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title: "雜譬喻經 · 28"
description: "雜譬喻經由後秦時期沙門道略集錄而成，是漢傳佛教早期譬喻類經典的重要彙編。該經通過生動的寓言故事和譬喻手法，闡釋因果業報、修行法門及般若空性等教義，內容通俗易懂且富含哲理。其成書背景與佛教東傳初期適應中土文化的弘法需求密切相關，融合了古印度佛教思想與漢地敘事傳統。作為研究早期佛教文學和教義傳播的關鍵文本，該經不僅在佛教文學史上佔有重要地位，更為大乘佛教譬喻文學的發展奠定了基礎，對後世禪宗公案及佛教民間故事影響深遠。"
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### （二八）

> （二十八）

昔佛在世時，有五百力士俱為沙門，共在一處坐禪誦經。有不善賊盡奪諸沙門衣鉢蕩盡，唯有泥洹僧在。是賊去後，諸沙門輕著泥洹僧，俱詣佛所具白此意，佛語諸沙門言：「汝何不大喚？」諸沙門答言：「佛未聽，是故不敢喚。」佛語諸比丘：「汝若不敢喚者，賊當日剝汝衣，誰當能常給者？從今日後，聽汝見賊來時大喚，捉杖塼石恐怖令去，但莫至誠傷害之耳。」人之所重者身也命也財也，此三事皆不足惜、不可輕也。不足惜者，以其非常敗壞無有堅固，愚惑惜之以為我物，貪愛悋惜起不善因緣，後墮惡道，故不足惜也。不可輕者，以有身故遇值賢聖，擎跪曲拳承迎禮拜，後得金剛寶身不可毀壞，故曰不可輕也。命不足惜者，人為命故殺生、強盜、婬妷，口犯四過，心生貪恚邪見，後墮地獄，故曰不足惜也。而亦不可輕者，以有命故值遇聖賢，得聞法言精義入神盡壽修行，後得寶命無量無窮，故曰亦不可輕也。財不足惜者，以財是五家之分——盜賊、水、火、縣官、惡子——五家忽至一旦便盡，故曰不足惜也。不可輕者，遇良福田持用布施，種種供養無所遺惜，後得寶財四大藏，周窮濟乏求得無盡，故曰不可輕也。夫修福德皆當擬心求成佛道，不應但索人天果報也。所以者何？譬如種穀但求其實，實雖未熟，莖節枝葉自然已得，布施作福亦復如是，發意擬儀但求成佛泥洹之道，道雖未成，人天中樂金輪聖主、帝釋、梵王自然並至，亦如種穀不期莖節枝葉自然而得也。所以不應但求人天果報之樂者也。

> 昔、仏が世におられた時、五百人の力士たちが皆、沙門となって、共に一つの場所で坐禅や読経をしていました。そこへ悪い賊がやって来て、沙門たちの衣や鉢を全て奪い去り、下着だけが残されました。賊が去った後、沙門たちは軽く下着一枚で身を包み、皆で仏のもとへ行き、この事情を詳しく申し上げました。すると仏は沙門たちに言われました。「なぜお前たちは大声で叫ばなかったのか。」沙門たちは答えました。「仏がお許しになっていなかったので、恐れ多くて叫べませんでした。」仏は比丘たちに言われました。「もしお前たちが叫べないなら、賊は日ごとに衣を剥ぎ取っていくだろう。誰が常に衣を給することができようか。今日より以後、賊が来るのを見たら大声で叫び、杖や瓦や石を手に取って脅かして追い払いなさい。ただし、誠に害を与えようとして傷つけてはならない。」 人が最も大切にするものは、身体・生命・財産である。しかし、これら三つはいずれも惜しむに足らず、また軽んじてはならないものである。惜しむに足らないのは、これらが常ならず、壊れやすく、堅固ではないからである。愚かな者は惑わされてこれを我が物と思い、貪り愛し執着して不善の因縁を起こし、後には悪道に堕ちる。それゆえ惜しむに足らないのである。軽んじてはならないのは、身体があるからこそ賢聖に出会い、ひざまずき、手を合わせ、礼拝し、後に壊れない金剛の宝身を得ることができるからである。それゆえ軽んじてはならないと言うのである。 生命も惜しむに足らない。人は生命のために殺生・強盗・淫らな行いをし、口で四つの過ちを犯し、心に貪り・怒り・邪見を生じて、後に地獄に堕ちるからである。それゆえ惜しむに足らないと言うのである。しかし軽んじてはならないのは、生命があるからこそ聖賢に出会い、法の言葉を聞いて精妙な義を心に刻み、寿命の尽きるまで修行し、後に尽きることのない宝のような命を得ることができるからである。それゆえ軽んじてはならないとも言うのである。 財産も惜しむに足らない。財は五つの者の取り分であり、すなわち盗賊・水・火・役人・悪しき子である。これら五者が急にやって来れば、たちまち全てが失われるからである。それゆえ惜しむに足らないと言うのである。しかし軽んじてはならないのは、良い福田に出会い、それを持って施しを行い、様々に供養して惜しむことがなければ、後には宝の財産である四つの大きな蔵を得て、貧しい者を救い、乏しい者を助け、求めれば尽きることがないからである。それゆえ軽んじてはならないと言うのである。 そもそも福徳を修める者は、皆、心を定めて仏道の成就を求めなければならない。ただ人間や天の果報だけを求めてはならない。なぜなら、たとえば穀物を植える時、ただその実だけを求めるようなものである。実はまだ熟していなくても、茎や節、枝や葉は自然に得られている。布施をして福をなすこともまた同じである。心を起こし、目標を定めて、ただ仏道＝涅槃の道を求めるならば、道はまだ成就していなくても、人間や天の楽しみ、金輪の聖主、帝釈天、梵天の位が自然に共にやって来るのである。ちょうど穀物を植える時、茎や節、枝や葉を期待しなくても自然に得られるのと同じである。それゆえ、ただ人間や天の果報の楽しみだけを求めてはならないのである。