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title: "法華文句記 · 釋藥王品"
description: "法華文句記由唐代高僧湛然撰述，是對智者大師《法華文句》的權威註疏。該作誕生於天台宗發展的關鍵時期，系統闡釋了《法華經》的教義精髓，包括判教理論、經文解讀與觀行方法。湛然通過此註確立了天台宗圓教思想體系，被譽為天台三大部註解之一，對漢傳佛教義學發展影響深遠，是研究天台宗與法華思想的重要經典文獻。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczkmu6w0ja2jj04l1lwwjpi"
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### 釋藥王品

> 薬王品

釋品引《觀經》釋名即世界也。「此文」去，具以今經而成四悉。「若推」下明得名前後，非四悉意。「竭其神力」者，用神通力三昧供養也。「盡其形命」者，用其報法即燒臂也。「庶令弟子」等者，上人行之令下效故，此則自他二義具足。「諸佛」下「云云」者，令述有無，不輕乃至〈方便品〉來，豈獨佛耶？「下品亦有佛」者，雲雷音王佛、寶威德上王佛等，況釋迦化主始末恒在，況復應以佛身度等，然應須云上品有菩薩，佛事為正；下品有佛，菩薩事為正。通途論之，從化主說，一切皆以佛為正也。「藥王」至「流通義便」者，佛囑累已大事功畢，隨物偏好故乘乘不同，真如實相是所乘之體，一乘因果是所乘之事，苦行等是乘乘之緣，隨物機宜故使弘者隨緣不等，故所乘體皆妙法也。以依一實立因果故，乘於所乘以利物故，故曰乘乘。

> 薬王品が『観経』を引用して名を釈すれば、すなわち世界である。「此文」より下は、今の経典によって四悉檀を成し遂げることを詳しく述べている。「若推」より下は、名前を得る前後の順序を明らかにするもので、四悉檀の意図ではない。「竭其神力」とは、神通力の三昧を用いて供養することである。「盡其形命」とは、その報身の法を用いること、すなわち腕を焼くことである。「庶令弟子」などの言葉は、上の人が行うことで下の人がそれに倣うようにするためであり、これによって自他二つの意味が成就する。「諸佛」より下の「云云」は、有無を述べさせるためのものである。不軽菩薩や、さらには『方便品』に至るまで、どうして仏だけに限られようか。「下品亦有佛」とは、雲雷音王仏、宝威徳上王仏などのことであり、ましてや釈迦という教化の主が始終常に存在し、さらに仏身をもって化度すべき場合もある。しかしながら、上品には菩薩がいて仏事を正とし、下品には仏がいて菩薩事を正とすべきである。通途的に言えば、教化の主に従って述べるならば、すべては仏を正とするのである。「藥王」から「流通義便」に至るまで、仏が付嘱を終えられて大事が完了し、衆生の好みに従って乗り物がそれぞれ異なる。真如実相は乗るべき本体であり、一乗の因果は乗るべき事柄であり、苦行などは乗り物に乗る縁である。衆生の機根に従って、弘める者が縁に応じて等しくないようにさせる。したがって、乗るべき本体はすべて妙法である。一実に依って因果を立てるからであり、乗るべきものに乗って衆生を利するからである。ゆえに「乗乗」というのである。

「問為三」者，初一利他，次一自行，遊化亦苦行，苦行亦利他，已下去文如妙音等皆不出自他，自行皆不出智斷福慧，利他皆不出三昧神通。「通問遊」者，遊必具足十法界身，並如妙音、觀音，但別舉苦行以逗所宜，故請答之言意在苦行。「有佛聲聞」者文略，具如經列，有菩薩及菩薩壽等。《經》「即時入是三昧」者，普現三昧理無出入，表用三昧之力故云「入」耳。《經》「以神通力願」者，明不以世火還依所得三昧起利他願，以智觀火焚難思境，故使光明起斯照彼，佛亦以逗物故讚。「真法供養」等者，先總舉能觀所觀，次及觀相。「當是」之言正顯真法，所以燒身名真法者，由內觀故。所觀者何？即此生身由惑因故惑斯惑果。「皆用」之言顯因果俱蕩。「又觀若身若火」等者，於中先明法空，次「誰燒」下辯生空。初法空者，既即實相實相無燒，身火能所安得有燒有能所耶？次生空者，非但身等皆是實相，身等宰主一切皆無，故名為「誰」。「燒」者，能燒火也。「然」者，所然身也。身火並是能供事也，佛法即是所供田也。宰主即是能觀觀者，身火能所觀境也。境智不二能所斯亡，以不二觀觀不二境，成不二行會不二空，作是觀時苦為法界，見聞者益故曰「乘乘」。若不爾者，成無益苦行，佛有誠誡實可先思。所以投巖無招外行之論，赴火不為內眾之譏，良由內有理觀、外曉期心，故勝熱息善財之疑，尼乾生嚴熾之解，篤論其道行方有剋。心正行正、智邪事邪，行不可廢、智不可亡，後學之徒無失法利。有人問云：律制燒身得蘭，燒指得吉，此中讚燒其事如何？今為答之，大小開制教法不同，小制結過、大制令燒，故《梵網》中若不燒者非出家菩薩，豈獨令俗而不制道？故知順小行易不燒何難？從大誠難燒乃不易。世以不持為大，則大小俱傾，信此土機緣咸迷大小，不知先小後大，依何夏次？先大後小，何心而受？先小後大，開小乘遮不？先大後小，遮菩薩開不？一界之內兩眾如何？一身之中二體同異，大乘於小取益從何？小誦於大招損誰測？勤勤甄別用為來種，所乘之乘皆妙法故，以依一實立因果故，乘其所乘以利物故，但自揣己德歷境觀心，與心相應當順開制。今藥王久證並出開制之方，重法亡懷起神通之願，為軌凡下思之可知。《經》「以旃檀為𧂐」者，他人疑云：何得旃檀而為𧂐耶？答：此土大愛道入涅槃後，猶用旃檀闍維，況彼淨土何足為難？然淨穢並陳非世有也，皆聖力故。《經》云「七萬二千歲」等者，

> 「問為三」とは、第一に利他、第二に自行、遊化は苦行でもあり、苦行は利他でもある、という意味です。以降の妙音などの経文も、すべて自他の区別を出ることはなく、自行はすべて智断・福慧を出ず、利他はすべて三昧・神通を出ません。 「通問遊」とは、遊ぶには必ず十法界の身を具足する必要があり、妙音や観音と同様ですが、特に苦行を挙げて相手に適した教えとするため、その答えを請う意味が苦行にあります。「有佛聲聞」という文は略されており、具体的には経に列挙されているように、菩薩や菩薩の寿命などがあります。 経に「即時入是三昧」とあるのは、普現三昧は理において出入りがなく、三昧の力を用いることを表して「入」と言うに過ぎません。経に「以神通力願」とあるのは、世間の火を用いず、得た三昧に依って利他の願を起こすことを示します。智による観察の火で思議を超えた境を焼くので、光明が起こり此より彼に照らし、仏もまた相手に応じて讃嘆するのです。 「真法供養」などは、まず能観・所観を総じて挙げ、次に観相に及びます。「當是」の言葉は真法を正しく示し、身を焼くことを真法供養と呼ぶのは、内観によるからです。所観とは何か？即ちこの生身は惑因によって惑果であるということです。「皆用」の言葉は因果が共に蕩尽されることを示します。 「又觀若身若火」などでは、まず法空を明かし、次に「誰燒」以下で生空を弁じます。初めの法空とは、既に実相であり実相に焼くことはなく、身と火、能所にどうして焼きや能所があろうか？次に生空とは、身などが全て実相であるだけでなく、身などの主宰する者一切が無いから「誰」と名付けるのです。「燒」とは能く焼く火、「然」とは所として燃やされる身です。身と火は共に能供の事であり、仏法は即ち所供の田です。主宰とは能く観ずる観者であり、身火は能所の観境です。境と智は不二であり能所は亡び、不二の観をもって不二の境を観じ、不二の行を成し不二の空に会するのです。かく観ずる時、苦は法界となり、見聞する者は利益を得るから「乘乘」と言います。もしそうでなければ無益の苦行となり、仏には誠に誡めがあり、実に先に思うべきです。 それゆえ巌に投身しても外道の論難を受けず、火に赴いても内衆の譏りを受けないのは、内に理観があり、外に期する心を明らかにするからです。故に勝熱は善財の疑いを止め、尼乾は厳熾の解きを生じます。その道を論じ尽くせば行に克つことがあります。心正しければ行も正しく、智が邪ならば事も邪であり、行は廃すべからず、智は亡ぶべからず。後学の徒は法の利益を失うことなかれ。 或る人が問う、「律では焼身は蘭罪、焼指は吉罪と制するのに、この中で焼身を讃嘆するのはどういうことか？」と。今これに答える。大小の開制は教法が同じではない。小乗は過を結び、大乗は焼くことを制する。故に『梵網経』では焼かざれば出家菩薩に非ずと言い、どうして俗人だけにさせて道には制さないことがあろうか？よって知る、小乗の行に従うのは易しく焼かないのは何が難いか？大乗の誠に従うのは難しく焼くことは実に容易ではない。世は持たざるを大とし、大小共に傾く。この土の機縁は皆大小に迷い、先ず小後大をどの夏次によるか知らず、先大後小を何の心で受けるか知らない。先小後大は小乗の遮を開くか？先大後小は菩薩の開を遮るか？一界の中に両衆は如何に？一身の中に二体は同異か？大乗が小乗より取益は何に従うか？小乗が大乗を誦して損を招くことを誰が測ろうか？努めて甄別し来種と為す。乗ずる所の乗は皆妙法だから、一実に依り因果を立てるから、乗ずる所の乗をもって利益するからである。ただ自らの徳を揣り境を歴て心を観じ、心と相い応ずれば開制に順うべきである。 今の薬王は久しく証し開制の方に並び出で、法を重んじ懐を亡じ神通の願を起こし、凡下の軌範と為す。思うべきである。 経に「以栴檀為𧂐」とあるのは、他人が疑う、「どうして栴檀をもって𧂐とすることができようか？」と。答える、この土でも大愛道が涅槃に入った後、なお栴檀で闍維した、況やかの浄土において何を難としよう？しかし浄穢を併せ陳するは世にあるものではなく、皆聖力によるからである。 経に「七萬二千歳」などとあるのは、

問：

> お尋ねします。

燒身但經千二百歲，燒臂何故時長？

> 焼身（火中での修行）はわずか千二百歳に過ぎないのに、焼臂（腕を焼く修行）はなぜ長時間に及ぶのでしょうか？

答：

> お答えします。

前為自行身盡入滅，今為弘法令物會三，故云「令無數」等，既言無數聲聞發菩提心，故知喜見於佛滅後不令此等住於小果，此土亦然。

> かつては自己の修行のため、身を尽くして涅槃に入った。今は法を広め、衆生に三乗を会得させるために、「無数の声聞が菩提心を発す」と説かれたのである。したがって、喜見菩薩は仏の滅後、これらの者が小乗の果に留まることを許さず、この国土においても同様であることが分かる。

《經》云「金色之身」者，前已得普現，即八相金色，故知此中須在極果。「能生」等者，如父母必以四護護子，今發心由法為「生」，始終隨逐為「養」，令滿極果為「成」，能應法界為「榮」，雖四不同以法為本。又此四法即四悉檀，次第對之亦應可見，此即始終對四悉也。然前三教各得四益，今對圓說例上可知。

> 『経』に「金色の身」とあるのは、前にすでに普く現ずることを得たということであり、すなわち八相の金の色身である。よって、ここでは最高の悟りの境地にあることを知るべきである。「能生」などについては、譬えば父母が必ず四つの護りをもって子を守るように、今、心を起こすのは法によって「生」じ、終始従い随うのを「養」い、最高の悟りを満たすのを「成」し、法界に応じるのを「栄」とする。四つは異なるが、法を根本とする。また、この四つの法はすなわち四悉檀であり、順序に従って対応づけることも理解できるはずである。これはすなわち、終始が四悉檀に対応するということである。しかし、前三の教えはそれぞれ四つの益を得るが、今、円教について説くのは、前例に従って理解できるであろう。

問：

> お尋ねします。

初開章云歎能持人，何故向云「不如一偈」，又云「法是佛師」等耶？

> 経の最初の章には「よく経典を保つ人を称える」とありますが、なぜ「一つの偈にも及ばない」と言い、また「法は仏の師である」などと言うのでしょうか。

答：

> お答えします。

前歎有法之人，今歎在人之法。

> かつては教えそのものを尊ぶ人をたたえ、今は人の内にある教えをたたえる

言「初歎體，次歎用」者，非宗體之體，非宗用之用，通指一部為體，部內體、宗、用三，共有如是拔與等用。「十寶山」者，具如《止觀》第五記。引《華嚴經》「或一或二」者，《俱舍》云：「前七金所成蘇迷盧四寶，金或兼餘，故云一二。」「諸經說權智」等者，權不即實致令教法皆非自在，諸機不融故教主別爾。「諸經明實智」等者，並是權外之實故破疑不遍，尚不及此經說施權意已破諸疑，故云「即實而權」，況復今經本為顯實，有疑皆斷，故云「即權而實」，所以權實之語非獨今經，相即之言出自於此，不收於小是故異也。「文云學無學」等者，指三教菩薩為發菩薩心者，今經為彼之父能生彼故，昔謂非子至此方知。「餘經要因功用」者，但取發心畢竟不別，不同三教要因功用，如別教地前為方便也。「如風」下「云云」者，初住已入無功用位，應具簡車體及具度等，釋如風所以至入初住無功用道。《經》云「五百歲」者，《大集經》中有五五百，具如前文。《經》云「若有女人」等者，此中秖云得聞是經如說修行即淨土因，不須更指《觀經》等也。

> まず、「体（たい）」を歎じ、次に「用（ゆう）」を歎ずる、と言う場合の「体」とは、宗旨（しゅうし）の体という意味ではなく、また、宗旨の用という意味でもない。ここでは、経典全体を指して「体」とし、その経典全体の中にある体・宗・用の三つが、ともにこのような利益（りやく）を与える力を持つのである。 「十宝山（じっぽうざん）」については、詳しくは『摩訶止観（まかしかん）』第五の記述を参照せよ。 「華厳経（けごんきょう）」に「或いは一、或いは二」とあるのは、『倶舎論（くしゃろん）』に「前の七つは金でできており、須弥山（しゅみせん）は四種の宝でできている。金、あるいはそれに他の宝を交えることもあるので、一や二と言うのである」とある。 「諸経に権智（ごんち）を説く」などとは、権（ごん）が実（じつ）に即しないため、教えのすべてが自在ではなく、さまざまな機根（きこん）が融和しないので、教主が別々であることを言う。 「諸経に実智（じっち）を明かす」などとは、みな権の外にある実であるため、疑いを完全に破ることができず、この経が権を施す意（こころ）を説いてすでに諸々の疑いを破ることに及ばない。だから「実に即して権である」と言うのである。ましてや、今この経は本来、実を顕（あら）わすためのものであり、疑いがあればすべて断ち切る。だから「権に即して実である」と言うのである。したがって、権（ごん）や実（じつ）という言葉は、この経だけにあるものではない。しかし、「相即（そうそく）」という言葉は、この経に由来する。小乗（しょうじょう）を含まない点が、他の経と異なるのである。 「文に『学無学（がくむがく）』と言う」などとは、三教の菩薩（ぼさつ）を指して「発菩薩心（ほつぼさつしん）する者」と言うのである。今この経は、それらの者にとって父のような存在であり、彼らを生み出すことができる。昔は、彼らが子ではないと思われていたが、この経に至って初めて、そうであることがわかるのである。 「余経（よきょう）は要（かなら）ず功用（くゆう）を因（よ）る」とは、ただ発心（ほっしん）と畢竟（ひっきょう）とが別ではないことを取るのであり、三教のように必ず功用に頼るというのではない。例えば、別教（べっきょう）の地前（じぜん）を方便（ほうべん）とするようなものである。 「風の如し」の下に「云云（うんうん）」とあるのは、初住（しょじゅう）はすでに無功用（むくゆう）の位に入る。詳しくは、車体（しゃたい）や具足度（ぐそくど）などを簡別（けんべつ）すべきであり、風の如き理由を説明して、初住の無功用の道に入ることを示している。 経に「五百歳」と言うのは、『大集経（だいじっきょう）』に五つの五百歳がある。詳細は前文の通りである。 経に「もし女人（にょにん）が」などと言うのは、ここではただ、この経を聞いて、説のままに修行すれば、それが浄土（じょうど）の因（いん）であると言っているのであり、わざわざ『観経（かんぎょう）』などを指す必要はない。

問：

> お尋ねします。

如何修行？

> 修行とは、心を整え、智慧を育む実践です。まずは「気づき」を大切にし、自分の呼吸や身体の感覚に注意を向けることから始めましょう。日常の中で、怒りや欲張り、迷いが生じたときも、それらを否定するのではなく、「今、こういう感情が起きている」と客観的に観察します。さらに、他者への慈しみの心を育て、言葉や行動に思いやりを込めることも大切です。焦らず、自分のペースで続けることが何よりの修行です。

答：

> お答えします。

既云如說修行，即依經立行，具如〈分別功德品〉中直觀此土四土具足，故此佛身即三身也，故此大眾即一切眾。以惑未斷故，故安樂行是同居淨土行之氣分也，故不離同居穢見同居淨。

> 「説の如く修行す」とは、すなわち経典に従って行を立てることです。詳しくは『分別功徳品』にあるように、この土を直観すれば四土が具足しています。ゆえにこの仏身はすなわち三身であり、この大衆はすなわち一切の衆生です。煩悩がまだ断たれていないからこそ、安楽行は同居浄土の行の性質を持つのです。したがって、同居の穢土を離れることなく、同居の浄土を見ることができるのです。

問：

> お尋ねします。

同居類多，何必極樂？

> 同じような世界に生まれる仲間が多いのなら、なぜわざわざ極楽浄土を選ぶ必要があるのでしょうか？

答：

> お答えします。

教說多故，由物機故，是攝生故，令專注故，宿緣厚故，約多分故。下分兜率其例不同，但在機感。

> 教えが多いから、対象となる者の機根によるから、衆生を摂取するから、一心に集中させるから、過去世からの縁が厚いから、おおよその場合を言うからである。下の兜率天の例はそれとは異なり、ただ衆生の機根と感応によるものである。