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title: "大明高僧傳 · 10 臨安府徑山沙門釋師範傳"
description: "大明高僧传由明代天台宗僧人如惺撰写，是继宋代高僧传之后的重要佛教传记著作。该书成书于万历年间，主要辑录南宋至明初部分高僧的生平事迹，共分译经、解义、习禅等科目，收录僧传百余篇。作为中国佛教史传的重要组成部分，它补充了宋明之间僧传的空白，为研究该时期佛教发展、宗派传承及高僧德行提供了珍贵史料，具有较高的历史与文献价值。"
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### 臨安府徑山沙門釋師範傳十

> 臨安府徑山沙門釋師範傳十

釋師範字無準。蜀之梓潼雍氏子也。年九歲依陰平山道欽和尚出家。讀書過目成誦。南宋紹熙六年始腰包遊於成都正法寺。請益堯和尚坐禪工夫。堯曰。禪是何物。坐的是誰。師於是晝夜體究。一日如廁。因提前話有省。明年出遊廣浙謁佛照於育王。照問。何處人。曰劍州。又問。帶得劍來麼。師便喝。佛照笑曰。這烏頭子也亂做。師貧無資薙髮。故人目之曰烏頭子。破庵居靈隱。師侍次時有一道者問破庵。猢猻子捉不住奈何。破庵曰。用捉作麼。如風吹水自然成文。師於言下大悟。未幾同月石溪公遊天台雁宕。時雪峯雲和尚住瑞巖留師分座。夜夢一偉人。手持把茅授與師。次日明州清涼寺專使迎師。方入院見伽藍神牌書茅姓。然其衣冠與夢所見無異。住三年遷焦山次雪竇。又奉旨領主阿育王。久之補雙徑。無何召入大內修政殿說法稱旨。賜金襴衣加佛鑑禪師之號。師住徑山。其殿宇兩遭回錄。皆兩復新之。又去寺四十里築室百楹接待雲水。額曰萬年正續。次於其西數百步結庵。為歸藏之所。又建重閣其上藏朝延所賜御翰。師之先世居蜀。遇亂絕嗣。乃於山中設祠祀俗之祖父。事聞於朝賜額曰圓照。以徵其孝思。宋淳祐戊申乃築室明月池上。榜曰退耕。是年三月旦日疾作。遂升座謂眾曰。山僧既老且病。無力與諸人東語西話。今勉強出來。將從前說不到的。盡情向諸人抖擻去也。遂起身抖衣曰。是多少。便歸方丈。十五日集眾親書遺表遺書數十言。而與客言笑諧謔如平時。至夜書偈曰。來時空索索。去也赤條條。更要問端的。天台有石橋。移頃而逝。停龕二七日。遺表上聞。帝遣中使降香賜弊帛。奉全身塔于圓照。

> 釋師範、字は無準。蜀の梓潼、雍氏の子である。九歳のとき陰平山の道欽和尚に従って出家した。書物を読めば、ひと目見て暗誦できた。南宋の紹熙六年、ようやく行囊を腰に結び、成都の正法寺へ遊学した。堯和尚に坐禅の工夫について質問した。堯は言った。「禅とは何ものか。坐っているのは誰か。」師はこれによって昼夜を徹して体得しようと探究した。ある日、厠に行ったとき、先ほどの問いが思い起こされて、悟りを得た。翌年、広州・浙江方面へ遊学し、育王山で佛照に謁見した。佛照が尋ねた。「どこの者か。」「剣州です。」「剣を持つてきたか。」師はすぐに大喝した。佛照は笑って言った。「この黒頭め、勝手なことをする。」師は貧しくて剃髪の費用がなかったため、人々は彼を「烏頭子」と呼んだ。破庵が靈隱にいたとき、師が侍者として仕えていた。そのとき、ある道者が破庵に尋ねた。「猿が捕まえられません。どうすればよいでしょう。」破庵は言った。「捕まえようとすることが何になる。風が吹いて水が波立つのに、自然に模様ができるようなものだ。」師はこの言葉を聞いて大悟した。やがて月石溪公と共に天台山・雁宕山を訪れた。そのとき、雪峯雲和尚が瑞巖に住していたので、師を留めて座を分かち説法させた。ある夜、偉丈夫の夢を見た。手に茅の束を持ち、師に授けるという夢だった。翌日、明州清凉寺から使者が来て師を迎えた。寺に入り、伽藍神の牌を見ると、茅の姓と記されていた。その衣冠は夢で見た姿と異なるところがなかった。三年住した。焦山に移り、次いで雪竇に移った。また勅命によって阿育王寺の住持となった。長くその地位にあった後、徑山に補された。ほどなく朝廷に召され、大内の修政殿で説法し、その内容が朝廷の意にかなった。金襴の衣を賜り、佛鑑禪師の号を加えられた。師が徑山に住したとき、その堂宇は二度火災に遭ったが、いずれも師が再建した。さらに寺から四十里離れた所に、百の部屋を持つ建物を建て、雲水僧を迎え入れた。匾額に「萬年正續」と記した。次に、その西の数百歩の所に庵を結び、終焉の地とした。またその上に重閣を建て、朝廷から賜った書物や墨跡を納めた。師の先祖は蜀に住んでいたが、戦乱に遭って絶家していた。そこで山中に祠を設け、俗世の祖父を祀った。このことが朝廷に聞こえて、匾額を賜って「圓照」と名付けられた。これは師の孝心を認めたものである。宋の淳祐戊申年、明月池のほとりに堂を建て、「退耕」と掲げた。この年の三月の朔日、病が発した。そこで高座に昇り、僧たちに告げて言った。「山僧はすでに老いて病んでいる。諸君と東語西話する力もない。今、無理に出てきて、以前に説き尽くせなかったことを、すべて諸君の前にさらけ出してしまおう。」そこで立ち上がり、衣をはたいて言った。「これはいくらあるか。」そのまま方丈に帰った。十五日、僧たちを集め、自ら遺表・遺書を数十言記した。そして客と言葉を交わし、笑い戯れて普段のようだった。夜になると、偈を書いた。「来る時は空しく索索たり、去る時も赤条条たり。さらに端的を問わんと要するか、天台に石橋あり。」しばらくして亡くなった。龕を二七日間安置した。遺表が朝廷に届けられ、帝は使者を遣わして香を焚き、布帛を賜った。全身を圓照に塔を建てて葬った。