです。だからこそ、主山神の偈に、「過去に勝れた行いを無数に修め、今や無量の神通力を得た。法門は塵の数ほど広く開かれ、すべての衆生を深く悟らせ喜ばせる」と歌われているのです。

三順機感者，謂昔因法爾雖能常遍，約可流傳皆由機感，離機說法無所用故。其猶上有白月、下資澄潭，潭清影現、機感應生。故〈兜率〉偈云「見佛亦復然，必假眾善業。」十方諸佛告功德林，言及諸菩薩眾善根力故。解脫月云：「此眾無諸垢，志解悉明潔」等，皆是機感。廣顯機感，如第四教所被機中。然此機感通於現未，諸會當機即是現在，今之聞者是未來機。

> 三つの順序による機縁と感応とは、昔からの因縁によって法が自然と遍在しているが、伝えられるべきものはすべて機縁と感応によるのであり、機縁を離れて説法しても用をなさないからである。これは、上には白月があり、下には澄んだ潭がそれを映し、潭が清ければ影が現れ、機縁が感応を生じるようなものである。ゆえに『兜率』の偈に「仏を見ることもまた同じく、必ずや衆の善業を借りる」とある。十方の諸仏が功徳林に告げて言うには、「諸菩薩の衆善根の力による」と。解脱月は言う、「この衆には諸の垢なく、志解ことごとく明らかに潔し」など、これらはすべて機縁と感応である。機縁と感応を広く明らかにするのは、第四の教えが機縁に及ぶ中にある。しかし、この機縁と感応は現在と未来に通じ、諸会の当機はすなわち現在であり、今これを聞く者は未来の機縁である。

四為教本者，謂非海無以潛流、非本無以垂末，將欲逐機漸施末教，先示本法頓演此經。然亦有二：一為開漸之本。〈出現品〉云「如日初出，先照高山」故。二為攝末之本。「如日沒時，還照高山」故，「無不從此法界流，無不還歸此法界」故。《法華》亦云「始見我身，聞我所說，即皆信受，入如來慧。」此漸本也。次云「除先修習學小乘者」，即開漸也。又云「我今亦令得聞是經，入於佛慧」，即攝末歸本也。斯則《法華》亦指此經以為本矣。

> 四つに教えの根本とするというのは、海がなければ流れは潜みえず、根本がなければ末を垂れることはできないからである。衆生の機根に応じて次第に末の教えを施そうとするならば、まずこの根本の法を示し、頓教としてこの経を演ずるのである。しかしこれにも二つの意味がある。一つは漸教を開く根本である。〈出現品〉に「日が初めて出るとき、まず高山を照らす」とあるゆえである。二つには末を摂する根本である。「日が没するとき、再び高山を照らす」ゆえであり、「この法界より流れ出ざるものはなく、この法界に帰らざるものはない」ゆえである。『法華経』にも「始めて我が身を見、我の説くところを聞きて、すなわち皆な信受し、如来の慧に入る」とある。これが漸教の根本である。次に「先に修習して小乗を学ぶ者を除く」とあるのは、すなわち漸教を開くことである。また「我今また、この経を聞かしめて、仏の慧に入らしむ」とあるのは、すなわち末を摂して根本に帰することである。このように『法華経』もまたこの経を以て根本としているのである。

五顯果德者，謂此本法中顯佛勝德，令諸菩薩信向證故。不識寶玉不得其用，不知此德安能仰求？然果德有二：一依果，謂華藏世界海等；二正果，如來十身等。此二無礙以為佛德。然依正無礙，通有六句：一依內現依，如塵中剎海；二正內現正，如毛孔現佛；三正內現依、四依內現正、五依內現依、正六正內現正依，其文非一。又有四句：一或唯依，佛即剎故；二或唯正，剎即佛故；三俱、四泯，思之可知。隨舉一門則攝一切，並如下說。

> 五つの顕著な果徳とは、この根本法の中に仏の優れた徳を顕わし、諸菩薩に信じ向かわせ、証得させるためである。宝玉を識らなければその用を得ず、この徳を知らなければどうして仰ぎ求めることができようか。しかし、果徳には二つある。一つは依果、すなわち華蔵世界海などである。二つは正果、すなわち如来の十身などである。この二つが無碍であることが仏の徳となる。しかし、依と正が無碍であることには、六つの句がある。一に依の中に依を現す、たとえば塵の中に剎海を現す。二に正の中に正を現す、たとえば毛孔の中に仏を現す。三に正の中に依を現す。四に依の中に正を現す。五に依の中に依と正を現す。六に正の中に正と依を現す。その文は一つではない。また四つの句がある。一にはただ依のみ、すなわち仏がそのまま剎である。二にはただ正のみ、すなわち剎がそのまま仏である。三には両者ともに、四には両者を超える。考えればわかるであろう。一つの門を挙げれば、すべてを摂するのであり、以下に説く通りである。

六彰地位者，為顯菩薩修行佛因，一道至果有階差故。夫聖人之大寶曰位，若無此位，行無成故。此亦二種：一行布門，立位差別故；二圓融門，一位即攝一切位故、一一位滿即至佛故。初地云「一地之中具攝一切諸地功德，信該果海，初發心時便成正覺」等。然此二無礙，以行布是教相施設、圓融是理性德用。相是即性之相，故行布不礙圓融；性是即相之性，故圓融不礙行布。圓融不礙行布，故一為無量；行布不礙圓融，故無量為一。無量為一，故融通隱隱；一為無量，故涉入重重。故世親以六相圓融。上下之文非一。

> 六つの位を明らかにするのは、菩薩が仏の因を修行し、一筋の道を通して果に至るにも階梯の差があることを示すためです。聖人の大切な宝とは位のことで、この位がなければ修行は完成しません。この位にも二種類あります。一つは行布門で、位の差別を立てるもの。もう一つは円融門で、一つの位がすべての位を含み、それぞれの位が満ちれば即ち仏となるものです。初地の経文に「一つの地の中にあらゆる地の功徳を具え、信は果海に及び、初発心の時にすでに正覚を成ず」などと説かれています。しかし、この二つは互いに妨げるものではありません。行布は教えの相として施設されたものであり、円融は理の性の徳用だからです。相は即ち性の相であるため、行布は円融を妨げず、性は即ち相の性であるため、円融は行布を妨げません。円融が行布を妨げないから、一は無量となり、行布が円融を妨げないから、無量は一となります。無量が一となるため、融通して隠れ顕れ、一が無量となるため、互いに入り込んで重なり合います。このように世親菩薩は六相円融を説かれました。経文の前後にも同様の記述が多く見られます。

七說勝行者，欲登妙位非行不階，故君子不患無位，患己不立。行亦二種：一頓成諸行，一行一切行。故〈十住品〉云「一即是多、多即一」等。〈普賢行品〉說「一斷一切斷」等故。二遍成諸行，此即行布，謂自大菩提心體相功德，乃至等覺中行。此二無礙，例如位說。

> 七つの勝れた修行について説く。妙なる位に登るには、行わなければその段階に至らない。だから君子は位のないことを憂えず、自らが立たないことを憂うのである。修行にも二種類ある。一つは、すべての行を一挙に完成させること。一つの行がすべての行となる。ゆえに『十住品』に「一は即ち多であり、多は即ち一である」などと説かれている。『普賢行品』には「一を断ずれば一切を断ずる」などと説かれているからである。二つは、すべての行を遍く完成させること。これが行布（順序立てた修行）であり、自らの大菩提心の体相と功徳から、等覚に至るまでの修行を指す。この二つは互いに妨げ合うことなく、例えば位について説かれるように一体である。

八示真法者，欲成行位，須解法理，不體理事，行亦非真。故〈兜率偈〉云「不了真實法，諸佛故興世。」此亦二種：一顯事理無礙法、二顯事事無礙法，並如義分齊說。

> 真の法を明らかにするとは、修行の段階を成し遂げようとする者は、まず法の道理を理解しなければならない。道理と事象を体得せずしては、修行もまた真実とは言えない。それゆえに『兜率偈』には、「真実の法を悟らぬがゆえに、諸仏は世に現れる」と説かれている。これにはまた二種の意味がある。一つは、道理と事象が互いに妨げない法を明らかにすること、二つは、事象と事象が互いに妨げない法を明らかにすることである。これらはともに、義理の分け目について説かれたとおりである。

九開因性者，謂上因果理事，皆由眾生性有。若性非金玉，雖琢不成寶器。良以眾生包性德而為體、依智海以為源，但相變體殊、情生智隔，今令知心合體、達本情亡，故談斯經以為顯示。亦有二種：一以言顯示令其知有；二使其修行悟入顯現，如下破塵出經卷等。亦如《法華》云「唯以一大事因緣故出現於世，所謂開示悟入佛之知見。」眾生等有，故言唯一。

> 九つの開示とは、因果の理と事のすべてが、衆生の本性に基づいていることを指します。もし本性が金や玉でなければ、どれほど磨いても宝の器にはなりません。衆生は本来、性徳を内に包み、智慧の海を源として存在しています。しかし、外相が変わり、本体が分かれ、迷いが生じて智慧が遮られるため、今、心を知り本体と一つになることで、根本に達し迷いが消えるよう、この経典を説いて示すのです。 これには二つの意味があります。 一つは、言葉によって示し、衆生にその存在を知らしめること。 二つは、修行によって悟りに入り、その本質を現すことです。 下記の「塵を破って経巻を出す」などの例がそれです。 また『法華経』にも「ただ一つの大事な因縁のために世に現れる。すなわち、仏の知見を開き示し、悟らせ入れんがためである」とあります。 衆生は皆、等しくこれを持つゆえに「唯一」と説くのです。

十利今後者，既等有其分，故廣利無邊。此亦二種：一利今，即佛在當機；二利後，即今之見聞。〈發心品〉云「我等諸佛護持此法，令未來世一切菩薩未曾聞者皆悉得聞。」此益復二：一令得見聞為堅種故。〈出現品〉云「如人食少金剛，終竟不消」等。二令起行成證入故出現。又云「設有菩薩，無量百千億那由他劫，行六波羅蜜，修習種種菩提分法，若未聞此如來不思議大威德法門，或時聞已不信不解、不順不入，不得名為真實菩薩，以不能生如來家故。若聞此法信解隨順悟入，當知此人生如來家，乃至深入如來無量境界。」良以有作之修，多劫終成敗壞；無心體極，一念便契佛家。〈賢首品〉云「十剎塵數如來所，悉皆承事盡一劫。若於此品能誦持，其福最勝過於彼」等。又此利益，別對前九，成十種益，謂：一聞法爾，則知常遍，成見聞益；二聞本行，願學佛發興，成發心益；三聞機感，知法由善起，成造修益；四聞為本，知其義圓，成頓得益；五聞果德，則信樂願齊，成滅障益；六聞位，期心證入，成攝位益；七聞行，發意修行，成起行益；八聞法，決須解了，成稱性益；九聞因，知一切皆同，成轉利益；十總具前九，成速證益，故前九因皆為今益。亦可前一一門皆成十益，可以意得。因上十義，故此教興。〈發心品〉中有十所因，彼云「以佛神力故、世尊本願力故」等因緣相參。對會因緣，可以意得。

> 十の利益は、今と後の二つに分けられます。今の利益とは、すでにその分け前に等しく与えられているものであり、広大無辺の利益をもたらします。これもまた二種類あります。一つは今の利益、つまり仏が直接に衆生に対応することです。二つは後の利益、つまり今の私たちが目にし耳にすることです。 〈発心品〉には、「私たち諸仏はこの法を護持し、未来世のすべての菩薩たちが、まだ聞いたことのない者も皆、聞くことができるようにする」と説かれています。この利益もまた二つあります。一つは、見聞させて堅固な種を植え付けるためです。〈出現品〉には、「人が少量の金剛を食べても、ついに消化されない」などとあります。二つは、修行を起こさせて証入を成就させるためです。また、〈出現品〉には、「たとえ菩薩が無量百千億那由他劫の間、六波羅蜜を行じ、さまざまな菩提分法を修習したとしても、もしこの如来の不思議なる大威徳の法門を聞かず、あるいは聞いても信じず、理解せず、従わず、入らず、真実の菩薩とは名づけられない。なぜなら、如来の家を生じることができないからである。もしこの法を聞いて信解し、随順し、悟入するならば、この人が如来の家を生じ、如来の無量の境界に深く入ることを知るべきである」とあります。 まことに、作為のある修行は、多くの劫を経てもついに壊れてしまいますが、無心のままに本体を極めれば、一瞬にして仏の家に合致します。〈賢首品〉には、「十仏国土の塵の数ほどの如来のもとで、すべて一劫の間承事を尽くしても、もしこの品を誦持することができれば、その福は最も勝れ、それを超える」などとあります。 また、この利益は、特に前の九つに対応して、十種の利益を成します。すなわち、一に法爾を聞いて常遍を知り、見聞の利益を成す。二に本行を聞いて仏に学ぶことを願い発心を起こし、発心の利益を成す。三に機感を聞いて法が善から起こることを知り、造修の利益を成す。四に為本を聞いてその義が円満であることを知り、頓得の利益を成す。五に果徳を聞いて信楽し願いを同じくし、滅障の利益を成す。六に位を聞いて心に証入を期し、摂位の利益を成す。七に行を聞いて意を発して修行し、起行の利益を成す。八に法を聞いて必ず解了しなければならないと決意し、称性の利益を成す。九に因を聞いて一切が皆同じであることを知り、転利の利益を成す。十に前の九つを総じて具え、速証の利益を成す。したがって、前の九つの因はすべて今の利益となるのです。 また、前の一々の門もすべて十の利益を成すことができ、その意味は理解できるでしょう。以上の十の意義によって、この教えが興るのです。〈発心品〉には十の原因があり、「仏の神力による、世尊の本願力による」などの因縁が互いに関わり合っています。因縁に対応させて理解することができます。

二明說經緣者，一切經首說時方人等，皆是緣起。今有十緣：一依時、二依處、三依主、四依三昧、五依現相、六依說者、七依聽者、八依德本、九依請者、十依加者。

> 二に経典を説く縁について明らかにする。すべての経典の冒頭に説かれる時や場所、人などは、すべて縁起によるものである。ここに十の縁がある。一つは時によるもの、二つは場所によるもの、三つは主によるもの、四つは三昧によるもの、五つは現れた相によるもの、六つは説く者によるもの、七つは聞く者によるもの、八つは徳の根本によるもの、九つは請う者によるもの、十つは加護する者によるものである。

今初依時。夫心冥至道則混一古今，法界無生、本亡時分。下經偈云「諸佛得菩提，實不計於日。」況無涯之說，念劫圓融哉。今以無時之時，略顯十重時別：初唯一念、二盡七日、三遍三際、四攝同類劫、五收異類劫、六以念攝劫、七劫念重收、八異類界時、九彼此相入、十以本收末。謂以非劫為劫故，於前十時恒演此經。又此十種隨一圓收，依此說時則無終始，亦隨見聞說初成等，如前法爾中辯。若依此時則逈異餘教，而餘教時不出於此。或說三七六七等，隨見聞故，廣如旨歸。

> 今、初めに時節に依る。心が深遠な道と一体となれば、古今は一つに混じり、法界には生滅なく、本来時分は存在しない。下の経の偈に「諸仏が菩提を得るも、実には日に依って計らわず」とある。ましてや際限なき説法において、一念と劫が円融することは言うまでもない。今、時なき時を以て、略して十重の時節の違いを示す。 初めは唯一念、二に七日を尽くし、三に三際に遍し、四に同類の劫を摂め、五に異類の劫を収め、六に念を以て劫を摂め、七に劫と念を重ねて収め、八に異類の界の時、九に彼此相入し、十に本を以て末を収む。 すなわち、劫でないものを劫とするがゆえに、前の十の時において常にこの経を説く。またこの十種は、いずれか一つが円満にすべてを収める。これに依って時を説けば始めも終わりもなく、また見聞に随って初めの成就などを説く。前の法爾の段で弁じた通りである。 もしこの時節に依るならば、他の教えとは全く異なるが、他の教えの時節もこれから出ずることはない。あるいは三七日、六七日などを説くのも、見聞に随うが故である。詳しくは『旨帰』に見えている。

第二依處者，夫智窮真際能所兩亡，假說依真而非國土，況剎塵即入、染淨參融，圓滿教之普周，難以分其處別。然真非事外，不壞所依，以上無時之時遍非處之處。然有言：此經在穢土說，居摩竭等故。有云：處淨土說，在華藏故。有云：如實義者，二種身土無定異處，即於一處見聞異故。上之三義，後一近宗。然說此經處，淨穢無礙、通局交徹，各二四句。初淨穢中，謂或唯染、或唯淨，如前二義；或俱，華藏內娑婆故；或泯，染淨相盡，同一法界故。又或唯染，摩竭等覆淨相故；或唯淨，其地金剛，染相盡故；或俱，隱顯無礙故；或俱非，各相形奪，二相盡故。次明通局交徹二四句者，謂或局，此一界故；或通，該十方故；或俱，即此即遍故；或泯，二相盡故。又或局，此界攝一切故；或通，此入一切故；或俱，即攝即入故；或泯，形奪相盡故。又以一塵例剎，亦有四句，可知。若從陿至寬略顯十處，初此閻浮七處九會而周法界，如〈升須彌品〉；二周百億同類一界，亦遍法界，如〈光明覺品〉；三遍異類樹形等剎；四遍剎種；五遍華藏；六遍餘剎海若種若剎；七遍前六類剎塵，皆有同異類剎；八盡虛空界，容一一毛端之處，各有無邊剎海；九猶帝網；十餘佛同。然上十類，一一各遍法界，而前九正是遮那說法之處。然說十住等處，雖復各遍法界乃至塵毛，為門不同，亦無雜亂。若約十住與十行等，全位相攝，則彼此互無各遍法界。若約諸位相資，則此彼互有同遍法界。一一品會，準此知之。十餘佛同者，此佛既爾，餘佛亦然，故諸會結通皆云「我等諸佛亦如是說。」然主主不相見、伴伴不相見，主伴伴主則互相見。若互不相見，即各遍法界。互相見故，同遍法界，亦無雜亂、亦無障礙。又上十處共為緣起，舉一全收，以一一處稱法性故。而隨前一一時皆遍此諸處，又隨一一處皆具前時，頓說此經，此猶約器世間說。若約智正覺及眾生世間，即一一佛身支節毛孔皆攝無盡重重之剎，普賢眾生一一皆爾，並是遮那說經之處。

> 第二の依処について。智慧が真実の極みに至れば、能（主体）と所（客体）の両方が消え去り、真実に仮に依って説かれるのであって、特定の国土に限定されるものではない。ましてや、一塵が諸仏国土に即し、染（煩悩）と浄（清浄）が互いに融け合い、円満した教えが遍く行き渡るのであれば、その場所を分けて区別することは難しい。しかし、真実は事象の外にあるわけではなく、依るべきもの（所依）を壊すこともない。それゆえに、時間のない時に遍在し、場所のない所に遍在するのである。 ある説では、この経は穢土（この娑婆世界）で説かれたとされる。摩竭陀国などに居たからである。またある説では、浄土で説かれたとされる。華蔵世界にあるからである。さらに、真実の意味からすれば、二種の身（仏身）と土（国土）に定まった異なる場所はなく、ただ一つの場所において、見聞するものが異なるだけであるとも言われる。上の三つの説のうち、最後のものが宗義に近い。 しかし、この経が説かれた場所は、浄土と穢土が互いに妨げず、普遍と限定が互いに徹し合っている。それぞれに二組の四句がある。 まず、浄と穬について。 一、ただ染（穢土）のみ。先の第一の説の通り。 二、ただ浄（浄土）のみ。先の第二の説の通り。 三、両方ともに。華蔵世界の中に娑婆世界があるから。 四、両方ともに泯（消え去る）。染と浄の相が尽きて、同一の法界となるから。 また別の角度から。 一、ただ染のみ。摩竭陀国などが浄の相を覆っているから。 二、ただ浄のみ。その地は金剛であり、染の相が尽きているから。 三、両方ともに。隠れたり現れたりして互いに妨げないから。 四、両方ともに非ず。互いの相が形を奪い合い、二つの相が尽きるから。 次に、普遍と限定が交わって徹し合う二組の四句について。 一、限定される。この一つの世界に限られるから。 二、普遍する。十方の世界に及ぶから。 三、両方ともに。これが即ち遍在するから。 四、両方ともに泯ずる。二つの相が尽きるから。 また別の角度から。 一、限定される。この世界が一切を摂するから。 二、普遍する。これが一切に入るから。 三、両方ともに。摂することが即ち入ることだから。 四、両方ともに泯ずる。形を奪い合って相が尽きるから。 また、一塵を例に諸仏国土に当てはめても、同様に四句があることが分かる。 狭いところから広いところへと、略して十の場所を顕すとすれば。 第一に、この閻浮提において、七つの場所、九つの法会で法界に周遍する。『昇須弥山品』の通り。 第二に、百億の同類の世界に周り、一つの世界もまた法界に遍する。『光明覚品』の通り。 第三に、異類の、樹形などの諸仏国土に遍する。 第四に、仏国土の種（刹種）に遍する。 第五に、華蔵世界に遍する。 第六に、その他の仏国土の海、種であれ国土であれ、に遍する。 第七に、前の六類の国土の塵のごときものに遍し、それぞれに同類・異類の国土がある。 第八に、尽きることのない虚空界に遍し、一つ一つの毛端のところにそれぞれ無辺の仏国土の海がある。 第九に、帝釈天の網のごとくである。 第十に、その他の諸仏も同様である。 しかし、上の十類は、一つ一つがそれぞれ法界に遍している。そして、前の九つはまさに毘盧遮那仏が説法された場所である。しかし、十住などの場所を説くにあたっては、それぞれが法界に遍し、塵や毛端に至るまで及んでいても、入り口（門）が異なるので、雑乱することもない。 もし、十住と十行などが、その位全体が互いに摂し合うとすれば、それらは互いに他を含まず、それぞれが法界に遍する。もし、諸々の位が互いに資け合うとすれば、こちらとあちらが互いに有し合い、同じく法界に遍する。一つ一つの品や法会も、これに準じて理解すべきである。 第十の「その他の諸仏も同様」とは、この仏（毘盧遮那仏）がそうであるように、他の諸仏もまた同様であるという意味である。それゆえ、諸々の法会の結びにおいて通じて「我等、諸仏もまた如是の説をす」と説かれるのである。しかし、主と主とは互いに見ず、伴と伴とは互いに見ない。主と伴、伴と主とは互いに見るのである。もし互いに見ないのであれば、それぞれが法界に遍している。互いに見るがゆえに、同じく法界に遍し、雑乱することもなく、妨げられることもない。 また、上の十の場所は共に縁起をなしており、一つを挙げればすべてを含む。なぜなら、一つ一つの場所が法性に相応しているからである。そして、前の一つ一つの時に随って、皆これらの諸々の場所に遍し、また、一つ一つの場所に随って皆前の時を具え、頓（たちまち）にこの経を説くのである。これはまだ器世間について説いたものである。 もし、智正覚世間（仏の世界）及び衆生世間について言えば、すなわち、一々の仏身の支節や毛孔も皆、尽きることのない重々の諸仏国土を摂し、普賢や衆生の一々もまた皆そうである。これらすべてが毘盧遮那仏が経を説かれた場所なのである。

第三依主者，夫真身寥廓，與法界合其體；包羅無外，與萬化齊其用。窮源莫二、執跡多端，一身多身、經論異說。今說此經，佛為真為應、為一為多？若言真者，何名釋迦，居娑婆界，人天同見？若云應者，那言遮那，處蓮華藏，大菩薩見？見佛法身，若云一者，何以多處別現？若云異者，何以復言而不分身？故說此經佛，並非前說，即是法界無盡身雲，真應相融、一多無礙，即盧遮那是釋迦故，常在此處即他處故，遠在他方恒住此故，身不分異亦非一故，同時異處，一身圓滿皆全現故、一切菩薩不能思故。今先明十身，後彰無礙。言十身者，自有二義：一約融三世間為十者，一眾生身、二國土身、三業報身、四聲聞身、五緣覺身、六菩薩身、七如來身、八智身、九法身、十虛空身。二就佛上自有十身，一菩提身、二願身、三化身、四力持身、五相好莊嚴身、六威勢身、七意生身、八福德身、九法身、十智身。廣顯其相，如第八地及〈離世間品〉辯。言無礙者，略有十義：一用周無礙，謂於上念劫剎塵等處，遮那佛現法界身雲，業用無邊，悉周遍故。經云「如於此處見佛坐，一切塵中亦如是」等，其文非一。二相遍無礙，謂於上差別用中，各攝一切業用故。三寂用無礙，無私成故。四依起無礙，無心頓現，海印力故。五真應無礙，應即同法，一味平等故。六分圓無礙，一一身分即具全身故。七因果無礙，不礙現因故。八依正無礙，不礙現依故。九潛入無礙，入眾生界，如如來藏，雖作眾生不失自性故。故〈出現品〉云「佛智潛入眾生心」，又云「眾生心中有佛成正覺」等。又亦攝一切眾生，在一毛孔善化。天王云：「汝應觀佛一毛孔，一切眾生悉在中」等。十圓通無礙，謂此佛身即理即事、即一即多、即依即正、即人即法、即此即彼、即情即非情、即深即廣、即因即果、即三身即十身，同一無礙法界身雲。以此身雲，遍前時處常說華嚴。是知或說報身在色究竟，約攝報說；或說報身在餘淨土，約引攝說；或說舍那坐千葉華；攝二地說；或說登地方見，約勝機說。或分三異，從體、相、用說，俱非此經真實之義。設分三十不同，亦權實對說，若不融前義，亦失經宗。

> 第三に主に依る者とは、真実の身は広大無辺にして、法界とその体を一つにし、あらゆるものを包み込み、万物の変化とその働きを共にする。その根源を極めれば二つはなく、その現れを捉えれば多様である。一つの身でありながら多くの身でもあり、経典や論書によって説き方は異なる。今、この経典を説くにあたり、仏は真実の身か応化身か、一つか多か。もし真実の身というなら、なぜ釈迦と名乗り、娑婆世界に住み、人間や天人が共に見るのか。もし応化身というなら、なぜ遮那仏と称し、蓮華蔵世界に住み、大菩薩たちに見られるのか。もし仏の法身を見るというなら、一つであるのに、なぜ多くの場所に別々に現れるのか。もし異なるというなら、なぜ分身しないと言うのか。故に、この経典で説かれる仏は、前に述べたものとは異なり、法界の尽きることのない身の雲であり、真実の身と応化身が融け合い、一つと多が妨げあわない。すなわち、盧遮那仏が釈迦であるゆえに、常にここに在りながら他にも在り、遠く他方に在りながらも常にここに住む。身は分かれて異なることもなく、一つでもない。同時に異なる場所に、一つの身が円満にすべてを現じている。すべての菩薩もこれを思惟し尽くすことはできない。今、まず十身を明らかにし、後に無碍を顕わす。十身とは、二つの意味がある。一つは三世間を融け合わせて十とするもの。一に衆生身、二に国土身、三に業報身、四に声聞身、五に縁覚身、六に菩薩身、七に如来身、八に智身、九に法身、十に虚空身。二つは仏の上に自ずから十身があるもの。一に菩提身、二に願身、三に化身、四に力持身、五に相好荘厳身、六に威勢身、七に意生身、八に福徳身、九に法身、十に智身。その相を広く顕わすことは、第八地及び『離世間品』に説かれている。無碍について、略して十の意味がある。一に用が遍く無碍であること。上の念劫や刹塵などの場所において、遮那仏が法界の身の雲を現じ、業用が無辺で、すべてに遍く行き渡るからである。経に「ここにおいて仏の坐すを見るが如く、一切の塵中においてもまた然り」などとある。その文は一つではない。二に相が遍く無碍であること。上の差別ある用の中に、それぞれ一切の業用を摂するからである。三に寂と用が無碍であること。私心なく成し遂げるからである。四に依って起こることが無碍であること。無心のままに頓かに現じ、海印の力によるからである。五に真と応が無碍であること。応身は法身と同じく、一味平等であるからである。六に分と円が無碍であること。一々の身の部分が即ち全身を具えるからである。七に因と果が無碍であること。現に因を現じることを妨げないからである。八に依報と正報が無碍であること。現に依報を現じることを妨げないからである。九に潜り入ることが無碍であること。衆生界に入り、如来蔵の如く、衆生となっても自性を失わないからである。故に『出現品』に「仏の智は衆生の心に潜り入る」とあり、また「衆生の心中に仏が成等正覚す」などとある。また、一切の衆生を一つの毛孔に摂め、善く化す。天王が云う「汝は仏の一毛孔を観るべし、一切の衆生ことごとくその中に在り」などと。十に円通無碍であること。この仏身は即ち理であり即ち事であり、即ち一であり即ち多であり、即ち依であり即ち正であり、即ち人であり即ち法であり、即ち此であり即ち彼であり、即ち情であり即ち非情であり、即ち深であり即ち広であり、即ち因であり即ち果であり、即ち三身であり即ち十身であり、同じく一つの無碍なる法界の身の雲である。この身の雲をもって、前の時処に遍く常に華厳を説く。これによって知る、あるいは報身が色究竟天にあると説くのは、摂報について説くからである。あるいは報身が他の浄土にあると説くのは、引摂について説くからである。あるいは舎那仏が千葉の華に坐すと説くのは、摂二地について説くからである。あるいは登地して初めて見ると説くのは、勝れた機根について説くからである。あるいは三つに分けて異なるとするのは、体・相・用から説くのであり、いずれもこの経典の真実の義ではない。仮に三十の違いを分けても、それは権と実を対比して説くのであり、もし前の義を融け合わせなければ、経典の宗旨をも失うことになる。

第四依三昧者，夫動靜唯物，聖豈然乎？示軌後徒，明將有說，必須靜鑑前理，受諸佛加。從定起而發言，言必真當。言必真當故，受者之心自然篤矣。故於諸會，多明入定為說經緣。有不入者，至文當說。其所入定，皆盡法源，業用難思。

> 第四の依三昧とは、動と静はただ物の働きであり、聖者はどうしてそうであろうか。後の人々に道を示し、明らかに説くべきことを示すために、まず静かに前の道理を照らし、諸仏の加護を受けなければならない。禅定から起きて言葉を発すれば、その言葉は必ず真実に適う。言葉が真実に適うからこそ、聞く者の心は自然に深く信じるようになる。だから諸々の会座では、多く禅定に入ってから経典を説く縁起が明かされるのである。入定しない場合もあるが、それは本文で述べるであろう。その入る禅定は、すべて法の源を究め尽くし、その働きは計り知れないものである。

第五依現相者，謂法性寂寥雖無諸相，無相之相不礙繁興，起教多端相非一準，或放光動剎、或華雨香雲，皆為發起。故諸會之內，將欲說法多先放光，通表智光以被物故。然有二種：一不壞次第光，隨位增微故；二圓通無礙光，隨一一光皆結通故。隨處放異，總有十光，各有所表，至文當知。其動地等，多在說後，則但是慶聞。如十地中，雖是慶前，義兼起後，則是教緣。

> 第五の「現相に依る」とは、法性は寂寥として一切の相はないけれども、無相の相が繁興を妨げず、教えを起こす手立ては多様であり、その相は一つの基準に限らないことをいう。ある時は光を放ち国土を震動させ、ある時は華を降らせ香雲を漂わせ、これらすべてが衆生を発起させるためである。だから、諸会のなかで、まさに説法しようとするときは、多くまず光を放つ。これは智光が遍く衆生を照らすことを表すためである。しかし、光には二種類ある。一つは「次第を壊さぬ光」で、位に従って次第に増大・微細となるもの。もう一つは「円通無礙の光」で、一々の光がすべてを通じ結ぶものである。場所に応じて異なる光を放つが、総じて十種の光があり、それぞれ表すところがある。それは経文に至ればわかるであろう。大地震動などは、多く説法の後に起こり、それはただ慶び聞くことを表す。たとえば十地のなかでは、前のことを慶ぶものであるが、その意味は後のことを起こすことにも通じ、それは教えの縁となるのである。

第六依說人者，法無廢興，弘之由人。下文云「佛法無人說，雖慧莫能了。」今此能說，通三世間，開即為五，謂佛、菩薩、聲聞、眾生及器。更開為十，謂加三世、微塵、毛孔、器及有情，各有分圓故。毛孔、微塵即是分說。此上諸說，通三世故，故〈普賢行品〉云「佛說眾生說，及以國土說，三世如是說」等，廣則無量。〈法界品〉中類非一故，如僧祇隨好，即是佛說。餘會多菩薩說。〈法界品〉初有聲聞說。諸善友等多菩薩說，亦名眾生說。菩提樹等即器界說。至文當知。其能說人，用法不同，或用音聲、或用妙色等，如教體中辯。

> 第六に、説く人に依るとは、法には廃れることも興ることもなく、弘めるのは人によるということです。下の文に「仏法は人説くことなければ、慧あれどもよく了うること能わず」とあります。今ここで説くことができる者は、三世間を通じ、開けば五つとなり、すなわち仏、菩薩、声聞、衆生、および器です。さらに開けば十となり、すなわち三世、微塵、毛孔、器、および有情を加え、それぞれに分説と円説があるからです。毛孔と微塵とは、すなわち分説です。これら上の諸説は、三世を通じるゆえに、『普賢行品』に「仏の説くところ、衆生の説くところ、および国土の説くところ、三世かくのごとく説く」などとあり、広くすれば無量です。『法界品』の中には類が一つでないゆえ、たとえば僧祇随好はすなわち仏の説くところです。その他の会では多く菩薩が説きます。『法界品』の初めには声聞が説きます。諸善友など多くは菩薩が説き、また衆生の説くところともなります。菩提樹などはすなわち器界の説くところです。文に至って知るべきです。その説く人が法を用いることは同じではなく、あるいは音声を用い、あるいは妙色などを用います。教体の中に弁じるとおりです。

第七依聽人者，子期云喪，伯牙輟絃。若無聽者，終無有說。即下諸眾略有十類，至文當明。除當機眾，餘皆是緣。

第八依德本者，川有珠而不枯、山有玉而增潤，內無德本，外豈能談？然唯約說者，前人此法故。略有二類：一者智慧最為首故。十方諸佛告金剛幢言：「及由汝智慧清淨故。」告金剛藏言：「亦是汝勝智力故。」二者餘行願力。十方諸佛告普賢言：「亦以汝修一切諸行願力故。」十方諸佛告法慧言：「及汝所修諸善根力，令汝入是三昧而演說法。」若感者善根、若化主行願，皆屬說因。

第九依請人者，若約慈悲深厚，亦有無問自談；若約敬法重人，要須誠請後說。初心識昧，未解諮求；上智慈悲，騰疑啟請。然有二類：一者言請、二者念請。諸會有無，〈現相品〉當辯。

第十依能加者，夫聖無常應，應于克誠，心冥至極故得佛加。然若佛自說，則不俟加。如第九會，因人有說，要假上加。其第八會，行依法修，不異前故，略無有加。二七不入定，故無有加，餘皆具有。所以加者，欲顯諸佛同加即同說故、一說一切說故，亦顯果海無言因相可說故。若爾，僧祇隨好應非一切，表微細難知故、超出因果故。然施設不同，不應一準。加有二種：一者顯加，具於三業；二者冥加，但與智令說。普光法界，無顯有冥；餘皆具二，顯必有冥故。餘至下明。教起因緣竟。

第二藏教所攝，中二：先藏攝、後教攝。前中亦二：先藏、後攝。今初。藏謂三藏、二藏。通稱藏者，以含攝故。世親《攝論》第一、《莊嚴論》第四，皆云彼三及二，云何名藏？答云：由攝故，謂攝一切所應知義。攝即包含。言三藏者，一修多羅藏、二毘柰耶藏、三阿毘達磨藏。初中，先辯名、後顯相。今初。亦名修妬路、亦名素怛纜，此皆梵音楚夏。古譯為契經，《智論》之中名為經藏。契謂契理契機，經謂貫穿攝化，即契理合機之經，依主受名。契經即藏，持業釋也。復云：正翻名線。線能貫華，經能持緯。此方不貴線稱，故存於經。有云：案五印度，呼線、席經、井索、聖教，皆曰修多羅，則經正是敵對，斥於古德經非敵對。今更詳之。若一名四實，皆為敵對，則古如所破；若兼順義，經自屬於席經，敵對應名聖教，故梁《攝論》譯為聖教。彼論云「有阿毘達磨，非是聖教，為成聖教故，加修多羅名。」古德見此儒墨皆稱為經，遂借彼席經以目聖教，則雙含二義、俱順兩方。借義助名，更加契字，揀異席經，甚為允當。二顯相者，西域四名所目雖殊，意義相似，故同稱修多羅。而聖教多含，具上三義，故《雜心》云「經有五義：一曰涌泉、二曰出生、三曰顯示、四曰繩墨、五曰結鬘。涌泉則注而無竭，出生則展轉滋多，義同井索，有汲引故。顯示正是聖教，顯事理故。繩墨則揩定正邪，亦是繩之為經。能持於緯，同席經義。結鬘同線，線能貫華，結成鬘故。」總上五義，不出貫攝，故《佛地論》第一云「能貫能攝故名為經，以佛聖教貫穿攝持所應說義、所化生故。」此或貫攝通所說所化，或貫穿法相、攝持所化。又世親《攝論》釋貫穿云「謂能貫穿，依故、相故、法故、義故。依者，謂於是處，由此為此而有所說。相者，謂世俗諦相、勝義諦相。法者，謂蘊、界、處、緣起、諦、食、靜慮、無量、無色、解脫、勝處、遍處、菩提分、無礙解、無諍等。義者，隨順密意說等。」《瑜伽》二十五、《顯揚》二十大同此說。餘義至十二分中當明。

第二毘柰耶藏，初名、後相。前中，亦名毘尼，梵言之略耳。此翻為調伏，謂調練三業，制伏過非。調練通於止作，制伏唯明止惡。就所詮之行彰名，即調伏之藏；或能詮藏，有調伏之能，即有財釋。契經藏中，類有此釋。毘尼，或翻為滅。滅有三義：一滅業非、二滅煩惱、三得滅果。或名尸羅，具云翅怛羅，此云清涼，離熱惱因，得清涼果故。亦名波羅提木叉，此云別解脫，此就因得名，然有二義：一揀異定道，名之為別；二三業七支各各防非，故名為別。亦翻為隨順解脫，此據果立，隨順有為無為二種解脫果故。亦名性善，如《十誦律》亦名守信，如昔所受實能持故。後顯相者，前名之中已含止作，即毘尼相。若別說者，世親《攝論》云「毘柰耶有四義，謂犯罪故、等起故、還淨故、出離故。」廣如彼論。

第三阿毘達磨藏，阿毘名對，達磨云法。法有二種，一勝義法，謂即涅槃，是善是常，故名為勝。二法相法，通四聖諦。相者，性也、狀也，二俱名相。法既有二，對亦二義：一者對向，謂向前涅槃；二者對觀，觀前四諦。其能對者皆無漏淨慧及相應心所等，由對果、對境，分二對名故。慧但是對而非是法，非所對故。言對法者，法之對故，故對法藏特名慧論，舊譯為無比法，以詮慧勝故。世親《攝論》云「阿毘達磨有四義，謂對故、數故、伏故、通故。」對義同前。數者，於一一法，數數宣說訓釋言辭，自共相等無量差別故。伏者，由此具足論處所等，能勝伏他論故。通者，此能通釋素怛纜義故。亦名優婆提含，此云論義；亦名磨怛理迦，此云本母，謂以教與義為本為母。亦云依藏生解，藏為解母，本即是母。亦名摩夷，此云行母，依藏成行故、行之母故。

然此三藏，約其所詮，略有二門：一者剋性則經詮三學、戒唯戒心二學、論唯慧學，如《攝論》說。二約兼正，則三藏之中經正詮定、毘尼詮戒、論詮於慧，兼各通三。

第二明二藏者，一聲聞藏、二菩薩藏。即由前三藏詮示聲聞理行果，故名聲聞藏；詮示菩薩理行果，故名菩薩藏。故《莊嚴論》第四云「此三藏由上下乘差別故，復為聲聞藏及菩薩藏。」《攝大乘》同此。此就二乘理果同故合之。若約教行別故，即開三乘以為三藏，如《普超》等經。又由緣覺多不藉教、出無佛世，佛在世時攝屬聲聞故，但分為二，即是大小半滿不同。

第二明所攝者，此經三藏之中，正唯修多羅攝，兼詮餘二，〈十藏〉等品廣顯戒故、〈問明〉等品顯論義故。若就修多羅中以義揀教，則唯〈十藏〉攝，具足主伴顯無盡故、教義融故，二藏之中唯菩薩藏。若分權實，但菩薩藏一分所攝，權不攝故。若約此攝，乃至聲聞亦此經攝，此能包含無量乘故。揀於權實，至下立教中明。已辯藏攝。

第二明教攝者，教有二種：一者通相，十二分教亦分大小，至下〈十藏品〉辯；二者諸宗立教不同，今當略釋。夫教海沖深、法雲彌漫，智光無際、妙辯叵窮，以無言之言詮言絕之理、以無變之變應無窮之機，極位所承，凡情難挹。今乘理教之力，略啟四門：一大意合離、二今古違順、三分宗立教、四總相會通。今初。且西域東夏弘闡之流，於一代聖言，或開宗分教、或直釋經文，以皆含得失故耳。且不分之意，略有五焉：一則理本一味，殊塗同歸，故不可分也；二一音普應、一雨普滋故；三原聖本意，為一事故；四隨一一文，眾解不同故；五多種說法，成枝流故。以斯五義，故不可分。分之乃令情構異端、是非競作，故以不分為得。其分教者，亦有多義：一理雖一味，詮有淺深，故須分之使知權實。二約佛雖則一音，就機差而教別。三本意未申，隨他意語而有異故。四言有通別，就顯說故。五雖分權實，須善會佛意，有開顯故。又王之密語，所為別故。不識權實，以深為淺，失於大利；以淺為深，虛其功故。莊嚴聖教令深廣故、諸聖教中自有分故、諸大菩薩亦開教故。以斯多義，開則得多而失少、合則得少而失多。但能虛己求宗，不可分而分之，亦何爽於大旨，故今分之。

第二古今違順，曲分為二：先敘此方、後明西域。今初。諸釋雖眾，略敘數家，勒為五門：一立一音教，謂如來一代之教不離一音。然有二師：一後魏菩提流支云：「如來一音，同時報萬，大小並陳。」二姚秦羅什法師云：「佛一圓音，平等無二，無思普應，機聞自殊，非謂言音本陳大小。故《維摩經》云『佛以一音演說法，眾生各各隨所解。』」上之二師，初則佛音具異、後則異自在機，各得圓音一義，然並為教本不分之意耳。第二立二種教，自有四家：一西秦曇牟讖三藏，立半滿教，即聲聞藏為半字教、菩薩藏為滿字教。隋遠法師亦同此立。斯則文據《涅槃》，蓋是對小顯大，通相之意，未於大中顯有權實亦含半滿。二隋遠法師，立漸頓二教，謂約漸悟機、大由小起，所設具有三乘，故名為漸；若約頓機，直往於大、不由於小、名之為頓。此雖約機說有漸頓，而所說法不出半滿。三唐初印法師，亦立二教：一屈曲教，謂釋迦經，以逐機性隨計破著故，如《涅槃》等；二平道教，謂舍那經，以逐法性自在說故，如《華嚴經》。又此二教略有四異：一主異，謂釋迦化身與盧舍那十身異故；二處異，謂娑婆界木樹草座與華藏界中寶樹寶座等異故；三眾異，謂為聲聞及菩薩說與唯菩薩及極位同說異故；四說異，謂局處之說與該通十方之說異故。此約化儀以判。然《華嚴》雖有隨諸眾生各別調伏，皆是稱性善巧一時頓演；《涅槃》等雖說一極，或對權顯實、或會異歸同，一切如來或說不說，故云屈曲。約釋迦為主則未顯十身，十身為主必具釋迦。娑婆之處未融華藏，華藏之處必融娑婆。略云四異，異實有多，誠如所判，但以屈曲之內未顯法之權實耳。四齊朝隱士劉虬，亦立漸頓二教，謂《華嚴經》名為頓教；餘皆名漸，始自鹿苑、終於雙林，從小之大故。然此經，如日初出先照高山，即是頓義。慈龍降雨以證漸義，於理可然。漸約五時，次下當辯。第三立三種教，亦有三家：一南中諸師同立三教，謂於前漸頓加不定教，由漸中先小後大，而《央掘經》六年之內即說，為遮此難故立不定，謂別有一經雖非頓攝，而明佛性常住，即《勝鬘》、《金光明》等，是為偏方不定教也。漸中開合，諸師不同。或但分為二，即是半滿；或分為三，即武丘山岌法師，謂十二年前見有得道，名有相教；十二年後齊至《法華》見空得道，名無相教；最後雙照一切眾生佛性、闡提作佛，名常住教。此與唐三藏三時之教大同，至敘西域中說。真諦三藏，依《金光明》立轉、照、持三輪之教，亦大同此而時節小異。謂七年前說四諦，名轉法輪；七年後說《般若》，具轉照二輪，以空照有故；三十年後具轉照持，以雙照空有持前二故。或分為四，即宋朝岌法師，謂於前三時無相之後、常住之前，指《法華經》為同歸教，以會三歸一、萬善悉向菩提故。或開為五，然有二家：一道場慧觀等，於無相之後、同歸之前，指《淨名》、《思益》等為抑揚教。二者即前劉公，不開抑揚，而有教之初取《提胃經》為人天教。上來諸師皆於漸中約時開異，若不加不定之教，則招難尤多，以初有大故；雖加不定，猶有妨難。略顯五時之妨，餘可例知。初明十二年前為有相者，自違《成論》。《成論》云「我今正明三藏中實義，實義即空。」又《阿含》中云「無是老死」，即法空也；「無誰老死」，即生空也。又《智論》云「三藏中明法空為大空，摩訶衍中明十方空為大空。」皆顯小乘已有二空。若云第二時說空者，十二年後方制廣戒，豈唯說空？又《智論》云「從得道夜乃至涅槃常說般若。」豈前不說空？若云第二時中未顯常住者，實相般若豈無常耶？涅槃亦說「佛性亦名般若」，是知實相般若即是正因佛性，觀照即為了因。又《般若》離四句，何曾存空？《般若》不壞四句，豈無妙有？是知小大各有四門，而但言初有次空者，各得一門之意耳。若云第三時中但名抑揚亦非常者，《淨名》云「佛身無為，不墮諸數。觀身實相，觀佛亦然」，豈無常耶？《般若》亦云「二乘智慧猶如螢光，菩薩一日學智如日之照」，豈非抑揚？若云第四時中但顯同歸亦未明常者，〈壽量品〉云「常住不滅」，又〈方便品〉云「世間相常住」等，豈無常耶？五以涅槃為常住者，當教可爾。而涅槃之時亦有小乘之見，如《阿含》中說如來涅槃之相故。若以人天為初者，提胃雖說戒善。得道。皆通三乘。故彼經云。提胃得不起法忍，又違《密跡經》中第二七日說三乘故。然上五時等，皆以約時剋定，則有所乖；揀去不定，從多分說，亦有理在。二後魏光統律師，承習佛陀三藏，亦立三教，謂漸、頓、圓。初為根未熟者，先說無常、後方說常，先空、後不空等，如是漸次，故名為漸。二為根熟之輩，於一法門具足演說常無常、空不空等，一切具說，更無由漸，故名為頓。三為於上達分階佛境之者，說於如來無礙解脫究竟果德圓滿祕密自在法門，故名為圓。此亦約化儀，說有前後耳。意明今時堪受頓者，必昔曾受化故。云根熟、上達之言，義兼地前。分階佛境，即謂地上。於理亦通。三隋末唐初吉藏法師，依《法華》第五立三種法輪：一「始見我身、聞我所說，即皆信受入如來慧」，即根本法輪；二「除先修習學小乘者」，即枝末法輪；三「我今亦令得聞是經入於佛慧」，即攝末歸本法輪。此判全約化儀，據法但有大小。然《法華》為於一類開顯本末，若將定判一代聖教，收義不盡，以法華之前亦有大故，豈《般若》等皆為枝末？又《無量義》云「佛一切時說大小故。」

## 大方廣佛華嚴經疏卷第一