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title: "法華義疏 · 20 常不輕菩薩品"
description: "法華義疏由隋代高僧吉藏大师撰述。吉藏是汉传佛教三论宗的实际创始人，其思想承袭龙树中观学说。该疏乃针对《妙法莲华经》的权威注疏，以二谛、中道思想阐释一乘真实、会三归一的深义，并破斥诸家异解。此疏体系严密、义理深邃，集中体现了三论宗的判教思想和解经特色，是研究《法华经》及隋代佛教思想的重要文献，对后世天台宗等宗派亦产生深远影响，在佛教哲学史上具有崇高地位。"
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### 常不輕菩薩品第二十

> 常不軽菩薩品第二十

所以有此品來者，凡有七義：一者，三品明三種功德，上二品明下中二功德竟，今次明上品功德。二者、此經始末明宣持之人得三世功德。〈分別功德品〉初明十二種利益，聞經悟道現世功德，從〈分別功德品〉至〈法師品〉歎經能生未來眾生功德；今此一品歎經能生過去世眾生功德，此皆約佛在時作此分三世，經力雖多不出利益三世。三者、近證〈法師品〉故來。上雖言持經之人得六根淨，未有其事；今引釋迦本生親自證驗。證驗者，正證佛滅後持經人得六根淨，以獎勸未來眾生令持經也。四者、上明六根淨果，今敘六根淨因。欲得根淨當如常不輕菩薩一心忍諸打罵為物弘經，必於現身得根淨也。五者、欲說眾生悉有佛性成一乘義故說此品。一切眾生但有佛性無有餘性，故唯有一乘無有餘乘。舊云：《法華經》但明善人有佛性，《涅槃經》始辨有心皆得成佛。今明此品正辨惡人有佛性義，〈方便品〉明一毫之善皆成佛道，則知一切有心並有佛性皆成佛也。

> この品が設けられている理由には、七つの意義があります。 第一に、三つの品が三種の功德を明らかにしています。前の二つの品で下と中の二種の功德を明らかにしましたが、今ここで上の品の功德を明らかにします。 第二に、この経全体を通じて、説き伝える人が三世の功德を得ることが明らかにされています。『分別功德品』の初めでは十二種の利益を説き、経を聞いて悟りを得る現世の功德を示しています。『分別功德品』から『法師品』までは、経が未来の衆生の功德を生み出すことを称えています。そしてこの一品では、経が過去世の衆生の功德を生み出すことを称えています。これらはすべて仏が在世の時の三世の区分によるもので、経の力はどれほど多くても、利益が三世に及ばないことはありません。 第三に、『法師品』を証し立てるために来ています。先に経を持ち説く人は六根が清浄になると説きましたが、その実例はありませんでした。今ここで釈迦の本生の物語を引き、自ら実証しています。その実証とは、仏の滅後に経を持つ人が六根の清浄を得ることを示し、未来の衆生を励まして経を持たせようとするものです。 第四に、先に六根清浄という果を明らかにしたので、今ここで六根清浄の因を述べます。根の清浄を得たいならば、常不軽菩薩のように一心に打たれ罵られることを耐え忍び、他のために経を広めなければなりません。そうすれば必ず現身のうちに根の清浄を得ることができるのです。 第五に、衆生はすべて仏性を具え、一乗の義が成立することを説こうとして、この品を説かれました。すべての衆生は仏性だけを有し、他の性は有しません。それゆえに唯一の一乗のみがあり、他の乗はありません。かつては『法華経』は善人のみが仏性を持つと明かし、『涅槃経』に至って初めて心ある者は皆、成仏し得ると説いたと言われていました。しかし今この品では、悪人にも仏性があるという義を明確に示しています。『方便品』では、わずかな善でも皆仏道を成就するとされているならば、すべての心ある者は皆仏性を有し、皆成仏することが分かるのです。

問：

> お尋ねします。

此眾生是何等惡人？

> この衆生は、いったいどんな悪人なのでしょうか。

答：

> お答えします。

保執小乘拒逆大乘是謗方等人。又執小人不信大乘，於大乘無信是一闡提人，即是極惡人，有佛性義與《涅槃經》無異也。六者、自上以來明授記義猶自未盡，上但明佛授記、未明菩薩授記，則能授記人未盡；上但授善人記、未授惡人記，則所授人未盡；上但現在授記、未明佛滅後亦得授記，此則時節未盡。今欲明三種盡義故說此品。七者、上來二品餘經已廣歎持經人之福勸物明修行，今次廣敘謗法毀人之罪，誡約未來勿造斯業，故說此品也。「常不輕」者，一切眾生常有佛性，故云「諸法從本來常自寂滅相」，大士得此觀心，故常不輕物；從人標名也。品開為二：初長行，次偈。長行為三：一者、雙標信毀二人；二、引過去雙證二事；三、雙嘆，即嘆法美人。第一雙標為二：初、明毀人得罪。「告得大勢」者，顯此菩薩知法本來常寂滅相，有正觀勢力，不為結惑所摧，令弘經人亦學之也。又即是顯常不輕得大忍力，不為打罵所摧，令持經人學其行也。「如前說」者，指〈譬喻品〉末也。「其所得功德」下，第二、明持經人得福也。

> 次に、小乗に執着して大乗を拒み、謗る者たちがいる。また、小人に執着して大乗を信じない者、すなわち大乗に対する信を持たない者は一闡提人であり、これは極悪人であるが、仏性を持つという点では『涅槃経』と異なるところはない。 第六に、これまでの説法で授記の意味についてまだ十分に語り尽くしていない。これまでは仏が授記することを述べたが、菩薩が授記することを明かしていない。ゆえに授記する側が尽くされていない。また、善人にのみ授記を授け、悪人に授記を授けることを述べていない。ゆえに授記される側が尽くされていない。さらに、現在における授記のみを述べ、仏の滅後にも授記を得ることを明かしていない。これは時節が尽くされていない。今、この三つの尽くす意味を明らかにするために、この経品を説くのである。 第七に、前の二品では、すでに経典を持つ者の福を広く讃え、人々を勧めて修行を明らかにした。今、次に法を謗り人を毀る者の罪を広く述べ、未来に向けて戒め、このような業を造らないようにと告げる。そのためにこの経品を説くのである。 「常不輕」とは、一切の衆生が常に仏性を持つことを意味する。ゆえに「諸法は本来より常に寂滅の相である」と言う。大菩薩はこの観心を得るがゆえに、常に衆生を軽んじない。人に従って名を標すのである。 この品は二つに分かれる。初めに長行、次に偈である。長行は三つに分かれる。一つ目は、信じる者と毀る者の二人を双び標すこと。二つ目は、過去のことを引いて二つの事を双び証すること。三つ目は、双び嘆ずることであり、すなわち法を嘆じ人を美することである。 第一の双標は二つに分かれる。初めに、人を毀る者が罪を得ることを明かす。「得大勢に告ぐ」とは、この菩薩が法は本来常に寂滅の相であることを知り、正しい観察の勢力を持ち、煩悩の結縛や惑いに打ち負かされないことを顕す。弘経する人々もまたこれを学ぶべきである。また、これは常不輕が大いなる忍びの力を得て、打擲や罵詈に打ち負かされないことを顕し、経を持つ人々にその行いを学ばせるのである。「前に説くがごとし」とは、〈譬喩品〉の終わりを指す。「その得る所の功徳」より下は、第二に、経を持つ者が福を得ることを明かすのである。

「得大勢」下，第二、引過去事雙證。就文為二：第一、明緣由；第二、正出常不輕事。緣由中又二：初、明一佛出世；次、明多佛出世。初有七句：一、明時節也。「有佛名威音王」下，第二、化主。「劫名離衰」下，第三、出劫名。「國名大城」下，第四、出國名。「其威音」下，第、五明教門。「因三菩提說六波羅蜜」者，因者由也，由令眾生得三菩提，是故如來說六度。「得大勢」下，第六、明壽命。「正法住世」下，第七、明住持。「正法像法滅盡之後」下，第二、明多佛出世。

> 「得大勢」の下、第二に、過去の出来事を挙げて二つのことを証する。この文を二つに分ける：第一に、因縁（事情）を明らかにする；第二に、常不軽菩薩の事を正式に述べる。因縁の説明もまた二つに分かれる：初めに、一仏の出現を明らかにし；次に、多仏の出現を明らかにする。最初の部分には七つの句がある：一、時節を明らかにする。「仏の名を威音王と曰う」の下、第二に、教化する主（仏）を挙げる。「劫の名を離衰と曰う」の下、第三に、劫の名前を挙げる。「国の名を大城と曰う」の下、第四に、国の名前を挙げる。「その威音」の下、第五に、教えの内容を明らかにする。「三菩提により六波羅蜜を説く」とは、「因」は「由」の意味で、衆生をして三菩提を得せしめるが故に、如来は六度を説かれるのである。「得大勢」の下、第六に、寿命を明らかにする。「正法が世に住する」の下、第七に、教えの存続を明らかにする。「正法と像法が滅尽した後」の下、第二に、多仏の出現を明らかにする。

「最初威音王」下，第二、正出常不輕事。又開二別：初、明二人行因；次、明二人得果。

> 「最初威音王」の下は、第二に常不輕菩薩の事を正式に示す部分である。また、二つの別に分かれる。初めに、二人の行因を明かし、次に、二人の得果を明かす。

行因之中凡五雙：第一、明行因時節。謂正法已滅，於像法中有信毀二人，所以偏據像法者，欲勸像法眾生持經亦得根淨。又誡像法之人勿毀人謗法也。

> 行因の中に、凡そ五つの対がある。第一に、行因の時節を明かす。すなわち、正法がすでに滅びた後、像法の時代に、信じる者と毀る者の二人がいる。特に像法に基づいて説くのは、像法の衆生に経を持てば根が清らかになることを勧めたいからである。また、像法の人々に、他人を毀り法を謗ってはならないと戒めるためである。

「增上慢比丘」下，第二雙、標二人。初、標惡人；次、標善人也。

「得大勢」下，第三雙、明二人行因。前明善人行因。此菩薩用三業破病弘經，一者身業禮拜，二口業讚嘆。所以身敬者，以一切眾生皆有佛性是當來佛，今欲敬於當來佛故禮拜之。口嘆亦爾，以皆有佛性當得成佛故歎當佛也。身口既有敬嘆必經意地，故具足三業弘《法華經》也。《律》云「比丘不禮俗人」，今云「禮四眾」者，大小乘法異。如《涅槃》云「有知法者若老若少皆應恭敬」。

問：

于時何故行敬歎事弘一乘耶？

答：

不輕弘經凡有二種：一者、密說；二者、顯說。行於敬嘆即是密說一乘，後得根淨具智慧神通顯說一乘。所以前密後顯者，末世之時增上慢人惡強善弱不可頓說，故初但得髣髴說之。髣髴之中但明作佛，謂顯實義；未得被斥二乘，故不開方便門也。

「深敬汝等」者，顯眾生有正因佛性也。而言深敬者既有佛性，即是當佛為敬之極，故云深也。又眾生有佛性是甚深義，故言深敬。「行菩薩道」者，明緣因佛性也。雖有佛性要須修行乃得見也。「當得作佛」者本有佛性，今復行因具緣，正二因義故得成佛。然經云「一切眾生本來是佛」，於緣謂非佛，如長者見窮子是己兒，而窮子自謂客作非長者兒，是故現佛於緣成當也。又此中未堪說眾生本來是佛但得說當成，後顯說中方得明諸法從本來常自寂滅相即是佛也。「四眾之中」下，第二、辨惡人行因。須菩提不起他諍今生他瞋者，亦是大小乘異，宜適時而勸也。

「如此經歷多年」下，第四雙、重明二人行因，今前明善人行因。前但行善因，今次明忍惡也。「說是語時」下，明惡人行因也。「避走遠住」下，第五雙、重明行因。上明忍於口罵，今次忍身打擲也。「以其常作是語故」下，結常不輕名，即顯惡人行因義。

問：

常不輕弘經與〈法師品〉三事何異？

答：

常不輕具足三事，有慈悲心方能行於敬嘆即是入如來室；忍於打罵謂著如來衣；深敬汝等即是了知諸法常寂滅相，謂坐如來座也。經歷多年常行此事，即是以不懈怠心為四眾說法。又即是四安樂行，以知有佛性，佛性即是第一義，空謂空寂行，既行敬嘆即無憍慢，能忍打罵寧有嫉心，經歷多年忍苦弘道，則具大慈悲，故備四行也。

「是比丘臨欲終時」下，第二、明二人得果。前明善人得果，次明惡人得果。善人得果有二；善明得果，次結會古今。得八種果：一者、聞法能持果。此中云「二十千萬億偈」者，即是首盧偈也。「即得如上眼根清淨」下，第二、得根淨果。「得是六根」下，第三、明得延壽果。是大士體法無生滅，寧有心於存亡？但欲為物弘經故示有長命耳。「於時增上慢」下，第四、惡人信伏果。「大神通力」者，謂身示現神通力；「樂說辨力」者，口業說法；「大善寂力」者，意得禪定。「又教化」下，第五、善人住道果。「命終之後」下，第六、捨身值佛果。「於諸佛法中」下，第七、得六根常淨無所畏果。今謂常不輕得八果，約位有三：初、得根淨，謂內凡三賢之果。二、得根常淨，即得初地已上得無生忍了悟一切法本來寂滅故根常淨。三、得佛地果，未得根淨之前則十信位，而弘經故此人具五十二位賢聖也。「得大勢」下，第八、明當得作佛果也。八果不出三報，初四是現報，次一是生報，後三是後報。

「得大勢於汝意云何」下，第二、結會古今。「得大勢彼時四眾」下，第二、明惡人得果。亦開為二：初、正明得果；二、結會古今。得果中有二：一、得惡果；二、得善果。前得惡果、後得善果者，由打罵常不輕故得於惡果，後信伏隨從故得善果。

問：

經云「諸佛菩薩不為眾生作煩惱因緣」，云何禮拜讚嘆生其惡因，後令其得苦果耶？

答：

有二種義：一者、增上慢四眾惡已成就必墮地獄，今禮拜讚嘆為作出地獄因、得佛之緣，非是生彼惡也。所以知爾者，常不輕未禮之時已是增上慢，爾時已執小不信大是謗方等人也。二者、如世良醫治病有二：一者、與美藥，即便病差；二、與苦藥，初雖不悅後必安樂。諸佛亦爾，自有初說妙法，即便了悟；自有初為說法增其謗心墮於地獄，後因此善必得解脫，若不為說無解脫期也。

問：

〈譬喻品〉云「謗《法華》人入阿鼻獄逕無數劫」，今何故但千劫耶？

答：

四眾若直爾起謗即如彼說，今聞不輕強為其說，雖謗毀，籍此力故受苦則輕及後得信解。

問：

不輕為是實行？為是權行？

答：

既壽量之迹，則知是權行也。

「畢是罪已」下，第二、明得善果。

「得大勢於汝意云何」下，第二、結會古今。

「得大勢當知」下，第三大段，嘆教勸修。又二：先歎、次勸。前歎教者，由法華力故常不輕得二種益：一者、畢其餘罪，謂滅惡力；二、得六根淨乃至成佛，謂生善力。所化四眾亦得二益：一者、由經力受苦輕微，二、得出地獄乃至不退菩提也。「是故諸菩薩」下，第二、勸修。

偈文不頌長行雙標信毀，但頌雙證及歎教勸修，即為二別：初十五行半，頌第一、雙證；餘四行，頌第二、嘆教勸修。上雙證有二：第一、緣由；第二、正明常不輕事。今具頌之：初一行半頌第一；「是佛滅後」頌第二。長行有二：一、明行因；次、辨得果。今具頌之：前四行，頌二人行因。「其罪畢已」下十行，頌得果：初五行，頌善人得果；「時四部眾」下五行，頌惡人得果。「開示教人令住涅槃」者，恒令識諸法從本來常寂滅相，名此為法華教得涅槃也。「億億萬劫」下，第二、頌歎教勸修。兩偈頌歎教，以眾生種中道不二善根既少，故於其人為難聞佛亦難說也。二行頌勸修，以難聞得聞、難說已說，宜及時修行，勿生疑也。