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title: "大乘法苑義林章 · 10 問答分別"
description: "窥基，唐代高僧，唯识宗实际创始人玄奘的嫡传弟子，撰写了《大乘法苑义林章》。此书创作于佛教鼎盛的唐朝，是唯识宗的重要论著。全书系统阐述唯识教义，分章辨析法相、唯识、三性等核心义理，组织严密，义理精深。它被誉为大乘佛教的教理百科全书，是研究唯识学不可或缺的权威典籍，对汉传佛教思想发展影响深远。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcz6dopr003il1042r7cnu6b"
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第十問答分別者。問此斷煩惱三世之中於何說斷。答薩婆多等所說不同。今依大乘。瑜伽第五十八云。非斷去來今。然說斷三世非過去。有隨眠心任運滅故。性已無何所斷。未來性未生。體現無何所斷。現在有隨眠心。此剎那後性必不住。更何所斷。又有隨眠．離隨眠心二不和合。是故現在亦非所斷。然從他言音．內正作意二因緣故。正見相應隨所治惑能治心生。諸有隨眠所治心滅。此心生時彼心滅時平等平等。對治生滅道理應知。正見相應能對治心。於現在世無有隨眠。於過去世亦無隨眠。此剎那後離隨眠心。在未來世亦無隨眠。從此已後於已轉依。以斷隨眠身相續中所有。後得世間所攝善無記心。去來今位皆離隨眠。是故三世皆得說斷。問所斷煩惱有退不退。答依薩婆多。見道速疾道斷已永不退。其無學道住不動者不退。退種性者。退法．思法．護法．住法。必勝進本性不退。退法進成者退。大眾部等。退預流果非阿羅漢。阿羅漢見修二道極堅牢故。見道不然故退。今大乘聖道斷隨眠必不退。伏者有退義。涅槃經言。若世俗道而斷煩惱。以還起故說名無常。瑜伽亦然。退等種姓依定障建立。非退果。然菩薩等。以無漏道所伏。亦不退自在故。如舍利弗至十信第六心猶退。以退起煩惱先有漏伏故。問云何名斷。若是現行久已自滅。若種子者道不可俱。云何名斷。答五十八云。但斷隨眠。以煩惱纏先已捨故。斷隨眠故說名為斷。何以故。雖纏已斷。未斷隨眠。諸煩惱纏數復現起。若隨眠斷。纏與隨眠畢竟不起。亦名斷纏。此說聖道正斷隨眠。若伏斷者折種子力令不生現。名伏現行。隨眠雖復與道不俱。然如。問前義說之為斷三心真見道法觀既細。必兼生觀即斷生執。何故生執即三心斷。法唯二心。應細三心麁二心故。答法觀雖細必帶生觀。第二剎那不斷生執。如十地中斷惑法觀。習氣可斷種不可除。不障此道故。加行之心不欣斷故。竝二品斷。不爾違論。問為總緣作意能斷煩惱。為別緣作意能斷煩惱。答佛地論中釋自共相略有三說。有義。二量在散心位。不說定位。定位緣一切皆現量攝。此師雖言定心緣一切。不說斷惑定總別相。然准義知。唯共相斷。定心通緣自共故。第二師云。定心唯緣自相。然由共相方便所引說緣共相。所顯理者就方便說。名知共相。不如是者名知自相。由此道理。或說真如。名空無我諸法共相。或說真如二空所顯非是共相。此師意說。就方便說可名共相。說觀中證可名自相。即顯斷惑唯自相觀非共相也。第三師云。如實義者。彼因明論立自共相與此少異。彼說一切法上實義皆名自相。以諸法上自相．共相。各附已體不共他故。若分別心。立一種類能詮所詮通在諸法。如縷貫花名為共相。此要散心分別假立是比量境。一切定心離此分別皆名現量。雖緣諸法苦無常等。亦一一法各別有故名為自相。真如雖是共相所顯。以是諸法自實性故。自有相故亦非共相。不可以其與一切法不一不異即名共相。自相亦與一切共相不一異故。此義意言。總為無我共相所顯。一一別證體是自相。即可通為二觀能斷。能顯是共相。詮為唯識無我等故。據法竝自相。一一法真理皆能了知故。緣起經下卷言。真諦聖智於真智境非安立義。總相緣故名頓現觀。一剎那中由加行引。能普遍知名總相緣。非一一法真如妙理而不別知名為總相。佛地自會故不相違。問此諸煩惱從何說斷。答從彼相應及所緣故煩惱可斷。所以者何。對治道生。煩惱不起。得無生法。是故說名斷彼相應。由本識中煩惱種子皆悉斷盡。心等起時無煩惱俱名相應斷。相應斷已不復緣境。故從所緣亦說名斷。無能繫心縛所緣故。此文依斷煩惱障說。菩薩斷者。由修止觀能斷煩惱。由修此二觀於無相。故諸相縛皆得解脫。相縛脫故諸麁重縛亦得解脫。故世尊言。相縛縛眾生。亦由麁重縛。善雙修止觀。方乃俱解脫。問云何次第斷諸煩惱。答謂在家者。最初應斷不善事業及諸惡見。次後應斷樂出家障。謂欲．恚．害三種尋思。次後應斷不定心者三摩地障。謂即眷屬．國土．不死三種尋思。次斷得作意障。謂樂遠離品身諸麁重。次斷見道煩惱。次斷修道煩惱。次斷屬苦．屬憂．屬樂．屬喜．屬捨諸定障品障礙煩惱。次後別有應斷所知障品諸障。由前次第應斷二障。問見道修道名正斷道。何頓何漸。答見道章中當廣顯示。

> 第十の問答は分別についてである。問う、この煩悩を断ずることは、過去・現在・未来の三つの時間のうち、いつの時点で「断つ」と言うのか。答える、サルヴァースティヴァーディン（説一切有部）などの説は異なっている。今は大乗に依れば、『瑜伽師地論』第五十八にこうある。「過去を断つのでもなく、未来を断つのでもなく、現在を断つのでもない。しかし、三世に対して断つと言われる。過去の心はすでに滅しているので、断つべきものはない。未来の心は未だ生じておらず、その体は現にないので、これも断つべきものはない。現在の心には煩悩の潜在力（随眠）が伴っているが、この一刹那の後にはその性質は必ずとどまらない。さらに何を断つというのか。また、煩悩を伴う心と煩悩を離れた心とは、二つが和合することはない。そのため、現在の心もまた断たれるべきものではない。」しかしながら、他人の言葉による教えと、自己の内なる正しい思惟（内正作意）という二つの因縁によって、正しい見解（正見）と相応した、対治されるべき煩悩に対応する能治の心が生じる。諸々の煩悩を伴う対治されるべき心は滅する。この能治の心が生じる時と、対治される心が滅する時とは、平等である。対治が生じ、滅する道理は、このように知るべきである。正しい見解と相応した能対治の心は、現在世において煩悩を伴わず、過去世においても煩悩を伴わず、この一刹那の後に、煩悩を離れた心は、未来世においても煩悩を伴わない。これ以降、すでに転依（心身の根本的転換）を得た者の、煩悩を断ち切った身体の相続において生じる、後に得られる世間的な善心や無記心は、過去・未来・現在のいずれの立場にあっても煩悩を離れている。それゆえ、三世すべてにおいて「断たれた」と言えるのである。 問う、断たれるべき煩悩には、退転するものと退転しないものがあるのか。答える、サルヴァースティヴァーディンの説に依れば、見道（真理を直観する段階）の速やかな道によって断たれたものは、決して退転しない。また、無学道（学ぶべきことのない阿羅漢の境地）の中で不動の境地に住する者は退転しない。退転する性質の者とは、退法（努力せずとも退転しやすい性質）、思法（退転を恐れて自ら死を選ぶ性質）、護法（退転しないよう心を護る性質）、住法（努力して現状を保つ性質）の種姓である。必ずしも向上を目指す本来的な種姓（必勝進・本性）は退転しないが、退法から進んで成就した者は退転しうる。マハーサンギカ（大衆部）などは、預流果（初果）からは退転することはあっても、阿羅漢からは退転しないと言う。阿羅漢は見道と修道の二つの道が極めて堅固であるからであるが、見道はそうではないから退転するとする。今、大乗の聖なる道によって断たれた煩悩の潜在力（随眠）は必ず退転しない。しかし、煩悩を抑えつけているだけ（伏）の場合は、退転する可能性がある。『涅槃経』に言う、「もし世俗の道によって煩悩を断とうとするならば、再び生じるから無常であると言う」と。『瑜伽師地論』も同様である。退転などの種姓は、禅定の障害（定障）に基づいて成立するものであり、果からの退転ではない。しかし菩薩などは、無漏の道によって抑えられた煩悩も、自在であるがゆえに退転しない。例えば舎利弗が、十信の第六心に至ってもなお退転したように、それは煩悩が先に有漏の修行によって抑えられていたからである。 問う、どのようにして「断つ」と言うのか。もし現行の煩悩であれば、とっくに自然に滅している。もし煩悩の種子であれば、道（悟りの智慧）と同じ瞬間に同時に存在することはできない（道と俱にはならない）。それでは、何を「断つ」と言うのか。答える、『瑜伽師地論』第五十八に言う、「ただ煩悩の潜在力（随眠）を断つのである。煩悩の表面化した働き（纏）は、すでに捨てられているからである。随眠を断つから『断った』と言うのである。なぜなら、たとえ表面化した働き（纏）を断っていても、随眠を断っていなければ、諸々の煩悩の纏は繰り返し現れ出るからである。もし随眠を断てば、纏も随眠も最終的に生じることがなく、このことを纏を断ったとも言うのである」と。これは、聖なる道が正しく随眠を断つことを説く。もし抑えつけて断つ（伏断）のであれば、種子の力を押し曲げて現行を生じさせなくすることを、現行を抑えつけると言う。随眠は道と同時に存在することはないが、前の問いの意味するところに従って、断つと言うのである。 三つの心で真の見道を成就する場合、法（現象の理法）の観察は微細であるので、必ず同時に生の観察も伴い、生の執着（人我執）も断つはずである。なぜ生の執着は三つの心で断たれ、法の執着（法我執）は二つの心でしか断たれないのか。法の観察は微細であるが、一方で生の観察は粗いから、逆になるのではないか。答える、法の観察は微細であるけれども、必ず生の観察を伴う。しかし、真見道の第二刹那（第二心）では生の執着を断たないのである。これは十地における煩悩断除の法観においても同様で、習気（癖のような残り香）は断つことができるが、種（種子）は取り除くことができない。なぜなら、その種子はこの修道の妨げとはならず、また修行者の加行（準備的な努力）の心が、それを断つことを積極的に望まないからである。このように、二つの品（粗い煩悩と細かい煩悩）に分けて断じられるのである。そうでなければ、論書に矛盾する。 問う、総合的な対象把握（総縁作意）が煩悩を断つのだろうか、それとも個別的な対象把握（別縁作意）が煩惱を断つのだろうか。答える、『仏地経論』の中で、自相と共相についての解釈にはおよそ三つの説がある。ある論師は言う、「現量（直接知覚）と比量（推理知識）の二つの認識手段は、散乱した心（散心）の位についてのものであり、禅定の位（定位）については説いていない。定位はあらゆるものを認識するが、すべて現量に含まれる」と。この師は、定心がすべてを縁じるとは言うが、煩悩を断つのが必ず総相であるのか別相であるのかを明確には説いていない。しかし、その意味から推測するに、煩悩を断つののはただ共相（共通する性質の認識）のみであると解される。なぜなら、定心は自相と共相の両方を縁じるからである。第二の師は言う、「定心はただ自相のみを縁じる。しかし、共通の概念（共相）を手段として（方便として）導かれて、共相を縁ずると言われるのだ。よって、対象に現れた道理を共相として認識すると言うのは、方便の側面からの説明である。これを『共相を知る』と言う。そうでないものは『自相を知る』と言う」と。この道理から、真如（あるがままの真理）を、空や無我という諸法の共相と呼ぶこともあれば、真如は空と無我の二つによって顕されるのであって共相ではないと言うこともある。この師の意図するところは、方便の面から言えば共相と呼べるが、観察の中で証得されるものとしては自相と呼ぶべきである、ということだ。これはつまり、煩悩を断つのが自相の観察であって、共相の観察ではないことを示している。第三の師は言う、「真実の意味はこうである。因明の論書が立てる自相と共相の定義はこれと少し異なる。そちらでは、あらゆる法の上にある真実の意味をすべて自相と名付ける。なぜなら、諸法の上にある自相と共相は、それぞれが自己の体に付着して他と共有しないからである。もし分別する心が、一つの種類としての能詮（言葉）や所詮（意味）を、諸法に共通して立てるなら、それは花を糸で貫くようなものであって、これを共相と名付ける。これは散心の分別によって仮に立てられるもので、比量の対象である。一切の定心はこのような分別を離れて、すべて現量と名付けられる。定心が諸法の上で苦や無常などを縁じるとしても、それらは法ごとに個別に存在するから、自相と名付けられる。真如は共相によって顕されるけれども、諸法それぞれの真実の本性（自実性）であるから、それ自体の相（自相）を持つのであって共相ではない。それを、一切の法と一でもなく異でもないという理由で共相と呼ぶことはできない。なぜなら、自相もまた一切の共相と一でも異でもないからである」と。この意味によれば、総体的な無我が共相として顕されることであり、それを一つ一つ個別に証得するその体は自相である。したがって、総観（総縁）と別観（別縁）の両方が煩悩を断ちうると言える。顕す働きをするもの（能顕）は共相であり、唯識や無我等と説かれるからである。しかし法としてはすべて自相であり、一つ一つの法の真理がことごとく了知されるのである。『縁起経』下巻に言う、「真諦（究極の真理）に関する聖なる智慧は、真の智慧の対象である非安立の境地において、総体としての相を捉える（総相縁）から頓現観（一瞬の悟り）と名付けられる。一刹那のうちに、加行によって導かれて、普遍的に遍く知ることができるから、総相を縁ずると言うのである。一つ一つの法の真如の妙理を個別に知らないわけではないが、これを総相と名付けるのである」と。『仏地経論』自身がこの点を解きほぐしているので、矛盾はない。 問う、これらの諸煩悩は、何に基づいて断たれると言うのか。答える、相応（心と心所が結びつくこと）と所縁（認識対象）という二つの面から、煩悩は断たれると言える。なぜなら、対治の道が生じれば煩悩は生じず、無生の法（不生の智慧）を得るからである。これによって、その相応を断つと言う。また、根本識（アーラヤ識）の中の煩悩の種子がすべて断たれ尽くせば、心などが生じる時にも煩悩を伴わないので、相応が断たれたと言う。相応が断たれれば、もはや対象（境）に縁じることもないので、所縁の面からも断たれたと言う。なぜなら、心を縛って対象に結びつける力量（能繋の心）が無くなったからである。この文章は、煩悩障（煩悩そのものの障害）を断つ場合について述べている。菩薩が煩悩を断つ場合は、止（サマタ）と観（ヴィパッシャナー）の修習によって煩悩を断つ。これら二つの修習により、無相（とらわれのない境地）において観ずるので、すべての相に縛られること（相縛）から解脱する。相縛が解脱すれば、すべての粗重（潜在的な煩悩の重さの束縛）の束縛（粗重縛）もまた解脱する。それゆえ、世尊は「相の束縛が衆生を縛り、また粗重の束縛もそうである。止と観をしっかりと両方修めて、初めて共に解脱する」と説かれたのである。 問う、どのような順序で諸々の煩悩を断つのだろうか。答える、在家の者であれば、最初に不善の事業や様々な悪い見解を断つべきである。次に、出家を喜ばなくさせる障害を断つべきである。すなわち、欲望、怒り、害意の三つの心の動き（尋思）である。次に、心を定まらせない者の、三昧（正定）の障害を断つべきである。すなわち、家族や知人、国土、不死（長生き）に関する三つの心の動きである。次に、作意（心を集中させる働き）