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title: "成唯識論俗詮 · No. 820-B 成唯識論俗詮序"
description: "明昱俗诠是明代高僧明昱对佛教唯识宗根本论典《成唯识论》所作的注解性著作。明代唯识学一度衰微，明昱为复兴古学，以浅显语言系统阐释唯识深理，论述识变、三性、转识成智等核心教义。此书是汉传唯识学研究的重要文献，既保留了唐代唯识要义，又体现明代佛学诠释特色，为后人理解唯识学提供了清晰途径，在佛教义学史与唯识典籍传承中具有承先启后的地位。"
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### No. 820-B成唯識論俗詮序

> 成唯識論俗詮序

夫宗有正眼焉。不以識識也。不以論論也。不以詮詮也。何無何有。何拋何存。攝相歸性。如滴投海。現性于相。如月映川。但可以雙圓。亦可以單揭。可以兩拋。亦可以獨指。是以唯以遮無。識以表有。亦表亦遮。拋外而存內。別滿別分。融識以入性。緣夫大千有情。莫非俗士我執。等之軍林。散則成無法執。猶之石女。質何曾有。內蘊外蘊。孰分緣緣之親踈。比量現量。莫測法法之假實。冥念斯宗。良可悲憫。而論不得詮。將味如嚼蠟。詮不通俗。亦步若走險。徒淺甞而輙止。終線徑以難通。昱公論師所以忘詮而有詮也。第詮以詮識也。識則有相。從何依起。相則有分。寧妨互異。串引有神也。轉智有轂也。光光相雜于一室。而承光自殊。影影各現于兩柱。而發影無兩。一經指撥。就裏躍然。通茲詮也。性相雙圓。而言思盡斷。九十五種還歸烏有。一十三宗總名亡是。即謂護法菩薩已多一番舌本可矣。

> 宗には正しい眼があり、それは識で識るのではなく、論で論じるのでもなく、言葉で言葉を尽くすのでもない。何もなく、何もあり、何を捨て、何を残すのか。相を摂めて性に帰すれば、滴が海に投じるが如く。性を相に現せば、月が川に映るが如く。ただ両方を円満にすることもでき、また一方を単独に掲げることもできる。両方を捨てることもでき、また一つを指し示すこともできる。それゆえ、ただ遮って無を表し、識によって有を表す。また表しつつ遮り、外を捨てて内を残す。別々に満たし別々に分け、識を融けて性に入る。大千世界の有情は、みな俗士の我執であり、軍林のように散らばれば無法執となり、石女のように質はどこにあろうか。内なる蘊も外なる蘊も、縁縁の親疎をどう分けよう。比量も現量も、法法の仮実を測りがたい。この宗を深く思えば、まことに悲しむべきである。論じても言葉に尽くせず、味わうは蝋を噛むが如く。言葉が俗に通じなければ、歩むは険を走るが如し。ただ浅く味わってすぐに止まり、終には細い道で通じ難い。昱公論師が言葉を忘れてなお言葉を用いる所以である。ただ言葉で識を説く。識には相があり、どこから依って起こるのか。相には分けがあり、互いに異なることを妨げようか。連ねて引けば神があり、智を転ずれば轂がある。光と光が一室に混ざり合い、光を受けるものは自ずと異なる。影と影が二本の柱にそれぞれ現れ、影を発するものは二つではない。一度指し示されれば、その中に躍り出る。この言葉を通じて、性と相は両方とも円満であり、言葉と思いは尽き果てる。九十五種は烏有に帰し、一十三宗は総じて亡是と名づけられる。護法菩薩がすでに一層の舌本を多くしたと言えるだろう。

雙如居士游士任譔

> 双如居士、游士任が撰す。