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title: "大乘法苑義林章 · 6 諸藏相攝"
description: "窥基，唐代高僧，唯识宗实际创始人玄奘的嫡传弟子，撰写了《大乘法苑义林章》。此书创作于佛教鼎盛的唐朝，是唯识宗的重要论著。全书系统阐述唯识教义，分章辨析法相、唯识、三性等核心义理，组织严密，义理精深。它被誉为大乘佛教的教理百科全书，是研究唯识学不可或缺的权威典籍，对汉传佛教思想发展影响深远。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcz6dopr0036l1049i1ljg6t"
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第六諸藏相攝寬狹者。初以諸藏對十二分通相相攝。後以諸藏對十二分別相相攝。初以諸藏對十二分通相相攝者。於中有三。初二藏對。次三藏對。後六藏對。二藏對者。二藏之中皆有十二。瑜伽第二十一。佛為聲聞說十二分。一一具列。又涅槃經中第三卷說。護大乘者受持九部。彼自說九。謂除因緣．譬喻．論議。不說聲聞無此九部。故知聲聞具有十二。不可說言除九餘三名為聲聞。聲聞藏中亦有契經應頌等。故瑜伽二十五說。聲聞藏中無方廣者。無有能得無上果故。說之為無。理實通有。法花經中第一卷說小乘有九。我此九部法隨順眾生。說入大乘為本。以故說是經。彼自說九。謂除記別．自說．方廣。大遮大乘具有十二。故知二藏取互不遮。由此應作四句分別。一大全非小。如法花經。二小全非大。如涅槃經。三二俱不全。合二小分。四二俱全。合二全分。故二藏中皆具十二。三藏對者。既許契經緣起論議通相。皆有十二分教故竝相攝。如前所引教理廣成。於三藏中一一具有十二分故。記別之義既具有三。隨其所應毘奈耶攝。菩薩戒等既名方廣。毘奈耶攝理亦不違。因請因事說諸深理。故因緣經通對法藏。既從如是終至奉行。皆脩多羅。故知三藏皆有十二。六藏對者。既言通相十二互通。故六藏中皆有十二。正法廣陳名為方廣。故通聲聞藏記諸弟子死生之事。通聲聞中毘奈耶故。

> 第六に、諸蔵の相摂の広狭について述べる。まず、諸蔵と十二分教を通相で相摂することを対比し、その後、諸蔵と十二分教を別相で相摂することを対比する。初めに、諸蔵と十二分教を通相で相摂する対比には三つある。まず二蔵の対比、次に三蔵の対比、最後に六蔵の対比である。 二蔵の対比については、二蔵のいずれにも十二分教が含まれる。『瑜伽師地論』第二十一巻では、仏が声聞のために十二分教を説き、一つひとつを列挙している。また、『涅槃経』第三巻には、「大乗を護る者は九部を受持する」とあるが、そこでは九部を挙げており、因縁・譬喩・論議を除くとしている。しかし、声聞にこの九部がないとは説かれていない。したがって、声聞にも十二分教が具わっていると知られる。九部を除いた残りの三つを声聞のものとするのは適切ではない。声聞蔵にも契経・応頌などが含まれるからである。『瑜伽師地論』第二十五巻に、声聞蔵には方広がないと説かれているのは、無上の果を得ることができないから「無し」と説かれたのであり、道理としては通有である。『法華経』第一巻には、小乗に九部があると説かれている。「我がこの九部の法は、衆生に随順して説き、大乗に入ることを本とする。故にこの経を説く」とある。そこでは九部を挙げ、記別・自説・方広を除いている。大乗を遮るものは十二分教を具えているので、二蔵は互いに遮らないことが分かる。これにより四句分別をなすべきである。一、大乗に全てあり小乗に全くないもの、例えば『法華経』。二、小乗に全てあり大乗に全くないもの、例えば『涅槃経』。三、両者ともに完全ではなく、二つの小分を合わせたもの。四、両者ともに完全で、二つの全分を合わせたもの。したがって、二蔵のいずれにも十二分教が具わっている。 三蔵の対比については、契経・縁起・論議が通相として十二分教を具えていると認められるので、互いに相摂する。前に引用した教理によって広く成立している。三蔵のそれぞれに十二分教が具わっているからである。記別の義には三つが具わっており、それに応じて毘奈耶に摂される。菩薩戒などは方広と名づけられ、毘奈耶に摂されるのも道理に違わない。請いに因り、事に因って深い道理を説くので、因縁経は対法蔵に通じる。「かくの如し」から始まり「奉行す」に至るまで、すべて修多羅であるから、三蔵にはすべて十二分教があると知られる。 六蔵の対比については、通相として十二分教が互いに通じると言われるので、六蔵のいずれにも十二分教がある。正法を広く述べるのを方広と名づけるので、声聞蔵に通じ、諸弟子の死生の事を記すのは、声聞中の毘奈耶に通じる。

已上總說通相相攝。後以諸藏對十二分別相相攝者。於中亦三。初以二對。次以三對。後以六對。以二對者。涅槃第三說。大乘有九。唯無因緣．譬喻．論議。小乘具十二。經文不遮故言具有。瑜伽二十一言具有十二。法花經說小乘有九。謂除記別．自說．方廣。大乘有十二。瑜伽論中第三十八說。方廣分唯菩薩藏。所餘諸分有聲聞藏。此說大乘具有十二。小乘有十一。唯除方廣。又瑜伽論八十五說。十二分中除方廣分。餘名聲聞乘相應契經。即方廣分獨名大乘相應契經。此說小乘有十一。大乘唯方廣。四文不同各有別意。此中皆依別相門故。且涅槃經中。依因犯制戒說為因緣。諸大菩薩本來無犯。不因制戒說無因緣。非無因請因事說法因緣經也。夫說喻況開中下根。諸大菩薩多分利根不須譬瑜。聞法便解。說無譬喻理非無也。諸大乘經現見。大有說喻者故。又大菩薩性皆利根舉宗便解。不假徵詰方生慧心說無論議。理實非無。解深密經．瑜伽論等是大乘故。明論議經通大乘。有問既說菩薩由利根故不假論議。應無應頌不假重說故。答為益後來故須重頌。非前菩薩假重頌言。涅槃一往依此別義。說大乘中無此三分。其實具有。又護法者誦三藏中。多分唯誦素呾纜藏不誦餘二。故但說九略無餘三。餘三即是二藏攝故。理實大乘非無十二。諸聖教中皆說大乘有此三故。又法花經中。依授弟子得成佛記名為記別。說聲聞無彼不求於大菩提故。猶如以寶示其愚人愚人便咲。聲聞聞記亦復如是。故說為無。記諸弟子死生事等理實亦有。又聲聞人多聞淺法。若不待請憍慢便生。說無自說其實亦有。又聲聞法但證小果。不得無上正等菩提。理非至極行不包弘說無方廣。其實亦有。正法廣陳云方廣也。又法花一會宗說一乘。為引一切不定聲聞趣佛果故。彼類已前未聞記彼得成於佛。今迴心已方乃得聞。故說聲聞略無記別。初方便品顯法深妙。欲令聲聞起尊重意。無問不說三請方說。故說聲聞略無自說。恐聲聞等於先所聞四諦等法生無上意。今顯彼非無上大法。無上大法唯大乘是故說聲聞略無方廣。法花一往化不定人。依一義中說聲聞人唯有其九。實可具有。瑜伽論第三十八中。同法花經。亦依小乘理教非勝不得菩提。名無方廣有十一部。小乘經中亦記弟子死生之事。分明顯示諸法密意亦有記別。小乘經中亦顯佛慈悲所有法相。不待請問而便自說。如初轉法輪故有自說。不同法華略無此二。說大乘中有十二者。大乘經中亦有因請因事說法。故有因緣。又勝鬘經云。毘尼者即大乘學。故有因緣。顯法深難亦有況說。故有譬喻。法相幽邃往復方明。故有論議。故說大乘具有十二。又瑜伽論八十五文同三十八。然以十一分既為聲聞藏。對此但說方廣一分為菩薩藏。其實菩薩具十二分。又八十五所說方廣。通相方廣攝十二故。更不假說餘十一分名菩薩藏。聲聞藏中八十五說。若通若別俱無方廣。故須除之。此即四文不同意也。

> 以上は、総じて通相による相摂を述べました。次に、諸蔵を十二分に分けてそれぞれの相摂関係を説明します。これには三つの段階があります。まず二つに分けて対比し、次に三つに分けて対比し、最後に六つに分けて対比します。 二つに分けて対比する場合、『涅槃経』第三巻には、大乗には九分しかなく、因縁・譬喩・論議の三分がないと説かれています。小乗には十二分すべてが具わっているとされますが、経文に明記されていないため「具わっている」と表現されています。『瑜伽師地論』第二十一巻では、十二分すべてが具わっていると説かれています。『法華経』では、小乗には九分しかなく、記別・自説・方広の三分を除くと説かれています。大乗には十二分すべてが具わっているとされます。『瑜伽論』第三十八巻では、方広分のみが菩薩蔵に属し、その他の分は声聞蔵に属すると説かれています。これによれば、大乗には十二分すべてが具わり、小乗には十一分があり、方広分だけが欠けていることになります。また、『瑜伽論』第八十五巻では、十二分の中から方広分を除いたものを声聞乗相応の契経とし、方広分のみを大乗相応の契経としています。これによれば、小乗には十一分があり、大乗には方広分だけがあることになります。 四つの経論で説き方が異なるのは、それぞれに別の意図があるからです。ここではすべて別相の立場に基づいて説明しています。 まず、『涅槃経』では、犯した罪に基づいて戒律を制定することを因縁としています。諸大菩薩は本来罪を犯さないため、戒律制定の因縁がなく、因縁分がないと説かれています。ただし、請願や事柄に基づいて説法する因縁経がないわけではありません。譬喩は中下の根性を開くために説かれますが、諸大菩薩は多くが利根であるため、譬喩を必要とせず、法を聞けばすぐに理解します。そのため、譬喩がないと説かれていますが、実際には大乗経典にも譬喩を説くものは多くあります。また、大菩薩は皆利根であり、宗旨を挙げればすぐに理解するため、問答を重ねて智慧を生じさせる必要がなく、論議分がないと説かれています。しかし、実際には『解深密経』や『瑜伽論』など大乗の経論にも論議分はあります。問いがあれば、菩薩は利根であるため論議を必要としないと言われるかもしれませんが、応頌（重ねて説くこと）も必要としないはずです。しかし、後の人々を利益するために重頌が必要とされるのであり、前の菩薩が重頌を必要としたわけではありません。『涅槃経』は一応この別義に基づいて、大乗にはこの三分がないと説いていますが、実際には具わっています。また、護法者が三蔵を誦する際、多くは素呾纜蔵のみを誦し、他の二蔵を誦しないため、九分だけを説き、残りの三分を略しているのです。残りの三分は他の二蔵に含まれるからです。実際には大乗にも十二分は具わっており、諸聖教には大乗にもこの三分があると説かれています。 次に、『法華経』では、弟子に授記して成仏を記別することを記別としています。声聞には大菩提を求めないため、記別がないと説かれています。例えば、宝を愚人に見せれば愚人は笑うように、声聞が授記を聞いても同様であるため、ないと説かれています。しかし、弟子の死生などを記す記別は実際にもあります。また、声聞は浅い法を多く聞くため、請願を待たずに説法すれば慢心が生じるため、自説分がないと説かれていますが、実際にはあります。さらに、声聞の法は小果を証するだけで、無上正等菩提を得られないため、究極の理ではなく、行が広大でないため、方広分がないと説かれています。しかし、実際には正法を広く説く方広分もあります。『法華経』の一つの会座では一乗を説き、すべての不定声聞を仏果に導くことを目的としています。彼らは以前には授記を受けて成仏することを聞かず、今、心を転じて初めて聞くため、声聞には記別がないと説かれています。初めの方便品では法の深妙を顕わし、声聞に尊重の念を起こさせるため、問いがなくても説かず、三度請われて初めて説きます。そのため、声聞には自説分がないと説かれています。また、声聞などが以前に聞いた四諦などの法を無上と思い込むのを防ぐため、それらが無上の大法ではなく、無上の大法は大乗だけであることを示すため、声聞には方広分がないと説かれています。『法華経』は一応不定の衆生を教化するため、一つの義に基づいて声聞には九分しかないと説いていますが、実際にはすべて具わっています。 『瑜伽論』第三十八巻では、『法華経』と同様に、小乗の理教が勝れず、菩提を得られないため、方広分がなく十一部しかないと説いています。小乗経典にも弟子の死生を記す記別や、諸法の密意を明らかにする記別があります。また、小乗経典にも仏の慈悲による法相を、請願を待たずに自説するものがあります。例えば、初転法輪のように自説分があります。『法華経』のようにこの二分を略しているわけではありません。大乗には十二分すべてがあると説くのは、大乗経典にも請願や事柄に基づいて説法する因縁分があり、『勝鬘経』には「毘尼は即ち大乗の学である」と説かれているため、因縁分があります。また、法の深難を顕わすために譬喩を説くため、譬喩分があります。法相が幽邃であるため、往復して明らかにする論議分もあります。そのため、大乗には十二分すべてが具わっていると説かれています。 また、『瑜伽論』第八十五巻の文は第三十八巻と同様ですが、十一分を声聞蔵とし、それに対し方広分のみを菩薩蔵と説いています。実際には菩薩にも十二分すべてが具わっています。さらに、第八十五巻で説かれる方広は、通相の方広であり、十二分すべてを含むため、他の十一分を改めて菩薩蔵と名づける必要はありません。声聞蔵では、第八十五巻によれば、通相でも別相でも方広分はなく、除かれなければなりません。これが四つの経論で説き方が異なる理由です。

上來第一二藏對訖。以三對者。三有二種。一普曜經中三。謂獨覺等三。二素呾纜等三。獨覺之教無別部類。不可別說有此十二教之差別。但同聲聞。聲聞．菩薩前二藏中已具釋訖。顯揚第六．瑜伽論第二十五說。十二分中契經．應頌．記別．諷頌．自說．譬喻．本事．本生．方廣．希法。是為素呾纜藏。所說因緣是為毘奈耶藏。所說論議是為阿毘達磨藏。此說十部是素呾纜。唯說一部是毘奈耶。唯說一部是對法藏。素呾纜中雖具十二。因事制戒正毘奈耶。論難甚深亦唯對法。略此二部非素呾纜。素呾纜中非無此二。譬喻．本事．本生三種。理實亦通毘奈耶攝。對法說為毘奈耶藏。律中多說譬喻等故。是眷屬攝。自性即非。顯揚等論。依自性非毘奈耶攝。故說彼三是素呾纜。對法依眷屬說是毘奈耶。各望一邊不相違也。

> 先に、第一と第二の蔵（経蔵と律蔵）についての対応を述べました。次に、第三の蔵（論蔵）について対応させます。 「三」には二種類あります。 一つは『普曜経』の中の三つで、独覚（縁覚）などの三つを指します。 もう一つは「素呾纜（経蔵）」などの三つです。 独覚の教えには別の部類がなく、これら十二部経の区別を別々に説くことはできません。ただ声聞と同じです。 声聞と菩薩については、前の二蔵の中で既に詳しく説明しました。 『顕揚聖教論』第六巻と『瑜伽師地論』第二十五巻には、次のように説かれています。 十二分教のうち、 契経・応頌・記別・諷頌・自説・譬喻・本事・本生・方広・希法 これらは「素呾纜蔵（経蔵）」に属します。 「因縁」と説かれるものは「毘奈耶蔵（律蔵）」に属します。 「論議」と説かれるものは「阿毘達磨蔵（論蔵）」に属します。 これは、十部が経蔵であり、ただ一部が律蔵であり、ただ一部が論蔵であると説いているのです。 経蔵の中には十二分教が全て含まれていますが、事柄に応じて戒律を定めることが正しく律蔵の役割であり、論難が甚深なものはまさに論蔵にのみ属します。 この二部（律蔵と論蔵）を経蔵から区別するのは、経蔵の中にこの二つが全くないからではありません。 譬喻・本事・本生の三つは、道理から見れば実際には律蔵にも通じるものであり、『対法（論蔵）』ではこれらを律蔵に属すると説いています。 律蔵の中には譬喻などが多く説かれているからです。 これは眷属（付随的なもの）として含まれるのであって、自性（本質）としては律蔵ではありません。 『顕揚論』などは、自性の観点から見て律蔵に属さないとし、それゆえにこの三つは経蔵であると説いています。 『対法（論蔵）』は眷属の観点から見て律蔵であると説いているのです。 それぞれが一つの側面に立って説いているのであって、矛盾はありません。

上來總是三藏對也。以六對者。對法論中第十一說。契經．應頌．記別．諷誦．自說．聲聞藏中素呾纜攝。緣起．譬喻．本事．本生。此二藏中毘奈耶藏并眷屬攝。因緣一種正毘奈耶。譬喻等三是彼眷屬。方廣．希法菩薩藏中素呾纜攝。方廣廣博正菩薩藏。希法難思亦菩薩藏。論議一種。通二藏中阿毘達磨藏攝。此中意說。十二分教於六藏中。五唯聲聞素呾纜攝。四通二藏毘奈耶攝。二唯菩薩素呾纜攝。一通二藏阿毘達磨。依此聲聞但有十種。菩薩藏內唯有其七。據實初五亦通菩薩素呾纜攝。以聲聞中略無方廣。但說彼五以為聲聞素呾纜攝。非菩薩中無有彼五。三十八云。十二皆通菩薩藏故。緣起等四亦非二藏中素呾纜不攝。以說自性及助伴為毘奈耶故。略不說為二素呾纜。但說因犯而制於戒名為因緣。因緣自性毘奈耶攝。眷屬隨之亦彼藏攝。涅槃經說始從如是終至奉行皆脩多羅經故。二十五說十部名為素呾纜故。譬喻等三亦素呾纜。因請因事而說於法名曰因緣。故亦說為素呾纜也。此三相從亦毘奈耶攝。又非聲聞藏素呾纜中亦無方廣．希法。涅槃不遮十二皆通聲聞有故。正法廣陳義亦通故。又說十一為聲聞藏。故知希法亦通聲聞素呾纜也。今以理極能得菩提名為方廣。唯說諸佛菩薩大威神名為希法故。說聲聞素呾纜中無此二分。理實皆有如前已說。又無方廣諸文共同。無希法者眷屬所攝。唯菩薩藏其實通也。論議多分唯是對法。或約弟子所造論等名為論議。故唯攝在阿毘達磨。理實亦通二素呾纜。以菩薩聲聞素呾纜藏對餘聊簡。初文且舉一邊之義。又以二藏各毘奈耶．阿毘達磨。互對十二部義皆通有。若隨別義相對聊簡義准應知。恐文煩廣故略不述。涅槃經云。從十二部出脩多羅。從脩多羅流出方廣。此以別中流出於總。始從如是終乃至奉行皆脩多羅。故從十二分出脩多羅也。又從總中流出於總。方廣亦具有十二分故。從脩多羅流出方廣。又有釋云。初從別出總。後從總出別。欲顯總別互流出也。今准諸文。別相正說應云。方廣唯是菩薩素呾纜攝。論議通是菩薩．聲聞阿毘達磨。因緣亦通聲聞．菩薩毘奈耶攝。契經．應頌．記別．諷誦．自說．希法。此之六種亦通聲聞．菩薩藏中素呾纜攝。譬喻．本事．本生三種。通是聲聞及菩薩藏。素呾纜及毘奈耶二藏所攝。對法所說據其別義。非違理文。此據多分。或方廣分亦通二種。如是所說不違諸教。若約通門相對攝者。以藏分部成三十六。以部分藏亦三十六。若以別相相攝為門。以藏分部等隨應廣說。由此三藏對十二分中脩多羅等。互有寬狹。四句分別。有三藏中脩多羅非十二中脩多羅。謂應頌等脩多羅藏。十二分中約別相故。有十二分中修多羅非三藏中脩多羅藏。謂通相脩多羅因緣．論議等。有二俱是。謂別相脩多羅入藏中故。有二俱非者。謂十二中別相緣起等。三藏中別毘奈耶等。或外道典籍。其餘藏中互為句者名既差別。唯體有寬狹亦可為之。准義應知。上來所辨相攝之義合。是第六十二分教相攝寬狹。

> 以上は、三蔵（経蔵・律蔵・論蔵）と十二部経（十二分教）の対応関係についての総括です。この「六対」の説は、『対法論』第十一に説かれています。 具体的には、 ・契経・応頌・記別・諷誦・自説の五つは、声聞蔵の中の「素怛纜（経蔵）」に含まれます。 ・縁起・譬喩・本事・本生の四つは、二蔵（声聞蔵・菩薩蔵）の中の「毘奈耶（律蔵）」とその眷属に含まれます。このうち、因縁は正しく毘奈耶蔵に、譬喩など三つはその眷属に属します。 ・方広・希法の二つは、菩薩蔵の中の「素怛纜（経蔵）」に含まれます。方広は広大な菩薩蔵そのもの、希法は理解しがたい菩薩蔵です。 ・論議の一つは、二蔵に通じる「阿毘達磨（論蔵）」に含まれます。 ここでの趣旨は、十二分教が六蔵（声聞・菩薩の各三蔵）の中でどのように分類されるかを示すものです。 ・五つ（契経など）は声聞の素怛纜のみに含まれる。 ・四つ（縁起など）は二蔵の毘奈耶に含まれる。 ・二つ（方広・希法）は菩薩の素怛纜のみに含まれる。 ・一つ（論議）は二蔵の阿毘達磨に含まれる。 これに基づけば、声聞蔵には十種類、菩薩蔵には七種類があることになります。 しかし実際には、最初の五つ（契経など）も菩薩の素怛纜に通じます。声聞蔵の方では方広を略しているため、その五つを声聞の素怛纜に含むと説いているのであって、菩薩蔵にそれらがないわけではありません。『三十八』にも、十二分教はすべて菩薩蔵に通じると説かれています。 また、縁起などの四つも、二蔵の素怛纜に含まれないわけではありません。自性と助伴を説くことを毘奈耶とするため、二つの素怛纜としては略して説いていないのです。因縁については、罪を犯したことを縁として戒を制定したことを説くので、その自性は毘奈耶に含まれ、眷属もそれに従って同じ蔵に含まれます。 『涅槃経』には、「如是」から始まり「奉行」で終わるまで、すべてが脩多羅（経）であると説かれています。『二十五』にも、十部を素怛纜と名づけるとあります。譬喩などの三つも素怛纜です。請いや事柄に因って法を説くことを因縁といい、これも素怛纜とされます。この三つは互いに従って毘奈耶にも含まれます。 また、声聞蔵の素怛纜の中にも、方広や希法がないわけではありません。『涅槃経』は十二分教がすべて声聞にも通じることを否定していませんし、正法を広く述べるという意味でも通じます。また、十一を声聞蔵と説く経典もあるので、希法も声聞の素怛纜に通じるとわかります。 今、理の極致を得て菩提に至ることを説くのを方広とし、諸仏菩薩の大いなる威神力のみを説くのを希法とする立場から、声聞の素怛纜にはこの二つはないと説いているのです。理としては実際にどちらもあることは、前に述べた通りです。 また、方広がないという点は諸文に共通していますが、希法がないというのは眷属に含まれるということであり、実際には菩薩蔵のみならず通じています。 論議は多くは対法（阿毘達磨）に属します。あるいは弟子の造った論などを論議とすることもあり、それゆえ阿毘達磨にのみ含まれるとされます。理としては、これも二つの素怛纜（声聞・菩薩）に通じます。 菩薩と声聞の素怛纜蔵を他の蔵と比較対照する際、最初の文では一辺の義を挙げています。また、二蔵それぞれに毘奈耶と阿毘達磨があり、互いに十二部の義に対応するならば、すべて通じていることになります。別の義に従って比較対照するならば、その趣旨に応じて理解すべきです。文が煩雑になるのを恐れ、ここでは詳述しません。 『涅槃経』に云く、「十二部より脩多羅出で、脩多羅より方広流れ出づ」。これは、別（十二部）から総（脩多羅）が流れ出るということです。「如是」から始まり「奉行」に至るまで皆、脩多羅であるがゆえに、十二部から脩多羅が出るのです。 また、総（脩多羅）から総（方広）が流れ出るということもあります。方広もまた十二分を具えているからです。それゆえ、脩多羅から方広が流れ出るのです。 また、別の解釈では、最初は別から総が出、後には総から別が出るとし、総と別が互いに流出することを顕わそうとしています。 今、諸文に準じて考えると、別相（個別の相）として正しく説くならば、次のようになります。 ・方広は、菩薩の素怛纜にのみ含まれる。 ・論議は、菩薩・声聞の阿毘達磨に通じて含まれる。 ・因縁は、声聞・菩薩の毘奈耶に通じて含まれる。 ・契経・応頌・記別・諷誦・自説・希法の六つは、声聞・菩薩蔵の素怛纜に通じて含まれる。 ・譬喩・本事・本生の三つは、声聞及び菩薩蔵の、素怛纜と毘奈耶の二蔵に含まれる。 『対法論』の説くところは、その別義に基づくものであり、理に背く文ではありません。これは多くに基づく説であり、あるいは方広の分も二種（声聞・菩薩）に通じるともいえます。このように説いても、諸教に背くことはありません。 もし通門（通じる立場）に立って相互に含む関係を論じるならば、蔵によって部を分ければ三十六通りになり、部によって蔵を分けても三十六通りになります。もし別相をもって相互に含む関係を論じる門とすれば、蔵によって部を分けるなど、応じて広く説くべきです。 これによって、三蔵と十二分教の中の脩多羅などは、互いに広狭があります。四句分別すると、 1. 三蔵の中の脩多羅であって、十二分中の脩多羅ではないもの：応頌など、脩多羅蔵に含まれるもの。十二分中では別相によるから。 2. 十二分中の脩多羅であって、三蔵中の脩多羅蔵ではないもの：通相の脩多羅、すなわち因縁・論議など。 3. 両方ともに当てはまるもの：別相の脩多羅が蔵中に入っているもの。 4. 両方ともに当てはまらないもの：十二分中の別相の縁起など、三蔵中の別の毘奈耶など、あるいは外道の典籍。 その他の蔵について互いに句をなすものは、名が異なるだけで、ただ体に広狭があるということもできます。その趣旨に準じて理解すべきです。 以上、相摂の義を弁じたものは、第六の「十二分教の相摂の広狭」に合致します。