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title: "大明高僧傳 · 12 天台薦福寺沙門釋善繼傳"
description: "大明高僧传由明代天台宗僧人如惺撰写，是继宋代高僧传之后的重要佛教传记著作。该书成书于万历年间，主要辑录南宋至明初部分高僧的生平事迹，共分译经、解义、习禅等科目，收录僧传百余篇。作为中国佛教史传的重要组成部分，它补充了宋明之间僧传的空白，为研究该时期佛教发展、宗派传承及高僧德行提供了珍贵史料，具有较高的历史与文献价值。"
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### 天台薦福寺沙門釋善繼傳十二

> 天台荐福寺沙门释善继传第十二

釋善繼號絕宗。越之諸暨婁氏子也。母王氏夢神僧授白芙蕖遂姙。生即能言。或見母舉佛號便能合掌和之。稍長從季父於山陰靈祕寺治春秋傳。因竊窺佛經乃喟然歎曰。春秋固佳特世法耳。莫若求出世法。況吾身如泡聚。官爵奚為哉。於元大德即請於父母師恭和尚祝髮。明年進滿分戒。尋從天竺大山恢法師習天台教。恢公見其慧解卓倫甞囑曰。吾輪下數百人。而堪繼大法者惟子耳。當自愛勉之。會大山遷雲間之延慶。即往南竺謁湛堂澄。澄一見便問曰。入不二門屬何觀法。繼對曰。三種觀法對屬三部。此文既與止觀同成觀體。的是從行。澄又問。諸經之體為迷為悟。繼曰。體非迷悟。迷悟由人。亦顧所詮經旨何如耳。澄公喜溢顏色謂眾曰。法輪轉於他日將有望于斯子矣。俾居第一座。澄移上竺。玉岡潤補其席。亦居第一座。天曆乙巳出住良渚。香嗣湛堂日講金光明經。夜夢四明法智謂曰。爾所講之經與吾若合符節。自是益加精進。至正壬午元臣高納璘請主天台薦福。無何遷能仁。闡法華妙玄文句。又釋五章奧義。甞示眾曰。吾祖有云。止觀一部即法華三昧之筌蹄。一乘十觀即法華三昧之正體。汝等須解行並馳正助兼運。則圓位可登。而不負祖師命宗之意也。元季會天下大亂。遂東還華。徑專修淨業繫念彌陀晝夜不輟。一日忽告眾曰。佛祖弘化貴乎時節因緣。緣與時違化將焉托。吾將歸矣。乃端坐而逝。至正丁酉七月二十二日也。世壽七十有二。僧臘六十有三。荼毘舌根不壞。塔於靈祕之西。得法弟子有靈壽懷古延慶自朋崇壽是乘廣福大彰雷峯淨昱演福如玘報忠嗣璡車溪仁讓香積曇胄若干人。

> 善繼という僧は、絶宗という号を持っていた。越の諸暨に生まれ、婁氏の家系である。母の王氏は、夢の中で神僧から白い蓮の花を授かるという夢を見て、妊娠した。生まれてすぐに言葉を話すことができ、母が仏の名号を唱えるのを見ると、掌を合わせて唱和した。少し成長すると、叔父に従って山陰の霊祕寺で『春秋』の伝を学んだ。そこで密かに仏典を覗き見て、嘆息して言った。「『春秋』も確かに良いものだが、ただ世俗の教えに過ぎない。出世間の法を求めるには及ばない。ましてや我が身は泡のようなものだ。官職など何になろうか」と。元の大徳年間に、父母に請うて師である恭和尚のもとで出家し、翌年には具足戒を受けた。その後、天竺の大山恢法師に従って天台の教えを学んだ。恢公はその慧解が卓越していることを見て、かつて言った。「我が門下には数百人がいるが、大法を継承できるのはお前だけだ。自らを大切にし、励むがよい」と。恰もその時、大山が雲間の延慶に移ったので、南竺に赴いて湛堂澄に参じた。澄は一目見て即座に尋ねた。「入不二門とは何の観法に属するか」。継は答えた。「三種の観法は三部に対応しています。この文は止観と同様に観の体を成すものですから、まさに従行にあたります」。澄はまた尋ねた。「諸経の体は迷いにあるのか、悟りにあるのか」。継は答えた。「体には迷いも悟りもありません。迷いと悟りは人によるものです。また、それが示す経旨がいかにあるかによるのです」。澄公は喜びの色を顔に浮かべて、衆に言った。「法輪は後日、この者に回るであろう」と。彼を第一座に据えた。澄が上竺に移ると、玉岡潤がその席を継いだが、継もまた第一座に置かれた。天曆乙巳年、良渚の住持となり、香を湛堂に嗣いで、日ごとに『金光明経』を講じた。夜には、四明の法智が夢に現れて言った。「お前が講じる経は、我と完全に符合している」。これ以来、ますます精進した。至正壬午年、元の重臣・高納璘が天台の薦福寺の住持を請うた。ほどなく能仁寺に移り、『法華経』の妙玄文句を説き、また五章の奥義を釈明した。かつて衆に示して言った。「我が祖師が言うには、『止観』の一部は『法華三昧』の筌蹄であり、一乗十観は『法華三昧』の正体であると。汝らは解と行を並行して進め、正と助を共に運ぶべきである。そうすれば円位に登ることができ、祖師が宗を立てた意図に背かないであろう」と。元の末期に天下が大乱となると、東に帰って華徑に入り、専ら浄業に修めて、弥陀に心を繫ぎ、昼夜に中断しなかった。ある日、突然衆に告げて言った。「仏祖の弘化は、時節の因縁を重んじる。縁が時と違えば、化はどこに依るのか。我は帰ろう」と。そして端座したまま入滅した。至正丁酉年七月二十二日のことである。世寿は七十二歳、僧臘は六十三年であった。荼毘の際、舌根は焼けずに残った。塔は霊祕の西に建てられた。法を受け継いだ弟子には、霊寿の懐古、延慶の自朋、崇寿の是乗、広福の大彰、雷峯の浄昱、演福の如玘、報忠の嗣璡、車溪の仁讓、香積の曇冑ら、数人がいる。