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title: "列祖提綱錄 · No. 1260-B 列祖提綱錄敘"
description: "清初行悅编集的《列祖提綱錄》是一部禅宗重要典籍，成书于康熙三年。全书四十二卷，系统收录了自中唐至清初禅门诸祖师的语录、机缘问答及开示法要，重点突出禅寺规矩与修行纲目。该书不仅是研究禅宗清规礼仪及教学思想的重要文献，更对后世禅林制度与修行实践影响深远，被誉为禅宗纲目类著作的集大成者，在佛教史上具有承前启后的重要地位。"
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### No. 1260-B列祖提綱錄敘

> 第1260-B号 列祖提綱録の序

住金陵棲霞寺古閩嗣祖沙門大依撰

> 金陵棲霞寺の古閩嗣祖沙門・大依撰

吾宗自大智以下。典模大備。誠所云三代禮樂也。洎南宋後。稍凌夷衰微矣。有明二百餘年。岌岌於廣陵散熹廟間。諸老先後。高建旗鼓於江東南。嗣而兩宗門下。莫不家發豐城之劍。人懷射斗之光。但頺靡之餘。叢席草創。法紀未詳。近一二老成。留意舊章者。亦既神而明之。然綱要未經提揭。而條理依舊參商。予二十年前。與呆翁和尚。同參濟下尊宿。每抗論及此。葢不勝扼腕焉。既而南北各師。吳楚異域和尚。久出世名藍。為東南衲子所皈。一日竟拂衣去。抱特立之志。走天下名山川。廣搜博採。二十年來。而列祖提綱成。自粤北歸。首抵金陵。過我攝山燒燈道故。爰出是書。命為弁首。快意之餘。焚香載讀。如登百丈堂。見聲鐘伐鼓。千五百人。濟濟蹡蹡。載奔載拜也。至於法言之超卓。眼目之分明。四百餘人。如出一人。四十餘卷。不多一字。集者之心力。真鎔鑄古今矣。或云。禪貴妙悟。文言其末。規則奚為。設若令世尊。降天垂寶葢之重。向紙錢灰裏坐臥。舍花雨梵樂之供。就厨房竹筒裏覔食。則四十九年。百萬人天。將何所瞻依。何所開悟耶。抑思沛公之馬上。終歸制度。鵬舉之野戰。還習陣圖。安有到潼關云見天子。外宮墻能富百官也。是書也。三百餘種。三千餘則。合上下古今人。先型俱在。目擊道存。皆和尚之血心。片片赤手提持。倘或承言滯句。播弄篇章。帶累呆和尚沒量罪過。而列祖亦沒量罪過也。　　　康熈七年正月上元日

> わが宗は、大智禅師以来、規範と典籍が整い、誠に三代の礼楽と称すべきものであった。しかし南宋以降、次第に衰退し、明代の二百余年にわたって、あたかも「広陵散」が絶えようとするかのごとく、危機に瀕していた。熹宗の頃、先哲たちが相次いで江南に旗揚げし、その後、両宗の門下では、皆が家ごとに豊城の剣を掘り起こし、人々は斗牛の間を射るかのような光を抱くほどに盛んとなった。 だが、衰退の後のこととて、叢林の運営は手探りの状態であり、修行の規則も未だ整っていなかった。近年、古い規範に留意する祖師方も、すでにその精神を悟って明らかにしてはいたが、綱要が提示されていないため、細則は依然として互いに食い違っていた。 私は二十年前、呆翁和尚と共に臨済宗の尊宿に参禅した折、このことについてしばしば議論し、いたく無念に思ったものだ。その後、南北それぞれの師家のもとへ行き、また和尚とは呉と楚の国を隔てることとなった。和尚は永く名高い寺院で指導し、東南の修行僧の帰依するところとなっていた。ところがある日、突然衣を振り払って去り、独自の志を抱いて天下の名山を巡り、幅広く収集に努めること二十年。そして『列祖提綱』が完成したのである。 広東の北から戻る途中、初めて金陵に立ち寄り、摂山の私の許に来て灯を焚き旧交を温めた。そこでこの書を取り出し、私に序文を依頼した。喜ばしい心持ちで香を焚き、この書を読めば、百丈の堂上に登り、鐘を鳴らし鼓を打つ音を聞き、千五百人の僧が整然と進み、走り、礼拝するありさまを目の当たりにするようである。 また、法語の卓越性、眼目の明瞭さにおいては、四百余人が一人の如くであり、四十余巻に一字の無駄もない。編者の心力は、まさに古今を鋳造し融合したものといえよう。 ある人は言うかもしれない。「禅は妙悟を尊ぶ。言葉や文字は末節であり、規則など何になろうか」と。もし世尊が、天から宝蓋の荘厳を垂れることをやめ、紙銭の灰の中で座臥し、花雨や梵楽の供養を捨て、台所の竹筒の中で食べ物を探すような生活を送られたなら、四十九年の間、百万人の天人は何に依拠し、何によって開悟したであろうか。 また考えるに、沛公（漢の高祖）も天下を馬の上で得たとはいえ、ついには制度を定めたのである。岳鵬挙（岳飛）も野戦に秀でていたが、陣図を学んだではないか。どうして潼関に至って天子に拝謁しながらも、外宮牆で百官を富ませることができようか。 この書は、三百余種、三千余則に及び、古今の先人たちの模範がそのまま示されており、見れば道が存することが一目瞭然である。これらは皆、和尚の一片の血の通った真心の手によって取り上げられたものである。もしも言葉や句に執着し、ただ文辞をもてあそぶならば、呆和尚に無量の罪過を負わせることとなり、列祖たちにもまた無量の罪過をもたらすこととなろう。 康熙七年正月十五日